扉の向こうの青い空 62
「こちらよ。」
廊下から、ホークアイ中尉の声がしてふと顔を上げた。
入ってきたのはチヒロで、手に二つの紙袋を持っていた。
中身は恐らく大佐と俺の着替えだと思われる。
………けれど…。
『『お、怒ってる……!!』』
いつもわりと穏やかな表情をしているのに。今日のチヒロは今までに見たことの無い表情だった。
化粧はいつもより濃く、目は据わってるし真っ赤なルージュの塗られた口元もキッと引かれている。
白いブラウスに黒いミニのタイトスカートという身体にぴちっと張り付く服装も、普段のイメージとは違う。すらりと綺麗な足の下は珍しいハイヒール。
大またでカツカツと歩いてくる足音が怖い。
ちらりと横目で見ると大佐の顔も引きつっていて、きっと俺と同じにいやあな汗がダラダラと流れているものと思われる。
俺と大佐とを交互に眺めて…。
「何、してくれてるのかしら…?二人とも。」
腰に手を当てて仁王立ちとなり、ドスの聞いた声で言う。
「う……。」
「す、すみません。」
チヒロは全ての事情を知っていたわけではない。
知っていることと知らないことがあったからこそ、余計に心配をしてくれていたのかも…。
「はあああああぁ。」
と溜め息を付く。
「大佐の着替え。」
「あ、ありがとう。」
「…ジャンさんの。」
「ど…ども…。」
俺のベッドの隣に来たチヒロ。
看護婦の目を盗んで喫煙中だった俺の口から、すっと煙草を抜き取った。
「あっ。」
「何っ?」
「い…いえ。」
そのまま、脇の台の上の灰皿に押し付けて消してしまう。
灰皿の中には今日吸った分の吸殻が何本か転がっていて…。
それをじっと見ていたチヒロは俺を見てにっこり笑った。
…いや、目は笑っていない。口の両端だけを綺麗に吊り上げた、物凄く怖い顔で笑った。
「煙草は1日1本ですからね。」
「うええ!?」
「…何か?」
「1日1本?」
「そうですよ。1日1本! 分・か・り・ま・し・た・ね。」
もう一度、にっこり笑う。
「は……はい。」
隣で大佐は一言も出ないでいる。
「大佐。」
「な、なんだね。」
「あんまり心配かけると、大総統になっても名前を呼んであげませんよ?」
「う…チヒロ…それだけは……。」
うう。この室内の異様な空気を、誰かどうにかしてくれ。
「……りんご…剥きますね。」
中尉に頼まれていたのか、いくつか持ってきていたりんご。
二つのベッドの間に椅子を持ってきて、備え付けの果物ナイフでするすると皮を剥き始めた。
室内がシーンと静まり返る。
1個のりんごを8つに切って、内4切れをフォークと共に皿に乗せて大佐に差し出す。
「あ、ありがとう。」
そして残りを皿にいれ、フォークと皿を持ってこっちへくるりと向き直った。
「ジャンさん。」
「あ…ああ、ありがとう。」
受け取ろうと手を出しかけて凍りついた。
「はい。あーん。」
「ひっ。」
1切れをフォークで突き刺し俺の方へと差し出した。
ぐふっ。チヒロの向こうで大佐がりんごを喉に詰まらせ変な声を出す。
「い…いや。…自分で食べれ…。」
「あーん?」
にっこりと、あの怖い笑顔でりんごを差し出す。
再び嫌な汗がダラダラと流れる。
い、嫌がらせだ!完全に!
これが、二人きりで甘い雰囲気の中だったら、照れくさいけれども素直に口を開けられただろう。
けれど、大佐はジト目でこちらを見ているし、チヒロの目は笑っていない。
食べられないの?私の剥いたりんごが?
そう言っている。
けど食べたら大佐からは最大級の嫌味がもたらされるだろう。
ど…どうする?俺…。
「…や…あの…。」
しばらく三竦みのような状態が続く。
「はい。あーん。」
「う…え、…や。自分で…いただきます。」
ぴくんとチヒロの眉毛が片方だけ上がった。
「す。すみませんでした。」
心配かけたこと、ボインに惑わされたこと。色々込めて、頭を下げて謝った。
「………。」
何か言いた気な顔でこちらを見ていたが、1つ持ち上げていたりんごを戻すと、すっと皿を差し出してくれた。
「ありがとう。」
ほっとして受け取る。
まだ強張った表情だから、完全に許してくれたわけではないと思うけど。
「大佐。」
「何だね?」
「ジャンさんの煙草。1日1本ですから、くれぐれも見張って置いてくださいね。」
「……あ、ああ。」
今度は大佐が俺の恨めしげな視線にさらされる番。
ああ、やっぱり怒ってる。
「じゃ、私は帰ります。」
そう言って、スクッと立ち上がると。こちらを振り向きもせずに、ドアへと真直ぐに向かった。
「チヒロ。」
チヒロがドアノブに手をかけたとき。大佐が名前を呼んだ。
動きを止めたものの、こちらを見ることは無い。
「悪かったね。心配をかけた。」
「………。」
優しい声でそういわれて。口の中でチヒロは何か言ったようだったけど、言葉は聞こえなかった。
そのままチヒロはドアを開けて出て行ってしまった。
「………。」
「………。」
二人でそのドアを見つめる。
「泣かせて…しまったかな。」
「……っスね。」
きっとここに来るまでにたくさんたくさん泣いて。けど心配をかけないように、必死に取り繕ってきたのだろう。
…勿論、怒ってもいたのだろうが。
残されたりんごをシャリシャリと食べていると、先に食べ終えた大佐が自身の手をじっと見ながら話しかけてきた。
「なあ。ハボック。」
「何スか?」
「私たち二人が生き残れたのは、あるいはチヒロのおかげかも知れんぞ。」
「?」
首を傾げる俺に、大佐は自分の左手を見せた。
セントラルへ来た時にチヒロが書き足した生命線。
インクも落ちたし、痛みもないが。どういう力の加減だったのか、元の線からすっきりとつながり。程好い長さのところまで伸びていた。
俺の手も同様だ。
「あの時。チヒロがこれを書いてくれていたから、生き残れたのかも知れん。」
「ま……マジ…スか?」
「勿論確証などないが…。けれど、もしもそうだとしたら。…チヒロは私たちの女神だな。」
「ええ。命の恩人っすね。」
「チヒロに貰った命だ。大切にしなければ、『バチ』が当たるな。」
「ええ…まあ。…けど『バチ』って…。あんた無心論者なんじゃ?」
「信じる宗教なぞない。必要もない。…けれど、人がすがって信仰するのは…案外神などではなく人間なのかも知れん。」
「そんな、もんでしょうか…。」
「少なくとも、チヒロのおかげで救われたのかも…と思うことは不快ではない。」
「そうっスね。…じゃ、俺も趣旨替えするかな。」
「………。だったらな、ハボック。」
「はい?」
「チヒロに…命の恩人に恥じるような生き方はするな。足が麻痺したからといってな。」
「………っ!」
鋭い指摘に、次の言葉が出なくなる。
リタイアを告げたのは今日の昼前。
平静とは言えなかったけど、特にどうという態度も見せなかったつもりだったのに…。
…ああ。そうだった。
俺にはもう一人、ここに信仰すべき人がいたのだった。
フュリー曹長から連絡を受けて、本当はすぐにでも病院へ駆けつけるべきだったのかも知れない。
けれど、あまりにもショックで。
部屋でへたり込んでいた私は、『病院へ面会に行く』と言う当たり前の行動を思い出すまでに随分と時間を要した。
そして、いざ出かけようとしたときにリザさんから連絡を受けた。
ジャンさんの着替えを持ってくるように…と。
ああ、そうか。着替えか。入院するんだもんね。そう納得して、やっと自分のするべき事を見つけられた私はほっとして受話器を置こうとした。
その時。リザさんが思いもかけない言葉を言ったのだ。
「大佐のお怪我はいずれ治るけど。ハボック少尉は…下半身が麻痺しているらしいわ。」
「………。」
下半身が麻痺?それって何?どういうこと?歩け…ないの?
すぐには理解出来なくて次の言葉の出ない私に、リザさんは根気良く何度も何度も説明してくれた。
詳しいことはこれから検査や診察をしてもらわなくてはならないらしいけど、すぐに現役復帰は無理だろうということだった。
何てことだろう。
ジャンさんはジャンさんなりに大佐に忠誠を誓ってて、この頃お仕事も頑張っているって聞いた矢先なのに…。
きっとすっごく悔しいだろうな。
「……はぁ?……女の人に…騙された?」
一緒に歩いていたという人かしら?その挙句に、麻痺?
何というか…。『ほら御覧なさい』と言うにはあまりにもかわいそうな結果だ。
何か色々と考えていたら、だんだん腹が立ってきた。
司令官なのに無茶して大怪我する大佐にも。
女の人に騙されて、下半身麻痺してるジャンさんにも。
そうよ、私は怒ってるんだから!だから涙が出るはずが無いの!
鼻の奥がツーンとしたけど、無理矢理押し込めて改めて服を着替えた。
そう、私は気が強くて少しのことじゃ泣かない女なのだ。
身体にぴったりした服を着て、颯爽と歩く。足元は勿論高いヒールの靴。化粧だって濃くって、口紅は真っ赤で。
強い女。大人の女なのだ。
自分にそう暗示を掛けながら、絶対に二人の前では泣かないと心に決めて部屋を出た。
20060615UP
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『手相』の話はここへ繋がっていました。ちょっと、蛇足だったかな?
後半のチヒロの様子は、急遽追加しました。
泣いたり喚いたりしてないのは、きっとまだ心の中で色々と整理されてないから。
多分、わんわん泣ける方が楽なんだろうな。
(06、06、27)