やさしい気持ち 3
はあああ。資料を引っ張り出しつつ溜め息が止まらないリアーナ。
今日は記念日だったのに…。
付き合い始めて4ヶ月と17日目。 分かってる。…すっごく中途半端。
リアーナが知る限り、ハボックが一人の女性と一番長く付き合ったのが4ヶ月と16日。つまり。今日喧嘩別れしなければ、リアーナが一番長く付き合った女性ということになる。
勿論リアーナが知らないところで、もっと長く付き合った女性がいるのかもしれない。だから、全く意味のない記念日。ただリアーナにとって、1つの目安の日にちだったというそれだけの話。…だけど…。
はああ。再びリアーナは溜め息を漏らした。
そんな日に残業かい!しかも一人で。
ハボックに手伝ってもらえば良かったのだ。それは、分かっている。けれど…。
このところの疲れ様は尋常じゃなかった。それは多分、今回任された仕事がハボックのあまり得意でないデスクワークが中心だったからだろう。
元々マスタングは適材適所というか、それぞれの得意なものを優先して振り分けてくる。それが一番効率が良いからだ。ただ今回のハボックの仕事は、準備の時間が十分にあったことと、デスクワークに対し苦手意識のあるハボックに勉強させようという狙いが有ったのだろうと思う。
どこへ行っても上司が自分の能力を具合の良いように使ってくれる訳じゃない。いつまでも、『デスクワークは苦手』と言っていられないのだ。
分かっているのかいないのか。ぶつくさ文句を言いながらもハボックはやり遂げた。相当に疲れていただろうに、日常の自分の分の仕事も手を抜かなかった。だから今日はゆっくり休んで欲しい。そう思ったから…。
けれど。手伝って欲しい、というか一緒にいて欲しいという気持ちも同じだけあって…。
「バカみたい。」
小さくつぶやいた。
何故素直に『手伝って』と言えなかったのだろう?二人でやれば、きっと1時間位で終わって帰れたかも知れないのに。そうしたら、レストランに行けていたかも。テイクアウトの料理で二人で過ごすのも良かった。
強く言えなかったのは今日がただリアーナのこだわりから来る記念日だから。ハボックにとってどうでもいい日の為に無理をさせるなんて出来ない。頼めば快くOKと言って手伝ってくれるのが分かっているからこそ、言えなかったのだ。
基本的にハボックは人に甘い。特に女性には大甘だ。
リアーナは付き合っていなかった頃からハボックの一番近いところにいたから、いらないことまで知ってしまっていた。
例えば、付き合っていた彼女のどんな言葉に傷ついたかとか、どんな行動や要求に困らされたかなど…。どんなに無理をしていたって大丈夫だと笑う。自分が辛くたって『大切な彼女』に優しくする。そんな姿を見てきているから…知っているからこそ無理な要求なんてかえって出来なくてつい引いてしまうのだ。
『我儘言え』って言われたってどんな我儘でも聞いてくれようとするのが分かっているから出来ない、怖い。もしかしたらハボックを傷つけてしまうかも知れない、最悪ただのお荷物に成り果てるかも…。そんな考えが頭をよぎると、もう身動きが出来なくなってしまうのだ。
それに。本当言うと、心の奥底ではハボックの気持ちを疑っているところがある。
…何で今頃?
その思いが消えないから。
ずっと傍にいて、ハボックだってリアーナのことをとても良く知っていたはずなのに。今まで散々他の女性と付き合って、愚痴やらノロケを平気で聞かせておいて…。全く女性扱いなんかしてくれなくて…。そんなある意味とっても酷い扱いだったのに。(ハボックは親友のつもりだったのだろうけど)
どうして急にリアーナと付き合う気になったのだろう?何故いまさら女性として彼女として大切にしてくれるのか…?
丁度、ハボックと付き合うことになった頃。リアーナは煮詰まっていて、精神的に不安定だったと思う。だから同情してくれたのかも…。心配で手を差し伸べずにはいられなかったのかも…。
ハボックも彼女と別れたばかりでフリーだったし…。
そんなこんな、色々な事情が重なっただけなのかも…。
リアーナを…格別に…女性として好きなわけじゃ…無いのかも…。
この4ヶ月間。絶対に考えたくなかった部分へ思考が入り込む。
「は……あ……。」
溜め息をもう1つ付いて。
駄目だ、今は仕事中。2時間で終えなければいけないのだから。
渡されたリストと出した資料を照らし合わせていく。終わったのはほぼ半分。時間も1時間弱といったところだ。この調子でいけば約束の時間に終えられるだろう。
たとえ女性としてではないのだとしても、ハボックがリアーナを気に掛けてくれるのは友人であった時から変わらない。それが友情から来るのだとしても、まあ嬉しかったし。
そのハボックと『2時間』と約束したのだ。起きて連絡を待っていると言ったのだ。早く終えて安心させてあげなくては。
残りの資料は棚の高いところにあるものが多い。資料室の奥から高さのある古い木の脚立を持ち出してきた。がたつくから怖いのだが仕方が無い。慎重に、でも最大限急いで資料を引っ張り出す。
何回か脚立を上って、降りて。そんな作業を繰り返して、あらかた資料が揃う。
ほっとすると同時に再び嫌な考えが浮かぶ。
今はリアーナしか彼女が居ないけれど、ハボックに他に好きな人が出来たらどうなるんだろう?ギコギコと音の出る脚立の上に腰掛け、最後の資料を引き出しながら又溜め息。
だって、どう考えても今までハボックが付き合ってきた女性たちとリアーナではタイプが違う。ああいうのが好みなのなら、リアーナとだってそれ程長くは続くまい。だからこそ、今日の記念日はリアーナの中では大切だったのだけれど。
そんな風に、考えてしまうのも…。
先日配属された資料課の女性職員。美人でスタイルのいい子。
なんと、ハボックのことが好きらしい。
『新人なんだから、恋よりまず仕事でしょう』という周囲の人間の意見をきれいさっぱり無視して、ハボックに熱を上げているらしい。
司令部内でハボックを追いかけ、ストーカーになりつつあるようなのだ。但し、今のところはまだ話しかけたりとかは無いらしいけど。
ハボックのことを好きな女の子がいて。その子が今までハボックが付き合ってきた女性たちとどことなく似たようなタイプとなれば、リアーナとしては不安にならざるを得ない。
いつ、別れを告げられるだろう…と。
ハボックの手伝いを断わった理由の一つ。『資料室には来て欲しくない』ただの悪あがきだけど、ハボックがあの子のことを知る時が少しでも遅れればいい。
あれ、けど。
そういえば、あの子今日……。
その時資料室の扉が開いた音がした。
コツ…コツ…コツ…と足音が近付いてくる。
「トウエン少尉。」
「……あなた。」
「うーん。」
狭くて硬い仮眠室のベッドの上で、(出来る限り)大きく伸びをする。
疲れていたのは本当で、ぐっすりと眠ってしまった。
腕時計を見れば、もうそろそろ約束の2時間というところ。
職業病(病じゃないか)だと苦笑い。指令室のメンバーも皆そうだが、よほど体調が悪いとかでない限り。1時間といえば1時間で、20分といえば20分でほぼ目が覚める。
コキコキと凝った首をほぐしながら、執務室へと向かった。
「ああ、ハボック少尉。トウエン少尉はまだよ。」
「分かりました。」
ホークアイに、にっこりと笑われる。
ホークアイはリアーナを妹のように思っているようで、付き合い始めた頃『大切にしてあげてね』といわれた。あの時の笑みは忘れられない。背筋にゾクリと何かが走った。約束を違えたら命は無いと思われる。
途中でリアーナに会うかもと思ったが、資料室についてしまった。
量が半端じゃないからどうやって運ぼうか思案中だろうか?それともどこかへ台車を調達しに行っているのかも。
扉を開けて中に入ると、シーンと静まり返っていた。電気は煌々とついているので、居るはずなのに。
何とはなしに、嫌な感じがする。
入ってすぐのところにある机の上には、大量の資料が山積みされていた。…やはり台車かなにかを調達しに行っているのかな?
それでも一度感じてしまった嫌な感じは拭えず、資料の入った棚の方へ足を進めた。
「リアーナ?」
呼びかけてみるが、返事は無い。
「リアーナ。」
少し、大きく。
5列目を超えたときだろうか…。床に落ちた黒いもの…?どこかで見た覚えが…。
「!」
リアーナのバレッタ!
思いついた瞬間、ハボックは走り出していた。
少し奥の棚と棚の間。そこには…倒れた脚立、バラバラに広がった資料。そして…。
「リアーナ!おい!」
床に横たわるリアーナ。
頭を打っているかも知れない。肩や腕を叩いて名前を呼ぶが、反応は無い。
………!
一瞬、ギクリとする。…まさか…。そっと、鼻と口元に手をやる。弱いながらも呼吸はあった。ほおっと肩の力が抜ける。
「何…やってんだよ……お前…」
リアーナが脚立の上で資料を読みふけるのは司令部内では有名だった。本人も怖いと言っているくせに、一旦読み始めると止まらないらしいのだ。
鋼の錬金術師エドワード・エルリックでさえ『あの脚立の上では集中出来ない』と言っているというのに…。
けれど、ハボックの中ではわずかな違和感があった。
これは、マスタングから任された急ぎの仕事だ。ハボックとの2時間という約束もある。そんな時に、資料を読みふけったりするだろうか?
バラけた栗色の髪をそっと梳く。
「お前、何があった?」
静かにリアーナを抱き上げて、医務室へと向かった。
夜間でも司令部内には少なくない人間が勤務している。
リアーナを医務室に運び込んだ時には、ハボックの後ろには20人程の軍人がつき従うこととなった。
先に走って知らせた者のお陰で、到着した時にはベッドが整えられていた。
「頭を打っていると言っとったな。」
「多分。髪飾りが壊れていたから。」
「こら、お前たちは廊下で待っとれ。」
覗きこもうとする者達を一掃して、老医師は診察をしていった。
「…たんこぶが出来とるな。」
「…は?」
「頭蓋骨陥没などは無さそうだ。とっさに受身を取ったのかも知れん。この程度なら脳の損傷も無さそうだ。」
「そうですか。」
「どれ、シップをしておくかな。」
ほっとしたところに、連絡を受けたマスタングとホークアイがやってきた。
「資料室で倒れていたって?」
「脚立から落ちたようで…。」
「…脚立から?」
ホークアイが眉を顰める。
「あの脚立は、軋むけど安定は悪くないはずなのに…。」
「え?そうなんですか?」
「でなければ、あの上で資料を読みふけるなんて不可能よ。」
脚立など必要ないハボックには初耳だった。ただ古くてギシギシしていて危なそうだなと思っていたのだが。
医師の診察結果を聞き、今夜はここに寝かせて様子を見ることなどを話しあう。
「現場の様子はどうだったんだ?」
マスタングの問いに思いつくままに伝える。
「倒れて…いたのか…。」
「はい。」
ここでも、引っかかったのはやはり脚立。
足を踏み外したのなら、脚立は倒れないのではないか?倒れたとしても位置がおかしいのでは?
静かにではあったが、枕元であれこれ話をしていたせいだろうか。しばらくすると、ぼんやりとリアーナが目を開けた。
「…リアーナ。」
「……私…。」
どこかぼんやりと、頼りない表情。
「気分はどうだね? 自分の事は分かるかな。お前さんの名前は?」
「…先生?…名前…リアーナ・トウエン…。」
「年齢は?」
医師の質問がいくつか続く。
特におかしなところは無いようで3人はほっとする。
「資料室で倒れていたそうだよ。」
「資料室?」
眉を顰める。
「俺との約束があったのに、資料を読みふけってたのか?」
わざと明るくハボックが言うと、リアーナは訝しげにハボックを見返した。
「ハボックと約束…?」
その表情は以前の同僚としてのもので、一瞬ハボックの背筋がゾクリとする。
「大丈夫。少し混乱しているだけだ。」
医師が小声で言う。
「飲みに行く約束…してたかしら…?…ああ、いえ……違う。レストラン……記念日…。ううん…大佐…急に…残業……2時間…」
「こんなことになるとは…すまなかったな。」
「大佐…」
「落ち着いた?大丈夫?」
「中尉…私…?」
「資料室で倒れてたんだ。足でも踏み外したか?」
「ジャン…?資料室…?…あ、…ハクロっちの。」
「何だその後ろから殴ってやりたくなる呼び方は。」
むっとマスタングがうなる。
「2時間…って約束…」
「そうだ。」
「……何で、ここにいるの?帰ったんじゃ…?」
「ハボック少尉は仮眠室にいたのよ。」
「え?」
「ちゃんと2時間寝たから。」
「…ジャン…。」
見詰め合ってしまった恋人同士にうっほんとマスタングが咳払いをする。
「トウエン少尉。資料室で何があった?」
「…え…あ…。あのっ、すみません。ご心配をお掛けして。…あの…足…踏み外しちゃいました。」
へへへと笑うリアーナに、一瞬むっと口ごもった3人だったが。
「気をつけたまえ。」
というマスタングの言葉で、取り敢えず原因の件は後回しとなった。
仕事が立て込んでいるマスタングとホークアイは執務室へと戻ることになった。資料はホークアイが指令室へ運ぶよう手配すると言う。
廊下で『トウエン少尉は大丈夫ですから、仕事に戻って!』とのホークアイの声に『うおー』『やったー』と声が上がる。
そして、ハボックは。
「今夜はここにいるから。」
「でも。」
「家じゃかえって心配で眠れないから。ここなら他にもベッドあるし。」
「こら、勝手に決めるな。…だが、まあ他に使う者が無ければ使っていいぞ。」
但し、ワシはここにいるからな。不埒なことはせんように。と釘を刺さし、医師はカーテンの向こうへ出て行った。
「…ごめんね。」
「…それは、何に対して?」
「心配、掛けたこと…?」
はあ、とハボックの口から溜め息がこぼれた。
「本当だぞ。」
リアーナを抱き起こし、抱きしめる。
心臓が止まるかと思った…。そう耳元でつぶやかれる。小刻みに震えているハボックの身体。いつもリアーナより体温が高くて熱い手が今は冷たくなっている。
本当に心配してくれているんだ…。
リアーナは自分が間違ってたと思う。『何で今頃』その思いは消えないけれど、大切なのはそんなことではなく、今こうしてリアーナを想ってくれているということ。
そして、自分自身も反省しなければ。『大丈夫』と突っぱねることよりも、まず心配を掛けないことが大切だったのだ。そのためにリアーナが一番にしなくてはならなかったのは、自分を大切にすること。自分が相手を想うのと同じだけ相手も自分を想っているのだと自覚すること。
もう、この身体は自分だけのものではないのだ。自分を大切に想ってくれている人のものでもある。リアーナにはこの身体を大切に守る責任があるのだ。好きな人と付き合うって言うのは、多分そういうこと。
煙草の匂いの残る腕の中。不安はあるけれど、今はこの腕の中にいられる幸せを甘受してしまおう。
「ジャン。…大好き。」
すり、と懐くと抱きしめる腕がさらに強くなる。
「俺も、すっげえ好き。」
「ふふ…初めて聞いたかも…。」
「え…そうだったか…?」
「うん。」
自分だけの記念日に、一番嬉しいプレゼントをもらってしまったかも。
大好きな人の腕の中で、リアーナはきれいに微笑んだ。
20050819UP
NEXT
基本的に、勝気ですっきりきっぱりさっぱりのリアーナ。
ぐずぐずと考え込んでしまうのはハボックに対してだけです。
ずっと、ほかの女性を見ていたハボックを一番傍で見ていたから…。
ハボの彼女である自分にまだ自信が持てないんです。
がたつくのに安定の悪くない脚立ってどんなんよ?
イメージしたのは、昔気質の職人さんが作ったがっちりした脚立。