「次はこれを頼む」

そう言って差し出されたのは、一つの封筒だった。はそれを受け取って、鞄の中へとしまいこむ。そうして、今自分がいる家の主である目の前の男に目をやる。つい4日ほど前に会ったよりも悪いように見える顔色に、は目を細めた。

「入院しろって言われてるんじゃないの?」
「言われてるさ。けれど、それは俺が決めることだろう?」

の言葉に、男は小さく笑いながらそう返す。その皮肉っぽい物言いに、は眉を寄せた。この男の、こういう物言いが嫌いだった。単純に入院なんてしたくないんだと言えば対応だって変わってくるというのに、どうしてこの男はこういう言い方しか出来ないんだろう。は今までに何度も思ったことを、今 また思う。そんなの前で、男は近くのソファに腰を下ろした。

、お茶でも淹れてくれないか」
「・・・・、待ってて」
「ああ」

男の言葉に、はしぶしぶといった様子で立ち上がる。以前ならこんなことはしなかった。けれど、確実に男の身体が弱っているのは毎日会うわけでもないにもよくわかっていた。彼にとっては、お茶を淹れることすら億劫なのだろう。この広い家には、男一人しか住んでいなかったし、以外の人間を上げることなどほとんどなかった。それを知っているは、この家に来るたびに家の中の様子が変わっていないかを確かめる。それはつまり、それほどに男が弱っていないかを確かめているのだ。今日もお茶を淹れ終えてからリビングへと戻る途中に、散らかっていた台所を片付けた自分に、はため息をついた。そうして、男にお茶を渡せば、男は思いついたように口を開く。

「明日は、あいつの誕生日だな」

男の言葉に、男の正面に座ったは驚いたように顔を上げた。唐突なこの言葉に驚いたのではなく、そんなことを、この男が言い出すとは思わなかったのだ。目を見開いて男の顔を見つめるに、男はまたも皮肉気に笑う。

「どうした。忘れているとでも思っていたか?」
「・・・覚えてるなんて、思ってなかった」
「覚えているさ、妻の誕生日くらい」

もちろん、お前の誕生日も。
そう言っての誕生日を口にした男に、はまた1つ大きく瞬きをした。そう、こんなことを、この男が言い出すなんて、覚えているなんて、思ってもいなかったのだ。本当に驚いた様子のに、男は笑ってお茶を口にした。

「明日は、父娘水入らずで墓参りにでも行くか?」
「・・・・こういうときだけ、父親面しないで」

の言葉に、男は 確かに と口元だけを吊り上げて笑った。この男は、の父親だった。きちんと血も繋がっている、実の父親だ。母はが16歳のときに亡くなっていて、の家族は父だけだった。けれど、父との関係は、決していいといえるものではなかった。現在は別々に住んでいるし、母が生きており、この家で一緒に住んでいたころから 父は家にはおらず、会うことはほとんど無かったし、触れることもなかった。父が何をしている人なのかも、は知らなかった。母は しょうがないのよ と言っていたけれど、母に悲しそうな顔をさせる父が、自分のことを見もしない父が、は嫌いだった。母が事故にあったときでさえ、母の死に目に間に合わなかった父を、どうして好きになれるというのだろう。今ではその理由もわかっているけれど、納得することなんて出来はしない。

「話があるんだ、

3ヶ月ほど前、突然かかってきた電話をとったとき、は はじめ、誰からの電話かわからなかった。そして、形式上教えた自分の電話番号を覚えていたこと、話があるといったこと、父親の声を聞いたこと、そして何より、自分の名前を口にした父親に、は驚いて危うく電話を落としかけたことを覚えている。あれからこうして頻繁に ―― 目的は、この封筒を受け取ることだが ―― 会うようにはなったが、”父親”という人がのなかに存在するようになったのは、それほどに最近のことだった。

父から視線をはずして、お茶を口にするに父は笑う。そもそも、父は聡い人間だった。が自分のことを嫌っているのは知っているし、そして、嫌いきれていないために自分の頼みを聞いているのも知っている。娘の優しさに甘える父ほど情けないものはないな と、父は自嘲の笑みを浮かべる。けれど、これはどうしてもしておきたいことだった。今まで、あえて連絡を取らないようにしていた娘に頼ることになっても、だ。お茶を飲み終え、カップを置いたに、父は 帰るか?とたずねた。傍から見ても弱ってきたとよくわかる自分に、帰ると自分から言い出せないだろう娘の性格を、父は知っていた。








嫌わないでください



綺麗に









「水仙を、供えてやってくれ」

が家を出ようとしたとき、父がしっかりとした声で言った。その言葉には驚く。そして、少しだけ間を空けてから うん とだけ返した。水仙。それは、母が好きな花だった。はぐるぐると巡る感情に泣いてしまいそうになって、唇を噛む。この男が、嫌いだ。きちんと嫌わせてくれないところが、ひどく、嫌いだった。