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To Shine
「―Never mind,」
全寮制の武蔵森学園の、サッカー部寮である松葉寮。他の生徒たちに比べても、サッカー部の生徒は練習のために帰省なども少なく、寮にいる時間が長い。その中で最上級生ともなれば、もはや寮とは勝手知ったるどころではなく、家と言っても差支えが無いほどである。そんな中で、最上級生であり部長を務めるためか、はたまた違う理由か、松葉寮を一番知っている人々の一人に数えられる渋沢は、歩いていた廊下の先から聞こえた声に意識を向けた。 「ありがとうございます。・・いえ、そのくらいは当然ですよ」 距離が近くなれば声も聞き取りやすくなる。そうなってしまえば、それが誰か判断することは渋沢にとって簡単なことだった。というよりも、その声の持ち主 ――― とは3年間ほぼ毎日のように声を聞いているのだから、わかろうとせずともわかってしまうというところだろうか。もう少し歩を進めれば、見えてきたのはやはりの姿だった。受話器を片手に笑う姿は、言葉自体は敬語でも、電話の相手がある程度親しい相手だということを感じさせる。 「はい、よろしくお願いします。・・・はは、わかりました。はい、失礼します。」 その言葉を最後に受話器を置いたは、ふう、と一つ息を吐いた。それから、電話の隣に置いてあった財布を手にとって自分の部屋の方へと踵を返す。それを目に留めて、盗み聞きしていたというやましい気持ちがあるわけでもないのだし、このまま通り過ぎるのもなんだろうと、渋沢はに向かって声をかけた。その声に、驚くでもなくが振り返る。 「渋沢」 渋沢と同様の理由で、振り返る前から相手などわかっていたのだろう。電話?と問いかけるに、いや、ちょうど通りかかってな、と苦笑めいた笑みを零した渋沢に、は渋沢が今の自分の電話を聞いていたのだということを知る。けれどそれに慌てることがなかったのは、聞かれて困るような話でもないことと、相手が渋沢だったからだろう。ああ、と納得したような声を零してから、はにや、とどこか意地悪気な笑みを浮かべた。 「気になる?」 「・・いいや」 「なーんだ、つまんねぇの」 の問いに少しの間を空けつつも笑って答えた渋沢に、はその言葉と同様の表情を作る。けれどその理由が自分への信頼から来るものだと知っているのだから、それはあくまでも表面上のもの、いわば言葉遊びのようなものだった。に隠す気はないし、どちらにしても渋沢には知れることなのだからと、はそのつまらなさ気な表情を解いて口を開く。 「榊さんだよ」 「・・トレセンのことか?」 その相手からすぐに繋がった内容を口にした渋沢に、よくわかったね、さすがキャプテン とが笑う。茶化すな、と言う渋沢に、はは、と声を返せば、全く、と息を吐く。そんな光景はこの武蔵森では見慣れたもので、どちらも本気でやっているわけではないというのもまた当たり前のこと。それにしても、前々から気には掛けていた ―― 心配していた、というのとはまた違うのだが ―― 内容だけに、渋沢はに問い直す。 「どうにかなりそうか?」 「ん、ほぼな。」 明確な言葉がなくともお互いの意図するところはわかりきっていて、のその言葉と、言葉以上に答えを返す笑みに、そうか、と渋沢は頷く。と渋沢はこの武蔵森のチームメイトなだけではない。年代代表でも意思疎通が必要なGKとセンターバックとして長くやってきた仲であり、お互いの存在の価値は十分にわかっている。渋沢に至っては、東京選抜という、彼にとって久方ぶりのがいないという環境の中で、それが更に身に沁みていた。がいないから戦力が下がるということを言っているのではない、がいなければ駄目だというわけではない、そういったことではなくて、もっと単純に ――― いると、安心するのである。それは互いに培ってきた信頼がなせるものなのだろう。そうしてまた、その信頼の持つ強さも渋沢は知っていた。東京選抜は新しいチームであり、そのメンバーから作っていくチームである。しかし代表は、メンバーの入れ替えはあるとは言え、ほぼ固定となるメンバーは決まっている。その中では既に「信頼」が作られているのだ。だからこそ、の必要性を渋沢も感じていた ――― そしてそれは、榊も同様だったのだろう。 「」 「ん?」 しかしそれとは別に、渋沢には気に掛かっていることがあった。こちらに関してはそう情報もなく、確固たる確信があるわけではない。けれど過ごした月日がわからせるそれが、渋沢の口を開く。 「相談くらいならいつでも乗るぞ」 それがどんな内容なのかはまだ漠然としているが、その話し相手くらいにならなってやれるはずだ。そんな渋沢の言葉に、は目を瞠った。言うならば、少しばかり虚を突かれたというところだろう。そんなに表情を変えるでもなく、彼特有の懐の深さを感じさせる笑みを浮かべる渋沢に、は息を吐くようにして笑った。 「・・さすがキャプテン。」 零れた言葉は先ほどと同じ、けれどそのニュアンスは先ほどの言葉とは少し違っている。さすが、よく見ている。よく知っている。よくわかっている。そうだ、こいつは、渋沢だもんな。そんなふうに改めて胸にすとんと落ちてきた理解はにとって今更で、けれどどこか新鮮でもあった。そのことに湧き上がった、感慨深さのような気持ちを感じながら、が口を開く。 「サンキュ」 素直な気持ちのままに口をついたその言葉に、どういたしましての意味を込めた笑みを渋沢が返した。そうやって進んでいた足がロビーまで届けば、そこにいた部員たちが渋沢とに声をかける。その声に答えたときには、もう2人から先ほどまでの会話の匂いは消えていた。 |