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To Shine
「―Never mind,」
『なんでだよ?』 そうやって電話口から聞えた声には苦笑する。紡がれた言葉よりも、その声と口調が解せないということと小さな不満をに届けていた。受話器を持ちながら唇を尖らせる彼 ――― クラウスがすぐに頭に浮かんできて、はその苦笑を小さな笑いに返る。しかしそれを感じ取ったらしいクラウスは、!と咎めるように口を開いた。悪い悪い、と笑いを止めれば、声を真剣なものにしてクラウスが問いを重ねる。 『学校の紹介もしてくれるし、寮だって確保してくれる。破格の対応じゃん』 お前はドイツ語が話せないってことはないんだし、と続けるクラウス。この話は、大分前から届けられている話だった。ドイツへの留学、バイエルンのユースへの加入 ――― けれど半年ほど前にもあったそれらとは違う、長期の誘い。それを受ければ、日本の高校に戻ってくるということはなくなるだろう。学校の紹介も寮の紹介も、それに対する向こうからの対応も、何一つ不満なことなどない。むしろ良すぎる状況を作ってくれているのはとしても十分にわかっている。ドイツ語についても、現地にいたころよりは鈍っていても、こうしてクラウスと会話が出来ているのだからそう不安視はしていない。そう、問題はそこではないのだ。 『・・・わかってないかもしれないからもう一度言うけどな、』 今までと変わらず、どうにも煮え切らないの返事に焦れたのか、クラウスが少し語調を強めて声を発する。クラウスとしても、前々からの誘いで、これほどの好条件で、さらにが不安を持っているわけではないことを知っているからこそ、どうして来ないのかというじれったさを抱えていた。少しずつ返答期限が差し迫ってきたここ最近は特に、である。 『お前がこっちに来たことあるからって優遇してるんじゃないぜ』 クラウスが口にしたのはなんの装飾もない、事実だった。バイエルンへの練習参加生は多くはないが、決していないというわけではない。その全員を誘っているのかといえば勿論そんなことはないし、それこそこれほどに手厚い対応を約束しての誘いなど、滅多にあるものではないのだ。それはつまり、彼等からの友好の気持ちによるだけのものではない。選手として、それだけの価値があると、が判断されたがためだ。 『お前が欲しいからしてるんだ』 それはちゃんとわかっておけよ、と言葉を重ねるクラウスに、いつもの気軽さはない。今の彼はむしろ、バイエルンのセンターバックとしてコートに立つ時の雰囲気と似通っていた。その言葉を受けて、は口を開きかけ、けれど言葉を発することはなく閉じる。それは一サッカー選手として、とても有り難いことであり、とても嬉しいことだ。けれど胸を満たすのがその気持ちだけではないことが、の口を閉じさせる。 『俺だってお前に来てほしいと思うし、お前にとってもそれがいいと思うからこうやって再三誘ってる』 それも本当なんだろう、とは思った。でなければこんなに頻繁に、選手同士の間柄であるクラウスが誘ってくることはないだろうし、こういうことで嘘をつく奴ではないと言い切れるほどに、この半年で彼との仲は深まっている。そしてそれは自身もわかっているのだ。ドイツに行ってサッカーをすることが、どれだけサッカー選手としての自分にプラスになるのかなんてこと、それこそ半年前、セレクションを受けた段階で。 『・・・わかってる、わかってるよ』 けれどの口から零れるのは、それだけだった。それにしたって簡単に出てきた声ではない。電話越しにそれを理解して、クラウスは息を吐いた。わかっているのだ。クラブの好意も、クラウスの善意も、行くことでの成長も、わかっている。そして、それでも頷けない理由も。 『じゃあなんで迷うんだよ?』 その問いに、は目を伏せる。そうすればシンと静まり返る自室の外から、チームメイトたちのざわめきが聞こえた。おそらくはまたロビーでテレビでも見ているか、誰かの部屋でゲームでもしているか、その罰ゲームをさせられているか、そんなところだろう。ドアを開ければすぐにでも行けるその場が何故だか遠い気がして、は無意識に止めていた息を吐いた。 『・・・そっちでやりたいと思う。それは本当だ』 静かに落とされた声は、決着の付かない心とは裏腹に落ち着いていた。もしかしたら、今まで中で溜め込んでいたことがようやく外に吐き出される機会を持ったからかもしれない。でも、と言葉をつなげれば、相談に乗ると言ってくれた渋沢が頭に思い浮かぶけれど、まだ言えない。渋沢だから、言えないんだ。 『・・こっちででも、あるんだ。やりたいことが』 自分に誓った。仲間と約束した。今年の夏、果たせなかった夢。この武蔵森の仲間と、全国制覇をする。今までの3年間掲げてきた、またこれから3年間持ち続けるはずの、大きな目標。あのときの涙は、あのときの悔しさは、絶対に違うものに変えてやると、そう決めたのだ。それなのに、もう一つ加えられた道筋の、少しベクトルが違う夢に揺れる自分が、決められない自分が、酷く情けない。 『ドイツじゃできないことなのか?』 『ああ』 クラウスの言葉に、は頷く。ここで、この武蔵森ではなければできないこと。他の場所では絶対にかなえられないこと。 『折角のチャンスとも天秤にかけるほどの?』 『・・・ああ』 自分にとって何よりも一番にあったはずの目標が揺れていること自体が、にとっては問題なのだ。自分の中から湧き上がってくる“サッカー選手の欲”を、喜ぶべきなのか抑えるべきなのか、もうずっと傾ききらない天秤を、けれどいつかは決めなければならない。そうこうしているうちに、もう猶予は遠くはなくなっている。 『・・・・ま、それだけ言うならしっかり悩めよ。まだ時間はあるんだし』 そんなの葛藤を汲み取ったのだろう、クラウスは少し声と口調を明るくしてに告げた。その言葉に、ああ、サンキュ、とも小さく笑って返す。そうして、じゃあまたな、と言ってが電話を切ろうとする前に、!と電話口から大きな声が響いた。その声にが電話へと耳を当てなおせば、クラウスだけではない、聞き覚えのある声がざわめく。 『俺たちはお前が来るのを待ってるからな!』 その言葉と、それを肯定する複数の ――― バイエルンのメンバーたちの声を届けた電話は、ぷつりと音を立てるように切れた。そうして切断を知らせる音を届ける電話に小さく笑えば、は携帯電話をぽい、と自分も座っているベッドに放る。どうしたらいいのかわからない、なんて本当に雁字搦めになるのはにとって初めての経験だった。それでも決めなければならない。後悔なんて、残すわけには行かない。思えば思うほど絡まっていく思考にため息をつけば、それとほぼ同じタイミングでガチャ、との部屋のドアが開いた。 「おい!」 若干イラついた様子でドアを開けたのは三上だった。そうすれば、先ほど遠いと感じた声はすぐに聞き取れるようになる。そうやってなんとも簡単に開いた扉に一瞬呆けたは、その後にからりと笑った。そんなの様子に、どうしたんだよ、と怪訝そうに三上が言う。その言葉に、なんでもない、で、誰が罰ゲーム?と笑って、はベッドから腰を上げた。 |