日本2/3周日記(大分) 自転車大破東九州編(大分)

9月8日(日)晴 阿蘇山頂で意気投合

 朝飯は札幌ラーメン味噌味。
 阿蘇山頂へ向かって坂を上っていくと、おじいさんとおじさんとおばさんの三人組がランニング登山しているのを追い越しました。黙って抜こうとすると、むこうから
「おい」
と声をかけて来たので、
「ご苦労様です」
とあいさつを返しました。
 休憩所で髭を剃り歯を磨いていると彼らもおいついて、
「どっからきた」
といつもの会話。
「なに、長野から。フェリー使わずにか」
とまず驚かれ、つぎに
「何日目だ。なに、もうじき半年?」
と二度驚かれます。
 彼らが去っていった後、まだのんびり休んでいると、そのへんで写真など撮っていたおじさんと再び同様の会話となり、
「おれも連れ合いをなくしてな、一人でぶらぶら旅行してるんだ」
と言って、おじさんは大きな梨とお菓子をくれました。
「もう梨の季節なんですねえ」
「そうだよ。北九州の梨だ」
「山頂で食べさせてもらいます」
 
 ふたたびしこしこ坂を上っていくと、前方の道端で、ぼくと同類の自転車人が足を投げ出して荒い息をついていました。
自転車後部のキャリアに荷物満載。スーパーのビニール袋から練乳のチューブが透けて見えます。生活感が滲み出ていて、親近感を覚えました。
「どうも、ごくろうさまです」
と声をかけると、
「リュック背負って走るなんてスゴイですね」
「そうかしら。もうだいぶ慣れたよ」
「ぼくは東京から。飛行機で大分まで来て、あさって熊本から帰るんですけど」
何でも彼は、五日ほど休暇をとってはちょくちょく方々を短期ツーリングしているんだそうです。
「財団勤めなんで、給料は安いけど休みはとりやすいんですよ」
「立ち話もなんなんで」
「そうですね。草千里はあと2qほどだと思いますよ」
 
 ということで、少し先の草千里の展望駐車場で、おじさんにもらった梨とお菓子をはんぶんこして食べながら話をしました。
 彼の名はグンジ君(本名)。ぼくよりも背が高く大柄ですが、少しお肉が多めで自転車旅行はしんどそうな感じです。
 歳は訊きませんでしたが、見た目からしてぼくより若そうなんで、丁寧語を使わないことにしました。学生時代から自転車ツーリングをしていて、ずいぶん方々を走っているツワモノのようでした。
「もう半年ですか。ってことはもう6000kmくらいは走ってるでしょ。そのうちチェーン切れるかも知れませんよ。切れるときは前ぶれなく来ますからね」
「怖いなあ。心構えはしとくよ。国内でまだ走ったことない所ないの?」
「島根とか、山陰地方がないんですよね。あと、山形」
「おれ、これから日本海側を青森まで行くから、代わりに山陰も山形も走っといてやるよ」
「あー、いいなあ。でも今から青森なんて、もう冬ですよ。大丈夫ですか」
「なんとか根性で」
「まさか真冬の北海道も行くつもりじゃないでしょうね。ぼくの先輩で2月の北海道をテント泊で走った馬鹿な人がいますけど、夜は気管が凍って息ができなくなって目が覚めるらしいですよ」
「すげーな、そりゃ」
 
 けっこう意気投合して、二人で草千里を散歩しました。
「広いですねえ。来てよかった」
「端から端まで、柔道の前回り受け身したら疲れるだろうな」
「当たり前ですよ。…ぼくの先輩がオーストラリアを走って、乾燥期にたき火してたら草原に火が広がっちゃって、東京ドーム4杯分焼いて帰ってきた人がいましたよ。これくらいの広さなのかなあ」
「いいねえ、そういう武勇伝のある人は」
「ぼくも、ホワイトガソリンの火が服について、死ぬかと思ったことがありますよ」
「いいね、そういうときに友達が近くにいたら、『早く、撮って撮って』って、楽しそうだなあ」
「冗談じゃないですよ」
グンジ君とお昼ごはん
グンジ君とお昼ごはん

 
 グンジ君は、梨のお礼だと言ってジュースをおごってくれました。
 二人並んで芝生に腰を下ろし、めいめいお昼のパンを食べました。ぼくはマヨネーズをつけて、グンジ君は練乳をつけて。
 昼飯のあとは、めいめい走って阿蘇山頂を目指すことにしました。
 草千里から火口まではさほど距離はなく、途中の有料道路も自転車は無料にしてくれました。
 頂上付近はかなり急な勾配で、ぼくはとっとと降りて押して歩きましたが、グンジ君は頑張って漕いで上りました。
 腕のお肉がぷるぷるしているのに、なかなかたいした根性です。
 山頂では
「火山ガスが発生しているため、気管や心臓の弱い方の火口見物は禁止します」
のアナウンスが流れているなか、二人して火口を覗きこみました。
「うーん、こういうところでぜひ仮面ライダーとショッカーとで戦ってもらいたいよね」
「そうですね」
火口の底は黄緑色の池になっており、白い湯気がモコモコ上がっています。けっこう硫黄臭が強く、噴煙の風下に立つと喉や鼻が変になり、咳きこんでいる人も多いです。
 
 せっかくなので、ぼく自転車を漕いで走いるところをザウルスのデジカメで撮ってもらうことにしました。
「向こうからぼくが漕いでくるから、そこんとこをバックにあの山肌を入れて、ぼくの全体をなるべく大きく」
「いろいろ注文が細かいですね」
写真を撮り終ったころ、大学生が二人、話しかけてきました。
「ぼくらも自転車サークルなんですよ。四年生なんで、もう自転車を後輩にあげちゃいましたけど」
「そりゃ寂しいなあ。社会人になってからも走ろうよ」
とグンジ君。
「北海道走ったときはよかったですよ。バイクもみんな挨拶してくれて、人情がありますよね。こっち来るとそういうの何にもないから寂しいですよ」
「そうだよね」
とすっかり意気投合の様子。自転車人は、共通の話題が持てるから、仲良くなりやすいのでしょう。
「それじゃあ、お気をつけて」
学生さんたちが去っていくと、グンジ君は
「ぼくも、自転車乗ってないときでも、旅先でそういう人見かけたら声かけますよ」
「そう?おれは声かけない人だなあ。横目で見て『あ、走ってる走ってる。せいぜいがんばれよ』って心の中で思って通り過ぎるな」
「そうですかあ?」
 あとは山を下り、それぞれ大分方面と熊本方面に別れます。お互いに住所氏名の交換をして、
「またメール出しますよ」
「よかったらHP見てよ。気に入ったら、リアルタイムで日記送ってもいいし」
 
 再び一人になり、しゃああと山を下って、阿蘇町に出ました。
 スーパーで白身魚フライを買い、食パンに挟んでおやつを食べた後、一宮町の阿蘇神社へ。
 伝説では、昔この一帯は大きな湖だったそうで、そのとき外輪山を蹴崩して土地を作った健磐龍(たけいわたつ)命という神様を祭るのがこの阿蘇神社です。
 近くに高校があるせいか、門前では若い女子高生がたむろしていたり、カップルがお参りしたりしていて、ちょっと雰囲気が変わっていました。
 境内には「背比べ石」やら「願かけ石」、「縁結びの松」などアトラクションも豊富で、そのへんが人気なのでしょうか。背比べ石というのは、目盛りの刻まれた黒御影の石柱なのですが、これで身長を測るとどんな御利益があるのやら。
 ただ、門前のわき水はおいしかったです。
 
 外輪山さえ越えてしまえば、大分方面へはずっと下り坂です。
 今夜のねぐらは、道の駅「波野」。
 裏手に利用されて無さそうな無人の神楽資料館と屋外ステージがあったので、そのわきにテントをたてました。
 最近洗濯をしておらず、味噌まみれの服もそのままリュックの中に丸めて押し込んであるので、どこかで洗濯をしたいのですが、ここもいい水場がありません。明日にはなんとかしよう。
 晩飯は、胡椒の葉の炒め物。それをつまみに焼酎「白岳」を阿蘇神社の湧き水で割って飲んでいたらいい心持ちになってしまい、飯を炊くのもおっくうになったので、ラーメンを煮てたぐって済ませてしまいました。
 明日は臼杵市に向かいます。
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9月9日(月)晴 臼杵石仏への祈り

 朝飯は白飯とみそ汁。
 国道57号を東進し、さっさと竹田市を通過。大野町の野菜直売所の駐車場の土手に腰掛けて柿ピーをかじっていると、店のおばさんが
「中で食べたらいいよ、椅子もあるから」
と言ってくれました。ほんの小休止だったのですが、何度も声をかけてくれるので中に入ることにしました。
 薄暗い蛍光灯の下に野菜が並べられ、部屋の奥に食堂風のテーブルが並んでいます。メニューもなく、厨房もがらんとしているところを見ると、客が入らなくて止めたのでしょう。
 この店のおばさんとも、いつもの会話。
 
 犬飼町で国道10号を右折し、やがて国道502号に左折して臼杵市へ。
臼杵石仏の参道鳥居だったらしい
臼杵石仏近くの鳥居

 国宝の臼杵石仏は市街地に入る手前ののどかな山の中腹にありました。まわりには「石仏ホテル」「石仏旅館」などという地味な名前の建物がいくつか。
 石仏観覧料は530円。石仏ごときを見るのに金を取られるのは初めてです。
 臼杵石仏は、正確に言うと磨崖仏で、山の崖にたくさんの仏像が刻まれています。平安後期から鎌倉にかけて造られ、けっこう見栄えがするので、磨崖仏として初めての国宝指定を受けたのだそうで。
 石仏を造立したのは伝説によれば真名野長者という人で、この人は都のお姫様を嫁にもらい、炭焼き小屋の黄金で財を成したという、いわゆる炭焼き長者です。
 メインの古園石仏の前には、
「願い事をお書きください。毎週ご供養いたします 臼杵市仏教会」
とあり、願い事用紙が置かれていました。530円も払ったんだから何かお願い事しなければと損だと思い、用紙に
「人生が何とかなりますように」
と書いて箱に投函しておきました。切実な願いだなあ。
 臼杵石仏を見た総合的な感想は、「ふうん、なるほどね」という程度のものでした。
 
 臼杵石仏から少し走ると、バス停に公衆便所と水場があったので、ここで洗濯することにしました。
 鹿児島の大隅半島で洗濯して以来です。トランクスの黄ばみなんか、いまさらどんなに擦ってもとれません。干すとき恥ずかしいんだよな。早く破れれば買い替えられるのに。
 川の土手にうわっている桜の木にロープをかけ、夕日にかざして洗濯物を吊るしました。
 沖縄からずっと持ち歩いていた「アワセそば」をようやく茹で、インスタントラーメンのスープで食いました。
 ゴールデンレトリバー風な犬が寄ってきて物欲しそうにしっぽを振ってきました。地面にこぼれた生の乾麺を拾い食いし、ガムみたいにくちゃくちゃ噛んで一生懸命食べていました。
 野良犬かと思いましたが、やがて老夫婦がやってきて、川にボールを投げて犬に取ってこさせたり、しきりにブラシをかけてやったりしていたところを見ると、彼らの飼い犬なのかも知れません。
 アワセそばを食い終り、生乾きの衣類をリュックに詰め込んで、ねぐら捜しのために市の中心部へ。
 途中のスーパーに寄ったら、鮮魚類が充実していて
「海まで降りてきたんだなあ」
と実感が湧きました。ほら貝とかウチワエビとかを結構安く売っていましたが、どうやって食うのかしら。
 今夜は、市の中心部にある「なかよし子供公園」でテントを張りました。
 晩飯のおかずは、サゴシとかいうサバとサンマのあいのこみたいな魚。二つに切って塩を振って網焼きしてみました。なかなかでした。
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9月10日(火)曇ときどき晴 ミワリー妖怪マップ

 朝飯は半額で買った蒸し焼きそば。キャベツやナスも入れたので、少しは健康的です。
 テントを畳んでから、溜まっていた日記をベンチで打っていると、幼児連れの母親たちがどこからともなく涌いてきました。邪魔にならない隅っこに退避しながらそれでも頑張って数日分打ち、送信するとあっというまにもう午後2時40分。
 今日は市内散策するつもりだったのに。
 
 そもそもぼくが臼杵(うすき)という地名を知ったのは、二年ほど前。
インターネットで「妖怪マップ」のキーワードで検索したとき、大分県の臼杵市の有志が「臼杵ミワリークラブ」というグループを結成し、市内の妖怪スポットを調べて地図を作る活動を始めた、という記事を読んでからです。
 それまで「臼杵」という字を見せられても
「う…うすきね?」
という、小枝チョコのCMみたいな状況だったのでした。
 ゆうべ、下調べのために臼杵ミワリークラブのHPを見てみたら、なかなかまじめに活動している様子。
 小学校の子供たちと妖怪スポット探検をしたり、妖怪紙芝居を上演したり。「笑ってコラえて」にも出演したらしい。
 どうやら立役者はクラブ内で「本尊」と呼ばれている人のようで、市内在住の県の職員で、町並保存などの活動に広く関わっているなかなかのツワモノらしい。
 そんな予備知識を仕入れてから、妖怪マップを求めて「臼杵市ふれあい情報センター」(けっ)に足を運びました。
「おじゃましまーす」
と入り込み、観光パンフのラックを物色したのですが、それらしきものは見当たりません。
 べつに境港や遠野のように、妖怪を全面に押し出してPRしているようでもありません。
職員さんに
「あの〜、こちらで臼杵ミワリークラブってのが妖怪マップを作ってるって聞いたんですけど」
と恐る恐る声をかけると、お姉さんが
「これがそうなんですけど、ここには在庫がないんですよ」
と、壁にかかっていた「なごり雪」のタペストリーをめくって、壁に張ってあった妖怪マップを見せてくれました。カラー刷りの、どんな立派なものかと思っていたら、二色刷のものでした。
 職員のお兄さんがどこへやらに電話して確認してくれました。
「あのさ、ミワリークラブのマップなんだけど、欲しいってお客さんが来てるのよ。そっちにある?250円?ああ、そう」
電話を切って向き直ったお兄さんがいうことに、マップは俵屋という雑貨屋で売っているとのこと。
二色刷で単価250円とは、印刷部数が相当少ないんだな。
 教えられた「俵屋」は、ゆうべ通った道端にありました。ここはどうやら、例の「本尊」の自宅のようです。築150年とかの古びた建物で、郷土玩具などが並んでいました。
俵屋の老夫婦
俵屋の老夫婦

「ごめんくださーい」
と中に入ると、しばらくして奥から老夫婦がのそのそ出て来ました。妖怪マップを欲しい旨を伝えたうえで、店内を物色すると、夫婦そろっていろいろ説明してくれました。
 全国の郷土玩具の他に、浅草から仕入れているという「カラカサお化け」や、妖怪手ぬぐい、多田克己監修の「妖怪カルタ」など、マニアなグッズが並んでいます。
 ミワリークラブのオリジナルグッズはマップのほかにも絵葉書や張り子人形なども。
 おじいさんは張り子人形を一つ一つ指さしては
「これはねえ、モマといって、今でも出ると言われてるんですよ」
とか、
「昔はねえ、この前の川にもカワウソがいたんですよ」
とか、
「ほかにもムササビっていう妖怪がいてねえ…」
などと、妖怪の説明をしてくれます。
 臼杵の妖怪張り子はメンバーの手作りで、数が少ないので今では化け猫と化け侍の二種類しか売れないのだとか。
「モマ」なんかは、毛糸のたてがみが可愛かったけどなあ。
 結局ぼくはマップと絵葉書、妖怪手ぬぐいをそれぞれ一枚ずつ買いました。合計1,200円。
 
 俵屋を後にして市内散策に出たものの、250円のマップをヒラヒラさせながら歩く勇気はありません。
マップはボール紙の筒に収めたまま、妖怪スポットは無視して適当にそぞろ歩くことにしました。
帰れる家があるから旅は楽しい
帰れる家があるから旅は楽しい

 臼杵は、アーケード街はさびれているくせに、一歩路地に入ると城下町の武家屋敷・寺町の趣が残っていて、なかなか様になる街でした。
 これだけ町並が保存されていれば、妖怪の伝承もそれなりの数が残されていても不思議ありません。
 整然とした武家屋敷だけでなく、果物屋などが店を開く庶民の路地裏も、ほどよい雑然さがいい味を出していました。
 どこか一カ所に腰を据えてスケッチでもすればいいのですが、沖縄から戻って以来、どうもじっくり腰を据えて絵を描こうという気分にならないので、一通り街を散策した後は、大分市方面に向けて出発してしまいました。
 
 途中のAコープで半額弁当の昼飯(?)を食い、ごいごい海沿いを走って佐賀関へ。
 今夜は佐賀関の港の駐車場の草むらにテントをたてました。
 公衆トイレには高校生たちの吸い殻、草むらには犬たちのフン。
 あまりいい立地条件ではありませんが、まあ仕方ないでしょう。
 晩飯は総菜のコロッケをパンに挟んだコロッケサンド。
 佐賀関と言えば関サバ関アジが有名ですが、明日はどうしたものか。
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9月11日(水)晴 さよなら第一コルド丸

 朝飯は、ゆうべの続きのコロッケサンドとやきそば。
 結局関アジも関サバも拝む事なく、さっさと大分市に向かってしまいました。
 市内のドコモショップに寄って、ACアダプタの故障の件を相談すると、3000円の金と2〜3週間の時間がかかるとのこと。
「もう本体も古いですし、アダプタを新しくなさるより、機種の買い替えの方がお安いですよ」
と言われて、買い替えることにしました。
 あーあ、「お前、ふっるい携帯使ってるな」と笑われるのが快感だったのに。
 本来なら他の販売店との店頭価格をじっくりするところなのですが、旅先ですし、のちのちのことも考えてその場で買うことにしました。
 選んだのは、R211iという機種。販売価格が7000円くらいだったので、少し古い型なのでしょう。ぼくとしては全然構いませんが。
 ついつい、iモードも申し込んでしまいましたが、後になって、ザウルスでメールチェックやホームページ閲覧ができるのに、iモードなんて意味あるかな、とも思いました。
 
 新しいおもちゃを買うと、すぐにいじってみたいもので、近くの公園でキャベツと魚肉サンドを食いながら、説明書を読んでいろいろいじくっていると、通りがかりのおじさんが声をかけてきました。
学生かと訊くので、いつものように
「会社辞めまして」
というと、
「いい身分だな。不景気だから大分も仕事ないよ。中心部にはホームレスがいっぱいだ」
と言っておりました。
 
 いろいろ携帯をいじくっていたら、バッテリーが切れてしまったので、出発することにしました。
 大分市内でもう一つ片付けておきたいのが、自転車の修理。西都市で直してもらったのですが、ふたたび前ギヤの切り替えが一部不可能になり、さらにギヤの軸がガタガタしてきたので見てもらいたかったのです。
 どこの自転車屋がいいのかなんてわからないので、とりあえず電話帳を見て、地図入りの広告を出している店に行くことにしました。
 目当ての店に着いてみると、店の前にはMTBもいくつか飾られていて、なんとかなりそうな様子。
 店に入ると、ヒゲを生やした40代くらいの店長が出てきました。
 事情を説明して、自転車を見てもらうと、店長はでっかい声で
「お客さん、こりゃダメですわ。BBがもう完全にバカになってます。だからチェーンラインが変わっちゃって、ギヤも変えられないんですね」
とかなんとか、素人には分からない専門用語を使って説明してくれました。
「台湾製品だからうちには部品ないしね、あるとこで買っても12,000円はするでしょ。こんなんで長野から沖縄経由?それ、もち過ぎ。直すより、新しいの買った方が安いよ」
「そうですか。じゃあどうせ買い替えなら、完全に自転車が壊れるところまで乗ってみます」
「これからどちらへ?別府方面。ダメダメ、自転車屋なんてないよ。別府からうちに来るお客さん多いもの」
ということで、あっと言う間に話題は「どう直すか」ではなく「どれを買うか」にすりかわってしまいました。
 声のでかい店長に気圧されるようにして、結局63,000円の、アメリカ製のMTBを買うことに。
「このTREKなら、取り扱ってる自転車屋も多いし、横振れも少ない。今までのお客さんのよりずっと楽に走れるよ。サドルも前立腺刺激しないし。車輪がレバーひとつで外せるから、パンク修理や輪行のとき便利だよ」
今までどんな輪行バッグ使ってたの、と訊かれたので、リュックをぶちまけて一番底から輪行袋を取り出して見せると、店長はリュック内部のすえたニオイに
「むおっ!」
と大仰にのけぞっていました。
「で、どれくらいお安くなります?」
と値段の交渉をしようとすると、
「うちはそういう売り方してないから」
とにべもありません。後輪タイヤなどは換えたばかりなので、
「タイヤを古いの移してもらって安くなるとか、なりませんか」
と粘ってみましたが
「なりません」
と一刀両断。
「古い自転車の処分代はこちらで負担してあげますから、それを考えれば安いでしょう」
とのこと。そんなもんかあ。
 でもいずれにせよ、西都の奥口商店の店長の方がよっぽど愛想よかったぞ。
 本当なら他の店と比較したりしてじっくり選ぶべきなのですが、なんだかもうそういう気力もなく、早くこの状況を脱したいという気持ちになっていました。
 突然の出費なので、例のごとく郵便局を教えてもらい、自転車を借りて金を降ろしにいきました。
「ぼくの個人の自転車だから、そのまま盗んでいかないでね」
 荷物置いてくんだから、逃げるわけねえだろ。
 大分県警の防犯登録と新しい輪行バックも買い、バッグを再び紐で縛り付けてもらいました。
 大学時代以来の長い付き合いだった愛車コルド丸を最後にデジカメに撮り、
「じゃあな」
とつぶやいて、
「どーもありがとうございました」
と店を出ようとすると、店長が再び出てきて
「サービスするよ」
と言ってドリンクボトルのゲージをつけてくれました。ちょっとうれしかったです。
 
 新しい自転車は「第二コルド丸」と名付けることにしました。車体の色は赤なので、リュックの色ともお似合いで悪くありません。
 前輪にはサスペンションがついてるし、ギヤはコルド丸より6段多い24段だし、ブレーキはつんのめるほどよく効くし、自転車そのものには何も文句ありません。
 ただ、これまでの空気ポンプのノズルが合わないし、予備に買っておいたブレーキシューも合わないので無駄になってしまいました。
 それに、「第一コルド丸」が、もう少し乗れたんじゃないか、という心残りがあります。他の自転車屋ならうまく直してくれたんじゃないか、とも。
 ここまで長い旅を一緒に続けてきた相棒を、見知らぬ街に見捨ててきたかと思うと、ラバウルで戦友を亡くしたまま引き上げてきた日本兵の気持ちが分かるような気になります。
 
 サドルの角度を調節してもらうのを忘れていて、少しコーガンが圧迫されそうな感じを持ちますが、戻るのは嫌なのでどこかよその自転車屋を見つけて調節してもらうことにします。
 
 大分市街を抜けて、今夜は別府との間の海水浴場みたいな公園に泊まることにしました。
トイレで充電もバッチリです。
 食材を買いそびれたので、晩飯はインスタントラーメンのみ。
 ベンチでろうそくをともして携帯の説明書を読み、9時ころテントを建てて中に入りました。
 
 今日は、「買った方が安いですよ」という言葉をよく耳にした一日でした。なんやかやで8万ちかくが一気にぶっとんだ計算です。
 修理するより買った方が安いなんて、なんか世の中間違っているような気がします。
 修理のことを考えず、どんどん新しい製品を垂れ流してるから、結果的に修理がしにくくなっているのではあるまいか。
 携帯でいえば、ACアダプタなんてそんなに技術革新するわけないんだから、共通の部品を使ってればいいのに。
 自転車でいうと、今回は部品の互換性が悪い、変なメーカーの自転車を買ってしまったのがそもそも悪い、ということになるのでしょうか。
 それにしても、後輪タイヤもチューブもまだ使えるし、フレームだってべつに折れたり曲がったりしてるわけではないのですから、なるべくリサイクル活用して欲しいものです。
 これからの業界は、「修理業」が充実していかないといかんのではないか、と思いました。
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9月12日(木)曇ときどき晴 湯布院で露天風呂独占

 朝飯は、ご飯とみそ汁とふりかけと梅。
 キャンプ禁止区域だったのですが、誰にも怒られずにすみました。
 
 テントを畳んだあとで東屋で日記を打っていると、自転車旅の初老男性がやってきました。
だいぶ白髪も多いので、60歳前後でしょうが、おじさんと呼ぶにはちょっと年いってるし、おじいさんと呼ぶには元気すぎるし。
「こんにちは」
とぼくが言うと、おじィさんは
「旅の方ですか」
「ええ」
「実はお願いがあるんですよ」
話を聞けば、じィさんは東京から北海道へ自転車で回り、時間があったので九州まで足を延ばしたら途中で路銀が底をついてしまったとのこと。
「本当は北海道回ったら帰るつもりだったんですけど、日本海側を下りてきたら、すれちがう旅の人達がみんな『九州はいいよ』って言うんでついつい足が向いちゃったんです。
 西鹿児島に知人がいるんで、そこに着けばお金の工面もなんとかなるんですが、そこへたどり着くまでのお金が無くなっちゃって。
 最近は食べる物もろくに食べずに走ってたんで、走る距離も短くなっちゃったんです。東京に帰ったらお送りいたしますんで、いくらでも結構ですからお貸しいただけませんか」
確かに旅の人のようでしたし、悪い人のようには見えなかったので、貸してあげることにしました。
 なによりも、旅人にとって飯が食えないことほど悲しいことはありません。旅人に限ったことじゃないけど。
 財布を見ると、札は千円札と五千円札が一枚ずつ。千円札を出すなんてのもしみったれた話なので、五千円札を差し出しました。
「いいですよ、差し上げます」
なんて言えれば太っ腹なのでしょうが、こっちだって多大な出費をした直後なので、さすがにそうは言えませんでした。
「ありがとうございます。助かったなあ。旅の人なら貸してもらえるかなと思いながらここまで来たんですけど、なかなか出会わなくて。一カ月ぐらい後になるかと思いますが、必ずお返しします」
「困ったときはお互い様ですから」
 おじィさんの手帳にぼくの住所名前を書き、一応おじィさんの住所名前も教えてもらってから、少しお話ししました。
「定年退職で?」
「いや、まだ勤めてるんですよ。この歳なんで、もうきついから、これを最後の自転車旅にしようかなと思って、休みをもらって5月から走り始めたんです。今年の北海道は雨ばっかりでねえ。新潟で台風にも出くわして、大変でした。
 雨降るとテント建てられないんで民宿に泊まるんですけど、高いですねえ、八千円もとられました」
「いくらの予算で出たんですか?」
「45万ほど持って出たんですけどね。去年四国を回ったときに財布ごとキャッシュカード落として苦労したんで、今回は現金を持って出たんですよ」
 札束抱えて走るなんて、勇気あるなあ。
 なるべく平坦な道を選んで鹿児島を目指すというおじィさんを見送り、再び日記を打っていると、ここにも幼児を連れた若(?)妻(?)たちが涌いて出てきました。
「〇〇さんどうしたんやろ」
「電話してみよか」
と若妻仲間に電話しているので、これはますます大群になるに違いないと思い、日記が打ちかけでしたが出発することにしました。
 出る前にトイレによると、大学生風の自転車男(←チャリダーという言葉は絶対使わないわたし)二人連れが休憩にきたところでした。
 さっきのおじィさんは全然旅人に会わないと言っていましたが、なんやかやで平行して大勢走ってるもんです。
「どちらから?」
と訊くと、
「岡山です。フェリー乗ってきたんですけど」
「ぼくは長野」
「マジっすかあ!?」
「それじゃがんばって」(←がんばれと言われたくないのに他人には言っているわたし)
 
 車道は広いのに路肩は狭い国道10号を走り、別府市内に入って駅のダイエーで昼飯を買い、別府公園で食いました。
 また食パンにコロッケ挟んで食う手法です。ダイエーの食パンは安いし、揚げ物はおいしくてカロリーも高いし、その中ではコロッケが一番安いんですよね。
 
 別府市内はほんの少し一瞥しただけで、湯布院に向かいました。
 由布岳方向へ向かう坂道を、体に合わないサドルで走るのはきついものがあります。
自転車の取扱説明書にも、
「医療関係者の中には、適切に調節されていないサドルは生殖器をしびれさせ、長い間にはインポテンツを引き起こすと信じる人がいます。運転中にそうしたしびれを経験する場合は、自転車の調節を適切に行なってください」
としっかり書かれていました。どうしてくれるんだー。
 
 汗だくになりながら由布岳の山裾の峠にたどり着き、あとは一気に下って由布盆地へ。
由布岳は全体を草とまばらな低木に覆われたきれいな山で、それを横目にヘアピンカーブを下るのは爽快でした。
 湯布院という名前は何かしら上品で旅情をそそるものがあります。町並もすばらしいと噂を聞くので、ぼくも寄ってみる気になったのですが、中心部を通ってみた限り、ただのコジャレた観光地で、さしてそそられるものはありませんでした。
 もっと他に、いいたたずまいの場所があったのかな。
 5時ぎりぎりセーフで郵便局からお金を降ろし、観光案内所でマップを入手。マップを頼りに、窓口のおばさんが「露天風呂もありますし、ここがいいですよ」と教えてくれた「温川温泉」へ(400円)。
 ぼくが入っている間、他に客は誰も来ず、のんびりできました。
 洗い場などは少し古びた木の板で作られていて、温泉地という雰囲気が出ていてよかったです。
 単純泉なので、お湯は無味無臭。露天風呂なのに、浸かっているうちにお湯の表面が熱くなるので、時々かきまぜなければなりません。
 シャンプーやボディソープを使うのは、何カ月ぶりのことやら。
 垢をしごくのは力作業なので、疲れると湯に浸かり、のぼせそうになると上がって体を擦る、を繰り返しました。
 
 衣類も臼杵で洗濯したばかりなので、今日のぼくはここ数カ月でもっとも清潔な状態に戻ったと言っていいでしょう。
 温泉の後はAコープで買い物し、ねぐらはすぐ近くの児童公園。
 持ち帰り自由の氷で冷やしておいた発泡酒をテントの中でぐびぐび。うまかったっす。
 晩飯は、キビナゴの炊き込み御飯とキビナゴのみそ汁。炊き込み御飯は、キビナゴを適当に切って、醤油と焼酎とダシと粉末ガーリックを適当にいれて炊きました。
 ちょっと薄味だったのであとで醤油を追加しましたが、まあまあうまかったです。
ここの目次 表紙

9月13日(金)曇ときどき晴 水子の魂百までも

 朝飯はトーストともやしスープ。
 公園の水道で洗濯し、鉄棒にかけて干していたら公園の広場に幼稚園児がやってきて鼓笛隊の練習を始めました。曲目は「お魚天国」でした。
 
 湯布院から安心院方向に走ります。
 坂を上って由布岳のふもとの高原に出ると、なだらかな草原が広がって、サイクリングに最適でした。サドルさえまともになっていれば。
 ちょっと、ギヤが一部切り替えにくい段があることに気づいたのですが、これは整備不良?それとも早くも壊しちゃったか?くっそう。
 
 安心院は「あんしんいん」と読むのかと思っていたら、「あじむ」なんですね。読めねえよそんなの。
 下り坂をしゃああと走っていくと、「地獄極楽」という名所(?)みたいなのを見つけました。
 ためしに行ってみると、駐車場に結構なトイレと休憩所があったので、パンを食いながら充電がてら日記打ち。
 時々観光客の車がやってくるので、少しは知られた観光地なのでしょうか。
 一人旅らしき車のおばさんがやってきて、
「大福食べる?」
「は?」
「パックで買ったんだけど、残っちゃったから。大福は嫌い?」
「いいえ」
「じゃあ、はいこれ。怪しいものじゃないから」
と、大福餅をひとつくれました。
 ここしばらく、行きずりの人に食べ物をもらうなんてのはなかったのですが、ありがたくお礼を言って、さっそく食べてしまいました。うまかったです。
 
 日記も打ち終わったので、階段を上って「地獄極楽」に行ってみました。
 ここは桂昌寺という昔のお寺の跡で、江戸時代の文政年間に天台僧の午道法印という坊さんが、民衆教化のために洞窟を掘り、中に石仏などを配置して地獄と極楽を再現して見せたものだそうです。
 受付の人などはいませんでしたが、入場料100円とのことだったので硬貨を賽銭箱にいれ、洞窟の中に入ってみました。なかなかおもしろかったです。
地獄極楽(の地獄の方)
地獄極楽(の地獄の方)

 狭いトンネルに閻魔様や牛頭、馬頭の鬼、赤鬼青鬼、三途の川の脱衣婆などが点々と並んでいます。「胎内くぐり」と称する真っ暗で狭くて水浸しの穴もあって、熊本のトンカラリンを思い出してしまいました。
 地獄を抜けると一旦外に出るのですが、極楽に行くには今度は垂直な縦穴を、鎖にしがみつきながら登らなければならないのです。
 これがちとしんどい。
 穴を抜けると山の中腹に出て、そこから山道を少し登ると阿弥陀様の像が鎮座していて、そこがどうやら極楽ということのようでした。
 ちょっと拍子抜け。何事においてもやっぱり、極楽より地獄の方が面白いですねえ。
 
 安心院の中心部に入り、ホームセンターがあったので、六角レンチを買いました(100円)。サドルのネジにあうのを探すため、パッケージのホチキス針をこっそり外して、レンチの大きさを確かめてから買いました。
 サドルの調節さえしてしまえば、あとはこっちのもの。耶馬渓への国道500号はちょっとした峠道でしたが、けっこう快調に上れました。下り坂はもう、快適そのものでした。
 
 峠を越えて本耶馬渓町に。
 耶馬渓と聞くとすぐ「ヤバ系?」などとつまらないダジャレを言いたくなってしまうのですが、ぼくの目当ては青の洞門です。
 このあたりは切り立った崖山が多く、地層の関係か、崖の中腹に岩棚のような洞窟が見られます。そのなかの一つで、崖の上の岩棚に建物がはめ込まれているのを見つけました。
 標識を見れば、羅漢寺というお寺のようです。夕方になっていましたが興味には勝てず、行ってみることにしました。
 駐車場に「愛とロマンの古羅漢探勝道」という案内看板が立っていました。
「なにが愛とロマンじゃ、ケッ」
とののしりながらも、遊歩道に入り込んでみました。
愛とロマンの果てに…
岩棚の廃墟

 最悪な道でした。ろくに手入れされておらず、草ぼうぼう。
 泣きながら狭い獣道を登っていくと、崖の洞穴に作られた怪しい廃墟がありました。かつてはお堂か何かだったのでしょうか。
 さらに奥に進むと、さっきふもとから見た怪しい建物がありました。崖に無理やり屋根つき廊下をはめ込んだようなお堂です。柱だけで壁はなく、床もボロボロで今にも抜けてしまいそう。崖側には石仏がいくつか祭られげいるのですが、それらの多くが首を切られて無残な姿。
 お堂からの眺めは、スリル感もあいまってかなりの絶景です。
 堂を過ぎると、今度は鎖伝いに崖を渡る「鎖場」。恐る恐るそこをクリアし、さらに進むと鎖場第二幕が行く手を阻みます。さっきの鎖場よりも鎖が細く、そのうえずっと足場が悪い道です。足を踏み外したら崖下へ真っ逆さま。
 高所が苦手なぼくは、これを見てタマが縮んでしまい、命あってのモノダネと、そのまま引き返すことにしました。
 こんなおっそろしい道のどこが「愛とロマンの探勝道」なんだ!
探勝道である以前に、修行道なのではあるまいか。
 
 羅漢寺は、この探勝道の近く、トンネルの先にありました。参堂下には土産屋が並び、山の上にはリフトが伸びている立派な観光地です。
 リフトは止まり、店は閉まっていますけれど。
 薄暗い参道を登ると、山の上の崖に山門がハメこまれていました。本堂は山門の向こうらしいですが、もう門の扉は閉まっていたのでそれ以上進めませんでした。
 でも、圧巻だったのは山門近くにあった水子供養堂。
 さっきの古羅漢探勝道のお堂みたいに崖に長屋みたいなのがハメこまれているのですが、そこにびっしりとシャモジが釘付けにされていました。
 シャモジ一本一本に、流れた水子へのメッセージが書かれています。
水子供養堂のシャモジ
水子供養堂のシャモジ

「安らかにお眠りください」
「安らかに眠ってください」
「安らかに眠ってね」
というパターンが多いのですが、中には
「本当に本当にごめんなさい、私に勇気がなかったから さぎり
 本当にごめん、もっと俺がしっかりしていれば 隆志」
なんてのも。この場合、女性の「勇気」というのは「コンドームをつけて」と男にきっぱり言う勇気であり、男性の「しっかりしていれば」というのは、「あのときしっかり外出ししていれば」という後悔の吐露でありましょう。
 他に目を引いたのが
「今度生まれてくるときもあなたでありますように…」
というもの。ここでいう「あなた」って、なんなのでしょう。ちょっと哲学的。次に生まれて来た子供が、両親の顔を見てニヤリと笑って、
「いやー、このまえ流されたときは死ぬかと思ったぜ」
などとうそぶいたら面白いな。勝五郎もびっくり(by平田篤胤)。
 また、数度に渡って奉納されたシリーズものもありました。
一枚目
「ゆうちゃん、あいしているよ、ずっとわすれないからね けんじ
 いつまでもパパとママのこと見守っていてください のりこ」
と、夫婦(?)でお参りに来ていたのが、
二枚目
「ママもゆうきも捨てて選んだ家族を大切にしてください。ゆうき、ぱぱの幸せを守ってあげて」
となり、さらには
三枚目
「大好きなゆうきへ
 ゆうきがいなくなってからパパは大切な家族のところへ帰っていきました。
 ママはパパとゆうきがすべてだったから、一人ぼっちになってしまいました。
 ゆうきまでママを忘れてしまう前に、一秒でも早くゆうきのところに行きたいです。
 ゆうき、最後のママの願いを叶えてください」
この3枚のシャモジは、どれも「とっとこハム太郎」のシールが貼ってあったので、恐らく同一人物の奉納と見て間違いないです。
…怨念がこもってますね〜。妻子ある「けんじ」と不倫仲となり、生まれた「ゆうき」は死に(堕ろしたのか?)、男に捨てられた「のりこ」は絶望のうちに羅漢寺の山道を登り、水子供養堂にクギでシャモジを打ちつける…。
 かあん、かあぁんと断崖にこだまする釘の音が聞こえて来そうです。
 水子供養堂のシャモジを一つ一つ読んでいたら、なんだかシャモジがヒトダマのように見えてきました。
「水子の魂百まで」などということわざもありますが、水子に寄せる罪深き男女の思いは今も昔もさまざまなようです。
 
 ずーんと重い気分になって少し下ると、今度は「縁結び地蔵堂」がありました。ここにもおびただしいしゃもじが奉納されているのですが、こちらは
「ずっと仲良くいようね☆」
とか
「カレシが見つかりますように」
などといった幸せな願いが書かれていて、ほっとしました。
 でもよくよく考えれば、水子も縁結びも表裏一体ですよね。
 
 羅漢寺を後にして、近くのJAガソリンスタンドで燃料を補給し、少し走って道の駅「耶馬トピア」へ。「〜ピア」系のネーミングにはうんざりですが、トイレもあるし駐車場も広いので、ここで寝ることに決めました。
 ぼくが一息ついていると、そこへバイクの旅人さんが。
「こんばんは」
「今夜はここで?」
「ええ、駐車場のすみにテント張ろうかなと」
ということで、ぼくとライダーさんはテントを並べて建てることになりました。
 彼は神奈川出身の大学四年生、ウヨ君(仮名)。就職も決まり、バイク旅行に出て今日で一週間とのこと。
 てんでに米を炊き、彼は親子丼、ぼくはカレーのレトルトをかけて食いながら、いろいろ話をしました。
 広島と長崎の平和資料館の比較とか、野糞にまつわる体験談とかで盛り上がりました。
「…そこの道の駅でね、夜中にトイレ入ったんですけど、中に蚊柱が立つくらい蚊が一杯いてとても入れないんですよ。我慢できないんでトイレの外に落ちてたビニール袋の中にウンコしちゃったんですよ。あとで見たらビニールの中に乾電池が捨ててあったんですけど、もう分別する気になれなくって、一緒にコンビニの燃えるゴミの箱に捨てちゃいました」
「ひっでえ、極悪人だなそりゃ」
 そのうち、話題は北朝鮮にまつわるものになりました。
 公明党や社民党は北朝鮮に操られてるとか、日本のパチンコ業界の七割は朝鮮系の経営者に占められてて、莫大な資金が北朝鮮に流れてるとか、詳しい話は差し障りがあるので書きませんが、いろんな陰謀説について熱弁を奮ってくれたのでとても面白かったです。
 ぽつぽつ雨が降りだしてからも、二人ともテントから顔だけのぞかせてお喋りを続けました。
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9月14日(土)晴 USA八幡宮

 朝飯は、ビスケットをボリボリ食いました。ウヨ君はカップラーメンを食べていました。
 ウヨ君は今日、太宰府に行ってから本州に渡るとのことでした。途中どこだかの鍾乳洞に入りたいと言っていましたが、まだ朝早くて開いていなさそうとのことで、ぼくと一緒に青の洞門に行くことになりました。
 
 青の洞門の「青」とは、洞門のある地名のことのようですが、ぼくは「青」と聞くと「青頭巾」などを連想してしまって、勝手にかっこ良さそうなイメージを抱いてしまいます。
 川沿いの崖に掘られたトンネルで、洞門ができる以前は崖に鎖を打ち、木の板を渡して通行していたのだそうです。
 江戸時代に越後出身の禅海という坊さんが諸国行脚の途中でここに立ち寄り、旅人が崖から落ちて死ぬのを目の当たりにして、洞門掘削を決意したのだそうです。はじめ村人は禅海さんを馬鹿にしていましたが、一途に岩盤を掘り続ける彼の姿にほだされて手伝い始め、30年の歳月をかけて総延長342mのトンネルが完成したのだそうです。
 ぼくが中学生(だったかな)のときに学校の演劇教室で見た菊池寛の「恩讐のかなたに」では、禅海は出家する前に人を殺しており、彼を殺された人物の息子が、父の仇討をするために追ってきたものの、結局禅海の手伝いをしてしまう、という話だったと思うのですが、そのへんは菊池寛の創作だったのかしら。
 現在では一方通行ながら舗装され、車道も歩道も完備されていました。
「いわれがあると、こんなトンネルでも観光名所になるんですねえ」
とウヨ君は言っておりました。
 洞門をバイクで走るウヨ君を、彼の「写ルンです」で撮ってあげましたが、フラッシュが光らなかったのでうまく撮れていたかどうか。
 
 ウヨ君を見送り、トイレで洗顔などを済ませてから、改めてじっくり洞門観察。洞門は何度も改修されているらしく、現在の洞門にのわきに昔の穴がありました。
 見物できるように整備されている箇所もあれば、なかば土砂に埋まっている箇所もありました。
禅海さん、セメント塗りが上手ですね
禅海手掘りの洞門

 禅海が一番最初に掘り始めたという「禅海手掘りの洞門」というのもありました。洞門の半分はコンクリートで固められていましたが、きっとこれは「禅海手塗りのコンクリート」でしょう。
 土産物屋には「禅海手打ちの蕎麦」や「禅海手編みのセーター」があるかと思いましたが、ありませんでした。なんでないんだ。
 それにしても、洞門の対岸にはなだらかな地形が広がっており、現在も国道が走っています。
 わざわざトンネル掘るより、橋作った方が早いんじゃないのかな。
 洞門の上には「競秀峰」という、これまた昨日の「古羅漢探勝道」みたいなのがあり、これまたスリル満点な鎖場がありました。
「ここから先は絶壁となっており、大変危険ですので十分注意してください」
という立て札があり、
「普通なら『大変危険ですので立ち入り禁止』とするだろうに、あえて禁止しないところはなかなかいい心掛けだ」
と思いながら進んでいくと、ホントにものすごい断崖絶壁で、
「ここから先は立入禁止」
の看板が立っていました。
 嘘つき。
 まあ、立入禁止でなくても、ぼくにはとても渡る勇気はなかったのですが。
 
 近くのスーパーで食パンとパックジュースを買い、川端で缶詰コーンを挟んで食いました。
 腹ごしらえをしたあと、宇佐市に向かって峠越え。
 天気もよく、峠のトンネルを下ると長閑な田園が広がっていて気持ち良かったです。
 宇佐市の入口には「Welcome to USA」の大きな看板が立ち、まるで太平洋を越えたような気分。
 宇佐市商工会のマスコットはウサギで、商店街のスタンプの名も「うさちゃんスタンプ」。それしかないって感じです。
 国道10号を右折し、にぎやかな道をしばらく進むと宇佐神宮に着きました。
 駐車場のトイレで日記を打ち、ぼちぼち参拝。
 さすが全国の八幡神社の総本宮だけあり、なかなか広い境内です。
 宇佐神宮の祭神は応神天皇、その母親の神功皇后、そして比売大神です。
 ぼくにとってよくわからないのが「比売大神」なのですが、これは宗像三女神のことだそうで、三女神は神宮の裏山の御許山に降臨したのだそうです。
 御許山の山頂付近に三つの石があり、「石体権現」と呼ばれてて応神・比売・神功の三柱に擬せられているそうで、この巨石信仰が宇佐神宮の源流ではないかという説があるそうです。
 宇佐八幡が祀られた経過にもなんだか妙な伝説があります。


 『宇佐託宣集』によれば、昔 宇佐郡の小倉山菱形池のあたりに、八つの頭を持つ鍛冶の翁がいたそうな。
 翁を見ようと近づく者は、五人のうち三人は死んでしまうので恐れられていたそうな。
 あるとき大神比義という人が翁を見てやろうと山に入ったところ、金色の鷹が現れ、金色の鳩となって比義の腕にとまりました。それを見た比義は宗教心に目覚めてしまって山中で修行を始め、三年後のある日、祈祷をしたところ3歳の小児が竹の葉の上に現れて、
「ボク、辛国(韓国)から来たの。日本の神サマになろうと思って(かなり適当な意訳)」
と言ったそうな。


 この神様が八幡様だったのだそうですが、なんで応神天皇が子供の姿になって出てくるんでしょうか。
 アタマが八つもあるキングギドラの親玉みたいな爺ちゃんは一体何者だったんでしょうか。
 本を読めばいろいろ分かるんでしょうが、なにせ『日本の神々(九州編)』の飛ばし読みなんで、なんともいいかげんな知識ですいません。
 
 宇佐八幡の性格としては、大仏を作りたがる聖武天皇にへつらうような託宣したり、道鏡を追い出したい和気清麻呂の思いどおりの託宣をしたりなどと、一筋縄でいかない抜け目のない神様という印象があります。
 宝物館(300円)を見物し、メインの参道を登ると、左手に拝殿が現れました。
御札を買って参拝をすませ、拝殿正面の階段を降りてみると、そこは殺風景な砂利道があって、すぐ目の前は隣家のたんぼ。社殿の前面がなんでこんなに薄っぺらなんだろう。
 
 宇佐神宮の元宮、「御許山」に興味を持ったのですが、どう行けばいいのかわかりません。
ちょうど掃除のおばちゃんが
「日本一周?どちらから」
と声をかけてきたので、一通り受け答えしてから、
「御許山ってどう行けばいいんですか?」
と訊いてみました。
「それならねえ、国道をずっと向こうに行って、5kmくらい行くとローソンがあって、ラーメン屋があって、大元屋っていうお店があって、そこから登り口があるのよ。
 山の上に神社があってねえ、神宮のお祭りでもそこでの行事がいろいろあるんだけど、アタシはまだ登ってないのよ。お参りしなきゃと思ってはいるんだけどねえ」
「そうですか。じゃあ代わりにお参りしときますよ」
「あらそう。よろしくお願いしますよ」
 おばちゃんに教えられたとおり国道10号を別府方面に走り、おばちゃんに教えられたとおり登山口を見つけました。
 もう6時近くになっていたので、山登りはあしたに回し、ローソンとなりの草地にテントを張りました。
 道の途中で今朝の続きのサンドイッチを食べたのでさほど腹が減っておらず、腹が減ったらローソンに買い物に行こうと思いながら、そのままめんどくさくなって寝てしまいました。
 あしたは御許山に登り、中津方面に走ります。
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9月15日(日)曇 血まみれ寺のねぼけ犬

 朝飯は、ごはん。みそ汁も作らず、ふりかけやらマヨネーズやらをかけて食いました。
 テントを畳み、隣のローソンにゴミを捨てて御許山へ向かいます。
 下から見上げる限り、「たぶんあれがそうなのかな」という程度の、あまり目立たない山です。
 連なる尾根の一つに過ぎず、御許山がひときわ美しく聳えている、という感じでもなさそうです。
 
 一応登山道を示す看板がときどき立っているので、迷うことはありません。
 細い道路をのぼっていくと、いつものごとくブヨがブンブン集まってきます。片手で捕まえて殺した数は5〜6匹にものぼるでしょうか。
 いよいよ坂が急になってきたので、道端にリュックと自転車を置いて歩いて登りました。
 途中から舗装がなくなりましたが、山頂らしき「大元神社」まで、車道はしっかり続いていました。
 山頂付近はいくつも道が交差していて、変な横道に入ると迷ってしまいそうでした。
 誰もいないだろうと思ったら、山頂付近でおばさんに会い、大元神社の拝殿では、ジャージ姿のおじさんが、敷物敷いてお茶のボトルなぞ立てて、くつろいでおりました。
 大元神社へは、ぼくが登ってきた車道以外にもいくつか登山道があるようでした。
大元神社参道
大元神社参道

 砂利道の参道なんて風情がないなあと思っていたら、本来の参道は別にあったのを帰り際に見つけました。こちらは苔むした岩や大木があって、いい風情でした。
 帰り道でも、ほかのルートから登ってきた親子連れに会いましたので、この山はけっこう登山者が多いのでしょう。
 
 山から下りて、国道10号を引き返します。昨日見忘れていた宇佐八幡の「呉橋」を見物。
 この橋は神宮の旧参道にかかる橋で、「日本版マディソン郡の橋」とでもいうべき、屋根付きの変わった橋です。
 残念ながら扉が閉まっていて通行はできず、中をのぞくとゴムマットが散らかっていて、格好悪かったです。
 その呉橋から旧参道を真っすぐ走り、国道を横切ると「百体神社」がありました。
 昔、八幡様が朝廷軍に加勢して隼人征伐にでかけ、隼人の首を100人分とってきて近くの「凶首(きょうしゅ)塚」に埋めました。
 その隼人の霊を祭ったのがこの百体神社で、隼人の怨霊を鎮めるために宇佐神宮でも放生会を行うようになったのだそうです。
 都合のよい託宣といい隼人征伐といい、つくづく朝廷の肩を持つ神様です。
 
 近くにあった「凶首塚」も見物しましたが、実際には古墳の石室部分が露出したものだそうで、伝説でいわれる年代とは築造年代が異なるのだそうです。
 ここを掘って髑髏がゴロゴロ出てきたらすごいなあ。
 
 宇佐を後にして、門司方面へ北上します。途中、中津市に寄りました。大阪の西中島君の同僚で日記読者の方が、
「ついでに中津とかにも寄ってみたらどうでしょう。頑張ってる田舎なので、結構楽しめるのではないかしらと思います」
と教えてくれたので、行ってみることにしたのです。
 何をどう頑張っておるのかしらん、と思いながら中津駅の観光案内所でパンフレットを入手しました。
 確かに、パンフレットからして力が入っていました。厚手の高そうな紙を使った20ページのパンフレット。写真に出てくるモデルさんは、ちょっとギャラ安そうな顔(田中真紀子似)ですが、裏表紙がポストカードになっていたりして、それなりに工夫しようという意図が読み取れます。
 観光パンフと一緒に置かれていたウォーキングマップは、地元のボランティアが実地に歩いて調査したものらしく、ごちゃごちゃしたワープロ打ちの活字がいかにも手作りな感じでした。
 どうも、こういう視点は仕事してたころの癖が抜けないな。
 
合元寺
赤壁の合元寺

 中津は福沢諭吉や前野良沢などのゆかりの土地なのだそうですが、そーいう人たちにはさほど興味ないので、自分の趣味に合ったポイントをマップの中からピックアップして少しそぞろ走ってみました。
 まず行ったのは通称「赤壁寺」と呼ばれる合元寺。
 天正年間、大名同士の陰謀があり、この寺で人が殺されました。そのとき壁に飛び散った血の跡が、塗り直しても塗り直しても浮き出てくるので、とうとうお寺全部の壁を赤く塗ってしまったという由緒のお寺です。
 夜な夜な住職が通行人をかどわかし、その生き血を壁に塗るしきたりだったりすると面白いのですが、実際は赤ペンキが塗られていたのでした。
ZZZZZz…
思わず踏みたくなる犬

 そんなおどろおどろしいお寺なのに、門前には一匹の犬がしどけなく寝っ転がって、観光客におかまいなく午睡をむさぼっているのでした。
 
 次に行ったのは、河童の墓があるという円応寺。中津は寺町が風情あるのです。
 昔、この寺の和尚が河童三人組と問答の末、仏教に帰依させたうえ、寺を水難火難から守らせたという伝説があります。
 寺の坊主に言いくるめられて信者になるなんて、妖怪のくせにだらしない河童です。
 河童の墓は五輪塔で、河童の戒名が記された卒塔婆がありました。「胡瓜院水妖居士」とかついてるのかなと思ったら、それぞれ
「本誉覚源信士」
「本誉覚心信士」
「本誉覚円信士」
だそうで、なんだかふつーの戒名です。墓地の奥には河童の池というのがありましたが、とっくに干上がっておりました。
 
 中津城を下から見上げた後、腹が減ったので何か食うことにしました。
 このへんはハモが名物なのだそうですが、ハモの刺し身とかテンプラなんて食う金はないので、ハモ天(揚カマボコ)でも食おうかと、マップに載っていたカマボコ屋に行ったら、軒並シャッターが降りていました。つぶれてんじゃねえのか?
 中津の名物はほかに鳥の唐揚があるそうなので、駅の近くの唐揚屋で骨付き肉を200グラム揚げてもらいました(280円)。
 あつあつのやつをハフハフ言いながら食いました。うまかったです。
 
 中津はこんなもんだろうと、再び出発。
 豊前市を抜け、行橋市を抜ける道中で、何人かの自転車旅人とすれちがいました。
 大学の夏休み期間中というせいもあるのでしょうが、自転車旅が多いですねえ。フェリーなどでアクセスしやすいのも、九州東岸に自転車人の多い背景でしょうか。
 交通量は多いですが、道が平坦なので距離が稼げます。
 夕方小倉南区のスーパーに寄って、ねぐらは足立公園とかいう公園に定めました。周りが住宅地なので、犬散歩が多いです。オバサンたちが犬を連れてベンチにとぐろを巻き、楽しげにお喋りしています。
 今夜の晩飯はうどん。4玉100円は安い。小松菜やモヤシを入れたので健康的です。
 ノンアルコールビールというのが安かったので買ってみましたが、冷えてなくておいしくなかったです。
 あしたはいよいよ九州脱出となるでしょう。
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9月16日(月)曇のち雨 ランニング海峡の鬼監督

 朝飯は焼きうどん。具はゆうべと同じ。
 夏休みも終わりだというのに、公園では朝6時半からおじさんおばさんたちがラジオ体操していました。
体操が終わると、皆で拍手していました。変わった風習だ。
 
 老夫婦が通りがかり、ぼくのテントを見たおばぁさんが、
「不景気なのねえ。ホームレスさんが多いねえ」
と言っているのが聞こえました。すいませんねえ、ホームレスで。
 
 公園を出て門司につき、公衆便所で食パンを食っていると、駐車場のゲートのおじさんがやってきて
「門司港見物はまだか?」
と、パンフレットをくれました。そういえば、門司は港の町並がすばらしいなどと噂を聞いていたので、九州を出るついでに寄ってみようと思い立ちました。
 おじさんからもらったパンフレットの地図を頼りに港の方に降りてみると、確かにレトロな感じの建物がいくつか並んでおりました。
 でも、いかにも観光地といった風情で家族連れやカップルがそぞろ歩いており、居心地悪いので、さっさと関門トンネルに行ってしまいました。
 トンネルでは今日も、見るからにダイエット中のウォーキングおばさんがもくもくと歩いていました。
 Tシャツ姿の学生風な若者たちがランニングしているなと思ったら、トンネルの真ん中でおっかない顔した教師が、仁王立ちして生徒たちを睨みつけておりました。
 こんなところまで走りにくるとは、きっと貧乏でグラウンドがない学校なのでしょう。
 走りたきゃ校舎の廊下でも走ってろ。
 
 下関に抜けて、出口近くの展示ルームでコンセントを借りて日記打ち。
 一段落つけて外に出ると、雨がざあざあ降っていました。5月10日、九州に渡った日も雨だったなあ。ぼくにとって下関は雨の町としてインプットされることでしょう。
 下関港駅近くのダイエーで昼飯用の食パンなどを買い、自転車売り場で空気ポンプを買いました。これまでの空気ポンプは、先端の部品を紛失して使用不能になっていたのです。買ったポンプは1,380円で、安っすいなあと思って開けてみたら、プラスチックのおもちゃみたいなシロモノでした。
 これで本当に空気が入るのか、とても不安です。
 
 雨の中、彦島有料道路(自転車は無料)とかいうのを通り、ついに山陰路に入りました。
 下関から30km程も走ったでしょうか。夕方、若いお兄さんが車から降りてきて
「少し戻りますけど、ぼくんちに泊まります?」
と言ってくれました。若い人から声をかけてもらったのは初めてです。家に泊まれと見知らぬ人から言われたのは、堺市の東湊氏以来です。
 べつに彼をホモかと疑ったわけではありませんが、
「ありがとうございます。でも、テントもありますし、なんとかなりますんで」
と断らせてもらいました。
「この先、泊まれるようなところないですよ」
とお兄さんは言ってくれましたが、ありがたくお断りしました。
 
 今夜は豊浦町のパチンコ屋の倉庫の軒下にねぐらを選びました。ひさしが大きくて、雨に濡れる心配がありません。
 晩飯はスパゲティ。100円のミートソースをかけて食います。
 
 山陰路は、これといって目当てのものがあるわけではありません。『日本の神々』も読んでいないので、気になる神社もありません。出雲も、以前の旅行で出雲大社などだいたいのところは行ってるし。境港の水木しげるロードくらいはもう一度行ってもいいかな。
 ということで、少し加速して距離を稼げればいいかなと思っています。
 あしたは晴るといいな。

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