日本2/3周日記(宮崎)
自転車大破東九州編(宮崎)
夜は雷雨。雨の激しさもさることながら、雷がすごく怖かったです。光ってから雷鳴までの時間を数えて、まだまだ遠いから大丈夫だ、と自分に言い聞かせておりました。
ラジオで聴けば、宮崎の山間部には案の定大雨かみなり警報が出ていたそうで。
朝になるとどうにか雨はあがり、濡れたテントをどうにか畳んでリュックに詰め、出発しました。
鵜戸神宮へはじきに着きました。小さな港の近くから八丁坂という石段を登り、とりあえず駐車場のトイレで朝の用を済ませてから、山の上のトンネルを抜けて神宮へ。
人しか通れない山の上に立派なトンネルがあって、それを抜けて階段を下ると、港の反対側にある神宮に着くのです。
鵜戸神宮は、ヒコホホデミ(山幸彦)の奥さんになった豊玉姫がお産をした場所と言われています。
鵜の羽で屋根を葺いた小屋に入ってお産をしたのですが、まだ屋根が葺き終わらないうちに子供が生まれてしまったので、それにちなんで子供をウガヤフキアエズノミコトと名付けました。
もうちょっとほかにちなむものはなかったのかね。
今で言えば、入院した産婦人科病院が改修中で、工事が終わらないうちに生まれてしまったので「工事中につきご迷惑おかけしています太郎」と名付けるようなものです。
親は何を考えてるんだ、と親戚から非難轟々のことでしょう。
まあ、あっというまに子が生まれたということで、鵜戸神宮は安産祈願の神様として人気があるそうです。
このウガヤフキアエズノミコトが、叔母の玉依姫と結婚してもうけたのが初代天皇、神武なわけです。
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鵜戸神宮
鵜戸神宮は、波の打ち寄せる海岸の岸壁の狭い洞窟に本殿が建てられておりました。
波打ち際には、様々な形に侵食された砂岩がそそり立っていて、なかなか面白い風景です。
洞窟の前では、「運玉」というのが人気でした。素焼きの粘土玉(5個200円)を買い、崖下の岩のくぼみに投げて命中したら願い事がかなう、というゲームです。
投げている人達を見る限り、「玉が入りますように」と念じながら投げているように見えましたが。
本殿の裏には、「豊玉姫のお乳岩」というのがありました。要するに、天井からぶら下がった鍾乳石です。似たようなのがたくさんあるので、どれが本物なのかよくわかんなかったのですが。
海神の娘である豊玉姫は、お産のときにワニ(ウミヘビ?)の姿に戻ったのですが、それを夫に見られたことを恥じて海に帰ってしまいました。
そのとき、じぶんの乳房を残していったのがこのお乳岩だそうです。
着脱可能なおっぱい。シリコン製だったのかな。搾っても出るのは食塩水ばかりだったりして。
今でもこのお乳岩からは薄白い水が垂れており、これを混ぜて作った「お乳飴」が名物になっています。
本殿をお参りした後、裏山に登ってみました。山の頂上に、ウガヤフキアエズの陵墓があるとのことです。
一応石段がついているのですが、石の周りの土が流出しており、まるで跳び石状態になっていました。苔むしているうえに傾いていたりして、実際にはもはや石段の用をなしていません。
山道の途中、日当たりのいいまばらな林で、猪の一家と出くわしました。両親と子供、全部で四頭ほどいたでしょうか。親の体長も1mほどの、小柄な猪です。
連中はぼくの姿を見て一瞬固まっていましたが、父親らしき猪が「ブヒ」と一声鳴いたのを合図に、一斉に薮の中に駆け込んでいきました。
ウガヤフキアエズの陵墓は、ちょっとした玉垣がある程度で、「本当にこれが墓なのか?」という感じでした。まあそんなもんだ。
帰りにも同じところで猪一家に出会いました。ここが彼らのお気に入りの場所なのでしょう。
八丁坂を下って自転車に戻りました。自転車を地面の上に倒していたら、ハンドルバッグの中のビスケットを蟻に嗅ぎ付けられ、たむろされていました。
あわてて蟻を追い払っていると、
「こんにちはー」
と声がしました。見れば、自転車旅の若いカップルです。二人揃ってでかいリュックを背負ってマウンテンバイクにまたがったその姿は、見覚えがありました。
日記には書きませんでしたが、彼らとは石垣島ですれちがったことがあるのです。
あー、俺みたいに荷物かついで走る人もいるんだな、とか、女の人の場合、股間にかかる負荷はどういうことになるんだろう、とか、ハードな自転車旅行で喧嘩したりしないのかな、とか、下世話なことを思った記憶があります。
彼らの姿は宮古島行きのフェリーでも見かけたのですが、こんなところでまた会うとは。ぼくも
「こんにちは」
と返しましたが、去っていった彼らがそのことに気づいているかどうか。
宮崎市方面に走ると、途中で彼らに追いつきました。道の対岸だったので長く停まることもなく、向こうが
「どちらまで」
と訊くので
「今日は宮崎市まで」
「お気を付けて」
「お先にー」
と、短い会話だけで追い抜いてしまいました。
宮崎市に入り、いかにも観光地な賑わいの青島でスーパーに寄り、ラフランスジュース1リットルと、ビピンパ丼の昼飯。
その先の駅前の公園で濡れたテントなどを干し、少し昼寝。寝てる間にあの二人に抜かれたかどうか。
背の高いヤシ並木の国道を走り、夕暮れに宮崎市街へ入りました。
宮崎市ではこれといって見たいものはないのですが、宮崎神宮でもお参りしようと思い、今夜はその鳥居の近くの公園にテントを張りました。
晩飯は、ニンジンやピーマンを刻んでマヨネーズと混ぜたスパゲティ。
ウイスキーをゆうべ切らしてしまったので、近くのコンビニに酒を買いにいこうかとも思いましたが、たまには酒なしの日も作らねばいかんかなと思い、我慢しました。
明日は宮崎神宮にお参りして、霧島方面に向かうつもりです。
少し危惧していたのですが、その不安が的中しました。ぼくが寝た公園はラジオ体操の会場だったのです。
6時過ぎになると、子供たちがやってきてぼくのテントを発見し
「なんだこりゃ」
「中にいるのかな」
「あ、いるいる」
などとささやきあっているので寝ていられません。どうやら窓からのぞいているようです。
「あ、今、服着てる」
などと実況中継までされたのでいたたまれず、テントから出て
「おはよう」
と子供たちにあいさつしました。
トイレで顔を洗った後、子供たちが首からかけているラジオ体操カードを見せてもらいました。
「ラジオ体操ってさ、ハンコ全部押してもらうと何かいいことあるんだっけ」
「ううん、ないよ」
「そうだよね」
ぞくぞくと子供たちが集まり、黙々とラジオに合わせて体操している間、ぼくは我関せずとご飯を炊いておりました。
どうせ、体操が終わればみんな帰って再び静かになるのです。
朝のおかずはみそ汁とサバ缶。
支度を整え宮崎神宮へ。けっこう大きな神社でした。
神武天皇を祭っており、明治以前は宮崎神社といってさほど大きな神社ではなかったものが、のちに初代の天皇を祀っているということで明治政府から贔屓され、社地も拡張されて神宮に格上げされたのだそうです。
神宮の裏にある県立博物館も見たかったのですが、月曜休みでした。
せっかく大きな都市に入ったので、どこか大きな自転車屋を探して自転車を根本的に修理してもらおうかとも思ったのですが、なんやかんやですでに霧島目指して漕ぎ始めてしまっていました。
水田の中の平らな道を走り、国富町を経て綾町へ。綾町のスーパーで食材を買い込みました。これから山が深くなりそうなので、店も少なくなるでしょう。
森永ヨーゴ1Lをぐい飲みしながら溜まっていた日記を打ち、昼過ぎに再び出発。
途中でにわか雨に出くわしました。
近くの東屋でやりすごし、小降りになってからレインウエアを上だけ着て走りだしたのですが、じきに土砂降りがぶりかえしてきたので、結局びしょ濡れになりました。
道路はすぐに水浸しになり、車輪が跳ね上げる水が足にかかります。その水が、アスファルトの熱で生温かくなっているので、すごく気持ち悪いです。
夏の雨なので、トンネルをいくつか越えたらすぐに止みました。
小林市の手前、野尻町に「のじりこぴあ」という施設があったので、休憩に寄りました。
電柱看板を見るたびに「〜ぴあ」系の安易なネーミングに不快感を抱いていたのですが、現物を見て「ああこれか」と納得しました。『珍日本紀行』モノだったのです。
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Uターン蛙の群
でっかいカエルが小さなカエルたちをしたがえて、吸盤のついたいやらしい手を恨めしげに掲げています。その口から水が流れているのですが、ダラダラ流れているだけなので、噴水というよりヨダレのようにしか見えません。
それとも別のものに見立てて「ゲロゲロ」というシャレなのか。やだなそれ。
「さわやかトイレ」の軒下で濡れそぼった手足を拭いていると、掃除のおばさんが
「山行きですか」
「いえ、自転車旅行で」
「大変ねえ、こういう雨の日は」
「夏の雨だから、風邪ひかないだけありがたいですけどね」
「でも気持ち悪いでしょう」
「ここって、どうしてこんなにカエルがいるんですか」
「帰ってこいって意味なんですよ。町を出ていった人達がねえ」
ついつい訊いてしまいました。
「で、帰ってきたんですか」
「…いまだに出てく人の方が多いんじゃないですか」
この「のじりこぴあ」は、お土産ショップや軽食などのドライブインと、プールや足漕ぎモノレールなどの遊園地がくっついたレジャー施設です。
立看板によれば、最近は「ストラックアウト」もオープンしたそうです。
今日は雨だから仕方ないとしても、普段は客来てるのか?
こんなもん作ったからって、過疎が解消されるわけねえじゃねえか。
偏執的にカエルの置物並べて「Uターンを祈ってます」とアピールしてみても、それじゃただのオマジナイと一緒だろ。
地域起こしのふりをしたオカルトだ。
さわやかトイレでシャツやパンツを絞り、おかげで少しはさわやかな気分になって、再出発。
途中、道路下にあった怪しい石窟の仏像群(県指定文化財で、鎌倉時代のものらしい)を見物し、国道から高原町方面へ向かう県道に入りました。
そこから間もない6時過ぎ、後輪がパンクしました。
福岡県大野城市でのパンク以来です。なんで修理がめんどくさい後輪ばかりパンクするんだ。
タイヤを調べてみましたが、尖ったものが刺さっている様子はありません。抜けてしまったのだろうと結論し、ずいぶん時間をかけて替えのチューブに交換しました。
そろそろ出発、というときに、自動車が止まって初老のおじさんが顔を出しました。助手席には奥さんらしきおばさんも乗っています。
「さっき通ったら、自転車ばらして苦労してたみたいだったから、戻って来たんだけど。直ったの?」
「ええ、おかげさまで。どうもご心配いただいてありがとうございます」
心配してくれるというのは、感謝すべきことでしょう。
もう暗くなったので、早いとこねぐらを探さねば。とサドルにまたがり、百メートルもいかないうちに
「パンッ、シュ〜」
再び後輪がパンクしました。
なんでやねん!と毒づきながら、自転車をひいてとぼとぼ歩きだしました。
おそらく何らかの異常が後輪に発生しているのでしょうが、もはや暗くなってしまったので分解修理もできません。
曇り空で空は真っ暗なうえに、霧が出て来ました。霧島に近づいた証拠だろう、などと洒落る余裕もありません。すっかり心細くなってそれ以上歩く気力もなく、今夜は道端の駐車スペースにテントを建てました。
周りに水はありません。自販機のコーラで喉を潤し、わずかな水筒の水でスパゲティを茹で、レトルトのナポリタンソースをぶっかけて食べました。
綾町のスーパーで芋焼酎「日向木挽」を買っておいてよかった。酒でも飲まなきゃやってらんねえぜ。ぐびぐび。
道端なので自動車がうるさかったですが、耳栓と酒のおかげでなんとか眠れました。すさんでるなー。
朝飯は、残っていたパンの切れ端など。朝は日が照ってきたので、いくぶん気分も持ち直しました。
替えのチューブはもうないので、自転車をひいて歩きます。
どこかにパンク修理できそうな水はないかと探しながら。経験ある方はご存じでしょうが、空気漏れの箇所を見つけるために、チューブを水につけて調べる必要があるのです。
パンク修理キットは持っているので、水とバケツさえあれば修理できるのですが。
しばらく歩いてみましたが、いい具合のものが見つかりません。民家を訪ねて水とバケツを借りるなんてことは、内気なぼくにはできません。
ふと、昨日の二度目のパンクのとき、大きい音がしたのを思い出しました。
あれだけ大きい音がしたということは、穴もけっこう大きいに違いない。水がなくても穴を見つけられるかもしれない。
そう思い当たり、道端で再び後輪を取り外してみました。その結果、パンク箇所が見つかり、パンクの原因もわかりました。
タイヤの側面が疲労してほころび、そこからチューブがはみ出ていたのです。これでは、尖ったものを踏むまでもなくパンクするのは当然です。
試しにパンク箇所を修理して、恐る恐る乗ってみたら、また百メートルもいくかいかないかのうちにパンクしました。
こうなるともう、自転車屋でタイヤを交換してもらうしかありません。まわりは山ばかり。自転車屋に巡り合うのはいつのことやら。
どうせもう後輪は交換した方がいいので、パンクした自転車に乗ってがたんぺたんと走りだしました。かっこわる。
途中、「高天原神社」の看板が見えました。
「金運上昇 金蛇様 双頭の白蛇様 左折500m」
なんだそれ。怪しいな。
好奇心に勝てず、自転車を押しながら行ってみました。なんのことはない、ここも『珍日本紀行』モノでした。
社名は「高天原神社」なんて、由緒正しそうなのに、その実態は白蛇やら金蛇やら、さらには頭が二つある白蛇やら、なにやら悪趣味なものを神様として陳列しているのです。
社殿の中は貼紙だらけ。ここは宝くじファンの間で縁起担ぎの神社として有名らしく、ギャンブル雑誌で取り上げられた記事などが貼られています。
キングレコードから歌も出したらしく、
「金蛇様のさよなら貧乏神 たんぽぽ児童合唱団」
「金蛇の神は百万年 大田英夫」
などと、わけのわからないタイトルの歌詞カードも貼られています。
さらには
「財宝ロマン 高天原の財宝伝説 神社では財宝捜しの参加者を募り財宝ロマンに挑戦します」
なんてのも。
神社のおばさんにガラスケースの中の金蛇を見せてもらったのですが、金色というより白蛇の汚れたやつ、という感じでした。
「この前ケースから逃げ出してねえ、床を這ってたんですよ。蓋の透き間から逃げることを覚えたみたいでね」
と言っておりましたが、ご本尊に対してなんて口の利き方だ。
「双頭の白蛇様はどこにいるんですか?」
「お札を千円以上買っていただいた方にご覧いただいているんですよ」
アコギな神社だな〜!
「奉納金はけっこうですから、双蛇竜神洞建立のための署名にご協力いただけませんか」
なんだそりゃ、と思ってよくよく見ると、
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竜神洞完成予想図の数々
「未来の子供へ残す高天原 双蛇竜神洞建立百万人の集い」
などと貼紙があって、「竜神洞完成予想図」なるものも何パターンか貼ってありました。どれも、双頭蛇にそのまんま窓をつけただけの気持ち悪い建物。
「こんなもの建ててどうすんの?」
と思いましたが、断る勇気がなかったので、ついつい言われるままに署名してしまいました。
渡された「趣意書」を後で読むと、
「若者の犯罪が連日報道されている今日、満たされ過ぎた社会の中で学校教育だけを優先し、型に納まらない子供たちを弾き出した結果が今の社会のように思えてなりません。
そこで、天孫降臨のこの地に竜神洞を建立するため、ぜひご支援ください(以上要約)」
とのこと。竜神洞をどのように活用するのかとか、そんな説明は一切なし。
まあどうせ宿泊型の研修施設、といったところなのでしょうが、にょろにょろした蛇ハウスになんか泊まりたくねえよ。
研修するまえに、子供怖がって帰っちゃうよ。
ああ、あんなのに署名するんじゃなかった。この場を借りて、撤回の意志表明します。
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この中に恐ろしい疫病神が…?
ところが、この神社のヘンなものはこれにとどまらなかったのです。
駐車場に、黒い網をかぶせた竹製の檻のようなものが置かれており、立て札を読めば
「2001年巳年に捕獲された疫病神が金縛りにされ、封印されております(顔が四面、手が三本、足が三本で世にも恐ろしい姿をしております)」
「悪臭を放ち、近寄れないほど醜悪でなめくじのような姿をしております」
「竹の鞭でこの籠を叩くと人々についている貧乏神や厄病神がおどろいてあなたに金運をもたらします」
とのこと。なんのことやらさっぱりわかりません。
檻の中が見えないので、疫病神の姿は見えませんが、きっとクトゥルフでも捕まえたのでしょう。さすがは高天原。
あんたはアタマがどうかしてるんぢゃないのか?ええ?田中千宗!(高天原神社管主)
めまいをこらえながらずるぺたんずるぺたんと自転車を走らせていたら、後輪のチューブがはみ出てしまい、ギヤに絡みついたので切って引っ張り出しました。
チューブが無くなったらがたがたせずに走れるようになりました。もうヤケです。
こんなみっともないぼくを見て、
「どうした兄ちゃん、パンクしたんか」
と声をかけてくれるドライバーがいないのは幸いです。
高原町内に入り、ようやくバイク屋らしき店を見つけました。
「すいませーん」
と声をかけると、出て来たおじさんはぼくの説明を聞き、タイヤを見て
「あー、こりゃ寿命だ」
とつぶやくと、さっそく奥から新しいMTB用タイヤを持って来てくれました。
手際よくタイヤを交換し、ついでに後輪とペダル軸のガタつきも直してもらいました。
後輪のリムの歪みも訴えたのですが、
「これくらいは問題ない」
と言われました。
ギヤの切り替えがうまくいかないことも言うと、
「あー、こりゃずいぶん歪んでるな」
と言って切り替え装置をペンチでごいごいとひん曲げて整えてくれましたが、結局切り替えはうまくいかず、
「うちには部品ないから、よその店で交換してもらいな」
と言ってくれました。まあ、ぼくとしては後タイヤが新品になってパンクが直っただけでも万々歳なので、異論はありません。
修理しながらおじさんは
「どっから来た?長野か。タイヤ何回替えた」
「今回初めてです」
「へええ。交換せずに来れるもんなんだなあ。長野県っていうと、日本海側か」
「い、いや、海ないんですけど」
「へえ?そうなのか」
さすが、宮崎県人ともなると、長野県の場所なんて知らないんですねえ。
ぼくだって、この旅の前までは九州の県の位置なんでわけわかんなかったからな。とくに佐賀県と大分県。
修理が終わって
「助かりました、おいくらですか」
「まあ、安くしてやんなくちゃいけねえな。6000円でいいや」
「…すいません、手持ちがないんで、近くに郵便局ありませんか」
「なるほど、郵便局で下ろしながら行けば大金持たずにすむってわけか。地図描いてやる」
おじさんに地図を描いてもらって、
「すいません、荷物置かせてください。すぐ戻りますんで」
教えられたとおりに郵便局はすぐ見つかったのですが、戻る途中で黒雲が覆いかぶさり、また大雨が降ってきました。ずぶ濡れになってもとのバイク屋に駆け込みました。
「ひえー」
「降ってきたな。まあ、夏の雨だからすぐ止むだろ。見てみな、あっちの道は全然濡れてない。こっちだけ降ってるんだ」
「ほんとだ」
おじさんにお金を払い、リュックにカバーしてレインウエアを着て、
「どーもありがとうございました」
「気をつけてな」
後輪だけとはいいながら、新品のタイヤで走るのはいい気分です。
近くのスーパーに寄り、昼飯。といってももう3時になっていましたが。
いつものごとく森永ヨーゴをあおりながら、食パンにレタスを挟んでマヨネーズを絞ってばりばり食いました。
腹ごしらえの後、国道223号を霧島目指して走ります。右手に、高千穂の峰がそびえています。
高千穂というともっと北の方にもあるのでややこしいのですが、こっちの高千穂の峰もニニギノ命の降臨地として有名なようです。
途中、神武天皇をまつる狭野神社という神社がありました。
狭野というのはこのあたりの地名で、神武天皇はここで生まれたので幼名を狭野命と言ったのだそうです。
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狭野神社参道
狭野神社は、なかなかいい神社でした。杉の巨木が立ち並ぶ直線1kmの参道は、きれいに掃き清められています。境内は細かい砂利が敷かれ、これまたきれいに熊手の目がついていて足を踏み出すのがもったいないくらい。
社殿も立派な割に派手さがなく、落ち着いています。ここほど上品な神社は、そうはないのではありますまいか。
気違いじみた高天原神社を見てしまったあとだけに、つくづくほっとします。
有名な神社ではないので、参拝客はほとんどいません。雨上がりの湿った土や木の香りと、夕暮れの静けさ。これは神社巡りの醍醐味の一つかも知れません。
もう一つ行ったのは、東霧島神社。これは国道から急な坂を上らなければならないのでかなりしんどかったです。
境内からは御池が一望できるのでしょうが、今日はもやに包まれて何も見えませんでした。
鳥居わきに竜神が住むという「忍穂井」という井戸がありました。
屋根がついて幣束が飾られている以外は変哲のない井戸ですが、説明板によれば、東方からこの井戸に女人の姿が映ると、とたんに異変がおこる、という言い伝えがあるそうです。
どういう意味なのでしょうか。井戸の底の西側に竜が住んでいて、東側から女性が井戸を覗くと竜の目に留まり、竜が騒ぎだすということなのでしょうか。
今日も、道端のアスファルトの駐車スペースにテントを建てました。
ご飯を炊いて、おかずはみそ汁とイワシ缶。うーむ、メニューがいよいよワンパターンになってきた。
あしたは霧島神宮に参拝し、小林市を経て椎葉方面に向かう予定です。
朝飯は、食パンか何か食ったかな。
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霧島神社
じきに鹿児島県に入り、午前中に霧島神宮に着きました。
霧島神宮については予備知識がないので細かいウンチクをしませんが、ニニギノ命を祭り、もとは高千穂の峰と噴火口「御鉢」の間にあったものが、度重なる噴火でだんだん現在の位置まで下がってきたんだそうです。
参拝者休憩所でタダ茶を飲みながら日記を打ち、通り雨をやりすごしてから参拝しました。
神社前の交差点に観光案内所がありました。もらったパンフを読んでみて初めて知ったんですが、「霧島山」という山はないんですね。韓国岳を最高峰として、高千穂の峰など一連の山や噴火口を総称して「霧島」と呼ぶんだそうで。知らんかった。
地図を見れば、ぼくがこれから通る小林市への道の途中に「高千穂河原」という場所があり、そこから徒歩1時間30分で高千穂の峰に登れるとのこと。
少し思案した結果、「よし、登ろう」と決めました。
最近天候が変わりやすく、とくに午後になると土砂降りが来るので、今日はもう登山は無理です。
今夜は高千穂川原で寝て、あしたの朝早くに登ることにしました。
高千穂川原へはここから7km。今から向かっても時間をもてあますので、霧島町の中心部まで下り、明日の食料などを買い込むことにしました。
Aコープで明日用のおむすびやらお菓子やらを買い、昼飯に半額のパックジュースと洋風幕の内弁当を食いました。
神宮方面に戻る途中、「神の湯」という公営温泉があったので、入りました。300円。
風呂に入ったのは沖縄からのフェリー以来で、このところ汗を拭うだけで垢がこぼれる状況だったので、時間があるときに入っておこうと思ったのです。
浴場の中身は、泡風呂とか薬湯とか寝湯とかがあるフツーの公共浴場でした。入浴料300円程度だと、シャンプーやリンスは備え付けでないようです。
最近九州では、宮崎県の日向サンパークという公共温泉で、レジオネラ菌が何人も殺しています。
そのせいか、ここの玄関には
「当施設では、毎日清掃を行い、お湯を替えております」
と貼紙がしてありました。お湯は癖がなく、塩素臭もありませんでした。
客も少なく、浴室内で死んでいるジジイもなく、のんびりできました。
風呂から上がって、休憩室で充電と日記打ち。最近携帯電話の充電アダプターの接触が悪かったのですが、いよいよ完全に充電が不可能になってしまいました。
古い型だから、充電器だけ修理ってわけにはいかないだろうなあ。ついに買い替えか。タフで愛着あったんだけどな。これから山の中を走るから、ドコモショップとか電気屋とかあるんかな。
PHSも通じないだろうし、下手したら一時的に完全音信不通になりかねん。まあ、ぼくは構わないけど。
日記を打ち終わったら、もう5時。今日中に高千穂河原に着かなければいけません。
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天孫降臨への道
「霧島原生林トンネル 天孫降臨への道」
などともったいつけた看板のわきを抜け、曲がりくねった県道を上ります。
昨日、自転車屋のおっちゃんにいじってもらって以来、なぜか前ギヤが中段に固定されてしまっているので、今まで上れた勾配でも、押して歩かねばなりません。
あたりはもう真っ暗になり、寂しい限り。森のどこかで「グゲー」と怪鳥の鳴く声が聞こえます。傍らの薮でがさごそ音がするのは、猪かしら、猿かしら。
頭上で木々がわさわさと揺れているなと思ったら、いつのまにか風が強くなり、冷たい雨も降ってきました。
沖縄に台風15号が近づいているというのはラジオで聴いていましたが、早くもその影響なのか?それじゃ、明日高千穂の峰に登れないじゃないか。
たかが7kmの道がずいぶんと時間かかり、高千穂川原に着いたのは夜8時、霧も出ていてぽつんと灯る自動販売機の明かりだけがまるで灯台のようでした。
自販機の三ツ矢サイダーを飲んで一息入れ、休憩所の隣の水飲み場にテントを張りました。
風の吹き込みにくい場所を選んだつもりだったのですが、時々テントが右左に煽られます。大丈夫かな。
晩飯は何を作ったっけな。ご飯炊いてレトルトカレーかけて食べたような気がする。
台風なんてまだ大丈夫だろう、とたかをくくっていたら、大雨になってしまいました。
奄美地方が暴風域に入りつつあるそうな。
びしょびしょのテントを畳んでいたら、7時半ころにビジターセンターのおじさんが出勤してきて、
「山には登らないでしょ?」
「今日は無理ですよね」
「今日は危ないからね」
とのこと。くそう。
仕方ないので、ビジターセンターの展示を見て、霧島登山のマップを見て、気分を紛らしました。
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高千穂河原
高千穂河原は、1000年前まで霧島神宮の社があったところで、これまた噴火で焼失し、現在の場所に移動したそうです。火山信仰の悲しいさだめですな。
土砂降りの中を神宮跡地を見物し、小林市方面に向かって出発。
突風でよろけたり、上り坂でひいふう言ったり、しんどい道でした。
ゴアテックスの靴も役に立たず、靴下がすぐタプタプになります。防水スプレーしてないからか?それじゃ防水素材の意味がないじゃないか。
大浪池くらいには登ってみようかなとも思っていたのですが、気力がなくなって、登山口のトイレで休憩しただけで通り過ぎてしまいました。
ふたたび宮崎県に戻り、えびの高原に入りました。ここは雲仙の地獄に似て、剥き出しの岩場にゴボゴボと熱湯が噴き出ておりました。
ここから小林市まで一気に下り坂になるのですが、こんどはブレーキが利かず、しんどい思いをしました。福岡でシューを替えたのですが、いつのまにかすっかり磨り減ってしまって、雨という状況もあいまってブレーキがほとんど役に立たないのです。
これでもかというほどブレーキを握り締めたせいで、腕がしびれてしまいました。やれやれ。
えびの高原から下ったところにあるのが生駒高原。ここで『珍日本紀行』モノを発見してしまいました。「日本一怪しい公園」と自称する、個人経営の変な場所です。
「木登り豚」とか「ナントカだるま」とかいう変な人形やからくり細工が陳列してあって、玄関には
「人間はいいな、うれしいときに笑えるから、人間はいいな、悲しいときに泣けるから」
などと、妙にしめっぽい「木登り豚のうた」が掲げられています。
こういうスポットはしっかりチェックすべきなのでありましょうが、大雨の中ずぶ濡れで疲れていたのと、入場料を取られるらしい(300円)ことと、本当に怪しくて不気味だったこととで、中に入ることもなく、外の写真も撮ることもなく、
「ああ、これが、例のあれね。まだ潰れてないのね。よかったよかった」
と独り呟いて、さっさと通り過ぎてしまいました。
小林市のコープの駐車場で一休み。雨はときどき止みますが、すぐにまた強い風とともにぶりかえしてくるのでウンザリします。
駐車場を出入りするおばさんたちの車に気を使いながら、高千穂の峰山頂で食べるつもりだったおむすびを食いました。
小林から椎葉までの国道265号は、かなり山の中を通る予感。コープで食料を買い込み、ついでに長袖のシャツも買って、トイレで着替えました。少しは人並の姿になったように思います。
自転車屋にもドコモショップにもよらず、雨の中を国道265号へ突入。
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陰陽石
途中、陰陽石で一休み。これも『珍日本紀行』に載っているのですが、要はでっかい男根岩です。
近くに女陰岩もあるようなのですが、ぼくの立った位置からはどうもよくわかりませんでした。
この陰陽石は「竜岩」という別名もあって、天に昇ろうとした竜が、美女を見て石と化したという伝説があるそうです。
確かに、天に向かって鎌首をもたげている竜(蛇)の姿にも似ています。
「竜岩」としてキャラクター付けすれば、照れ屋な竜の伝説が残る岩、ということで済むはずなのですが、地元の人達はあえておげれつ路線を強調したいらしく、見物道にはさびれた土産物屋や、つぶれた「お色気博物館」、とりあえず作った陰陽神社などがあって、哀愁を漂わせていました。
陰陽石の駐車場でブレーキの調節をしたら、なんとか効くようになって一安心。
台風の中をいつまでも頑張って走る気にもならないので、今夜は小林市の隣、須木村で寝場所を探すことにしました。
観光施設の周辺や川端の公園などを物色しましたが、強烈な風をしのげる場所はなかなかみつかりません。
最終的に、グラウンドのダグアウトにもぐりこむことに決めました。近くに水道もあるので、ばっちりです。ベンチを移動してテントを建てました。
台風なら、グラウンドを利用する人もいないでしょう。
大雨大風の中、調理をするのも面倒だったので、パンやなんかを適当に食い、焼酎を飲んで寝てしまいました。
奄美で遭遇した台風7号以来の、キョーレツな雨と風でした。
グラウンドの向こうから、雨をはらんだ突風がこちら目がけて波状的に突進してくるのが目に見えます。
三方に壁のあるダグアウトの中にも雨風はどかどか吹き込んできます。今にもテントポールが折れそうだったので、ポールの留め金を外し、ぺしゃんこテントにくるまって夜を明かしました。
朝までにテントの中は水浸しになり、シュラフもしっぽりと濡れそぼっていました。濡れたシュラフほど心細いものはありません。
これはどうやらテントを建てた位置が悪いのだろうと、ダグアウトの反対側の隅にテントを建て直し、ベンチを重ねてバリケードを築きました。
今日は自転車で移動するなんて論外です。
台風15号は屋久島種子島を暴風圏に巻き込み、九州は警報のオンパレード。宮崎県内も全域で暴風大雨洪水警報が出ているとのこと。
こうなったら、ひたすら台風が過ぎ去るまで耐え忍ぶのみです。
朝飯は、焼きそばの生麺を沖縄ソバ風にして食いました。
晩飯は少し早めに5時ころ、ご飯を炊いてマグロの味付け缶とみそ汁をおかずにして食いました。
台風以上の災難は、ここから始まりました。
いわゆる「便意」を催して、近くの公衆トイレに行ったら、トイレにカギがかかっていたのです。
昼間は開いていたのに。どうやら、夕刻になると戸締まりをしてしまう決まりになっているようでした。
近くの河川公園にも公衆便所があるのを思い出して、雨が小降りになったのを幸いにひとっ走り行ってみることにしました。
実は、シャツが濡れて腹が冷えたのか、少し下痢気味な感覚だったのです。
かなりセッパつまりながら自転車をフルスピードで漕ぎ、公園のトイレにかけつけました。
悪い予感は的中するもので、ここもしっかりドアにカギがかかっておりました。
夕方だからってカギ締めちゃうなんて、公衆便所の意味がないじゃないか!
と泣いてみてもどうなるものでもありません。トイレが使えないとなると、ますます便意は募るもので。
背に腹は代えられず、近くの橋の下の草むらにかけこみました。
いや〜、自転車旅を始めてはや五カ月、去年の四国行きを含めれば延べ八カ月の宿無し生活を送ってきたぼくですが、「のぐそ」というのは初体験でした。
本当は、穴を掘って、その中にして、あとでちゃんと土をかぶせるというのがマナーだと『完全野宿マニュアル』で読んだ覚えがありますが、草むらだったし道具もなかったので、そのままやっちゃいました。
案の定軟便で、色は…あんまり詳しく報告するのはよくないな。
しかし、野外で行うと、人糞が、犬や猫のそれなどとは桁違いに「臭い」ものだということを実感しますね〜。
ティッシュも持ち合わせなかったので、近くにあった葛の葉で拭きました。つるつるすべってしまい、うまく拭けませんでした。
下痢気味だったので、何度か尻を拭いては座り直しました。台風のさなか、田舎の橋の下だったので、他人に目撃されてはいないと思いますが、川の対岸の民家からは丸見えだったと思います。
「あのおっちゃん、あんなところでお尻出してなにしてはるんやろ、なあ母ちゃん?」
「あれはなあ、“のぐそ”ちゅうてなあ、人間はやっちゃあいかんことや。わかったかや、たけひろ」
なんて会話が、あの家の障子の陰で行われていたかも知れません。
現在の教育では「生きる力を育む」などといって体験学習を重んじているそうですが、野糞体験こそ「生きる力」そのものではあるまいか。
他人の目の前でも堂々と脱糞できる勇気、尻を拭きやすい葉っぱを見分け方る知恵、などなど、学び甲斐があるぞう。
豪雨の中、何分間しゃがんでいたことやら、よく覚えておりません。
ようやく腸が治まって、少しシクシク感の残る肛門をかばいながら、高揚感とも敗北感ともつかぬ気分をかかえたまま、テントに戻りました。
靴や服が汚れていないかを確認し、あらためて下半身を拭いてから、テントに入りました。
二度と腹を冷やさないよう、お腹をかばいながら寝ました。
須木村のグラウンドのダグアウトで迎えた二日目の朝。
空はドンヨリ雲で、昨日ほどではありませんが、時々思い出したようにドカ雨がやってきます。
今まで同じ場所での連泊は二泊が限度だったのですが、さて今日はどうしたものか。
なんやかんやで吹き込んだ雨のせいで、テントの中はジトジト状態。どう考えても、このテントの床の生地は親水性としか思えません。
出発しようか、もう一泊しようか決断がつかぬまま、荷物をバッグに詰め、テントを解体して水気などをふき取っていましたが、結局ここにもう一泊することに決めました。
昨日のように強烈に雨が吹き込むこともなく、テントを軽く乾かして建て直すと、床面の水気もある程度とれました。シュラフも少し干したら、だいぶ弾力が戻りました。
朝飯はみそ汁とカレー。
近くのトイレ(こいつさえ使えれば昨日あんなことにはならなかったのに!)の屋外コンセントを借りて機材の充電。携帯の充電も試みましたが、やはりできませんでした。
だぶだぶのカッパを着た男の子が、白い子犬を連れて遊びに来ました。
「これ、君の犬?名前はなんていうの?」
「チロ」
と聞いたように思ったのですが、「シロ」の聞き間違いだったかもしれません。
子犬は好奇心旺盛なうえに食欲も旺盛で、ぼくのテントにやってきて、昨日のマグロ缶をべろべろ嘗め、それでも飽き足らずぼくの口まで嘗めようとします。ほっといたら喉に手を突っ込みそうな勢い。
男の子も、どういうわけかぼくのテントの近くから離れないので、少し話をしました。
「昨日の台風、すごかったよね。ぼくのテントも壊れるところだった」
「うちに戻らないの?」
「旅してる最中だからね。君は何年生?」
「一年生」
「夏休みの宿題は済んだ?」
「休みの最初のうちにやっちゃった」
「おっ、えらいな。どっか旅行に行った?」
「野尻の遊園地」
「あ、知ってる。カエルがいっぱいあるとこだろ。ぼくも何日か前に寄ったぞ。プールとかゴーカートとかあるんだよね」
「うん」
「他にはどっか行った?」
「ううん」
「じゃあ、なにしてたの」
「うーん…」
「自由研究とか、ないの?」
「ない」
「ラジオ体操は?」
「場所遠いから」
「行かなくていいの?」
「うん」
口数の少ない子供としゃべるのは難しいですね。ぼくの旅行体験でも喋ってやればいいのかもしれないけど、訊かれもしないのに喋ってもしょうがないし。
そのうち男の子はチロに
「ガウ!ワウワウ!」
と叫んでじゃれあいながら、どこかへ消えていきました。
次に現れたのは、野球のユニフォームを来た小学生二人。三年生くらいかな。
気配を察してぼくがテントから顔を出すと、先に
「こんにちは」
とあいさつしてくれました。
「こんにちは。これから練習?」
「中止って連絡来ないから、一応来てみたんだけど」
「いつもは何時から?」
「4時から」
「じゃあもう時間だね。練習始まると、ここにテント張ってるって邪魔かな」
「うん、ちょっと。…この向こうに“世界の山小屋”ってのがあって、そこに平らで屋根のあるところがあるから、そこがいいと思います」
「そっかあ(うう、めんどくせえ…)」
「他に誰か来ませんでしたか」
「朝方、犬連れた男の子が来たけど、他には誰も」
「まあ、こんな雨じゃやらないとは思うんだけど…」
「でも、この雨で練習したら強くなるね。チームは何人いるの?」
「22人」
「へえ、けっこうたくさんいるんだ(こんな田舎のくせに)」
などと喋っていると、駐車場の方に車がやって来ました。男の子の一人が車に走っていき、戻って来て
「先生もいないし、監督も電話通じないって」
「そっか。じゃあおれは帰るわ。(ぼくに向かって)さようなら」
ぼくも
「ちょっと安心した。さよなら」
テントの中でノートに落書きしたり、ロウソクで火遊びしたりしているうちに夜になりました。走っても走らなくても、どんどん日は過ぎていきます。
テントの中で寝返りを打ちながら、
「そーいや、去年の今頃は、社長との間で退職金だの有給休暇の消化だのでシビアな状況だったんだなあ」
と感慨深く思ったりしました。
台風は長崎の西を通過しているとのことで、風雨の来る頻度も減って来ましたが、宮崎県の山間部はまだ大雨洪水警報が解除されていません。
気になるのは、国道265号が西米良付近で通行止になっているという情報。椎葉まで行けるかしら。
ああ、もう9月。早いなあ。いつになったら九州を抜け出せるんだろう。
台風15号は朝鮮半島に上陸したんだそうで、曇りがちながら穏やかな朝になりました。
飯を炊いてふりかけをかけて食い、ぼちぼち荷造りをしていると、野球少年たちがどやどやとやってきて、グラウンドの整備を始めました。
昨日の野球少年たちは濃紺のユニフォームでしたが、今朝の彼らは白です。きっと別のチームなのでしょう。
大慌てで荷造りをしてテントを畳み、グラウンドを後にして振り返ると、昨日来ていた濃紺のユニフォームたちがグラウンドに入ってくるところでした。
ちょうどのタイミングだったのか、ぼくがどくのを待っていたのか、その辺は分かりません。
国道265号を西米良村方面に少し走ってみると、案の定「崩落のため通行止」の表示が出ていました。効率のいい迂回路があるのかもしれませんが、ぼくの手元の地図は主要国道が載っているだけのものだったので、この際は綾町に下り、西都市方面に迂回することにしました。
狭い県道は台風の後で木の枝葉が散乱し、路肩から流れる水をタイヤが跳ね飛ばすのでぼくの下半身はびしょぬれになりました。
綾町役場の隣の観光施設で歯磨き、洗顔。ようやく日が出て来たので、気分転換にアイスクリームを食うことにしました。
焼酎シャーベット(200円)。焼酎の甘味部分だけを強調したような味でした。ぼくとしては、もっとアルコールが入ってたらよかったな。
しばらく食べ進むと、冷たさにまぎれて焼酎の香りが分からなくなり、ただのシャーベットを食べているようでした。
たまっていた日記を打って送信。携帯がバッテリー切れなので、PHSでしか送信できません。
いつのまにかもう3時。近くのAコープで食パンと白身魚フライを買い、西都市への途中のゲートボール場でサンドイッチにして食いました。
西都市に入ると「西都原古墳群」の標識が。詳しいことは知らないのですが、名前は聞いたことがあったので、今夜はそこで寝ることにしました。
古墳群の手前で自転車の後輪の調子が悪くなり、やがてガタガタと車輪が揺れ始め、今にも脱輪しそうな気配。
自転車を押して歩き、日没ころに古墳群へ着きました。だだっぴろい台地のうえに、芝生に覆われた古墳がポコポコしています。
古墳というよりほとんどゴルフ場です。
まるでキャンプをしろと言わんばかりの芝生なのですが、見通しが良すぎるところは嫌なので、「女狭穂塚」という大きな古墳の広場の木の陰で寝ることにしました。
近くの公衆トイレには、洗面台のところに
「手と顔と足以外は洗わないでください」
との貼紙。足は洗ってもいいんだねえ。
晩飯はチキンラーメンで済ませました。
明日は、壊れた自転車と携帯電話をなんとかせねばなりません。
山の中で自転車が壊れていたかもしれないこと考えると、国道265号が通行止で、かえってよかったかも知れません。
いずれにせよ、ギヤが半分死んでいる現状で、最難関の九州山地を走るのはかなりキツイものがあります。
あした、近所にまともな自転車屋がみつかるといいのですが。
朝ラジオをつけたら、長野県知事選挙で田中康夫が圧勝したとニュースされていました。
まあ、そうなるだろうとは思っていましたが、一方で「ハシバヒデヨシ」という人が立候補していたというのを知って、もしぼくが地元にいたら、この人に投票してたかもしれないな、と思いました。
ラジオなのでヒデヨシさんの漢字はわからないのですが、「羽柴秀吉」だったのだろうか。ポスターではちょんまげつけて写ってたのだろうか。すごく興味があります。
田中康夫さんは、べつに嫌いではありませんが、あの気持ち悪い喋り方と、でぶな体型をなんとかしてほしいです。
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西都原古墳群
朝飯はこれまたチキンラーメン。健康を捨ててるな、おれ。
朝から日が照ってきたので、これ幸いと台風で湿っていたシュラフや衣類を乾かしました。乾くまで暇なので、繕い物をして、靴下の穴を塞いだりしました。
市役所の人達でしょうか、芝刈機に乗ってばりばりと芝を刈っています。
運転のおじさんが芝刈機を停め、
「兄ちゃんどっからきた」
といつもの会話。
乾いた衣類をリュックに詰め、台地を下って西都市内へ。ドコモパルを見つけたので、携帯のバッテリーの故障について相談してみました。
店のおじさんがいうに、この機種は部品もすでに製造停止で修理は不可能なこと、買い替えにはドコモのポイントを使えば安く済むが、お客様(ぼく)はドコモ東日本で契約しているので、パルではなくショップでないと買い替えできないこと、最寄りのドコモショップは高鍋町までいかないとないこと、を教えてくれました。
予測してはいましたが、四年前に買った機械がすでに修理不可能という状況は、なんか間違っちゃいませんかね。
壊れてもいないのに、「型が古いから」ってだけで買い替えたがる消費者もけしからん。
iモード機能は今や必要不可欠だとしても、何和音もの着メロなんて、意味あるんですかね。ぶつぶつ。
次は自転車屋です。電話帳を調べたり、観光案内所でマップをもらったりして市内をさまよい、ようやく一軒、自転車屋を発見しました。
MTBやレーサー用の自転車も売られていて、それなりに頼もしそうな店構えです。
店のおじいさんに事情を話すと、
「わかったわかった。一時間くらいかかるけど大丈夫かな」
とのこと。その程度で直るならこちらとしては何も文句はありません。店内の椅子に座り、おばさんが出してくれたお茶とキットカットをつまみながら、自転車雑誌などを読んで待つことにしました。
自転車の雑誌の表紙は、ビキニのおねいさんがMTBにまたがってほほ笑んでいる写真です。そんな格好で自転車に乗っちゃっていいんかいお嬢さん。おじさんサドルになりたいよ。
読者が男性中心だからって、こんなとこにまで水着女を出さないと売上が伸びないんですかね。
ぼくが待っている間にも、客足はひっきりなしです。油を差してくれと頼みにくる女の子や、タイヤがパンクしたおじさん、空気ポンプを買いにくるおじいさんなど。
やがて、本格的なウエアに身を固めた若者が二人、「こんにちはー」とやってきました。
店のおじさんやおばさんと親しげに話しているところを見ると、どうやら常連さんらしいです。何か修理でも頼みに来たのでしょうか。
いかにも本格的なサイクリングをしている人に対して、ぼくはなんとなくコンプレックスがあるので、軽く挨拶しただけで、話しかけませんでした。
少し固い雰囲気のところへ店長がやってきて、
「こちら宮崎大学のサイクリング部の皆さん。こちら、長野県から五カ月かけてやってきた旅人さん」
とぼくらの間を取り持ってくれたので、一転して会話が生まれました。
「宮崎に来て、食べ物の印象はどうですか?」
「うーん、いつもレトルトカレーとか、ラーメンばっかりだからなあ」
「宮崎は地鶏がおいしいんですよ。ぼくは延岡の出身なんですけど、なじみの自転車屋の隣の鳥金(だったかな)っていう店がうまいんですよ」
「へー。延岡には行かないんだよ。椎葉とか高千穂の方に行こうと思ってるんだ」
「椎葉はね、秋のお祭りのときに行ったことがありますけど、牛肉の串焼きがうまかったですよ。串がこんなに長くって、たった100円なの」
「へえ。うまそうだなあ。ぼくも焼酎なら地元のをよく買うぞ。いつもパックだけど。宮崎って芋焼酎しか売ってないよね」
「そんなことないですけど、まあ芋が多いですね。宮崎県の焼酎は度数が少ないんですよ。他の県では25度くらいあるのが、宮崎では同じのが20度で売られてるんですよ。こっちの人は焼酎を割らずにロックとかで飲むんで、そのへんメーカーも考えてるんですね」
「ああ、そう言われてみるとそうかもしんない」
「ぼくも中学生のころ、福岡へ仲間と一緒に旅に行ったことあるんですよ。公民館に飛び込みでお願いして泊めてもらったり、集会所でおじさんたちが宴会してるところに行って晩ごはん御馳走してもらったり、楽しかったなあ」
「部では長旅しないの?」
「今度五人ほどで宮崎一周する計画なんですよ。テント持ってった方がいいですかねえ」
「うーん、雨、虫、プライバシーという点では、持ってった方がいいと思うけど」
「二人用のテントが二つあるんですけど、残りの一人をどうしようかって困ってるんですよ」
「一つのテントに三人重なって寝たら?」
お店のおばさんが冷えたポカリスエットの1.5リットルボトルを持って来てくれ、飲み放題。
ここの自転車屋は、お店の人が気さくなので自転車人たちの溜まり場になっているのだそうです。
店長さんが「一応終わりました」と声をかけてくれたので行ってみると、わがコルド丸は後輪を中古のリムに取り替えられ、頼んでいなかったのに右ペダルも取り替えてくれていました。
「ハブがもう完全に駄目になっててね、こんなんでよく長野からこれたもんだ」
修理をしてくれたおじいさんが言っておりました。
ついでにブレーキシューの予備を買い、お店の人にお礼を言い、学生さんたちと別れました。
向かいのデパートの食品売場で昼飯(ヨーゴと食パンとサラダ)を買い、都万神社の境内でサンドイッチにして食べました。
通りがかったおばあさんが、
「あらまあ長野から。田中さんが大変ですねえ。古墳の方には上られました?ぜひ行ってくださいよ。気をつけてねえ」
と言ってくれました。
都万(つま)神社はニニギの妃、コノハナサクヤヒメを祭っています。大山祇命(山の神)の二人娘のうち、美人な妹の方です。
『日本の神々』によれば、神様が社地の近くの土の中から男女二人を掘り出し、この子孫が現在の神主家だという伝説があるそうです。
拝殿にはバリバリに錆びた刀が奉納されていました。これは宝徳二年(1450)の銘があり、全長3.57mで日本一長い太刀なのだそうです。
観光協会でもらったパンフレットの中に、「記紀の道」と題するマップが入っていました。
読めば、西都市内のこのあたりには、天孫ニニギとコノハナサクヤにまつわる伝説が多く、それを巡るコースが出来ているということだったので、そのコースに沿って走ってみることにしました。
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八尋殿跡
コノハナサクヤが水汲みをしていてニニギと出会った「逢初(あいぞめ)川」や、二人が御殿を建てて住んだ跡という「八尋殿」、などなど。
ニニギの御殿というのは、薩摩半島の先っぽにもあったなあ(日記7月3日参照)。
どれも小さな川や空き地ばかりで、これが日本神話の舞台かと思うと、そのショボさにがっかりしてしまいます。
八尋殿など、農家の裏にある猫の額ほどの草地で、こんな狭いところに天孫がお住みになっておられたとは、宮内庁もびっくりです。
でも、コースの一番最後はゆうべ泊まった女狭穂塚で、これは全長174mの巨大古墳なのです。
こんな立派な墓の主が、あんなみすぼらしい小川に水を汲みに来ていたなんてどうも納得がいきません。
西都原資料館にもちょっと寄ってみましたが、案の定月曜で休館していました。
思いがけず丹念に西都市内を探訪してしまった後は、夕方にAコープで米だの酒だのを買い込んで、
今夜は椎葉へ向かう国道219号沿いの杉安川中島公園の駐車場でテントを張りました。
もう目の前には幾重にも重なった山並がそびえ、明日からは本格的な山越えです。
晩飯は、鳥肉とキャベツのサラダ(?)丼でした。
朝飯は、キャベツとニンジンと鳥肉を入れた煮込みうどん。
テントを畳んでいると、近所のおじいさんが話しかけてきました。
長野県から来たというと、すぐ田中知事の話題になります。それから、
「長野も山奥だろう。戦争に行ってたころ、兵隊の中に長野から来た人がいてね、『長野の山奥には平家の落人がいるんだよ。よそから来た人に「源氏はいまどうしている」と尋ねたって話だ』
なんてことを言っていた。
長野ではまだ人が足を踏み入れたことのない場所があるらしいね。谷が十字に切れ込んでいるところなんかは、人が入れないものだから航空写真を元にして地図にするしかないんだそうな」
と、ぼくも聞いたことのないような話をしてくれました。
一ッ瀬川に沿って、国道は山の中へ入っていきます。修理がすんだ自転車は、ひさびさに快調です。
普通にギヤを切り替えられるありがたさ。自転車屋のおじいさんはブレーキの調節とオイル差しもしてくれたようで、ありがたい限りです。
一ッ瀬ダムで汗に濡れたタオルやTシャツを絞り、水をたらふく飲んで再出発。この辺までくると、国道もだんだん幅が狭くなってきます。
途中、銀鏡(しろみ)神社に寄りました。大学時代の卒論研究のとき、神楽や狩猟儀礼の「シシトギリ」が伝わる神社として名前を覚えた神社です。
観光マップには「眼鏡神社」とまぬけな誤植がしてありました。
神社で昼飯(食パンにキャベツと魚肉ソーセージを挟みマヨネーズをつける)を食い、いよいよ本格的な峠越え。
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イワタバコ
真夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ暑くてしんどかったです。
途中、苔むしたブロックの壁にイワタバコが群生して紫色の花を咲かせておりました。
山野草として人気のある花だと、会社員時代に教え込まれていたので、ついつい写真などを撮っていたらあっというまにデジカメのバッテリーが無くなってしまいました。
峠を越えて南郷村に入り、渡川ダムに沿ってくねくねした県道を走ります。
今日二度目の峠道となり、うんざりしてしまいましたが、道端に清水が湧いており、「長寿十訓」の湯飲み茶碗が置かれていて、ありがたかったです。
沢の水はやっぱりうまい。
南郷村の中心部に入ったのは午後5時近く。
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峠から南郷村を見下ろす
神門神社という神社の横に「百済の里」とか「西の正倉院」などという、資料館のようなものがありました。受付兼売店のおじさんに訊くと、閉館時間まぎわなので、今から入るともったいないよ、とのこと。
仕方ないので今夜は付近に泊まり、明日の朝出直すことにしました。
自転車で野宿旅行しているというのを聞くと、おじさんはずいぶん感心しておりましたが、近くの大駐車場ならトイレもあるし、そこで野宿するといいよ、と教えてくれました。
近くのAコープで買い物して、教えられた駐車場に行きました。
まだ日が残っていて、子供たちが遊んだりしているので、土手に座って日記などを打っていると、パジェロミニが入ってきました。車から降りてきたおじさんが
「ここで野宿かい。晩飯一緒に食べないか」
と声をかけ、アスファルトの上に弁当を広げ始めました。
車のナンバーを見ると、高知です。
「お仕事ですか」
「まあ、仕事、かな。ぼくは天理教の教会にいてね、今回はこっちのほうの教会を回って話をすることになってるんだ。一人で食べてもおいしくないからね、ちょうどよかった」
とのことなので、遠慮なくご相伴することになりました。
天理さん(仮名)はアジのお鮨、同じくマリネ、焼きそばなどを発泡スチロールの箱から取り出し、ぼくにすすめてくれます。
「神様のお下がりだけど、まあ飲みなさい」
と、お酒も注いでくれました。
「わー、日本酒だ。最近焼酎ばっかりで、日本酒は久しぶりですよ」
単純に喜んでしまいました。
「ぼくもねえ、二十ちょっとすぎのころ、歩いて旅行したことあったよ。途中で嫌になって、ヒッチハイクしたけどね」
「ぼくも去年、四国巡りで歩きましたよ」
「そうかい。ぼくの家は四万十川の近くの海岸でね、遍路さんもよくみかけるよ。頑張ってるなあと思ってときどきジュースなんかお接待するけど。遍路したってことは、けっこう宗教に興味あるの?」
「打ち終わってから家に帰って、密教の本なんかちょっと読んでみましたけどね、なんだかわけわからん、というのが正直なところで。
天理教って、教会はたくさん見ますけど、あんまりなじみはないですねえ。一応新興宗教、でしょ?仏教系なんですか?」
「江戸時代の終わりに生まれた宗教だから、もう新興とは言えないと思うけどね。でも、新興だったころの方がよかったと思うよ。いろいろ風当たりは強くても、活気があったからね。今じゃ少しぬるま湯に浸かっているというか、そんな感じだね。戦時中は大変だったんだ。教会をあげて戦争に協力させられたりしてねえ」
「布教活動とかしてるんですか」
「今回も一応飛び込み訪問の準備はしてきたけど、べつに義務でもないしね。天理教はあんまり押し売りしないんですよ。他の宗教に満足出来なかったら、こっちもどうですか、って感じで。創価学会さんなんかと出くわすと、ものすごい勢いで反論されるんだけど、その辺はうちらはちょっと違うよね。
そもそも、どんな宗教を信じたところで、病気が治ったり、不幸が無くなるなんてあるわけないですよ。人生の苦しい場面に直面したときにどんな心の持ちようをすればいいか、それのヒントを与えるのが宗教だと、ぼくは思ってるんだけどね」
そういう考え方をする人とは、ぼくもウマがあいます。
「どうして天理教に入ったんですか?」
「おやじが天理教の教会をやっていたんだよ。別に代々継がなきゃいけないってものではないけどね。ぼくの家系はもともと愛媛の山奥に住んでた平家の落人なんだよ。
子供もなくて今は女房と二人で住んでるけど、ぼくには財産が無いんですよ。家も、車も、信者さんからいただいたお金で暮らさせてもらってる。
今夜も、宿に泊まればその経費が教会から出るけど、それもみんな信者さんが汗水流して働いて、納めてくれたお金だからね。ここでぼくが野宿すれば、その分他のもっといいことに使ってもらえるでしょう。そう思って、寝袋も持って来たんだ」
なるほどねえ。いろんな人がいるもんだ。
「人生は慌てることないですよ。無理せず生きてれば、いいことがある。誰かが棚からぼたもちを落としてくれる。もちろん、時には悪いこともやってくる。でも、すべて神様のおぼしめしだと思いますよ」
「はあ、そうですね。ぼくも今日はぼたもちにありつきました」
「そうか、これはぼたもちか。あっはっは」
辺りに街灯がなく、ぼくと天理さんは暗くなるまでそんな話をしました。
天理さんの車の横にテントを建て、もぐりこんだのは9時ころ。
すきっ腹に飲んだ日本酒が効いて、少しこめかみが痛かったです。
朝は雨が降りました。
天理さんは、「朝飯だ」と言って、魚肉ソーセージと清涼飲料水を一缶くれました。
魚肉ソーセージはぼくも持っていたのですが、
「持っているからいりません」
とは言えませんでした。有り難く頂戴し、食いました。
近くのトイレで歯を磨き、近所の天理教の教会に行くという天理さんと別れました。
「西の正倉院」は9時半にならないと開かないので、それまで日記を打って過ごしました。
日記を打っても、こんな山奥ではPHSが使えないので、読者に送れないのですが。
「西の正倉院」というのは、東大寺の正倉院と全く同じ大きさ、同じ設計、同じ技法で作られた建物です。
それというのも、ここの神門神社の神宝として伝わる銅鏡のなかに、正倉院に納められているものと同じ(鋳型で作られた)鏡が含まれているということから、村おこしの一環として、奈良国立博物館などの協力を得て作ってしまったというわけです。
また、南郷村には、唐新羅連合軍に滅ぼされた百済の王様がこの地に落ち延びてきたという伝説が残っています。
百済の禎嘉王とその一族は、白村江の戦いのとき、引き上げる日本軍とともに日本に亡命してきました。
初めは畿内に住んでいましたが、壬申の乱の戦火を逃れて九州へ逃げる途中、船が遭難して日向海岸に漂着し、そこから山を分け入って現在の南郷村の場所にたどり着きました。その禎嘉王を祭るのがこの神門神社なのだそうです。
日本に落人伝説は多くありますが、百済の王様がやってきたとは、ずいぶん古い話です。
「百済の王族」という点が、その辺の平家落人伝説よりも妙にリアルです。
福岡の方には、韓の国からやってきた王子様、ツヌガアラシトの伝説もありますから(日記6月18日参照)、南郷村の伝説にも何らかの歴史的意味があるのかも知れません。ただし、その百済王がこの村でもうけた長男の名前が「どん太郎」だという伝説は、ちょっと雰囲気ぶち壊しなような。
そういうわけで、南郷村は百済の王様のふるさと、韓国の扶餘と姉妹都市関係を結び、韓国風の資料館「百済の館」を作ってしまったのです。
9時半になったので、入館しました。西の正倉院と百済の館、両館共通で750円。どうですかね、この値段は。
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神門神社に奉納された鉾
まず、西の正倉院に。建物ができてもう2〜3年経つというのに、中はまだ展示がすべて揃っておらず、空のパネルもちらほら。
外は奈良正倉院と同じでも、中身まで同価値、というわけにはいきません。
まあ、「正倉院と同じものを建てる!」というその一念で10年の月日と、何億もの金をかけてきたのですから、中身まで手が回らないというのは、よくわかります。自治体のありがちなパターンとして。
ただ、神門神社に何百年にも渡って奉納されてきた無数の鉾はかなりの圧巻でした。
次に、「百済の館」へ。
こっちは、はっきり言って「二代目孔子公園」みたいな感じでした。
百済王伝説は大切にしたいものですが、かといってこの日本の山奥に極彩色の韓国建築を建てられてしまうと、違和感ありまくりです。隣の神門神社の、古びた雰囲気が台なしです。
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百済の館
館内には、昔の百済王族の復元衣装などが飾られておりました。いずれこの服を着たマネキンさんも、孔子公園のマネキン孔子みたいに生爪が剥がれてガムテープで張りつけられるようになるのでしょう。
あとは土産物を売る売店が入っているのですが、韓国のインスタントラーメン程度ならともかく、こんなとこまで来てチマチョゴリを買う観光客がいるのでしょうか。
これで750円。どんなもんでしょうねえ。少なくとも、ぼく以外にはこのとき客はいませんでした。
南郷村はもうこんなもんだろうということで、ついに椎葉村へ向かいました。
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沢伝いに大河内峠へ向かう
国道388号。昼頃から峠道を上り始めたのですが、長かったです。途中、急な坂で自転車を押していると、後ろから来たトラックの運ちゃんが
「こっから峠まであと三時間くらいかかるぞ。乗してってやろうか」
と言ってくれました。
「いや、頑張りますんで」
と有り難くお断りしました。
椎葉村大河内との境の大河内峠は、これまで走ってきた九州ルートの中で一番標高が高かったのではありますまいか。
道幅も、我が地元の下伊那天龍村の悪路、国道418号を上回る狭さです。
道はハードですが、渓谷はなかなか見事だし、ところどころ湧いている清水はきれいでうまい。峠越えの醍醐味はこんなところにあります。
はるか上の方に見えるガードレールを見上げ、
「あそこまで上るんかあ〜」
と嘆息しつつ、峠に着いたのは午後4時すぎ。
そこから一気に下り、大河内で国道265と合流したら今度は飯干峠の上り道。
じつは大河内峠から上椎葉へ直接下る道があったのですが、大河内には何か面白いものがあるのかしらんと、大河内側に下ってしまったのが災いしました。
大河内なんてただの山の中の集落で、面白いものも味のある風景もありませんでした。ただ、スクールバスの窓から子供たちが「さよならあ」と声をかけてくれたのは少し嬉しかったですが。
飯干峠を越えたのはとっくに日の暮れた午後7時。
峠を下ったところの最初の集落の道端の空き地にテントを張りました。
晩飯は、インスタントの焼きそばでも食ったっけなあ。
寝てる間に味噌の袋をケツの下に敷いてしまい、朝起きたらぼくは味噌男になっていました。
パンツやシャツが味噌だらけで、テントの床も味噌まみれ。
こんな味噌臭い姿では人前に出られない、と思いましたが、どうせ山の中だからと、服にこびりついた味噌をあらかたこそげ落としただけで済ませてしまいました。
朝飯はラーメンかなんかだったかな。
ダム湖沿いに上椎葉へ向かいます。
途中、柳田国男が宿をとった家への標識が出ていましたが、どうせ家なんだろうと思って、行きませんでした。
それにしても、椎葉はさすがに山の中です。雰囲気的に、下伊那の天龍村の中井侍あたりの景色に似ています。急な斜面に家を建てているので、どの民家も必然的に横長です。
土産物屋や食堂、民宿などが立ち並ぶささやかな中心部に、狭い土地に無理やり建てたような四階建ての「椎葉民俗芸能博物館」がありました。
椎葉での観光と言えば、これを見るくらいのものでしょう。鶴富屋敷との共通券で430円。
一万円札を出したら
「すいません、千円札を切らしてるんですけど…」
と窓口のお兄さんがおっしゃいます。小銭入れをあらためてよく見てみると、5円玉なども総結集させたらちょうど430円ありました。
椎葉は山の中だから、千円札もあまり流通していないのでしょう。
椎葉村は、熊本県の五家荘の隣村(といってもでかい山に隔てられてますが)で、五家荘に並ぶ秘境として有名です。
現在でも昔ながらの焼畑や狩猟が行われているんだそうで、ぼくの九州旅行の大きな目的地の一つでもあったのでした。
椎葉を有名にしたのは柳田国男の「後狩詞記(のちのかりことばのき)」ですが、江戸時代から『西国奇談』などという本に紹介されているあたり、『遠山奇談』の長野県遠山地方とも何か通じるものを感じます。
椎葉村にも、平家落人伝説がありました。
平家追討のためにこの地にやってきた那須与一の弟、那須大八郎宗久が、平家の姫「鶴富姫」と恋仲になり、現在もその子孫が続いて椎葉には「那須」姓が多いという話です。
五家荘には那須与一の息子と平家の「鬼山御前」の恋物語がありましたが(日記6月27日参照)、こうした伝説はムラ同士で張り合ってデッチアゲているようにしか思えません。
博物館の展示内容は、村営のわりにけっこう力が入っていました。
椎葉神楽の展示などを見ると、九州も三信遠も変わらないなあ、とつくづく実感します。
元になっているのはどちらも修験道なのでしょう。神楽発達の歴史、とくに修験道との関係がぼくにはいまひとつよく理解できていないのですが、こーいう複雑な紙細工や、採り物や、舞などを、修験者たちはどういう理論に基づいて作り上げていったのかなあと思うと、もう少し本でも読もうかという気にもなります。
博物館では神楽関係の他にも、狩猟関係のビデオが充実していました。椎葉は狩猟儀礼の宝庫ということで、宮崎テレビやNHK、それに行政などがそれぞれ番組を作っているのです。
猪の牙に腹を割かれて、腸をはみ出しながら苦しんでいる猟犬の映像などは、なかなか面白い。
さらに、椎葉は民謡の宝庫ということで、村内に伝わる民謡を集めた二枚組のCDも売られていました。CD作れるほど民謡が残ってるってのもたいしたもんです。
博物館の別館では、「後狩詞記を読み直す」とかいうタイトルで企画展(の、ようなもの)が開かれており、当時の村長に宛てた柳田の書簡などが展示されておりました。
柳田が椎葉を訪れたとき、彼はすでに偉いお役人様だったわけですが、そのころ(明治の終わりころ)はまだ椎葉に車も舗装道路もなかったでしょうから、柳田先生みずから、あの峠道を歩いたということなのでしょう。たいしたもんだ。
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鶴富屋敷
共通券で入れる鶴富屋敷は、鶴富姫がお住まいになっていたお屋敷です。その子孫の那須さんは、屋敷の隣で民宿と売店をやっていました。
昼飯も食わずに博物館見学をしていたらもう午後3時。
Aコープで稲荷寿司とクリームパンを買って国道沿いの滝のほとりで食い、次に目指すは高千穂町です。
椎葉から五ヶ瀬に通じる国道265号は、切り立った渓流に沿ってくねくね走る道です。
ところどころ狭い箇所はありましたが、国見トンネルという全長3km近い立派なトンネルができていたので、峠越えせずに済みました。
蘇陽町のはしっこをかすめて国道218号へ。今夜は五ヶ瀬町の国道の道路わきにテントを建てました。
晩飯は、インスタント焼きそば。ピーマンを入れたので少しは健康的です。
朝飯はご飯を炊き、おかずは貝缶にみそ汁。
漕ぎ始めてすぐ、高千穂町に入りました。
稲田ははやくも黄色く色づいています。きれいなんですが、もうこんな季節かと、なんだかせきたてられるような気がします。
高千穂は天孫降臨の地と言われているらしいのですが、霧島の高千穂峰とどっちが本家でどっちが元祖なのでしょう。
ケンカにならないのかな。たとえば、もしキリスト生誕の地がいくつもあったら、きっと地方間、教会間で争いになると思うんだけど。日本はいいかげんで結構です。
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バス堂の彩色石仏
高千穂で目についたのは、バス停とお堂が融合した「バス堂(勝手に命名)」。屋根つきのバス停の奥に棚が設けられ、彩色された石仏が安置されているのです。
石仏は、大師像や馬頭観音が多いです。おしろいを塗ったかわいい仏様もいて、なかなかよかったです。
高千穂峡は、ツアー客でゴッタ返しておりました。
確かにきれいな景色の場所ではありましたが、実際に見たときの感動は、風景の美しさに対する感動というよりも、写真と同じ風景に出会って
「ああ、ここがアレか。ほんとだ、写真そっくりだ」
という感動です。
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高千穂峡
たとえれば、トランプの神経衰弱で、同じ札を見つけたときの喜びに近い。
神武天皇のお兄さんを祭る高千穂神社にお参りしたあと、駅前の保存古民家の縁側で手製サンドイッチの昼飯。
高千穂地方の民家の屋根には、神社みたいな千木がついている、というのを本で読んだのですが、現在の民家はどれもフツーに今時の建物ばかりで、昔ながらの千木が見られるのはこの古民家だけなのでした。
高千穂では500円で夜神楽を見られる、と日記読者の方から聞いていたのですが、手に入れた観光パンフを見て観光課に確認してみると、毎晩8時から行われており、予約も必要ないとのこと。毎晩客が入るってことなんですね。たいしたもんだ。これは行くべきでしょう。
今日は高千穂泊まりなので、まだ時間は十分あります。
次に行ったのは町立資料館ですが、横穴式墓の模型が臭かったこと以外は、さして印象に残っていません。
次に行ったのは[木患]触(くしふる)神社。この神社の裏山に天孫ニニギが降臨したと『古事記』に記されているらしいのですが、霧島の高千穂峰に比べてスケールちっちゃすぎ。近くには、ニニギが故郷を拝んだという「高天原遥拝所」や、神武兄弟が生まれたという「四皇子峰」などがありましたが、どれもちょっとショボかったです。
ただ、降臨した里に水が無いので、神武が高天原から水を持ってこさせたという「天真名井」は、でっかい木の根元に泉があって、けっこうカッコよかったです。
ぼくは井戸好きなのかもしれない。
四皇子峰を見ているとき、古墳時代の衣装に身を固めたおっさんが、数人の男女を引き連れてやってきました。首には曲玉の首飾りまでして、身も心も神様気分(?)。
ただ、足元を見ると普通の革靴だったりするのが、徹しきれてなくてかわいかったです。
一行はどこぞの視察客で、神様姿のおじさんは、きっと商工観光課の係長でしょう。一生懸命史跡の解説をしておりました。
天岩戸神社に向かう道からは、棚田がきれいに眺められました。
自転車を停めて写真を撮っていると、一輪車に草を一杯積んだおじいさんが、がたんと一輪車を置いて、ぼくのところに近寄ってきました。
ぼくよりも汚い服をだらしなくきこなして、汗まみれの胸板がにおってきそう。ぼくよりもデッパで、しかも門歯の片方は抜け落ちています。まるで妖怪のような面相のおじいさんなのでした。
片目をつぶっているので、
「隻眼?もしかして、山ん爺!?」
と思いましたが、どうやらどちらか片方しか目を開けていられない、変わった癖のおじいさんのようでした。日が眩しかっただけかな?
おじいさんは、口を泡でいっぱいにして、何やら一生懸命ぼくに話しかけてくるのですが、これがまた全然聞き取れないのです。
訛りがきついというよりも、ドモリなのでした。
それでも、何度も聞き返して、会話してみました。おじいさんは、あんたは暴走で警察につかまったことはないのかとか、長野にはパチンコ屋があるのかとか、なんだか脈絡のないことばかり訊いてくるので、こちらも理解するのにずいぶん苦労しました。
というか、実際はほとんど理解できていなかったのでしょうが。
おじいさんは「天岩戸神社まではまだ三時間かかる」と言っていましたが、実際には十五分で着きました。ぼくの聞き違いだったのかな。
天岩戸神社は渓谷の崖の上に社殿があって、対岸の「天岩戸」と称する洞窟を御神体としています。天岩戸は禁足地なので、遥拝するのにも、神社に申し込んで案内してもらわなければなりません。金がかかりそうだったので、申し込むことはしませんでした。
「天岩戸」はご存じのとおり天照大神が須佐之男命の乱暴に耐え兼ねて閉じこもってしまったとされる洞窟です。天岩戸騒動は高天原で起こったことのはずなのに、なんで天孫が降臨した下界にあるのでしょう。それも、天孫の降臨地から10kmと離れていません。
逆に言えば、たかが天岩戸の近所の小山に降りるために、神々はオオクニヌシやタケミナカタとずいぶん悶着していたわけで、はたから見ると
「おまえらアホか」
と言いたくなります。
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天安河原
悪口はそれくらいにして、天岩戸神社から500m離れた「天安河原」は、なかなかブキミな雰囲気の漂うステキな場所でした。
渓流の崖下に開いた洞窟に社が設けられ、その回りには小石がたくさん積まれています。アマテラスを天岩戸から引き出すために、神々が相談をした場所と伝えられているそうですが、どちらかというと賽の河原の雰囲気です。
せっかくなので、ぼくも自分の石を積んでみました。
天岩戸神社から町の中心地に戻る途中、夕立にでくわしました。バス堂の一つに入って雨宿りし、小降りになってから外に出ると、大きな虹が架かっていました。
スーパーで買い物して、昼間目をつけていた体育館横の東屋に行くと、先客の旅人さんがおりました。真っ黒に日焼けした若者です。大学生でしょうか。ぼくと同様の自転車野郎です。
「どうも、お邪魔していいですか」
というと、ヒヤケ君(仮名)は
「どうぞどうぞ。体育館の事務室に行くと、許可してくれますよ」
と教えてくれました。
「へえ、じゃあちょっと行ってきます」
事務室のおじさんにわけを話すと、「公園内キャンプ申し込み書」に必要事項を記入し、身分証明書をコピーされることでOKとなりました。金もとられません。
旅人たちのことをちゃんと想定しているのでしょう。なかなか話の分かる施設だ。
東屋に戻り、ヒヤケ君(仮名)に
「晩飯はどうします?」
と訊くと、
「飯炊いて、みそ汁でも作ろうかなと思ってるんですけど」
とのこと。
「ぼくもこれから飯作って、8時からの夜神楽見にいくんで、なんでしたら一緒に炊きますよ。おかずもありますから」
「そうですか?ありがたいです」
ということで、ぼくは二人分の米を炊いて、晩飯作りにとりかかりました。ヒヤケ君には、二人分のみそ汁を作ってもらうことにしました。
「干しシイタケしかないですけど」
「あー、みんな持ってるんだなあ。干し大根葉提供するよ」
「そうだ、干しホタテもあります」
「そりゃ豪勢だ」
晩飯は、トリの手羽先の網焼きと、里芋の煮物。今日は珍しく手の込んだ料理になりました。偶然なんですけど。
「トリ、焼けてなかったら言ってよ」
「大丈夫です。ああ、なんだかいつもの食事みたい。幸せだなあ」
ヒヤケ君は喜んでくれている様子でした。
ヒヤケ君の作ってくれたみそ汁は少ししょっぱかったですが、ぼくもとやかく言える立場にはありません。
飯を食いながら話したところによれば、彼は島根大学の一年生。夏休みを利用して宮崎の実家に自転車で帰る途中、今日が一週間目とのことでした。
「帰りはどうするの」
「たぶん宅急便で送ることになるんじゃないかな」
ああ、ぼくも大学時代、そんなことやってたなあ。
「お歳はおいくつなんですか」
と訊いてくるので、
「28」と答えると、
「へえ、若いですねえ」
と、少し驚いた様子。この反応をどう解釈するべきか。
「その歳で自転車旅する人って、少ないですよ。体力とか気力とかなくなってくるじゃないですか」
「そうかなあ?」
「ぼくにも30過ぎの歳の離れた兄がいますけど、もう完全にオッサンですよ」
じきに8時近くになってしまったので、二人でいそいで自転車をすっ飛ばし、夜神楽のある高千穂神社の神楽殿に行きました。
ヒヤケ君の分も払ってあげて入場。初めは十数人だった客が、開演時には百人近い数になりました。
昼間、観光地で見かけた人もちらほら。
お祓いがあり、烏帽子をつけた神人姿のおじさんの口上があって、神楽が始まりました。
岩戸神楽の三十三番の演目から、代表的な舞を四つ見せてくれるのです。
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御神体の舞
タヂカラオ命が天岩戸を探す場面、アメノウズメが舞う場面、タヂカラオが岩戸を開き投げる場面、そして最後はイザナギとイザナミが絡み合う「御神体の舞」です。
御神体の舞では、酒に酔っ払ったイザナギじいさんが客席に降りてきて女性客に愛想をふりまき、イザナミばあさんがそれを連れ戻します。
一方で、イザナギじいさんが酔っ払っている隙に、イザナミばあさんも男性客に抱きついて押し倒すという、なかなか客受けのいい演目でした。特に、お多福面のイザナミのおちゃめな所作がかわいかったです。
夜神楽は一時間ほどで終わりましたが、ヒヤケ君も「意外と面白かった」と言ってくれました。
神社からの帰り道、
「お酒飲める?」
とヒヤケ君に訊くと、
「弱いですけど、おつきあい程度なら」
とのことだったので、途中の酒屋に寄りました。ヒヤケ君にはカルピスサワー、自分用にはスーパードライ。発泡酒じゃないところが、ミエです。小市民。
ねぐらに戻り、
「今まで野宿して怖かったことあります?」
「ないねえ」
「ぼく、一回だけ見たことあるんですよ。
夜中、友達と山の中歩いていて、ふと隣に白い服着た人がいるように感じたんです。振り向いたら誰もいなかったんですけど、友達が後から『さっきそこに人がいなかったか?』っていうんですよ。『もしかして、白い服の?』『そうそう』って。あのときは怖かったですね」
「ふうん、おれはそういう経験ないけど、想像することはあるね。
例えば、夜中に小便に行って、戻ってテントの扉を開けると、中に知らないおばあさんがいて、こっちみてニタッて笑うの。で、旅を終えて家に戻ってドアを開けると、同じおばあさんが座っててニタアって笑うの。これ、怖いと思うな」
テントを持たないヒヤケ君は、毎朝5時に起きるということなので、
「じゃあ、あしたはめいめいということで」
と、ぼくはテントの中にもぐりこみました。
ぼくがテントから這い出たとき、ヒヤケ君は荷造りの最中でした。
マヨネーズを塗ったパンを焼き、魚肉ソーセージを挟んでおすそわけしました。
天理さんに世話になった借りを、ヒヤケ君にいろいろあげることで帳消しにしようという意識が働いていたかもしれません。
「どーもありがとうございました」
「じゃーね、いい旅を」
ヒヤケ君を見送った後、近くのトイレで充電しながら日記を打ち、ぼつぼつ阿蘇へ向けて出発。国道325号は、上ったり下ったりですが、基本的にはだんだん標高が高くなっていきます。
途中、「トンネルの駅」なるものがあり、いいかげん駅シリーズは飽きたなと思いながら寄ってみると、昔の鉄道のトンネルを焼酎の貯蔵庫にし、土産屋を併設しているのでした。
沖縄の金武鍾乳洞の泡盛貯蔵のアイデアの原点というのがこれなのでしょう。
熊本県に入る手前の道は長い上り坂でちょっとしんどかったです。
高森町に入ると、「ようこそ奥阿蘇へ」などという看板が。阿蘇に「奥」があるとしたら、火口の奥なんじゃないのかなあ。
途中の物産館の裏の芝生でラーメンを茹でて食い、その後もシコシコ走っていきます。このあたりは、どうも地形的にわけがわかりません。
普通、国道ともなると、山沿いもしくは川沿いなど、ある程度地形に基づいた道の伸び方をしているものですが、この付近は谷を越えたり丘を越えたり、ずいぶん変化に富んでいます。
周りを見回しても、川や山脈など、目印になる地形がありません。不規則に谷や丘が連なっているばかりなのです。
これが火山特有の地形なのかなあ、阿蘇に近づいてる証拠なのかなあ、と思っていると、トンネルを抜けた先が急に下り坂になり、眼下に阿蘇の山々とふもとの田園地帯、それを取り囲む外輪山が現れました。
いかにもバクハツしましたって形の、ぎざぎざの山頂のあの山はなんて山かしら。なかなかかっこいい。
しかし、外輪山て思ってたよりでっかいな。まるきり山脈だ。
外輪山を一気に下ると、道は阿蘇の山裾をなだらかに伸びていきます。
山頂にはどういけばいいんだろう、標識に「阿蘇山上」ってある、あれに沿って行けばいいのかな?山頂って言っても、どれが頂なんだかよくわからんし。
…などと思いながら走っているうちに、あっというまに阿蘇の西端まで来てしまいました。
スーパーもないので、コンビニでレトルトカレーと食パンを買うついでに地図を見て、ようやく山頂へ行く道を理解しました。
今夜は九州東海大学の近くの道端にテントを張りました。なんでこんなへんなとこに大学作ったんだろ。理事長に神のお告げが下ったんかな。
あした阿蘇山をクリアすれば、もう九州ではしんどい上り坂に出会うこともないでしょう。