日本2/3周日記(福岡) 西九州後編(福岡)

6月18日(火)晴 落石を祀る度胸

 花火の襲撃もなく、無事に朝を迎えることができました。
 朝飯はUFO焼きそば。
 荷物のバッグ詰めをしているところへ、ゆうべの見回りのおじさんがやってきました。
「今はまだいいけど、9時ころになったら警備員が来るぞ。でっかい体で、機嫌損ねるとうるさいから気をつけろよ」
「そうですか。ありがとうございます」
いろいろ親切に教えてくれるこの人は、何者なんでしょう。
 9時前に無事テントを畳み、水道で歯を磨いていると、見るからに浮浪者なおじいさんが洗濯しにきました。桶と洗濯板で洗うのです。今でも洗濯板なんて使ってる人がいるんだなあ。
「おはようございます」
「…」
挨拶したのに返事が返ってきませんでした。浮浪者さんなんて、そんなもんなんでしょうか。
 明るくなって公園をよくよく見れば、あちこちにブルーシートのテントが建っていて、ホームレスさんの一大繁殖地となっていることを知りました。
 類は友を呼ぶ。

 今日は、英彦山に向かって走ります。
 途中のホームセンターで自転車のチェーンロック(対馬で落としてしまった)と反射テープを買いました。
セメント地蔵
セメント地蔵

 飯塚の手前の八木山峠の宝山寺という寺には、不気味なセメント大地蔵がありました。高さは3m以上、でかいわりに、石をセメントで貼り付けた体が妙に雑です。特大サイズのよだれ掛けもかなり間抜けだし。

 飯塚市でコーラを飲んで一休みしました。今、ワールドカップ開催記念ということでコーラやアクエリアスの500cc缶が100円で売られているので、ついつい買ってしまうのです。対馬の自販機にはそんなの全然なかったのに。
 今日も暑い。昼過ぎ、走るのを休んで公園のトイレで洗濯したり、シュラフを干したりしました。
 午後3時、ラジオで日本対トルコ戦を聴きながら出発。
 香春町で少し神社巡りをしました。
 香春町には三つの山が聳えているのですが、石灰の産地らしく、一の岳は山の上半分がすっぱり削り取られておりました。二の岳のふもとには「採銅所」という地名がありましたので、どうやら昔は銅が採れていたらしい。

 まず鏡山神社という神社を覗いたのですが、高校生(?)と小学生(?)の二人組が、境内でぼくを邪魔くさそうに睨んでいたので、さっさと退散しました。
 次に覗いた現人(あらひと)神社という神社は、天皇でも祭っているのかと思ったら、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)命という神様が祭神でした。
 このツヌガアラシトという神様は、もともと朝鮮半島の大加羅国という国の王子様なのですが、彼が日本に来るにあたっては以下のような神話があります。

 ある日、ツヌガアラシトが逃げた牛を追ってある村に入ったところ、牛はすでに村人らに食われてしまっていた。牛の代償としてアラシトはその村の祭神のご神体である白石を持ち帰ったところ、その石は美しい乙女となった。アラシトがこの乙女を妻にしようとすると、乙女は日本に逃げ出し、アラシトもそれを追って日本にやってきた。
これもなんだか意味がわからない物語ですが、ちゃんと『日本書紀』に書いてあるらしいです。
 ツヌガアラシト=角がある人、なんて語呂合わせで想像を膨らませてしまいますが、そういえば安彦良和(マンガ家)も『ナムジ』で、頭に角を生やした異国の王子を登場させてました。あいかわらず断片的な知ったかぶりだなあ。俺って。
 ツヌガアラシト神は流行病を封じる神として信仰されているらしく、社殿には子供の病気治癒を祈願する「くくり猿」が奉納されていました。
 猿がこの神のお使いだそうです。猿丸大夫の墓が近くにあったり、猿田彦の石塔が多かったりしましたが、何か関係あるのかしら。

 次に寄ったのが香春神社。
 祭神は辛国息長大姫大目(からくにおきながおおひめおおま)命(一の岳)、忍骨(おしほね)命(二の岳)、豊比売(とよひめ)命(三の岳)。神様の名前並べられてもわけわかりませんね。
 香春(カワラ)は古代朝鮮語のカパル(険しい)に由来するという説があるそうです。
山王石
山王石

 長い階段を上った境内には、でっかい石が転がっていて、注連縄が張られていました。見ると、字が刻まれていました。
「山王石 昭和十四年六月三十日、山頂より落石」
こんなでかい岩が落ちてきたら災難だったろうなー。
 でも、どかすのが面倒だからって、注連縄張って名前つけて神様にしてしまうとは、姑息ながらいい度胸です。
 神社の参道の途中から、大きな石灰工場がよく見えたので、葉書に書いていたら、アリやムカデに噛まれました。奴らにとって、ぼくは所詮でっかい肉の山でしかないのでしょう。絵が描きかけでしたが、もう嫌になったのでその場から逃げ出しました。
 今夜のねぐらは、別の神社の境内。さびれた神社で、雑草が伸び放題です。テントを建てる間にたて続けに蚊に食われました。
 飛んで薮に入る夏の人。
 捨身飼蚊。
 たまらず、近くのドラッグストアに駆け込んで虫よけスプレーとウナコーワを買ってきました。最初に買っときゃよかったんだよな。
 テントの中で足にウナコーワを塗りたくると、足はすうっと気持ち良くなりましたが、蒸発した薬がテント内に充満して目にしみました。
 晩飯は、チャンポン麺。てきとーに余り野菜をぶちこんで、ラーメンの余りスープと塩コショウで無理やり味付けして食いました。
 一週間振りに麦焼酎の1リットルパックを買いました。胡麻焼酎ってのも飲んでみたいのですが、値段が倍なんだよなー。
 あしたは英彦山に登れるでしょう。
 サッカーでは日本と韓国で明暗が分かれましたが、実力としてはそんなものでしょう。なにはともあれ、決勝トーナメントに進めただけでも、メンツが保ててよかったよかった。

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6月19日(水)曇 添田町消防団第五分団

 朝飯はツナスパゲティ。
 虫よけスプレーしたのに、テントを畳む間にもボコボコ蚊に刺されました。ウナコーワクールして自転車漕ぐと、すうっとして気持ちいいです。
 一路、英彦山を目指します。今夜は雨になるという予報ですが、昼の間は天気はもちそうです。

 途中通過した大任町はシジミが特産品ということで、町のマスコットはシジミが手足生やかして、スニーカーはいてハチマキしめてほほえんでいるという、何とも気持ち悪い姿をしていました。
 名前はたぶん「しじみん」でしょう。
 添田町の中心部のスーパーで牛乳と今夜分のおかず(またコンビーフ)買って、牛乳一気飲みして、近くのトイレで洗顔などすませて、通りがかりのおばあちゃんとあいかわらずの会話して、長い坂にとりかかりました。
 日差しは強くないのですが、蒸し暑さが強烈です。少し走って休み、背中に入れたタオルを絞るとぽたぽたしょっぱい汗が滴ります。

 英彦山神宮の「銅(かね)の鳥居」に着いたのは12時30分ころでした。また500ccコーラを一気飲みし、一息ついてからおやつなどをビニール袋に入れて長い参道を登り始めました。
 参道の両脇に生い茂った雑草を、おじさんたちが刈っています。
 参拝客はまばらで、ときおり帰り客とすれちがう程度です。
参道近くにあった謎の物件
参道近くにあった謎の物件

 江戸時代には参道の両脇に、先達さん(ツアーコンダクターの山伏)たちの坊がずらりと立ち並んでいたようですが、ほとんどはただの跡地になっています。
 おそらく旅館となって存続していたのだろうと思われるものでも、すでに空き家になって、ガラス越しに破れ放題の障子が覗いています。
 常夜燈も、崩れたり、ツタに絡まれたりしています。これが三大修験のひとつかと思うと、いと哀れです。
 わずかに2軒だけ向かい合って営業している土産物屋で、おばあさんが
「お参りご苦労さま。掛けてって」
と言ってくれましたが、山頂までどれほど時間がかかるのかわからなかったので、
「先に上、お参りして来ますんで」
と言って通り過ぎてしまいました。話を聞けば、いろいろ英彦山参道筋の栄枯盛衰が聞けたかも知れません。

 「英彦山修験道館」と看板が出ていたので、修行道場かと思ったら資料館でした。200円払って中に入ると、掛け軸やら巻物やら仏像やらが陳列されていました。
 ここで英彦山の歴史を「日本の神々」などから受け売りすると、明治の神仏分離以前はここは神社ではなく、英彦山大権現をご本尊とする英彦山霊仙寺というお寺だったそうです。
 この山がいつから霊山とされていたかは定かでありませんが、平安時代から古文書などに名前が出てくるそうです。

 開山伝承がまたややこしい。
 継体天皇25年(531)、中国人の善正という坊さんが来日して彦山で修行していたとき、山の中で、豊後国の藤原恒雄という猟師と出会いました。善正師は恒雄さんに殺生の罪深さを説いたのですが、恒雄さんはへへんとせせら笑って彦山中で猟を続けておりました。
 ある日恒雄さんが一頭の白鹿を射止めたところ、三羽の鷹が飛んで来ました。鷹たちが傷ついた鹿に檜の葉に浸した水をふくませると、鹿は生き返って逃げていきました。
「なんと不思議な。あの3羽の鷹は神様の化身に違いない」
と恒雄さんはとうとう宗教に目覚め、出家して名前も忍辱と改めました。
 忍辱さんは修行するうち、山頂の三つの岳に阿弥陀、釈迦、観音の三仏の姿を見て、山頂に社を建てました。

 英彦山大権現の垂迹は、天照大神の子供の天忍穂耳(アメノオシホミミ)尊。太陽の子が降臨する山、すなわち「日子山」なわけです。
 当初は日子山霊山寺といい、忍辱さんの後を継ぐ人がおらず、しばらく荒廃していましたが、平安時代の初めに法蓮という僧が嵯峨天皇の信頼を得て「彦山霊山寺」の名を与えられ、復興させました。
 縁起によれば、この法蓮という坊さんがかなりの超人で、齢はすでに数百歳、竜神からインド伝来宝珠をもらって神通力を発揮していたそうな。
 それをうらやんだ宇佐神宮の八幡様が、老人の姿に化けて宝珠を奪って逃げたところ、法蓮は炎の呪を用いて火の海を生じさせ、追いつめました。八幡神はたまらず正体を現して、
「弥勒寺の別当にとりたててやるから、な、いいだろ?」
と頼み込んだそうな。法蓮の強さに対して、八幡様カッコ悪すぎ。

 平安時代、彦山は大宰府安楽寺(今の太宰府天満宮)と領土争いするほどの勢力に成長しました。
 初めは吉野・熊野修験の配下にありましたが、室町の中頃、「彦山流」修験道として確立し、関東以西まで勢力を広げました。
 しかし多数の衆徒を抱えた武力勢力にまで発展したのが裏目に出て、室町時代後期の戦乱に巻き込まれ、天正九年(1581)に大友氏との戦いで全山が焼け落ち、その六年後に進攻した豊臣秀吉によって全領地を没収されてしまいました。
 江戸時代になると、「英」の字がプレゼントされて「英彦山」と表記されるようになりました。「ヒデヒコヤマ」ではなく、あくまで「ヒコサン」と訓むわけです。
 英彦山は肥前藩鍋島氏の崇敬を得るとともに、在地の領主や農民層にさかんに布教して経済基盤の回復に努力しました。農民に対しては、山伏が檀家(お得意様)を巡る「廻壇」に力を入れ、それによって「英彦山詣り」が盛んになりました。
 幕末になると、英彦山は長州藩との結び付きを強め、多くの修験者が討幕運動に協力しましたが、明治時代になったとたん、廃仏毀釈によって仏教色を削ぎ落とされ、260坊を数えた英彦山修験者の多くは離散し、わずかな人々が者が神職に転向して山に残りました。

 すげーなー、俺ってよく勉強してるなー。
 そんな英彦山の激動の歴史が、障子の破れた旅館や蔦だらけの石灯籠に隠されているんですねえ。
 修験道館の玄関でビデオを見ていると、バキュームカーが来たのでとても臭くなりました。
早々に退散すると、汲み取り屋と立ち話をしていた管理人さんが振り向いて、
「すいませんねえ」
と言いました。

 幣帛殿(かつての講堂)へ行く途中、若いおまわりさんと同道になりました。
「へえ、長野から。これから山頂まで?今からなら、真ん中の道を行った方がいいでしょうねえ。お兄さん体力ありそうだから、三時間で戻ってこれますよ」
色が白くて、肌がつやつやしたおまわりさんでした。
 幣帛殿にお参りして、御札(800円)と宝印(500円)を買いました。英彦山にも、熊野の牛王宝印と同じようなのがあるんですね。初めて知った。

 幣帛殿のわきから階段が伸びていて、標高1,200mの山頂まで続いています。
 境内の清水をペットボトルに詰めて、登山開始。
英彦山頂への道
英彦山頂への道

 英彦山には三つの頂があって、それぞれに登山道があるらしいのですが、ぼくはおまわりさんのアドバイスに従って、真ん中の道を行くことにしました。
 太い杉の木の林の中を石段がずうっと伸びていて、ぼく好みの雰囲気でした。
 途中、下山して来た若い男の人とすれちがったら、
「自転車で上ってきたでしょう?」
と声をかけられました。どうやら、自転車を漕ぐぼくを目撃した人のようです。
「下の銅の鳥居に置いて来ましたけど」
「すごいですね。がんばってください」
「どーも」
こんな平日の昼日中に英彦山登りをしてるなんて、この人もフツーの身分ではないだろうな。

 半分過ぎたあたりで杉がまばらになり、背の低い笹に変わって山道が明るくなりました。
 山道は約2.2q。幣帛殿を出たのが2時半、山頂に着いたのは3時半でした。
 山頂には「上の宮」という社があり、小さな引き戸を開けて中に入り、お参りする仕組みになっていました。
 修験道館で見たビデオによれば、冬はけっこう雪が降るみたいなので、それへの対策でしょう。
 社の脇では先客のおじさんが、上半身裸になって汗を拭いていました。ぼくが石段に座って食パンをかじっていると、おじさんは
「どちらから下ります?」
ぼくが
「南岳の方に行ってみようと思ってるんですけど」
というと、おじさんもそちらのルートを降りていきました。ものすごく足取りがゆっくりでしたが、足を痛めたのでしょうか。
 ぼくも腹ごしらえして、南岳経由の道を下りました。こちらは、先程の道と比べて険しさが桁違いです。
 鎖が渡されているところも何カ所かありました。登りにこっちの道を来たら、かなり時間を食っていたでしょう。
 それでも、重いリュックもないし、ひょいひょいと下って、あっと言う間にさっきのおじさんに追いついてしまいました。
「すいません、お先に」
と言ってすれ違ったのですが、
「大丈夫ですか」ぐらいは声かけた方がよかったかな。

 柱状節理の「材木石」や、お籠りをする南大寺や、崖の上に刻まれた巨大梵字などを見て、幣帛殿に戻ったのは5時過ぎでした。
 社務所もとうに閉まって、参道にはほとんど人影がありません。
 黄昏時、今にも降りそうな厚い雲の下、廃屋が立ち並ぶ参道を、一人歩くのはかなり寂しいものがあります。
 自転車に戻り、再び走りだしました。今夜は雨が降るらしいので、できれば濡れない場所にテントを張りたいものです。
 近くの交差点に消防団の倉庫があったので、軒先を借りることにしました。
 テントを建ててじきに雨が降って来ました。
 飯を炊こうと、またストーブと格闘しているところへ、消防団の人達がやってきました。シャッターの前にテントを張っているぼくを見て、
「困るねー、いざってときに消防車出せないよ。どいてもらえんかな」
「すいません、一晩だけでもだめですか」
「だめだねー。これから消防車出すんだよ」
「どきます、どきます」
あわててシャッターの前からテントを引きずって、サッシ戸の前に動かしました。
「あー、そこならいいよ、テント張ってても。ただしこれから少しうるさくするけどね」
「パトロールですか?」
「いや、練習」
 そうこうしているうちに雨の中、十数人の消防団員が集まって来ました。ぼくのテントを見て口々に
「なんだこりゃ」
「いや、長野から自転車で旅行してるんだって」
「へえ、後で飲むからそのとき職務質問だ」
「飯は食ったのか?」
「これから炊くんですけど」
「中のコンロ使ったらいいよ」
ということで、消防倉庫の中の寄り合い部屋のコンロを使わせてくれました。
「部屋で食ったらいいよ」
とも言ってくれましたが、おかずを見られるのが恥ずかしかったので
「いや、テントの中の方が落ち着くんで」
と、再びテントの中にひっこみました。

 雨の中、消防団の人達は隣の駐車場でなにやら掛け声をかけながら訓練をしておりました。団長らしき人がいろいろ号令かけているのですが、何言ってるのかよくわかりませんでした。
 消防って世界はよく知らないのですが、大会があったりしてスポーツみたいですね。
 一時間ほどやっていたでしょうか、ぼくがコンビーフをおかずに飯を焼酎で流し込み、ぼんやりしていると、練習を終えた団員たちが戻ってきました。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、それを飲みながら今後の練習スケジュールを話し合っています。
 ぼくにも缶ビールを一本わけてくれました。テントの中でありがたく飲んでいると、
「兄ちゃん、寝たか?こっちこいや」
とお呼びがかかりました。
「はいはい」
テントから這い出して寄り合い部屋に入ると、揃いの制服とキャップを被った団員さんたちがいっぱいでした。
 今後の予定の話し合いが一通り済んだところで、自己紹介させられました。
「どーも、一晩お邪魔させていただいてます、長野県の飯田から来たイマイアキラと申します。社長と仲悪くなって会社辞めて、今自転車で日本一周の途中です」
てなことを言ったような気がします。
 あとはまあ、体よく雑談の肴になることに徹しました。つまみのチーカマ(好物)や焼酎ももらいました。
「どうだ、今日はいい所で寝てよかったな。これから寝場所は消防の軒先に限るな」
「味占めて明日もいたりして」
「今度の練習には参加してもらおうか」
「ウチの消防車盗んで旅続けたりして」
「わっはっは」
ぼくにとってもいい思い出ですが、消防の皆さんにとっても話の種になってよかったんじゃないでしょうか。
 飲み会が終わって、
「いいか、添田町の消防団第五分団はこんなにいい人たちでしたって、他のところで宣伝してくれよ」
と、さらに缶ビールやらどん兵衛やらピーナツやらかっぱエビせんの残りやらをくれました。
 電気消して、戸締まりして、
「じゃあ気をつけてな」
「どーも、ありがとうございました」
団員の皆さんをお見送りして、ようやく静けさが戻ってきました。

 風があるので、結局テントは濡れています。ようやく本格的な梅雨でしょうか。
 二本目のビールをテントの中で飲みながら、ふと英彦山山頂で会ったおじさんを思い出しました。
 あのおじさん、無事山を下れたかしら。

 明日以降は筑後川に沿って久留米に向かい、久留米から熊本に向かうつもりです。
熊本では、大学時代の先輩で、現在熊本大学の民俗学の助教授をしている兎谷さん(仮名)に会いたいという計画です。

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6月20日(木)曇 猿飛峡の錦鯉

 朝、雨はほぼ止んでいました。おしっこしたら、
「飲み会の翌朝」
の匂いがしました。缶ビール2本と焼酎少々だったのですが。懐かしい匂いでした。

 朝飯は、きのう消防団からもらったどん兵衛(きつねうどん)。テントやシートを適当に拭いて畳んで出発しました。
 霧が出て、時折ぱらぱらと雨が降って来ますが、たまに日が差したりもします。
 雨の日の英彦山の森は、いい風情です。豊前坊とかいう天狗の神社にお参りしましたが、古い石段がしっとりと濡れてきれいでした。
 大分側に山を下ります。湿度が高いので、登坂はどっと汗が出て来ますが、下りになるとたんに肌寒くなります。 雨は降っていないのですが、濡れた路面の水気をタイヤが撥ね上げ、足が濡れます。MTB(風)はこれがかなわん。

 大分県山国町の猿飛峡とかいうところで軽く食パンなどを食い、休憩所でコンセント借りて日記を打ちました。
「錦鯉を放流しています。持ち帰らないでください」
という看板が渓谷に立っていましたが、ヤマメとかアユとかならともかく、谷川に錦鯉なんて放流しても絵にならないと思うんだけど。

 ほんと、湿度が高いというのはかなわんもので、背中に入れたタオルを何度も絞りながら、日田市、浮羽町と、筑後川沿いに走り抜け、今夜のねぐらは吉井町の「吉井百年公園」です。たぶん町制施行百周年に作った公園なのでしょう。
 スーパーでホウレン草が二袋80円と安かったので、今日はホウレン草のおひたしと、ホウレン草とニンジンと鳥砂肝の炒め物です。
 こういうメニューは、和歌山走ってたころによく作ったなあ。久しぶりだ。

 筑後川はカッパのふるさと。カッパで町おこしをしている田主丸町もすぐ近くです。
 明日のメインターゲットは、もちろん田主丸の「カッパ駅舎」です。
 せいぜいたぬしませてもらいますぜ。

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6月21日(金) 頭カラッポの河童駅

 吉井町の百年公園は、客も少なくて(いなくて)快適でした。
 朝飯を作る前に、シャツと靴下を洗濯しました。
 洗濯物を乾かしている間に、ニンジンとホウレン草をたくさん入れてラーメンを作りました。いつも思うんですが、ホウレン草って、どうして食うと歯がザラザラするんだろう。
 ホウレン草はまだ半袋残っています。今日の夜まで保つだろうか。
 東屋の下で日記を打ち、11時ころ出発しました。

 吉井町の隣が田主丸町です。河童にまつわるいろいろな伝説が多い町らしいですが、「たぬしまる」って、名前からして河童っぽい。
 役場の前には、河童をモチーフにしたマップ看板。
カッパ駅とタヌキバス
カッパ駅とタヌキバス

 カッパ駅(田主丸駅)に行くと、駅前に路線バスが来ていました。車体にタヌキの絵が描かれていて、「たぬきバス」という愛称らしいです。カッパとタヌキ、化け物づくしという趣向なのでしょうか。
 田主丸駅のデザインは、地元高校の建築学科の生徒から公募したそうで、河童が寝そべっている姿をモチーフにしているそうです。
 たしかにしっかりとカッパの顔して、よく見ると手までついてます。
 駅の前には、『珍日本紀行』にあった通り、「悪書追放ポスト」が鎮座していました。
 カッパ駅の口からカオの中に入ってみると、そこは改札口ではなくて物産展示室となっていました。
ちゃんとした改札や待合室は横の方、カッパの胴体の方にあるようです。
カッパ顔ハメ
カッパ顔ハメ

 町の特産物が曇ったガラスケースの中にただ陳列されているだけで、買い物できるわけではありません。そして、やはりありました、「カッパ顔ハメ」。クチバシの上に顔が出るという、ちょっとハメ方が不気味です。しかも腰抜けなダジャレ付き。
 階段を上って2階に行って見ると、机と椅子が置いてあるだけでガランとしていました。
 小さな本棚があって
水木しげる「河童の三平」、
山口昌男「河童のコスモロジー」
「和漢三才図絵」
など面白そうな河童関連の書籍が並んでいるのですが、鍵がかかっているので見ることができません。
この役立たなさ、さすがふるさと創生事業はこうでなくっちゃいけません。
 ぼく以外にも観光客の夫婦連れがきておりましたが、
「なんのこっちゃ、これは」
という顔をしておりました。

 町内のカッパにまつわる名所巡りマップがあったので、それを見ながら町内めぐりに出発しました。
 町には筑後川に平行していくつかの川が流れており、少し水郷といった雰囲気もあって、なるほど河童伝説が多いのも分かる気がします。
 狭い水路に丸いアーチの小さな橋が架かって直接民家の玄関に続いていたりします。そうした小橋の欄干に、河童の石像がくっついています。
 「かっぱくん in Tono」のTシャツ着てくればよかったな。
 このあたりでの河童の大将は巨勢入道という河童で、平清盛の化身であるともいわれているそうです。
 巨瀬川の主と筑後川の主とは夫婦で、二人が出会うとき洪水になる、という伝説は放浪日記0606でも紹介しましたが、要は二つの川が氾濫するとくっついて一つの川になってしまう、ということなのでしょう。
 河童の神様が祭られているという馬場の瀬大明神にお参りして、かっぱ広場でひとやすみして、ザウルスを開くと、熊本の兎谷さんからメールが入っていました。
 23日までは沖縄に行っているけれど、24日以降は基本的に熊本にいるので泊まってっていいよ、というありがたい内容でした。
 大学時代ずいぶんお世話になりましたが、この期に及んでまたご迷惑おかけします。

 田主丸もこんなもんか、とだいたい理解したので、さっさと久留米経由で熊本方面に向かうことにしました。懐かしい高良大社のふもとを過ぎ、国道3号を南下します。
 4時過ぎ、喉が乾いたので八女市のAコープで乳酸飲料1リットル100円を買い、がぶ飲みして一息つきました。
 ごいごい走って、5時過ぎには県境を越えて熊本県入り。
 山鹿市のAコープで買い物し、今夜は山鹿温泉近くの北公園とかいう公園にテントを張りました。
 晩飯は、ごはんに肉ジャガ(惣菜)、スパゲティとホウレン草のスープ(自炊)。

 この調子だと、23日ころには熊本市に入りそうです。まあ、のんびり行こっと。
 今日は夏至だそうで、沖縄も梅雨明け。早く沖縄に渡って、梅雨をやりすごせればいいんだけど、どうなることやら。

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