日本2/3周日記(熊本) 神話伝説の西九州・後編(熊本)

6月22日(土)晴 トンカラリン潜入記

 朝飯は、昨日にひきつづきホウレン草とニンジンのラーメン。ようやくホウレン草は消費し終えました。ニンジンはまだ三本ほど残っています。
 
 テントを畳んで公園の水道で歯を磨いていると、掃除のおじさんたちが三人ほど、ワゴン車で乗りつけてきました。
 小さい黒板に何やら書いて立て、ゴミカゴに入っていたゴミを2〜3個ちらかして、ホウキを持った一人をバックに入れて、写真を撮っています。
 きっと、市から委託された清掃会社の人たちでしょう。清掃前、清掃中、そして清掃後を、証拠写真として撮って市に提出するのでしょう。
 清掃前にわざわざゴミを散らかして写真撮るってのは知恵ですねえ。それも、写真的に目に付きやすい、スーパーの袋なんかを選んで、カメラに近い付近に配置させるなんざ、なかなか手慣れたテクニックです。
 で、写真に写った竹ボウキで掃除するのかと思ったら、竹ボウキはさっさと片付けて、エンジンでゴミを吹き飛ばす機械でブワーと撮影場所周辺の落ち葉をすみっこに吹き飛ばし、
ちょいちょいと大きなゴミを拾って、きれいになった写真を撮って、颯爽と去っていきました。
 市役所の担当者も、うすうす気がつきながらも見逃してるんでしょうね。提出された「清掃前」の写真には、いつもほどよくゴミが散らばってるでしょうから。
 官と業のぬるうい関係がかいまみえて愉快な朝でした。

 今日も日差しがきつい。手足に水を打って気合を入れ、国道3号を熊本方向に走っていったら「県立装飾古墳館」の看板が出てきました。
このへんにチブサン古墳など有名な装飾古墳があるらしいということは大まかなマップを見て知っていたので、行ってみることにしました。
 くそ暑いので、博物館見学はいい休憩です。まだほとんど走ってないけど。
 古墳館の玄関前には、
「古墳時代の動物と遊ぼう! 埴輪のどうぶつえん」
なんてのどかなものもありました。
「埴輪の動物たちに語りかけ、埴輪たちの語る古代からのメッセージに耳をかたむけてみましょう」
などと説明板があって、思わず埴輪全部を蹴り倒してやりたくなりました。
 装飾古墳館の入館料は400円だったかな。
熊本を中心に、福岡など九州各地の装飾古墳の内部を再現してありました。
 装飾古墳て、なかなか怪しくていいですね。わけのわからん幾何学模様や、下手くそな人物画などを見ていると、昔の人たちって、危ないクスリでも吸いながら絵を描いてたんじゃないかと思います。
「死者を悪霊から守る魔除けではないかと考えられる」
なんて解説は聞き飽きました。
 きっとこれらのおかしな文様は、後世の人間を混乱させる古代人のいたずらなのです。
 未来の考古学の教科書には、次のような記述がされているでしょう。
「20〜21世紀にかけての都市部の便所遺跡を発掘すると、男根や女陰の壁画が多く出土する。
 その素朴なタッチからは、当時の日本人のおおらかさが伝わってくる。これらは用便時に魔物が近づかないように描かれたものであろう。
 絵に付随して記されている言葉は未だ解読されていないが、おそらく悪霊退散、もしくは快便を祈る呪文であるとの見解が定説となっている」

 装飾古墳館で面白かったのは、立体映画「生きていた石人」。
 ドラマ仕立てで、装飾古墳館に見物に来た家族が、蘇った石人に案内されて磐井の乱を追体験するというもの。展示室の中で
「これよこれ、これが石人よ!ちょっとパパ、早くこれ見てよ!」
とどでかい声でさわぐ迷惑な考古マニアの中年主婦の目の前で、石人が古代兵士に変身し、
「自分たちのふるさとの歴史を知ることは、大切だぞう」
と説教臭いことを言って、夫婦とその息子を古代に連れて行ってしまう、というストーリーでした。
NHKが製作しているらしく、戦闘場面やセットなんかは意外とそれっぽいのですが、継体天皇の顔が白塗りで気持ち悪かったです。
 案内役の古代兵士が石人にもどり、家族が展示室で「あれ?」と我に返ったところで
「これからシアターで映画「生きていた石人」を上映いたします…」
というアナウンスが入るという、凝ったラストだったのですが、やっぱ「生きていた石人」って、そのタイトルはどうにかした方がいいと思う。
 他にも、通路に設置されたモニターでは、毛皮を着てこん棒を持った常田富士男が、日本昔ばなしの声で発掘現場を荒らしまくるという「火の国の古代人たち」なんてビデオもやっていて、面白かったです。

 受付で近隣の文化財マップを入手して、付近の遺跡巡りをすることにしました。
 まず、すぐ近くにある岩原横穴墓群。崖に、いくつもの横穴がぽっかり開いているのです。穴の脇には、かすかに浮き彫りのようなものも見られます。
 中に首を突っ込んで見ると、しゃがんで動き回れるほどの広さで、こういうのを見るとついつい
「あ、ここ寝れそう」
と思ってしまう自分の性が悲しい。
 中には、死体を乗せた台などがしっかりと残っていました。この台に寝そべって記念写真撮ったらウケるかなー、と思いましたが、気持ち悪いし汚れるのでやめました。
 これらも古墳時代のお墓らしいですが、そんなのものがこの地域にはごく普通に点在しているのです。

 次に向かったのが 隣町の菊水町にある「トンカラリン」。
マップにこれが載っているのを見て、正直驚きました。というのも、半月ほど前に姉がメールで
「特命リサーチで熊本にトンカラリとかいう怪しい遺跡があるってやってたよ」
と教えてくれていたのです。
 怪しいもの好きな弟の趣味を、よく理解しているのです。

 このトンカラリンという遺跡は、なんでも464mもの長さがあり、地下に曲がりくねったトンネルが長々と続いているのだそうな。
 石段などがあることからも人工的なものであることは明らかで、テレビでは
「弥生時代の地霊を祀る大陸系の人々の宗教的な遺跡ではないか」
と言っていたそうな。
 これは行くしかないでしょう、ということで、行くことにしました。
 暑い中、頑張って付近まで走ると、道の駅に「菊水ロマン館」という、これまたイマイマしいネーミングの施設がありました。
 そこでトンカラリン探検をバーチャル体験できる映像を放映している、とのことだったので、事前学習のために行ってみることにしました。
 ロマン館は一階が物産店、二階が温泉になっていて、シアターらしきものは見当たりません。
それでも
「トンカラリンビデオ放映中」
の貼り紙があるので、二階のレジのおじさんに訊くと、
「上映できるんですかね。わたしも見たことないんですよ」
と、何やら電話で確かめている様子。
 おいおい、と思っいながらも待っていると、女性の店員(?)が出て来て、
「見られますよ。こちらへどうぞ」
と案内してくれたのは、畳敷きに段差の低いステージ、そしてレーザーカラオケの機械が置いてあるという、宴会場みたいな部屋でした。というか、宴会場でしょう。確実に。
「料金はどうなるの?」
とカウンターのおじさんが女性に訊いています。
「無料ですよ」
と女性が答えています。きっとこのおじさんは、今年の春に町役場から出向して来た、商工観光課の万年係長でしょう。
 店員さんたちが三人がかりでステージからホワイトボードを降ろし、カーテンを閉め、レーザーディスクの機械をいじっています。これだけ手間取らせてタダってのは、申し訳ないような気もします。
 ぼくの他にもおばあさんが一人、ただで見られるならと入ってきました。
 おばあさんに座布団をすすめ、二人でレーザーディスクが始まるのを待ちました。
「電源が入らない…!」
と、店員の女性は悪戦苦闘していましたが、ようやく映像がスクリーンに映し出されて、ぼくは手渡された立体メガネをかけました。
 映像は総CG造りでした。
 宇宙のかなたからなぜか隕石が飛来し、爆発して
「トンカラリンX」
というタイトルが出てきて、いきなり笑わせてくれました。何がXなんだか。
 内容は、トンカラリンとはどんなものかとか、どんなものが発掘されてるかとか、その正体についてどんな説があるかとか、そんな解説はほとんどなくて、ただひたすらトンネルの中をズンズン歩いていくというものでした。
 たぶん、どっかのゲーム会社が製作したのでしょう。途中、暗闇の彼方からバタバタとコウモリが出てきて
「ウソ臭いなー」
と思っていたら、そのうち竜が出てきてその腹の中に入ってしまったり、天女様が出てきて異次元に案内されてしまったりという、まったくもって
「ナンジャコリャ」
な作品でした。
見終わって、おばあさんの方を振り返ると、彼女も
「なんだかねえ、ちっともわからなかった」
と、黒い立体サングラス姿のままで首をかしげておりました。

 苦笑交じりでカウンターのおじさんに礼を言うと、
「実はねえ、二階を使うと400円かかるんですよ。お風呂代も込みなんですけど…」
と言われました。
「最初の話と違うじゃねえか!俺は払わねえぜ!!」
とゴネることもできましたが、ちょうど風呂にも入りたかったので、素直に400円払うことにしました。
 お湯は、まあ今時の公営温泉ならこんなもんでしょう。な感じでした。
 おっさんが一人、流しの一角を占領して床にひっくりかえって寝ておりました。
 いるねえ、風呂で寝てるジジイって。呼吸があるかどうか、すごく心配になるんだけど。
 ごっそりと垢をこそげ落とし、再び炎天下にさらされてトンカラリンの現場を見に行きました。

 住宅や農家が立ち並ぶ一角に、それはありました。福岡ナンバーはともかく、名古屋ナンバーの車まであったのには、
「物好きな奴もいるもんだなあ」
と自分を棚に上げて笑ってしまいました。
 この遺跡は以前、松本清張が訪れて
「邪馬台国関連の信仰遺跡ではないか」
と発言したことからブームとなったそうで、古代の信仰遺跡説の他に、お城の抜け穴説などいろいろあったそうです。
 しかし水路説が有力となり、みんな「なあんだ」とシラケていたのですが、近年の大水でトンカラリンに水がほとんど流れなかったことから、
「水は流れないし、石段がある。曲がりくねっているところからしても、どうも水路とは考えにくい」
と議論が再燃しているのだそうです。
 現場からは須恵器のかけらが出土しているらしいですが、他にめぼしい出土品はなく、遺構の年代も用途も不明であるということです。

 トンカラリンのトンネルはゆるやかな斜面に断続的に続いており、トンネルとトンネルを大きな溝がつなげているのですが、どうやらこれはごく最近ショベルカーで掘ったもののようでした。
 延長線上だけでなく、遺跡の周囲も掘り返している最中のようなのですが、どうも教育委員会などによる専門的な発掘調査ではなさそうな雰囲気でした。
 もしや、赤城山麓の徳川埋蔵金みたいにテレビ局が掘り返したんかな?
 まあ、アホなCG映像を作って喜んでいる菊水町のことだから、町がこれくらいずさんな発掘してもおかしくないけど。
 ということで、石段がついているというトンネルの一つに潜ってみることにしました。
 高さ80p、幅60pくらいだったかな。もちろん中は真っ暗です。
トンカラリン内部
トンカラリン内部

 電池の切れかけたライトを片手に、しゃがんだ姿勢でずるずると前に進みます。足元の石畳は泥に覆われています。
 壁や天井は、たしかに人工的な石積みです。
 約60mを抜けるのはかなりしんどかったです。四つん這いにならなければいかんかと思いましたが、それはなんとか免れて向こう側に抜けることができました。
 天女様が出てきたらなんて言おうかとドキドキしましたが、あいにく今日は会えませんでした。
 そのかわり、出口がクモの巣に覆われていて、すごく不愉快でした。

別のトンネルにももぐってみましたが、初めは天井が高かったのに、進むにつれて低くなり、向こう側の明かりが見えてきた頃には、四つん這いしていかねばならないほど狭くなったので、途中で引き返しました。
 苦労してトンネルを進む自分の姿を三脚立てて撮ろうとしましたが、他のお客が来たので素知らぬふりをして出て来てしまいました。

 ということで、実際に潜った者の感想としては、やっぱりこれは水路か何かであり、人間が中を通るためのものではないと思います。
 トンネルというより、ドブです。
 地下から地霊を呼び出すための穴なら深く掘るだろうに、基本的に地表とほぼ平行に作られてるし。
 7つほどの石段がついてるからって、人が通るためのものと即断しないほうがいいと思う。
 人が上るための段というより、トンネルの出口を拡げるために石を積んだら階段状になった、ってことじゃないのかな。
 
 このように謎の多い遺跡トンカラリンですが、ぼくにとって一番の謎は、なんでこれが「トンカラリン」なんて、隣組みたいな名前がついているのかです。
 現地にはそのことに関する説明は一切ありませんでした。
※ 後日ネットで調べたところ、「石を落としたらトンカラリンと音がしたから」だそうです。また、古代中国の北方民族の言葉で「天帝」の意だという説もあるそうです。
http://www.soufusha.jp/tatiyomi/sikokusetouti/tonkara.html)

 すっかりトンカラリンを堪能してしまったぼくですが、今日の遺跡巡りはまだ続きます。
 次に向かったのは、山鹿市にあるチブサン古墳とオブサン古墳。
 少し道に迷いましたが、6時頃に市立博物館の裏手にある現地に着きました。
 チブサン古墳には石人があったとかで、付近では電話ボックスの上にも、橋の欄干にも石人が鎮座しており、博物館の駐車場には高さ三メートルの巨大石人が訪れるものを睨みつけておりました。といっても、顔面部は摩耗して目鼻もよくわからないのですが。

 オブサン古墳は「産さん古墳」のことで、安産の神として江戸時代から地元の人たちに信仰されていたそうです。
 西南戦争では政府軍の駐屯地となり、古墳の石の蓋が防御に使われて、当時の銃弾の跡が残っておりました。考古と民俗と近代史が三つ巴になっていて面白い。
 一方その近くにあるチブサン古墳は「乳房さん」で、石棺に描かれた二つの白い円が乳房に見えたことから、乳の出をよくしてくれる神様として信仰され、つい最近まで甘酒を奉納する習慣があったそうです。
チブサン古墳壁画(レプリカ)
チブサン古墳壁画(レプリカ)

 白く濁った甘酒を母乳に見立てるということで、類感呪術っていうんでしたっけ?こういうのは。
 現在では装飾を保護するために石室の入り口はガッチリと鉄扉で塞がれてしまい、お参りするどころではありません。
 それに、オブサンもチブサンもすっかり緑の芝に覆われていて、古墳というより公園の築山です。
 そりゃ古墳の形はよくわかるけど、芝生じゃ色気がねえんだよな。やっぱりこんもり木が茂ってた方が、いかにも「塚」って雰囲気が出るってもんだ。

 今日の遺跡巡りはこれくらい。
 明日は鞠智城を見たいと思うので、菊池市方向に走ります。途中のスーパーで曲がりキュウリとキャベツ半玉を買いました。
 寝たのは一本松公園というきれいな公園の東屋。
 スパゲティを茹でて、炒めたキャベツ、ニンジン、魚肉ソーセージと絡ませようという計画でしたが、麺を茹でている最中にまたストーブの調子が悪くなり、麺は伸びるわ芯は固いわナベ底にこびりつくわ、さんざんでした。
 
 明日はいよいよ熊本市に入れるでしょう。

西九州後編目次 表紙

6月23日(日)晴のち曇 孔子公園のペンペン草

 夜は、何人か夜遊びの若者どもが来たようですが、比較的静かで寝やすかったです。
 朝飯は、食パンとキュウリ。
 熊本市に入ったら兎谷さんと会うので、あまり汚い格好して行ってはいかんだろうと、パンツと短パンを洗濯しました。
 
鞠智城の八角太鼓楼
鞠智城の八角太鼓楼

 鞠智城は、白村江の戦いの後に、唐・新羅の侵入に備えて築かれた山城で、岡山の鬼ノ城の同類です。ただし鬼ノ城ほど山奥ではなく、平野を見渡す小高い丘の上にありました。
 木造の八角型三階建の太鼓楼や、兵士が寝起きした兵舎などが復元されており、温故創生館とかいう展示施設もできていました。
 鞠智城の遺跡からは多くの炭化米が出土することから、地元には古くから「米原長者」という長者伝説が伝えられてきたそうです。

 昔、都の貴族のお姫様が夢のお告げで神様から「お前の旦那は熊本の炭焼き男だ」と言われました。
 半信半疑ながらこの地までやってきたお姫様は、お告げどおりに炭焼き男を見つけて女房となりました。
 女房は、米を買ってくるようにと夫になけなしの小判を渡しますが、夫は使いの途中、鳥を捕まえようとして小判を投げ、すっかり無くしてしまいました。
 女房が嘆くのを見た夫は、
「黄金がそんなにありがたいもんか。そんなものなら、俺が炭を焼いているといくらでも出てくる」
と答えます。女房が炭焼き小屋に行って見ると、そこには黄金が山となっており、夫婦はそのおかげで長者になったそうな。
 炭焼き夫婦は「米原長者」と呼ばれ、広い田んぼを持つ大金持ちになりました。
 ある年の田植えのとき、夕方になっても田植えが終わりません。そこで長者は太陽に向かって
「戻れ、戻れ」
と扇を仰ぐと、沈みかけていた太陽が再び昇って来ました。
それでも田植えは終わらず、日が暮れてしまったので、今度は近くの山に火をつけて、その明かりで田植えを終わらせました。
 しかしその後、空から火の玉が落ちてきて長者は滅んでしまいましたとさ。

 展示によれば、この伝説を知った地元の天文学者が、
「太陽を呼び戻すとは、日蝕のことを指しているに違いない」
と考え、過去の日本でおこった田植え時期の日食を調べたら、平安時代に一度だけ、あてはまる日食があったのだそうな。
その発表を受けて歴史学者が、
「この長者伝説は、律令制が崩壊し、公地を私有化して勢力を伸ばしていった新興地主のことを語ったものと考えていたが、今回天文学の側からこの仮説が裏付けられた」
とコメントしておりました。
 面白い説ではありますが、長者が太陽を呼び戻すという伝説は日本中にあるわけで、それらが一律にたった一回の日蝕のために生まれたと考えるのは少し無理があるんじゃないかな。
 まあ、その日蝕をきっかけに日本のどこかで太陽招きの伝説が生まれ、それが全国に広がったという可能性もないわけじゃないけど。
 ついでにいえば、前半の炭焼きの話も、それこそ日本中に同様の話が伝えられていて、つまり米原長者の伝説は一般的な長者伝説の典型なのです。
そういうのを歴史的事実としてとらえるのは、例えば
「朝日射す夕日輝くその木の下に黄金千両二千両」
の埋蔵金伝説を真に受けて地面を掘り返すのと同じことです。

 ひととおり見物を終え、再び出発するためにトイレで顔を洗っていると、ぼくと同じくらいの世代のお兄さんが
「自転車ですか。ぼくはバイクで。暑いですよね、こんなに日に焼けちゃった」
と話しかけて来ました。
「ごくろうさまです。頑張ってください」
と返しました。

 菊池市内を抜けて、熊本市に向かいます。
 途中、泗水町というところに孔子公園というものがありました。遠目にも中華風なハデハデな建物で、
「これはヘボそう」
と期待が高まりました。
 道の駅や直売所が隣接されておりましたが、そんなものは無視して孔子公園のハデハデな門をくぐりました。
孔子公園
孔子公園

 都市部の中華街ならともかく、中華風な建物って基本的に日本の風景にそぐいませんね。
 門には料金所があったらしいのですが、カーテンが引かれていて、
「平成13年10月1日より園内を無料開放することになりましたので、どなたもお気軽にご利用ください」
と貼り紙がしてありました。どうやら、かつては金とってたらしいです。入場料いくらだったんだろ。気になるな。
 中に入ると、だだっ広いグラウンドみたいのを中心に、屋外ステージ、中華風トイレ、中華風売店、資料館、孔子像を安置したお堂などがありました。
 そのどれもが、装飾はハデハデなのですが、ことごとくボロっちいのです。
雑草の生えた屋根
雑草の生えた屋根

柱や壁の塗料は剥げてるし。
屋根にはペンペン草が生えてるし。
床から突き出ているアナウンス用のボタンを押したら、根こそぎぶっ倒れるし。
 かつては売店やら飲食コーナーなどがたくさんあったようなのですが、それらは道の駅の方に移動してしまったらしく、資料館前の売店を除いて全て閉鎖されていました。
 それでも商魂の名残としては、「孔子おみくじ」「孔子絵馬」などのほか、ポリ容器を買わないと汲ませてもらえない地下水「孔子泉水」などがありました。
 よく分からないのは、なぜか一角に電車が置かれていて、「希望の館」と看板が立っていたこと。
おそらく廃棄された電車を貰い受けて食堂かなんかに使っていたのでしょうが、中を覗いてみると空っぽでした。
 ばかじゃねえの。

 なんでも、この泗水町の町名の由来が、初代村長が孔子マニアもとい儒学者で、孔子の生誕地、山東省泗水県にちなんで町名をつけたのだそうな。
で、立村百周年記念事業で、「町のシンボル、活性化の拠点」として建設したのだそうです。
 活性化の拠点となりえてはないけど、たしかに町を象徴してるなあ、このペンペン草。
 ぬかりなく「孔子公園建設碑文」なるものをチェックしてみると、案の定ネゴトタワゴトが書き連ねてありました。以下に要約引用しますので、読みたい人は読んでください。

孔子公園建設碑文  (前略)
 今、我が国には、ややもすれば自己本位のふるまいや、倫理観の欠落等反省すべき点が多々感じられます。
 私は、このような視点に立ち、21世紀に向かって活力と潤いのある「ふるさと」を実現するために、日本一づくり運動として「魂のふるさとづくり」を提唱し、全町民の協力の元に人づくり運動を展開してきました。
この孔子公園もその一翼を担うものであります。
 園内を拝・智・楽・憩・学の五つのゾーンにし、学問志向としました。
町民の皆様方をはじめ、内外多くの人々があい集い人としての「道」を学び、青少年の諸君が心豊かに成長する修練の庭になることを熱望するものであります。
平成四年十一月吉日
泗水町長 有田某
 どんな偉そうなこと書いてあっても、屋根の上のペンペン草の前では、全くもって無力だなあ。
 そのわりに賽銭やらおみくじやら地下水やらでチマチマ金を取ろうという下心が見え透いて、気分悪い。それにしても、たった十年でここまでボロくなるか?普通。
 山東省泗水県産の6億年前の石を用いて刻んだという孔子像を見上げると、鼻の穴が心なしか寂しげでした(どんなんだ)。

 孔子資料館は、売店で切符を買います(200円)。売っているのは中国のお茶とか置物とかですが、孔子公園オリジナルTシャツとか、めくると孔子の説教が書いてあるオリジナルカレンダーなんてのもありました。
 店のおばちゃんに訊くと、公園が有料だったころは入場料300円(資料館込)だったそうです。
 普通は入らんだろうな、その額じゃ。
 お金を払って資料館のゲートをくぐると、前庭に「足踏み健康公園」がありました。地面にでこぼこと石を埋め込み、その上をはだしで歩いてツボを刺激するというやつです。
 脈絡ねえなあ、とせせら笑いながら資料館の中に入ると、これまたボロっちい資料館でした。
 ビデオ上映中とあるのでボタンを押してみると、素人が8ミリビデオで撮った「第一回孔子祭り」の様子が、ナレーションも音楽も編集もなく延々と流れ続けておりました。
 ビデオの隣には、孔子とその奥方のマネキン人形が立っていましたが、孔子の生爪が剥がれかかって、ガムテープでとめられておりました。
 その他には、中国の骨董品の偽物とか。
 妙にアニメ声な娘と孔子との会話が流れるテープとか。
 覗いても何も見えない「微彫」の拡大鏡とか。
 これは200円でもきついな、と思いながら資料館から出ると、家族連れが裸足になって足踏み健康広場を満喫している光景に出くわしてしまいました。
 あー、あるとやっちゃうんだなあ。人間て。
 「順路」の矢印に沿って庭を回って行くと、なぜか行き止まりになってしまったので、垣根を乗り越えて外に出ました。
 ついでに道の駅の物産店を観察して戻ってくる途中、公園の門前で露店を開いていたおばさんのパラソルが風で吹き飛び、あやうくぼくにぶつかりそうになりました。
 何から何まで、いまいましい公園でした。あー面白かった。

 公園の軒下で日記を打っていると、小雨が降ってきました。
 レインウエアを着て、熊本市に向けて出発しました。
 熊本駅に寄ってコンビニで弁当などを買い、今夜は駅前の橋の下でテントを張りました。大きい橋のわりに騒音が少なく、雨が吹き込むことはありません。
 ただ、地面が少し湿っているということは、どこからか雨が流れ込む可能性があるということでしょう。
 いざとなったらテントのまわりに溝でも掘って、雨の流入を防がねばならないかも。
 今夜は自炊する気力がないので、コンビニ弁当で済ませます。
 明日は昼間熊本城見て、夜は兎谷さんちにお世話になります。
 愛知の野田農さんからの誕生日プレゼントも楽しみです。

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6月24日(月)雨 簡易扇風機と球磨焼酎

 夜中、若者が近くでロケット花火を連射しており、砲撃を受けるかとびくびくしましたが、なんとか無事に朝を迎えました。
 朝飯はコンビニむすび。じきに雨が降ってきて、上にある排水パイプからじゃばじゃば雨水が落ちてきて、水たまりを作り始めました。
 やはりそうだったかと、あわててテントを畳み、橋の下を出ました。

 再び熊本駅に行って観光マップを入手し、まず野田農さんからの救援物資を受け取りにヤマト運輸の南熊本営業所へ。
 声の小さいお嬢さんが受付で、ささやくように「ここにサインをお願いします」と言われてサインをし、荷物を受け取りました。
 営業所の前でさっそく包みを開いてみると、抗菌靴下と栄養ドリンク、そして携帯用扇風機なるものが入っていました。
 この扇風機は、キャップを外しぺらぺらのビニールの羽根を起こしてスイッチをいれると、かすかな風が起こせるという、なんともけったいな代物でした。
「旅行などに最適!野球観戦や、マニキュアの乾燥などに、用途いろいろ!」
と書いてありましたが、扇子の方がよっぽど風力強いと思うぞ、これは。
 靴下は、そろそろ穴が空きかけてきたころだったので、ラッキーでした。
 銀が糸に練り込んであって、抗菌・防臭効果ばっちりとありましたから、これで一週間は履き通しても大丈夫だ。
 いやいや、野田農さん、どうもありがとうございます。

 そこへ兎谷さんから電話がかかってきて、夕方6時に待ち合わせよう、ということになりました。
 6時までたっぷり時間があるのですが、今日は月曜日ということで主な博物館は軒並休館。
とりあえず熊本城は開いているらしいので、行くことにしました。
加藤神社(祭神は加藤保憲ではなく加藤清正)にちょろっと参拝し、二の丸駐車場のトイレの軒下に自転車と荷物を置いてお城に向かいました。
途中、道を一緒になったおじさんが自動車に乗る間際
「傘を貸してやろうか」
と言ってくれましたが、
「いえ、カッパで大丈夫ですから」
と辞退しました。通りすがりの人に気軽に傘を貸す習慣が、熊本にはあるのでしょうか。

 500円払って入場。お堀の内側は、さかんに建物の復元工事が行われている最中でした。
 天守閣は鉄筋コンクリートの博物館で、がっかりしました。どうせ復元するなら昔どおりの木造にしろよ。
 展示は、西南戦争モノが充実していました。当時のサーベルとか、砲弾とか。軍服にしても、政府軍は洋装、薩摩軍は和装としっかり分かれていたみたいで、いかにも近世から近代への過渡期の戦争だったんだなあと感じました。
 西南戦争のとき、熊本城には政府軍が籠城したのですが、薩摩軍を迎え撃つ二日前に原因不明の出火によって天守閣など主要建物がほとんど焼けてしまい、政府軍はわずかに燃え残った櫓で籠城を続け、ついには援軍の到着までしのぎ切ったというのですから、築城した加藤清正はやはり大したやつなのでしょう。
 火災を免れ現在に残った「宇土櫓」は、古い柱の立ち並ぶ長廊下や急階段がぼく好みでした。
 櫓の最上階には暇そうなボランティアガイドのじいさんがいたので、
「加藤清正って、虎退治した人ですよね」
と話しかけると、
「いくら清正公でも本物の虎を槍で一突きにできるもんかい。きっと病気で弱ってた虎だったんだろう」
「清正公に退治された虎の毛皮って、展示してあったら面白いのになあ」
などと、どうでもいいおしゃべりをして時間をつぶしました。
 
 駐車場の休憩所で日記を打っていたら、熊本大学の学生たちがどやどや入ってきました。
 何するんだろうと思っていると、服を脱いで短パン一つになって、外の芝生でサッカーを始めました。雨の中ずぶ濡れになっておりましたが、ご苦労様です。

 6時近く、約束の亀井駅で待っていると、兎谷さんが現れました。
会うのは四年ぶりくらいだと思うのですが、メガネも変わっていませんでした。
「お久しぶりです」
「いやいやどーも。はるばるご苦労様。実は引っ越してきてから荷解きも全然住んでないんだよ。物置みたいな有り様だけど、悪いねえ」
 兎谷さんは昨年度まで沖縄にいたのですが、今年の四月から熊本大に異動になったのです。
 急なことだったのでまだ大学の担当授業はほとんどなく、沖縄に残してきた仕事を片付けている最中とのことでした。
 兎谷さんのアパートに案内してもらい、荷物を置かせてもらってまず先に銭湯「極楽の湯」に連れて行ってもらいました。
  銭湯を出てそのまま居酒屋に連れて行ってもらい、ぼくは生ビールやら焼酎「白波」やらを注文して、二人して近況やら昔話やら民俗談義やらに花を咲かせました。
「いやー、君の日記はなかなか筆力があるよ。いや、笑いごとじゃなくて。君みたいにいろんな場所を密度濃く回ってる旅行記は珍しいと思うよ。視点も独特だし。君の目に沖縄がどう映るか、日記楽しみにしてますよ」
そんなことを言われて、嬉しくなってしまいました。
 銭湯の入浴料も居酒屋の飲み代も兎谷さんが出してくれ、大変ありがたかったっす。

 熊本県では、五木村や五家荘がけっこう民俗学的にも有名だそうなので、明日はそっち方面に行ってみることにしました。
 アパートに帰ってからも、焼酎を飲ませてもらい、いい気分で酔っ払って寝てしまいました。

西九州後編目次 表紙

6月25日(火)曇ときどき雨 二日酔いの3333段

 兎谷さんは、一限の授業に出なければいけないということだったので、ぼくは早起きして朝飯を作りました。
 ガスレンジでご飯炊いたら、少し水っぽくなってしまいました。分量適当だったからなあ。
 持ち合わせの食材でみそ汁作ったのですが、キャベツ入れようとバッグから出してみたら、とろとろに腐っておりました。さすが梅雨の威力です。
 かなりきつい臭いがしたので、あわててビニール袋に押し込んで素知らぬ顔をしました。
 ぼくはゆうべ飲み過ぎであまり食欲なかったのですが、兎谷さんはあまり酒は飲まない人なので、食欲あったらしく、ナベに残ったごはんもさらってくれてありがたかったです。
 おかずとして姉手作りの梅干しを出したら、四つも食べてくれてありがたかったです。
 ぼく自身は梅干しが少し苦手で、なかなか減らなくて困っていたところだったので、助かりました。
 まあ、全然腐らないので持っていて問題はないのですが。

 ぼくはバッグの荷造りなどがあったので、兎谷さんとはアパートの下でお別れしました。
 雨はなんとかやんでいますが、空は厚い雲です。
 自転車漕いでいても、頭がぼーっとして、胸が気持ち悪い。藤崎八幡宮でお参りついでに歯磨きして、野田農さんからもらったドリンク剤を飲んだのですが、それでも治らないので、近くの公園のベンチで寝ることにしました。
 梅雨ざむというやつで、ジャンパーを着てシートを膝にかけ、ベンチに横になりました。
 平日の朝っぱらからベンチで寝ているのは、ぼくとホームレスさんだけです。
 しばらくうとうとしていたのですが、そのうち霧雨が降ってきたので仕方なく動き出すことにしました。
 トイレに寄ると地元のホームレスさんが
「どっからきた?長野から。えらいこっちゃ」
と話しかけてくれましたが、頭が回らないし熊本弁もけっこう癖があって聞き取りづらいので、上の空で生返事してしまいました。
こんな梅雨の日にも野宿生活を、それも今後一生続けていかなきゃいけないホームレスさんの方がよっぽど「えらいこっちゃ」だと思うんですけど。
 熊本観光としては、水前寺公園とか興味ないので、最後に小泉八雲の旧宅でも見に行くことにしました。
 小泉八雲は熊本大(旧五大)で英語教師してたんですね。八雲の後任が夏目漱石だそうで。
 八雲旧宅をみつけて、建物の隣に自転車を停めようとしたら、シルバー人材センターの整理員のおじいさんが
「だめだよ、そこに停めちゃあ。通路なんだから。向こうの鶴屋の自転車置き場に止めなさい」
ということを、熊本弁で言いました。この辺はショッピング街が近いので、取締が厳しい様子。
 めんどくせえなあと思いながらも鶴屋というデパートの駐輪場に行くと、駐輪料金は百円だそうで、受付のおじさんに
「はい、五階に停めてね」
と言われ、エレベーターで五階までいくはめになりました。
 長居するわけでなし、めんどくせえなあと思いましたが、他のことをしようとするのもめんどくさいので、言われたとおりに自転車を五階に停めて、八雲旧宅まで戻りました。
入館料は200円。
頭がぼんやりしているので、展示パネルの文字を読むのにも時間が要りました。
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の写真というと、教科書などでは横顔を写したものが記憶にあります。驚いたことに、ここに展示されてる八雲の写真も、すべて横向き、それも右向きの写真ばかりなのです。
集合写真や記念写真でも、他の人達が正面向いているのに、八雲だけは意地でも右向いて写っているのです。
「なんじゃこの人、もしかして顔の左半分が無いのか?」
と思ったのですが、謎の答えは彼の幼少期にありました。八雲は子供のころ、左目を怪我して義眼を嵌めていて、それをかなり気にしていたのだそうです。義眼を写真に写したくないばっかりに、右向いて写真に映ってたんですね。

 しかし、集合しての記念写真でも、立ち姿ならば横を向けるのですが、最前列で椅子に座らせられると体を動かせない。それでも一生懸命首を横に向けて左目を隠そうとしている八雲の写真があって、その健気さに涙を誘われました。
 でも、八雲の(向かって)右隣りにいる人は、ヤでしょうねえ。肩が触れ合うほど密着した記念写真で、隣のガイジンが鼻息かかるほど近くで自分に顔を向けているのですから。
 かといって八雲を列の一番(向かって)右端に立たせてしまうと、なんか一人だけそっぽ向いた、反抗期の少年みたいでそれもまた悲しいものがある。
 記念写真のカメラの前では、その人の自意識が露骨に出るんでしょうね。
 ぼくも記念撮影では、前歯を隠そうとして一生懸命唇閉じて、それでも無理に口閉じてるってのが顎の皺でばれてしまうので、下唇の内側を噛んで顎の皺を伸ばしたりして、けっこう苦労するもんなあ。
 それが嫌で、最近はわざと歯を剥き出してスナップ写真に写ってみたりしてますが、いずれにせよコンプレックスから逃れられていないわけで。
 で、その写真には八雲さんの左目がわずかに写っていましたが、べつに変わった様子はなさそうに見えました。
 コンプレックスなんて、そんなもんかもしれません。

 胸焼けを引きずりながらボーッとした意識で八雲旧宅を出ようとすると、外はまた雨が降ってきました。
 靴の紐を結んでいると、受付のおばさんが
「その格好ですと、自転車で来られました?」
「ええ」
「どこに置かれました?」
「鶴屋の駐輪場に」
「整理のおじさんがごちゃごちゃ言いましたか」
「まあ、ええ」
「ここに来るっておっしゃいました?」
「いいえ」
「すみませんねえ、この玄関の前に停めてもらってよかったのに」
「はあ、そうですか」
おばさんはずいぶん気の毒そうにしてくれました。
玄関を出るとさっきの整理員さんがいて、
「悪かったなあ、ここに入るって言ってくれればよかったのに」
と、これまたずいぶん申し訳なさそうに言ってくれましたが、なにぶんぼくは二日酔いで気持ちが悪く、駐輪場所くらいで損とか得とか、考えるのも面倒だったので、
「はあ、そうスか」
と、やっぱり生返事でした。
雨の中レインウエア姿のぼくにおじいさんは
「これからどこいく」
「鹿児島方面へ」
「傘あげようか」
と持っている傘を差し出そうとするので、
「いえいえ、カッパで十分ですから」
とあわてて断りました。
傘を貸そうかといわれたのは昨日と続けて二度目です。熊本の人は、ほんとうに気軽に傘を貸してくれるみたいです。傘無くてずぶ濡れの人にならともかく、レインウエア来てる人にも貸そうとしてくれるとは、親切だなあ。よほどぼくの姿が哀れを誘うのかな。
 駐輪場の五階から降りて来て、係のおじさんに百円渡すと、
「九州一周かい。どっから来た」
「長野から」
「ええっ、長野!」
と、みんな驚くところで案の定驚いてくれて、
「そうか、こないだは女の人が大阪からバイクで来てたけど、自転車は大変だ。
この百円は内緒でサービスするよ。ポカリスエットでも買って飲みな」
二日酔いのぼんやり頭でも、これはありがたいことだと判断がついて、精一杯明るい顔で
「いいんですか、ありがとうございます。今、自販機で500ccを百円で売ってますからね。うれしいです」
とお礼をいいました。
 ずいぶん熊本の人は親切なもんだ。もしかして、整理員のじいさんが、根回ししたのか?まさかなあ。

 霧雨が降ったり止んだりの中を、五家荘目指して走ります。走って行くうちに、あたりは山ばかりになってきました。
 途中、中央町というところで「日本一の石段」という看板が出て来ました。
 なにが日本一なんだ?長さ?段数?高さ?段差?
 基本的に石段好きなので、行ってみることにしました。
 先に泉村の観光施設「ふれあいセンターいずみ」で五家荘のパンフレットを入手したあと、道路端のマップ看板を見上げていると、ぼくのわきに軽自動車が停まりました。
 痩せたおっさんがサングラスを外して
「場所わかりましたか」
と訊いてきました。
「ええ、なんとか」
「どちらから」
「長野から」
「どれくらい日にちかかりました?」
「三月ほど」
「失礼ですけど、お金はいくらぐらいの計画で」
こういうことを訊かれても、実際困るのですが、
「だいたい百万くらいですかね」
と適当に答えました。答えたあとで、やばかったかな、と思いました。百万の現金持ってると思われたら、妙なことに巻き込まれないとも限らない。
 そう思い当たると急に不安になって来て、目の前のおじさんに対する疑心暗鬼が芽生えました。
 このおっさん、いろいろ訊いて来るけど、「長野から来た」と聞いてもさほど驚く様子もないし、好奇心一杯って表情でもない。第一、なんでいきなり予算を訊いて来るんだ?興味あってというより、情報収集って感じじゃないか?
 助手席にも男の人が乗っていて、椅子を倒して寝てるみたいだけど、無駄話してる運転手に対してどうして知らんふりしてるんだ?
 不安な疑問はいくらでも湧いてきます。
「これからどちらへ?」
とおじさんは訊いて来ましたが、
「どう行こうかなと、今地図みてるところです」
とはぐらかしました。夕暮れも近い。この辺は人通りも少ない山の中。もしや待ち伏せされて襲われるかもしれん。
 そんなぼくの心を知っているのかいないのか、おじさんは
「日本一の石段は行きましたか。あれは自転車でもここからすぐですよ。それからねえ…」
といろいろ教えてくれましたが、警戒して緊張しているぼくは、愛想よく返事はするもののほとんど聞いていませんでした。
「それじゃあ気をつけて」
と自動車はUターンして去っていきました。
 うーむ、あれはただの親切な人だったのだろうか。それとも…?
 いずれにせよ、見ず知らずの人に金のことについてしゃべるのはあまりよくないな。まさか今時、大量の現金を持って旅してるとは誰も思わないだろうけど、何カ月もかけて日本一周する人間がそれなりの資金を持っていることは、誰にでも容易に察しがつくことだし。
 これからは、そうしたことについても危機意識をしっかりもっていなければいかんかも。

 いろいろ考えながら走っているうちに、日本一の石段に着きました。
 さっきの軽自動車がどこかに停まっていないか見回しましたが、いないようでした。
 それでも警戒心が解けないぼくは、リュックと自転車を人目につきにくいところに隠し、石段を登ることにしました。
日本一の階段
日本一の階段

 この日本一の階段というのは、山のてっぺんにある釈迦院というお寺の参道ということになっており、町おこしの一環として昭和54年に着工、63年に完成したものだそうです。
三千三百三十三段あって、その段数が日本一ということらしい。二位は金毘羅さんかしら。
 一位を自認するからには、二位の石段はどこの何段なのか町では把握してるはずです。そうした石段ランキングも、解説板にちょろっと入れといてくれると、少し利口になった気分になって楽しいんだけど。
 登り始めた時刻は四時半ころだったか。林の中をうねうねと石段が続いていますが、普通の真四角の石材を組んでいるので、風景的に味はありません。
 小雨が降る中ですが、時折降りてくる人とすれ違います。近所には、この石段の上り下りを日課にしてる人もいるのかも。
 「日本一の石段を登る会」の会員募集のポスターも貼ってありました。
 石段には、でっかいヤスデが何匹も死んでいました。体長が普通のヤスデの三倍くらいあって、ムカデみたいに横幅があるのです。そしてなにより目立つのは、脇腹と足の鮮やかな黄色。こんなでかくて派手なヤスデを見たのは初めてです。
 それにしても、なんでこんなに死んでるんだろう。

 湿度が高いので汗が出ますが、単調な石段なので、ぼつぼつ休みながら登って行ったら、一時間くらいで釈迦院に着きました。
 階段の頂上にはさぞや自販機がずらりと並んでいるのだろう、と思いきや、そんなものは一つもないあっさりした頂上だったので、逆に好感が持てました。
 石段の終点から釈迦院までは、1qほど石畳の参道を歩き、便所臭いにおいがしてくるなあと思ったあたりで山門に着きました。
 もう6時近くなっていたので本堂は閉まっていましたが、山門の仁王様の眉毛と手の甲の血管が可愛いかったです。
 この釈迦院というのは、天台宗を中心に各宗派を学ぶ学問寺で、むかしはたくさんの寺が立ち並んで「西の比叡」と呼ばれていたそうな。まあ、どこの寺もそう言うよね。

 石段を下ると、さすがに途中で膝が痛くなりました。
 ふもとに着いたのは7時ちょうど。曇り空なのでかなり薄暗く、土産物屋も閉まってしまい、なぜか道にバリケン(ガチョウの一種)が一羽たたずんでいるというさびしい風景です。
 梅雨の肌寒さを感じながら夕暮れの山道を走り、運よく開いていたガソリンスタンドで灯油を入れて、今夜は道路わきの公衆便所の隣の藤棚の下にテントを張りました。
 本当は雨に濡れないところに張りたいんだけど、明日は雨が上がるらしいから、まあいいや。
 飯はスパゲティミートソース。ストーブの不調はあいかわらずで、コッヘルをススだらけにしながら無理やり麺を茹でました。
 
 どうやら今日も無事に済みました。してみると、あの軽自動車のおっさんはやはりただの親切な人だったようです。ほっ。
 熊本の人は、親切に声をかけてくれる人が多い、という印象を持ちました。

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6月26日(水)曇 五家荘にヘトヘト

 二日酔いが後を引いていたのか、朝8時ころまで寝ていました。朝日が照らないと目が覚めない体になっているようです。でも、おかげで気分はすっかりよくなりました。
 朝飯は、ごはん、みそ汁、ふりかけ、梅干。桑名で買ったのりたまふりかけがようやく終わりました。
 飯を炊いていると、車が停まって、誰かがぼくのテントをつつきました。
「はいはい」
とテントの陰から顔を出すと、作業員風のおっさんでした。
「あ、そっちが表かあ。どっかの会社の宣伝か何かかと思ったあ」
「どーも、お邪魔してます」
「ここはいい別荘だなあ。お、御馳走ができたかあ?」
「いやあ、粗末なもので」
おっさんはただの冷やかしで、ぼくが飯を食っている間同僚とでかい声でしゃべりあっていましたが、そのうちどこかへ行ってしまいました。

 幸い日差しが出てきたので、テントやシュラフを干しながらトイレの電源を借りながら日記を打ちました。日記は打てても、携帯が圏外なので送れません。
 日記を二日分打っていたらあっというまに昼になってしまいました。
 
 昼過ぎ、五家荘目指してようやく漕ぎ出しました。
米も他の食材も切れかけているので、どこかで買わなければと思うのですが、泉村の中心地に入っても、あるのは小汚い個人商店だけ。
 戸が開いているので営業しているのでしょうが、中が真っ暗なのでどうも入りにくい。
 他にましな店がないのかと思いながら走っていくうちに、あっというまに人家が消え、狭い山道になってしまいました。
 わずかに残っていた黒糖飴を嘗めながら、谷川伝いに県道を上ります。
 ここ最近の雨のせいで、谷川の石や道路の壁面についた苔の緑が鮮やかです。
 こういうときに一眼レフのカメラを持っていれば、スローシャッターで川の流れを幻想的な雰囲気に撮れるのですが、生憎ぼくのIXYはシャッタースピードの調節ができないので、残念です。
 気温はさほど高くありませんが、湿気が多いので体温が籠もりやすく、だくだく汗が流れて眼鏡が曇ります。
 ただひたすら自転車を押しているうちに、あたりはどんどん谷が険しく、標高は高くなっていきます。役場を過ぎた後は、岩奥という集落以外にまともな人家はありませんでした。
岩奥集落
岩奥集落

 この岩奥という集落は、谷の中腹に半円形のすり鉢状に棚田を刻んでいるこぢんまりしたムラで、
集落の真ん中に大きな杉(?)の大木が突っ立っているのがいかにも「中心!」という様子で面白かったです。

 岩奥を過ぎて、くねくねくねくねと道を上ります。はるか遠くの山の上に、自分の上るべき道のガードレールが続いているのを見ると、
「げえ、あそこまで上るのかあ!?」
と、心理的にかなりこたえます。
 自動車の通行もほとんどなく、聞こえてくるのは鳥の鳴き声ばかり。ウグイスくらいはわかりますが、なんだかものすごく複雑な鳴き方をしているあの鳥はなんて鳥だ。
時々水笛みたいな「ぴゅろろろろ」という音も聞こえますが、あんな声でなく鳥がいるのかしら。
 一時間くらい上り続けて、ふと振り向いて谷間を見下ろすと、岩奥の集落が下の方に小さく見えました。
「これだけ上ってきたのに、まだあのムラが見えるとはなー」
と、感慨深いというか、忌ま忌ましいというか。
 ようやく五家荘との間の峠のトンネルをくぐったのは、もう5時ころでした。

 五家荘(ごかのしょう)というのは、熊本県最高峰の国見岳(1,739m)の山麓にある久連子、椎原、樅木、仁田尾、葉木の五集落の総称で、看板の宣伝文句によると「九州最後の秘境」なのだそうです。
確かに山ばっかです。
 峠から坂をだーっと下ると、せんだん轟(とどろ)という滝がありました。この辺では滝のことを「とどろ」と呼ぶのだそうです。
駐車場に自転車を停め、隣のトトロのメロディで
「せんだんとっどろ、とーどっろ♪」
と下らない歌を口ずさみながら遊歩道を降りて行くと、なかなか形のいい滝が落ちていました。
せんだんとどろ
せんだんとどろ

 落差75m(だったかな)。梅雨のせいできっと普段より水量が多いのではないでしょうか。
 滝の周辺の緑がきれいです。岩の崖にびっしりと張りついた苔や草、滝の下の渓流に茂る水草など、湿った空気のお陰で、他の場所の植物よりも葉の張りが違うような気がします。
 うーむ、こういうのを見るといかにも観光したって気分になるなあ。

 もう夕方なので、そろそろ晩飯の心配をしなければなりません。滝の駐車場の売店では山菜ソバなどを商っておりましたが、観光地の蕎麦は食う気になれないので先を急ぎました。
 下り道は風が肌寒く、久しぶりにチェックのシャツを上から羽織りました。九州に入って初めてじゃないか?
 国道445号に出て、とっとと五木村方面に抜けてしまおうかとも思ったのですが、平家の落人の末裔が住むという五家荘にせっかく来たのだからと、「平家の里」とかいう観光施設がある樅木集落まで行くことにしました。
 国道445号は、深く切れ込んだ渓谷の中腹を走っています。道が崖崩れで寸断され、仮設の迂回路を通らねばならないところもありました。
 今でこそ真新しい「平家トンネル」をくぐり、「平家橋」を渡ることができますが、昔は道なき道を歩いて行ったんでしょう。落人さんもご苦労様です。

 樅木の「樅木吊り橋」の駐車場に着いたのは8時近く。公衆便所も自販機もありますが、食料品店はありません。
 今夜の晩飯は、最後のスパゲティ。
ミートソースはもう無いので、シイタケとか乾燥ホウレン草とかを適当に混ぜ、塩コショウで味付けしました。
 スパゲティをゾバゾバと食って、足りないカロリーは自販機のペプシコーラで補いました。

 ここももちろん携帯が使えません。日記やその他のメールを、作ってあるのに送れません。
 まあ、携帯が使えるようじゃ「九州最後の秘境」として失格だよな。
 秘境だからなのか、公衆トイレの水道からは茶色い水が出ます。しばらく流しっぱなしにしたら色は薄くなりましたが、生水で飲む勇気はありません。
 途中の道で清水を汲んどいてよかった。

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6月27日(木)晴のち曇 平家の里の平家便所

 朝方までは曇っていたので、よく眠れました。
 朝飯は、ずいぶん前から残していた乾麺の冷やし中華を茹でました。まともな具は無いので、いつものシイタケやワカメでごまかしました。
 飯を食い終わった頃には日が照ってきました。今日は梅雨の晴れ間で、明日からはまた下り坂らしいので、短パンや下着を洗濯し、ついでに不調続きのストーブを徹底掃除しました。
 
 生乾きの短パンを履き、トランクスと靴下をリュックに吊るし、走りながら乾かそうという戦法で出発しました。すごくみっともないのですが、まあいいやどうせ山の中だから。
 まず、すぐ近くの「樅木吊り橋」というのに行ってみました。
 昔、このあたりでは谷川に吊り橋を架けて行き来していたそうで、今でも村内にはいくつも吊り橋があるのですが、いまではどれも観光用になっています。
 天気がよく、空気はいたってさわやか。平日なので客もほとんどおらず、ぼくの他には、常にビデオカメラを覗きながら歩いているおばさんと、その旦那さんくらいでした。
 吊り橋は人がすれ違う程度の幅があるのですが、ビデオおばさんはぼくが渡り終えるのを対岸で待っていました。
「どうもすいません」
「揺れると怖いから」
そうかあ、怖いかな。まあ、他人が乗ってるとカメラがぶれるもんな。
 でもおばさん、ファインダー覗きながら吊り橋渡るのはちょっと危ないぞ。そんなにカメラ回し続けて、帰ってからほんとに見るんですか?編集ご苦労様。
 吊り橋を渡ったところに茶店があり、幼い姉弟らしき子供が遊んでいました。
「葉わさびまんじゅう」
の幟が出ていたので、まんじゅうでも食うことにしました。朝飯が少なかったし、洗濯したりしていたら早くも11時になって腹がすいていたのです。
 店のメニューにはヤマメそばとか鹿肉定食とかありましたが、どれも高いのでまんじゅうが手頃でよろしい。
 店のおばさんにまんじゅうを二個注文したら、ぬるいお茶とまんじゅうの他に、
「赤米でお餅つくってみたの。食べてみて」
と、赤米餅なるものを1個おまけにつけてくれました。ラッキー。
 葉わさびまんじゅうは1個100円。けっこう大きめでボリュームあったのがうれしかったです。
 厨房の奥にせいろがあったし、まだかすかに温かかったので今朝このお店で蒸したのでしょう。皮にワサビの葉が刻んで入れてあって、ほのかに香りがしました。あんは粒あんだったかな。
 赤米餅も、中は粒あんで、柔らかくてうまかったです。
 まんじゅう二つ、餅一つ食えば腹も収まり、急須からぬるい茶を何杯か注いで飲み、
「ごちそうさま」
と言って店を出ました。

 吊り橋観光の後は、「平家の里」とかいうテーマパークへ。
 自転車で吊り橋を渡れればすぐ行けるのですが、そうもいかないので、きのう来た道を少し戻り、谷底にかかっている橋を渡って、対岸の中腹まで上ります。
 さっきのビデオおばさん夫婦も車で到着したところで、おじさんに
「あんたのほうが早かったな」
と言われました。

 平家の里の入場料は400円。何があるんだか知りませんが、ここまで来たからには入らないわけにはいかないでしょう。
 お金を払うと、木の棒が軸になった巻物をくれました。開くと、敷地内の建物がイラストで描かれており、ちょっとした寺社の境内図みたい。裏側には五家荘の方言が紹介されておりました。
 もっと五家荘の歴史や民俗を詳しく紹介してくれていればありがたかったですが、少なくともパンフレットが巻物(掛け軸)ってのはインパクトある。平家の里め、なかなかやるな。
 自転車旅の人間にとっては、かさばって少し邪魔くさいけど。
 平家の里の中身は、地元の茅葺き民家を寄せ集めて茶店や休憩所に仕立て上げ、ついでにちょっとした資料館を併設してビデオやパネルを見せるという、まあそれだけのものでした。
 こんな山奥で変に凝ったものを作ってもしかたないから、まあ妥当なところではないでしょうか。
平家便所
平家便所

 ぼくが気に入ったのは、平家便所。古民家の一角の便所なのですが、なかなか古びていて、当時の生活を感じさせます。
「使用禁止」の札がついていたのが残念。こういう便所で実際に用を足すことが、山国生活を追体験することに繋がるじゃないですか。紙が貴重品だった時代、当時の人達は尻を何で拭いていたのか。それとも拭いていなかったのか。
 溜まった肥をどうしていたのか。山里にはどんな匂いが漂っていたのか。
 最近「田舎暮らし体験」とかが流行ですが、そういう「田舎」は体験しなくていいんですかねえ。

 資料館の横には、池の中に能舞台が作られていました。
柱が赤く塗られているあたりは、厳島神社を意識しているのでしょう。年に数度はイベントで使うのかもしれません。
 資料館には、平家落人の子孫に伝わる家系図が展示されておりました。
 平重盛の三男清経は壇ノ浦の合戦で生き延び、四国の祖谷、八幡浜、大分の鶴崎などを点々としました。その後竹田の緒方氏に婿入りして1189年にこの地に入り、緒方姓を名乗って五家荘白鳥山に住み着き、孫の盛行、近盛、実明がそれぞれ椎原、久連子、葉木に分家しました。家系図にはその歴史が記されているわけです。
「我等此所へ居住する事後世に至り諸人不思議と為す故、此巻へ委しく記し置く者なり」
と、平清経の名で断り書きがしてあります。
 それが本人の直筆なのかどうか知りませんが、山国の人間にとって「家系」とはそれほど大切なものだったのでしょうか。
 
 平家にまつわる話はいろいろあります。

鬼山御前
 源氏方に扇を射よと指し示した女官、玉虫御前は、戦を生き延び、鬼山御前と名を変えて岩奥集落に住み着いておりました。
 そこへ、那須与一の息子が平家の残党狩りにやってきました。五家荘へ行こうとする彼を鬼山御前は引き留め、二人で暮らすうち、互いに愛が芽生えて結婚してしまいました。
 鬼山御前は子沢山で、そのうえ乳の出がよかったので、乳の神様として祀られました。鬼山御前は、乳房が一尺もあったそうな。

 玉虫御前と那須与一の息子が結婚するとは、伝説にしても出来過ぎだな。
鬼山という名前や、子沢山だったという言い伝えからすると、鬼山御前の正体は山姥(山の神)っぽい。乳が一尺もあったって、なんかそんな妖怪を水木しげるの妖怪図鑑で見たような気がする。

 こうして平家が拓いた五家荘は、しばらくのあいだ誰にも知られない隠れ里でしたが、やがて人口増加や食料不足、とくに塩の欠乏によって隠れていることができなくなり、明徳四年(1394)に阿蘇氏に申し出てその支配下に入ったのだそうです。
 もっともらしいけど、ホントなのかな。
 五家荘は、近代までは狩猟と焼き畑と木地が主産業だったそうで、「久連子古代踊り」という盆踊りや「葉木神楽」といった神楽も伝承されているところは、文化的にも三信遠地方と似たところがあるようです。
 江戸時代の紀行文を見ると、五家荘の昔の盆踊りは、厚紙で鎧具足を作って踊ったそうで、これなんかは楠桂(絵はうまいがストーリーが下手なマンガ家)の「古祭」そっくりだ。

 資料館を出た後、休憩所の民家の軒先で日記を打っていたら5時になってしまい、管理人のおじさんが戸締まりを始めたので慌てて出ました。
 平家の里を出てから、実際の落人の里を見てみようと、樅木の集落を覗いてみました。
 谷の中腹に十数軒の人家がへばりついていましたが、茅葺き屋根どころか、さして年期の入った民家もなく、ちょっとがっかりしました。
 落人の末裔だからってパナホームに住んじゃいけない理由はないんですけどね。

 五家荘はまあこんなもんだということで、五木村方面に向かいます。
 「秘境ルート」なる道を20km行くと、ぼくのあこがれの地、宮崎県椎葉村に行けるらしいのですが、食料もないし、今後のルートが混乱するので、椎葉は後回しです。
 落人の頭領、緒方家の旧宅の隣に商店があったので入りました。袋ラーメンと魚肉ソーセージと菓子を買い、酒を飲みたいなあと思って
「この赤酒ってのいくらですか」
とお店のおばさんに訊くと、いくら調べてもわからなくて
「600円でいいですか?」
と逆に訊いてくる始末。
「このお酒はお正月しか売れないんでねえ。お屠蘇に飲むほかは、料理酒くらいにしか使わないんですよ」
「普通は飲まないんですか」
「すごく甘くて、あんまり飲むと悪酔いするかもねえ」
「なあんだ。珍しいお酒だと思ったのに」
「珍しいことは珍しいですけどねえ。お酒ということなら、こっちの『平家の里』っていう濁り酒は、日本最南端の造り酒屋が作ったお酒ということで、珍しいですけどね」
たまには地元の日本酒を飲んでみるのもいいと思って、それを買いました。

 五家荘から隣の五木村までは、ずっと下り坂でした。
 五木村の川端の公園にテントを張りました。晩飯はみそラーメン二袋。今朝、ストーブのパイプを掃除したせいか、火の出具合がまともになりました。プレヒート後の本焚きのとき、燃料の出を絞るのがこつなのかも。
 いまだに試行錯誤です。
 ラーメンを食いながら、濁り酒をあおりました。ひさしぶりの日本酒は、やはり焼酎より甘みが強い。でも、悪くないです。まともな飯が食いたいなあ。

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6月28日(金)曇ときどき雨 五木のフェイント便所

 夜は川のほとりなので、カジカガエルなどの声が賑やかでした。
 もしかして蛍も飛んでいるかなと思ってテントの中から川の方を何度か覗いてみましたが、それらしき光は見えませんでした。
 朝飯もラーメン。
 出発準備を終え、公園のトイレでウンコして水を流したら、便器からあふれて床上浸水になりました。
 便意が残っていたのであわてて尻も拭かずに女子トイレに逃げ、続きをしました。
 尻を拭いてから水を流したら、今度も便器が水で一杯になって、溢れるかと思った瞬間にズゴゴゴゴーと流れていきました。
びっくりさせるなよ、もう。
 恐る恐る床上浸水の災害現場を覗いてみると、水は引いていたのでほっとしました。
「故障中」
の張り紙でも貼ってやればいいのですが、それはぼくの仕事ではないので、管理の人が直してくれるまでは、このトイレでは人々の恐怖と安堵のドラマが繰り返されていくでしょう。
 ぼくは何人目だったんだろう。

 五木村は五木の子守歌の発祥地で有名だそうですが、五木の子守歌ってどんな歌でしたっけ。
 村では五木の子守歌を題材にした彫刻コンクールを行っているそうで、「子守歌公園」には、子守娘が七変万化した彫刻群が林立しておりました。
 目に付いたのはその程度で、あとはドンドコ人吉方面に山を下りました。
深い谷を見下ろす国道を下ります。知らないうちにずいぶんと山の上まで来ていたんだなあと実感します。
 未送信のメールが溜まっていたので、ようやく携帯が通じるエリアで送信したら、全部送るのに7分もかかってしまいました。日記に写真添付したときは、携帯電話で接続するとつらい。

 ときどき小雨が降ってくるので、レインウエアを着たり脱いだりが面倒臭い。
雨宮神社の杜
雨宮神社の杜

途中、こんもりとした森にひかれて雨宮神社とかいう神社に寄り、人吉市郊外のスーパーでパンとヨーグルトの昼飯を食べ、軒先のコンセントを借りて日記を打ちました。

> あとは、球磨川に沿って八代市に向かいます。北に戻る形になりますが、八代には九千坊という河童が一族を連れて中国から日本に上陸した場所ということで、その記念碑などがあるという話を聞いたので、一応押さえておこうかな、と。
 球磨川は山と山の間をうねうねと流れる川で、船下りが観光の目玉となっているあたりも、我がふるさとの天竜川と雰囲気が似ています。
球磨川と平行して走る国道219号は道幅狭いうえに交通量が多く、自転車にとってはしんどい道ですが、下流に向かうのでギヤをトップにしてガシガシ走れます。
 途中球泉洞(きゅうせんどう)という鍾乳洞がありましたが、もう夕方で閉まっていました。
球泉洞と九千坊、響きが似ていますが何か関係があるのでしょうか。たぶんないだろ。
 鍾乳洞はこれまでいくつか見てきて興味も下火になっているのでいいのですが、隣の「エジソン館」というのはちょっと入りたかったです。
 こんな田舎の洞窟とエジソンがどう関係あるんだろう。

 走っても走っても、谷はいつまでも続いています。
 今夜からは梅雨前線が接近するため、本格的な雨になるそうな。
 どこか雨に濡れない場所でテントを建てたいなあと思いながら走っていたら、坂本町に道の駅があり、そこの売店の軒下が広かったので、そこで寝ることにしました。
 明日朝早く出発すれば、何も言われずに済むだろう。
 
 八代市へはあと10kmちょい。今日は珍しくよく走った。
晩飯は、またまたラーメン。濁り酒をごくごく飲んで寝ます。

西九州後編目次 表紙

6月29日(土)雨 女神の乳と河童のお尻

 朝は、案の定雨でした。
 6時過ぎに起きて、朝飯も食わずに片付け開始。
 7時頃に調理人さんらしき白長靴のおじさんが出勤してきましたが、
「ここで泊まったんかね」
「ええ、雨宿りさせていただきました」
「こんな雨の日でも走るんか。気をつけてな」
と、ずいぶんハナシの分かる人で助かりました。

 雨の中、レインウエアから顔だけ出して走ります。
 朝のうちに八代市に着きました。製紙会社の煙突がゲボゲボと煙を吐いているほかは、さしてどうということのない、こぢんまりした河口の町でした。
 ただ、やはり河童の露出度は高く、市内ところどころに河童関係の物件がありました。
晩白柚がらっぱ

 ある中華料理屋の店先には、ぼろっちいふんどし姿が生々しい河童の巨像がそそり立ってたりしました。手に持っている巨大みかんは、晩白柚(ばんぺいゆ)という八代の特産品だそうです。
 このへんでは河童のことをガラッパと呼ぶそうで、八代は「河童共和国」の発祥の地らしいです。あったなあ、むかし「〇〇共和国」が、腐るほど。
 ゴマンとあったあの共和国どもは、今どうしてるんだろう。パロディとしての国家はもうダメだから、今は地下に潜伏してテロ活動しているのかな。

 九千坊の上陸地点はどこだろうと、まず情報収集のために八代駅に行きました。
飯田駅並に小さな駅で、観光案内所もありませんし、マップ看板にも「九千坊上陸の地」なんてのは載っていませんでした。
 仕方ないので、次に市立博物館に行きました。入館料300円。
 八代から江戸までの各地を描いた絵巻物や、地元出身のシュールレアリズム作家の作品展などをやっていました。
 河童関係の展示があるかと期待していましたが、全くなく、せいぜいビデオで河童関係の昔話を紹介している程度でした(朗読はこれまた常田富士男)。
 映像関係は自分でVHSをデッキに押し込んで見る形で、合理的でした。
 ビデオを見て知ったんですが、八代はトンチ話の彦一さんや、海の彼方に現れる「不知火」などの地でもあったんですね。
 河童に比べて、彦一さんの陰はかなり薄いです。せいぜい「彦一本舗」って菓子屋がある程度。同じトンチ話の吉四六さんは鹿児島の人か?

 幸い博物館に観光パンフレットがあり、そこに九千坊上陸地の場所が紹介されていたので、行ってみることにしました。
 球磨川は八代市内で二つにわかれ、河童の碑が建っているのは前田川という方の川の「徳渕の津」というところでした。昔はここに港があったそうです。
ボイン女神とがらっぱ
ボイン女神とがらっぱ

 で、現在ここにあるのは九千坊の像(「九千坊音頭」付き)。他にケツの筋肉が引き締まった河童が、ボインのねえちゃんと遊んでいるブロンズ像や、昭和29年に建立された石碑などもありました。
 石碑には「河童渡来之碑」と刻まれ、細かい文章は達筆で読みにくかったのですが、要約すると以下のとおりでした。

「ここは□六百年前河童が中国方面から初めて日本に来て住み着いたと伝えられる地である。
 この二個の石はガラッパ石と呼ばれ三百五十年前の橋石であった。
 ある日いたずら河童が付近の人に捕らえられた時、この石がすり減って消えるまでいたずらはせぬと誓い、年に一度の祭を請うたので住民はこの願を受け、祭を五(?)月十八日と定め、今でも『オレオレデーライタ川祭』と名づけて祭を行っている。」

この「オレオレデーライタ」という祭の名前が謎なのですが、河童共和国のホームページによれば、これは中国語で「呉人呉人的来多=呉の国から大勢の人がやって来た」なのだそうです。
 河童の正体は中国の呉からやってきた渡来人だということなのでしょう。
 球磨川に住み着いた九千坊たちは、その後加藤清正によってすみかを追われ、筑後川に移住した、という言い伝えがあるそうです。
 雨のそぼ降る中、石碑の前にたたずんでひたすら碑文を入力している黄色いカッパの男。
通り過ぎる地元住民はそれを見て
「あー、またマニアが来てるよ」
と思ってんだろうなあ。

 八代は河童の他に、妙見様も中国からこの地に上陸したという伝説があるそうで、せっかくなのでそのゆかりの地八代神社にお参りしました。
 妙見は北斗七星や北極星を神格化した神様で、けっこういろんなところで見かけます。
 八代神社の由緒書きによれば、
「天武天皇の白鳳九年(680)、妙見神は神変をもって目深、手長、足早の三神に変じ、明州(寧波)の津より亀蛇(ガメ)すなわち玄武に駕して当国八代郷八手把竹原の津に来朝せり」
とのことです。北極星を司る妙見神が、北を象徴する玄武に乗ってやってくるのはいかにもという感じがします。
 この妙見様の乗ってきたガメが、神社の祭礼の時に登場して練り歩くそうなのですが、このガメについてはこんな解説もありました。
「亀蛇(ガメ)は竜の六番目の子供でピーシーという。重いものを担うのが得意で、頭をなでれば幸福になり、尻をなでれば病気をしないという」
これはつまり、長崎の孔子廟で見た「贔屓」のことかと思われますが(日記5月31日参照)、それでは贔屓と玄武は同じものと考えていいのでしょうか?

 そんなことを思いながら八代神社を後にし、次に向かうのは水俣市。ミナマタといえば水俣病というわけで、きっとそれ関係の資料館があるでしょう。どんなエグイ展示があるか楽しみです(不謹慎)。
 途中のスーパーでクリームパンと牛乳の遅い昼飯を済ませ、メールチェックしてみると、熊本の兎谷さんから
「あなたの二日酔いの姿に涙。こないだは、ゆっくり寝させてあげられなくてすまんかったねー」
と、そして愛知の野田農さんから
「誕生日プレゼントに送ったのは、残念ながら扇風機ではありません。自転車に取り付けて動力補助に使います。
 ただし出力の調整が効かずON-OFFのみなので、スピードが出過ぎないよう運転には気をつけてください」
とメールが届いていました。
 野田農氏、おそらくこの一言を言いたくて携帯扇風機を送ってきたのではないだろうか。

 降ったり止んだりの天気で、レインウエアを脱いだり着たりするのが面倒です。降るとなるとかなり強烈な雨です。
 今日は水俣の手前数キロのところまで行ければいいやと思っていましたが、なんやかんやで水俣市に入ってしまいました。
 ここも、駅の大きさで比べると飯田と同じかそれ未満の規模の町です。水俣病がなければ、県外者に水俣市の名が覚えられることはまずないでしょう。
 市内には、チッソ株式会社の建物があちこちに見られます。チッソって、水俣病を起こした原因企業ですよね、確か。
 何人も死者を出して教科書にまで載った悪名名高い企業が、未だに堂々と存在しているのは、部外者から見てずいぶん意外でした。
 雪印食品なんて、牛肉の偽装をしただけで倒産したのに。
 時事ネタで例えれば、逮捕されても勧告されても辞職しない鈴木宗男さん並のバイタリティーだ。

 生協に入って、半額になっていた鮭弁当と、モロヘイヤを買いました。
 ねぐらは、広い公園の東屋の下。今夜は大雨になるそうなので、雨が吹き込むのは覚悟のうえです。
 最近野菜が不足しているので、モロヘイヤスープを作って飲みました。火の通りが悪く、茎がまだ固かったです。
 五家荘で買った濁り酒がもう空いてしまった。

 コンセントを探して公園の障害者用トイレに入ろうとしたら、鍵がかかっていて中からおっさんの声がしました。
 こんな夜遅くに本物の身障者さんが用足ししているとは思えません。きっと大雨に備えて、ホームレスさんが泊まり込んでいるのでしょう。
 宿無しは大変だ。

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6月30日(日)雨 楽しいぞ水俣病資料館

 明け方近くから、豪雨になりました。これほど激しい土砂降りは、旅に出てから初めての経験です。
 ラジオで聴いていたら、このあたりには大雨洪水警報と、雷注意報が出ているそうな。
 風も強いので、東屋の下に建てても、テントはびしょ濡れです。
 あー、こんな状況で荷造りするの面倒くせーな、今日は一日テントの中にいようかな、と思っていたのですが、ふと外の地面を見ると、水浸しになって、東屋の床にも浸水してきそうな勢い。
 上から降る分にはともかく、下から来る水に対してこのテントはかなり弱いので、慌てて荷造りすることになりました。
 水浸しのテントやシートを畳んで、なんとか準備を終え、濡れそぼったレインウエアを着込みます。最悪に気持ち悪いです。
 靴もゴアテックスなのですが、履き口の部分から水が侵入してきており、中が完全にガボガボです。
 水俣病資料館に向かう途中の道も、完全に水に浸かって池状態の箇所がありました。

 水俣病資料館は市営で、入館料は無料でした。
 受付のおばさんが、一生懸命レインウエアを脱いで入ってきたぼくに
「雨ですねえ」
と言いました。
「九州の梅雨って、こんなもんなんでしょう?」
と訊くと、
「そうですねえ」
と答えました。
 あまり急いで距離を稼ぐ気力もなかったので、じっくり展示を見させてもらってかなり水俣病マニアになりました。

 水俣にチッソが工場を建てたことで町が大きく発展したこと、
大正時代にすでにチッソの排水が漁業に影響を与え、漁民と会社の間にいざこざがあったこと、
その後「猫踊り病」が人間にも進行し、何匹もの猫を生体実験してようやく原因がメチル水銀であると判明したこと…。
なかなかドラマです。
水俣病になった猫が、檻の中で狂ったように(というか、狂っているのかも知れませんが)暴れまわる映像や、ベッドの上で人間の患者が痙攣する映像が繰り返し流されていました。
 母親の胎内でメチル水銀に犯され、白目を剥いて生まれてきたわが子に対して母親が言った言葉
「わたしの毒を、この子が引き受けてくれた」
なんざあ、泣かせますねえ。いや、茶化してるんじゃなくて。
 来館者の寄せ書きを見ると、案の定
「水銀を与えて実験するなんて、猫がかわいそう」
と、子供たちから非難ゴウゴウでした。

 水俣は株式会社チッソによって発展した企業城下町だったこと、そのことが背景にあったために、主な被害者である漁民と、他の市民との間に軋轢が生じたことなど、公害の裏側のドロドロした対立も面白かったです。
 市民団体が、早期に問題を解決するため、行政が救済を行うように訴えるビラを撒いたところ、患者側が
「ビラにはチッソに対する責任追及がない。市の繁栄のためにはチッソが欠かせないから触れないのだ。本当に患者を救いたいのなら、我々のところに何を望んでいるか訊きにくるべきだ。
 水俣病の解決なくして明日の水俣の繁栄はあり得ない、などと言っているが、自分たちが迷惑だから早く問題を解決しろ、という主張は身勝手だ」
と反発したんだそうな。
 うーむ、そんなことを言われると、もしぼくがその市民団体の側にいたら、
「じゃあ、デモでも裁判でも、ずっと死ぬまでやってろよ」
と、言いたくなってしまうところです。
 昨日は
「公害の原因企業がいまだに存続しているのか」
と驚いていたぼくですが、チッソには多額の損害賠償金が課せられているので、チッソが潰れて困るのは当の被害者の人達なんですね。
 最近チッソは経営が奮わず、熊本県などが県債を発行してまでチッソに資金援助してるそうです。
 もしこれでチッソが賠償金を払い終えないまま倒産したりしたら、賠償金は手に入らないうえに援助資金も戻ってこないという、最悪のパターンにおちいるわけです。
 かつては水俣市の天守閣としてそびえていたチッソも、現在ではお荷物的存在となったまま、行政に養ってもらっている、というと大袈裟でしょうか。
 まるで、児童虐待した親が、老後にボケてわが子に養ってもらっているみたいなものだ。

 まあ、チッソのおかげで、良くも悪くも水俣がこれだけ有名になったわけですけど。
 新潟でも同様のメチル水銀公害があったわけですが、これはもはや「新潟病」ではなくて「第二水俣病」なのです。
 市民からは「水俣病を別の名前に変えてほしい」という意見があり、市長も昭和48年に日本神経学会に対して「水俣病の病名等に関する陳情書」を送って病名変更を嘆願しているのですが、この資料館が正式に「水俣病資料館」であることからすると、それっきり市民もあきらめたらしい。
 有機水銀公害が完全になくなって人々から忘れ去られれば、自然と水俣病なんて病名も死語になっていくわけで。
 問題は水俣が、公害よりもインパクトあるプラスイメージのもので売り出せるかどうかですよね。
 うーん、見た限り、他に対して面白いものは町なかには見かけなかったなあ。

 外に出ると、雨は小降りになっていました。
 小降りになったのはいいのですが、走っていると蒸し暑さが地獄並です。
 途中「水俣病歴史考証館」という看板が出ていて、名前に少し刺々しいものを感じて興味を持ったのですが、場所がよくわからず、蒸し暑さに参ってしまってそれ以上は探す気になれませんでした。

 鹿児島県に入ったのはそれからほどなく。
 今夜は阿久根市のつぶれたパチンコ屋の軒下にテントを張りました。雨は吹き込みますが、下が段差になっているので浸水の心配はなさそうです。
 自炊する気力がないので、晩飯は100円引の高菜弁当と、芋焼酎。
 ラジオではW杯の決勝戦をやっていました。個人的には、さして理由もなくドイツが勝てばいいなと思っていたのですが、カーンが点をとられて少し残念でした。
 頼むから、明日は雨が上がってほしい。

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