日本2/3周日記(薩摩) 神話伝説の西九州・後編(薩摩)

7月1日(月)曇のち晴 遠い目のサンダル親父

 倒産したパチンコ屋のわきに階段があり、市民がよく利用する通路だったみたいでした。蒸し暑いテントの中、半裸で荷造りをする怪しい男を、高校生たちが横目で眺めつつ通り過ぎていきました。
 じいさんばあさんの視線など気になりませんが、学生、特に女子高生の視線となると、やっぱ気になります。
 荷造りしているうちに日差しが出てきたので、駐車場にリュックの中身を広げて乾かしました。
 梅雨前線は北に抜けて、今は福岡や佐賀が大雨警報のようです。
 いずれにせよ、雨が二日程度で済んでよかった。
露天風呂の西郷さん
露天風呂の西郷さん

 川内市に向かう途中の道端で、お風呂に入っている西郷隆盛を発見しました。温泉の宣伝で、西郷さんがお気に入りだった温泉だそうです。
 西郷さんに黒くかびたミカンがお供えしてあるのが印象的でした。よくよくみると、西郷さんの手がもげていてかわいそうでした。
 
 背中のタオルを絞りつつ川内市に入りました。川内は、「かわち」とでも読むのかと思っていたら「せんだい」なんですね。
 大した見物はないだろうと思って通過しようとしたら、新田神社という大きな神社があって、天孫ニニギノ命のお墓があるとマップ看板で見たので、行ってみることにしました。
 長い階段のふもとで昼飯。食パンにチーズと魚肉ソーセージを挟んで、水道水で胃に流し込みます。
 じきにアリが寄ってきて、パンくずを運んだり、ソーセージを切ったナイフにたかったりしています。
 蚊も寄ってきて、虫よけスプレーをしていないぼくの股間部分を狙っています。
 
 腹ごしらえをしたあと、神社に参拝して、裏山のニニギノ命のお墓(と呼ばれるもの)にお参りしました。
 ニニギノ命とは何者かを解説しようとすると、天孫降臨神話を語らなければならなくなり、面倒くさいのでやめます。
 だいたい何なんでしょうね、あの神話は。
 タケミカヅチの他は意気地の無い神様ばっかり出てきて、締まりのないエピソードばかりです。
 ニニギなんて、アマテラスの七光りに照らされたおばあちゃん子のくせに、いい役だけかっさらっていきやがって。偉そうなんだよ、コノヤロ。
 神社や御陵の石段には、カニがたくさんいました。
 境内の下の方に、「イザナギ河童、イザナミ河童」なる一対の河童像がありました。「川内ガワッパ共和国」による建立でした。
 
 神社の森から下りてくると、外は強烈な日差しでした。
 暗い雲はほとんど消し飛んで、山の向こうに真っ白い入道雲がにょっきり生えていました。空の青さといい山の緑といい、完全に夏の光景でした。
 うーむ、7月に入ったとたんに夏本番か。
 当初は7月末ごろには青森に行けるかな、なんて考えていたのに、いまだに九州が半分も終わっていない。この先どうなるんだろう。
 
 串木野市には「ゴールドパーク串木野」という、金山跡を観光化したテーマパークがあって、馬鹿そうで惹かれましたが、もう夕方になっていたのでさっさと通過しました。
 鹿児島市へはあと50qほどですが、先に薩摩半島をぐるっと一回りしたいので、国道3号から分かれ、270号に入りました。
 途中の浜辺沿いの公衆便所で一休みし、アクエリアス500cc(W杯関連のこの特別価格はいつまで続くんだろう)をぐい飲みして日記を打っていると、サンダル姿のおっさんが話しかけてきました。
「長野から自転車で?うは、元気やな。わしも40のころ、女房を亡くしてな、落ち込んだ気分変えよう思って車で日本海を新潟まで行ったことあるわ。
 新潟のばあちゃんなんて、わしが話聞いてもちっとも言葉がわからんなあ。
『ばあちゃん、おれ九州から来て言葉わからんから、標準語で喋って』
って頼んでも、やっぱりわからんかったわ。
 北陸はよかったで、うまい魚がいっぱい食えた。いい民宿でな、こんなでっかいカニをたった1000円で食わしてくれた。わし、カニの刺し身なんて食ったのはその時が初めてやった」
「こっちも海のものなんか、おいしいでしょうねえ。なかなか料理しづらいのが悔しいんですけど」
「今が旬なのはトサカやな」
「トサカって、あのボワボワした海草ですよね」
「料理屋でちょろっと出てくるのはあれは塩漬けを戻したやつだからもうダメや。今の季節海岸行くとな、潮が引いたところで岩についとるトサカを浜の衆がとっとる。そこんとこ行きゃ、新鮮な奴をただでもらえる。それにちょっとワサビをつけて食ってみい、うまいでえ」
うまそうだなあ。この先、そんな機会にでくわせるかな。
「これから大隅半島行けば、兄ちゃんみたいなのがごろごろおるで。まあ、気をつけて行きや」
「どーもありがとうございます」
おじさんは去っていきました。
ぼくみたいのに話しかけてくる人って、やっぱその気(放浪癖)がある人なんでしょうねえ。
 
 日吉町という町に入って、ガソリンスタンドで灯油を入れました。
「何に使うの、これ」
「キャンプです」
「じゃあ、この先の天神キャンプ場に泊まるの?」
「いやあ、有料のキャンプ場は嫌なんで」
「たしか有料じゃなかったと思うけど」
「へえ、そうですか」
無料のキャンプ場で寝られれば、これほど気楽なものはありません。
 しばらく行くと確かにキャンプ場の矢印が出てきましたが、本当に無料だとは信じられなかったので、反対側の道に入って運動公園でテントを張ってしまいました。ここも広々していて、とりあえず文句言われることはなさそうです。
 芝生に張って怒られると嫌なので、砂利敷きの駐車場に張りました。ペグが打ち込めないという欠点はありますが、マットを敷けば石のでこぼこはほとんど気になりません。
 今夜の晩飯は、近くのAコープで安かったナスと鳥肉を豆板醤で炒めました。ご飯も炊いて、まともに炊事したのは久しぶりです。
 
 今夜は雨の心配は無さそうですが、沖縄には台風が近づきつつあるそうな。
 九州の台風はきつそうだなー。

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7月2日(火)晴 隠れ念仏洞を暴け

 朝飯はトーストと、ナスとモロヘイヤのみそ汁。
 いい天気になりました。荷造りしてるだけで汗が出てきました。
 このあたりは、森と谷地田が広がり、そこに農家が点々としているというのどかな風景です。
国道と平行している旧道らしき道を走っていたら、道端に「隠れ念仏洞 1q」の立て札を見つけました。
 隠れ念仏。聞いたことあるな。何だっけ。思い出せないけど、すごく怪しくて面白そう。
 ということで、立て札の方向に行ってみました。
 1q過ぎたのにそれらしいものはなく、道が行き止まりになってしまいました。
 隠れ念仏たるもの、あっさりと見つかるわけにはいかないぞ、ということなのかもしれません。
 諦めようかと思いましたが、せっかくなので水路の草取りをしているおばさんに訊いてみました。
「すいません、隠れ念仏洞って看板を見たんですけど…」
「ああ、それなら、ほらあそこ、あたしのバイクが停めてあるとこですよ。立て札立ってなかったかしら」
よく見れば、すぐ近くの道端に、草に隠れて立て札が立っていました。
「もっとわかりやすくすればいいのにねえ。時々道を訊かれますよ」
「へえ、これ目当てに来る人がいるんですか」
「この前は、10人くらいバスで来てましたよ」
ここはかなり有名なのでしょうか。それとも、隠れ念仏ファンの層が厚いのでしょうか。
「隠れ切支丹ってのは長崎の方にありますけど、なんで念仏を隠れてやらなきゃいけないんですかね」
と訊いてみたら、
「さあてねえ。今生きてれば100歳くらいのお年寄りがお祀りしてたみたいですけど。わたしもこの土地で生まれ育ったけど、そんなのあるなんて知らなかったですよ。何でも戦国時代から続いてたらしいですけどねえ。わたしも近ごろは行ってませんからねえ」
「そうですか。ありがとうございます。ちょっと行ってみますんで」
自転車を停めてリュックを降ろし、薮の中にかすかに残る道を上ってみました。梅雨でじめじめと湿っており、陰鬱な雰囲気です。
「その先を右の方に行くんですよ」
その声に振り返ると、おばさんがついてきてくれていました。
「すごい薮ですねえ。これじゃホントに隠れ念仏だ」
「昔はここにも家があったんですよ。跡地に木を植えて出てっちゃったんですけど」
おそるおそる歩いていくと、崖の下に洞穴が三つほどあいていました。
隠れ念仏洞
隠れ念仏洞

「昔はねえ、防空壕だったんですよ」
こんな田舎にも空襲が来たんでしょうか。
 一番大きな洞窟は立って歩ける高さで、横壁に丸く棚のように穴があいています。ここに仏像を安置したのでしょうか。
「へええ、すごいや」
ぼくがずんずん中に入っていくと、おばさんもこわごわ入ってきて、
「こんなところ、一人じゃ来る気になれないねえ」
と言っています。奥に行くにつれて暗くなるのですが、10mほどで行き止まりになっていました。
「どうですか、せっかくなんで一緒に写真に入ってもらえません?」
とおばさんに言うと、
「いやだあこんな格好で。あたしゃ写りませんから」
といって逃げていってしまいました。
 一人で三脚立てて写真を撮り、道路に戻ってくると、おばさんの姿はバイクもろとも消えておりました。
 なんだ、もう一度お礼言おうと思ったのに。草取りの途中じゃなかったのかな。それほどまでに写真に嫌な思い出があるのかな。
 
 ふーむ、鹿児島もかなり怪しいなー、と思いながら自転車に戻りました。
よく見ればこの付近は崖が多く、似たような横穴がいくつかみられます。崖を削って切り通しにして、道と家を繋いでいる風景もよくあります。
 そうした崖は苔に覆われていて、少し湿っぽい雰囲気に木漏れ陽が落ちていたりして、なかなか風情があります。
 
 かんかん照りでくそ暑く、じきに走る気力が萎えたので、吹上町の吹上浜公園の野球場の水道で、洗濯することにしました。シャツや短パン、そしてレインウエア。レインウエアのすそは自転車のオイル混じりの泥が撥ねて真っ黒です。
 洗濯物が乾くのを待ちながら日記を打っていると、車でやってきたおばちゃんに声をかけられました。
「ねえねえ、この近くでホテイソウが咲いてるってのを新聞で見たんだけど、どこにあるのかしら」
「ホテイソウですか?いや、ぼくも外から来たんでわかんないんですけど」
「へえ、どちらから」
「長野ですけど」
「んまあ、長野から。すごいわねえ」
おばちゃんは近くでゲートボールしているお年寄りなどにも訊き回って、ぼくにまた声をかけてきてくれました。
「このすぐ近くの池に咲いてるってよ。あんたもせっかくきたんだら見てきなさいよ」
「はあ、そうですか。どうもありがとうございます」
 そうこうしているうちに便意を催したので、近くのトイレの個室に入って「よっこいしょ」とパンツを下ろそうとしたとき、いきなり個室のドアが外から開いて野球少年の顔が覗きました。
「あ、すいません」
ドアはすぐ締まったのですが、よく確かめてみたら、ドアのカギが壊れていて、ロックを回しても全くカギがかからないようになっていたのでした。
 くそう、格好悪いところ見られちまったぜい。
 
 だいたい洗濯物も乾いたので、リュックに収納して再出発。ホテイソウなどは完全に忘れておりました。
 もう完全に夏の暑さ。金峰山のふもとの金峰町に入ると、早くも稲が実っておりました。もうすぐ黄色く色づきそうな勢いです。蝉もやかましいし、早くも晩夏の風景です。
 道の駅「木花(このはな)館」の休憩所で機材の充電。ここらはニニギノ命が美人の木花咲夜(このはなさくや)姫と結婚した場所だそうです。
 嫌だねえ、ニニギなんて、グランマザコンの上に面食いだから。姉の磐長姫がブスだからって、里に追い返しやがって。舅の大山積(おおやまづみ)命も、妹の嫁入りに姉を引き出物としてくっつけるなんて、親のすることじゃないよなあ。
 それにしても、磐長姫ってどれくらいブスだったんだろう。たぶん、オコゼ並のブスだったんだろう。だとすれば、磐長姫こそ山の女神の本流だ。
 などと、神話マニアな独り言をつぶやきながら、金峰山のふもとを通り過ぎ、加世田市に入りました。
 
 国道226号に入ってしばらくしたところで、
「相星かくれ念仏」
の立て札を見つけました。
また隠れ念仏だ。今度はどんなんだ?と、立て札に誘われて道を逸れて行くと、道はだんだん山の中に入っていって、そのうち舗装がなくなってしまいました。
 うおー、大丈夫かよ?とひやひやしながらそれでも進んでいくと、人里離れた薮の中にぽつんと案内板が立っていました。
相星かくれ念仏
 江戸時代、薩摩藩の厳しい弾圧を逃れ、表向きは禅宗や真言宗を装いながら、浄土真宗(一向宗)の信仰を守り続けた人々が、ひそかに念仏を唱えた洞穴。
 はじめ二世観音だけを祀ってあったが、、一向宗の弾圧を逃れるため、そばに阿弥陀仏を祭って念仏を唱えるようになったと伝えられる。
 解禁後、仏は集落に持ち帰られ、現在も先祖をしのんで、相星西と東の集落が一年交替で祭っている。市内川畑にも、かくれ念仏の洞穴がある。
だそうです。なるほど、浄土真宗は一向一揆とか起こすような宗派だからということで禁止されてたんですね。他の宗派と何が違うのか知らないけど。
相星かくれ念仏洞内部
相星かくれ念仏洞内部

 当の洞穴は、看板から細い階段を下った、じめじめした川端の薮の中にありました。
でっかい岩の下に空洞が出来ていて、賽銭箱が据えてあり、箒がたてかけてあって今でもお参りされていることは確かなようでした。
 中は暗いですが、さほど奥行きがあるわけではなく、目が慣れてくると正面に自然石が仏像然として並んでいるのが見えてきました。たぶん、ご本尊を集落に持ち帰った後、かわりに置いておいたのでしょう。
 隠れ切支丹が自宅の納戸で礼拝していたのに対し、隠れ念仏はこうした洞窟でお参りしていたんですね。こんなところに足しげく通ってたら、それこそすぐ怪しまれるような気がするけど。
 この調子であと百年くらい経ったら、「隠れオウム」のアパートが史跡に指定されるでしょう。めでたしめでたし。
 
 今夜のねぐらは大浦町のふれあい広場の空き地です。
 晩飯は、スパゲティとレトルトのスパゲティソース。残ってたナスを一緒に茹でて、ソースにからめました。
 沖縄に大型で勢力が非常に強い台風が近づいているそうな。
 本場九州での台風体験。楽しみだけど、テント飛ばされたら洒落にならんなー。
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7月3日(水)曇ときどき雨 ぼやけ眼で薩摩半島

 夜、メガネが壊れました。テント内のフックにぶら下げていたら、何もしてないのにメガネのツルがとれてしまったのです。笑ってしまいました。
 華奢なフレームのメガネだったから、こういうこともあるでしょう。どう対処するかは、あしたの朝考えようと、そのまま寝てしまいました。
 
 最近は蒸し暑いせいか、なかなか寝付けません。そのうえちっちゃい蟻がテントの中に侵入してきて、ぼくの体じゅうをもそもそ動き回ってすごく気持ち悪かったです。
 自分が精神病になったかと思いました。
 朝は、珍しくご飯を炊いてみそ汁を作り、サバ缶をおかずに食べました。ゆうべのスパゲティが少し足りなくて、腹が減っていたのです。
 
 朝からぽつぽつ雨が降ってきました。メガネなしでテントを畳み、出発しました。
 裸眼で外を動き回るのは、久しぶりもしくは初めてのことです。
 視界が完全にぼやけています。路上にミミズが這っていても、気づかずに轢いてしまいそうです。
 金魚鉢の中から外界を眺めているようで、どうも現実感がありません。案内標識も、目を細めないとよく見えません。いつもの癖が出て、ついついメガネを傾ける所作をしてしまいます。
 顔の汗を拭くときも、顔全体をぬぐえばいいのに、下半分しか拭わない自分に気づきます。
 
 小雨ながらも降っているので、レインウエアを着ていたら、まるでサウナの中でトレーニングしている減量中のスポーツ選手の境遇でした。
 梅雨は冷たくないので、雨が体に当たっても風邪ひく心配はなさそうです。この蒸し暑さではウエアの中も汗びっしょりで、下着までびっしょり濡れることには変わりありません。
 とすると、蒸し暑さが薄れる分、レインウエアなしで走った方が快適ではなかろうか、などと思ったりします。どうせ人間なんて、お腹の中まで水に濡れているのです。
 タオルで拭けばいいだけなので、体が濡れてもべつに構わないのですが、なんでぼくは汗までかいてレインウエアを着ているんでしょう。
 きっと靴や服が濡れるのが嫌だからなんだろうなあ。いっそ海パン一枚で走ったら、シャワー代わりになってきもちよいいだろうなあ。
 まさか、それをするほどぼくも恥じらいを捨てていませんが。
 …などと、どうでもいいことをいろいろ考えるのも、目が見えなくて風景などに気が散らないからでしょうか。
 
 笠沙町は薩摩半島の端っこにある町で、ニニギノ命が上陸した場所なんだそうです。
 奴は高千穂峰に降りてきたんじゃないのか。
 笠沙恵比須とかいう観光施設で一服し、背中のタオルを絞っていると、同じ東屋に工事の人夫さんが弁当を使いにやってきました。
「この前テレビで、五十幾歳のおじいさんが自転車で日本一周してるのをやってたぞ。テレビ取材がついてるから、行く先々で町を挙げての歓迎をしていたなあ」
「幾つになっても、そういう人はいるんですねえ」
年寄りが自転車で日本一周なんてのは、テレビ受けするんでしょうねえ。
 
 このあたりは、対馬を思い起こさせるほど海岸沿いの上り下りがしんどいです。
 雨が小降りになってきたのでレインウエアを脱ぎ、気を取り直して坂道を上っていくと、パトカーが停まりました。
お巡りさんが降りてきて、
「さっき通りかかって、また会ったからさあ。さっきはカッパ着てたでしょ」
「降ったり止んだりで忙しいんですよね」
どっから来たの、何日目、どういうルートで、仕事は。
「身分証明書持ってる?」
ときたので免許証を見せると、スーツ姿の写真を見て
「ああ、勤めてたころの写真か」
と笑っていました。めんどくさかったので
「ええそうです」
と答えました。別に住所氏名をメモする訳でもなく、お巡りさんはぼくの免許証を見ながら雑談を続けました。
「長野県飯田市か。ちょっと場所わからんなあ。おれは埼玉とか関東地方に赴任してたから。
 うちの息子も二十八歳で無職なんだよ。言ってることも君とおんなじだな。『貯金がなくなったら仕事探す』だって」
「大変ですねえ」
適当にあいづちを打っていました。お巡りさん相手の立ち話は、どうも身構えてしまって愛想よく出来ません。
「引き留めちゃって悪かったな。じゃあ気をつけて」
「ありがとうございます」
いつも思うんだけど、これは職務質問なのか、ただの好奇心の立ち話なのか。
 まあ、職務質問なんでしょうね。お巡りさんの目からは、ぼくは怪しい家出人なんでしょう。指名手配犯の顔写真を思い浮かべて見比べているのかもしれません。
立ち話にそつなく答えるから、
「ああ、こいつはさほど怪しくないな」
と判断しているのでしょう。
 
 次にたどり着いたのは、「笠沙宮跡」と伝えられる遺跡。ニニギが木花咲夜姫と一緒に暮らした場所だそうです。
 ドルメンや住居跡の遺構があるとのことなので、行ってみました。
 斜面に続く階段は下草に覆われ、雨上がりで足がびしょびしょになりました。
これが笠沙宮跡らしい
これが笠沙宮跡らしい

 薄暗いので、メガネのないぼくには何が住居跡やらドルメンやら、よくわかりませんでした。
 よくよく近寄って目をこらすと、低い石垣があったり、でっかい岩の下に洞穴風の空間があったりして、確かに遺跡らしい様相を呈していました。
 しかし、こんな岩がゴロゴロして薄暗くて気味悪い場所に、ニニギはよく住めたもんだ。
 ただし、笠沙宮の候補地はほかにもいろいろあるらしいですが。
 
 さらに226を行くと、坊津町に入りました。
 ここは鑑真和尚の上陸地だそうで、鑑真資料館とか、民宿「がんじん」とか、遣唐使船の形した遊覧船とか、鑑真でがんばろうとしていました。
 素通りしましたけど。
 
 夕方に枕崎市に入ると、降ったり止んだりだった雨が本降りになってきました。
 通りがかりのスーパー兼ホームセンターに寄って、飯とアロンアルファを買いました。
 店先でメガネの折れたところをくっつけようとしてみましたが、失敗しました。
 台風だし、まともなねぐらにありつけるかなあ、と目を凝らしながら自転車を漕いでいくと、運動公園の野球場のトイレ裏に、倉庫みたいな空間があるのを見つけました。
 ゴミを脇に寄せてテントを建ててみると、まさにぴったり。そのうえ壁にコンセントがついていて、充電もし放題。
 どんなに大雨になっても浸水の恐れもなさそうです。
 晩飯は、100円引きの弁当。
 することもないので、ぼんやりラジオやザウルスの音楽を聴きながら寝ました。
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7月4日(木)曇 頑張れムー大陸博物館

 朝には雨が止んで、少し日差しも出てきました。
 朝飯は、助六寿司と食パン。
 もう一度アロンアルファでメガネを修理してみようとチャレンジしてみましたが、やっぱ駄目でした。
 
 こんなところにも散歩中高年は来るもので、おばあさんが一人やってきて、どうやらテントをうさん臭そうにしている様子だったので、先手を打ってテントから顔を出し
「おはようございます」
と挨拶してみました。
「わあ!びっくりした」
と驚かれたところをみると、ぼくのテントなど別に気にしていなかったのでしょう。
 このおばあさんがまたよく喋るおばあさんで、
 あたしが尋常小学校のころはこの運動公園で運動会をしたのよとか、
 枕崎の流水プールより、坊津町の海水プールの方が海水だから健康にいいのよとか、
 枕崎はカツオ漁で有名なんだから、今日の昼は枕崎のお魚センターでカツオタタキ定食を食べるといいわとか、
 たまには親御さんに絵葉書でも買って送ってあげなさいとか、
 昔話から観光案内を経てお説教まで、たて続けに喋ってくれました。
「それじゃあね、いい旅をね」
「どうもありがとうございます」
ぼくがテントの中に引っ込もうとすると、立ち去りかけたおばあちゃんは戻ってきて
「いいかい、親御さんに絵葉書送ってあげなさいよ」
と念を押してくれました。
 
 野球場は静かだったのですが、今日は隣のグラウンドでゲートボールの大会が開かれるらしく、どやどやとお年寄りが集結してきて、駐車場は紅葉マークの軽トラで埋まりました。
 野球場のスタンドに座って日記を打っていると、今度はおじいさんが近寄ってきて、
「わしも若いころ旅をしたなあ。農家の手伝いしたりしてなあ。これから指宿か。池田湖とか開聞岳寄ってくといいぞ。
 砂蒸しは指宿よりも山川の方がいいぞ。指宿は客が多いから汚い。山川には100円で入れる温泉もあるしな」
と、いろいろ情報を提供してくれました。ありがてえぜ。
 
 10時過ぎにようやく出発して、お魚センターをひやかして、枕崎駅で観光パンフを入手して、大して面白いものはないことを確認して、手近な眼鏡屋に入りました。
座っていたのは若くてきれいなおねえさんで、
「いらっしゃいませ」
「すいません、この眼鏡、壊れちゃったんですけど直りますかね」
店員さんは眼鏡を受け取って奥に入っていきましたが、やがて戻ってきて
「この眼鏡、何年ぐらいになります?」
「フレームは一年ですけど」
「ちょっとねえ、折れた部分が細すぎちゃって、くっつけられてもすぐ取れちゃうと思うんですよ」
「あー、やっぱそうですか。新しいの買ってもいいんですけど、旅先なんでね」
「枕崎の方じゃないんですか。それじゃ困りますよね。テープでくっつけときます?格好悪いですよね」
「…いいです、どうもありがとうございました」
「すみませんね。どうぞいい旅を」
店員さんに見送られて、ぼやけた視界のまま指宿方面に走りだしました。
 
 ゆるやかな上り下りで、走りやすいです。坂がゆるやかなせいか、ほどよく風があるせいか、昨日と比べれば汗もかかずに走れました。
 
 前方にきれいな山が見えてきて、開聞岳と知りました。
開聞岳のふもとにはサツマイモ畑が広がって、その中に「さつま白波」の焼酎工場があって、きっとこれが鹿児島の「原風景」なのでしょう。ホントかよ。
 開聞岳が間近に迫ってきたあたりで、池田湖の標識が出てきました。
池田湖は『珍日本紀行』でも、イッシー資料館やムー大陸博物館があると紹介していたので、行ってみることにしました。
 国道沿いのスーパーでコーヒー牛乳とアンパンを買ってから、国道を左折。
 狭くて真っ暗な峠のトンネルを抜けて少し下ると、眼下に湖が見えてきました。山に囲まれた、ほぼ円形のきれいな湖です。
池田湖と開聞岳
池田湖と開聞岳

 後に見た案内板によれば、池田湖は火山が沈没して水がたまったカルデラ湖だそうで、道理で姿が良いわけだ。
 うーむ、今回の旅で湖を見たのは初めてじゃないか?なかなかいいもんだ。
 池田湖の駐車場には、案の定イッシーの張りぼてがたくさんありました。
 しかし、イッシーが流行ったのって、何年前なんだ。ずいぶん経つだろ。
 休憩所でコーヒー牛乳とアンパン三つを食い、甘ったるくて気持ち悪くなったのでラーメンを作って食ったら少し食い過ぎました。
 なんやかんやでもう時刻は3時半。これからイッシー資料館に行って、さらに近くにあるという「ムー大陸博物館」にも行かなければなりません。
 慌てて自転車を漕ぎ、横っ腹が痛くなったのですが、イッシー資料館はそれらしきものが見当たりませんでした。
「イッシー王国」なる観光施設の廃墟があったので、たぶんこれのことでしょう。
 なんだか『珍日本紀行』の追跡調査をしてるみたいで、我ながらそこはかとない空しさを感じるのですが。
 
 次に目指すは「ムー大陸博物館」。これは、学生時代にも九州出身の友人から噂を聞いていたので、実いうと鹿児島で行きたいところのベストワンでした。
 インターネットで詳しい住所を調べると、池田湖の近くらしいとわかりました。けっこう克明に取材しているホームページもあるので、ぼくの日記ではどう扱えばいいものか。
「鹿児島はムー大陸の一部だった」
という主張の博物館らしく、そのトンデモぶりはいくらでも突っ込めるでしょうが、それを改めて繰り返しても、なんか今さらって気がするしな。
 そんなことを考えながら、坂を上ってムー大陸博物館に着いたのは4時ちょい過ぎ。
 閉館は5時半だそうなので、なんとか見学する時間は確保できました。
 
 ムー大陸博物館は、「平等大慧会」という新興宗教の「宝台(たからだい)」もしくは「多宝仏塔(たほうぶっとう)」などと名付けられた施設の一部で、「宝台宝物館」が正式名称です。
 平等大慧会は仏教系、というか仏教風の新興宗教で、初代教祖が
「この地こそムー大陸の一部であり、ムーの人々が崇拝していた『多宝仏塔』があった場所だ」
と言い始めて、昭和34年にその多宝仏塔なるものを「再建」し、一大聖地にしてしまったのでした。
 教祖に言わせれば、仏教の極楽浄土も、キリスト教のエデンの園も、神道の高天原も、すべてはムー大陸のことを指しているのだそうです。
 ムーの国は天帝良武(ラ・ムー)という王様が支配し、「世界の平和のために日夜駈けめぐるムーの子孫たちがいた」のだそうです。
 けれど悪者たちが多宝仏塔を破壊してしまったために、ムー大陸は沈没してしまったのだそうです。
 
 多宝仏塔には「多宝仏」という仏様が祀られているということで、これが平等大慧会のご本尊のようでした。
 で、宝物館には教祖の唱える歴史の正しさを実証する品の数々が展示されている、という趣向なわけです。
 宝台への入場料は払う側が決める「おこころざし」制度で、宗教施設としては珍しく良心的でした。
 ぼくは財布の中の小銭全部を払いました。600円くらいだったかな。
 受付のおばさんがくれたパンフレットを見ると、
「薩摩半島の新名所」とか
「ムー大陸に興味のある方、必見です」
などと書かれており、教団の側もかなり観光客を意識してこの施設を作ったようでした。
多宝仏塔
多宝仏塔

「多宝仏塔」は、仏塔のふりをした展望台といっても過言ではなさそうでしたが、何はさておき、仏塔の隣にある宝物館に直行。
 
 この手の博物館というと、創設者の手書きで誤字だらけの解説がべたべた貼ってあり、半分壊れたような展示品が転がっている、というイメージがあったのですが、意外や意外、ディスプレイに限っては至極まともな博物館でした。
 地上一階、地下二階建で、地上はエントランス、地下一階が鉱石などの展示室。
 水晶やタカラガイなどが展示されていて、こうした宝が集まってくることこそがここがムー大陸の多宝仏塔の地である証拠なのだそうです。
 というか、実際は信者からお布施をふんだくって買い集めたんだろ?
 それでも、きちんとしたガラスケースに入ってきちんとライティングされて、かなりマトモでした。
 お目当てのムー大陸コーナーは地下二階です。眼鏡なしだとどうも見にくいので、片方のツルだけでかけてみたところ、なんとかけられました。すごい格好悪いですけど。
 入り口では、男女一対の「ムー人形」が出迎えてくれました。ミミズク型土偶をアレンジしたものと思われますが、オスの方にはおちんちんがついていて、それが仮性包茎でかわいいのです。
 撮影禁止なのですが、思わず撮ってしまいました。教祖様には内緒よ。
 展示コーナー中を一目見て、
「なあんだ、ここはムーバレーじゃないか」
とつぶやいてしまいました。
 なんとなくインカ帝国風な「ムーの神殿」やら「ムー文字」などが展示されていました。
 ぶっとんでいるのは、三千万年前に存在したというムー大陸の形。大陸は三つあったそうで、月形、太陽型、そして菊花紋の三つが、太平洋を埋め尽くしていました。
 他にも、エジプトの壁画が描かれていて、
「エジプトの死者の書に描かれているオシリスは閻魔大王で、悪を退治する桃太郎と犬・猿・雉のことが記されている」
と解説されていたり。「だからそれがなんなんだ!?」と叫びたくなるような展示ばかりでした。
 エジプトやらインカやら仏教やらを持ち出してきて、あれこれムー大陸の実在性を理屈付けようとしているようなのですが、その理屈すべてが互いにかみ合っておらず、単に教祖の思いつきを垂れ流しているだけで、見る者を失笑させてくれるのでした。

 山口の美川ムーバレー(日記5月6日参照)は、平等大慧会とタイアップすればいいのに。
 ムーバレーに欠けている「独自の歴史観」が、このムー大陸博物館にはしっかりと存在しています。
論理性には欠けていますが、主張も理屈もあります。
 確かにトンデモではありますが、自分の責任で自分の歴史観を主張している点においては、雰囲気作りだけで1000円もふんだくるムーバレーよりずっとマトモだと思うのですが。

 展示は全て撮影禁止で、天井には監視カメラもついていましたが、
フラッシュ焚かなきゃわからんだろうとタカをくくって、ザウルスで数枚撮らせてもらいました。
BGMに混じって
「お客さん、写真は撮らないでください」
という低い男の声が聞こえたようにも思いましたが、空耳かもしれません。
 
 ムー大陸コーナーの終わりには、教団の理念を解説しているコーナーがあったのですが、これがまた不必要に理屈っぽく、こんなんで信者がついていけるのかしら、と他人事ながら心配になりました。
 でも、こーいう理屈にならない理屈を積み上げて相手を圧倒するという手法は、前いた会社の上司の営業戦法そっくりだなあ。そういや教義の紹介パネルもムー大陸の解説パネルも、どこかしら常務が使っていた
「あなたの村が日本一になるためのステップ」
とかなんとかいうレジュメに良く似ているぞ。特に矢印の引っ張り方が。
 ああ、気持ち悪い。
 
 博物館を出て、ショップによりました。よく吠える犬と、おばさんがいました。
「プライムテン」という清涼飲料水が、教団オリジナル商品だと噂を聞いたので、飲んでみることにしました(110円)。
 梅ソーダをベースに、朝鮮人参など薬っぽいものを混ぜているようでした。
 出口に向かうと、門の受付にいたおばさんが、食べかけのお好み焼きを片手にこちらへ向かって来るところでした。
「門は閉めちゃいましたけど、管理小屋の脇から出られますので」
「そうですか。どうも」
 
 外に出て、どっこいしょとリュックをかついで漕ぎ出そうとしていると、
5人ほどの観光客がやってきて、閉ざされた門を恨めしげに見上げていました。
けっこう客来るんだなあ。世の中物好きばっかり。

 山幸彦が海神の宮女たちに出会ったという玉の井(同じものが対馬にもあった)を見物し、枚聞神社に参拝し、今夜は開聞岳のふもと、「かいもん山麓ふれあい公園」近くの東屋に陣取りました。
 晩飯は、スパゲティ。
 あしたは開聞岳に登れるといいなあ。天気が心配だ。
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7月5日(金)雨 テントという名の繭

 朝から雨。風が強く、東屋の中にも吹き込んできてテントを激しくたたきます。
 ラジオによれば、台風に向かって吹き込む低気圧のせいだそうで、鹿児島の薩摩地域には大雨注意報が出ているとのこと。
 朝飯は昨日の残りのアンパン。
 開聞岳にも登れないし、あー、めんどくせーな。今日はどこにも行くのよそうかな。
 ということで今回の旅初めて、一日中どこにも行かず、テントの中で過ごしました。
 道路からも見えにくいし、人も滅多に来ないし、水道やトイレもあるので、居心地いいんですよね、この東屋。
 ただ、テントから顔を出すと、どういうわけか恐ろしい数のハエがたかってきていて、うっとうしいので歯磨きと小便以外には外に出ませんでした。
 対馬の子供たちが「このテント、臭い」と言っていたのを思い出しましたが、ハエたちはゴミよりもテントそのものが目当てらしく、盛んに舌を出してテントを嘗めています。
 ここ最近雨天続きでテントにもカビが生えているので、ハエたちはそのカビを食べているのでしょうか。
 しかし、テントよりも一層ハエたちの人気を得ていたのは、靴でした。ハエって、この種の臭いにも反応するんですね。知らなかった。
 蚊取り線香を焚いてみましたが、一匹のハエも逃げませんでした。
 
 うたた寝したり、メールチェックして返事書いたり、ぼんやりと考えごとしたり。
 ぼくの四国巡礼のホームページを読んだ人から、感想メールが届いていました。なんとなく若そうな女性(少なくとも名前は)からだったので、うれしかったです。
 これまでは、おっさんや年寄り(らしき人)からしか感想が寄せられていなかったのでした。いや、それでいいんだけど。
「子供のころ牟岐の正観寺の八大地獄につれていかれ、完全にトラウマになりました」
と書かれていて、面白かったです。
 
 自転車を漕いでいても、テントの中でのったりしていても、時間は流れていくもので。
 昼にラーメンを食い、晩にご飯を炊いてレトルトカレーをかけて食べました。
 天気予報ではあしたも雨らしい。目の前の開聞岳は中腹まで雨雲に覆われています。
 
 天気の如何にかかわらず、あしたはここを動かねば。
 これ以上テントでじっとしていたら、精神的に腐って本物のホームレスさんになりかねない。
 しかし、薄暗い中でじっとしていると、大学4〜5年頃の鬱状態を思い出して懐かしい気分でした。
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>7月6日(土)雨のち曇のち晴 人情眼鏡店

 夜はこれまた風と雷雨がかなりきつかったです。
 朝になっても降っていましたが、きのう一日ゆっくりサボったおかげで、なんとなくいつもより元気が出てきました。
 つくづくハエの多い東屋で、テントを畳んでいる間にもぼくにハエがたかってきます。おれはウンコか。
 牛みたいに体をブルブルさせて追っ払いました。
 開聞岳も雨雲に覆われていたので、山登りは断念しました。
 
 サツマイモ畑を走りだして、まず向かったのは薩摩半島の最南端、長崎鼻。
 なぜかガラスケースに入れられてお祭りされている「白蛇様」にお参りし、土産物屋参道を通って、小さな白い灯台のある岬に出ました。
 海は茶色く濁って、ドドーンと崖に打ち寄せていました。
 灯台の上では、どこから逃げ出したのかオウムが二羽、ギャアギャア叫びながら飛び回っておりました。
 次に行ったのは山川町の砂蒸し温泉。
 ガタガタ道を走った海辺の崖下にありました。浴衣込で800円。
砂を掘るおばさんたち
砂を掘るおばさんたち

 脱衣場で浴衣に着替え、手ぬぐいとカメラを持って外に出ると、覆いテントの砂場があって、数人のおばさんたちが
「いらっしゃーい」
と言うなりスコップでざくざく砂を掘り始めました。
手ぬぐいで頬被りをしてくぼみの中に横たわると、おばさんたちがどさどさと砂をかけてきます。
 ずしん、ずしんと砂の重みが体を締め付けます。砂をかけながらおばさんの一人が
「自転車でいらっしゃった方?」
「ええ。よくご存じで」
「ここから見えましたもん」
おばさんたちは一斉に笑いました。
 ざく、とかわいいパラソルを枕元に刺してもらって、砂蒸しの完成です。
 デジカメで撮ってくれるように頼むと、おばさんの一人が使い方も訊かないで、そつなくシャッターを切ってくれました。
 
 砂の中は、たしかに暖かい。地底から熱が湧いてきていることがよくわかります。
 どくん、どくん、という心臓の鼓動が指の先まで伝わり、そのたびにぎゅっ、ぎゅっと体が締めつけられるような感覚です。
 耳に聞こえてくるのは、波の音とおばさんたちの雑談ばかり。気持ち良くて寝てしまいそうになりました。
 好きなだけ砂に蒸されていていいそうですが、目安は15分ということで、実際15分過ぎるとお尻が熱くなってきました。となりのおばさん客は
「全然汗かかないわ」
と言って20分以上蒸されているようでしたが、ぼくは18分ぐらいでたまらなくなり、半身を起こしました。
砂をぐりぐりと掘ってみると、30センチもしないうちに砂が熱くなっていました。
 
 砂蒸しというものはこんなものか。なるほど了解、と、砂から這い出て砂落としのお風呂に入りました。
 これもどうやら温泉のようです。しょっぱいお湯だったので、地熱で温められた海水なのかもしれません。
 石鹸は使えませんでしたが、垢を落としてさっぱりすることができました。
 砂蒸しが体験できて、普通の温泉にも入れる。これで山口の「天宿」の温泉と同じ800円とは、ちょっと得した気分(日記5月8日参照)。
 
 休憩所で充電と日記打ちしてたら、静岡から来たという夫婦と一緒になりました。
「へえ、自転車でねえ。静岡来たら泊めてあげようか、なあお父さん」
などとおばさんは言っておりました。
 
 昼過ぎになって、雨も上がり日が出てきました。
指宿方面へ出発。指宿って、「いぶすき」って読むんですね。なんでそんな読み方するんだよ。どう読んだって「ゆびやど」か「ししゅく」だろうが。
 国道のトンネルをくぐって、市内に入りました。
 駅前のスーパーでパンやらパックジュースやらを買い、郵便局でお金を降ろして、「ふれあいセンターなのはな館」の一隅で干し物をしながら昼飯を食いました。
 食パンに缶のツナを挟んで、レモン水で流し込む。
 ふと消毒薬の臭いに振り返ると、造園業者のお兄さん(つってももう40代入ってるかな?)が、花壇を消毒してる最中でした。
「ああ、すいません」
と消毒さん(いい加減な仮名)。
「こっちも消毒します?」
「ええ、すいませんけど、あっちの方に移っていただけますか」
「はい」
 場所を移動してパンの続きを食っていると、消毒さんが缶コーヒーを二本持ってやってきました。
「すいませんねえ、もうすこしでかかっちゃうところだった。これ、おわびです」
「え、いいんですか。ありがとうございます。いただきます」
ありがたくプルタブを引きました。
「この自転車で長野からですか。一日どれくらい走ります?二百キロ、三百キロ?」
「とんでもない。最近は五十キロくらいがせいぜいで」
「ぼくもね、学生のころ山梨にいて、鹿児島から長崎まで自転車で走ったことありますよ。大分からフェリー乗ってずるしちゃいましたけど。宮崎が大変でしたね。山ばっかりで、ずっと自販機もないんですよ」
「タイミングはずすと、そういうとき辛いですよねえ」
「けっこう自転車は好きでねえ。諏訪から霧ヶ峰登って、清里に出て、帰りの下りを突っ走ってるときトラック避けようとして側溝に落っこちて自転車大破してねえ、
トラックの運ちゃんに『七十キロ出てたぞ』って言われたよ。奇跡的に怪我なかったけどね」
「へええ。ぼくはそんなスピード出そうと思っても出ませんよ。危なかったのは福岡の犬鳴峠に遊びに行ってトンネルの中でコケたぐらいで」
「ああ、あのオバケの出るっていう。このあたりにもそういうのあるよ。
新しいトンネルだけど、枕崎からこっち来るときにくぐったでしょ。あそこなんか出るって言われてるね」
「へえ。そんな出そうな雰囲気じゃなかったけど」
いろいろと話が弾みました。
「こっちまで来たら、ぜひ本場の台風を経験してもらいたいねえ。でかいのが来ると、木が地面にくっつくぐらいしなるからね。でもフェニックスヤシなんてのはすごい。どんなにしなっても折れないんだ」
そんなすげえ台風来たら、ぼくはどこに避難すればいいんだ。
 
 消毒さんも仕事に戻り、ぼくもテントを畳んで、お礼を言って出発しました。
 次に寄ったのは、眼鏡屋。だめもとで修理を持ち込んでみました。
カウンターにいたのは顎のながいおじさんで、
「これ、当店の眼鏡ですか?長野?それはまた…。もしチタン製だったりすると、真空状態で接合するんでうちじゃ直せないんですけど、まあ、試しにやってみましょう」
と、無表情のままで言ってくれました。
待っている間、別の店員のおっさん(店長かな?)が、
「私も長野にはよく行きますよ。アルプスを縦走したりしてね。塩沢湖って知らない?そこに合宿所があるんだけど。ああ、知らないですか」
すいませんねえ、話題が繋がらなくて。
 
 小ぎれいな眼鏡屋の中で、汗くさい自分の体臭を気にしながら、修理を待つというのは疲れるものです。
 それでも、「俺って本当はどんな眼鏡が似合うんだろう」と、その辺の眼鏡の試着などして遊んでいると、アゴ長さん(失礼な仮名)が戻ってきました。
「ちょっとメッキ部分が変色しちゃいましたが、ご容赦いただいて。レンズも傷がずいぶん入ってますから、早めに新しくなさったほうがいいですよ」
と、直った眼鏡をもってきてくれました。
ありがたいことに、ゆるんだツルの角度も調節してくれています。
「ありがとうございます、おいくらです?」
「うちは修理が専門じゃないんで、お金はいいですよ」
「ほんとうですか。ありがとうございます」
それこそ寸志でも差し出したい気分でしたが、ありがたくサービスしてもらいました。いやあ、感謝感激。
 お礼を言って外に出て、自転車にまたがって店を見ると、アゴ長さんが店先まで出て見送ってくれていました。
ぼくとしては、
「どーもありがとうございました!」
もう、それしか言うことないんですけど。
アゴ長さんがぼくに向かってゆっくりと頷くのが見えました。
 
 三日ぶりに眼鏡をかけると、見える見える。しばらく裸眼で鍛えられてたせいか、今までよりもきれいに見えます。
ご機嫌になって鹿児島方面に走り、今夜は喜入町のENEOSの石油基地近くの空き地にテントを張りました。
 晩飯のおかずはキャベツと鳥肉のスープ。野菜不足を感じたので、キャベツを4分の1個、芯ごとコッヘルに放り込み、隙間に鳥肉を押し込んでコンソメで煮ました。晩酌はさつま白波。
 あしたは鹿児島市に入って、そろそろ離島巡りに出発です。
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7月7日(日)晴ときどき雨 親分肌のホッティーさん

 朝飯はパンとみそ汁(具はキャベツと鳥肉)。
 昨日買って飲んだ低脂肪牛乳のせいか腹の調子が悪く、朝方二度も近くの道の駅のトイレに走りました。

 けっこう早起きして、出発したのは朝8時。どんどん走って11時頃に鹿児島市内に入りました。
 公園で携帯料金のチェックをインターネットでやったり、昼飯(巻寿司)を食べたりした後、フェリーの出ると思われる港を探して走りました。
 インターネットで調べたら、谷山港から奄美諸島行きのフェリーが出てるらしいとあったのですが、実際行って見るとどうやら一般客は乗れなさそうな感じでした。
 その後鹿児島駅の観光案内所で市内の観光パンフと奄美・沖縄行きのフェリーの時刻表を入手しました。
 最初からそうすりゃよかったんだ。
 
 屋久島が今大人気だそうで、この前ラジオでも
「屋久島はすばらしい」
「感動だ」
「癒される」
「もういちど行きたい」
と絶賛されていたので、臍曲がりなぼくは敢えて行かないことに決めました。
 代わりに種子島に行こうかなとも思ったのですが、種子島行きのフェリー時刻表をもらうのを忘れ、とりあえず奄美沖縄行きのフェリー乗り場に行ってみたら、ちょうどいい時間に船が出るところだったので、奄美大島に行くことにしました。
 ほんと、行きあたりばったりだなー。
 チケットを買ってから(7800円)、近くのコンビニに走って弁当を買いました。
「お弁当温めますか」
スパーの店員のおばさんに訊かれ、
「うーんと、そうですね、温めてください」
と答えると、
「船の中で食べるんなら、温めない方がいいんじゃないですか?」
「うーん、そうか、じゃあいいです」
ぼくがフェリーに乗る旅人さんであることはお見通しなのでした。
 大慌てで乗り場に戻り、自転車を畳んで輪行袋につめこみ、委託荷物に預けました。750円。自転車として乗り込む場合の半額です。
 
 早く乗船していい場所を取ろうと、勇んで並んで乗船したのですが、場所は指定されていて、がっかりしました。
 二等客室にはずらりとマットとシートが並べられており、その間隔がこれまた狭い。こんなところで赤の他人と片寄せあって寝るのはしんどいなー。
 ぼくの隣は若い夫婦で、ぼくみたいな臭い無宿者が隣じゃあ臭くて眠れないだろう。
 
 ということで、まだ出港してもいないうちからお風呂に入ることにしました。
 風呂場にも先客がいて、布袋さんかと思うほどのおデブな外人さんが体を洗っておりました。
 背中になにやらタトゥーを入れているのが目に入って、一瞬やーさんかと思いました。ひょっとこのタトゥーだったかな。そんなはずはないな。
「お邪魔しまあす」
と入っていくと、ホッティーさん(仮名)はぼくに顔を向けて、
「お湯が熱くてまだ入れないよ」
と言いました。完璧な日本語でした。
「そうですか?どれどれ」
と湯船に手を入れてみると、お湯はまだ入れ始めたばかりで、たしかに熱い。
 ホッティーさんが水を足してくれているので、体を洗いながら待つことにしました。
 風呂場には石鹸がありません。自分の石鹸も自転車のハンドルバッグにおいてきてしまいました。まあいいや、垢を落とせばいいのだ。
 ようやく湯船にほどよい温度のお湯が溜まって、ぼくとホッティーさんは湯船に浸かりました。
 ホッティーさんは気さくな人で、いろいろ話をしました。
 ぼくは自転車旅行なんですよ、どこから、長野から、ああ長野のどこ、飯田です、知らないなあ、マイナーな町ですからね、みたいな通り一遍の会話でしたが。
 
さっぱりしていい心持ちでロビーに出ると、先に風呂から上がっていたホッティーさんがいて、
「どうだ、ビール飲むかい?」
「え?いやー、ははは」
ぼくがへらへら笑うと、
「飲みたいんだろう?」
ばんとぼくの背中をたたいて、自販機の発泡酒をおごってくれました。
「外に出ようか」
ぼくは完全にホッティーさんの子分状態で、後について甲板に出てました。
「それじゃ、お疲れさま」
「かんぱーい」
いやあ、フェリーの甲板、風呂上がりで飲むビール(発泡酒だけど)は最高だなあ。それもオゴリ。
 夕方一時雨が降った鹿児島市内もきれいに晴れて、桜島が見事です。
 フェリーが動きだすと、ホッティーさんは港で船を見送っている人に手を振っていました。たぶん、赤の他人でしょう。すごくひとなつっこい人です。
 
 発泡酒飲みながらまたいろいろ話をしました。
 彼は奄美大島の名瀬で英語教師をしているそうです。
 五年前に奄美に来て海の美しさにひかれ、ここに住もうと決意して、首尾よく女房見つけて定住に成功したのだそうです。
 バイクが趣味の走り屋さんで、チューニングがどうの、トルクがどうのと話してくれましたが、知識のないぼくは相槌を打つばかりでした。
 二年前にレースに初めて出てあっというまに転倒して骨折し、その後運動不足と酒の飲み過ぎで布袋様状態になってしまったのだとか。
「来週広島で大会があるんだよ。二年ぶりに出場するんだ」
「へー、頑張ってくださいよ」
「奄美にはどれくらいいるつもりなの?」
「決めてないんですけど。とりあえず島一周しようと思って」
「国道行くだけならともかく、一周となるときついよ。海岸沿いはこんなんだからね」
と、手をくねくねさせます。あー、それしんどそう。
「自分のふるさとはワシントン州でね、よく湖に飛び込んで遊んだんだ。70mくらいの崖の上から。水がきれいで底の岩まで見えるんだよ」
「こわ〜」
話しているうちに船は鹿児島湾のなかほどまで来て、近くの海面になにやらぴょんぴょん跳ねているものがみえました。
「あ、あれイルカじゃないですか?」
ぼくが指さすと、ホッティーさんは
「ほんとだ!イルカだイルカだ!初めて見た!」
と大はしゃぎ。回りの客にも
「ほら、イルカイルカ!」
と言い触らしています。奄美に五年も住んでいて、イルカ見るの初めてとは、それも意外な気がするんだけど。
 そのうち船内放送でも
「ただいま右手方向にイルカがごらんいただけます」
とアナウンスが流れました。
 イルカは十頭ほど、船に併走して軽いジャンプを繰り返しながら泳いでいます。尖った背びれがよく見えます。
 こんなところにイルカがいるんだねえ。びっくり。
 
「あ、申し遅れましたけどぼくイマイといいます」
「自分は〇〇。本名は◆◆◆◆っていうけど、〇〇って呼んで」
忘れちゃったんだよな、なんて名前だっけなあ。
「晩飯は食べた?」
晩飯までおごってくれそうな勢いでしたが、
「いや、弁当買ってありますんで」
と断って、もっと酒を飲むんだというホッティーさんと別れました。
 ぼくは船室にもどって弁当を食い、コンセントに充電器をセットして、暇だったので再び外に出ました。
なにしろぼくの寝場所の両隣に他の客がいて、すごくいづらいのです。
 甲板に出ると、ちょうど夕日が沈むところでした。
とてもきれいだったので写真を撮ろうとしましたが、バッテリーが充電中だということに気がつきました。
 ぼくが昨日今日走ってきた海岸が、群青色に染まっています。日が沈んで筋雲が赤く染まり、やがて空が濃い青紫になって金星が光り出しました。
 ずいぶんと暗くなるまでぼくは海岸を眺めていました。
 
 8時過ぎて開聞岳の近くに差しかかったとき、船は急に減速してUターンし始めました。
「なんだ?台風6号の影響で航行中止か?」
と思いましたが、アナウンスもないので理由も分からぬまま、ぼくは船室に戻りました。
 船室には空きスペースが多く、ぼくの隣の夫婦が別の場所に移動してくれたので、ぼくは自分の場所に居座ることができました。
 会社は番号の順番に端から乗客を指定していきますが、空いている日はどこで寝てもOKにするとか、場所を隔てて指定するとか、何かしら工夫してほしいものです。
 たまっている日記を打っていると、アナウンスで急病人が出たので、巡視船に移らせるまでしばらくお待ちください、との放送がありました。
 なるほど、そうだったのか。
 9時過ぎに消灯となりました。
 ぼくの左側の夫婦のスペースが空いているので、一つ隣にずれてもよかったのですが、なんとなく今まで他人が使っていた毛布に移るのがいやで、ぼくは正規の自分の場所で寝てしまいました。
そのせいで右隣のお兄さんを窮屈な目にあわせてしまいました。
 寝返りを打たずに寝るって、拷問ですね。ぼくは左に人がいないので寝返り打つのも楽でしたが、隣のお兄さんは両側が封じられているので大変だったと思います。
夜中、ときおり
「いてて」
と呟いていましたが、きっと寝てる間に体が強ばってしまったのでしょう。ぼくが意地を張らずに一つずれればよかったんだなあ。次回気をつけます。
 船がゆっくり揺れるのが心地よく、ぐっすり眠れました。
 ただ、冷房が効いていて、少し喉を痛めました。

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