日本2/3周日記(奄美) 南西諸島だらだら編(奄美)

7月8日(月)晴ときどき曇 奄美の大ダコ伝説

 ゆりかごに揺られるようで気持ち良く寝てしまい、目が覚めてしばらくもしないうちに船は奄美大島名瀬市の港に着きました。時刻は朝の6時半。
 最後にホッティーさんに挨拶しそびれて残念でした。
 汗まみれのシャツと短パン姿に戻って奄美上陸。船のエアコンに慣れてしまったせいで、島のねっとりした温風がこたえます。
 荷物引き渡し所をようやく捜し当てて自転車を組み立て、島の案内看板をぼんやり見上げた後、近くに公園を見つけて洗濯と日記打ちをしました。
 台風だからか奄美だからか、雲の動きが早く、晴れていたのが急に曇って雨が降り、すぐ止んで日が差すという、めまぐるしい天気です。
 公園にはぼくのほかに、暇そうな年寄りや高校生が淀んでいます。朝っぱらから高校生がこんなとこで携帯で遊んでていいのか?
 
 なんやかんやであっというまに昼になってしまったので、近くのダイエーで買い物しました。
 これから島一周の間、まともな店がないことを想定して、レトルトカレーやラーメンを買い込み、サーフパンツを買いました(3000円)。
 これで海水浴もできるし、これ履いて走ればレインウエアのズボンがいらないだろう。
 一人で海水浴ってのは寂しいものがあるけど。
 
 さっきの公園に戻って昼飯。食パンにキャベツを挟んで塩をかけて食いました。それからヨーグルト。
 腹もこしらえたし、よし、奄美一周。
 といいながら、まず行ったのは奄美博物館(300円)。そんなに派手な展示ではありませんが、奄美の一通りを押さえてある様子でした。
 そーかー、奄美は亜熱帯性気候なんだ。
 泉重千代さんの出身地だったのか。
 ソテツ餅にソテツ味噌?おもしろいな、食ってみたいな。
 「ミキ」という発酵飲料は甘酸っぱくて夏に飲むとおいしいらしい。飲んでみたいな。
そんな感じでした。
 5時ころ博物館を出て、大和村方向に、海岸沿いの県道を走りました。
名瀬市はけっこう大きい街ですが、それでもトンネルを二つ三つくぐると田舎の漁村の風景になりました。
途中の小さなガソリンスタンドで灯油を入れて、これで水さえ補給していければ、店がなくても2〜3日は生きていける。
 
 今夜は、大和村の内浦とかいう港の、屋外ステージの片隅にテントを張りました。台風6号の影響で、夜中に強風圏内に入るそうですが、ここならなんとかしのげるだろう。
 
 この内浦の海には、こんな伝説があるそうです。
 昔この湾には、足の長さが40〜50mもある大タコが住んでいて、海辺を通る人間を引きずり込んで食べていたそうな。
人々はタコを恐れて山の裏側に道を作って通っていましたが、タコはその後沖縄へ向かう源為朝の船を襲い、為朝に退治されてしまいましたとさ。
 
 ご飯を水につけて待つ間、さつま白波をふたくちみくち飲んだら、ストレートの25度がすきっ腹に効いて、すっかりいい気持ちになってしまい、しばらくテントの中で動けませんでした。
 ようやく8時過ぎに飯を炊き、ステージの脇に腰掛けて、風に吹かれながら食いました。
早く白波を空けて奄美の黒砂糖焼酎を飲みたいと思って、水(道水)割りでゴクゴク飲んだら、少し飲み過ぎてしまいました。
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7月9日(火)曇ときどき雨 カンヅメ節?

 さつま白波を飲み過ぎたか、起きると少し頭が痛かったです。
 屋外ステージに腰掛けて食パンを食おうとしているところへ、おっさんが一人寄ってきました。
「ここは風上で雨が打ち込むから、向こう側にテント張った方がいいんじゃないかって、ゆうべ見てたんだよ」
とのこと。確かゆうべは船のたもとの方で三人ほどのおっさんがわだかまっているのが見えましたが、その一人でしょうか。
「どっから来た」
「長野県の飯田ってとこですけど」
「飯田か。昔高校野球で長姫が優勝したなあ。その後長野県勢はぱっとしないけど」
「うお、長姫をご存じなんてなかなかのもんですね」
いきなり自分の地元の話題を持ち出されると、うれしいもので。
「俺は地図見るのが好きでね。退職したらキャンピングカー買って日本一周しようと思ってたんだけど、船買っちゃって」
指さす方を見ると、港に白くてかっこいいクルーザーがとまっています。
「船で日本一周したらどうですか?」
「金かかっちゃうよ。船だとひと月50万はかかるからね」
旅好きな人とはいろんな話が出ます。
「こういう旅もいい勉強だな」
「まあ、思い出作りですね。野宿の仕方だけは勉強になって自信もつきましたけど」
「今の若いもんにはそういうのが足りんのだ。これから沖縄か。島はどこまで行くつもりだ?」
「あんまりはっきり決めてないですけど、南大東島に行ってみたいなって、最近思うんですよね」
「おいおい、あそこは台風が来ると島が揺れるって、この前ラジオでやってたぞ。上陸するにもクレーンで吊り下げるんだと」
「それ、聴きました。だから行ってみたいと思うんですけどね」
「台風6号も、もうたいしたことないな。東に逸れてっちゃった。7月にたて続けに台風が二つも来るなんて、珍しいんだけどな。
 一昨年の台風はすごかった。今は山の緑もだいぶ復活してるけど、あのときは山が全部茶色になって、このへんの家も全部波をかぶったからなあ」
「そんな台風が来たら、ぼくなんかどうすればいいんでしょうねえ」
「一つには教育委員会に頼んで、学校に泊めてもらうって手があるな。でも最近じゃ宿直もいないし、頼んでも「責任とれない」って断られるかもな」
「奄美のおいしいものというと?」
「ウニなんか、いいぞ。粒のしっかりしたやつがたくさん入って1000円で買える。本土みたいな混ぜ物なんてしてなくて、あの量はかなり安いと思うな。それと、やっぱり黒糖焼酎だな」
「ソテツ餅とか、ソテツ粥なんてのも聞いたんですが」
「今作ってるのはソテツの味噌だけ。あれもなかなかおいしいぞ」
「奄美の名所というと」
「グラスボートとか、カヌー体験とかあるけど、高いからなあ。海はきれいだから、水中メガネ買って泳ぐといいぞ。この湾でも、大タコがいたってくらいで、タコや貝がたくさん採れる」
おっさんはいろいろ話をしてくれ、
「こういうことして思いで作るってのはいいことだ。じゃあ気をつけてな」
と去っていきました。
 
 テントを畳んで歯を磨いているうちに雨が降ってきたので、さっそく昨日買ったサーフパンツに履き替え、上半身だけレインウエアを着て走りだしました。
 曇っているせいか、さほど「南国」という印象がありません。海の色も、べつにきれいではありません。
 ソテツやら、背の高いヤシの木(?)やらも生えていますが、道路沿いで一番目につく木はマツです。
 今日は、さしたる観光地にも寄らずに走りました。途中、徳浜断崖という高さ170mの崖の下を走ったり、宇検村のゲートボール場でラーメンをゆでて食ったりしました。
 長椅子を動かすと黒々としたゴキブリがいました。ずんぐりと丸い体をして、羽がないところをみると幼虫なのかも知れませんが、それにしてもでかい。
 きっとアマミノクロゴキブリでしょう。
 奄美で一番目にする鳥は、カラスです。アマミノクロカラスといい、体の色が黒いのが特徴です。
 アマミノクロウサギは神話に登場するウサギで、海岸で泣いていたところ、通りかかった神様から
「海水浴をして浜辺でひなたぼっこしなさい」
といわれ、そのとおりにしたら真っ黒に日焼けしてしまったというお話です。
 一方イナバノシロウサギは国指定の天然記念物で、今では天敵のワニザメに食い尽くされて絶滅危惧種に指定されています。
 俺ってなんて物知りなんだろ。
 
大和村の高倉
大和村の高倉

 大和村も宇検村も、店も観光地もまともなものはほとんどありませんでした。
 台風の強風域に入っているとの話でしたが、風も大したことはありませんでした。
 雨もときどき降る程度なので、上のレインウエアも脱いでしまいました。
 ただ、さすが亜熱帯性気候と言うべきか、背中のタオルを絞ると、ジャバジャバと汗がしたたり落ち、本土と比べて汗のかき方は一味ちがうようです。
 夕方、「カンヅメの碑」というものがある峠を越えて瀬戸内町に入りました。
「カンヅメ節」という島唄を記念して建てた碑のようです。
カンツメの碑
カンヅメの碑

 
 寝場所は、なんとかいう小さな集落のバス停。雨が時々降ってくるのでやむをえません。
 途中の沢で汲んだ水で焼酎を割って飲んだら、かなりうまくて、飯を作る前から酔いが回ってぐったりしてしまいました。
 せっかくおいしい焼酎を買っても、ぼくにはミネラルウォーターも氷もない。
 いっそ「携帯式浄水器」があれば、水道水でもおいしくなるだろうになあ。
 その後気力を振り絞ってスパゲティを茹で、レトルトのミートソースをぶっかけ、茹で汁には味噌を溶いてみそ汁にしました。
 
 蒸し暑さが最悪です。テントの外で寝られればいいんだけど。
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7月10日(水)曇のち晴 ミキとウニ飯

 テントを張ったバス停は海のすぐ近くでした。入り組んだ湾の奥なので、波もなく時折タプンタプンと波音がするだけでした。
夜中に一度、夕涼みがてら海へ小便をしに出たのですが、空はまだ曇っていて星は見えませんでした。
 
 バス停の待合所には、集落共有の新聞ポストが置いてありました。
 ぼくのテントが邪魔にならないように、待合所の入口にポストを動かしておきました。
 朝の4時ころに新聞屋さんが配達に来て、朝5時半ごろにおばあさんが一人、自転車で新聞を取りにきて、ぼくのテントをみて
「わあ、びっくりした」
とつぶやくのが聞こえました。
 
 バスの始発が来る前に退散しようと、6時前に起きて、7時前に撤収して走りだしました。曇っていますが、雨はありません。
 
 途中、「白浜海水浴場」の看板があったので、ふらふらと県道を逸れて矢印の方に行ってみました。
夜中に汗をびっしょりかいていたので、海水浴がてら体を洗うのもいいな、と思ったのです。
 白浜は数軒しか家のない集落でしたが、海岸には一応シャワーとトイレが完備されておりました。
 満潮時だったので砂浜は狭く、そのうえ松の枯葉などが打ち寄せられていて、写真でよく見る奄美の海とは少々違った雰囲気でした。
 砂浜には松葉に混じってハリセンボンが打ち上げられ、ハエの餌食となっておりました。
 
 どーしよーかな、空も曇ってるし、一人で海水浴なんてかなり寂しいものがあるし。
 躊躇しつつも、とりあえず裸足になって波に足を浸してみると、これがなかなか心地よい。履いているのはサーフパンツなので、濡れても平気。ざぶざぶと遊んでいるうちにシャツを脱ぐ気になって、結局しっかりと泳いでしまいました。
 一人でやってると、海水浴というより禊に近いものがありますが。
 しかし、海で泳いだのなんて、何年ぶりだろう。学生時代以来ではなかろうか。おお、平泳ぎはまだできるぞ。すいすい。
 海中に潜って目を開けてみると、メガネなしなのでぼやけてはおりましたが、透明度はけっこうある様子でした。
 平泳ぎのあと、背泳ぎで顔だけ海面に出して浮かんでみたり。泳ぎ疲れたら、波打ち際にひっくりかえって、波にたぷたぷ揺られながら空を眺めてみたり。
 時々日が差すと、砂底に波が網状に映ってきれいでした。
 平日朝の8時ということで、他に誰も人影はなく、一人で白浜海水浴場を堪能してしまいました。
 
 シャワーを浴び、濡れたパンツのままでふたたび走りだすと、ようやく陽が出てきました。
 瀬戸内町の首都、古仁屋は、けっこう賑やかな町でした。
 元ちとせの横断幕がかかっていました。
 PHSも使え、メールチェックしてみると、兎谷助教授から奄美大島のお勧めスポット情報が届いていました。
 それによれば、ぼくが昨日の夕方寄った碑はカンヅメではなく「カンツメの碑」なのだそうです。
 え?缶詰工場に働きに出る若い女工が、峠で故郷を懐かしんで歌った「カンヅメ節」なんじゃないの?
 実は、カンツメというのは女性の名前で、貧しさゆえに奴隷として売られ、恋人との密会を主に知られて折檻を受けた薄幸な美女なのだそうです。
 カンツメさんは世をはかなみ、この世を恨みながら恋人との逢い引きの場所だった山の小屋で首を吊り、その現場があの峠の「カンツメの碑」の峠なのだそうです。
 カンツメの呪いによって主人の一族は皆死んでしまったそうで、今でも
「カンツメ節は日が沈んでから唄ってはいけない」
と言われ、カンツメの祟りが恐れられるそうな。
 
 うーむ、そうしたことを知っていれば、昨日のあの現場から受ける印象も、少し違っていたかも。言われてみると、カンツメの碑のあたりは、確かに薄暗くて不気味な雰囲気でした。
 
 昼飯を買うためにAコープに入ると、奄美特産の飲み物「ミキ」が売られていました。牛乳みたいな紙パック1リットルで320円です。
 それから、おとといのおじさんが言っていたウニの小瓶(500円)、ソテツの澱粉(800円)なんてものも血迷って買ってしまいました。
 公園でウナギ寿司を食いながら、ミキを飲んでみました。
 原材料には米麹、サツマイモ、白糖と書かれていて、パックを開くと白くてどろりとしていました。
 かなり濃厚で、ゴクゴクではなく「ゾバゾバ」としか飲めません。
 味は甘酒に似ていました。作り方も近いのではないでしょうか。軽く酸味がありました。海岸に面した民家の縁側に座って、つめたく冷えたミキを飲んだらさぞうまいでしょう。
 逆に、生ぬるくなったミキは、甘ったるさが強調されて飲めたものではないと思います。ホットミキを飲むなら、もっと寒い地方でコタツにあたりながら、がベストでしょう。
 はじめは
「お、ミキってけっこううまいじゃん」
と飲んでいたぼくですが、1リットル全部を飲み干したら気持ち悪くなってしまいました。
 メーカーへの提案としては、これをもう少し薄くして、酸味を強くすればゴクゴク飲めるようなソフトドリンクになるのではあるまいか。
 さらにいえば、常飲するためには320円という値段をもう少し下げてほしい。
 
 昼食後は、近くの高千穂神社という小さな神社にお参りした後、役場で観光パンフレットを入手し、兎谷さんが教えてくれた町の郷土館と図書館に行きました。
 郷土館では奄美大島のノロ(集落の女神主みたいなもの)の展示があり、米を砕いて水で溶き、発酵させた「ミシャク」という飲み物を作って、神に供えたり皆で飲んだりしている様子が映像で紹介されていました。
 おそらくミシャクもミキも、「神酒」あるいは「御酒」で、元は同じものなのでしょう。
 
 図書館では「奄美のケンモン」という本を読んで、にわかケンムンマニアになりました。
 ケンムンは奄美大島の妖怪で、沖縄のキジムナーと日本本土の河童のアイノコです(言い切る)。
 頭に皿があり、猿のような毛むくじゃらで、人を水に引きずり込んで尻子玉を取り、相撲が好きで、ガジュマルの老木に住み、魚の目玉が大好物。
 本を読む限りは本土での河童よりも、島人から強く実在を信じられているようです。
 奄美には他にも「ミンキラウヮー(耳切り豚)」という妖怪がいるそうです。
 子豚の姿をしており、下を夜道を一人で歩いているとこの妖怪に出会うそうです。ミンキラウヮーに股の下をくぐられると、死んでしまうか、股間のモノを駄目にされてふぬけになるそうです。怖いな。
 最近日が暮れても走ってるから、こいつに出くわす可能性は高い。
 この先、地元のじいちゃんばあちゃんと話す機会があったら、こうした妖怪話を聞き出すのも面白そうです。
 
 7時近くまで図書館に入り浸ってしまい、その後自転車に戻ってホノホシ海岸というところでテントを張りました。いちおう、東屋の下です。
 ラジオが全く入らないので、天気予報が気になりますが、いきなり台風7号が大接近、なんてことはないでしょう。
 
 晩飯は、ウニめし。炊いたご飯のうえに、瓶詰のウニをぶっかけました。全部はもったいないので、半分だけ。それでも味がついていたので、十分でした。
 野菜不足なので、ピーマンとニンジンを刻んで、ポン酢と塩と胡麻油で味付けして即席ピクルスのようなものを作りました。まあまあでした。
 ウニめしをかきこみながら焼酎を飲む。幸せでした。
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7月11日(木)曇ときどき晴 ゴキブリとキリギリス

 ホノホシ海岸は、ゴキブリの巣窟でした。
殺風景な東屋の下なのに、民家からは100m以上離れているのに、夜中にわらわらとゴキブリたちがテントに集まって、どこからともなく侵入してきていたのです。
 ゴキブリは民家の台所に棲むもの、という本土の常識は、ここでは通用しないのです。
 連中は森や草むらに野生として存在し、日が暮れると空を飛んで襲来するのです。
 小さめで茶色い、いわゆるチャバネゴキブリの一種でしょう。
 朝飯はラーメンにしようと、ゆうべご飯を炊いたコッヘルに水を入れたら、ゴキブリが2匹泳いでいました。
 調味料などをいれたサドルバックを逆さにすると、5〜6匹が散っていきました。テントの下に敷いていたシートを取ると、10匹以上のゴキブリが逃げていきました。
 ぼくはゆうべ、いったい何匹のゴキブリと閨を共にしていたんだろう。
 
 ゴキブリの呪いか、またストーブの調子が悪く、ラーメン作るのに30分くらいかかりました。
 どこにゴキブリの残党が潜んでいるかわからないので、リュックの中身もすべて引っ張り出し、虫干ししました。
 そこへ、ワンパターンのように近所のおっちゃんが登場。
ワンパターンなやりとりの後、
「奄美ってゴキブリが多いですね」
とぼくが感想を言うと、
「そうか?あまり見ないけど」
と、すました顔をしていました。
おそらく、奄美人にとってこの程度のゴキブリでは数の内に入らないのでしょう。
学生じゃないだろ?
ええ、会社辞めまして。
旅は金かかるだろ?
まあ、金無くなったら帰りますよ。
親は何も言わないのか?
まあ、いろいろ言いたいことはあるみたいですけどね。
そりゃそうだろう。何のために学校出してやったんだ、ってなあ。
 
そのときのおじさんの口ぶりが
「俺が親ならそんなふざけた旅は許さないね。自転車で日本一周なんて、金と時間の無駄だ」
と言いたげに聞こえたのは、ぼくの被害妄想かも知れません。
 いい年した男が、仕事もせずにテント暮らししててどうするんだ。
 旅行なんてのは、年に一回の慰安旅行で十分だ。それでも行きたきゃ、退職してから行け。
 だから老後に呑気に旅行できるようになるために、今のうちにしっかり働け。
 
 こうした考えが、一般的なのかも知れません。
 そう言うおじさんたちは、若いころから「老後のために」を合言葉に、一生懸命働いてきたのでしょうか。
「君イ、最近よく頑張るねえ」
と上司に言われて、
「はい!老後のために」
なんて答える奴は、すでに価値観が老化してるような気がするけどなあ。
 まあ、江戸時代の人々の人生目標が「楽隠居」だったそうですから、日本人の伝統的価値観なのかも知れませんが。
 それにしても、老後を楽しみに働いてきた連中が、年寄りになってから「生涯現役」などと言い始めるのはどういうことでしょう。
 何の疑問も持たずに働けて、がっぽり退職金と年金もらえて、若い連中に
「俺の若かったころは貧しくて」
と貧乏自慢できる。それはそれで結構な人生ですが、そんな人生はぼくにとってなんのリアリティもありません。
「おれはこれで生きてくんだ!」
などという熱いものがない以上、今の自分が望むことを確認しながら、それを実行してくしかないでしょう。
 ぼくの場合、やりたいことが野宿旅行だったわけで。それが仕事(ていうか、金)につながらないからって、それは仕方ない。スカンピンになったら、嫌でも働く気が起きるでしょう。
 ああ、どうせおれはキリギリスさ。ららら〜。
 
 なんて独り言を書いてきましたが、この日記、親も読むんだよな。
 
 なんやかんやで出発したのは昼の12時。
 国道58号に入り、網野子峠がきつかったです。200mおきに休憩しました。
 しかし、その峠を過ぎると、名瀬市まではトンネルがたくさん通じていて、しんどい峠越えはありませんでした。トンネルができる以前はさぞ難所続きの道だったでしょう。トンネルの上にそびえているのは、どれも高い山ばかりです。トンネルは一番古いものでも1992年の竣工で、それ以前の旧道がどう峠を越えていたのか、下から見上げる限りよくわかりませんでした。
 
マングローブ林
マングローブ林

 途中、住用村でマングローブの原生林を見ました。海岸の鬱蒼とした遊歩道を歩くと、かさかさとカニたちが道を空けます。
 こういうのを見ると、ようやく亜熱帯の島に来たなあ、と多少実感が湧きます。
 もう一つ南国を実感が湧くのが、真っ黒に日焼けした地元民を見るとき。
 住用村ですれちがった、三輪自転車を押していたおばあちゃんは、それこそインド人なみに真っ黒でした。
 しかし、名瀬市の中高生などは皆、白い肌をしています。日焼け止めを塗ったりしているのでしょうか。
 旅人の旅情をそそらせるためにも、奄美人は全員真っ黒に日焼けして、大島紬の着物着て、サトウキビを背中にしょって、島唄を唄いながら歩いてほしいものです(偏見)。
 
 ここまで走ってきた限り、奄美大島に多いものを三つあげると、山と土俵とゴキブリです。
 山とゴキブリはこれまでに触れましたが、奄美には集落にかならず一つ、土俵があります。
 かなり相撲の盛んな土地柄と察しました。ケンムンの相撲好きが人間に移ったのでしょうか。
 名瀬市には市営の「相撲修練場」があり、若者達がしこを踏んでいました。
 
 名瀬市では、初日に寄ったダイエーで晩の食材を買いました。
 奄美は野菜が高いです。「野菜を買うなら100円以下」と決めているぼくにとって、頭が痛い限りです。
 途中の酒屋で黒糖焼酎を買い、今夜のねぐらは龍郷町の国道わきの空き地。蚊やゴキブリと戦いながらの晩飯作りです。今日のおかずは、ピーマン&ニンジン&砂肝のキムチ炒め。
 7月の奄美大島のテントの中で、ロウソクと蚊取り線香を焚きながら、キムチ炒めなんて食うもんじゃありませんね。
 自分がスライムになったかと思うほど、どろどろに汗が出ました。下着一枚になって、体の汗をふいて、汗を吸ったタオルを何度もテントの外で絞りました。
 黒糖焼酎がおいしかったのが、せめてものなぐさめでした。
 
 久しぶりにラジオをつけたら、台風6号は本土に被害を与えて北海道に上陸中、南では7号8号がたて続けに発生して北上中とか。この先も、いったいどうなることやら。
 
 早くもどこから忍び込んだか、チャバネゴキブリがテントに侵入して、天井に張りついてぼくが飯を食べ終わるのを待っています。
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7月12日(木)曇のち晴 自己満足の鬼田中一村

 明け方、何度か雷混じりの雨が降りました。
 朝飯は食べずに、さっさと荷造りして出発しました。道路脇の誰の土地ともわからぬ空き地で、落ち着かなかったからです。
 龍郷町の運動場の、野球用ベンチに腰を据えて朝飯を作りました。
 ニンニクの芽と砂肝入り焼きうどん。
小さなコッヘルで乾麺のうどんを一袋茹でたら、コッヘルの底に焦げ付いて難儀しました。
 キムチの残りをつまみながら日記を打って、昼頃に出発。
 今日の見学予定地は、奄美パークとその中にある田中一村(たなかいっそん)記念美術館です。とくに後者は兎谷さんの一押しです。
 
 笠利町に入ると、空が晴れてきて、海の青さが目立つようになりました。いよいよ奄美らしい風景が見られるのではなかろうかと、期待が膨らみます。
 奄美北部は、山が少なく、なだらかな海岸線に沿って走る道路には、ソテツやハイビスカスが植えられていました。
 奄美パークの芝生広場には高倉(奄美独特の高床式倉庫)が立ち並んでいたので、その下でパンにクリームチーズを塗って食い、昼飯としました。
ちょっと不気味なジオラマ
ちょっと不気味なジオラマ


 奄美パークはつい最近できた県営(?)の観光施設で、くだけた博物館といった内容でした。
芳賀日出男(民俗写真家)のいい写真がベタベタ貼ってあり、
「神と人とのコスモロジー」
とかなんとか、いかにもなコピーが連ねられて奄美情緒を醸し出しておりました。
 映像ホールでは奄美のイメージ映画が上映されておりました。
老人がサンゴ礁で素潜り漁をし、少年が亜熱帯の森の中をさまよい、夜は一族が夕餉に島唄で踊り回るという、典型的(というか、観念的?)な奄美の生活と自然とが、美しい映像で描かれておりました。
リアルな昼寝少女
リアルな昼寝少女

 奄美に来て5日目となるのに
「へえ、奄美ってこんなに奇麗なんだ」
と、まるで他人事のように感心してしまいました。

 田中一村記念美術館はその隣にあり、高倉をイメージした建物なのですが、そのシルエットはむしろ火星の開拓コロニーみたいでした。
 ぼくはこれまで田中一村という名前を知りませんでしたが、絵は見覚えがありました。昨日買った黒糖焼酎「曙の里」のパックにも印刷されてたし。
 一村は、奄美の亜熱帯性の動植物を精緻かつ大胆な構図で描いた作品が有名です。
 栃木に生まれ、若いころから伝統的な日本画家として期待されつつも、挫折や苦悩を重ねて中央画壇から離れ、50歳のとき単身奄美へ移り住んで、貧しい紬染色工として働きながらも絵を描き続けた人です。
 初めは奄美で描いた作品の個展を東京で開きたいという目標もあったようですが、やがて作品を発表しようとすることもやめ、ただひたすら描き続けて、昭和52年に69歳の孤独死を遂げました。
 
「私がこの島に来ているのは、えかきとしての最期を飾る絵を描くためなのです」
「えかきは我がまま勝手に描くことに価値があるのであって、もし客の鼻息をうかがいながら描くようになったらそれは生活の奴隷に転落したものと信じます」
「私の最終決定版の絵がヒューマニティだろうが悪魔的だろうが、正道とも邪道とも、何と批評されても満足です。それは見せるために描いたのではなく、私の良心を納得させるために描いたのですから」
 
 こうした一村の言葉から察するに、彼は究極の「自己満足」を貫いた男のようです。
 そして、生涯独身を貫き、「飢駆我(飢が我を駆りたてる)」を揮毫印とするほどの禁欲的な姿が、彼の箔となっています。
 自己満足を極めようとする姿が、他人の目には禁欲的に映るという点で、ぼくの旅と似ていなくもないような。
 ぼくは彼の姿に親近感と憧れを感じますが、そこには本当に迷いがなかったのか、彼に確かめてみたい気がします。なぜかといえば、もちろん、ぼくが迷いだらけだからです。
 一村は、本当に中央画壇への欲望を捨てきっていたのでしょうか。
死の数カ月前、彼は奄美での作品を持って千葉の知人らを尋ね、
「お別れの挨拶だ」
と言って作品を見せて回ったそうです。そのときの彼は、知人らにどんな反応を期待していたのでしょうか。
「すごいじゃん。この絵は勝負できるよ。手伝ってやるから個展開きなよ」
と言ってもらいたくはなかったのでしょうか。
 一村は「最終決定版の絵」を描くことができたのでしょうか。
固く封をされたまま残された遺作の中には、未完成の作品も残っていたそうですが。
 彼の絵は、夕暮れの逆光に浮かぶ黒々としたビロウの葉が印象的です。細く長く裂けて垂れ下がるそのシルエットには、怨念めいたものすら感じます。
「亜熱帯の楽園」どころか、それこそ陰鬱で「悪魔的」な絵になりかねないところを、鮮やかに描かれた一羽のアカショウビンが救っています。
 色とりどりの亜熱帯の鳥や蝶や魚を描きながらも、けっして天真爛漫でないある種の「暗さ」に、個人的に愛着を感じます。
 
 いかん。またかっこいいことを書いてしまった。
 
 売店で、ぼくとしては珍しく絵葉書を買って、外に出ました。最近絵葉書も描いてないなあ。
 美術館の外には、一村が描いた植物たちが植えられていました。実物を見ても、一村の絵ほどのインパクトを感じません。
 一村の絵は写実的ではありますが、やはり現実ではないのです。
 
 もう6時過ぎていたし、近くにはスーパーがあるほど大きな集落もなさそうなので、奄美パークのトイレで水を補給し、近くの空き地にテントを張りました。
 晩飯は、レトルトカレー。ウニを嘗めながらの晩酌です。
ようやく奄美の4分の3程度まで進みました。あしたには北部を一周して名瀬市に戻れるでしょうか。
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7月13日(土)曇のち晴 海戦を生き延びた男

 今朝も何度か雨が来ましたが、風が強かったのでじき乾き、テントを畳むのは楽でした。
 朝飯は、ビスケットで済ませました。
 
トフル墓入口
トフル墓入口

 今日は、奄美大島北端の笠利町で、朝っぱらからかなりすごいものを見ました。
 「トフル墓」というものです。
 トタン小屋に改装された高倉が残る集落の路地を抜け、犬に吠えられながら薄暗い林に入っていくと、鬱蒼と木の茂る丘の中腹に横穴が掘られていました。ガジュマルの枝がうねうねと這っていたりして、雰囲気満点です。
 平べったい石で横穴を塞ぎ、その前に線香立てや水などが供えられています。
 塞ぎ石の隙間から中を覗くと、何やら白いものが見えました。
 デジカメを差し込んでフラッシュ撮影してみると、いくつものカメに人骨が無造作に突っ込まれているのでした。頭蓋骨さんもバッチリ撮れていました。
 「トフル墓」のトフルというのは、地元の言葉で「天国への道」という意味だそうです。
トフル墓内部
トフル墓内部

 一度埋めた遺体が白骨化したころ掘り出し、きれいに洗ってカメに納めてトフル墓に葬るという、「洗骨葬」の習俗です。
 こうした墓がいくつもあって、なかには数百人分の人骨を納めた穴もあるのだそうです。
 さらに恐ろしいことに、戦時中はこの墓を防空壕に利用したのだそうで。暗い穴の中、人骨とともに息を殺して敵機が去るのを待つ心境は、どんなものなんでしょう。
 トフル墓から引き返す途中、すぐ道脇の小屋で白髪のおじいさんが昼寝をしていました。すぐ枕元をぼくが通り過ぎても微動だにせず、まるで天国行きの順番を待っているかのようでした。
 
 その後は「あやまる岬」の水道で頭を洗ったり、ソテツ林を散策したり、大島の北端の灯台の下で一人海水浴(というか、ただ海に浸かってただけですが)したりしました。
 雲がとれて青空となり、灯台から見下ろす奄美の海は、真っ白い波と砂浜、海の碧が鮮やかで、
「うむ、これは確かに奄美かもしれない」
と納得しました。
 海水浴した場所は磯の間の狭い砂場で、サンゴ礁などは全く見えませんでしたが。
 笠利町に唯一あったスーパーで買い物をしました。晩飯用に野菜が欲しくて、ニガウリ(1個100円)を買いました。レジのおばさんが
「このニガウリ、傷があるけどいいの?」
「あ、そうなんですか?」
「ほら、ここのとこ。他にいいのなかった?」
「えー、よくわかんなかったんで、まあ、いいです」
「ちょっと待ってて。取り替えてあげる」
おばさんは野菜売り場に走っていき、やがて戻ってきて
「やっぱりいいのないねえ。これ、もう一本つけてあげるから」
と、ぼくはニガウリをもう一本もらってしまいました。
ご親切様でありがとうございます。
 
 道端の木陰で昼飯。食パンにレタスを挟み、クリームチーズを塗って塩を振ってバリバリ食いました。
レタスは腐りやすいので、1玉全部食べてしまいました。
 
 律義に海岸線を走り、西郷隆盛が若い頃、奄美に流されたときに住んだ家を見物しました。
 小ぎれいな畳敷きの家で、窓からの風が心地よく昼寝したくなりましたが、次の客が来たので、そそくさと退散しました。
 
 次に訪れたのは今井権現と今井岬。
 昔、平家の一党が壇ノ浦から落ち延び、この奄美大島に逃げてきました。
 源氏の追討を見張るため、今井権太夫という部下を岬で警備にあたらせました。
 ある日、平家の本陣から今井のところへ使者がやってきました。ちょうどそのとき、今井は愛人宅へ遊びにいって留守をしていたのです。
 呼んでも今井の返答がないので、使者は今井が敵に滅ぼされてしまったと早合点し、その旨を本陣に報告しました。
 平家の大将らはそれを信じ込み、もはやこれまでと全員腹を切って全滅してしまいました。
 後にそのことを知った今井権太夫も、責任を感じて自害したそうな。
 
 こんな南の島にも平家落人伝説が語られているのは面白いですが、それにしても間抜けな話ですねえ。平家の粗忽さと臆病さを皮肉るために作られた伝説なのではないでしょうか。
 そういうばかばかしい伝説が気に入って、そしてやっぱり「今井」という名前が気になって、行ってみようと思ったわけですが、これがまた難儀でした。
今井権現と今井岬
今井権現と今井岬

 さして観光名所なわけでもなく、祭礼以外は参拝客も多くないので、参道は草が茂り、でかい蜘蛛が幾重にも巣を張っていて不愉快極まりなし。
 石段はリュウキュウイノシシ(本名)に掘り返され、苔むした石の上にはアマミノオオナメクジ(仮名)がのったりと這っています。奄美のナメクジはでかくて太い。
 海に突き出した山の頂上に、寄合小屋みたいな神社があり、中に入って記念撮影を撮らせてもらいました。
 神社のよりも先の今井岬へも行きました。おいらの岬。売れない演歌みたいだな。
 白い灯台が建っていました。記念に、写真撮って小便して帰ってきました。
 
 夕暮れになって、次に寄ったのが龍郷町の「平瀬マンカイ」という民俗芸能の行われる海岸。
 海岸に立つ二つの岩にノロや集落の男女が並んで立ち、歌を歌い交わして海の彼方の楽園「ニルヤカナヤ」を拝むという、民俗学的にはけっこう有名な祭りらしいです。ぼくは写真や断片的な映像を見たことがあるだけですが。
 港の東屋に自転車を置き、堤防を越えて海岸に出ました。
 二つの岩にはしっかりとセメントで石段が補強されていて、年寄りでも登れるようになっていました。伝承者がもっと歳を取れば、そのうち岩にスロープと手摺りがつくでしょう。
 
独り平瀬マンカイ
独り平瀬マンカイ

 岩の上で間抜けな自己写真を撮り、港の東屋に戻ってくると、地元のじいさんが二人夕涼みに来ておしゃべりしているところでした。太ったじいさんと痩せたじいさんでした。
「野宿ならここで寝るといいんじゃないか。屋根もあるし、トイレもあるし」
「ええ、そうしようかな」
「長野出身か。わしの息子の友達が長野県の人でなあ、毎年家族を連れてうちに遊びに来ておった。その人が亡くなったとき葬式に行ったけれど、それ以外に島を出たことは、最近ないなあ」
太ってる方のおじいさんは、入れ歯をしていないらしく、口をモグモグさせて少し言葉が聞きづらかったのですが、けっこう話し好きな人らしかったので、さっそく訊いてみました。
「こっちの方にはケンムンって妖怪がいるって聞いたんですけど」
「ああ、ケンムンを知っとるか。本土にも河童がおるじゃろ。あれみたいなもんじゃ」
「おじいさんは見たことあります?」
「若い頃な、姉さんが浜で潮汲みをしとったのを遠くから見ていたら、姉さんの回りでちっちゃい子供みたいのが遊んどる。これっくらいの大きさ(1m弱)でな、遠目だから細かい姿は見えなかったが、あんなところに子供がいるはずがない。わしには見えるが、姉さんはちっとも気がつかんのだ。あれはケンムンだったと思うな」
と、いきなり目撃談が聞けました。
「それから、ええとなんてんでしたっけ、夜中に道歩いてると、股の下をくぐる子豚のお化けもいるって聞きましたけど」
「ああ、年寄りから『カミミチを通ると豚の化けもんが出る』って言われて、そこを横切るときは走って通ったもんだった」
「へえ、カミミチなんてのがあるんですか」
「お墓からずうっと、これくらい(50cm)の道があってな、琉球時代に作られたって話だ。ノロ神様がいたころのことだなあ」
博物館で見たものの話が、現地で地元人の口から聞けてちょっとした感激でした。
「平瀬マンカイにもノロが出てくるらしいですけど、今でもノロがいるんですか」
「今はもうノロはやってないけど、その家系の人が祭りでノロ役をやっているんだ」
そこへ、区長さんらしき人が自転車でやってきました。
「今夜あと少ししたらここで壮年会が焼き肉やるんでよろしく。テント張るんなら、どこかすみっこの方で張ってくれていいけど」
「あ、そうですか。わかりました」
モグじいさんが
「壮年会の焼き肉か。ま、そんなに遅くまではやらないから、大丈夫だよ」
 やがて30〜40歳くらいの人達がバーベキューセットを持ってやってきたので、ぼくとモグじいさんは堤防に移りました。痩せた方のじいさんは先に帰っていきました。
「わしは82になるが、これでもずいぶんいろんな経験しとるんだ。戦時中は山本五十六長官の航空母艦「加賀」に整備工として乗って、真珠湾の奇襲も参加してな、長官からの感謝状も今うちにある。日本中にいくつもないと思うな、こればかりは」
「へえ」
「わしのいた艦隊は北方領土の択捉島に集結してな、そこから太平洋を南下して真珠湾を攻撃したんじゃ。でも、その後陸軍と海軍は戦略で対立してな。山本長官は、日本には資源が少ないから、国力があるうちに一気にアメリカ本土を攻撃しようという意見だった。
 でも陸軍は、東南アジアの石油などを確保して持久戦に持ち込もうという意見だった。結局陸軍の大将の東条英機が総理大臣になって、陸軍の言い分が通ってしまったわけだ。
 それからわしは山本長官の『加賀』に乗って、ミッドウェー海戦にも参加した」
「暗号解読されて、負けちゃったんでしたっけ」
「そう。敵の飛行機や魚雷にやられてな、『加賀』もやられて、わしは海に飛び込んで、海戦が終わるまでの8時間、木なんかにつかまって浮いとった。アメリカの飛行機がダダダーッと撃ってきたら、海に潜って隠れたりな。
 同僚の若い兵隊が、そいつは山国出身で泳げないもんだから、わしに必死になってしがみついてくるんだ。
このままじゃわしも溺れてしまうから、そいつに
『何でもいいから手足を動かしてみろ』
って教えてやったら
『はいっ』
と言って、結局わしもそいつも助かったからよかったけどなあ。
 航空母艦には二隻の巡洋艦が護衛でついてるんだが、海戦の最中は巡洋艦も味方を助けるどころじゃなくて、自分を守るのが精一杯。海戦が終わって、ようやく巡洋艦からロープが投げられて、それにしがみついたまでは覚えてるけど後はわかんなくなっちゃった」
「気を失っちゃったんですか」
「そう、二時間くらいかな。真夏の太平洋の真ん中だから甲板が焼けるように熱くて、それで目を覚ました」
「へええ、すごいなあ。修羅場をくぐり抜けてきたんですねえ」
「その後わしは、これ以上海軍におったら命がないと思ってな、上海の航空学校で兵器整備の訓練を受け直して、終戦間近の頃、呉(だったかな)に出張している時に
『沖縄行け』
って辞令が来たもんだから、『沖縄なんて激戦地に行ったら命がない』と思って、上官に
『上海に身の回り品を置いてきているから、一旦取りに帰らせてください』
って頼んだら許しが出て、上海に戻っているときに戦争が終わったんだ」
「へえ、もしすぐに沖縄に行ってたら、命がなかったかもしれませんね」
「本当にそのとおりだよ。自分でもそう思うよ。
 戦争が終わって、本土に引き上げる段になると、長男か、妻子持ちか、などそれぞれの状況によって引き上げる順番が違ってくる。だからわしは上官に
『自分の田舎では母親が一人で待っている。兄貴も出征して行方不明だから、自分が家の面倒を見なきゃいけない』
って言ったら、優先的に本土へ帰らせてもらったんだ。実のところ、わしは三男坊で、兄貴は名瀬の防衛隊にいたんだけどね」
「それじゃ行方不明でもなんでもないじゃないですか。でも軍隊って、けっこう融通利くんですね。
 それに、当時の兵隊さんていうとお国のために命を捨てるって考えの人ばっかりかと思ってましたけど、
おじいさんは結構冷静に、うまく立ち回ってますねえ」
「あのころの教育はたしかにそうだったけど、実際は『天皇陛下バンザイ』なんて言って死んでいった奴はいないよ」
 
 当時の世代や立場によって、兵隊さんの中でもいろんな考えを持っていた人がいるんでしょう。
「その後佐世保に引き上げてDDTを頭からぶっかけられて、列車で鹿児島に行った。その後三日ほど待っていたら運よく奄美大島行きの船が出るってことで、帰ってきたんだ」
「戦後はどんなお仕事したんですか」
「昭和28年12月の本土復帰までは、まず食べ物を作ることが先だったね。腕時計を六キロのサツマイモと交換したときは泣けたよ。本土に復帰してからは、復興事業が優先的に奄美に割り当てられたから、道路や港の建設ラッシュが来てね、その工事現場で働いたりしたんだ。
 あなたは28歳?わしはその年に結婚したんだ。戦争が終わって、男も兵隊から戻ってくる、女も挺身隊から戻ってくるって塩梅で、嫁に行きたい、もらいたいってのが丁度重なったんだ」
「なるほど。スタートラインが揃ったわけですか」
「そう。一斉に結婚して、一斉に子供が生まれて」
「それが第一次ベビーブームですね。ぼくの親もだいたいその頃に生まれてますから、ぼくが第二次ってことですね」
「思えば80年の人生なんて、短いものだったね。ただ、自分がこの年まで生きてこられるとは思わなかったけど」
「そうして今の奄美は道路もできて、トンネルも通って、一通り整備が終わって便利になったわけですけど、その一方で建設工事がなくなると島の人達の働く場所がなくなっちゃうわけですね」
「そう。これからの日本はどうなるのかねえ。さっきの男、あれはわしの家の向かいの男なんだけど、あれともよく話してるんだよ」
「でも、奄美ってきれいな島だから移住してくる人も多いんじゃないですか」
「多いけど、退職した人たちだね。年金で暮らしていける人たちならいいけど、若い人がこっちに来ても働く場所ないよ」
「そうですねえ。それにまた、今じゃ年金ってのも、本当に貰えるんだかあてにならないじゃないですか。
 一応ぼくも納めてますよ。でも政府は『年金制度が無くなることはありません』って言いますけど、もらえる額がどんどん下がってスズメの涙じゃ、無いのと同じですもんね。
だから、やりたいことがあったら今のうちに日本一周でもなんでもやっておこうって気になるんですよ」
「うん、あんたの言ってることは正しいかもしれん」
モグじいさんに太鼓判を押してもらいました。
 東屋では、壮年会の男女が賑やかにバーベキューをしています。なかなか終わりそうにありません。
「こんなに人に自分の話をしたのは初めてだ。どうですか、これからわしのうちに遊びに来ませんか」
モグじいさんが誘ってくれましたが、もう夜だし家族の人たちにも迷惑だろうと思ったので
「いえ、今夜はここで寝ますんで」
というと、
「じゃあ、あしたにでも遊びに来てください。農協の前の二階建の家ですから」
「そうですか。じゃあ、あしたの9時頃に寄らせていただきます」
ということになりました。
 
 おじいさんと別れ、ぼくは東屋から離れた港の奥の草地にテントを張りました。モグじいさんによれば最近消毒したとかで、そのため蚊が全くおらず、快適至極です。
 晩飯はニガウリとランチョンミートの炒め物。そして、ソテツの澱粉を混ぜた粥。
 ニガウリは、火を通すと苦みが減りましたがそれでも苦かったです。
 ランチョンミートはコンビーフに似た味付けでしたが、食感は少し違いました。
 ソテツの澱粉は薄茶色で、癖のある匂いがしました。
 今夜の献立はずいぶんと奄美なメニューだと自認するのですが、味は、どれもあまり結構なものではありませんでした。
 黒糖焼酎を飲みながらウニの瓶をさらい、うとうとしていると、だれやらテントの近くで三線を弾きながら島唄を練習する人がありました。
 なかなか奄美な雰囲気で面白い夜でした。
 
 明日は台風7号が近づいてくるそうで、どうなることやら。
 明日には奄美一周も終わり、名瀬市に戻れるのですが、フェリーに乗れるかどうかが問題です。
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7月14日(日)曇 台風直撃

 蚊もおらず、ゴキブリも少なく、快適な夜でした。
しかし台風7号が接近中のせいか、朝方になると風が強くなり、怖くなって早めに起きてテントを畳みました。
 
 朝飯は食パンでも食べたかな。
 モグじいさんには「9時ころに行きます」と言ったのですが、早起きして時間が余ったので、
8時40分頃に「農協の前の2階建」を手掛かりにモグじいさんの家に向かいました。
 実言うとぼくにとって、あまり知らぬ人の家にお邪魔するのはかなりエネルギーが必要なのです。
 
 それでも、モグじいさんの家はすぐ見つかりました。青いペンキを塗った新築の住宅で、奄美な雰囲気の民家を期待していたぼくは少しがっかりしました。
 モグじいさんは路地に面した部屋の戸を開けて編戸越しに外を見ており、通りがかったぼくを見つけて
「玄関に回って」
と手を振りました。
玄関に行くとおばあさんが出てきて
「さあさあどうぞ」
と上にあげてくれました。おじいさんに
「お邪魔しまーす。ゆうべはどうもありがとうございました」
というと、
「いやあ、長野から自転車で来るとは感心な人だよ。随分と話ができて気が合うというのも、これも何かの縁だと思う。それにしても、カタキラウワを知っているんだよ、この人は。わしより詳しい」
 家の奥には、老夫婦以外に息子夫婦などがいる様子でしたが、姿は現しませんでした。
「どうぞどうぞ、島では遠慮しないもんですよ」
と言っておばあさんが茶やら茶菓子やら、パンやら牛乳やら、そしてもちろん黒糖やらを出してくれました。
 ここでも、薄い最中で挟んだゼリーみたいな駄菓子が出て、意外なような懐かしいような気がしました。
 この状況は、完全に学生時代の民俗調査です。しかし、ノートをとる必要もないし、別に聞きださなきゃいけないこともないので気が楽です。
 基本的には「モモ」みたいに、ひたすら聞き役に回っていればいいのです。
 おじいさんとおばあさんは、いろんな話をしてくれました。
 この平瀬集落にはお店もあるし、行商のトラックも来るので名瀬に買い物に行く必要も無いこと。
 最近行商の魚屋さんが新しい人に代わって、新しい人は魚をさばくサービスをしないので、買う客がいなくなったこと。
 今時の奄美の家庭では、主婦も魚をさばくのを面倒がって、出来合いの総菜を買っていること。
 集落の近くにできている大きな養護老人ホームは、なんとか言う医者で政治家の先生が作ったもので、日本だけでなく海外にも病院を作っていること。
 奄美大島の中でも南と北では人の気質が違い、特に南部の連中は性格が悪いので、このあたりでは「嫁を出すときは、西に出しても南に出すな」と言われていること。
 
 …モグじいさんの言葉には聞き取りづらいところもあって、ぼくは話の内容も理解していないまま相槌を打ってしまったのが全体の40%ありました。
 
 ぼくからの質問は、
「奄美には土俵が多いですねえ。相撲が盛んなんですか」
くらい。
「盛んだね。敬老の日には小学生から大人まで相撲をとって年寄りに見せてくれるんだ。町なかだけじゃなくて、名瀬からも取りにくるんだよ」
とのことでした。なぜ盛んなのかはよくわからないままでした。
 
 時刻も10時になったので、名刺交換(といってもぼくはノートの切れ端)をしておいとましました。
「旅先からきっと葉書を送りますよ」
と約束しました。少し真面目に描いた絵葉書を送ってあげよう。
 そういや堺市のホモ、東湊さんにもまだ葉書出してねえや。やべ。
 缶ジュースを二本おみやげにもらって、
こんなとこ通る神様って、猫?
カミミチ

「きのうお話してたカミミチってのはどこにあるんですか?」
と訊いたら、夫婦揃って路地まで出て、その場所に案内してくれました。
 カミミチは道というより家と家の塀の隙間で、案内してもらわなければ到底見つけられるものではありませんでした。昔はこれがずうっと続いていたんだそうです。
 カミミチは神様が通るとされ道で、海と山を繋いでいると博物館では解説していたのに、ここのカミミチは海岸と平行に伸びていたので、不思議でした。
 
 モグじいさん夫婦に何度もお礼を言って自転車にまたがり、名瀬市に向かいました。
 名瀬市への最後の峠はトンネルが通っておらず、くねくねと上り坂が続いています。
 軽くクラクションを鳴らす車があるので顔を上げると、モグじいさんが息子さんらしき人の運転する軽トラックの助手席に乗って、ぼくを追い越していくところでした。
 名瀬市に買い物にでも行くのでしょう。
 
 いろいろ御馳走になってお腹一杯になっていたぼくが、坂道で自転車を押して歩いていると、今度は軽のワゴンが停まり、
「大丈夫ですか、乗せてあげましょうか」
とおじさんが声をかけてくれました。
「いえ、大丈夫ですんで」
「そう。峠はあと500mだから、頑張って」
「ありがとうございます」
 乗せてやろうか、と声をかけられたのはこの旅初めてです。
 ようやく峠を越えると、名瀬の港町が眼下にきれいに見えました。
 一気に下り、市街地に入ります。気になるのはフェリーの運行状況。
 沖縄行きの便は、鹿児島6時発の船が翌日の早朝に名瀬市に入るのですが、明日の朝というと台風の真っ只中でしょう。フェリー乗り場に行ってみると、案の定明日の便は運航中止とのことでした。
 奄美を出られるのは、早くても明後日の早朝になりそうです。
 ラジオいわく「大型で非常に強い」台風7号を、この名瀬市内でやりすごさねばなりません。
 
 とりあえず、今日一日暇なので、先日素通りした奄美海浜公園の海洋展示館に行くことにしました(400円)。
 水族館と呼ぶには水槽が少なく、パネルや標本で水増ししているので「海洋展示館」なのでしょう。
生きているウニやヒトデ、ナマコを素手で触れるコーナーが面白かったです。
 
 展示館を出ても時間が余ったので、海浜公園の高倉の下で日記を打ったり昼寝したりしました。
 夕方になって、通りがかりのおじさんが、銀マットを広げて寝ているぼくを心配して
「今夜はここで寝るつもり?今夜は台風が来て嵐になるよ」
「いや、ここでは寝ませんので」
晩飯を買っていないので名瀬市街に戻らなければならないし、ここにはキャンプ場があるので、万一管理人に見つかって
「ここはキャンプ禁止。テント張るならキャンプ場で張って。キャンプ場で張るならお金払って」
と言われると申し開きできず、嫌なのです。
 
 ダイエーで晩飯を買い、今日は大熊地区の港の近くの公園の東屋で寝ることにしました。
 東屋は壁がないので風が吹き抜けますが、完全に雨風をしのげる場所など、どうも市内に見つけることは不可能な感じです。
 雨は降りませんが、風速は強まってきました。
 公園には、住人がいました。白い野良猫です。キンタマをつけているので、雄猫です。目は、少し青味がかっています。
 ぼくが弁当を食べ始めると、ミャーミャーと鳴いて近寄ってきました。ぼくの顔をじっと見つめながら、体をぼくの足に擦り寄せてきます。
 猫は自分の可愛さを理解していて、甘え方を知っているところが、ずるくて不愉快です。
 ただし、犬と猫どちらが好きかと聞かれれば、今のところ猫の方が好きかもしれません。
 むやみに吠えて飼い主べったりの馬鹿犬よりは、猫の方がまだ落ち着いていて利口なように感じるのです。
 そういう猫観を持っているぼくなので、白猫がニャーニャー言っても弁当を分けてやるなんてことは基本的にしません。
 
 暗くなって、テントを建てようと試みましたが、強風のためじき諦めました。ポールを折ったら元も子もありません。
 ポールなしのテントに、くるまるようにして寝ることにしました。
それでも風にバタバタなびいて、なかなか落ち着きません。これで雨が降らなければ、なんとかなるのですが。
 白猫はベンチの下に入ったり、温もりが欲しいのかぼくのひざの上に乗ってきたりしています。
 ぼくもいわば野良人間。まあ、今夜はお互い頑張ろうぜ、という気になります。
 それでも餌はやりませんが。
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7月15日(月)嵐 ニイちゃんこれ食べな

 さすが本場の台風は違いました。結局、夜はほとんど眠れませんでした。
 公園から港を見ると、風に巻き上げられた波しぶきが、竜巻かと思うほどの渦を巻いて飛んでいきます。
 夜半から時々雨が降ってきていましたが、朝には剛雨(字が違う)になってきたので、とても寝ていられずに移動することにしました。
 ときどき来る突風が強烈です。風上に向かって歩こうとすると、まず立ち止まって足を踏んばり、腰を落とさないと歩けないのです。
 バス停留所の標識は、軒並倒れるか曲るか折れるかしています。道の向うからガランガランとサッシの雨戸が跳ねてきます。
 小学校の塀にかかっている、卒業生たちの下手な絵の看板が、今にも外れて飛んできそうで、急いで前を通り過ぎました。
 フェリーの待合室でのんびりできればいいなあと思って乗り場に行ったのですが、全便欠航ということもあって鍵がかかっていました。
 フェリー乗り場の階段の下に雨が吹き込まない場所があったので、そこにもぐりこむことにしました。
 隅の方にゴミが吹き溜まっていて薄汚い場所ですが、寝不足でこれ以上動く気にもなれません。
 メールチェックをしてみると、
「台風大丈夫?」
と日記読者で元同僚の神稲(くましろ)君(仮名)から心配メールが届いていました。
「今井さん生きてますか?ゴキブリ並の生命力がこんなところで朽ちるとは考えられませんが。でも、どうせ逝くなら、年末恒例の重大ニュースに載るくらいの激しい最期を期待!」
とのこと。オイラがんばるよ。
 返事を打とうとも思ったのですが、寝不足の上に外の嵐で気が散るのでやめました。
 
 昨日ダイエーで買ったヨーグルトを食べました。ゴミ箱に捨てる前に、カップの蓋が風にあおられて遠くへ飛んでいってしまいました。
 階段下のすみにしゃがみこんでウトウトする姿は、はたから見ると、まるで可哀想な家なき子です。可愛くはないけど。
 ラジオを聴いていると、奄美のあちこちで停電になってるとか、住宅二棟が全壊したとか、あちこちで屋根が飛ばされてるとか、いろいろ言っています。停電なんてぼくには無縁なので、ざまあみろ、などと思います。
 ウトウトしていたらぐらりと地面が揺れたような気がして、そのうちラジオで
「ただいま、奄美地方で地震がありました」。
島ごと台風に飛ばされかけてんじゃないかしら。
 
 豪雨がなんとかやわらぎ始めたのは、午後3時ころ。
いつまでもこんなところにいると、身も心もゴキブリになりそうだったので、がさごそと這い出し、行くあてもないので今朝の公園に戻りました。
 東屋に戻るとまたどこからともなくあの白猫が現れて甘えた素振りをしてきました。こいつもどこかで雨をやりすごしていたのでしょう。猫は体が小さいから、雨宿りもしやすくていいなあ。
 
 夕方になって雨は止み、風の向きが反対になりました。「吹き返し」というやつで、これもかなり強風です。
 近所のおばさんが猫に餌をやりにきました。やっぱり、なんやかんやで餌がもらえているのです。
猫にミャアミャア鳴かれて擦り寄られたら、中高年の、とくに女性などは餌をやらずにはいられないでしょう。
 ぼくの方はというと、食パンに無理やりレタスを挟んで塩を振ったレタスサンドを食った後は、
ベンチの上にマットを敷き、シュラフカバーに入ってシートにくるまり、早々に寝ることにしました。
あまり風にあおられないし、テントを巻きつけて寝るより涼しくて、昨日より快適でした。
 夜7時ころでしょうか。おじいさんが一人公園にやってきました。
「チャッピー、チャッピー、どこ行ったのォ?」
などと猫なで声を出していたので、チャッピーなる犬を散歩に連れてきたのでしょう。
 いまどき犬にチャッピーなんて名前を本気でつけてる人が実在することに、腹の中で苦笑してしまいました。
ぼくが知らんぷりで寝ていると、おじいさんは
「にいちゃん、にいちゃん。お腹が空いたのかあ?残念だなあ、餌は無いよう」
えっ、俺のこと?慌てて顔を上げると、おじいさんは野良猫としゃべっているのでした。猫に「ニイちゃん」と名前をつけているようです。びっくりさせんなよ、もう。
 おじいさんはいつまでも、猫相手に猫なで声でおしゃべりしていました。
「おまえの兄弟もなあ、初めは四匹いたんだぞう。覚えてるかあ?みんな病気で死んじゃったんだ。可哀想だなあ、なあ?
これ、ニイちゃん、どこいく?こっちきなさい。だから餌はないんだって。明日の朝持ってきてあげような。…」
他人の猫なで声を聞くのはぼくは大嫌いなので、なんだこのじじい、気持ち悪いなあと腹の中で思いながらそれでも素知らぬふりで寝ていると、おじいさんは今度は携帯で誰かとしゃべり出しました。
「今?公園。そう。チャッピーちゃんを連れてきたんだけど、チャッピーちゃん、どっか行っちゃった。たぶん先に帰っちゃったんだと思うよ。ニイちゃんがいるよ。猫。白い猫。そうそう。
 …若い人が寝てるの。はたちちょっと過ぎくらい。自転車があるよ」
どうやら常に誰かと喋っていなければいられないおじいさんのようで、誰と喋っているのか知りませんが、話題の中にぼくまで登場してきたのはちょっとヤでした。
でも、「二十歳ちょっと過ぎ」と言われたのは、少し嬉しかったりして。俺って寝顔は若く見えるのか?
 
 長電話も終わったようで、やれやれ帰ってくれるのか、と思っていると、おじいさんはぼくゆり動かしました。
「は、はい?」
青いタオルをターバンみたいに頭に巻いた、痩せたじいさんでした。
「どこから来たの?」
「長野県ですけど」
「晩ごはんは食べた?」
「ええ」
「今夜はここで泊まるの?どう、うちで寝てく?」
ぼくはあわてて、
「いえ、野宿は慣れてますんで」
と断りました。
「ああ、そう。気をつけてね」
あっさりそう言ってくれたので、ほっとしました。
 
おじいさんが去った後、ぼくが起き上がってぼんやりと風に吹かれていると、さっきの青ターバンじいさんが白いバンで戻ってきて、ぼくにお弁当のパックと「まろ茶」の缶二本を渡して言いました。
「これ、あしたの朝ごはんにでも食べて。パックは要らなければ捨てちゃっていいから。お茶は冷えて無いけど、我慢してね」
「え、ほんとにいいんですか?ありがとうございます」
青ターバンじいさんはバンに戻り、軽くクラクションを鳴らして去っていきました。
 半透明のパックの中を見ると、どうやら手作りのおむすびとおかずが入っている様子。さっきまで
「なんじゃけったいなじいさんだな」
と思っていたその相手から親切にされてしまうと、それまで相手に対して持っていた不快感をどう処理すればいいかわからなくなります。
親切でとってもありがたくて感謝するんだけど、あの猫なで声はやっぱり気持ち悪いんだよな。
 それでもやっぱり、青ターバンさん、ありがとうございます。
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7月16日(火)曇 島尾文学の魅力?

 お陰で朝には、風も穏やかになりました。
手前が「ニイちゃん」
くつろぐ猫二匹

ぼくのいる東屋には白猫の他に黒猫が二匹出てきて、小さい黒猫がしきりにぼくにじゃれついてきます。
大きい方はぼくより少し離れて座り、餌をねだる様子もなくこちらを見ているので、黒い子猫の母親かもしれません。
子猫がシートにじゃれついて破こうとするのには辟易しました。
 
 青ターバンさんからもらったお弁当をありがたく食べました。ラップに包んだ赤飯おむすびと、おかずは手作りの福神漬と昆布の佃煮。
 赤飯は少し水気が多すぎでしたが、それはありがたさに影響しません。
 猫が身を乗り出して物欲しそうにしているので、少しはおすそわけしてやらねばいかんかなと思い、赤飯を指先にとって鼻面に差し出してやりましたが、白猫も黒猫も食べませんでした。これだから猫は嫌いです。
 野良猫たちに
「じゃあな」
と言って公園から出ようとすると、昨日猫に餌をやっていたおばさんがやってきたので、立ち話をしていたら、それまで脇の水道で鳥籠を黙って洗っていたおじさんが話に入ってきました。
「長野出身か。いま田中知事のことで大変だな。今朝もそのテレビ見てから出てきたところだ」
「ぼくはたぶん選挙できませんけど、どうせ田中さんが再選されるでしょ。他に大した対抗馬いなさそうだもん」
「学生か?」
「会社辞めまして」
「今仕事ないからなあ。この島もそうだ。みんな仕事無くて暇だからパチンコ通いばっかしてるけど、そういう連中はみんな借金だらけだろう」
不景気な話です。
 
 沖縄行のフェリーが名瀬に入るのは明日の早朝。今日も一日この町で過ごさねばなりません。いいかげん飽きてきたんだよな。
 近くに『珍日本紀行』モノの「観光ハブセンター」はあるけど、あんまり行く気にならんし。
 ということで、今日は図書館に入り浸ることにしました。
 鹿児島県立図書館の分館ということでしたが、瀬戸内町の図書館より本の数が少なかったです。
 奄美は島尾敏雄のお膝下で、この図書館の館長を彼が務めていたそうな。
 島尾敏雄は純文学の神様だそうですが、ぼくは高校の教科書で読んだことしかありません。どんな作品だったかも覚えていません。
 だいたい、ぼくは「純文学」と呼ばれるものはあまり読まない性で、漱石とか芥川とか太宰とか、ほとんど読んだことがありません。だいいち「純文学」って名前が不愉快です。何が「純」なんだ。
 まあ、こういう機会でないと読もうという気にもならないので、奄美で島尾敏雄を読むというのもまた一興、ということで読んでみたのです。
「死の棘」というのを読んでみました。登場するのは、亭主の浮気の末にヒステリー症になった妻、妻のヒステリーに困惑して逆ギレする夫、そんな両親にうんざりする幼い兄妹。
 ヒステリーになった妻が延々と浮気のことについて夫を問い詰め、それに耐え切れずに夫が逆ギレし、つかみあいのケンカになって子供が泣き出す。そんな風景が延々と描写されていました。
「もう、二人ともそういうカテイノジジョウ、やめてくれないかな」
とつぶやく5歳の息子の姿などは可愛いらしくて印象に残りましたが、全体的に起承転結もなく、ハラハラドキドキもなく、ことさらジインと涙腺を刺激されることもありませんでした。終わり方も思いっきり尻切れトンボだし。
 島尾敏雄に関する本などを斜め読みしてみたら、「死の棘」に書かれているのはほとんど作者本人の体験らしいです。
 ってことは日記みたいなもの?だとすれば筋がくどいのも尻切れトンボなのもしょうがないと思うけど、「純文学」ってのはそれでいいの?
 吉本隆明が島尾敏雄の作品について評論している本があったので少し読んでみましたが、よけいわけわかんなかったです。
「三角関係は対幻想が自己を破壊して共同幻想へか、個人幻想へか同致したいという衝動に似ている」
って、とても日本語とは思えない。
島尾敏雄とその妻ミホは、島尾が加計呂麻島に特攻隊長として赴任していたときに知り合った仲で、
二人の関係はサニワとノロの関係に似ている、ミホの精神病はカミダーリに通じる、などという指摘は土地柄もあって面白かったですが、それは作品そのものとは関係ないし。
「死の棘」の他にも「島へ」などの作品も少し読んでみましたが、こっちもなんだか支離滅裂でよく理解できませんでした。
 誰か、こんなぼくに島尾敏雄作品の面白さを説明してください。
 って、面白さなんて説明されるべきものじゃないけど。
 
 なんやかんやで図書館を出たのは7時でした。
フェリー乗り場に行ってみると、明日早朝3時半の便があることが分かったので、それに乗ることにしましたが、待合室は3時まで閉まってしまうとのこと。
 
 晩飯は近くの駐車場でラーメンを作って食いました。
食べ切れずにリュックに入れておいた3日前のニガウリを出してみたら、ビニール袋の中ですっかりジュースになっていました。
 それを見てようやく、自分のリュックがゴーヤーの腐ったような臭いを発しているのに気がつきました。
タオルで擦って拭きましたが、当分この臭いはとれないでしょう。
 奄美の最後のお別れにミキの500ccパックを買って飲んだら、発酵し過ぎなのか、少しぬかみそ臭かったです。
 
 近くの公園のベンチで、昨日と同様シートとシュラフカバーにくるまって仮眠しました。夜中ににわか雨が来ましたが、すぐ止んだのでほっとしました。
 2時半に起きてフェリー乗り場に行き、沖縄本部行きのチケットを買って乗り込みました。
 どうせ一周するのですから、沖縄本島のどこで降りてもぼくにとっては同じ。本部で降りた方が、終点の那覇まで行くより片道で1,000円安いのです。
 どういうわけか座席指定はなく、空いたところに陣取ることができて幸いでした。
 いの一番に風呂に入って、後は揺れに身を任せて眠るのでした。

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