日本2/3周日記(沖縄1) 南西諸島だらだら編(沖縄1)

7月17日(水)曇 ふーんこれが沖縄かあ

 フェリーの中では、寝たり、日記打ったり、酔いそうになってまた寝たりの繰り返しでした。
 船内での食料をカップラーメン一個しか持ってきていなかったので、那覇よりも一足早く本部で降りることができて幸いでした。
 本部港に降り立ったのは午後4時。今回旅に出てからちょうど四カ月目に沖縄の地を踏むというのは、少し感慨です。それにしても、ここまで四カ月もかかるなんて、ホント予想外でした。
 
 前タイヤの空気を入れ直して走りだします。
じつは本部(もとぶ)が沖縄のどこにあるのかも理解していませんでしたが、島の北西にあること、近くに名護市という大きい市があるらしいことを把握して、とりあえず沖縄を左回りで一周することに決めました。
 
 初上陸して少し走ってみての沖縄の印象。
 ほこりっぽくて薄汚い。…近くに採石場などがあるせいか、それとも台風明けのせいか。家々も、どこか少しぼろっちい。
 でも、奄美と比べると「沖縄に来た」という実感が風景からも得られます。
 家々の門柱の上のシーサー。
「定礎」みたいに塀に塗り込められた石敢當(本土の道祖神みたいなもの)。
独特の瓦に厚く漆喰を塗った屋根。
 新築の家でも伝統的な赤瓦にしているあたりが、好感持てます。どの家もやる気のないトタン屋根だった奄美とは、えらい違いです。
 コンクリートに白ペンキという家も多いですが、ベランダの手すりのデザインなどを少しずつ工夫していて、それはそれで沖縄らしさを感じます。
 浜風にさらされてペンキが薄汚れているあたりも哀愁が漂っていて悪くない。
 要するに、ぼくが嫌いなのは積水ハウスとかパナホームとか、あの手のカタログ的な家なのです(あーいうのなんていうの?)。
 沖縄はお墓の形も本土(奄美を含む)と違います。石塔ではなく、「石室」といった感じです。昔ながらの亀甲墓(カメノコウバカ)もときどき見かけます。
 
 歩道には街路樹が根こそぎ倒れているので、車道を通らなければなりません。
 こっちはよほど台風の威力が大きかったのでしょう。もしぼくが沖縄で台風7号に遭遇していたら、いったいどうなっていたことやら。
 
 途中、塩川という天然記念物の小川がありました。塩水が流れる不思議な川という触れ込みでしたが、嘗めてみても全然しょっぱくありませんでした。なあんだ。
 夕方に名護市に入り、生まれて初めて御嶽(ウタキ:本土でいう鎮守様みたいなもの)を見ました。御嶽には社殿がないと聞いていたのに、鳥居も社殿もあって見た目は神社とほとんど変わりありませんでした。なあんだ。
 
 スーパーに入って、なるほど沖縄だなあ、と感じました。豚の耳や足や臓物を普通に売っています。食欲を萎えさせるような悪臭が、お肉コーナーの奥の調理場から漂ってきますが。
 飲料水や菓子のコーナーは、アメリカから輸入されたらしき、不味そうな色彩であふれています。
 お酒コーナーでは、1升瓶の泡盛が900円くらいで売っています。なんでこんなに安いんだ。
 ぼくは720ccの瓶の「久米島久米泉」という泡盛(478円)と、オリオンビールの発泡酒350cc缶(115円)を買いました。
 
 近くに海水浴場と公園が一緒になったような空間があったので、今夜はそこをねぐらと定め、東屋の下でポルトギューとかいうフランクフルトをかじりながらオリオン発泡酒を飲みました。
 その後、チンスコウをつまみに泡盛をちびちび嘗めながら晩飯作り。
 ソテツ粥と、みそ汁。みそ汁には牛肉と、マコモダケというネギみたいな野菜を入れました。
 料理していると、野良犬が物欲しげな顔をして寄ってきました。猫みたいにずうずうしくねだることができない不器用さが可愛いです。
「でもね、おまえにはあげないんだよー」
などと犬に向かって言っているうちに雷が鳴って豪雨になりました。慌ててテントの中に引き上げましたが、ずぶぬれになりました。
 しばらく野良犬はテントの外をうろうろしていましたが、そのうちキレたのかワンワン吠え始めました。つくづく不器用な奴です。
 
 マコモダケは、ざくざくと歯ごたえは良かったのですが、味噌を入れるタイミングが遅かったせいか、あまり味がしみておらず残念でした。
 泡盛をまともに飲んだのは初めてのような気がしますが、泡盛って米で作ったウイスキーと考えていいのでしょうか。なんとなく香りが似てる。
 アルコール度も30度あるので、減りが少なく経済的でよろしい。少しずつ慣れて、旅の終わるころには大酒呑みになってる可能性あるけど。
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7月18日(木)曇 役場建築不気味でちゅ

 夜、泡盛を嘗めながらチンスコウをばりばり食べていたら、20パック入り一袋を全部たいらげてしまいました。食い過ぎだ。
 夜はじゃんじゃか雨が降っていましたが、朝にはなんとかやんでくれました。
 6時半ころ公園の管理人さんがぼくのテントにやってきて、
「ここはキャンプ禁止なんだよ。早めに片付けてね」
と言いました。罰金取られなくてよかった。いずれにせよ一晩寝させてもらったので、テント張ったもん勝ちです。
 
 歯を磨きに公園のトイレに行くと、見るからに浮浪者なおじさんが、ひまそうに新聞を読んでいました。
 洗面台には黒くてでかいゴキブリががさごそ歩いていました。南に行けば行くほど、ゴキブリが巨大化していくような気がします。
 使い捨てコップの中に水が入っていて、オケラが一匹もがいておりました。
 オケラなんて見るのは久しぶりです。オケラは水に浮くことができるので溺れる心配はありませんが、コップの縁を這い上がることができず、いつまでもシャカシャカと手を動かしているのが哀れです。
 可哀想なので、植え込みの中に逃がしてやりました。一日一善。
 近くの野外劇場みたいなところに腰をかけて、溜まっていた日記を片付けていたら、もうお昼。
 
名護市役所
名護市役所

 観光パンフレットをもらいに名護市役所に行きました。ここの市役所はけったいな形をした建物でした。
ユニークと言えばユニークなのですが、コンクリートブロックを積み重ねて作っているので、どこかしらみすぼらしい。
 庶民的なイメージを出そうとしているのかもしれませんが。
 
 観光マップを見たら、「ヒンプンガジュマル」というガジュマルの巨木があるらしいので、行ってみました。
 商店街の道路の真ん中に、大きなガジュマルがそびえていました。
 車がひっきりなしに通るので、キジムナーにとって住み心地いいとは思えませんが、根元に立って幹を見上げると、ぐちゃぐちゃに絡み合った気根に少しそそられるものはあります。
左後方に見えるのが三府龍脈碑
ぼく、ガンタ君でちゅ〜

 キジムナーの一種なのでしょうか、「ガンタ君」というのがヒンプンガジュマルと商店街のマスコットらしく、木にたくさん切り抜き型がぶらさがっていました。
 頭から木を生やした、眉毛の太い縄文人みたいなキャラクターです。
 ガンタ君のメッセージとして
「ヒンプンガジュマルは願いのかなう木でちゅ」
「がじゅまるの木の下で願い事をすると夢叶いまちゅ」
などと書かれていましたが、今時のキジムナーは赤ちゃん言葉を喋るのでしょうか。至って不愉快です。
ガンタ君は「チビ犬」という名前の犬を飼っているらしいのですが、こいつがまた主人に影響され、
「犬のフンに迷惑していまちゅワン」
などと、わけのわからない喋り方なのに閉口しました。
 まじめな話をすると、このヒンプンガジュマルのヒンプンとは、玄関の前に建てる屏風の形をした塀のことだそうです。説明板によれば、
「乾隆15年(1750)、具志頭親方の蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、三府龍脈碑を建てた。それがヒンプンに似ているために「ヒンプンシー」と名付けられ、隣に生育しているガジュマルもヒンプンガジュマルと呼ばれるようになった」
のだそうです。
 つまり、政敵の主張を封じるまじないのために石碑を建てた、ということなのでしょう。三府龍脈碑とはどういうものなのかよくわかりませんが、なんとなく風水的な臭いがします。
 碑はガジュマルの下に今もありましたが、漢文が書かれていて何が何やら読めませんでした。
 最近絵葉書を描いていなかったので、ヒンプンガジュマルの絵を描きました。
 通りがかりのサラリーマンさんがサンピン茶の缶を片手に話しかけてきました。
「本土からですか。ヒンプンガジュマルは有名ですからねえ」
「あ、そーなんですか」
へえ、有名なんだねえ、このガジュマルは。
 
 絵を描き終わったのが3時近く。
 その後名護城(なごぐすく)跡に登ってみました。
 城跡は中央公園になっており、公衆便所には大の大人が二人ほど、何をするでもなく日陰でぼんやりしておりました。
 沖縄は失業率が高いらしいですが、昼日中におっさんどもがボンヤリしているというのは、余り見た目がよくありません。暇ならサイクリングでもしろよ。
 名護城は石垣もなく、堀切があるだけの山城でしたが、神社らしきものや、「なんとか門中」と書かれた祭壇のようなものが点在して、どうやらいろいろな人達が信仰しているようでした。
 
 これまでの感想ですが、沖縄の神様の祭祀場はかなり殺風景です。
 本土なら苔むした石像や、朽ちかけた祠など、なんとなく味があるのですが、沖縄の祭場はブロックを積んだりセメントで固めた祭壇であるケースが多く、パッと見
「おや、ゴミの収集場所かな」
と思ってしまいます。神に対する意識が強い分、その媒体にすぎない祠や石塔にはあまり頓着する必要がないということなのでしょうか。
 聖地には亜熱帯の怪しげな木が茂っているので、祠や石像がなくても、場としてはそれなりに雰囲気がありますが。
 
 城跡から下りてきたらもう4時近く。とりあえず那覇方面を目指して国道58号を走ります。
 さすが沖縄、ここにもあそこにも「なんとかビーチ」があって、小洒落た水着の若者どもが興じています。あー、居心地悪い。
 万座毛という名所があるらしいのですが、標識に気が付かず通り過ぎてしまいました。また北上するときに寄り道すればいいや。
恩納村役場
恩納村役場

 恩納村の役場も、なんだか変な建物でした。沖縄の役場って全部こんなんなのかな。気をつけて観察するようにしよう。
 
 ガソリンスタンドでストーブの灯油を補給しようとしたら、
「灯油は扱っていません」
とのこと。沖縄では灯油の需要がないのでしょうね。幸いぼくのストーブはガソリンも使えるので、ガソリンを入れてもらいました。
 今日のねぐらは、残波岬の手前の公園。晩飯はスパゲティ。
ミートソースが一缶で三人分もあるので、コッヘル一杯に麺をゆで、ソースをぶっかけてもしゃもしゃと食いました。
 明日は晴れるらしい。どっかで泳ごう。
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7月19日(金)晴 大繁盛の稲盛ガラス

 夜、雨は降りませんでしたが風が強く、テントを畳むときに見たら、ポールに小さな亀裂が入っている箇所がありました。いずれまた買い替える必要がありそうです。
 
 久しぶりの晴天なので公園の水道で洗濯し、乾かす間に日記を打って、暑くなったのですぐ近くの浜辺に出て軽く犬掻きしました。
 白い浜辺にはサンゴのかけらがたくさん散らばっています。海水浴場ではないので、海底は砂地に混じってごつごつした岩があり、素足だとちょっと痛いです。
 空も海も真っ青で、いかにも沖縄な景色の中で悠々と泳ぐのはリッチな気分ですが、やっぱ海水浴は一人だとさびしい。
 ぼくがテントを張った隣の東屋では、先程からおじさんが一人、テーブルの上にひっくりかえって寝ています。スラックスにベルトを締めて、半袖の襟付きシャツを着て、足は裸足になっています。
 浮浪者さんでもなさそうだし、定年退職した人でもなさそうですが、つくづく沖縄はのんきなところです。
 
残波岬
残波岬

 お昼頃に公園を出て、まず向かったのは、読谷村の残波岬。ごつごつした崖の上に真白い灯台が建っているきれいな岬でした。絵葉書でも描こうかなと思いましたが、日差しが強く、葉書の白が眩しすぎるのでやめました。
 途中のスーパーで食パンと輸入ものの豆の缶詰を買い、読谷村の歴史民俗資料館前の高倉の下でサンドイッチにして昼飯していると、草刈仕事のおじさんたちがアイスを一本おすそ分けしてくれました。アイスを食べたのなんて、長崎県で紫芋ソフトを食べて以来です。
 
 資料館(200円)を見物しました。沖縄は、歴史が本土と全く違うので、何がなんだかよくわかりません。
 本土でいう「縄文時代」や「弥生時代」という区分が沖縄の歴史にはなく、代わりに「貝塚時代」「グスク時代」といった区分なのです。
 沖縄では奈良時代に入るまで農耕が行われていなかったということを初めて知りました。
 資料館の上に、座喜味城(ざきみぐすく)跡がありました。
「沖縄のグスクおよび関連遺構」ということで世界遺産に登録されているそうです。世界遺産になってるのは首里城だけじゃなかったんだなあ。
座喜味城
座喜味城

 石垣しか残っていないのですが、なかなかかっこいい城でした。城壁にアーチ型の門が穿たれていて、日本の城よりヨーロッパのそれに似た雰囲気でした。
 モデルの撮影などもやっていました。白い服を着た女性の回りを、カメラを担いだでぶのおっさんが一生懸命回っていました。
 すみっこの方に俺が映ってたら面白いんだけど。
 
 次に行ったのは、やちむん(焼物)の里。ここに稲嶺盛吉というガラス工芸家の工房があるそうで、そこのガラス製品を土産に買ってほしいと姉にねだられていたのです。
「宙吹きガラス工房 虹」というその工房では、仕事場では若い人達ががちゃがちゃと働き、ショップでは稲嶺盛吉本人が、常連(?)客と談笑していました。
 戦前からガラス工芸をしており、今ではずいぶんと有名な人のようで、いろんな賞を取ったり、写真集が出てたり、雑誌に紹介されてたりしているようです。泡ガラスという技法で、気泡がたくさん入ったガラスの皿やグラスや水差しがたくさん並んでいました。
 女性客に混じって、ぼくが土産の品定めをしている間、稲嶺盛吉氏はずっと楽しげにおしゃべりをしておりました。
「不景気でお金が無いなんてウソ。ぼくのガラスは昔は全然売れなかったけど、今はすごく売れてるもの。グラスセットを180作ってくれなんて注文もくるし、もう大変だよ」
ずいぶん羽振りがよさそうでした。
 確かに泡ガラスって、手触りが柔らかいし、なかなかいいです。窓辺に置かれている製品などは、日差しに輝いてきれいなもんです。
 いろいろ迷いましたが、緑色のグラスを二つ買って、自宅宛に郵送することにしました。
 ちなみに、ぼくが自宅で愛用しているのは、小学校の修学旅行で母親の土産用にぼくが買ってきた「お母さん」の字入りの湯飲みで、それで茶でも牛乳でも飲んでいます。
 さらにちなみに、ビールを飲むのは、もっぱら「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンの絵の入ったグラスで、コカコーラのマークが入っているところを見ると、何かの景品で誰かがもらってきたものでしょう。
 
 すっかり財布が軽くなったところで、ちかくに登り窯があるということだったので行ってみました。
 焼物の工房が並ぶ道の奥に、琉球赤瓦で葺かれた窯があって、ここでも若い職人さんたちが働いていました。
 関西訛りの女性がいたりして、きっと全国から若者が集まっているのでしょう。昨今の職人ブームを目の当たりにするようでした。
 ぼく自身職人に憧れていた時期があって、今も憧れてはいるのですが、誰も彼も職人になりたがる時代になっているかと思うと、そういう世界に近寄りたくなくなってきます。
 それはそれとして、登り窯はなかなかいい姿だったので、絵葉書を描きました。
沖縄に来てから、絵葉書を描こうという気力が出てきました。梅雨を抜けて心にゆとりが出てきたからでしょうか。
 
 夏至を過ぎて一カ月近く経って、日が暮れるのも少し早めになってきたかな、という印象です。スーパーに入って晩飯を買い、外に出るともう真っ暗でした。
 ねぐら捜しをいつまでもやるのが面倒臭かったので、今日は国道58号の真ん中の植え込みの中にテントを建てました。ここもまだ読谷村内です。中央分離帯が少し広めの緑地になっており、ガジュマルなぞが植えられているのです。車の音は少々うるさいですが、耳栓すればなんとかしのげます。
 米を水につけてから、オリオン発泡酒を飲みました。発泡酒が100円で売っているなんて、ありがたい限りです。
 
 晩飯は、お肉コーナーに売っていた「中身汁」。豚の中身、すなわちモツのスープです。意外と薄味で、おいしかったです。
 いずれ、豆腐を買ってゴーヤチャンプルーなどもしてみたいと思っております。
 米を3kgも買ってしまい、明日からどうやって持ち運ぼうか、思案のしどころです。
 
 明日は宜野湾や浦添を経て、那覇に入れるかどうか。
 沖縄に来てスローペースに拍車がかかったような気がします。
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7月20日(土)晴 ディーグガマの人魂

 朝飯はゆうべの残りの中身汁とバナナ。なんちゅうとりあわせだ。
 木々が植わっているとはいえ、道路の真ん中なのであんまりのんびりしていられる環境ではなく、さっさと出発しました。
 国道58号は、でっかい米軍基地の脇を延々と伸びています。
 途中北谷町の海水浴場で一休みし、日記を打ちました。
本土からの観光客がほとんどらしく、
「ねえ、ジャスコ行こうよ」
とだだをこねる娘に、パパが
「なんで沖縄でわざわざジャスコ行かなきゃいけないんだよ」
と口を尖らせていたりする光景が見られました。
 
 今日、最初に訪れたのは普天間権現。
ここには、極度に対人恐怖症の引きこもり女の伝説があります。
 
 昔、那覇に美人の娘がおりましたが、彼女はずっと家に閉じこもり、家族以外には誰にも姿を見せませんでした。
手前が美人姉
美人姉、盗見されるの図

 娘には、すでに嫁いだ妹がおりましたが、妹の夫は義姉の美しさの評判を聞いて、ある日彼女を盗み見してしまいました。
見られたことに気づいた娘は、家を飛び出して普天間の洞窟に逃げ込み、それっきり出てきませんでした。
 人々は「あの娘は神様だったにちがいない」といって、洞窟を拝むようになったそうな。
 
 家族以外の誰も顔を見ていないのに美人だと評判だったということは、家族が言い触らしていたのでしょうか。
 それはともかく、娘が逃げ込んだ洞窟とはどんなものかしらと捜し回ったのですが、それらしき洞窟はありません。要するに神社の本殿が洞窟を塞いでいるのでした。つまんねえの。
 神社の拝殿では、白い上掛けを羽織ったおばあさんと、家族らしき一行が熱心にお参りしていました。
 兎谷さんからの情報によれば、白い上掛けのおばあさんはユタ(女性の拝み屋)だそうです。ユタに連れられて聖地を巡礼する風習があるそうな。
 
 嘉数高台公園で昼飯を食べた後、今度は浦添市立美術館で行われている東松照明写真展「沖縄まんだら」を見にいきました。兎谷さんのお奨めです。
 東松照明というのは著名な写真家だそうで、沖縄にかなり思い入れして写真を撮っている人だそうです。どういうわけか入場無料なのがありがたい。
 入場してみると、ちょうど「ギャラリートーク」と称して専門家さんが東松作品について講演している最中でした。
 せっかくなので聞いてみようと椅子に座ったのはよかったのですが、ついつい寝てしまいました。
 寝てしまう前に耳に入った情報では、東松氏は初め「基地に占領される沖縄」「アメリカ化する沖縄」という問題意識で沖縄に入ったのだそうです。しかしアメリカ占領時代を経てもなお、本土よりもむしろしっかりと独自の文化を保っている沖縄および南西諸島の姿に感銘を受け、沖縄にのめりこんで撮影を続けてきたのだそうな。
 今回の写真展では、これまで撮ってきた作品を再構成して並べ直したものだそうで、基地周辺の人々の暮らしから、自然や伝統芸能まで、一見脈絡なさそうな感じで並べられていました。
 テーマが「沖縄まんだら」なのですから、並べ方の意味がわかんなくても、それはそれで当然でしょう。
 個人的には、若者やおっさんがけだるそうにカメラ目線を向けている写真群に興味を持ちました。
 沖縄に来てから、
「昼日中、ひまそうにぼんやりしてる大の男」
が気になっているのですが、ここに写っている男たちも、年寄りは別として、何して(稼いで)るんだかわからない連中が多くいます。
 これが南方の雰囲気というものでしょうか。例えばラオスでは、大人はみんなやる気なさ丸出しで昼寝してる、と旅行した人の報告を聞いたことがありますが、それこそが南国の南国たる証なのでしょうか。
 
 美術館のロビーの情報端末で沖縄の歴史を少しばかり勉強してから、次に浦添グスクに行きました。ここは戦前までは立派な石垣が残っていたのですが、沖縄戦で完全に破壊されて今ではただの公園でした。
 公衆便所の屋根に蟻が巣を作っているらしく、垂直な壁の上を、大勢の蟻がミミズの死骸を引っ張りあげていました。
これはディーグガマではありません
浦添グスク内のガマ

 この浦添えグスクにはディーグガマという、沖縄戦で何人もの人が死んだ洞窟がありました。
 階段を下りるとお地蔵さんが祀られた納骨所があって、その奥が広い洞窟空間になっています。
 天井からぴたぴたと水がしたたり落ち、足元はどろどろです。
 真っ暗な中、「うおー、けっこうスゲエな」とあたりを見回していると、ふと洞窟の奥に小さな光が点滅するのが目に入りました。
 錯覚かと思ってしばらくじっと目をこらしていると、光は一つだけでなく三つも四つも、洞窟の壁や天井で瞬きはじめました。瞬くだけでなく、光はすいっと動いています。
 どうやら、蛍のようでした。こんな洞窟の中に棲む蛍がいるのかどうか知りませんが、確かに光りながら動いているのですから、蛍以外には考えられません。
ディーグガマ内部
ディーグガマ内部

「もしかしたらあれは、戦没者のタマシイなのかもしれません」
などとクサイことは書きたくありませんが、いわくのあるガマの暗闇の中で、かぼそい光の筋を見ると、かなり「来る」ものがあります。
 滴の音だけが響く暗闇の中に、何分いたことやら。
 蛍の光は名残惜しいですが、あんまり長居するのも不気味なので、お地蔵さんに改めて手を合わせてから洞窟を出ました。
 駐車場の公衆便所に戻ると、ミミズを運んでいた蟻たちの姿はどこにもありませんでした。きっと巣に運び込んでしまったのでしょう。
 
さてこれからどうしようかな、と地図を見ていたら、地元のおっさんが
「どちらからですか」
と話しかけてきました。
「沖縄の夏は暑いでしょう?でも、君まださほど日焼けしてないね。そのうちもっと黒くなるよ。
 沖縄の海もねえ、以前と比べて汚れたよ。本土から見ればまだきれいかもしれないけど、地元にしてみると、もう今の海は自慢できないね。赤土の流出でサンゴなんかどんどんなくなってるから、ダイビングも本島じゃやらなくなったよ
 泡盛は今じゃ飲みやすくなったね。昔の泡盛は匂いがきつくって、みんなアメリカからの輸入酒の方を飲んでたよ。今は女性向けの低アルコール泡盛も出てるからねえ
 洞窟に行った?危ないよ、ハブが出るよ。今はハブの季節だからねえ」
などと、いろいろ話してくれました。
 
 スーパー「サンエー」に寄ってから、嘉数高台公園にテントを建てました。公園の看板には「食べ物の調理禁止」と書かれていましたが、そんなものはかまっていられません。
 今日は浦添市の方で祭りがあるらしく、花火が上がっていました。
 
 晩飯は牛肉のステーキ。沖縄といえば豚肉料理ということで、店にある豚肉の種類も多いのですが、値段は別に安くありません。かえって輸入牛肉の方が安かったりするので、そっちを買ってしまうのです。
 豆腐を買ってみそ汁を作りました。たしかに、本土の豆腐よりも味が濃いような気がしました。
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7月21日(日)晴 叱られながら首里城

 朝飯は、サンドイッチ。食パンに、ゆうべの残りの豆腐とルッコラ(ハーブ野菜)を挟み、塩コショウ、ニンニクパウダーを振って食いました。微妙な味でした。
 朝から蝉の鳴声と、蝉捕りの子供たちの声が賑やかです。夜露に濡れたテントを乾かし、9時頃公園を後にしました。
 
 今日は、首里城見物。首里にいく途中、狭い歩道を抜けようとして、ハンドルを握る右手の小指を電柱にぶつけてしまいました。ハンドルと電柱に挟まれた形の小指からは、たらたら血が流れて痛かったです。
 小指を嘗めながら、まず県立博物館に行きました。全国にリッチな県立博物館が立ち並ぶ中で、ここはずいぶんと素朴な感じでした。
 博物館を出た後、首里城に。首里杜館(すいむいかん)という総合案内所の庭の隅に自転車を停めようとしたら、警備員さんに
「そこに停めちゃだめだよ」
と怒られました。
 怒られないところに停めて、800円払って入城。
 正殿前に御庭(うなー)という広場があり、そのすみっこに座ってちんすこうを食べていたら、昔の役人の格好をした警備員のおじさんに
「ここは飲食禁止です」
と怒られてしまいました。
 首里城は、白い城壁がうねうねと続いていてかっこいいですが、よくみるとそのほとんどが復元物であることがわかります。
建物も、正殿はかなり資料に忠実に作られているようでしたが、その他の建物は中が展示室になっていたり土産物屋になっていたりで、昔ながらなのは外観だけなのでした。
 これで世界遺産かあ。ちょっと俗っぽいな。
首里城の城壁
首里城の城壁

 エアコンの効いた南殿でコンセントを借りて日記を打ち、ハデハデな正殿を見物し、北殿の土産物売り場を抜けて外に出ました。出たところの門から眺める城壁の風景は、結構かっこよかったです。
 
 世界遺産のひとつで有名らしい園比屋武御嶽(そのひやんうたき)の石門の写真を撮り、門の裏の神域を覗きました。どうちゅうこともなく、木が何本か生えているだけでした。御嶽なんてそんなもんなのでしょうが。
 守礼門を一応写真に撮ってから、玉陵(たまうどぅん)を見物(200円)。総石造りの王家の墓で、さすがでっかいです。
 展示室ではマスコットキャラクターの名前を募集していました。弥生人みたいな服を着て、ドラキュラみたいなマントをつけた、青い顔をした生き物でした。
 ぼくとしては、彼の眉毛がげじげじまゆげなのにちなんで「げじまゆくん」がいいと思いましたが、応募箱の周辺には子供たちがたくさんたむろしていたので、応募できませんでした。
 
 次に、辨の御嶽(びんぬうたき)を探しにいきました。
 琉球を鎮護する御嶽として、代々の国王や聞得大君(沖縄版卑弥呼)がお参りした由緒正しい御嶽です。
 鳥堀町の山の中腹にあるという話だったので、それらしき場所をさまよってみたのですが、鳥堀町には住宅地があるばかりで結局わかりませんでした。
 
 今夜のねぐらは金城ダム。ウォーキング人などが多いですが、少しひとけの少ない東屋を選んだら、近くに「ハブ注意」の看板が立っていました。
 まあ、テントの中にいれば大丈夫だろう、と思ってテントを建て、飯を炊く準備をしていると、警備員さんがやってきました。
「ここで泊まるつもり?ここはねえ、蛇が棲んでるんだよ」
「まあ、テントの中にいればいいですよね」
「明日はいつまでいるの」
「8時か9時頃に出ようと思ってるんですけど」
「火には気をつけてね。その辺汚したりしないように」
「ええ、それは気をつけます」
 やっぱハブいるのか。夜中に立ちションに出たりするのはやめた方がいいな。
 レトルトカレーの晩飯を済ませ、泡盛を嘗めていると、またライトが近づいてきて警備員さんの声がしました。
「はい?」
「ここは危ないからねえ、管理事務所の前で寝てもいいよ」
「いやあ、今から動くのは面倒なんで…」
「いいならいいけど。蛇ったって毒蛇だからね、気をつけてね。ダムの水は飲めないよ。水飲み場は向こうにあるから」
いろいろ注意を言い含めてくれました。ダムの水なんて誰が飲むかよ。
 
 明日は、金城町の御嶽や石畳を見て、那覇市内で土産を買って、港から離島に行く算段を考えようという計画です。
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7月22日(月)晴 内金城の人食い鬼

 ハブに遭遇することもなく、めでたく朝を迎えました。
早々にゆうべの警備員さんが来て、
「ここにいてもいいけど、あそこに監視カメラがあるから、8時ころまでにテントだけは畳んだ方がいいよ」
と教えてくれました。
 
 言われたとおりにテントを畳んで、東屋の下で日記を打っていると、別のおっさんがやってきました。
「あ、おはようございます」
と挨拶すると、
「今日も暑いねえ。ここまで来るだけで汗かいちゃった」
と言いながら、携帯ラジオをつけてベンチにごろりと横になりました。この人も暇な昼寝おやじの一人でした。
 
 今日は、近くの金城石畳道をまず見物。アメリカ軍の破壊を免れた、昔ながらの石畳の坂道です。
ぼくが訪れたときは電線工事をしていて、工事車両や三角ポールが邪魔くさかったですが、いい風情でした。
 この石畳の細道を、水色のセーラー服を着た中学生の女の子が歩いていたりするので、ますます絵になります。
 沖縄戦がなければ、こうした道が町じゅうに残されたはずなのでしょう。もったいないなあ。だからといって「米軍は中性子爆弾を使えばよかったのに」なんてことを思ってはいけませんよ、そこの君!
水場を横切る猫
仲之川を横切る猫

 石畳の道の途中には、石積の水場があって、これもなかなか面白かったです。床も壁もきっちりと石積で固められた奥に、泉が湧いているのです。日本の風景というより、モヘンジョダロの遺跡に似ている気がしました。
 「仲之川」という水場の一つを絵に描いていたら、白い猫が二度通り過ぎました。
 
 石畳道から脇に入り、「内金城の御嶽」に行きました。
 段丘(?)の斜面の一画で、アカギという木の大木が何本か生えているその根元に、白い石を積んで四角く囲んだ小さな御嶽が二つありました。それぞれ大嶽、小嶽と呼ばれているらしいです。
 ここには、人食い鬼とその妹の伝説があります(元ネタは『日本の神々』)。
内金城の御嶽
内金城の御嶽
 内金城の小嶽には昔、兄妹が住んでいました。兄はやがて人の肉を食うようになり、鬼人と呼ばれて村人から恐れられるようになりました。
 あるとき、二人の姉が餅を持ってきました。兄と妹が御嶽で餅を食うとき、妹は兄に鉄の餅を差し出し、自分は米の餅を食べました。
 妹が裾をはだけているのを見た兄は、
「下の、血を吐くその口は何か」
と訊きました。
 妹が
「上は餅を食う口、下は鬼を食う口」
と答えると、兄は驚いて後ずさりし、崖から落ちて死んでしまいました。
 今でもこの兄の鬼の角が残っており、12月の第一、二の庚の日には鬼餅を作って小嶽に供えるのだそうな。


 兄妹は、このアカギの下に小屋を建てて住んでいたのでしょうか。ただ、今の内金城の御嶽はどちらかというと崖下にあり、兄が落ちて死ぬような場所はありません。
 それにしても、この伝説を一体どう解釈すればよいものか。艶笑話なのか、頓知話なのか、それとも陰部に魔除けの呪力があるとする、信仰を背景にしたものか。
 妹の大胆さにも脱帽しますが、「鬼を食う口」と言われて驚いて死んでしまう兄は、けっこうウブでかわいいと思います。
 もし兄が
「そうか、どれどれ食われてみよう」
なんて言いだしたら、この伝説もずいぶんややこしい展開になってしまうところです。
 
 豪勢に蚊に食われて御嶽を後にして、その後那覇市中心部に向かいました。
 途中のスーパー「サンエー」で食パンとコンビーフハッシュ(コンビーフとジャガイモを混ぜたもの)と乳酸菌飲料1Lを買い、国際通りの公園で食べました。
 その後市役所で立派な観光冊子をゲットし、戦後の闇市から発展したという牧志公設市場を見物。色とりどりの魚や、豚の各部位、土産物などが売られていて、見ていて飽きませんでした。
 エイが一匹まるごと売られていましたが、誰がどうやって食うんだろう。
 針皮を剥がれたハリセンボンは、目ばかりギョロリとしていて不気味でした。
 肉屋では、豚の耳皮(ミミガー)が試食できて、おいしかったです。
 豚の顔皮(チラガー)の燻製も1,500円で売られていて、土産物としてはインパクト大でしたが、試食してみると脂っこくてあまりおいしくありませんでした。
 漬物屋では、ラッキョの漬物やゴーヤーの粕漬を試食させてもらいました。店のおばさんが
「どう、おいしいでしょ。兄さんいつ帰るの」
「まだ当分いるんですよ」
「そう、じゃあ帰るときにまたいらっしゃいね」
「そーですねえ、どーも」
土産には買わないけど、泡盛のつまみに自分で買っても悪くないな。
 市場の周りにもアーケード街があって、梅干ばあさんが熱心にモヤシのヒゲを取っていたり、キャベツにどうどうと「青森産大根」のラベルが張られて売られていたりしました。
 服屋では「島人」「海人」とでっかくプリントされたTシャツが売られていて、
「こんなの“かっぱくんTシャツ”や“火の盆Tシャツ”着て歩くより恥ずかしいな」
と思ったりしました。
 親戚への土産「沖縄トウガラシ」を買って、あとはどっかの酒屋で安売りの泡盛を買おうと、市場を出て港方面に向かいました。
 
波上宮の狛犬(シーサー)
波上宮の狛犬(シーサー)

 途中、波上宮や護国寺を見物。沖縄総鎮守なのだそうですが、意外と小さな神社で、戦災で焼失し、その後復興されて平成十年にも改築したばかりとのことで、建物に含蓄は感じませんでした。
 
 とりあえず先島諸島に渡ろうと、那覇新港へ。夏休みに入ったからなのかけっこう混んでいて、二つある船会社のうち有村産業の宮古経由石垣行きの「飛龍」はどうやら満席の様子。
 琉球海運の、石垣経由宮古行きの「わかなつおきなわ」は空きがあって、8時出港便の切符が買えました。石垣まで5,860円。
 7時に乗船とのことで、時計を見るともう6時50分。
 晩飯を買う余裕も、土産を買って送る余裕もありません。慌てて自転車を畳みました。
 自転車がかさばるので、連絡のマイクロバスには最後に乗車。長い乗船タラップを上るのもしんどかったです。
 二等船室は小部屋に雑魚寝です。乗客は若い連中が70%近くを占めています。「海人」のTシャツ着た人もいます。ほんとに着てるんだなあ。
 シャワーを浴びたあと甲板に出て、柿の種をぽりぽりかじりながら、遠ざかる那覇の夜景を眺めました。今夜は月もきれいです。
 船内で金を使うつもりはないので、晩飯は甲板で食パンとレトルトのソーキ煮、それに泡盛。
 こんなところで泡盛の瓶のラッパ飲みは少しお行儀が悪いかもしれませんが、かまうもんかい。
 泡盛は残り少なくなっていたので、すぐ空になってしまいくやしかったです。
 
 石垣には明日の朝着。西表島には行かないけど、竹富島は風景よさそうだから行ってみたいな。
 ここまで来ると、さすがに離島は船の便数が少ないので、スケジュールもどうなることやら。
 台風も怖いしなー。まあ、なんとかなるでしょう。
 ぼくの寝場所は、一番遅れて乗船したので出入口のすぐ近くです。
 隣の女性は、毛布を頭からかぶって早くも寝ています。
 シャワー浴びたし、毛布かぶってればニオイで周りに迷惑かけることもないだろう。

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