日本2/3周日記(石垣) 南西諸島だらだら編(石垣)

7月23日(火)晴 南波照間幻想

 朝6時すぎ、雑魚寝部屋の窓にも明かりが射してきて、目が覚めました。
何人かの早起き人は既に起き出していて、ぼくをまたいで部屋を出たり入ったりしていました。
 甲板に出ると朝日が昇ってきたところで、少し朝焼けの名残が雲に残っていました。
 すでに細長い島が見えていて、それが石垣島の西岸でした。
 朝食の食券を販売する船内アナウンスが流れましたが、もちろんそんなものは買わず、下船までの辛抱と柿ピーを噛んで水で飲み下しました。
フェリーには飲料用の給水機があるので、いつもの水道よりおいしくて冷たい水が飲めて幸せです。
 
 8時30分ころに港に着き、船を下りて自転車を組み立てました。兄ちゃんが若者向けの素泊まり民宿のチラシを配っておりました。
 一泊1500円くらいでしたが、もちろんぼくには用がありません。
 乗船待合所で日記を打ったあと、市内に漕ぎ出しました。石垣「市」と名乗るだけあって、PHSも使えるし、普通の街です。
 何かしらの飯も食いたかったのですが、スーパーなどを見つけるよりも先に市立図書館を見つけてしまったので、石垣島やその周辺(八重山地方というらしい)を下調べするために図書館の郷土資料を物色することにしました。
 民話関係の本を読んだのですが、こっち(八重山)にもいろいろ伝説があって面白いです。
 沖縄本島の展示施設では、琉球王朝に対する薩摩藩の搾取が話題になっていましたが、こちらでは琉球王朝による八重山支配の冷酷さが強調されていて面白かったです。
 琉球政府によって人頭税が課税され、あまりの搾取に耐えかねて南の島へ脱出していった「屋久アカマナー」の伝説や、琉球政府からの命令で開拓移住させられ、別れた恋人を思うあまり石になった「野底マーペー」の伝説などなど。
 
 波照間島は日本の最南端で、その先にはフィリピンまで大海原が広がっているのですが、波照間(現地語はパティルマ)の人達は、自分たちの島より南に「南波照間(パイパティルマ)」という島があると信じ、そこへ行けば琉球政府から逃れ、自由な暮らしができると信じていたそうな。
 「パイパティルマ」という日本語離れした響きもいいですが、島の人々の「常世」へのあこがれがうかがえるようで、ちょっと波照間島に行ってみたくなりました。
「手ぬぐい」が「ティサージ」
「湿地」は「シチュル」
「呪文」が「ジー」
「鳥」は「ドゥリ」
「太陽」が「ティダ」
「病魔」は「ヨートゥ」
「地霊」は「ナイ」
「悪霊」は「ナンツプ」
「こうもり」は「カブリィ」
「神様」は「カントゥイ」
「おじいさん」は「ウブサ」
 どれも日本語(標準語)とは全く違うようで、でもなんとなく似ているような気もして。想像力をかきたてられます。
 キャラメルで飢えをしのぎながら本を読んでいたら、なんやかやで4時になってしまいました。
 
 図書館を出て、石垣市役所に行って観光パンフを入手。旧暦6月には豊年祭(プーリィ)という祭りが行われるとのことだったので、
「これから見られる豊年祭はありますか」
と訊いたところ、観光課の係長(あの席はたぶんそうだ)さんは
「市内では明日と明後日がお祭りで、とくに明後日は見所多いですよ。
10時から各地の御嶽で祭があって、午後は3時頃からこの4号線てところでみんなが勢揃いします」
と地図にマーカーをつけてくれました。
「アカマタクロマタってのが出るのはあるんですか?」
「それは宮良地区で、あさっての夜8時からですよ。大勢人が来ますから、行けばわかりますよ」
「誰かに事前に承諾を得るとか…」
「別にないですけど、写真やビデオ撮影はいけないことになってます。終わる時刻は…分からないですねえ、明け方まで続くんじゃないですか」
 
 ここで「アカマタクロマタ」を説明しておくと、要は八重山地方に伝わるナマハゲみたいなもん、というのがぼくの知識です。
 ニライカナイからやってきて村人に福を授けて帰っていくという、「来訪神」とか「マレビト」とか言われるものの代表例です。
 かなり秘密主義的な行事で、よそ者は祭に参加できない、という話もちらと聞いたのですが、どうやら撮影だけ気をつければ、見学自由なようです。
 秋田のナマハゲは、今ではすっかり観光化されてしまったという話を聞きますが、石垣のアカマタクロマタはそれ以前の、かなり土俗的な光景を見せてくれるのではないかと、期待が高まるわけです。
 あと二日すれば、あのアカマタクロマタに会える!
けっこう興奮しながら役場から出てくると、玄関の外では職員さんたちが祭の囃し太鼓の練習の真っ最中でした。
豊年祭には、島の外に出ていた人達も帰省して、島の人口が一気に膨れ上がるのだそうで、つくづくいいタイミングで石垣に来れたものです。
 
 土産の泡盛を自宅宛に送らなければならないので、石垣市のアーケード街や公設市場を物色しました。
 公設市場の2階には、かわいいシーサーの置物や郷土民具の折畳枕などが売られていました。パパイヤの漬物を味見しましたが、あんまりおいしくなかったです。
 こういう市場は見物するには楽しいですが、基本的に観光客相手なので、どの店も値段が横並びでお値打ち感がありません。
 市場を抜けて少し遠くのスーパーに行ってみると、こちらは地元民でごったがえしておりました。やっぱこっちの方が落ち着くなあ。
土産用と自分用、あわせて3本の泡盛を買い、地図で見当をつけた中央運動公園に行きました。
案の定おあつらえの東屋があって、監視カメラもなさそうなので今夜はここに決定。
 
 晩飯のスパゲティを茹でていると、近所の人らしきおっさんが夕涼みにやってきて、しばらくベンチで寝ておりましたが、やがて帰っていきました。
 茹で上がったスパゲティにアサリコンソメの缶をぶっかけ、食べようとしているところに
「お邪魔していいですか」
と、若い旅行者風のお兄さんがやってきました。ちょっと色白で背が高く、女性にもてそうなルックスです。
「どうぞどうぞ。スパゲティ食べます?」
「いえ、食べたばっかなんで」
「じゃあ泡盛飲みます?」
「そうすか。じゃあ少しいただきます」
というので、コップに泡盛を注いで、水道水で割ってあげました。
 ぼくの方はスパゲティをすすりながら話をしました。今度はぼくが質問役です。
「旅行ですか?」
「こっちの方にバイトしに来たんですよ。石垣と宮古どっちにしようかと思って、とりあえず先にこっちに来たんですけど」
「ああ、夏休みで」
「いえ、半年くらい」
「学生さんじゃないんですか?」
彼は笑って、
「いやあ、もう30ですよ」
「えー、ぼくより上じゃないですか。ぼく28ですから。30って歳は、けっこう節目というか、プレッシャーになりません?」
「そうかな。気にしだしたらキリありませんからね」
「この先どうしようとか」
「別にねえ。なるようになるでしょう。結婚だってしなくていいと思ってるし」
「そうですか?ぼくはたまに一人でテントの中で寝てると、無性に『ああ、結婚してえ!』って思うことありますよ」
「溜まってんじゃないですか?それ」
「…ねえ」
 
 彼は奈良出身で、仕事を辞めた後「南の島で働きたくて」今日の飛行機で石垣に着いたんだそうです。
「日本一周した後はどうしようって考えてます?」
とナラさん(仮名)も逆襲に転じてきました。
「うーん、まだよくわかんないですけどねえ、漠然と『自給自足』にあこがれてるんですよ」
「あ、それ分かるな」
泡盛の含有量はぼくの方が多かったので、ぼくの方が少し饒舌になっていたかもしれません。
「会社にいたころ、何のために働いてるんだかわかんなくなったんですよね。別に金なんてたくさん欲しいわけじゃないし。してる仕事が本当に何かの役に立ってるのか、自信がなくなったんですよ。
 そんなことするくらいなら、自分の食うだけは自分で作って、余った時間があれば、金のかかんない、でも自分のしたいことに使えたら、ってのは理想ですね」
後は、ぼくの今回の旅の奈良の思い出で、東大寺五月堂の日光月光が特別展むけに包装されてミイラ状態だったのが悔しかったとか、奈良京都の寺は拝観料が高すぎるとか、そんな話をしました。
 
ナラさんも今夜ここで野宿するとのことだったので、蚊取り線香と虫よけスプレーを貸してあげました。
「朝ごはん作りましょうか」
と言うと
「ありがとうございます」
と返ってきたので、明日はご飯を炊くようにお米を水に浸けました。ガソリン燃料に変えてから、ストーブの調子もいいので、人に食わせる飯も炊けるでしょう。
このところ、会う人に何かを「してもらう」立場が続いていたので、久しぶりに「してあげる」ことができることが気分いいです。
 ちょっと旅馴れたって自慢が、鼻にかかってるかもしれませんが。
南西諸島編目次 表紙

7月24日(水)晴 朝っぱらから説教魔

 ナラさんが寝てるうちにぼくは起きて、飯を炊きスープを作りました。
 ナラさんの方を見ると、足がぴくぴく動いたりして、眠りが浅くなってきたようだったので、
「飯できましたよ」
と起こしました。
 ナラさんのごはんをよそっているところへ、ゆうべナラさんが来る前にベンチにきて寝ていたおじさんがやってきました。
「おはようございます」
とぼくがあいさつすると、おじさんは
「これ食べるか」
と言って、ビニール袋からスポンジケーキの切れ端と、賞味期限が切れてつぶれかけているワッフルと、袋がベトベトになっているシュークリームをくれました。どう見ても、菓子屋の裏から失敬してきたものとしか思えません。
 断ればよかったのですが、くれるものは拒まず、の遍路癖が出て、頂戴してしまいました。
 とりあえず、スポンジケーキを半分ナラさんにあげて(というかおしつけて)、ぼくは先に自分で作った飯を食いました。
 菓子裏じいさん(仮名)はぼくを見て、
「君はきのうもちゃんと晩飯を作っていたな。今朝もまたちゃんと朝飯を作って食べている。どうしてそんなことができるんだ」
と、聞き取りにくいボソボソ声で訊いてきました。ぼくを問いただすように、目が据わっていました。酒入ってるのかなこの人、とちらと思いました。
「どうしてって、自転車漕いでると腹減るし、マメなのは性分なんですかね」
「しかしな、きちんと飯を作るというのは大変なことだ。
 …君は自転車旅行をしていると言ったな。なぜそんなことをする」
なんだか真正面から質問してきたので、これはおもしろそうだ、乗ってやろうと思い、ぼくも少し身構えました。
「そうですねえ、会社やめて、憂さ晴らししようかなと」
「いや、ぼくは君の本心を聞きたいんだ。これは君の趣味なのか」
「趣味…そうですね、趣味ですね」
「歳はいくつだ」
「28です」
「28。ぼくがそのころは、仕事をしていたぞ。配管工などをして全国を歩いていた。仏教では人間の幸せをどのように言っているか知っているか」
「いいえ」
「まずは家庭をもって子孫を作ること。その次に人の下に入る、つまり人を支えて役に立つことだ。君には両親はいるか」
「いますけど」
「両親がいったいどんな気持ちでいるか、考えたことはあるか」
「ないことはないですけど、あんまり真剣には」
「いいか。ぼくは説教するわけじゃないが、」
と、菓子裏さんは完全に説教モードに入ってきました。日差し除けに頭から垂らしている手ぬぐいの奥で、蛇みたいな目がぼくを見据えていました。
「人の立場に立って考える、それをしない若者が増えて日本は駄目になるんだ。
たとえばいま君は、ぼくがさっきやったパン(実際は菓子ですが)をそうやって食べているが、ぼくにはなにもくれようとしない。いや、べつにぼくは欲しくて言ってるんじゃないんだぞ。
 それはぼくがこうした(質素な)格好をしているからだ。もしぼくが石垣製糖の社長だったら、君はすぐにぼくのところに持ってくるはずだ」
「…」
 うーむ、この人はぼくと価値観違うな。相手が偉い社長だとしたら、そんな人に期限切れの菓子パンあげても失礼なだけだろう。
 ものを与える、とくに食べ物を与えるという行為は、相手を自分より下の立場とみなす意味合いが強い。ぼくが菓子裏さんの期限切れの菓子を受け取ったのは、断ったら悪いかな、と、彼に対して敬意を払ってのことなんだけど。
 この人もどうやらホームレスさんみたいだ。この菓子パンを自分の朝飯用に集めてきたものだとしたら、申し訳なかったと思う。でも、こっちが自炊した飯をさあ食おうとしている最中だったのは菓子裏さんも承知してのことだろう。
 明らかに腹が減っていない相手に食べ物を与えておいて、お返しがないことに腹を立てるってのはおかしいんじゃないのか?あげたくなければくれなければいいんだ。
菓子裏さんにも
「ご飯いかがですか」
って訊いた方がよかったのかな。でも、今はもう器もないし、箸もない。
 
 菓子裏さんの支離滅裂な(そのうえ言語不明瞭な)説教を聞きながら、ぼくは頭の中でそんなことを思っていました。
そんなぼくに菓子裏さんは、
「目は口ほどにものをいう、というが、君は『このジジイ何言ってるんだ』と思っているだろう。しかしな、ぼくの説教を受けている、それも君が生きているという証しなんだぞ」
…なるほど、ぼくに説教している、それがあんたの生きてる証しなわけですね。
「どうも、ありがとうございます」
「そうだ、ぼくはその一言が聞きたかったんだ」
菓子裏さんは初めて満足そうに頷きました。あんた、相手からお礼を言われたくて今までくどくど語っとったんかい。
 説教を聞いてあげるのは疲れます。せめて説教する側は、必要最低限のことをインパクト強くビシッと言うか、さもなければもっと話術巧みに面白く喋ってほしいものです。
 説教する側は楽しいでしょうが、される側は、患者の不満を黙って聞く心理カウンセラーとなんら立場が変わりません。菓子裏さんはぼくに向かって
「君はいいところの息子だな。親は医者か何かだろう」
などと言っておりましたが、素直に答えようものなら、してやったりと菓子裏さんのグダグダ話が続くことは目に見えていたので、
「ただのサラリーマンですよ」
と言い張って切り抜けました。
菓子裏さんはようやくぼくを解放し、今度は矛先をナラさんに向けました。ナラさんはすでに飯も食べ終え、黙ってうつむいていました。
「君は出身はどこだ」
「奈良ですけど」
「じゃあ天理教の教えについてどう思う」
ナラさんはうんざりしたように苦笑して、
「いや、ぼく信者じゃないんでわかんないですけど」
「ぼくの知り合いが、奈良人はみんな天理教だって言ってたぞ」
「そんなんちゃいますよ」
これではもはや酔っ払いにからまれたのも同様です。
 ぼくは食器を洗いにベンチを離れ、水道からちぐはぐな二人のやりとりを聞いてニヤニヤしていました。
 菓子裏さんはようやくぼくらを解放し、ベンチにごろりと寝っ転がってぐうぐういびきをかきはじめました。
 こういう人間にはなりたくないなあ。親が泣いてるぞ、あんた。
 ぼくがテントを畳んで荷造りするのをナラさんは待っていてくれましたが、ぼくは洗顔が残っているので近くのトイレの前で別れました。
ナラさんは宮古島のアルバイト候補地に連絡つけて、それが駄目だったら石垣で働くそうです。
「それじゃあ、ニュースに出ないように気をつけて日本一周してください」
「ありがとうございます。お仕事がんばってください」
と言って別れました。
 
 ぼくはトイレで洗顔など済ませた後、近くの郵便局で泡盛などを自宅宛に送り、市内観光にでかけました。明日の夜に宮良地区のアカマタクロマタを見にいくまでは、石垣市内にいる必要があります。
 途中、自転車にバッグをたくさんつけた同業の若者と道ですれちがいました。
「こんにちは」
と声をかけると、彼はVサインをして走り過ぎていきました。あれが業界の挨拶なのかなあ。
 
 まず行ったのは市立八重山博物館(100円)。お金を払うと、チケットの代わりに博物館の写真入りの絵葉書をくれました。いいサービスだと思うけど、古ぼけた博物館の写真の絵葉書なんて、もらってもあまりうれしくありません。
 博物館の中身は、今時の市立博物館にしてはずいぶんと素朴でした。展示品にさほど目新しいものはありませんでした。
 次に行ったのは宮良殿内(みやらどぅんち)。昔の役人か何かの家で、このへんの代表的な古民家ということです。
 見学料は200円。縁側に座っているもぎりのおじいさんに、
「中に上がってもいいんですか」
と訊くと、
「中は個人が住んでるんで駄目です」
と言われました。つまり、このおじいさんが住んでいるのです。道理で少し雑然としてると思った。
「あ、そうなんですか」
ぼくが合点して言うと、
「人が住んでる家が文化財指定されるなんてことは本土じゃないでしょう。こっちは戦争が終わってアメリカ統治になって、本土に返還されてから
『南島は遅れているから人が住んでる家でも文化財に指定してやる』ということで指定になったんですよ。そうやって情けをかけられて指定になったんですよ」
と、まるで立て板に水のごとく一気に喋ってくれました。うつむいたままで。
 その様子に、少しささくれだったものを感じました。
 人が住んでいる住居が文化財に指定されてるなんて、別に珍しいことじゃないと思いますけど。
 中は入れないので、庭を見物して、軒下の写真を撮ることぐらいしかできません。さほどピンと来るものはありませんでした。
 
 次に見学したのは桃林寺。石垣で一番最初に建てられた寺だそうです。元は真言宗でしたが、今は臨済宗だそうで、隣には「権現堂」という、熊野権現を祭るお堂がありました。
 沖縄の普天間宮も波上宮ももとは熊野神社で、沖縄先島では熊野信仰が強いことがわかります。
 波上宮の隣には、神社とともに創建された護国寺という寺がありますが、この寺を再建した日秀という坊さんは高野山で修行した後補陀落渡海を企て、沖縄に流れ着いたと伝えられているそうです。
 渡海の果てにたどり着いた沖縄は、渡海僧にとっては補陀落浄土かもしれませんが、現地の人たちはさらに彼方のニライカナイに思いを寄せている。皮肉なもんです。
 江戸時代には、青森の人が漂流して石垣島に流れ着いたという事件もあったそうで、たいしたもんです。
 
 次に行ったのは具志堅用高記念館。アフロヘアのボクシングチャンピオンにさほど興味があったわけではないのですが、ついつい。
 400円払って中に入ると、二階が展示室になっていました。初挑戦から十五度(だっけ?)にわたる防衛戦までの試合を解説した文字パネル、そしてずらりと並んだトロフィー、あとは試合のビデオ。
 ボクシングは学生時代、暇なときにテレビで、辰吉vs薬師寺戦などを見てけっこう興奮した記憶がありますが、具志堅用高の戦いぶりもなかなかワイルドで、長いビデオを全部じっくり見てしまいました。
 一階に降りてくると、そこは土産物と健康グッズの売店になっており、「トルマリン原石」なるものが売られていました。
 トルマリンとは電気石のことで、水道水に入れておくと塩素やカルキ臭を除去してマイナスイオンを発生させるのだそうな。
 まずい水道水にうんざりし、ペットボトルの中に入れている竹炭の効果にも疑問を持っていたぼくが興味を示していると、店のおじさんが熱心に説明して、トルマリンで浄化した水を冷蔵庫から出して試飲させてくれました。
 つめたく冷やされていたせいかもしれませんが、確かに塩素臭さがないように感じたので、奮発して買ってしまいました(1800円)。
帰りがけ、店のおじさんに
「で、この健康グッズのお店は具志堅さんが経営してるんですか?」
「いえ、具志堅さんと契約してやらせてもらってるんですよ。あちらにいらっしゃるのがお父さんです」
と、おじさんが指す方を見ると、もぎりのおじいさんが座っていました。
 チャンピオンのお父さんは、アフロではありませんでした。
 
 もう近辺では見たいものがなくなってしまったので、公園で片付け仕事などをしました(気ままな放浪旅なのに、なんで片付け仕事なんてあるんだか)。
 7時過ぎ、マックスバリュで買い物し、近くの別の公園に泊まることにしました。もちろん、ゆうべの運動公園からは離れた場所です。
 ご飯を炊き、おかずはキャベツとコンビーフハッシュの炒めもの、そして沖縄豆腐の冷や奴。
 トルマリンを入れたせいで、ペットボトルの水がなんとなくおいしくなったような気もします。
 公園の注意看板に「キャンプ禁止」と書かれていたこともあり、今日は雨の心配もないし蚊も少なそうなので、テントを張らずに寝ることにしました。
 隣の東屋では、おじさんたちが集まって酒を飲んで騒いでいる様子。のんびりしていいもんです。
南西諸島編目次 表紙

7月25日(木)晴 怪神!赤マタ黒マタ

 プライバシーはゼロですが、蚊も少なかったのでテントなしで快適に眠れました。
 誤算だったのは、ぼくの寝た公園が朝のラジオ体操の会場だったことと、ぼくの寝た東屋がラジオ体操カードに判子を押す会場だったことです。
 ラジオ体操。子供のころから嫌いだったなあ。
 寝てもいられないので、身の回りの片付けをしながら、ラジオ体操する子供たちを横目で眺めていました。
 カードへハンコをもらうために列に並ぶ、子供たちの素早さ。なんでおまえらそんなに頑張るんだよ。ハンコなんてもらおうともらうまいと、べつにどうでもいいじゃないか。
 
 子供たちがわらわらと去っていくと、入れ替わりに頭に毛のないおじいさんがぼくのところに近寄ってきました。
どこからきた?長野から。
学生か?いえ無職で。
そうか、こっちも不景気だから、石垣市のハローワーク行ってもあんまりいい仕事ないかもしれんぞ。ぼく別に仕事探すために来たんじゃないです、旅行です。
そうか、野宿旅行か、台風来て困ったら向こうの家に来なさい、泊めてやるから。ありがとうございます。
 
 今日は各地の御嶽で豊年祭があるということで、やがて公園からひとけがすっかりなくなりました。
 10時過ぎまで日記を打って、近所の洋服屋で短パン(ハーフパンツっていうのか?)を買いました。
これまで履いていた短パンは洗濯のたびにぎゅうぎゅうと絞るので、あちこち破れかけていたのです。下手なホームレスさんよりもみすぼらしい格好だったのですが、これでなんとか人並に近づきました。
 
 御嶽でお祭しているかな、と思って各地の御嶽を覗いてみましたが、どうやら午前中の神事はすで
に終わってしまったようでした。
 それにしても、石垣は離島のくせに若者がガラ悪いです。神聖な御嶽にまでスプレーで落書きするとはなんたることぢゃ。
真乙婆御嶽という御嶽では、盛大な祭りの準備が行われていたので、午後はここに来れば何かが見られそうです。
 暇ができたので、登野城(とのしろ)御嶽という御嶽の絵でも描いて過ごすことにしました。
 境内で遊んでいた10歳くらいの男の子二人が寄ってきて、
「わ、うまい」
と覗き込んできました。子供とのつきあいは対馬でひどい目に会っていたので少し警戒しましたが、二人だけなのでさほど悪ノリもすまいと思い、ペンを動かしながら相手をしてやりました。
左が甲君、右が乙君
左が甲君、右が乙君

 二人、甲君と乙君(ともに仮名)のうち、乙くんは
「ガンダム知ってる?」
「ゼータガンダムくらいまでなら、なんとか」
「小鉄ってマンガ知ってる?」
「知らない」
「すごい面白いんだ。このまえのではね、小鉄のお父さんの大鉄がね…」
尋ねもしないのにマンガのストーリーを話してくれたり、よくしゃべる男の子でした。
「ボンクラ〜はみんな生きている〜生きているからボンクラなんだ〜」
などとあまりに下らなすぎる替え歌を歌うので、ぼくが思わず笑うと、すごくうれしそうな顔をしました。
 ぼくのペットボトルのトルマリンを見て、
「あ、この石、うちのお父さんも使ってる。喉渇いた、水飲のませて」
「どうぞ」
「ゴクゴク…。絵、うまいね。甲のお姉さんよりうまいや」
「クラスにも絵の上手な人いるだろ?」
「いるよ。ぼくもバイクの絵はうまいって言われるんだよ。でもね、他の絵は全然駄目なの」
「君もそのうちこれくらいは描けるようになるよ」
 墨で影をつけようとして絵筆が行方不明になっていることに気づき、仕方ないのですべてペンで描き込みをしていたら、なんやかんやで2時間近く経ってしまいました。
「ふう、できた」
「わあ、見せて見せて」
乙君に絵を手渡すと、ぼくが片付けをしている間まじまじと絵を見つめていましたが、案の定言いました。
「これ、ちょうだい」
べつに誰に出すとも決めていない絵葉書だったのですが、いずれ出すべき宛先はいくつかあるので、ぼくは少し迷いました。
「ほんとにほしいの?」
「うん」
「どーしよーかな。これあげたら、大事にする?」
「うん、大事にする」
「わかった。じゃああげるよ」
「やったあ!」
「なあんだ、おれは君にあげるために今まで苦労して描いてたのか」
 一方、甲くんの方はおとなしくぼくを見ているだけだったので、何ももらえず少しかわいそうでした。明るくてひとなつっこい性分の子供は得です。
「これからどこいくの?」
と乙君が訊くので、
「3時頃からお祭りがあるんだよね。それ見ようかなと思うんだけど」
と言うと、
「あのね、この道をずっと行って、保育園のある隣だよ」
「ありがとう。だいたいわかるよ。じゃあね、さよなら」
「バイバイ」
ぼくが自転車にまたがると、二人も御嶽から出ていきました。もしかしたら、ぼくの絵をもらいたくて絵が仕上がるのを待っていたのでしょうか。
「バイバイ!」
遠くから乙君がもう一度叫んだので、ぼくは後ろ手に手を振りました。

 真乙婆御嶽には、旗頭(はたがしら)と呼ばれる大きな飾りのついた幟が、ぞくぞくと集結しているところでした。
 高さ5m以上はある長い幟の先端には、花や蝶やサトウキビなど様々なものをモチーフにした飾りがついています。その幟を、男性が腹の帯の上で支えて練り歩くのです。時々倒れそうになるのを、つっかえ棒を持った人や支え綱を持った人達が慌てて支えています。
 字会(あざかい)とよばれる地区ごとの旗頭のほか、JA、石垣製糖株式会社、八重山農林高校など各種団体の旗頭もありました。
 毎年、前日と当日午前に各地区の御嶽で祭礼を行った後、新川地区にある真乙婆御嶽に集結して踊りや太鼓を奉納する習わしになっているようでした。
 来賓どもの祝辞を聞く限り「真乙婆御嶽」は「マユツバオン」としか聞こえませんでしたが、それでいいのでしょうか。
婦人会の巻踊り
婦人会の巻踊り

 御嶽の前の広場で来賓祝辞が行われた後、各字会による太鼓と踊り(「巻踊り」というらしい。輪になって踊るからかな?)の奉納が行われました。
 太鼓は、少年少女らが襷ハチマキに袴姿で打ち鳴らすものですが、どこの字もほとんどん変わり映えせず面白くありませんでした。
 一方、巻踊りの方は基本的に婦人会によるもので、伝統的な民謡があるかと思えば「新栄町自治公民館音頭」とかいう新作民謡もありました。
 ぼくの地元、下黒田東地区にも「下東(しもひがし)音頭」なるものがあって夏祭りで踊られているようですが、この手の新作民謡は曲調がどれも同じで変わり映えせず、歌詞もテキトーに地元の地名や特産物を織り込む以外は、薄っぺらな地元礼讚の言葉を並べているだけで面白くありません。
「〇〇よいとこ一度はおいで 皆の笑顔が輪になって 緑ゆたかにまごころ通う ほんに〇〇はよいところ」
とかなんとか。

出番を待つ女の子
出番を待つ女の子

 それはそれとしても、祭りを前にすると写真を撮らずにはいられないのがぼくの悲しい習性で、見物人の少ない鳥居の前(直射日光が当たるので地元民は近寄らない)に陣取って、かわいい着物姿の女の子を中心に、デジカメのバッテリーがなくなるまで撮りまくってしまったのでした。
 伝統的な石垣民謡は
「アイヤ、サッサッサッサ、アイヤ、サッサッサッサ」
とか
「チッチッチッチッ」
といった独特の囃し言葉とリズムが耳に残りました。
 すべての地区の踊りが奉納されると、「五穀の種授けの儀」というものが行われました。
これは、若者が扮する神様と、同じく若者が扮するツカサ(沖縄でいうノロ)が、神輿に担がれて鳥居の前で出会い、神様が五穀(5種類の穀物の穂)をツカサに与える、という儀礼です。
 次の年に蒔く種は、毎年新しく神様から授からなければならない、ということなのでしょうか。
 
 神様が五穀を授け終わると、すぐに「アヒャー綱」というものが始まります。
 婦人たちだけが一斉に踊りだし、そのうちの一人が踊りながら御嶽の拝殿に進み出て、ツカサから「カンヌキ棒」というものを受け取ります。
 御嶽前の道路には太くて長い藁綱が二本、先端を輪にして横たわっています。カンヌキ棒を綱の輪に通して二本の綱を一つにする、という儀礼のようなのですが、詳しい内容は人だかりに阻まれて見られませんでした。
練り歩く踊り手の群
練り歩く踊り手の群

 カンヌキ棒はすぐに外されツカサに返され、真乙婆御嶽での祭りは終わりました。
 その後、見物人らも混じって大綱を御嶽から300mほど離れた場所に移動しました。ぼくも手伝いましたが、腰が痛くなりました。
 綱と同時に旗頭も移動し、改めて一列に並んで何やらまた行事があるようでしたが、ぼくは宮良地区の赤マタ黒マタを見にいかねばならなかったので、その場を切り上げました。

 飯も食わずに自転車を飛ばし、夜8時に宮良地区に到着しました。
 「撮影、携帯電話使用禁止」の立て看板があったのでそこから集落に入りました。
 路上駐車がたくさんあって、人も歩いているのですが、肝心のマタ兄弟の姿が見えません。適当に人の波に沿って歩いていくと、浴衣を着た交通整理役の若い衆に
「ここはダメダメ」
と行く手を塞がれました。つまり、その道の奥に赤マタ黒マタがいるようです。
 近くの公園に自転車を停め、飲料水のペットボトルだけ持ってあらためて集落内に繰り出しました。
 人々と同じ方向に歩いていくと、御嶽の前に人だかりがしていました。何やら太鼓と歌声が聞こえてきます。
 門のところで若衆が通せんぼしているので中は見えませんが、どうやら今御嶽の拝殿でマタどもが踊っているようです。
 しばらく御嶽を見守っていると、太鼓衆とともに何やらでかいものがわさわさと音をたてて御嶽から走り出てきました。ひとつ、またひとつ。
 初めて見た赤マタ黒マタの印象は、
「毛むくじゃらの巨大パイナップル」
でした。いやほんと、そういう形してるんだって。
 何度かパイナップルを追いかけては若衆に阻まれて、少しずつ祭りの見物の仕方が呑み込めてきました。
 パイナップルはそれぞれの家の庭先で踊ります。先回りしてその家で待っていた見物人は見られますが、後から追いかけようとしても人数オーバーで若衆に止められてしまうのです。
 確実に赤マタ黒マタを見るためには、奴らが次にがどっちに行くのかを若衆から聞き出し、そちらの方面に先回りしなければならないのです。赤マタ黒マタを迎える準備をしている家を見つけて、タイミングを見計らってその家に上がり込み、家の中からパイナップルの来訪を待つ。これしか手はないのでした。
 各家では土間の戸を開け放し、泡盛の入ったグラスを20ばかり、盆に載せて縁側に出してパイナップルを待ちます。
 やがて太い藤蔓みたいな木の杖を持った長老が二人やってきて家の主と挨拶を交わします。
 しばらく待っていると二匹のパイナップルが太鼓打ちの若衆を20人ほど引き連れて庭に駆け込んできます。
 若衆たちが太鼓を打ちながら何やら歌を歌い、それにあわせてパイナップルは両手に持ったバチを打ち鳴らしながら、二度ほど跳びはねます。踊るとか舞うとかいうよりも、動いているといった感じです。
 二匹はものも言わず踊った後、くるりと背を向けて若衆たちとともに走り去ります。現れて消えるまで、一分もかかりません。後に残るのは、若衆らが飲み散らかした泡盛のグラスと、青臭い草の匂いと、数片のシダの枯れ葉のみ。
 マタ兄弟はどちらも高さは2.5mほど、頭にはパイナップルの葉っぱみたいなものをつけています。アダンの葉かなにかでしょうか。
ずんぐりと丸い体は茶色い毛のようなもので覆われていますが、これも恐らくは何かの植物なのでしょう。ぷんと、青臭いにおいが鼻をつきます。
 体の真ん中にでっかいお面がついています。銀色に光る真ん丸な目、縦長の鼻、耳まで裂けた(耳はありませんが)口には、貝殻でも植えてあるのか、鋭い歯がぞろりと並んでいます。
 面の色が二匹それぞれ赤と黒に塗り分けられており、それが名前の由来と思われます。黒い眉毛や顎髭がついていますが、あれはシュロの毛でしょうか。
 みかん星人(古!)のように突き出た手足。足は裸足、両手にはバチ。その体格と手足のつき方からして、赤さんも黒さんも、コケたら一人では起き上がれないでしょう。
 ウンコしたあと、お尻は誰に拭いてもらうのでしょうか。互いに拭きあうんだろうなあ。
 秋田のナマハゲは見るからに鬼ですが、こっちのは「得体の知れないバケモノ」としか言いようがありません。ノッポさんの相方としてテレビに登場したら、きっと日本中の子供の人生を狂わせてしまう、そんなスガタです。
 ぼくは頑張って、5軒ほどの家にどさくさに紛れてあがりこみ、ナイスポジションでパイナップルを拝みました。
 一軒の家では、パイナップルを待つ間、主のおじいさんと少しお話ができました。
「あんたはどこからきなすった」
「長野県です」
「田中さんが大変じゃな」
「全くで。ところで、赤マタ黒マタの「マタ」って、何なんですかね」
「あんたは研究する方かね」
「いえ、素人の素朴な疑問です」
「わしも80歳になんなんとするが、何ともわからん。昔から黒マタ、赤マタと言ってなあ」
ぼくは今まで「赤マタ黒マタ」と言ってきましたが、おじいさんに言われて気が付くと、たしかに家にやってくるのは黒マタが先で、赤マタが後なのです。
 黒い方がお兄さんなのでしょう。
 その家では、麒麟の発泡酒と泡盛までゴチになってしまいました。ラッキー。
 おじいさんはさっきまでぼくと標準語で話していたのに、長老がやってくると突然解読不能な石垣語に切り替えました。
 はたで聞いていて笑ってしまうほど、何を喋っているのかさっぱりわかりません。抑揚や発音は日本語に似ていますが、語彙そのものは全く別の言語でした。
 ぼくがもし猛勉強してこの言葉をマスターしたら、きっと年寄りの間で人気者になれるな。
 
 朝からろくな飯を食べておらず空腹だったのに、その空腹を酒屋の軒先で売っていた生ビール(350円)でまぎらしたため、どっと疲れが出てしまいました。
 もっと赤マタ黒マタの姿を目に焼き付けねばとも思ったのですが、自転車を置いた公園に戻って寝ることにしました。本当は、すべての家の祝福を終え、赤マタ黒マタがどのように集落から去っていくのかも興味があったのですが。
 
 公園のベンチでシュラフカバーにくるまって寝っ転がったのですが、結局安眠はできませんでした。
 集落に里帰りしてきた女の子たちの集団が、公園に集まって酒飲んで大騒ぎしはじめたからです。
「なに?あそこ、誰か人が寝てない?」
「ほんとだ、こわ!」
「あー旅人さんだ」
「よく寝られるね、こんなところで」
すぐとなりのベンチで話の種にされながらも、ぼくは意地でもその場で眠(ったふ)りを続けたのでありました。
 宮良地区の戸数はおそらく百を優に越えるでしょう。若衆らの太鼓の音が遠くからいつまでも聞こえていました。
 マタ兄弟、ごくろうさま。
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7月26日(金)晴 なぜここに貧乏神神社

 お喋りに花を咲かせる女の子軍団や、赤ちゃんが寝付かないので夕涼みにきた里帰りの若妻二人組など、宮良の公園は朝方4時すぎまでにぎやかでした。
 
 ろくに眠れなかったぼくも、彼女らが去った5時から6時にかけてようやく熟睡することができましたが、この公園もあまり長居すると面倒そうだったので、朝7時前に出ました。
 まだ赤マタ黒マタをやっているかと町中をひとまわりしてみましたが、さすがに彼らの姿はなく、家々もひっそりしていました。
 
 今日から、石垣島一周です。いつものように、左回りで行きます。
こんなんでいいのか?
人魚便所のレリーフ

 石垣島は、中央に於茂登岳という500m級の山がありますが、海岸部はなだらかで道も走りやすいです。
 命を助けられた人魚が大津波を予言して村人たちが難を逃れたという伝説のある星野地区には、「人魚トイレ」がありました。帆立貝の乳当てをつけた金髪の人魚が、髪を掻き上げながらほほ笑んでいるレリーフが、屋根に飾られていました。
 地元住民は、こうした人魚観で納得しているのでしょうか。

 朝飯のラーメンを作った伊野田地区には、パイナップルトイレがありました。なかなかリアルでした。
パイナップルトイレ
パイナップルトイレ

 石垣島にはパイナップル畑がたくさんあって、無人販売で売られていたりします。
 してみると、赤マタ黒マタは、パイナップルの豊作を約束するパイナップルの神様なのではあるまいか。
 稲には「田の神」とか「穀霊」がいて、毎年季節になると村を訪れたりまた去っていったりするのですから、パイナップルにもそれに類するものがあってもおかしくないはずです。
そう考えなければ、あの特異な姿の意味を説明できない。
 やはり赤マタ黒マタはパイナップルの神様だ。『日本民俗学』に投稿しよう。
 
 直射日光がきついので、玉取崎展望台で機器の充電がてら休みました。
 島最北端の平久保灯台目指して北上。途中サビチ洞という鍾乳洞(800円)がありましたが、入りませんでした。
 久宇良という地区の県道をそれた山の中に「アイナマ石」というのがありました。
 アイナマとは「可愛い花嫁」という意味だそうで、不本意な結婚を強いられて嫁入りする道中、花嫁が用足しに行くと言って薮に入り、戻らないので見に行ったら花嫁は石になっていたのだそうです。
 実物の石を見る限り、「これのどこが人なの?」という印象ですが、この伝説はつまり、花嫁が石に衣装を着せて姿をくらましたのが真相なのだ、との説もあるようです。確かにその方がもっともらしい。
三脚立てて撮ってるんです
平久保崎を目指して

 平久保灯台を見て、今度は南下。あんまり暑いので途中自販機でコーラのロング缶を飲みました。コーラって、飲むと歯がキシキシするのが「ああ、歯が溶けてく溶けてく」って実感があって、やみつきになりそう。
 水の消費量が多くなる反面、田舎道なので給水に苦労することがしばしばです。
 無人販売で大きなパパイヤを1個100円で売っており、買ってみたかったのですがあいにく100円を切らしており残念でした。
 
 伊原間(いばるま)の展望台で昼寝しましたが、蝿かうるさいのでまた出発。ここで、また妙なものに偶然出くわしてしまいました。
「貧乏神神社」です。
貧乏神神社
貧乏神神社

米原のヤエヤマヤシ群落という天然記念物の入口に、みすぼらしい東屋のようなものが建っていました。
中を覗くと、貧乏神の御神像はありませんでしたが、ぶっ叩く「びん棒」は確かに立っておりました。
 話せば長くなるのですが、この貧乏神神社の本社は我が長野県飯田市にあるのです。
 地元の変なおじさんがウケ狙いで創建し、「びん棒」なる棒をぶっ叩くことで「心の中の貧乏神」を追い出し、併せてストレス発散してください、という参拝方法がけっこうウケて、いまだに物好きな観光客が訪れています。
 ぼくも物好きの一人で、何度か行ったことがあるのです。所詮ウケ狙いのくせに、神主の言うことが妙に説教臭いのが鼻につきましたが、ついつい「貧乏神音頭」のCDまで買ってしまったという苦い経験を持っています。
 沖縄の方に末社があるということは聞いていましたが、まさか実際に巡り合ってしまうとは。
 石垣貧乏神神社の「びん棒」はさほど摩耗しておらず、参拝客が少ないことを物語っておりました。
 神主が近くにいるわけでもなく、由緒書があるわけでもなく、その影の薄さは田舎の御嶽以下でした。
 
 貧乏神神社から少し行くと、キャンプ場があったので、飲料水の補給のために立ち寄りました。
ポリネシアの酋長さんみたいな人が、ちょっとミズっぽい雰囲気の女性と一緒に炊事場でお喋りしていました。
 彼は顔も体もまんべんなく真っ黒に焼け、髪を髷のようにまとめて長い髭を伸ばし、腰には派手な色の布を巻いています。
 ううむ、丸木舟に乗って石垣に漂着し、そのままキャンプ場に住み着いた人かな、と思っていると、
「自転車だと坂がきついでしょう」
と酋長さん(仮名)が話しかけてきました。流暢な日本語でした。
「これまでのところ石垣は、さほどきつくありませんよ」
答えながらボトルに水を補給すると、それを見て
「あ、竹炭入れてる」
「いえ、これは具志堅用高記念館で買ったトルマリンです」
「なに?それ」
「あ、あたし知ってる。マイナスイオンだよね」
ミズさん(仮名)が言いました。
「友達からもらってね、お風呂に入れてあるよ。お湯がほんっっと丸くなるの」
「塩素を分解してカルキ臭を消すらしいんですよ」
そんなことをお喋りしました。酋長さんは
「そちらは長野から?ぼくはこう見えても沖縄出身、ウチナンチュなんですよ」
「そうなんですか。ポリネシアの方かと思いました」
ぼくが言っても酋長さんは少しも怒らず、
「ははは、よくそう言われるよ。顔が南方系だって」
「顔というより、もう全体が」
「そうかな」
「ええ」
そんなに畳み掛けなくたってよかろうに、と後で自分でも思いました。
 酋長さんはこんなことも言っていました。
「沖縄の歴史について、教科書で教えてることは嘘ばっかりだよ。
 石垣島には昔マラリアがあったなんてのも嘘。あれは本当は旧日本軍が石垣島で細菌兵器の実験をして、それを隠すために流した話なんだ。軍は抗生物質を持ってたけど住民には与えなかったから、軍人は死なずに地元住民ばっかり死んだんだ」
 本当の話なんでしょうか。真偽はともかく、そういう話を語り継ぐ沖縄の人たちの自意識をかいま見た気がしました。
 沖縄には波乱に満ちた歴史があって、独特のナショナリズム(?)が存在することは、書籍や展示館や地元の人々の言葉の端端から感じます。
 しかしぼくのスタンスとしては、そうした沖縄の人たちのこだわりを尊重すべきだとは思いますが、同調したいとは思いません。
 沖縄戦や基地問題などを見聞きするにつけ、
「沖縄は大変だなあ。我々は戦争の負の遺産を沖縄の人たちにばかり押し付けているのかあ」
と殊勝な気持ちになることは事実。
 そうしたコンプレックスに加え、最近は芸能界も歌謡界も沖縄色を強く出した勢力が進出していることもあり、本土人は沖縄の文化に憧れる傾向が強いようです。
 しかし、だからといっていまさら「海人」のTシャツ着て、にわか覚えのウチナーグチを使って、「泡盛の正しい飲み方」の講釈垂れるような「沖縄通」にはなりたくないものです。
 
 キャンプ場はテント一張400円だそうで、宿泊に金をかけないのがモットーのぼくとしては、水さえ補給すれば用がありません。
 日が暮れるまでにもう少し先に進もうとサドルに跨がりかけたところへ、今度は別の人が話しかけてきました。黄色いシャツを着た35〜40歳くらいの男性です。
「あなた、きのう豊年祭を見てませんでした?鳥居の下でしゃがんで写真撮って…」
「ええ、そうです」
「ぼくもいたんですよ、あそこに。今日は伊原間の展望台みたいなところで寝てたでしょう?二階で寝てたのがぼくですよ」
「ああ、あの。はいはい」
そういえば確かに荷を満載したバイクが停まってて、東屋の二階で誰かが寝てた。
 やっぱ俺って見られて、そして覚えられてるんだなあ。
「今日はここに泊まるんですか?」
「いえ、もう少し先行って、どっか公園にでも泊まろうかなと。基本的に宿泊に金をかけない貧乏根性なんで」
「誰でも同じですよ」
 もしキャンプ場に泊まってたら、黄シャツさんともいろいろ話ができたかもしれませんが。
 
 今夜のねぐらは、そこから少し先の、パーキングの東屋。水道がないので、さっき水を補給しておいて正解でした。
 石垣島は、港や役所のある市街地を出ると、ろくな店がありません。
 今日は買い物ができなかったので、キャベツの余りと魚肉ソーセージを炒めてご飯に載せ、ありあわせの乾物でみそ汁を作りました。
 今日もテントを建てず、床にマットを敷いてごろ寝です。風が吹くと土埃が直接吹き寄せるので、できればベンチがあるとありがたいのですが、ないので仕方ありません。
 泡盛をトルマリン水で割って飲んだら、いい心持ちになりました。星空を見上げながら、これまでの旅でどこで野宿したかを順々に思い出したりしました。
 明日には石垣一周も終わります。さて、次の島はどうするか…。
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7月27日(土)晴 石垣史の光と影

 雨もなく、ハブにも襲われず、無事朝を迎えました。
 朝飯はチャルメラ。ラーメンを作ろうとしてコッヘルを手にしたら、でかいゴキブリが一匹飛び出して、パタパタと逃げていきました。
 食器はすべてゴキブリのウンコの臭いに汚染されていました。これだからゴキブリは嫌いなんだ。
 朝からゴキブリの臭いをかいでしまうと、森を抜けて吹いてくる風すべてにゴキブリの臭いが混じっているような気がしてきます。
 ゴキブリは熱帯の森に棲む昆虫の代表なのですから、ゴキブリの匂いこそ熱帯の森の匂いそのものと言えるかも知れません。これからぼくは、台所であのにおいに遭遇するたびに沖縄を思い出すでしょう。
 
 グラスボートがひしめく川平湾を眺めてぼんやりしたり、御神崎灯台で磯の波しぶきを眺めてぼんやりしたり、道路わきの木陰で涼みながらぼんやりしたりで、なかなか距離が稼げません。
 だって暑いんですもの。
 
 途中見物したものと言えば、「唐人墓」。
 昔、イギリス船に乗せられた苦力(クーリー:中国人の奴隷)が船の中で反乱を起こし、石垣島に逃れてきました。島の人々は彼らを助けてやりましたが、イギリスの追手が迫り、苦力たちは殺されたり自殺したりしました。
 島の人たちはかれらの墓を作って弔ってやり、のちにそれを一つの廟にしたのが「唐人墓」なのです。屋根には色とりどりの人形などが載っていてユニークなのですが、その飾りは別に苦力の受難の様を表したものではなく、どうやらただの京劇のシーンのようでした。
 唐人墓の隣には、戦時中日本軍によって拷問を受け処刑されたアメリカ兵の慰霊碑がありました。けっこういろいろと血みどろなのね、石垣って。
 捕虜を虐待するなんてのは国際法違反で非人道的ですが、敗戦の色濃い戦時下にあって、敵国の捕虜に八つ当たりしたくなる日本兵の心理もわからんではない。
 おれって「思いやり」の心があるなあ。
 
 昨日のうちに島全体の四分の三近くを走っていたのに、結局市街地に着いたのは4時ころでした。
 スーパーで発泡酒と昼飯を買い、まだ日が明るいのにアルコールを飲んでしまいました。
 だって、暑いんだもの。
 ドラゴンフルーツというのが1個80円くらいで売られていたので、試しに買って食べてみました。
 ゴマみたいな種がまんべんなく散らばる白い果肉で、味はほの甘い程度でさほどうまいとは感じませんでした。
 
 飯を食い終わり、竹富島にでも行こうかと離島桟橋に行くと、ちょうど最終便が出ていくところでした。
 あしたの朝竹富島に行くことに決めて、あとは桟橋近くの公園で日記を打ち、暗くなってからテントを建てて泡盛飲んでサータアンタギーとかいう沖縄ドーナツを食べて寝てしまいました。
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7月28日(日)晴 竹富島ナマコ王国

 今日は竹富島に渡ります。
 朝飯はマルちゃんのインスタント「沖縄そば」。ソーキ(三枚肉)とカツオ味ということで、けっこううまかったです。今後沖縄そば屋で食う機会があるかどうかわかりませんが、なければぼくにとってこれが沖縄そばです。
 
 テントを畳んで出発間近になったとき、自転車に乗った40代なかばくらいのおっさんがやってきました。
不精髭を生やした、冴えない風体です。着てるものも薄汚れています(他人のことは言えませんが)。
 おじさんはぼくに向かって言いました。
「タダさん?」
「は?」
「あなた多田って名前じゃない?」
「いえ、違いますよ」
「あ、そう。ぼくの知ってる多田って人に似てたから。実はお願いがあるんだけど」
めんどくせーな。うさん臭い人にものを頼まれるのは嫌なんだけど。
 もちろんそんな事は口に出しませんが、顔に出ていたかどうか。
「あのさ、ぼくあそこにある釣り具屋でスウェットスーツ買って、そのツケがたまってんのよ。悪いけど、あなたぼくの代わりに行ってウェットスーツの修理用ボンド買ってきてくれないかな」
と、500円差し出します。
 そんなこと、なんでよりによって俺に頼むんだよ、とは思いましたが、
「はあ、そうですか。荷造りしてますんでちょっと待っててください」
「うん」
リュックに荷物を詰め込むぼくを見ながら、ツケおじさん(仮名)は話しかけてきます。
「お兄さんトシいくつ?」
「28ですけど」
「そうか、じゃあ多田の息子と同じくらいかな。多田は40越えてるからな」
こら、40過ぎのおっさんと俺とを見間違えるなよ!
 一応の用心で荷物をすべて背負い、おじさんから500円玉を受け取って指示された釣り具店に行きました。
 店の人に言うと、ボンドをすぐ出してくれました。
 そのほかに、自分用に水中メガネを買いたいと思い、物色したらレトロな木製の水中メガネを売っていました。木の枠に丸い板ガラスをはめ、ゴムチューブをとりつけた素朴な代物です。600円と安かったので、即買ってしまいました。
 ツケおじさんは木の下でマンガ雑誌を読みながら待っていました。
 ボンドは税込で315円。水中メガネと一緒に買ったために、きっちり185円の釣りが作れなかったので、
「300円でしたよ」
といって品と200円を渡しました。
「ありがとう。これで電話でもかけて」
と、ツケおじさんは10円のお駄賃をくれました。今時公衆電話なんて使わないんだけど。
 さらにおじさんは、大きな貝殻を二つくれました。
「これはさ、グラインダーで磨くときれいに光るんだよ。逆さにしてグラスとしても使えるんだ。俺、これで特許取ろうかなとも思ってるんだけど」
そんなもんで特許なんて取れんだろ。
「こっちの貝はまだ中身が残ってるからさ、砂に埋めて中を腐らせるといいよ」
見れば、でっかい宝貝みたいな貝のなかには、確かに黒く干からびた身が入っています。
 こんなものもらってもやり場に困るんだけどなー。と思いつつ、もらってしまったのでした。
「おれはさ、ボーイスカウトで子供たちの指導してんのよ。ボーイスカウトの全国大会で二位になったんだ。今度世界大会に挑戦しようかと思ってさ」
子供の指導や大会出場よりも先に、ウェットスーツのツケ払えよ、おっさん。
 おっさんと別れてほっとしつつ、竹富島への船が出る離島桟橋に行きました。
 桟橋で、おとといの酋長さんに会いました。
「あ、どうもおはようございます」
「これからどっちへ?竹富島?そう、いい旅続けてね」
「どうも」
酋長さんもどこかの島に行くのでしょう。
 竹富島へは往復券で1,100円。自転車を畳んで乗り込みました。夏休みだけあって、観光客でほぼ満員です。
 
 島は港のすぐ近くなので、ものの10分で島の港に着きました。「水牛車こちら」などと書かれた看板を掲げた客引きたちがたくさんいます。
 船を下りて自転車を組み立てているうちに、客引きも観光客も車に乗ってどこかへ消えてしまい、港はあっというまに静かになってしまいました。
 今日明日と竹富島でのんびりしようという腹積もりです。
 港の公園でまずはヒゲソリと洗濯。東屋には看板が出ていて、
「観光客のキャンプ、野宿は禁止する」
とのこと。うーむ、観光の小島ではやはりチェックが厳しいか。トイレの水道でじゃぶじゃぶ洗濯していると、通りがかりのおじさんが
「こんなとこで洗濯すると怒られるぞ。あんた野宿するつもり?消防団の見回りがあるから、野宿できないよ」
「そうなんスか」
「民宿たくさんあるよ。あんた泊まる金がないの?この先のレンタサイクル屋に訊いてみな、バイト先あるかもしれないよ」
「宿泊する金がない」というより、「宿泊には金を使いたくない」というのが正しいんだけど。
くそう、やっぱ野宿は難しいのか。島の様子を見て、島で一泊する価値があるか、それとも今日中に石垣に戻るか、考えよう。
 干していた洗濯物を早々に取り込み、島内逍遥に出掛けました。
 
 竹富島は昔ながらの沖縄の風景が残っている場所として有名だそうで、それを期待していたのですが、確かにきれいな場所でした。
いかにもなアングルですな
竹富島の町並

 珊瑚石の石垣と、白い砂の道が、まるで迷路みたいに入り組んでいて、石垣のむこうに赤瓦の民家の屋根が見えます。
 沖縄電力の配電所や、浄水所、学校なども赤瓦と板壁で覆われている点には、気を使っている様子が伺えます。
 
 全国がアスファルトに覆われている今の日本で、アスファルトのない路地が残っている場所なんて、ここくらいのものではないでしょうか。
 島では年に1回、海岸の砂を道に撒いているのだそうです。小さな島で車も少ないから舗装せずにすむのでしょうが、それにしても住民たちの相当強い意志とプライドがなければアスファルト化の波を防ぎきるのは大変だったでしょう。
 今でこそ観光の島として有名になっていますが、彼らが町並を守ろうと意識した当初の目的は別に観光目的ではないでしょう。
 竹富島の風景がどのようにして今に残されたのか、興味があるところです。
 真夏の日差しは強烈で、サングラスなしの目に、白く輝く砂の道は強烈です。
 そのぶん木陰は真っ黒で、日陰に入ると通り抜ける風は涼しいです。
 沖縄って日差しは強いけど風が涼しいから救いですね。湿度が低いのでしょう、きっと。
 真夏の沖縄ときくと、日本で一番暑いのではないかと思いがちですが、実は最高気温は32℃くらいで、35℃とか37℃を記録する本土よりよほど過ごしやすいのではないでしょうか。
 
 通りを歩いているのは観光客ばかり。地元の人たちの姿はほとんど見かけません。昼日中は出歩かない知恵なのか、単に人数が少ないのか。
 人家は島の中心部に固まっていて、その外側は牧場と牧草地と森。
 集落内はどこを歩いても同じ道幅、同じ石垣、同じ屋根。メインストリートといったものがなく、目印も少ないのですぐ迷子になります。
 
ビーチ
ビーチ

 海沿いには星砂で有名だという海岸があって、ぼくも柄になく星砂を探してみましたが、ちっとも見つかりませんでした。探す場所がよくなかったのかも知れません。
 コンドイビーチという海水浴場は、観光客で大層賑わっていました。
 
 海もきれいだし、何より町並がきれいなのが気に入ったので、奮発して今夜は民宿に泊まることにしました。
 10軒近くある民宿に電話をかけましたが、たて続けに「満室です」と断られました。
 このやろう、こっちは別に民宿になんか泊まらなくてもかまやしねえんだい。仕方ないから泊まってやろうってのに、断るとはどういう了見でい。
 こうなったら人目につかないところで意地でも野宿してやろうかと思いはじめた6軒目、ようやく小浜荘という民宿で空きを見つけました。料金5000円。ぼくの約4日分の生活費です。
 売店のおばちゃんに道をたずねながら小浜荘にたどり着くと、狭い庭先に白いテーブルが据えられ、宿泊客がたむろしているところでした。
「どーも、一晩お世話になります」
と言いながら自転車を庭先に泊め、宿のお姉さんに
「先ほどお電話したイマイですけど」
と伝えると、
「いらっしゃいませ」
とシークワーサーのジュースを持ってきてくれました。
 案内された部屋はドアの上に「竹の間」とありましたが、宿の人たちの話を立ち聞きする限り「離れの洗面所」が通称のようでした。
 エアコンが壊れているそうなのですが、見ればコイン式だったので、いずれにせよぼくは使いません。
 
 6時半から夕食とのことだったので、荷物を部屋に置いてビーチに泳ぎに行きました。
 夕方なので客も少なく、気楽に泳げました。泳ぐといっても、どこまで行っても水深30センチ。今朝買った水中メガネをつけて、腹を擦らないように気をつけながら水中見物をしました。
 コンドイビーチはナマコの王国でした。何百というナマコが水底の砂の上に転がっているのです。
つかまえてみると、肛門からピューと水を吐いて、身を硬くします。しばらく手のひらに乗せたままじっとしていると、ちっちゃな無数の吸盤で張りついてきます。
 ナマコって何考えて生きてるんだろうなーと、ついつい物思いにふけってしまいます。
やなせたかし作詞、いずみたく作曲の名曲「ナマコのマーチ」を知らぬ間に口ずさんでいたりします。
 
若いナマコが悩んでいた
暗く冷たい海の底で
なんにもせずに死にたくない
心は強く叫んでいた
 
若いナマコが悩んでいた
こんなみじめな姿をして
泳ぎたくても泳げないが
心は強く叫んでいた
 
どこかにあるすみれ色の国
そこへ続くひとすじの道
進め進め ふりむくなナマコ
進め進め ふりむくなナマコ
 
 来世はナマコに生まれ変わってみるのも面白いかもしれない。
 
 サンゴ礁とはいいますが、ビーチから沖合100mくらいのところを見た限りでは、たいしたものは見られませんでした。
 確かにサンゴらしきものはところどころにありますが、白っぽいほこりをかぶっていて見栄えはよくありませんでした。ちっちゃくて色鮮やかな魚はちらちら泳いでおりましたけれど。
 一匹、穴からウツボが顔を出しているのが見えて、少し幸せでした。知らずに踏んづけていたら噛まれていたでしょうか。
 
 宿に戻ると、狭い食堂に夕食の用意ができていました。
 献立はハンバーグ、里芋の煮物、そうめんの吸い物、変な豆腐みたいなの、など。別に沖縄料理でもなくて少しがっかり。
 ぼくが同席になったのは、鍼灸の専門学校生という40すぎのハリーさん(仮名:日本人)と、
名古屋からきたというカップル、名古也さんと名古美さん(ともに仮名)でした。
 名古美さんからはビールをおすそわけしてもらいました。
 ハリーさんは夏休みとしてここに来て、8月まで滞在して学校の宿題をしているのだそうです。リッチだな。
「目の玉に鍼を刺す治療があるって本当ですか?」
「学校の実習では、生徒同士打ちつ打たれつ?」
「鍼が抜けなくなったらどうするんですか?」
などと名古屋ペアやぼくがハリーさんに質問し、ハリーさんが訥々と答えました。
 もちろんぼくに対してもいろいろ質問が来て、名古也さんが
「へえ、メール日記書いてるんですか。よければぼくにも送ってくれませんか?」
「えー、ぼくの日記はけっこう片寄ってて、会った人の悪口書いたりしてますけど、それでもいいですか」
「本当?こわーい」
と名古美さん。いずれにせよ、サンプルを読んでもらって決めてもらうことにしました。
 ぼくとしても読者が増えれば張り合いが出るのですが、最近はぼくの祖父母までが日記を読みたいと言い出しているらしく、こんな悪態とツッコミばかりの日記を読ませてよいものかと、少し面食らっていたところだったので、読者の増加に対して少し慎重になっていたのです。
 
 夜、自販機のビールを買いに宿の外に出たら、夜の竹富島はそれこそカタキラウワでも走り出て来そうな雰囲気でした。
 久しぶりに布団の上で寝る夜。扇風機を回していれば涼しいので、快眠できます。
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7月29日(月)晴 それぞれの日本一周

 朝飯は8時ころだったかな。黒米入りのごはんでした。
 飯の後、名古也さんに過去の日記を読ませてあげました。ときどき読みながらウケていたので、ちょっとほっとしました。購読したいということだったので、送ってあげることにしました。
 朝飯後少しばかり日記を打ち、精算を済ませて宿を後にすると、ビーチから戻った名古屋ペアとすれちがいました。
「日記楽しみにしてます」
「がんばってください」
「どーも」
 
 今日はのんびり絵葉書でも描こうというスケジュールです。
 いい風景が見える日陰の場所を探して、二枚ほど描きました。
 家族連れがきて、お父さんが
「すいません、見せてもらっていいですか。…いいかタカシ、お前もこれくらい描けなきゃダメだぞ」
と息子に言い聞かせていました。別に絵なんか描けなくてもいいんじゃないかと思うのですが。
 
 二枚も描くともう3時になってしまって、腹が減ったのでさくっとラーメンを茹でて食いました。
 
 石垣に戻ったのは午後5時。
 波照間島は行かず、明日は宮古島に渡り、宮古島を一回りしたら那覇に戻るつもりです。
 
 100円ショップで雑貨を買い、本のコーナーで「まいっちんぐマチコ先生」のマンガを見つけました。
あまりのなつかしさに立ち読みしたくなりましたが、しませんでした。子供のころのトキメキを思い出しました。
 近くのマックスバリューで食材を買い、港近くの東屋(一昨日の公園とは別)を野宿場所に決定。
 八重山そばの生麺を買ったので、長細い豆と豚肉を入れて作りました。
 がつがつ食っていると、ぶおおんとバイクが横付けして若者がやってきました。バイクには荷物が満載。旅人さんです。
「すいません、今夜お邪魔していいですか」
「どうぞどうぞ」
 彼は4年勤めた会社を辞め日本一周を目指して湘南からやってきたイサオ君(本名:22歳)。
 最西端の与那国島と最南端の波照間島をやっつけて、あしたぼくと同じフェリーで那覇に戻り、今度は北を目指すとのことでした。
「え、波照間とか与那国行かないんですか。もったいない」
「うん。日本一周ったって端っこいくのが目的じゃないから」
 
 イサオ君は波照間の旗(土産物屋で買ったハンカチに竿をつけた手作り)を、今度は日本最北端の場所に置いてくるんだと意気込んでいました。
 さらに、旅先で出会った人たちに寄せ書きしてもらうよう日の丸の旗を買い、それをバイクにくくりつけてなびかせて走るのだそうです。
 ぼくなんか、でかい荷物背負っていかにも旅人な姿で走ることだけでも恥ずかしいのに。人それぞれですねえ。
「日の丸に何か字を書きたいんですけど、何がいいですかねえ」
「『電話一本即参上』とかいいんじゃない?」
「それじゃバイク便じゃないですか」
「自分の名前でも書いたら?」
「うーん。『誠』って書いてギザギザ模様つけようかな」
「へえ?」
「『風』とか」
「へええ?」
「好きな字、一文字選ぶとしたらイマイさんは何ですか」
「うーん。『呪』かな。さもなきゃ『笑』か『鬱』」
「それはちょっと…」
いろいろ案を出し合いましたが、なかなか決まりません。
「いいや、あした考えよう」
ということになりました。
 いずれにしても、やっぱぼくとは少し感性が違いますねえ。
 
 二人が喋っているところに、地元のおじいさんがビニール袋をぶら下げてやってきました。
ぼくらはおじいさんが座れるように席を空けましたが、おじいさんは
「お前さんら、本土の人か」
と言い、さらに何か言おうとしていましたが、結局言葉は出ず、しばらく直立不動でぼくらを見つめていました。
やがて
「それでは」
と言って敬礼して、ロボットみたいな動きで回れ右して、去っていきました。
ぼくとイサオ君は顔を見合わせて、
「何か、悪かったですかね」
「んー、でもしょうがないよね」
南の地方では、公園のベンチは夕涼みの場として夜でも利用者が多いのでしょう。
きっとぼく一人だけだったらおじいさんも
「お前さんはどこから来た」
などと話しかけてきたかも知れませんが、若者二人の間に割り込む勇気はおじいさんにもなかったに違いありません。ちょっと申し訳ない気分でした。
 
 イサオ君は薬用ウエットタオルで体を拭き(ぼくは背中を拭くのを手伝ってあげました)、
涼感デオドラントと虫除けをまんべんなく体にスプレーしておりました。
 
これまで一カ月の旅で30万使ったと言っていましたから、旅のスタイルもぼくとは少し違います。
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7月30日(火)曇 旅人たちの群れの中で

 朝はゆうべの残りの長い豆と豚肉を使って豚汁を作りました。
 イサオ君のぶんも作ってあげましたが、彼はインゲン系の野菜が苦手だというので、汁と肉だけよそってやり、乾燥ワカメをわけてあげました。
「やっぱみそ汁って最高ですよね」
と言いつつ、イサオ君はコンビニおむすびを汁に浸けて食べていました。
食べ方も人それぞれです。
 
 寄せ書き用の日章旗に、イサオ君は意を決して「誠」とマジックで書きつけました。
「寄せ書き第一号をお願いします」
「あい分かった」
ぼくはしばらく考えて、
“好き嫌いなく何でも食べてよい旅を! イマイアキラ”
と書きました。
イサオ君は笑って、
「そうですね、なるべく頑張ります」
と言っておりました。
 
 フェリーの時間まで間があるのでおしゃべりしていたら、実は二人とも同じフェリーで沖縄入りしていたことが判明しました。
「台風七号で足止めをくって、臨時便に乗ったんですよ」
「俺も奄美で台風しのいで臨時便に乗って、本部港で降りたんだよ」
「もしかして、港のコンテナ前で自転車出してませんでしたか?」
「見てた?」
「出てくとき何か落っことして、あ、あのひと気がつくかな?ってハラハラしてたら、ちゃんと戻って拾ってましたね」
「良く見てんだなあ。あれはねえ、飲料水のペットボトルを落としちゃったんだよ」
「なあんだ、二人とも実は顔会わせてたんですねえ。世の中狭いですねえ」
 
 公園でいったん別れ、琉球海運の事務所に宮古行きのチケットを買いに行きました。
 事務所前は、旅人さんのバイクや自転車で賑わっておりました。これほど多くの旅人さんが、いつの間にどこから涌いてきたのやら。
 彼らは互いに知り合いらしく、仲良く談笑したりしています。基本的に、ぼくより若い連中が多そうです。
 皆、互いに民宿やキャンプ場で知り合ったのでしょう。公園での野宿専門のぼくは同類と出会う機会が少ないので、ちょっとさみしい反面「へへん」という思いもします。
 チケット(2,070円)を買ってターミナルに行き、自転車を畳んで乗船。工具を使って自転車をばらして船に持ち込もうとしている旅人さんもいます。
船のロビーも旅人さんばっかりで、少し異様でした。
 若者同士でたむろしている雰囲気は好きでないので、カップラーメンを食うとき甲板に出る以外は、船室でメールを打ったり寝たりしていました。
 
 宮古島の平良港に着いたのは午後5時半。イサオ君に別れを告げる機会がなかったのが少し残念でした。
 宮古は石垣ほど観光地化されていない印象で、町の風景も飾り気がなく庶民的でした。
 石垣のキャンプ場で会った酋長さんが、「宮古は平らで走りやすいよ」と言っていましたが、確かにそのとおりでした。山らしきものが全くなくてペッタンコです。
 
 とりあえず、いつものようにまず最初に図書館を見つけて郷土図書を物色しましたが、どうもこれといって名所、史跡というのはピンと来ませんでした。
 7時になって図書館が閉まり、その辺のスーパーで食材を買って、気象台の庭のガジュマルの下にテントを張りました。明日は雨らしいですが、まあなんとかなるでしょう。
 晩飯は空芯菜(クウシンサイ)という菜っ葉とランチョンミートの炒めもの、そしてミミガー(豚耳皮)の中華サラダ(惣菜)。
ミミガーはコリコリしてうまい。
 
 明日は役所でパンフを入手してから島内一周に出掛けます。

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