日本2/3周日記(壱岐対馬) 神話伝説の西九州・後編(壱岐対馬)

6月9日(日)晴 草葉の陰は河合曾良  

 朝飯は冷やし中華。具はキャベツとピーマンと魚肉ソーセージ。ピーマンは冷やし中華に合わないと思いましたが、まあ食えました。
 一昨日からの自転車修理で、洗ったばかりの短パンが汚れてしまったので洗濯をしました。
 
 出発したのは10時過ぎ。
 壱岐には4つの町があるらしいです。芦辺町、勝本町、郷ノ浦町、石田町。
とりあえず島を左回りに一周しようと、山を下りました。
 サイクリング大会で午前中は通行規制があると聞いていたので、のろのろ走っていて選手達の自転車に轢かれたらどうしよう、と心配していましたが、それらしき自転車には一度も会いませんでした。
 森と田圃ののどかな風景です。どことなく平戸に似ているような。
このあたりはずいぶん前に田植えが済んだらしく、苗がすっかり伸びて水面を覆い隠す勢いです。
 壱岐の北西部に位置する勝本町に入ったところで「千人塚」というのをみっけました。
元寇で死んだ人々を葬った塚だそうです。防備していた日本軍は全滅だったっていいますから、ずいぶんと人死にが出たんですねえ。
 勝本町の観光のメインはイルカパークという観光施設のようですが、興味ないので無視。
 
曾良の墓
曾良の墓

 次に出くわしたのは「河合曾良の墓」。奥の細道に同道した松尾芭蕉の腰巾着です。
この人は信州諏訪の出身だそうですが、なんでこんな日本の端っこに彼の墓があるんだ?
 と思いつつ説明板を読むと、曾良は奥の細道の途中で病気になり、芭蕉と別れた後、いろいろあって62歳のとき九州への巡検視の家来となって九州に赴いたのだそうな。そしてこの地で巡検視の一行と別れて残り、宝永7年5月22日に死去したそうな。
 
春にわれ乞食やめても筑紫かな
 
という彼の句が紹介されておりましたが、師匠を倣って旅先で行き倒れた彼の死を思うと、なんか親近感が湧いてきます。
 それにしても、今日も暑い。シャツや帽子に水をかけながら走るのですが、すぐ乾いてしまいます。
 あんまり暑いので、ぼくも曾良に倣って句をひねってみました。
 
逃げ水を追って照る陽の彼方まで
 
季語が入ってるのかどうか、自分でもよくわかりません。
 
 壱岐の南西部の郷ノ浦町に入りました。ここには猿岩とかいう名所があるということで、行ってみることに。
 猿岩の手前で出くわしたのは、黒崎砲台跡。道路脇にいきなり黒々とした穴が開いているのでびっくりしました。
黒崎砲台の台座跡
黒崎砲台の台座跡

 太平洋戦争中に戦艦土佐の主砲を取りつけて築かれ、当時は東洋一の規模を誇りましたが、一発も発射することなく終戦を迎えて解体された可哀想な砲台だそうです。
砲身全長18m
砲身一本の重さ150t
口径40cm
弾丸重量1t
射程距離35km
35q先に1tの砲弾をぶっ放すってのは、すごいっすねえ。
 てことで砲台の中に入ってみると、これがまたカッコイイ。
海岸の丘の下に穴を掘って砲台を築いているのですが、セメントで塗り固めたガランとした洞窟みたいです。もちろんあちこち崩れているのですが、大砲があった部分は円く空が見えていて、中庭みたいに草木が生えていました。
 
 砲台跡のすぐちかくの海岸に、猿岩がありました。要は猿の横顔に似た大岩ということです。
このあたりは佐賀の呼子に近いこともあって、海岸は玄武岩の柱状節理に覆われています。
 地元の伝説では、神様が壱岐を作ったとき、島が流されないように8本の柱で支えようとしたのですが、柱は折れてしまったのだそうです。そこで神様は、島を縄でつなぎ留めようとしましたが、これまた切れてしまい、そのために今も島は少しずつ動いているそうな。その柱の一つがこの猿岩なのだそうです。
 猿岩の脇で絵をかき、次に行ったのは鬼の足跡。
これも海岸の柱状節理が波に侵食されて、海岸の草原に周囲110mの大穴が空いたものです。
 昔、壱岐には鬼がいて、九州と壱岐に足を踏ん張ってふんどしの前垂れを広げて鯨をすくって捕った、その足跡なのだそうです。
 
 今日までで島の約3分の2ほどを走ったことになります。
 対馬行きのフェリーは夜中の9時に出るのですが、まだ行っていないところがあるので、対馬に渡るのは明日にすることにしました。
 
 郷ノ浦町でスーパーに寄り、今日のねぐらは島の真ん中付近にある「風土記の丘」近くの百合畑古墳群です。
 林の中の雑草が茂る中にテントを建てました。蚊がいるかもしれませんが、静かさは抜群です。
 
 今夜のおかずは「あらかぶの煮付け」。二回目の煮魚に挑戦です。
はらわたや鱗をとって煮てみたのですが、ロウソクを切らしていて真っ暗だったので、水加減がわからず、あらかぶの醤油スープみたいになってしまいました。
 あわてて水を捨てて醤油を足したのですが、どうも今一つ味の染み込みが足りませんでした。
 魚そのものは白身でおいしかったんですがねえ。
 暗い中でなんとか魚を食い終わったのですが、どちらかといえば、ラジオで聴いたサッカーの日本vsロシア戦の方が、いいおかずになりました。
西九州後編目次 表紙

6月10日(月)曇ときどき雨 ハラホゲな一日  

 朝起きて昨夜のアラカブの食い跡を見ると、これが人間の仕業かと思うほど汚く食い散らかしておりました。小骨が多い魚ではありますが、明るければもう少しお行儀良く食えたものを。
 朝飯はトーストと野菜スープ。
 台風の影響で北九州は昼過ぎから雨が降ってくると天気予報では言っておりましたが、のんびりしていたらテントを畳まないうちに雨が降ってきました。まだ10時なのに。
 大慌てで支度をして出発しました。今日は壱岐の南西部を中心に走るつもりです。
 
 ぼくが寝た付近はほんとに古墳が多く、そこらじゅうに石室がぽっかり穴を開けていました。壱岐には長崎県内の半分、300以上の古墳があるそうな。
 古墳も好きです、ぼくは。基本的にお墓が好きなのかな。古墳の暗い石室を覗き込んでいると、それこそ別の世界につながっていそうな感覚を覚えます。石の一つがぱかっと開いて、その奥から異形の神々が…。
いかん、諸星大二郎の読み過ぎだ。
 そんな古墳のひとつには「鬼の窟屋(いわや)」という名前がついて名所になっていました。壱岐にはなにかと鬼にまつわる伝説が多いようです。
 
 もう一つおどろおどろしいスポットが「生池(なまいけ)」。
これもぼくが寝た場所の近くにあったのですが、かつて池があったとかで、うすぐら〜い薮の中に水神様が祭られておりました。
かつてその池には河童が棲んでおり、人を捕って生きたまま食らったからその名が付いたとか、戦で人の生首をたくさん放り込んだからその名がついたとか言われているそうです。
 
 芦辺町に戻り、次に行ったのは「はらほげ地蔵」。
芦辺港から3qほど行った漁港の岸辺近くの海の中に、六体の地蔵さんが祭られているのです。
はらほげ地蔵
はらほげ地蔵

 なんで海の中に建ってるんだ?と思ったら、このあたりには海女の集落があるので、海で死んだ海女の菩提を弔うために建てたのではないかと言われていますが、実際のところはよく分かっていないそうです。
 なんだハラホゲってのは、と思ったら、お地蔵さんのよだれ掛けをまくると胸のところに丸い穴が空いていてるのです。
 ホゲというのは穴とか開いているとかそんな意味の方言なのでしょう。
 なんでそんなところに穴が空いているんだ、と思ったら、潮が満ちると地蔵が海に没してしまうので、供物を流されないように胸の穴に入れたのだという説がありますが、実際はよくわかっていないようです。
 でも本当は、昔の人はこの穴にカラータイマーを入れて遊んでいたのです。絶対。
 
 よくよく地蔵を見ればかなり損傷が激しく、頭もフツーの石ころをのっけてセメントではりつけた感じでした。
 
 謎に満ちた地蔵ではありますが、今では名所の一つということでコンクリートに固められ、潮の満ち引きに関わらず橋を渡ってお参りすることができます。
 ぼくが見物している間にも観光バスのじーさんばーさんがどやどやと見物にやってきました。
 ばーさんらは
「あーらこんなに小さいの。写真で見たらもと大っきいのがどーんどーんと建ってるのかと思った」
じーさんらは一眼レフを構えて、
「橋が邪魔だからアングルはここからしかないけど、そうすると背景にクレーンが入っちゃうんだよナア」
などと言っておりました。ハラホゲ、ハラホゲ。
 
 次に行ったのは左京鼻という岬。ここも柱状節理の断崖と芝の草原という組み合わせです。
 突端に赤い鳥居の竜神様の祠がありました。はるか向こうは九州ですが、もちろん陸は見えません。
断崖の下の海で、何やらたらいにしがみついて浮き沈みしている人達がいると思ったら、海女さんでした。
 5〜6人でしょうか、赤や青や黄色のタライを波間に浮かせて、足ヒレをばたばたさせて潜ったり浮かんだりしています。
ずいぶんハードな仕事らしく、息継ぎの
「はあっ」
とか
「ううんっ」
とかいう声がこちらまで聞こえてきます。
 今時の海女さんなんてバアさんばっかりなのかも知れませんが、遠くから声だけを聞いていると、なんだか色っぽいです。
 この左京鼻には、次のような伝説が残っているそうです。
 
 江戸時代の初め頃、壱岐を大干ばつが襲いました。村人から頼まれて、陰陽師の後藤左京と龍蔵寺5世日峰和尚が雨乞い祈祷を引き受けることになりました。
 二人は一生懸命祈願をしましたが、満願の日になっても雨は一向に降りません。
ついに和尚はみずから火あぶりになり、左京も崖から身を投じようとしたとき、どっと雨が降ってきて、村は助かったのだそうな。
 
 左京鼻の名は、その左京にちなむとも、岩の柱が多いため石橋(しゃっきょう)が転訛したものだとも言われています。
 雨が止んで陽が出てきたのでレインウエアを脱いでいると、ハンプティダンプティみたいに太っちょのおっさんが、連れのひょろ長のおじさんと、観光タクシーの運転手さんを引き連れてやってきました。
 いかにもどこぞの社長という雰囲気です。ぼくがレインウエアを畳んでリュックカバーの中に押し込んでいると、ハンプティさんはぼくを目ざとく呼び止め、
「君はサイクリングか。どっからきた。長野か。わしは群馬だ。写真を撮るからさあ笑え。君がモデルだ」
とぼくにカメラを向けてきました。
横柄なデブは個人的に大嫌いなのですが、横柄な人に対しては嫌いな以上に卑屈になってしまうたちのぼくなので、
「なんですかそりゃ」
と言いながらも嫌そうな笑顔を作って、おっさんのコンパクトカメラに収まってしまいました。屈辱。
ハンプティさんとひょろ長さんが岬見物をしている間、運転手さんがぼくに話しかけてきました。
「長野と壱岐は関係が深いんですよ。上諏訪出身の曾良ってご存じですか」
「お墓見てきましたよ」
「諏訪の御柱もね、壱岐に迎えてきてるんですよ」
「へえ、柱というと壱岐って柱で支えられてるんですよね」
「そう、八本の柱でね」
うーむ、諏訪の柱と壱岐の柱、何か深い関係があるのでしょうか。
「どれくらいの予定で旅してるんですか」
「いえ、いきあたりばったりなんで決めてないんですけど。まあ、北にも行きたいんで一年くらいはかかるかな、と」
「お金持ちですね。お仕事は」
「辞めました。勤めてたころの貯金があるんでね、この際使い果たしてさっぱりしようと」
「おやおや。心機一転ですね。お気をつけて」
「どーも」
 
 次に行ったのは、小島神社。別に名所でもなんでもなかったのですが、湾の中に小島が浮かんでいて、砂の道が一直線に島と岸とをつないでいるのです。
 道の中程に建つ鳥居の根元には貝がこびりついているので、おそらく満潮になるとこの砂の参道は海に没してしまうにちがいありません。
 そういうのは大好きなので、堤防を降りて、磯臭い砂の参道を歩いて島まで渡ってみました。
 鳥居の額に「小島神社」と書かれていたので社名がわかりました。そのまんまなネーミングです。
 小島は周囲が崖になっていて、なかなか上がれそうなところがありません。
 反対側に回ってみると、磯の上に常夜灯がぽつんと建っていて、よく見ると草だらけの上り道がついていました。
 恐る恐る登ってみると、フナムシがわさわさと逃げていきます。
 島のてっぺんに小屋のような社殿がありました。錠がかかっていて中は覗けず、祭神もわかりませんでしたが、こんなちょっとした探検も、自転車旅ならでは。
 
 次に寄ったのは、原の辻遺跡。芦辺町と石田町の境にある遺跡で、魏志倭人伝に出てくる一支国の首都と断定された弥生遺跡だそうです。
 展示館は入場無料だったので、のぞいてみました。
 さしてインパクトはありませんでしたが、この遺跡で出土したココヤシ製の笛が、ちょっと珍しかったです。
 当時の人達って、オセアニアなどとも交易してたんですかね。ココヤシの植生分布は知らないけど。
 
 石田町は空港のある町ですが、ぼくにとって壱岐の中で一番影の薄い町でした。面積もちっちゃいし。
 面白かったのは、印通寺港近くにあった「唐人神」という祠。
唐人神
唐人神

 言い伝えによれば、昔、浜辺に流れ着いた唐人の下半身を祀っているのだそうで、流男女を問わず下の病や子宝、夫婦仲にご利益があるそうな。
 それだけ聞けば想像がつきますが、見てみると案の定へのこやめのこが奉納されておりました。
 説明看板には「丑満参りの祈願をかける女性も多い」とありましたが、丑の刻参りのことでしょうか。
 それにしても、「唐人の下半身が流れ着いた」って一文から浮かぶ風景には、かなりのインパクトがあります。
 上半身は鮫に食われたのでしょうか。それとも腐ってちぎれたのでしょうか。
 男なのでしょうか、女なのでしょうか。神様に祀られるってことは、よっぽどの下半身だったのでしょうか。
 うう、見てみたい。いや、見たくない。
 
 次に行ったのは郷ノ浦の壱岐郷土館(200円)。新しくて立派な建物でしたが、もちろん客はだれもいませんでした。
 ここでのぼくのオススメは、百合若大臣の鬼退治伝説を紹介した映像。よくありますよね、暗い背景にちっちゃい実写人物が出てくるやつが。なんて言うんですかあれは。
百合若大臣の鬼退治
百合若大臣の鬼退治

だいたいどこの博物館でも、この手のものは間抜けな映像が多いのですが、壱岐郷土館のそれは、わざとらしいウケ狙いも入っていて、他のコーナーがすごく真面目な分、一際異彩を放っていました。
なにがどう間抜けかは、実際に見てもらうしかないですね。
 それを確かめるためにはるばる壱岐に来るだけの価値は、全くないですけど。
 あと、壱岐郷土館の感想としては、資料館のオリジナルビデオは、プロのナレーターのおねいさんを出演させて島内各地でロケしているという、たかが町営の資料館にしては妙に力が入っているのですが、そのおねいさんの着ている服が、どこか微妙に壱岐の風景と不釣り合いだったのが印象的でした。
そんなとこしか見るとこないですよね、資料館なんて。
 
 これで一通り壱岐はクリアー。対馬行きのフェリーは夜の9時25分発。
暇だなーと思いながら、郷ノ浦港のターミナルビルの待合室で充電と日記打ちをしていたら、職員さんに声をかけられました。
「お客さんはお乗りにならないんですか?」
「対馬行きたいんで9時過ぎのやつに」
「その便はここじゃなくて芦辺港ですよ。ここの待合室は6時過ぎに閉めますんで」
…と、またドジを踏んでしまいました。
 夕暮れの道を郷ノ浦から芦辺へと戻ります。
芦辺に着いたのは7時ころ。生暖かい強い風と、雨が降って来ました。いよいよ台風が近づいているようです。
 ダイエーで晩飯(ネギトロ丼とかパンだとか)を買って、ターミナルビルへ行って見ると、鍵がかかってなかは真っ暗。
よもや欠航!?
とドキドキしましたが、ダイエーの軒下で日記打ちをしながらビルの方を気にしていたら、8時40分ころにようやく明かりが付き、待合室が開きました。
 便が少ないので、船の出入りがない時間帯は閉まってしまうのでした。田舎め。日本の果てめ。
 
 対馬厳原行きのチケットを買って(1780+600円)、フェリーに乗り込みました。
 一昨日の船とは打って変わってずいぶんと客が少なく、コンセントのある壁際を陣取ることができました。カーペット敷きの二等船室では、みんな、ミイラのようにごろごろと寝ています。
 客の中で一番靴下が汚いのは、やっぱりぼくです。
 窓の外を見ても真っ暗なので、カップラーメンを食いながら日記を打ちました。
出航時に
「天候が悪いので揺れにお気をつけください」
と船内アナウンスがありましたが、その言葉どおりけっこう揺れがきて、危うく酔いそうになったので日記を打つのをやめました。
 横たわって揺れに身を任せているのは不思議な気分で、気持ち良かったです。
 
 対馬に着いたのは夜中の12時。暗くてなにがなにやらわかりません。暖かい雨が、時折強く吹きつけています。
 不安な気持ちでねぐら探し。何とか道路脇にガレージとも作業場跡ともつかぬスペースを発見しました。
 朝になって怒られるかもしれないけど、その時はそのとき。真っ暗な中でろうそく一本立て、なんとかテントを建ててもぐりこみました。
 蒸し暑苦しさぶっちぎり。もう体中がベトベトで、なんだか妖怪になりそうです(べとべとさん)。
 これからこんな日がずっと続くのかあ。
 ハラホゲ、ハラホゲ。
西九州後編目次 表紙

6月11日(火)雨のち晴 山越え谷越え対馬一周  

 夜はけっこう激しい雨音が聞こえました。
 朝飯は昨夜買ったおむすび。誰かに怒られることもなく、工場跡地(?)を出ました。
 雨は止んだかと思いましたが、時々思い出したように降ってくるのでレインウエアを脱げません。ラジオでは「九州が梅雨入りしたとみられる」と言っていました。
 
 壱岐よりもずっと交通の便の悪い対馬のこと、もしかしたら壱岐よりも田舎なんじゃないかと思っていましたが、厳原町に限っては、壱岐の中心部郷ノ浦町よりも賑やかでした。島が大きく人口も多いからでしょう。
 
 対馬一周に出掛ける前に、島の中心部であるらしきこの厳原町でいろいろ片付けねばならぬことがあります。
 まず、郵便局で金を降ろし、隣の観光案内所でマップを入手しました。
 その後、デジカメのコンパクトフラッシュが一杯になってきたので、写真屋でCDに焼いてもらいました。
 徳島の「カメラのキタムラ」で同様の依頼したとき、数日かかると言われて断念したことがあるのですが、今日寄った小さな写真屋さんでは今日の昼までにはできるとのことでした。
 店内のソファで暇そうにテレビを見ていた店のおばあちゃんが、
「大きな荷物で大変だねえ。どこへ行ってきなさった」
「いえ、これから対馬一周に」
「ここは人が温かいでねえ、風呂入ってきな、って言ってくれる人もいるかもしれんよ」
と、また地元の人情自慢を拝聴しました。
 
 次に、港のターミナルビルに戻って博多行きのフェリーの時刻確認と、洗顔。
 次に、近所の店を覗いて帽子を買いました。リュックの色にあわせて赤い帽子を買ったのですが、なんとなく運動会の紅組の子供みたいになってしまいました。まあいいや。
 次に、近くの八幡神社で日記打ち。
 日記を打っていたら1時過ぎ。
 もう雨は完全に止み、日が照ってきていました。
 写真屋に行くと、CDができていました。64MBが二枚、8MBのが一枚だったので、600MBのCD一枚に余裕で収まるだろうと思っていたら、六枚のCDを渡されました。
「こんなにCDがいるんですか」
ときくと、
「写真の枚数が多いんでねえ」
という答えが帰ってきたのですが、どういうことなのでしょうか。
 ファイル形式がJPGじゃないのかな?我が家のパソコンで加工できるのかな?慣れないことなので、いろいろ不安になってしまいました。
 
 自宅にCDを送るにあたって、いちおう土産でも同封してやろうと思い、土産物屋で「ろくべえ」という団子みたいなのを買いました。対馬の郷土食で、サツマイモの澱粉を丸めたものらしいです。
 うまいんだろうか。
 これまで溜まったパンフレット類とともに郵便小包で送り、腹が減ったのでほか弁で塩カルビ丼の特盛を買いました。近くの公園で蚊に食われながら食いましたが、おいしかったです。
 今度自炊でやろう。
 
 ようやく出発する心構えも出来てきたので、まず北に向かって走りだしました。
対馬は南北120qくらいあるらしいので、ぼくのペースだと3〜4日はゆうにかかるでしょう。
 対馬は山が多く、道も上り下りがきついです。国道を走る分にはさほどでもありませんが、そこから逸れて岬に行こうものなら、かなりしんどい目にあいます。
子供が「がんばれー」と声をかけてくれたので、あわてて振り返って手であいさつを返したのですが、実はこういうとき、通行人に「がんばれ」と声をかけられると
「おれってすごく大変そうに見られてるのかな」
と思って、恥ずかしくなります。
 もちろん、がんばれと声をかけたくなる気持ちはありがたいし、こういう場合「がんばれ」以外に適当な日本語がないことも分かるんですけどね。
 
 対馬の中央部は入り組んだリアス式海岸になっており、小さな入り江ごとに点在する漁村を、道が葉脈のようにつないでいます。
今でこそアスファルト道ができていますが、昔の人達は基本的に船で行き来してたんでしょう。
 途中ふと立ち寄った住吉神社は、神社の正面が海に面しており、海に向かって鳥居が建っていました。
 海の神様を拝むなら、海を背景にして社を建てそうなものですが、こうした神社は海の彼方から神様がやってきて鳥居をくぐって社に入るのでしょう。つまり神社は神様の別荘みたいなもんなんでしょうね。違うかな。
 夕方、リアス海岸の突端、赤鼻というところに行ってみたのですが、小さな漁村があるだけで、トナカイ神社はありませんでした。
 
 今夜は豊玉町に入った道端の空き地でテントを建てました。いいタイミングで店に出食わせなかったので、飯はありあわせのビスケットと魚肉ソーセージとウイスキー。
 すっかり天気も回復して、今夜は雨の心配はなさそうです。梅雨に入ったとたんに中休みかよ。たるんだ梅雨だな〜。
西九州後編目次 表紙

6月12日(水)晴 ヤクマの塔の意味  

 朝から日差しが強く、テントの中は煮えくりかえってしまいました。夏のテント設営は、朝日が当たらない場所を選ぶのがコツです。
 朝飯は、雑炊、のようなもの。キャベツを刻んで入れて、味噌仕立て。
 
 9時30分ころ出発して、初めに猪垣を見にいきました。昔の猪狩の時に猪が逃げないように石垣を築いたといわれているのですが、実際は馬を放牧する牧の跡だとの説もあるようで。
 それほど面白いものではないのですが、学生時代の卒論が猪関係だったもので、ついついチェックしに行ってしまったのでした。
 
 その後行ったのは和多津美神社。
 ここは海幸彦・山幸彦伝説の現地だそうで、この神社が山幸彦(彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト)が乙姫様(豊玉姫命トヨタマヒメノミコト)と暮らした竜宮城(海宮ワダツノミヤ)なのだそうです。
海へと続く鳥居
和多津美神社

 その伝説が何らかの史実だったのかどうかは別として、この神社は昨日の住吉神社と同様に海に向かって鳥居が建っていて、厳島神社みたいな雰囲気でかっこいいです。
 神社の境内の近くの磯には「磯良恵比須」という石がありました。
 磯良については志賀島のところで少し紹介しましたが(日記5月12日参照)、彼の墓なのだそうです。
 
 また、神社の裏の森の中に豊玉姫のお墓があるというので行ってみました。
 かなりの原生林らしく、いい雰囲気です。で古木のふもとに根に絡まれるように大岩があり、おばさんが落ち葉掃きをしていました。ぼくが近づくと
「わあっ。びっくりした。足音しないんだもん」
「どーもすいません。これが豊玉姫さんのお墓ですか」
「嫌なところにあるでしょう」
「?」
「薄暗くて、蚊が多くてねえ」
「ああ、そうですねえ」
確かに蚊は多いでしょうが、薄暗くていい雰囲気だと思うなあ。
 
近くの公園の休憩小屋で日記を打ち、食パンと魚肉ソーセージで昼飯を食いました。
 暑いし、坂が多くてしんどいので、のろのろ走りました。
 ところどころ、道端に「ツシマヤマネコに注意」の看板が立っています。
 いるんですねえ、そーいうのが。
 対馬には他にもツシマテン、ツシマトカゲ、ツシママムシ、ツシマサンショウウオ、ツシマナメクジなど、独特の生き物が生息しているそうです。
 ツシマナメクジは、お寿司に載ってるウニそっくりの色かたちをしているそうなので、ぜひとも見てみたいものです。
 
 3時ころ豊玉町の中心部に通りかかったので、スーパーとガソリンスタンドに寄って食材と灯油を補給しました。いつもならスーパーに入るのは夕方6時過ぎなのですが、この先まともな店がないかもしれないと思ったからです。
 買い込んだのは米、パン、ラーメン、スパゲティ。炭水化物ばっかりですが、これでしばらくスーパーがない地域でも生きていけます。
 
 海岸沿いに走って峰町に入り、気持ち良さそうな芝生の公園があったので一休み。
 ふと浜辺をみると、何やら意味ありげな石積の塔がにょきにょき生えています。
ヤクマの塔
ヤクマの塔

なんだこりゃと思って近寄ってみると、案内板が建っており、これは「ヤクマ祭り」という旧暦6月初午の日に、村人が作るものだということでした。
 ヤクマ祭りは畑の作物として麦などを供える夏の収穫祭で、毎年浜に石を積んで塔を作るので、歴代の塔が浜辺に林立しているのです。なぜ石の塔を作るのかはよく分からないらしいのですが、かつては対馬全島でヤクマ祭が行われていたのだそうです。
 近くには、藻を刈って麦畑の肥料とするために貯蔵する「藻小屋」があったりして、対馬の風習の一端をかいま見ることができたような気になりました。
 
 ヤクマの塔をスケッチし終わってもまだ6時。太陽が海に沈むまで時間がありましたが、疲れが溜まっていたので今日はここで寝ることにしました。
 シャツと短パンを洗濯し、薄暗くなってから飯を炊いたのですが、またストーブの調子が悪く、ご飯が生煮えのうちに火を消してノズル掃除をしなければならないハメになりました。
 いったん鍋が冷めてしまうと、火にかけ直しても底が焦げるばかりでご飯は柔らかくなりません。
 仕方ないので水をどばどば足し、今朝に引き続き雑炊(の、ようなもの)にしてしまいました。
 飯作りに失敗した夜は、失敗作を酒とともに胃へ流し込んでふて寝するのが恒例なのですが、今日に限って酒を切らしてしまい、悔しい思いをしました。
 
 まだ対馬一周の4分の1くらいしか来ていません。この調子で行くと、九州沖縄をクリアして東北、さらに北海道に行くのはいつ頃になるのでしょうか。
 ああ、うかうかしてると冬になってしまう・・・。
 
 波の音が子守歌です。もし津波が来たら一巻の終わりだなー。
西九州後編目次 表紙


6月13日(木)曇ときどき晴 謎の怪人天道法師  

 夜は風が強く、ペグで固定していないテントがばたばたと鳴りました。
 朝は霧といっていいほど、すぐ近くの山が白くモヤっていました。
 朝飯はラーメン。
 一晩中干していた洗濯物は少し生乾きでしたが、乾くのを待っていても仕方ないので着てしまいました。
 
 この辺はPHSが効かないので、携帯でインターネット接続しなければなりません。写真入りのメール送るだけで時間かかって金がかかるのですが、仕方ありません。
 メールチェックしてみると、愛知に住む大学時代の先輩の野田農さんから、
「誕生祝いをヤマト便で熊本に送っておいたから」
とメールが届いていました。
 野田農さんは、去年の四国行きでも途中泊めてもらって世話になっています。
 もともと面倒見のいい兄貴分ではありましたが、いまだに気を利かしてくれるとは。ありがたい限りです。
 
 野田農さんは大学時代、後輩の誕生日になるとトイザらスでわけのからんものを買って来て我々を面食らわせるのが大好きな人でしたが、まさか今回はそんなウケ狙いはしないでしょう。しないでほしい。
 この調子では、熊本に着くのはだいぶ先になりそうですが、期待半分、不安半分です。
 
 今日は、夜営地のすぐ近くにあった海神神社というところにお参りした後、対馬の北端目指して走りました。
 何度も言うようですが、ほんと対馬は山ばっかです。
 普通の島は中心部にメインの大きな山があって、その稜線沿いに子分の山がいくつかある、というのがパターンだと思いますが、対馬の場合はそういったものがなく、同じような山がいくつもいつまでも、どこまでも続いています。
 島全体がおろしがねのようだ、といえばわかりやすいでしょうか。
 山の数だけ峠があるわけで、上ったり下ったり、上ったり下ったり、上ったり下ったり。あーしんど。
 公園やトイレは各地にあるし、静かなので野宿はしやすいんですけどね。
 
 対馬の風景で印象的なのは、古くて立派な石垣と、高床式の長屋倉庫です。
 昼、国道の道端で食パンとソーセージを立ち食いしていると、ワゴン車が停まって運転していたおっさんが身を乗り出してはなしかけてきました。
 話の内容はお定まりのものでしたが、わざわざ車を停めて話しかけてくるとは物好きなおっさんです。
「対馬なんて、なんにもないやろ。本土で野宿は気いつけえや、危ない連中多いからな」
「対馬にはなんにもない」
てのも、
「本土には危ない連中が多い」
というのも、ぼくのこれまでの印象とは少し違うんですけどね。
 前者については、ぼく好みの神社や信仰物がたくさんあって飽きませんし、後者については、今までぼくがヤな目に遭ったのは、せいぜい堺市の東湊さんの件ですが、あれだって別に命に関わることではありませんし。
 
 上県町に入って寄ったのは、まず対馬野生生物保護センター。ここは、要するにツシマヤマネコ展示館です。
 生きた実物は見物出来ませんでしたが、写真やジオラマなんぞでツシマヤマネコを勉強できるようになっています。
 ツシマヤマネコは大陸のベンガルヤマネコに近い種類で、現在の頭数は約90頭、対馬の南半分ではここ数年生息の痕跡がなく、ほとんど絶滅状態なのだそうです。
 畑中純が西日本新聞で連載しているマンガ「山猫通信」のコピーが置いてあって面白かったです。
 それと、ツシマナメクジが水槽の中で飼われていました。鮮やかなオレンジ色できれいでした。
 
 その後寄ったのが、天神多久頭神社。ここは社殿がないのが特徴で、神社の原型を留めているのではないか、と言われています。
 神社の御祭神は「天道法師」という坊さんなのですが、これがまた謎を秘めた伝説上の人物なんですねー。
 むかし、都の女性がうつろ舟で対馬に流れ着き、日輪の光に感応して生んだのが天道法師で、彼はまじないを得意とし、天皇に気に入られて中央で出世したといわれています。
 「日輪に感応」ということは、天道法師は太陽の子ということでしょう。名前からしても、太陽信仰と仏教がドッキングした伝説なのでしょう。
奉納された鏡
奉納された鏡

 神社の賽銭箱の向こうには石段が続いていて、その先には扉とも石板とも知れぬものが立っており、その彼方は鬱蒼とした森になっていました。
 賽銭箱の隣の小屋には、酒のビンに混じってたくさんの鏡が奉納されていました。神社の御神体が鏡というパターンはよくありますが、ここでの鏡も、光を反射して輝くという意味で、太陽の象徴なのでしょうか。
 もう一つ面白かったのは、拝所の両脇に、昨日見た「ヤクマの塔」によく似た石積の塔が作られていたこと。こちらは丸石ではなく、四角く割った石を積み上げた四角錐の塔なのですが、何か関わりがあるのでしょうか。
ヤクマの塔や八丁郭と関係あるのか?
天神多久頭神社の石積塔

 天神多久頭神社は対馬の南端、醴豆(つつ)にもあるそうです。
 その近くの竜良(たてら)山には天道法師やその母が葬られているとされ、山中には「八丁郭」という石積みの塔があって天道法師の墓と伝えられているそうな。
 やはり天道法師とヤクマ祭りは「石積塔」繋がりでなにか因縁がありそうな気がする。
 いかん、またマニアな思索にふけってしまった。
「お前、ガクシャになったら?」
と言われてしまいそうだ。
 
 しばらく走って、井口浜という海岸に着いたのは午後5時ころ。波と砂浜が手招きしていたので、思わず靴を脱いで膝まで水につかって波と戯れてしまいました。
 コンクリートの段に座ってぼんやりしていると、海辺によくいる小さなハエがぼくの足にたかってきます。
 じっと観察していると、擦りむいてカサブタになっていない傷口を見つけてしきりに嘗めています。
 おまえ、俺の体液が美味しいのかあ?
 しばらく放っておくと、今度はもう一匹やってきて、二匹そろってぼくの傷口を集中攻撃してきました。
 チクチクと痛いので追い払いましたが、海辺の蝿は意外と残酷なんだなあと少しぞっとしました。
 あのままほっといたら、肉までえぐられて卵を生みつけられてたかも。
 
 これ以上走るのが面倒臭くなったので、今日はこの海岸で寝ることにしました。海水浴場なのでトイレもあるし。
 店に寄っていないので野菜など生鮮食料が食えませんが、レトルトカレーで我慢します。
 今日はストーブの調子が良く、ひさしぶりにほぼまともに飯が炊けました。わずかに残しておいたキャベツとピーマンでコンソメスープを作って食いました。
 波の音が子守歌、というよりうるさいです。
このあたりの海岸からは韓国が見えるらしいですが、今日の天気だとちょっと無理です。
 寝てる間に北朝鮮の工作員に拉致されたらどうしよう。
 もし北朝鮮に連れ去られたら、とりあえず金正日に面会して
「そんなサングラスと髪形をしてるから、ならずもの呼ばわりされるんだ」
と説教してやりたいと思います。
西九州後編目次 表紙

6月14日(金)晴 韓国岬での午睡  

 朝飯はラーメン。
 バンガローの東屋に電源を見つけたので充電しつつ日記を打ち、10時頃出発しました。
 曇りがちだった昨日と比べ、快晴です。空気が澄んでいるので、恐らく紫外線も強烈でしょう。
 上県町の佐須奈というところの薄暗い店で、百円シガービスケットと百円レトルトハヤシライスと黒糖キャンディを買いました。
 近くにツシマヤマネコトイレがありました。対馬でこの手のアホっぽいものを見たのは初めてのような気がします。
 なかなか突っ込む隙がない、というか、観光的に悪あがきしてないんですよね、対馬の町どもって。
PHSどころか、携帯の電波も届かない漁村が普通にあるし。
 ただし、ツシマヤマネコに関しては、ヤマネコ饅頭やヤマネコ最中がしっかり売られています。
 やっぱ餡にツシマヤマネコの肉を使っているのでしょうか。肉は使えないから、ヤマネコの毛が入ってたりとか。
 
 ようやく対馬北端の町、上対馬町に入りました。大浦という地区に大きめなスーパーがあったので菓子パンと、乾燥ホウレン草と、ピーマンを買いました。最近野菜というとピーマンばっか食ってるような。
 このスーパーでは迷彩服を着た兵隊さんがうようよいて、パンやら寿司やら弁当やらを買い込んでいました。
 どうやら自衛隊らしいのですが、スーパーの隣の老人ホーム「結石荘」では、アメリカの国旗が何十枚も掲げられていましたから、日米合同練習がこの付近で行われるのでしょうか。
 老人ホームに旗が掲げられてたってことは、日米合同慰問かな。腹話術で安保体制の重要性をじーちゃんばーちゃんに訴えてるのかな。
 それにしても、老人ホーム「結石荘」って、尿道が痛くなりそうな名前なんですけど。
 
 今日はどういうわけか腹の調子が悪く、スーパーのトイレで水っぽいのを出しました。
トイレには
「6月14日 今日の言葉:相手のことを思いやることのできる人間になりましょう」
などというコラムのコピーが貼り出されていました。
 ついついしっかり読んでしまったのですが、どうやら店長が毎日コピーを貼り替えているらしいのです。
 説教臭さをウンコ臭さの臭い消しにしようという魂胆なのでしょうが、相乗効果が発揮されてクサさ倍増です。
「相手の気持ちを思いやれる、想像力ある人間になりなさい」だと?
じゃあ、連続殺人犯の気持ちを理解してみろ。原爆落とした米軍パイロットの身にもなってみろ。相手のことを思いやれない人の気持ちを思いやるだけの想像力が、アンタにあるのか?
 そんなことを考えると、自然下腹に力が入るのでした。めでたしめでたし。
 
 対馬の最北端には「韓国展望所」という展望台がありました。今日は天気がいいのですが、それでも約50q先の韓国は見えませんでした。
 あんまり日差しがキツイので、芝生の隅の小さな植木の陰に頭を突っ込んで昼寝することにしました。
 平日の昼日中、都会から遠く離れた島の木陰で昼寝するなんて、一般人から見れば贅沢なんでしょうなあ。
 足にかけておいたタオルが、小一時間でくっきりと跡になるほど、強烈な紫外線でしたけど。
 昼寝の後、描きためた絵葉書に宛て名と文章書いてたら、あっというまに3時になってしまいました。
 
豊砲台跡
豊砲台跡

 重い腰を上げて展望所を後にし、次に立ち寄ったのは豊砲台跡。ここは壱岐の砲台跡と同様、昭和初期に日本軍によって築かれたものです。日露戦争後の国際連盟の軍縮会議によって廃艦となった戦艦「赤城」の主砲を据えたものだそうです。
 中に入ってみると、壱岐の砲台跡よりも保存状態がよく、当時の様子がよくわかりました。ドーム状の大砲の台座跡だけでなく、倉庫やら機関室やら浄水所やらがかなりよく保存(復元?)されています。
 夜中に肝試しに来たら面白そう。
 
 比田勝という、上対馬町の首都を通り過ぎ、鳴滝とかいう島唯一の滝を一瞥。
 村のおっさんたちがラジオを鳴らしながら歩いているのを見て、ぼくもラジオのイヤホンを耳にねじこんでみると、サッカーの日本対チュニジアの後半戦で、日本が2点リードしているところでした。
あっさり試合が終了し、
「いやー、やりましたねえ」
「今回の快挙の勝因は・・・」
などと、アナウンサーと解説者がいつまでも同じことを繰り返しているのを聞きながら、坂を上り、坂を下り、坂を上り、坂を下って、今夜は小鹿というさびれた漁村の空き地にテントを張りました。
 今日の飯はレトルトハヤシライスとピーマンスープ。スープには乾燥ホウレン草も入れてみましたが、あんまりおいしくなかったです。
 昨日にひきつづき、ストーブの調子がよく、ごはんもまあまあの炊き上がりでした。
 今夜も酒なしです。水道水をガブガブ飲んで我慢してます。
西九州後編目次 表紙

6月15日(土)晴 白嶽で不覚にも感動  

 朝飯はホウレン草スパゲティ。乾燥ホウレン草をふやかして混ぜただけですが。
 朝9時ころ出発しました。最近のぼくにしては早出です。
 昨日の昼寝に味をしめ、自転車を漕ぐのは午前中と午後にして、真昼の間は日陰でゆっくり日記打ったり昼寝したりするのがよかろう、という魂胆です。
 
 今日は対馬の北半分をクリアーし、南半分にとりかかります。対馬は中央がくびれた細長いヒョウタン型をしているので、ぼくのルートも8の字を描く形になるわけです。
 
 途中、ミニバイクに荷物を満載した若者が、地図看板を見上げているのを見かけました。
おそらく、ぼくと同じ旅人さんでしょう。
 声はかけずに素知らぬ顔で通り過ぎましたが。
 
 上対馬町から峰町に至る間、道はまたズンズンと山奥に入って行き、四方は山並に囲まれてしまいました。
 道端にきれいな沢水が流れている水汲み場があったので、水道水と交換し、じゃぶじゃぶと顔を洗いました。
 対馬は壱岐よりも水道水が飲みやすいですが、天然水の旨さにはかないません。対馬は山ばっかなんだから、もっとこういう水場があると自転車としてはありがたい。
 
ハメコミ自動車
ハメコミ自動車

 もう一つ、妙な物件を発見しました。たんぼの畦にあった、「トラックはめこみ小屋」。
 軽トラのフロントの形に合わせて板をうちつけ、荷台の形に合わせて窓をとりつけている不思議な小屋です。中を見ると、トラックをうまく利用した農具置き場になっていました。
 廃車を処分するとお金かかるので、いっそ物置に活用してしまおうという農民の知恵なのでしょう。
 
 国道に戻り、午後1時に美津島町の「グリーンパーク」というありがちな名前の公園で一休み。
 12時から1時までは土方の衆が東屋で弁当食ったり昼寝したりしていますが、1時を過ぎると彼らが仕事に戻るので東屋を独占できるようになりました。
 最近自販機を使う癖がつき、今日もコーラを飲んでしまいました。旅に出てから、お茶など買って飲んだことがありません。自販機で買うのは必ず甘ったるい炭酸系か、果物系です。
 せっかく金出して買うんだから、少しでもカロリー高いのを飲まなきゃ損だ、という計算が働いてしまうのです。
 個人的には、真夏の峠道でがぶ飲みするファンタグレープが大好きです。
 
 日記も打ち終わり、疲れもとれたので、ぼちぼち出発。
 近くのスーパーで値引き品のブロッコリーと100円のシメジ、その他食料を買い込んで、厳原町の西海岸に向けて進路をとりました。
 ぼくの勘では、この後厳原の港に戻るまで、まともな店に遭遇することはないでしょう。
 がしがし漕いでいくと、「白嶽登山口」の看板が出てきました。看板の先に、ごつごつした岩山がそびえています。
 観光パンフレットを見ると、この白嶽というのは霊山として信仰を集めているのだとか。
 時刻はもう4時近く、これから山登りもめんどくさいな、と一度は看板を通り過ぎましたが、せっかくここまで来たんだから、と思い直してUターンし、登山口への道にペダルを踏み出しました。
登山口の駐車場に着いたのは4時20分。看板によれば、登山道の道のりは2km、所要時間は90分。
 下山する頃には7時過ぎる計算ですが、まあ日も長いし、なんとかなるだろうということで、柿ピーや水、三脚をビニール袋に放り込み、登り始めました。
 
 標高500mちょっとの山なので、さほど無茶な険しさではありませんでしたが、雲仙岳の登山道と比べると道の整備状態も悪く、中腹からは石がゴロゴロするような悪路でした。
 五合目の鳥居を過ぎ、八合目あたりからはロープ伝いに急な岩坂を登ります。
 両手を使うので、ウエストバッグのベルトを伸ばしてビニール袋を通し、斜めに肩で背負いました。
 尻のあたりでビニール袋がぶらんぶらんしますが、両手が使えるのでいい調子です。
 山頂付近には怪しげな祠が三つほど祭られ、鉄製の御幣みたいなものが奉納されていました。
 山頂は二つのどでかい岩の塊で、一番てっぺんには人が登るような道はついていませんでした。
 登れるところまで行って岩の崖から顔を出したとき、眺めの良さにちょっと感動してしまいました。
白嶽山頂から北方を望む
白嶽山頂から北方を望む

 対馬って、ほんっっっと山ばっっっかだなあ、と思い知らされるほど、山の向こうに山が続いています。
 ぼくがこれから行こうとしている南西方面を眺めても、ずっと山しか見えません。
 ぼくがこれまで走って来た北方を眺めると、山の向こうにこんもりしたリアス式の島や半島がぽこぽこ浮かんでいるのが見えました。
 登頂したのは5時20分頃で、雲も出て来て最高の天気というわけではありませんでしたが、
「いやー、対馬来てよかったな」
と思えました。
 
 5時50分に下山を開始し、駐車場に戻ったのは6時30分でした。
 ふもとの村の神社(白嶽神社里宮)で水を補給し、今夜は吹崎という小さな漁村の草地にテントを張りました。
 昨日とは打って変わってストーブの調子が最悪です。
 どんなにノズルを掃除しても、不完全燃焼の黄色い炎が立ちのぼるばかりで、本来の青い炎が出て来ません。
 仕方なく黄色い炎のままで飯を炊き、炊き上がり直前に野菜を放り込んで火を通し、レトルトカレーをかけて根性で「野菜たっぷりカレー」を作りました。
 コッヘルが煤けて真っ黒になりました。
 こんなときこそ発泡酒でも一気飲みしたいのに、今日も酒なしです。
 携帯の電波も届かないので、メールチェックもできません。
 あさってあたりには、対馬ともおさらばです。
西九州後編目次 表紙

6月16日(日)晴 ゴキブリ小学生に辟易  

 夜、ぱらぱらと雨が降って来たようでしたが、大したことはなく済みました。
 ストーブの不調をおしてラーメン二袋にブロッコリーやシメジをぶちこんで煮て食いました。
 ストーブもコッヘルもススだらけで、片付けが終わったころには手は真っ黒になっていました。こういう汚れた手でシャツや短パンに触るから、すぐ洗濯しなきゃいけなくなるんだよなー。
 
 今日も暑いです。
石屋根の倉庫
石屋根の倉庫

椎根という集落では、石屋根の高床式倉庫がたくさん建っていました。こういう建物をみると、対馬に来たなあという実感がわきます。
 昔は対馬全島にこうした石屋根があったのだそうですが、現在残っているのはこの集落だけだそうです。重そうな石だけど、よく潰れないなあ。
 対馬には、古い風習が方々に分散して残っているということがよくわかります。どこか一カ所の奥地に全てが残っている、ってわけにはいかないんですね。
 
 しばらく集落を離れ、細い道が山の中をうねうねと続きます。木陰が多くて、気持ちいいです。山を下ると、久根という集落に出ました。
 ここには、安徳天皇の陵墓と称するものがあるとのこと。解説板を読んでみると、由来は以下のとおりでした。
 実は、安徳天皇は壇ノ浦で死んでおらず、合戦後六十余年、対馬地頭代だった宗重尚(宗家初代)が寛元四年(1248)に安徳天皇(当時七十歳)を筑前与志井から迎えて、久根の地に御所を営んだのだそうです。
 まあ、この伝説が本当かどうかははっきりしないので、宮内庁による指定では「安徳天皇御陵墓参考地」となっているわけです。
 久留米の水天宮でも、安徳天皇が筑後川に逃れて来てそこで死んだって伝説がありますが、安徳天皇はいったい何人死んだのでしょうか。
 
 安徳天皇御陵墓の看板をメモしていると、近所で遊んでいた子供たちがわらわらと寄ってきました。
「おっちゃん、どっからきたん?」
「トシいくつ?」
「金どれくらい持ってきとるん?」
「メシどうしとるん?」
口々に訊いてくるので、逐一真面目に答えてやりました。
「安徳天皇のお墓行くん?」
「うん。この道まがってけばいいんだよね。それじゃ行ってくるよ」
ぼくが安徳天皇御陵墓目指してペダルを漕ぎ始めると、子供たちも四人ばかり、走ってついて来るのです。なかなかかわいい子供どもじゃないですか。
「学校には子供何人いるの?」
「えーとねえ、3年生が…、それに4年生が…」
皆でそろって指折り数えて答えようとするのがまたかわいらしい。
少年A「おっちゃん、足早い?」
少女m「おっちゃんって言っちゃダメや。お兄さんて呼ばな」
ぼく「あんまり早くないんだけど」
少年A「そんなことないやろ」
少年B「(少年Aを指して)この子はなあ、まだ1年生だけど3年生よりも早いんや」
少年A「トシいくつ?」
ぼく「28」
少年B「まだ若いやん」
ぼく「うう(小学生に励まされたくない…)」
少女m「カノジョおる?」
ぼく「いないよ」
少年B「(少年Aを指して)こいつキスしたことあるんやで。女の子と」
少女m「アキちゃんて子可愛いでおっちゃんに紹介したる」
ぼく「アキちゃん歳いくつ?」
少女m「2歳!」
ほのぼのした会話をしているうちに御陵墓に着いたので、
ぼく「じゃあ、ここでみんなで写真撮ろうか」
一同「撮ろう撮ろう!」
ガキどもと記念写真
ガキどもと記念写真

ということで写真を撮ってやったのですが、やっぱピースしますね、今どきの小学生も。
 デジカメをいじらせてやると大喜びで、
少年B「あっ、ヘリコプターだ。撮れ、撮れ!」
少年A「おっちゃんの写真も撮ってあげる」
少女m「だめやで、こいつおっちゃんの出っ歯ばっか写しとる」
とえらい騒ぎ。でも後で画像を見てみると、シャッターボタンの押し方が悪く、全然撮れていませんでした。
少年A(左)と少年C(右)
少年A(左)と少年C(右)

ぼく「どうだ、リュック持ってみるか?」
少年A「うん!」
背負わせてやると、よたよたしながらも歩きだします。
少年B「自転車乗せて!」
少年C「テント持っとるの。建てて、建てて!」
少女m「ここじゃダメやて。公民館行こう」
子供たちはぼくを引き連れ、近くの公民館の広場にやってきて、ぼくのリュックをとっちらけ始めました。
 ぼくもどこまでも気のいいおじさんで、子供たちに教えてテントを建てさせてやると、男の子たちはテントに入って大はしゃぎ。
 しかし、あんまり優しくし過ぎたのか、さらに数人仲間が寄ってきて勢いづいたのか、子供たちはこのあたりから悪ガキの本性を露呈し始めました。
 自転車の空気ポンプに水を入れてぼくの短パンに引っかけてきたり、寝袋を勝手に開いてくるまったり。
少女h「ねえ、USOの真似やって」
ぼく「なにそれ」
少女h「じゃあアイ〜ンやって、アイ〜ン」
ぼく「やだよそんなの」
少女h「なにそれ。ダッセ」
少年A「パンツどんなの履いとるの」
少女h「ガラパン?」
ぼく「何、ガラパンて」
少女h「ガラパン知らんの?ダッセ。この子が履いとるようなやつ。じゃあこれなんて言うの」
ぼく「トランクスだろ?」
少女m「学校の〇〇先生も言っとった。トランクスとかって」
少女h「…」
ぼくにかまってもらいたい少年Aは、ぼくの股間をつつこうとします。
ぼく「こら!俺のチンチンつつくな!」
少女h「チンチンじゃないよ、ペニスだよ!」
どうもこの少女hは「ダッセ」と言いたい盛りみたいで、ぼくのリュックの着替えを覗いて
「なんやこのシオカラパンツ。ダッセ」
「毎晩蚊取り線香焚いとるの?ダッセ」
「なんでこんな帳面(!)持っとるの?ダッセ」
と「ダッセ」を猛連発しておりました。そのときの顔付きがまた憎たらしいんだ、これが。
 学校の教師って、毎日よくこんなゴキブリみたいなのとつきあっていられるもんだなあ。
 
 子供たちはいつまでも炎天下のテントの中で遊んでいます。みんな汗だくなのに。
「おーい、もうそろそろいいだろう?」
と声をかけると、
「ダメ!あと50分!」
という返事が返ってきます。
どうなることやらと思いましたが、やがて
「テント壊れた〜!」
と少々しおれた顔をしてぼくのところにやってきました。
見れば、ポール挿入部の先端に穴が開いて、ポールが飛び出してしまい、テントがぺしゃんこになっています。こんなもの、針と糸ですぐ直せるのですが、わざと深刻な顔で
「あー、どうしてくれるんだよ、今日からおじさん寝れなくなっちゃうじゃないか」
というと、子供たちは
「水浴び行こ、水浴び行こ」
とわらわら逃げて行こうとします。
「こらー、片付けてけー!」
と叫ぶと、「ダッセ」の少女hと、少年B、そして少女mが、意外にも片付けを手伝ってくれました。
といっても、テントもシュラフも畳むのにコツがいるので、結局ぼくがほとんど自分で畳んだのですが。
 
 ようやく全てをリュックに詰め終え、「じゃあね、頑張って」
と、何が「頑張って」なのか自分でもわからないまま、子供たちに手を振って久根の集落を脱出しました。
 やれやれ、と村外れの峠道で一息つき、ふとリュックを見ると、子供たちが噛んでいたガムがべっとりついていました。もしこれがわざとだとしたら、ぼくはもうこれから子供とは口を利きません。
 
 次にやってきたのは豆酘(つつ)と呼ばれる対馬の最南端の地方。
 ここには、以前触れた天道法師という謎の怪僧にまつわる信仰があるということで、島に渡る前から期待していたのです。
 天道法師を祀る多久頭魂神社というのがここにもあったので、寄ってみました。
 梵鐘があったり、拝殿も寺の本堂そのまんまだったりして、江戸期以前のお寺としての風情を色濃く残していました。
 ただし、上県町の天神多久頭神社のように社殿がないわけではなく、怪しい石積の塔も境内にはありませんでした。
 
 天道法師の墓と称する石積みの塔「八丁郭」は、神社から5kmほど離れた浅藻という地区の谷川の上流、卒土(そと)という場所にありました。
 「おとろしどころ」と呼ばれ、かつて罪人が逃げ込んだら誰も追わないという立入禁制の聖地「八丁郭」も、現在では観光マップにも載り道路標識も建っていました。
 正面に見えるのが竜良(たてら)山でしょう。舗装道路から逸れ、谷川に沿って少し入っていくと鳥居と建物が見えてきました。
なんだ、社があるのか、と思ったら、そこは祈祷所らしく、実際の八丁郭はさらにその奥の森の中にありました。
 日が長いといっても、午後6時をすぎた森の中は、かなり薄暗くなっています。
 苔むした石積みは、高さ3mほどもあるでしょうか。てっぺんに、妙に新しい木の祠が載っかっていました。
 
 鳥居の手前にあった碑文によれば、御嶽教(木曽御嶽山に本部がある山伏の宗教団体)所属の拝み屋さんのおばさんが、昭和36年に天道法師の夢のお告げを聞き、「対馬天道教会」なるものを設立して活動をしているそうです。
 おばさんが神がかる前は、ここには鳥居も建物もなく、ただ「おとろしどころ」と恐れられて誰も近寄らなかったのでしょう。
 ぼくはこの八丁郭をNHKの「ふるさとの伝承」で観て知ったのですが。竜良山を挟んだ反対側にも同様の石積塔があり、それは天道法師の母親の墓だと言われているそうです。
 天道法師は天武天皇の時代に豆酘に生まれ、子供のころから神通力に長けており、僧侶となってからその名声を買われて天皇の病気を治して「宝野上人」という称号を与えられ、対馬に帰ってこの地で没したと伝えられているそうです。
 
 この八丁郭がある場所を卒土というのですが、「後漢書三韓伝」という古文書には、朝鮮には天神を祭る「蘇塗」という霊地がある、という記述があるそうで、この卒土の八丁郭はその系譜を引く大陸系の古い太陽信仰の名残なのだそうです。
 この前木坂御前浜で見た「ヤクマの塔」、上県町の天神多久頭神社の石積塔、さらには家を囲む石垣や物置小屋の石屋根。
 対馬には石にまつわる技術と信仰が根強く伝わっているという思いを強くするのでありました。
 
 ということで、八丁郭を写真に撮ろうと思ったのですが、昼間ガキどもに遊ばせすぎたおかげでバッテリーが完全に切れており、IXYは全く使い物にならなかったのでありました。
 フラッシュのないザウルスのデジカメカードで撮ってはみましたが、真っ暗です。
 
 以前佐世保市の図書館で読んだ本には、おとろしどころに足を踏み入った者は、四つん這いになって頭に履物を載せ、
「インノコ、インノコ」
と唱えながら後ずさりで外に出なければならない、と書いてありました。
 靴を脱ぐのがめんどくさかったので、履物を頭に載せるのは省略しましたが、ちゃんとよつんばいになって
「インノコ、インノコ」
と言いながら四つん這いで後ろ向きに外に出ました。
 これで天道法師に祟られることはないでしょう。
 
 今夜テントを建てたのは久和という集落の公園。
近所のじいさんが寄ってきて垣根越しに
「どっから来た」
と訊くので
「長野県です」
と答えたのですが、
「なに、ハラノガワ?」
とてんで耳が遠いので、ほどよいところで無視してさっさとテントにもぐりこみました。
 食料品店がなく、ストーブの灯油を補給するのも忘れていたので、今日はまともな飯がありません。
スパゲティと一緒に炒めようと思って買っておいたコンビーフと、魚肉ソーセージ、それと柿ピー、あと自販機で買ったCooの500cc(オレンジ)です。
 明日には対馬を離れ、博多に戻ります。熊本に直行しようかな、それとも英彦山に登って行こうかな。
 船の中で決めます。
西九州後編目次 表紙

6月17日(月)曇 花火魔にビクビク  

 朝6時ころ、ぼくの寝ている公園の駐車場に八百屋さんの行商がやってきました。
スピーカーからおっさんの声で
「野菜いりませんか〜、あ?」
と、語尾をキュッと上に上げる独特の売り声を流してきました。
 おばあさんたちの楽しげな笑い声が聞こえて来ましたから、きっと繁盛しているのでしょう。
 小一時間で、八百屋さんの車は去っていきました。
 
 ストーブが使えないので、朝飯がわりに柿ピーをばりばりかじって水で腹をふくらし、昨日買ったブロッコリーの傷んだ部分を削って、8時半ころ出発しました。
集落を出ようとすると、道端でしゃがみこんでいたおばあちゃんが
「ほい」
とぼくを呼び止めました。
「あ、おはようございます」
「これ(と手でペダルを漕ぐ真似をして)、大変だなあ。車に気をつけなよ。近ごろは危ないからなあ」
「ありがとうございます」
ペダルを漕ぐその手まねが可愛くて、少しほのぼのした気分になりました。
 
 港や海岸を見下ろしながら、道は山の等高線に沿って続きます。
 9時半ころ、厳原の手前の久田というところに入り、牛乳と半額菓子パンを買って朝飯としました。
 フェリーの出る厳原港に着いたのは10時。3時20分の出港まで、暇がありすぎです。
 県立対馬歴史資料館がみられればいいのですが、月曜なのでたぶん休みです。
 しかし、ひとけのない港のターミナルで充電と日記打ちをしていたら、なんやかやで2時ころになりました。
 一旦市街に出て郵便局で金を下ろし、スーパーで船内用の食べ物を買って、灯油を補給し、チケット(4420円)を買って早めに乗船しました。ぼくが一番乗りで、コンセントのある角スペースを確保することができました。
 その後ツアーのおじばちゃんどもがどやどやと乗り込んで、船内はかなり混みあってきたので、危ないところでした。
「うぎゃーはははは」
「いやーはははは」
おばちゃんたちがけたたましい笑い声をあげています。
 ザウルスのメモリー整理などしているうちに眠くなったので、シュラフを引っ張り出して寝ました。場所的に船のエンジン音がうるさかったです。
 ツアーのおじばちゃんたちは壱岐で降りて行ったので、博多までの間は今までの混雑がウソのようにがら空きになりました。
 
博多港に着いたのは夜8時すぎ。
 ようし、熊本の前に英彦山に登るぞ、と決意して、国道3号→210号→201号と走ることにしました。
 寝場所を探しながら走り、結局福岡空港近くの公園にテントを張りました。
 自転車にゴミみたいなのを満載したおっさんなんかがうろうろしているので、何人か先住民がいるようです。
 飯炊くのも面倒だったのでビスケットかじって寝ようかな、と思っていると、誰やらハンドライトでぼくのテントを照らす人がいます。
 警備員か、やれやれ、と思ってテントから顔を出すと、黒いベストを着たこわもてのおっさんでした。
「ここらはな、若い連中がテントに花火撃ってくるから気をつけなよ。この前もあっちの方で一人テント焼かれたんや。女の子1人と男4人の5人組でな、追いかけると逃げてく。
 12時まではこうやって見まわっとるけど、それ過ぎたら見回りも来んからな、花火の音がしたら気をつけるんやで。おやすみ」
「そーなんですか。気をつけます」
と返事したものの、どうやって気をつければいいんだ。
テントの周囲に鳴子とトラバサミと落とし穴を巡らせろってのか。弥生人にならって「プチ環濠集落」作ろうか。
 こういうときにドラえもんの「でんでんハウス」があれば最高なんだけどな。
 
 ということで、蒸し暑いテントの中で、汗びっしょりになりながら、びくびくしているうちに眠ってしまいました。
 店も何もないけど、静かで平和だった対馬の生活が早くも懐かしい…。
 酒なし生活、これで6日連続です。

←戻る 冒頭↑ 次へ→
西九州後編目次 南西諸島編目次 放浪日記表紙