日本2/3周日記(佐賀福岡) 神話伝説の西九州・前編(佐賀福岡)

6月5日(水)晴 極彩稲荷のマンコ姫  

 佐賀県太良町のバス停での一夜。風がなくて蒸し暑かったです。
 ぼくがテントを建てた場所は、バス利用客の駐輪場だったみたいで、少し迷惑かけたかなと思いましたが、さほど利用客もない田舎バスだったのでよしとしました。
 それでも早めに出発準備をしていると、近所のおっさんやらばあちゃんが来て、
「びっくりしたあ、いつもないところに変なもんがあるんだもん」
「ここは車がうるさかとね。お宮さんの境内なら静かだったのに」
などといろいろ言ってくれましたが、実のところ方言がきつくてなに言ってるのか半分くらい聞き取れませんでした。
 
 おばあちゃんの言っていたお宮がどこにあったのかはわかりませんでしたが、しばらく走るとトイレや東屋の完備された休憩所があり、ここで寝りゃよかったなと思いました。いつものことです。
トイレで体を拭いたり歯を磨いたりした後、朝飯をまともに食っていなかったので、毛虫だらけの藤棚の下で焼きそば作って食いました。
 
 太良町から少し走ると鹿島市。ここはガタリンピックと称して、有明海の干潟で泥騒ぎをすることを売りにしている様子でした。
 ぼくが通りかかったときも、小学生たちが干潟でどろまみれになって綱引きしたりしていました。どうやら修学旅行のようです。
 この辺の名物、ムツゴロウやワラスボなんかも食べてみたいなと思いつつも、すいすい通り過ぎてしまいました。
 
 鹿島市には、祐徳稲荷神社という有名な神社があるということで、行ってみました。
 この神社は肥前鍋島家の三代藩主、鍋島和泉守直朝の奥さんが作った神社だそうです。彼女はその名も萬子姫。けっこうそういう名前は歴史的に多いんですかね。
 萬子さんは直朝の後妻として三十ウン歳で嫁入りし、二人の息子を相次いで若死にさせてしまったことから出家し、鹿島のこの地に別家して、実家から勧請してきたお稲荷様をお祭りしたのがこの神社の始まりだそうです。
 最後は山の中腹に洞穴を掘り、断食して成仏してしまったといいますから、男顔負けのハードな尼さんです。
ハデハデな拝殿
ハデハデな拝殿

 長い土産屋道を抜け、鳥居をくぐると、清水寺を派手にしたみたいな懸崖造の本殿が現れました。柱から天井から、模様や絵がびっしり描かれていて、日光東照宮並にハデハデです。
 裏山の奥の院まで足を延ばしてみました。
 今時分の参拝客は足弱の年寄りばかりなので、裏山の参道は静かです。どことなくかび臭い薄暗い森の中、いくつもの赤鳥居をくぐって石段が折れ曲がりながら続いています。
 その左右に、いろんな大きさのお稲荷様の赤い祠が建っています。怪しげで、いい雰囲気です。
 山頂の奥の院をお参りして、参道の途中で絵葉書を描きました。
 氏子の人達なのでしょうか、おばさんたちが落ち葉を掃いています。
 たまに参拝客がやってきます。だいたいみんな、ぼくが絵を描いているあたりで立ち止まり、「うえー、まだ上り道が続くのか」という顔をしています。
 森の中のわりに、蚊には一回も刺されませんでした。お稲荷様の御霊威でしょうか。
 
 絵を描き終わって時刻を見ると午後3時。
森から出ると暑い盛りです。昨日みたいに昼寝できるところがあればいいのですが、そうもいかないので炎天下を走ります。
きつい上り坂がないのが幸いです。
 今夜は佐賀市内で寝ようかな、と思っていましたが、なんやかんや走り続けて三田川町の吉野ヶ里遺跡まで来てしまいました。
最近のぼくにしてはよく走った方です。
 今夜のねぐらはそのへんの河原です。雨の心配もないし、いい風が吹いています。蚊もいないみたい。
 飯を作る前に発泡酒をぐい飲みしたら、ボンヤリしてしまいました。
 ようやく気を取り直して飯を炊きました。今夜の晩飯は牛丼です。最近暑い日が続くので、スタミナをつけようと思って。
 野菜も食わねばと思い、ブロッコリーに塩をかけて網焼きにしました。なかなか食えました。
 
 メールをチェックすると、何人かの読者から「誕生日おめでとう」とお祝いメールが入っていました。
 えー、この場を借りて御礼申し上げます。
 
 ここまで来ると福岡に近いですね。実は、前々から壱岐対馬に行きたいと思っていました。
 長崎県だから、長崎港から船が出ているのかと思っていたのですが、長崎についた時点で壱岐対馬行きの船は博多と呼子からしか出ていないことを知りました。呼子も通ったのにねえ。ろくに調べないからこういうことになるのです。
 ということで、久留米の後は博多に戻り、壱岐対馬に渡ることにしました。無駄やってんなあ。
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6月6日(木)晴 炎天下でヨシノガる  

 吉野ヶ里遺跡の隣の河原は、日の出までは涼しくて寝やすかったです。だだっ広いところなので、日の出が早く、じきに太陽からの直火が照ってきます。
 テントの窓を全開にして、ちゃんぽん麺を牛肉の残りやタマネギやブロッコリーと煮て、即席ラーメンの余りのスープで食べました。
 
 吉野ヶ里遺跡は、県と国土交通省が結託してばか広い公園に仕立てあげておりました。
 ゲート前のトイレわきの屋根の下でのんびり日記を打ち、充電し、ヒゲソリしたりして、ようやく中に入りました。なかなか炎天下に出て行く勇気がなかったのです。入場料400円。
 
 暑いです。客はほとんどいません。芝生の彼方でおじさんたちが工事しています。遺跡の復原工事がいまだに続いているようです。
 現在、いくつもの縦穴住居、いくつかの物見櫓、そして環濠の中心部には天守閣みたいな三階建ての高床式の建物が復原されておりました。
 柱の数や太さ、間隔は正確なんでしょうが、高さは研究者の想像にすぎないわけですよね。
 二階や三階に手摺りなんて本当にあったんでしょうかねえ。少なくとも、あってもおかしくないということなのでしょう。
 弥生時代って、けっこうすごいな、という印象は持てました。
首なし死体にドッキリ
首なし死体にドッキリ

 しかし、天下の吉野ヶ里遺跡とは言っても、竪穴式住居なんてのは、見物しててもおよそ面白いものではありません。日本中どこにでもあるし、薄暗いし、かび臭いし、殺風景だし、カマドウマの大群が繁殖してそうだし。
 ところどころボランティアガイドの人達がいるのですが、暑さのせいで彼らに何か質問をふっかけようという気にもなりませんでした。
 出土品が展示されている展示室はエアコンがしっかり効いており、ビデオを観ながら寝てしまいました。
 
吉野ヶ里を見た最終的な感想としては、
「もっと派手な別の遺跡が早く発掘されないかなあ」
です。そうなれば観光客が減って、今の復原工事なんて即刻中止になるでしょう。
 歴史公園なんて早く遺跡になっちゃえ。
 昼飯はクリームパンと煮えバナナ。炎天下にビニール袋に入れて自転車に吊るしておいたら、バナナがほくほくになっておりました。
 
 帽子を水で濡らし、Tシャツにも軽く水を打って、久留米市向けて出発。久留米市での見物目標は、水天宮と高良大社です。
 水天宮は筑後川のすぐほとりにありました。
 この神社の由来を申しますと、源平合戦で生き残った平家方の官女、伊勢という人がこの地まで逃れてきて、尼となって千代と名乗り、安徳天皇や平家一族をお祭りしたのが最初だそうです。
 ただしこの神社の祭神については、筑後川の水神様を祭っているのだとか、中国から渡ってきた河童の大将、九千坊を祭っているのだとか、いろいろ言われているのです。
 源氏に追い詰められた平家一党は筑後川に身を投げ、その怨霊が河童になったという伝説もあるそうですから、いろいろと奥が深い。
 また、水天宮の神様(=筑後川:二位尼)は庄前大明神(=巨瀬川:平清盛)と夫婦で、二人が筑後川で出会うとき川が氾濫するという伝説もあるそうです。
 千代さんは加持祈祷をして評判を集め、尼御前と呼ばれて118歳まで長生きしたそうです。
こうしたウンチクは旅の前に「日本の神々 九州編(谷川健一監修)」で仕入れたのですが、それによれば、
 
 千代尼が長命であること、水天宮の神紋が椿であることなどから、彼女は八百比丘尼の流れを汲むものかと思われる。
 伝説では、八百比丘尼は源平の興亡を目の当たりしたという。
 このことから筑後川流域で水神を祭り、源平の興亡を物語った巫女の集団がいたのではないかと推測されている。
 
とのことです。
すいませんねえ、マニアな話題で。
 実際に訪れた水天宮は、門前に土産物屋が軒を並べるわけでもなく、意外とこぢんまりした神社でした。
 お守り授与所には誰もおらず、ぼくがお札を品定めしていると社務所から巫女さんが走ってきました。
 「五文字の神符」というやつを買いました。これは、正体不明の文字らしきものが版木で押されているお札で、水難除けの護符だそうです。
これは千代尼が夢の中で、千年川(ちとせがわ:筑後川の古名)の川底にある水天宮に行き、安徳天皇に会って貰ってきたものだそうです。
 
 水天宮でしばし涼んだ後、近くのJR久留米駅で市内マップを入手しました。
 久留米での二つ目の目的地、高良大社に行くという手もあったのですが、暑くてバテ気味だったので、百年公園という公園の水道で洗濯して夕方をすごしました。
 佐世保で洗濯して以来だから、短パンなどはかなり薄汚れていたのです。ウエストバッグも洗ったらきれいになりました。
 帽子を洗ったらボロボロになりました。ボロボロの帽子を糸で縫って被ったりすれば、木枯らし紋次郎の道中合羽みたいでかっこいいかなとも思ったのですが、あんまりみすぼらしいのは嫌なので、近いうちに新しいのを買います。
 
 雀も暑いと見えて、洗濯後の水道の水たまりにチョンチョン飛んできては、水を飲んでいます。
 
 近くのスーパーで買い物して、今夜は同公園にテントを建てました。
 晩飯は、ウナギのかば焼きの280円のを買ってきてごはんにのせました。ストーブの調子がまた悪くなって、ごはんが固くなってしまいました。
 
 あしたは高良大社に登って、その後福岡に向かいます。
 ここ数日、九州は30度を越える真夏日が続いています。梅雨はどうなったんでしょう。
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6月7日(金)晴 盲と娼婦の山に登る  

 朝飯はうどん二玉。シメジやタマネギ、牛肉の残りを入れて味噌仕立てです。
 最近ストーブの調子が悪く、何度もノズルを掃除しなければなりません。
 
 今日のメインは高良大社。
 高良大社なんて、地元の人以外にはマイナーな神社でしょうが、明治の廃仏毀釈以前は、26ヶ寺360坊を誇る一大霊地だったそうです。
 最近よく引用する「日本の神々 九州編」で読んだのですが、高良山の26ヶ寺の一つ、永勝寺という寺は、九州における琵琶法師の元締で、都を離れた蝉丸が住んだ場所として彼にまつわる伝承が多いのだそうです。
 蝉丸はかなりの色男だったようで、彼を慕って女房衆が高良山にも押し寄せたのだとか。その後蝉丸が都に戻ってしまうと、残された女房衆は高良山で売春をするようになったと、『高良記』という書物に書かれているそうです。
 かつてのこのあたりは、盲僧と下級巫覡の溜まり場だったことが想像される、と『日本の神々』に書かれておりました。
 こういうのを読んでしまうと、なんか面白そう、と興味が湧いてしまいます。
 
 高良大社は百年公園から20分ぐらいのところ、高速道路をくぐった先に参道があり、途中で自転車を停めて長い階段を登ることになりました。
 参道というより山道というべきな、雑な石段の登り道がどこまでも続いています。
 盲の琵琶法師とか、半聖半俗の売春巫女だとか、そうした怪しい雰囲気はありません。
 永勝寺なんて寺も見当たらなかったので、おそらくもうなくなってしまったのでしょう。
 売春婦の歴史があるということなら、門前町に風俗店があるかと思いましたが、そんなものはなく、門前は小学校となっていました。
かつて座主がいた寺の跡
かつて座主がいた寺の跡

 360坊の名残は、ときどき参道脇に「ナントカ院跡」という立て札を見かける程度です。
 高良神社はもう一つ、神籠石(こうごいし)というなぞの石垣があることで、知っている人に知られています。
 本殿の裏から1mほどの大きさの石がぐるりと巡らされていて、露出部分1,517m、推定全長2,500m。
おそらくは昔の山城跡だろうといわれていますが、これについては次のような伝説もあります。
 
 昔、高良山は高牟礼山といい、山上には高牟礼権現という地主神が鎮座していました。
 そこへ高良の神がやってきて、一夜の宿を借りました。
 しかし高良の神は一夜にして神籠石を築いて結界を張ってしまい、高牟礼権現は追い出されてしまいました。
 
 ということで哀れな地主神は、現在参道のふもとに高樹神社(祭神:高皇産霊神タカミムスビノカミ)として祀られていました。
 そのほかにも神籠石には次のような伝説もあります。
 
 昔このあたりには多くの鬼が住み、村人を苦しめていました。
 そこで武内宿禰が鬼たちを高良山に集め、一番鶏が鳴くまでに大岩で高良山を囲んでみろと命じました。
 鬼たちが一夜で石垣を完成しそうになったので、宿禰は白い鶏となって鳴き、朝が来たと思った鬼たちは一目散に逃げていきました。
 そのときの石が神籠石だというのです。
 
「昔△△と××が賭けをして、一夜にして××が〇〇しそうになったので、△△が計略をもちいて鶏を鳴かせると、朝が来たと思った××は驚いて逃げて行った」
このパターンの伝説は多いですねえ。どういう意味があるんですかねえ。
 で、その問題の神籠石ですが、立て札が立ってるあたりを見ても、どれが石垣なのかよくわかりませんでした。おそまつ。
 
 参道沿いには他にもいろんなものがあって、神功皇后が背くらべした「背比べ石」(高さ約120p)、高良の神が乗った馬の蹄の残る「蹄石」、表面が黄色く突然変異した竹「金明竹」などがありました。
「黄檗山金明竹ずん胴の花活け…」
で有名(?)な金明竹を見たのは初めてでした。
 かつて高良山がお寺だったころの座主がいたという御井寺跡は、山門が残っているだけで、山門の板の破れ目から中を覗くと草に覆われた参道と石垣が見えました。栄枯盛衰。
 
 ようやく本殿に着くと、正面にでっかい茅の輪が飾られていました。早くも夏越しの祓いの季節ですか。一応茅の輪をくぐって、本殿にお参りしました。
 宝物館は閉まっていましたが、お守り売り場の神職さんに言ったら鍵を開けてくれました。
「あの、お金は?」
「いえ、いただいておりませんので」
なんと太っ腹な神社でしょう。
 中身は、武内宿禰の神像やら神鏡などがありました。高良大社の祭神は高良玉垂命というのですが、どうやら武内宿禰と同一視されてるみたいですね。
 それと、古い平家物語の本がありましたが、これは琵琶法師が使っていたものでしょうか。
 ぼくが見物を終えるまで、神職の兄ちゃんは入り口のところで待っていてくれました。ありがたや。
 
 展望所でコーラを飲みながら筑紫平野を眺めた後、奥の院まで足を延ばしました。
 きれいな水が湧いていて、ボトルを持ってくればよかったと思いました。
 
 そんなわけで高良大社を終え、壱岐対馬に渡るべく博多を目指しました。
 太宰府を通過し、大野城市に入ってスーパーで買い物をし、自転車に戻って乗ろうとした午後6時過ぎ。
「ぱんっ」
と音がして後輪のタイヤがぺしゃんこになりました。
 ほんと、パンクってのは思いもしないところでおきますね。いままでひどい砂利道やガラスの飛び散る側道を走ってきてもなんともなかったのに。
 幸い、すぐ近くの公園で寝ようと当たりをつけていたので、そこまで自転車を引いて行って修理にとりかかりました。
 今回の旅では、スペアのタイヤチューブと最低限の工具を持ってきているのです。チューブを交換し、タイヤを探ってみると、錆びた安全ピンが深々と突き刺さっていました。
 後輪のネジ締めなどの作業が残っていたのですが、暗くなってしまったので途中で切り上げ、テントを建てました。
 
 今夜の晩飯はステーキです。オーストラリア牛肉が100グラム98円で売っていたので。
 もう暗くなったというのに、公園では若い母親が子供を連れて遊んでいます。夕食後の夕涼みに来てるならいいのですが、ぼくが公園に来た時すでにいましたから、ずいぶん長い間公園にいることになります。
 ラジオでは、足立区で中国人の子供の誘拐事件が鳴っていました。親が忙しくて、子供はいつもスーパーの遊戯場で遊んでいたそうな。
 公園を観察すると、いろんなものが見えてきそうです。
 住民にとっては、ぼくが一番観察し甲斐のある対象なのでしょうが。
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6月8日(土)晴 パンク修理にウンザリ  

 夜はメッシュのカバー一枚残してテントの窓を全開にして寝たのですが、外からパンツ一枚のぼくの姿が見えちゃったかしら。気にしてなんかいらんねえぜい。
 朝飯はラーメン。またストーブの調子が悪くて、朝飯にありつくのにずいぶん時間がかかってしまいました。
 ニンジンを切っていると通りかかったおばさんが
「御馳走ができますか」
と冷やかしてくれました。
 公園の隣の広場では、高校生らしき若者たちがサッカーをやっています。
 あちらの木陰では、若者が二人、朝から昼寝しています。
 そちらでは、お父さんが泣き叫ぶ女の子を叱咤しながら自転車を教えています。
 で、こちらの黄色いテントでは、浅黒い顔の男が必死でストーブをいじくっているのです。
 なんとか晩飯を食い終わり、テントを畳んで今度は自転車修理の続き。
 パンクはもう直ったのですが、一度外した後輪を真っすぐ取り付けるのに苦労してしまったのです。 試しに走ってみると、すぐ軸がずれて後輪がフレームに接触したり。
 なんとかなったと思って博多目指して走っていたら、30分もしないうちに交差点の真ん中で再び後輪がずれました。
あわてて自転車を引きずりながら歩道に走り、街路樹の下で自転車を引っ繰り返し、調整し直し。疲れました。
 
 懐かしい博多駅前で生活費一万円を下ろしました。ぼくはいつも一万円ずつ下ろします。
前回下ろしたのは長崎を出た時ですから、一万円でちょうど一週間もった計算です。
 午後1時、博多港のターミナルに到着。初めて知ったんですが、対馬行きのフェリーって少ないですねえ。
一日に二本しかない。それも、次の便の出発は夜です。
一方、壱岐への便はそれよりも多く、1時55分発の便があったので、それに乗って先に壱岐に行くことにしました。
 壱岐では明日、島内一周のサイクリング大会があるとかで、色とりどりのロードレーサータイプの自転車を引いた人達がフェリーを待っていました。
 フェリー料金は2960円+自転車600円。食費抑えてても、こういうところでどんどん金が出てくんだよなあ。
 
 大学や社会人のサイクリングクラブや、自転車好きなファミリーなどで、二等客室は混んでいました。
 空いたスペースはテレビの下しかありませんでした。靴下が臭いので、周りに気を使って靴下を脱いだのですが、よけい臭かったかも。
 壱岐までは日記を打ったり、うたた寝したりして過ごしました。甲板に出たかったのですが、混んでいてめんどくさかったのでやめました。
 ぼくの位置はテレビの下。みんなの視線を浴びる位置です。うたた寝したときよだれ垂らしたのを見られちゃったかも。
 
 夕方4時過ぎ。壱岐の芦辺港に着いてフェリーから降りたのですが、さて何をどうすればいいのかわかりません。
 壱岐については予備知識もあまりなくて、これといって行きたい目的地もないのです。
 とりあえず、近くのダイエーで晩飯の食材を買って、看板を頼りに壱岐神社にお参りしました。
 壱岐は元寇でモンゴル軍に占領された島ということで、少弐資時とかいう武将の墓や、元寇のときの日本軍の船の錨石なんぞがありました。
 神社を出て道を曲がろうとハンドルを切った時、妙な感触でハンドルが切れず、危うくコケそうになりました。前輪を見ると、ぺしゃんこになっています。
 こっちもパンクか!?と焦り、タイヤを調べてみましたが、どうやらバルブのゴムが疲労していて空気が抜けていたようでした。
 適当に応急処置して空気を入れ直すと、なんとか直りました。
 
 その後男岳という山に行きました。
 ここの男岳神社には猿の石像がたくさんあって面白いらしいのです。行ってみたのですが、猿の像はさほど多くありませんでした。
こんな格好で寝る牛いるか?
前足にご注目

 トイレの壁の説明書によると、この神社の祭神は猿田彦で、初めは牛の繁殖や安全を祈願して牛の像を奉納していたのが、やがて猿を奉納することが多くなった、とのことでした。
 確かに牛の像も多く、カタチとしてもなかなかケッサクな牛像がありました。なかなか不気味な顔付きです。座り方も変だし。特に前足。
 神社には展望台があって、山並と夕日が見えました。
こう見ると、壱岐ってけっこう広いじゃないですか。明日じゅうに対馬に行けるかな。
 
 今夜は神社参道入り口の公園に泊まります。芝生もあるし、コンセント付きのきれいなトイレもあるし、人も車も来ないし、意外と蚊も少ないので快適です。
 晩飯はボンカレー。キャベツとピーマンを刻んでサラダを添えました。

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