日本2/3周日記(長崎) 神話伝説の西九州・前編(長崎)

5月23日(木)曇のち晴 老いも若きも切支丹?  

 朝はカラスの鳴声がうるさかったです。
 朝飯はスパゲティ。ニンジン、キャベツ、イワシトマト煮缶詰(百円)を入れて炒めました。
 スパゲティができあがって、さあ食おうという時に、おじいさんが寄ってきました。
「ここは雨があたらんでよかとね。兄さんは遠方かね。長野?わしは行ったことないバッテン、東京の隣のへんかね。何地方になるんだ。中国地方?」
「いえ、中部地方です」
「長野は内陸だから夏は暑くて冬寒かとね。ここらは雪は滅多に降らんバッテン、降っても積もることはないバッテン」
こう書いてはおりますが、実際はかなり訛りが強くて、バッテン以外はなんだかよく聞き取れていないのでした。
「ワシの方言きつくて聞きづらかろ。ここの方言は熊本の方言によく似とるバッテン、長崎の方とはまた少し違うバッテン」
あと他におじいさんが話してくれたのは、この辺の人間は皆小さなころから海で泳いで遊んでいるから、戦争中はビルマでメコン川を渡る斥候をさせられる人が多かったとか、ワシは百姓の出だけれども、漁村の人達は海賊の末裔だから気が荒くて、口論になるとすぐ手が出るから気をつけろだとか、いろいろでした。
 
「これからワシらシルバーで草刈りやってうるさくするけど、あんたはゆっくりしとってや」
「どうもすいません」
にこやかにおじいさんにあいづちを打っていましたが、内心は
「スパゲティが伸びるじゃないか!」
と気が気ではありませんでした。
少し冷めましたが、スパゲティの味はまあまあでした。
 
 飯を食い終わってテントを畳むとき、テントポールの差し込み口から大きいのが一匹、シートの下からちっちゃいのが一匹、ムカデが出てきました。ちょっとびっくりしました。
 亀岡城のふもとの観光協会でパンフレットを入手し、日記を打ちました。
 
 一通りのことを済ませて、まず向かったのはザビエル記念聖堂。
 平戸は昔からキリスト教が盛んな地域で、江戸時代は隠れキリシタン、明治以降はカトリック教徒が多いらしいです。
 ザビエル記念聖堂は平戸の中心街を見下ろす高台にあり、屋根の尖ったゴシック様式で、高砂殿かと見紛うばかりのオシャレさでした。
 本格的な教会を間近に見るのは、ぼくにとってたぶん初めての経験かもしれません。
 昭和六年建設とのことなのですが、しっかりした鉄筋コンクリート建のうえに、外装のペンキも塗りたてで、あまり味わいというものは感じませんでした。
 
 観光客でも聖堂の中に入れるらしいのですが、信者でないぼくとしては、ちょっと怖くて入れませんでした。
 
 土産屋が並ぶ平戸の商店街を通り抜け、左回りで平戸島一周に旅立ちました。
この島は意外と高い山がいくつも生えていて、上り下りが多く平坦な道が少ないのが特徴です。
 ここも棚田がたくさんあって、のどかな景色です。
 空は白っぽい薄雲が残っていますが、日差しもあってかなり暑いです。途中寄ったファミリーマートで牛乳1リットルをがぶ飲みしながら走りました。
 
 午後、立ち寄ったのは根獅子(ねしこ)という地区にある「切支丹資料館」。
 平戸は隠れキリシタンが今もなお信仰を保ち続けている数少ない地域らしいです。
聖地「おろくにんさま」
聖地「おろくにんさま」

 豊臣秀吉から江戸時代にかけて、このあたりではかなり厳しい弾圧があったそうで、資料館の裏にある殉教者の墓の「おろくにんさま」と呼ばれる聖地には、いまでも信者が裸足参りをしているそうです。
 資料館は200円でした。
 展示のボリュームは少なめでしたが、隠れ切支丹が納戸の柱の中に隠して祀っていたマリア像(見た目は観音様)とか、オラショ(祭文)とか、怪しげなものがあってなかなかでした。
 
 初めて知ったのですが、正確には「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」とは違うのだそうです。
前者はキリシタン禁制時代に隠れて信仰を続けていたキリシタン、後者は信教の自由が保証される時代になっても、本来のキリスト教に戻らず、独特の信仰形態を保ち続けたキリシタンのことだそうです。
 長い潜伏時代を経るうちに、本来のキリスト教が忘れられ、かなり和風な独特の宗教に変わって行く様はかなり興味深い。
 例えばオテンペシャという祭具は、本来苦行のときに使う鞭だったのが、やがて神道の幣束のように穢れを祓う道具になったとか。
 まあ、キリスト教も仏教も神道も、骨組みは共通するところが多い訳ですから、どうとでも変換可能なのでしょう。
 キリスト教で「罪」と呼ぶところを、仏教的には「煩悩」、神道的には「穢れ」と言い換えればいいのですから。
 オラショなんて意味不明で不気味で最高です。
デヤアーメン様 
デヤアーメン様ノパッパパプロ様ノオン上ニハ ナニゴトモゴザリマツセンヨーニ
五デヤアーメン様ノパッパプロ様ノオン上ニハ御無事ニアリマスヨーニ
ホンタヤタヤキリスタン広ガリ申スヨーニ
ラキツヤヲンテラコトワレノクワンニンタリ
トモニトモニニツルルベシナリアーメン
「パッパパプロ様」って誰?「ニツルルベシナリ」って何?わかりませんねー。
 でも実際、風前のともしびと言いながらも、こうした祭文を唱えてお祈りしている隠れキリシタンさんがここにはまだ住んでるわけですから、びっくりです。
 彼らは今でも納戸の奥にマリア像を隠して、人目につかないようにお祈りしているのでしょうか。隠す理由が無くなった現在でも、「先祖代々隠してきたから」という理由で隠し続けているのでしょうか。
 孤島に取り残され、独自の進化を遂げた末に元の同類と交われなくなって、生態系から浮いたまま滅んでいく珍獣みたいだ。
 
 すげえ所だなあと思いながら資料館を出て、根獅子の集落を通り抜けて見ると、ここではおばあさんたちがまだショイコを使っていました。
あのおばあさんも隠れキリシタンなんだろうか、あそこで遊んでる子供も毎日納戸のデウス様を拝んでいるのだろうか。
「あなた、隠れキリシタンですか?」
と尋ねても、隠れキリシタンなんだから「はいそうですよ」とは答えないんだろうな。
こういうすごい場所なんだから、きっと秋には「切支丹フェスティバル2002」かなんか開いて、「踏み絵選手権」とかやってるんだろうな。ぜひやってほしいな。
 
 夕方、津吉という地区でスーパーに寄り、鳥肉が安かったので晩のおかずはそれにしました。
 6時ころ、志々伎とかいう地区に入ると、きれいなトイレ付きの公園がありました。
 少し早いけどここでテントを建てようか、それとも島の先端の宮の浦がもう少しだから、そっちまで行っちゃおうか。
 迷っていると、白い服を着た近所のおっさんがやってきました。
「旅行かね。今日はここで泊まるのかい」
と訊いてくるので、ついつい
「そうしようかなと」
と答えてしまい、ここで寝ることになりました。
 テントを建てながらおっさんと話をしていると、犬を連れた別のおっさんが通りかかりました。
白衣のおっさんが言いました。
「駐在さんだよ」
見れば、公園のすぐとなりに駐在所があります。
(ちっ、めんどくせーな)
と思いながらも、
ぼく「どーも、今夜ここでお世話になります」
白衣さん「(駐在さんに)けっこうこの公園で泊まってく旅行者多いんですよ」
駐在さん「(白衣さんに)ここの管理は誰になってるの?」
白衣さん「管理する人はいないんですよ。うちが近いから、たまに草取りなんかしてますけど」
駐在さん「(ぼくに)免許か何か持ってる?」
ぼく「ありますよ」
駐在さん「じゃあ後で見せてもらうから」
 
 やれやれ、早い時間にテントを建てるとろくなことがないなあ。
 駐在さんが去って行った後、白衣さんはしばらくいて、
「こういうところ来たら釣りやんなきゃもったいないぞ。東京からわざわざ金出して釣りに来るのも多いんだから。この前なんかキスのこんなでかいやつ釣ってった人もいたぞー」
などと話してくれました。
 釣りねえ。興味ない訳じゃないんだけど。
 白衣さんが去り、駐在さんが入れ替わりに戻って来ました。免許を出すと、住所氏名をメモしております。
「イマイ…これなんて読むの」
「アキラです」
「へえ長野県。いつ出て来たの」
「3月17日」
「わたしも君の出発の一週間後にここの駐在に来たんだよ。今日は平日だから柄の悪い奴らも来ないとは思うけど、このへんの田舎はよそ者には警戒心強いからね。何か言われたら『駐在所に届けてあります』って言えば、六割くらいは問題ないから」
別に警察に頼るつもりはないけど、何だその6割ってのは。頼り甲斐がねーな。

 駐在さんが去った後、次にやって来たのは兄弟らしき小学生の男の子二人。
弟「あ、何あれー。テント?」
ぼく「そーだよ」
兄「わかった。日本一周でしょ」
ぼく「そう、それそれ」
弟「ここまでどうやって来たん?」
ぼく「この自転車だよ」
兄「あ、それ俺の自転車と似てる。でもバネがないや」
ぼく「普通の安物だからね」
見れば、彼の乗っている自転車はサドルの下に太いサスペンションがついた、最近はやりのごっついMTBです。
兄「ここ、なんて場所だか知ってる?」
ぼく「ええと」
兄「志々伎、シジキっていうんだよ」
弟「食べ物どうしてるん?」
ぼく「スーパーで肉や野菜買ってね、コンロで料理してるんだよ」
兄「お母さんはどうしてるん?」
ぼく「お母さん…?」
兄「ああ、まだ結婚してないんか」
ぼく「(ひきつった笑顔で)そうだよ」
弟「このテント、入口がないよ」
ぼく「ここのチャックを開けるんだよ。ほら」
兄「前もここで泊まってった人いたよ。バイクで日本一周するんだって」
弟「明日は何時ころ出るん?」
ぼく「10時ころかな」
弟「じゃあオレらいないや。学校だもん」
ぼく「そーだね(お前らに見送ってもらいたかないわ!)」
兄「(食べていた氷菓子を差し出して)これ食べます?」
ぼく「いいよいいよ」
兄「頑張ってくださいねー」
ぼく「ありがと。気をつけてね」
 
 ふう、子供の相手は疲れる。礼儀正しくてひとなつっこいんだけど、小学生に励まされると、なんか悔しい。
 
 やはりテントを建てるのは日没後、ひとけがなくなってからに限ります。
 しかし、日が長いなー。7時過ぎても明るいんだもん。
 
 晩飯は、鳥肉を茹でて裂いて、キャベツの千切りといっしょにご飯の上にのっけて、この前のバンバンジーみたいにして食いました。
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5月24日(金)晴 平戸の子供はなぜ元気  

 いい天気でした。今日は紫外線が強いそうです。
焼けまくりのぼくは、皮膚ガンで死ぬかな。
 
 朝飯は、野菜と鳥肉の残りを煮てラーメンにしようと思ったのですが、煮てる最中に燃料が出なくなりました。かなり灯油が減っていたので、そのせいでしょう。
 加熱しかけの野菜と肉をビニールに入れて、ぶら下げて走ることにしました。
 昼頃までに食えば、まだ大丈夫だろ。
 
 日当たりのいい場所なので、いつまでもテントの中にいると茹で上がってしまいます。早々に9時ころ出発することにしました。
出掛けに駐在所へ挨拶に顔出しした方がいいかなとも思いましたが、面倒臭かったのでやめました。
 
電波状態の悪いNHKラジオを聞きながら走ったのですが、古今亭志ん五が出ていて
「志ん生、志ん朝、そしてわたし」
というずうずうしいタイトルでアナウンサーと対談しておりました。
アナウンサーに
「あの与太郎はいつ頃から始めたんですか」
と質問されていました。
 
 平戸の先端は宮の浦という港で、港の真ん中に沖津宮という小さな神社があるのがその名の由来のようでした。日本最西端の漁港なのだそうです。
 炎天下で港のスケッチをし、来た道を戻りました。
 
 坂がたくさんあってしんどいですが、天気がいいので海の青や山の緑も色濃く、風景的には最高です。この辺は土の色が赤いので、田植えしたてのたんぼの赤と、海の青、そして山の緑がしっかりとコントラストになっています。
 
 平戸大橋に戻るため、今日は島の東側を走ります。
前津吉という地区で灯油を補充し、道端の木陰でラーメンを作って食いました。足元には蟻がたくさん寄って来て、蚊にも1〜2カ所食われました。
 
 昨日の切支丹資料館ほどパンチのあるものはありませんでしたが、今日は教会を二つほど見物しました。どちらも昨日見たザビエル記念聖堂みたいに塗装が新しかったので、あまり重みを感じませんでした。
 どこかに教会の廃墟がないかなあ。
 
鄭成功の像
鄭成功の像

 その他に寄ったのは、鄭成功廟。
中国の海賊と日本女性の間に生まれ、清朝打倒、明朝復興をかかげて乱を起こし、戦に敗れて台湾に逃れ、オランダ人を追い出して国を作ってしまった人ですね。高校のころ習いました。
 平戸はその鄭成功の出身地だそうで、彼が生まれた場所やら育った家の跡やら、遺徳を称える廟には鄭成功の像があったりするわけです。
 廟は派手ハデな中華風で、近くにある展望台やトイレもとりあえず同じ派手ハデ色に塗られていたのが滑稽でした。
 
 平戸での印象は、子供が多くて元気なこと。
 見た目今にも滅びそうな集落でも、しっかりと学校があって下校途中の子供たちとすれ違います。
 木陰にランドセルを放り投げて、元気に遊びほうけている姿も見かけます。
 小学生は、ぼくみたいな怪しい日本一周男を見ると、まじまじと視線を向けてくるので怖いです。目が合っても全然物おじしません。
ある小学生の一団は、ぼくとすれちがいざま、ぼくに向かって
「二人乗り禁止ー!」
「キャハハハハ」
と叫んでおりましたが、どういう意味なのか全然わかりません。
 これが中学生になると、視線を合わせないまま
「こんにちはー」
と挨拶して通り過ぎるようになり、高校生になると声も視線もかけなくなります。
 で、年寄りになると、今度は門前の木陰に座り込んだまま、猫みたいにじーっとぼくを観察するようになるのです。
 
 今夜は平戸市街に戻ろうかとも思いましたが、まだ明るいし同じ場所で寝るのは嫌だったので、一気に平戸大橋を渡り九州本土に戻りました。
 
なにが「オランダ街道」なのかわかりませんが、そう名付けられているらしい国道204号を長崎に向かって走りました。
 江迎町に入ってスーパーにより、300gのステーキ肉が500円で売っていたので、今日はステーキにすることに決めました。
 
 ねぐらは、神社の下の集会所の裏。集会所が車道の騒音を和らげてくれます。
 テントのファスナーから腕だけ出してストーブとコッヘルを操り、飯を作りました。
 ステーキは、塩コショウ振って網で焼くだけなので簡単です。生焼けでも「レア」ってことで自分に言い訳できるし。
 中身の少なくなったおろしニンニクのビンに醤油とポン酢を入れ、ガシャガシャ振ってソースとし、ご飯にのっけたステーキにぶっかけました。
 ふふ、うまかった。腹一杯。
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5月25日(土)晴 赤飯作りに鉢合わせ  

 真夜中、車のライトと話し声で目が覚めました。
夢うつつの耳に、
「ちょっと待ってて。今開ける」
という声と、ガラガラという音が聞こえて来ました。
 ぼくがテントを建てている集会所に明かりが付いて、人が出入りし始めたのです。
 時刻を見ると午前2時半。な、なんでこんな丑三つ時に人が来るんだ、と面食らいました。
 裏手に怪しいテントがあることを知ってか知らずか、人々は水道からじゃあじゃあ水を汲んだり、話したりしています。
やっぱ挨拶した方がいいよなあ、と、ぼくは寝ぼけナマコでテントを出て、集会所の庭の方に行ってみました。
 そこではおばさんが
「ふんふんふ〜ん」
と鼻歌を歌いながら、何やらカマドを二つ据えて、釜に湯を沸かしていました。
「ども、こんばんは」
「わあっ。びっくりした」
おばさんはびっくりした様子でした。そりゃそうかも。
「すいません、自転車旅行の途中でこの裏にテント張らせてもらってます」
「ああそうかな。いいよ、ゆっくり寝ててくんな。これから人がたくさん来るから、うるさくて寝れんかもしれんけど」
「今夜は何なんですか?」
「あしたの白岳祭りで赤飯でも売ろうかと思ってねえ」
なるほど、釜でお湯を沸かしてるのは、赤飯を蒸すためか。
そういえば、昨日の昼間、江迎町の役場放送でナントカ祭りがあるって宣伝してた。でもまさか、こんな夜中から準備が始まるとはなー。
「大変ですねえ、こんな遅くから、というか早くから。じゃ、すいません、お邪魔はいたしませんので」
そう言ってぼくはテントに戻りました。
 どれほど賑やかくなるのかと思いましたが、耳栓したら気にせず寝られました。
 
 朝方、赤飯の支度も終わって時間が余ったと見えて、おばさんたちが賑やかに談笑する声が聞こえました。
 ここで朝飯の調理するのもなんなので、早々にテントを畳んで出ることに。畳んでるときにおばさんが
「どう、眠れましたか」
と声をかけてくれました。
「おかげさまで、ぐっすり」
「賑やかして眠れんかったと思うけど」
「いえいえ」
そのうちおばさんたちは大挙して祭り会場に向かったのでしょう、ぼくが出発するときには集会所はモヌケのカラとなっており、脇の神社にできたての赤飯が一皿お供えされておりました。
 その赤飯に10円玉を供え、
「どーも一晩お世話になりました」
と神様に挨拶して出発しました。
 
 通りすがりの駅のトイレで洗顔し、その先の川端の小屋でリュックの中身を虫干しして、飯(またラーメン)食って、日記を打ちました。
何日か前に買ったアミの塩辛がまだ残っています。あまり減らないのは塩辛いばかりであまりおいしくないからです。
 早く消費せんと腐ると思い、ラーメンの粉スープを減らして塩辛を味付けに入れてみました。ものすごく泡が出ましたが、まだ腐ってはいないようでした。
 
 のんびりしていたら2時過ぎてしまい、ようやく腰を上げて佐世保市入り。
 ちょうど山の上の方の民家が火事になっている最中で、もくもく煙が上がって炎も見えました。
 市の中央公園で一休みし、たまってた葉書を3枚ほど書き、市立図書館に寄って郷土資料コーナーを覗き、6時閉館で追い出された後佐世保市の観光案内所でパンフレットを物色しました。
 
 佐世保のこの付近には、九十九島とかいろいろ見所があるようです。佐世保市内の海上自衛隊史料館も面白そうです。
 今夜は市内に寝て、明日いろいろ観光することにしました。
 
 市内を走っていると、佐世保市市制百周年ということで、空き地でイベントをやっておりました。ステージでは知らぬ歌手が知らぬ歌を歌っていました。
米軍佐世保基地の門の前を通ると、仁王立ちの門番の兵隊さんの脇に、銀色に塗られた鳥居がなぜか立っていました。
鳥居の近くに書かれていた英文を読めばわけがわかるのかも知れませんが、門番さんの方をジロジロ見るのが怖かったのでそそくさと通過してしまいました。
 
 ウェルマートというスーパーで買物。イサキとかいう魚の切り身が百円で売っていたので、それを買いました。
 
 ねぐらは先程の中央公園。近くのトイレにはコンセントもあります。
 蚊の襲来がすごく、足を七〜八カ所は食われたのではないでしょうか。そろそろ蚊取り線香を買わねば、血が無くなってしまう。
 
 晩飯は、キャベツとピーマンとイサキのスパゲティ。ポン酢を買って以来、スパゲティの味が締まって美味です。イサキは癖がなく、スパゲティに混ぜて炒めても問題ありませんでした。
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5月26日(日)晴 どっぷり海自史料館  

 最近、朝は日が照って暑くてかないません。
 今朝は日が昇るにつれて木陰になったので、なんとかラーメン作ってテントの中で食いました。それでも汗だくになりました。
 トイレで充電しておいたバッテリーも満タン。天気がいいので短パンやシャツを洗濯しました。
 トイレの前で洗濯物を干しながら日記を打っていると、片手に紙切れを持った人達が
「この辺だと思うんだけど」
と言いながらちょくちょくぼくの近くにやってきます。
 どうやら公園の中でウォークラリーが開かれていて、ぼくのいるあたりがチェックポイントになっているようでした。
 どいたほうがいいかなと思いながらも、そのまま洗濯パンツをはためかせながらのんびりしてしまいました。
 
 いつの間にか腹が減って来て、時間を見たらもう昼でした。食パンをかじってから、ぼちぼち腰を上げました。
 
 今日行ったのは海上自衛隊史料館。軍港佐世保に来たからには、それっぽいところに行ってみたいなと思って。
 玄関に入ると、銭形警部に似たでかい声のおじさんが
「見学かい。こっちで名前書いて」
と迎えてくれました。ここは、入館料が無料の代わりに住所氏名を書かなければならないようです。
 銭形おじさんが
「自衛隊かね」
「いえ、一般です」
ぼくが自衛隊員に見えるかな。自衛隊員に見えない自衛隊員もいるだろうけど。
「ほう、長野県。さっきも長野県の団体さんがいたぞ」
おじさんは声がでかい上になれなれしく、肩をたたいたりしてきます。これが海上自衛隊の社風(隊風?)なのでしょうか。
「見学は7階からだから。エレベーターに乗ってね」
「はい」
フロアに入ると、売店があって自衛隊の帽子とか「海軍さんのカレー」などが売っていました。
 
 まず、最上階の映像ホールで海上自衛隊宣伝ビデオ「波とうを越えて」を見ます。その後江戸末期から現代までの、海軍および海上自衛隊の歴史を学ぶ展示があるのです。
 ひととおり見学すれば、あなたもすっかり戦争マニア。日露戦争でのバルチック艦隊との戦いや、太平洋戦争での多くの海戦などが映像などで詳しく紹介されています。
 どの映像も
「ジャンジャン、ジャンジャジャジャン!」
みたいなカッコいい音楽がバックで流れているので、思わず好戦的な愛国心をくすぐられてしまいます。
 東郷平八郎や山本五十六などはかなり英雄的な紹介がされていて、自衛隊の史観が窺えました。
 毒ガス資料館や原爆資料館と比べると、太平洋戦争に対する意識も違います。その違いは、「悲惨さ」と「無念さ」の違いのように思います。
 現在の海上自衛隊が装備している兵器なんかもかなり詳しく、小学生の男の子をお持ちのお父さんなら、家族サービスにうってつけです。
資料室には、『高松宮日記』全巻から、軍艦や戦闘機の雑誌、はては戦争シュミレーション小説みたいなものまでずらりと揃っておりました。でもなぜ『沈黙の艦隊』が置いてないんだろ。
 そんなわけで、5時の閉館まですっかり入り浸ってしまいました。
 
外に出ると、まだ暑い。
 次に九十九島の眺望が最高という「海展峰」という展望台に行きました。
 ヒイコラ言いながら坂を上りましたが、着いた先はカップルの溜まり場で、とても堪りませんでした。
 西日の直射を受け、若い男女の笑い声を聞きながら、絵葉書を描きました。
 
九十九島に沈む夕日
九十九島に沈む夕日

 山から下って国道に戻る途中、でっかい夕日が九十九島の彼方に沈むところが目に入りました。
すかさず見晴らしのよいお寺の境内に自転車を停め、写真を撮っていると、境内で一輪車をいじくっていたおばちゃんが声をかけてきました。
「すまんけど、もし空気ポンプ持っとったらタイヤに空気入れてもらえませんかの」(方言が間違ってるなー)
 む、このおばさん、ぼくが空気入れ持ってると一瞬で見抜くとは、なかなかやるな。
「いーですよ」
ぼくがポンプを取り出すと、お寺の住職さん夫婦らしき人達も覗き込んで、
「ほう、今じゃこんなに小さいポンプがあるのか」
「ぼくのタイヤはまだパンクもしてないんで、ほとんど使ってないんですけどね」
しゅこんしゅこんしゅこんと入れて、
「はあ疲れた。こんなもんでいいですかね」
「いいですいいです。ありがとう。いやー、うちの空気ポンプはその先っちょにつけるやつが無くなってしまって」
「ちょうどいいタイミングだったねえ。冷えてないけど、これでも飲んでください」
住職さんがタカラの「すりおろしリンゴ」のジュースをくれました。
「あ、ありがとうございます」
喜んで受け取り、お寺を出ると、ほんの10m
先のカーブを曲がったところに、もっと見晴らしのいい展望台がありました。
しまった、ここで写真を撮ればよかったのか、と思いましたが、もう夕日は沈んでいました。
 まあいいや。人助けもしたし、ジュースももらったし。あの空気、もう少しパンパンに入れてあげればよかったかな。
 
 明日は、九十九島のはしっこにある「黒島」という島に行きたいと思います。この島には、明治時代に建てられたかっこいい教会があるらしいのです。
 黒島行きのフェリーは相浦というところから出ているので、少し平戸方面に戻ることになりますが、まあいいや。
 
 スーパーに寄って、鮮魚コーナーを覗きましたが、なかなか料理しやすそうな魚がありません。
「さらしくじら」というのがありました。よくスーパーで見かけるもので、どうやら鯨の皮のスライスのようです。
 食べてみたいと思ったのですが、少し高めだったので、同じ鯨皮スライスの「塩くじら」というのを買ってみました。
 今夜は、つぶれたガソリンスタンドでテントを張りました。
 くじらは塩抜きして軽くゆがき、生姜醤油にポン酢を加えて食べてみました。
 あんまりおいしくありませんでした。というか、まずかったと言った方が早いです。脂っこくて、そのうえ生臭かったです。調理法が間違ってるかも知れませんが。
 まだ半分残っているのですが、どうしましょう。
 ほかに今夜のメニューは、ごはんとブロッコリーのスープ。酒は、伊万里の大麦焼酎のパックを買ってみました。
 大麦焼酎は、べつに大麦の香ばしさがあるわけではなく、ふつうの焼酎でした。
 ついに買った蚊取り線香を焚きました。テントの中で焚くと、目にしみます。夜は燻製、朝は蒸し風呂。
 テント暮らしはこれからさらに厳しくなるのでしょう。
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5月27日(月)晴 天主堂に密教を見る  

 快晴の日が続きます。
 今朝は、ガソリンスタンドの陰にテントを建てたおかげで蒸し風呂にならずにすみました。
 朝飯はビスケットとヨーグルト。
 
 8時40分ころ出発し、相浦の港には9時15分ころ着きました。
 黒島への運賃は、自転車手荷物料金(片道200円)を含めて、往復1600円くらいでした。
 10時の出発までの時間を、洗顔や充電に費やし、ぼちぼちフェリーに乗り込みました。フェリーの中にも客席にコンセントが付いていて、ラッキーでした。
 
 フェリーからの九十九島の眺めはどんなもんかと期待しておりましたが、それほど面白くはありませんでした。
 十一時ちょい前に黒島に到着。
 フェリーから下りて、さあどういうルートで走ろうかと地図を見ていると、警察のおじさんが寄ってきました。
「すいません、ちょっとお話、いいですか。…へえ、日本一周ですか。すごいな。なんでまたこんな黒島くんだりまで。いや、くんだりなんて言うと怒られるけど」
「かっこいい教会があるって言うんで、、見物しようと思って」
「ああ、黒島教会は今年で設立百周年だからねえ。…名前や住所、教えてもらえていいですかね」
「ええと、長野県」
「長崎県?」
「いえ、長野」
「へえ、そこから自転車で。すごいな」
と言いながら、おまわりさんは手帳についつい「長崎県」と書いてしまい、あわてて書き直しています。
「長野県のどこですか」
「飯田市ってとこなんですけど。ごはんの飯にたんぼの田」
おまわりさんは「食」まで書いたものの、「反」がなかなか思い出せないようだったので、ぼくは
「自分で書きましょうか」
と言って自分で番地まで書きました。
 気さくな感じでしたが、住所氏名、生年月日、旅の経緯を訊かれたってことはやっぱ職務質問なのでしょう。島に来る観光客はみなこのようにチェックを受けるのでしょうか。それともぼくの風体が怪しすぎたのか?
「この島は道狭いし、地元の車もけっこう飛ばすから気をつけてくださいね」
「はいどーも」
 
 黒島九十九島の一番外側にある島で、森が黒々と見えるからその名が付いたとも、潜伏キリシタンが多く「クルス(十字架)島」がその名の由来だとも言われているそうです。
 パンフレットなどによりますと、元治元年(1864)、まだキリスト教が禁じられていたころ、長崎に外国人向けの大浦天主堂ができた時、黒島の出口さん親子が長崎まで出向き、神父に対して信者であることを打ち明けたそうな。
 その後黒島の潜伏キリシタンは隠密裏にカトリック教徒になり(これを「復活」というそうな)、外国人神父も島にやってきて、出口さんの家で秘密のミサも行っていたそうな。
 現在でも島民の70%がカトリック教徒なのだそうですが、見た目はふつうのじいちゃんばあちゃん、おっさんおばさんです。そりゃそうだ。
 
黒島天主堂
黒島天主堂

 目当ての黒島天主堂は坂道を十五分ほど上った島の中心部にありました。
 百年前に、地元住民の寄付と労働奉仕で作られた教会で、平成10年に国の重文に指定されております。これまで平戸などで見てきた鉄筋コンクリートのペンキ塗り教会とは違い、正面は赤レンガ、側面は板壁、屋根は瓦葺きと、さすが重文だけあって貫禄があります。
 教会の中には観光客も自由に入れるらしいということだったので、勇気を出して中に入ってみることにしました。
 
 門は植木の十字架になっていて、その前でマリア像を修理していたおじさんが声をかけてきました。
「おう、兄ちゃん早かったな。フェリーで一緒だったろ」
「あ、そうでしたっけ」
せっかく声をかけてくれたんだからもっと愛想よくすればいいのに、教会の雰囲気に緊張していたのか、ぼくは素っ気なく答えただけで、教会の中に入ってしまいました。
 
HPに載せるのはいいよね?
天主堂内部

 中は人っ子一人おりませんでした。
 本物の教会の中に入ったのは、ぼくにとってこれが初めての経験ではないでしょうか。
 格好いいですね、さすがに。高い天井。ずらりと並んだ長椅子。真ん中の赤じゅうたん。ステンドグラス。
 正面の祭壇には色鮮やかな教会のミニチュアみたいなものがでんと据えられていて、正面の壁の高いところにナントカ聖人の人形がこちらを見下ろしています。
 磔のキリスト像が祭壇の向かって右側に飾られていて、これがまた超リアル。
 青白くやせた体、白目を向いて中空を見上げる顔。左胸の下には槍で刺された傷があり、真っ赤な血とともに臓器らしきものもはみ出ています。
 同じ死の場面でも、寝転がって腕枕してる釈迦の涅槃像といかに違うことか。
 こういう教祖のリアルな死を見せつけ、日常生活のあらゆることを「罪」と名付けて信者を縛ったうえで、「許し」と「愛」を与えて信者の信仰を強化して行くという、巧みな戦法なのでしょうか。
 ともかくも、見るものを圧倒する荘厳さは、さすが世界一の勢力を誇る宗教です。
 雰囲気的に、派手さという点では密教の祭壇にも似たものがあります。
 祭壇の中央に飾られてるあの教会のミニチュアなぞは、「神の住む宮殿」という意味でも立体曼陀羅そのものではありませんか。
 密教寺院と違うのは、お守りも売ってないし賽銭箱もないってことですかね。
 
 すげえなーと世界に浸っていると、後ろの入口から誰かが入ってきました。どうやら近所のおっさんのようでした。
「カトリックの方ですか」
「いえ、べつに信仰あるわけじゃないんですけど」
「どちらから」
「長野県ですけど」
「重文に指定されたんでね、遠くからもお客さんがいらっしゃいますよ。北海道とか埼玉とか。最近商業取材で無断で写真撮ってく人が多くてね、こうして見回りさせてもらってるんですよ。あなたは…?」
「いえ、そういうのじゃないですけど」
「記念写真ならともかく、フリーターの人や何かが写真撮って、観光雑誌に売り込んだりするんですよね」
「撮影禁止ってありましたけど、スナップ写真ならいいんですか」
「ええ、こういうところに行きましたってことで、何かに使ったりするんじゃなければね」
「そうですか。どーも、ご心配おかけしましてすいません」
おじさんは安心したのか、教会を出て行きました。
まあ、教会は地域住民の財産ですからね。神経質になるのもわかります。
 記念写真ならよいとのことだったので、それならとばしゃばしゃ撮りました。
 
 その後、例のリアルなキリスト像を絵葉書しました。これ送られた人、嫌がるかな。
 絵をかくために長椅子に座ってみて分かったのですが、机にけっこう落書きがあります。祭壇の正面の最前列の机に、ワンパターンなお下品な絵が描かれていたりします。
 まさか信者が神父の説教聞きながら描いたとは思えませんから、恐らく観光客でしょう。
 しかし、こんな絵を描くような種類の連中が、なぜわざわざこんな島の教会まで来るのかということが理解できません。修学旅行のガキどもでしょうか。
 
 外に出て、今度は外観を絵葉書にしました。暑くて、ペン先につけた墨汁がすぐ乾いて線が描けなくなって、苦労しました。
 さっき声をかけて来た職人さんが、神父さんらしき人と話をしていました。
「ここの像は新しいものでも30年は経ってますからねえ。いままで地元の人が手直ししたことはあっても、職人さんに直してもらったことはないんですよ」
「前のペンキをしっかり剥がしとかないと、上から塗ってもすぐ剥げちゃいますんでね。なに、二日もかければおわりますよ」
 
 ようやく絵を描き終わって時刻を見るともう2時半。帰りのフェリーは3時に出港です。
ほんとは「お告げのマリア修道会黒島修道院」なんかも見てみたかったのですが、暇がありませんでした。
 帰りのフェリーの中では、寝てしまいました。
 
 九州本土に着いたのは午後4時ちょい前。あとは長崎市目指して走ります。
 大村湾東岸の国道34号を行こうかと思っていましたが、さっさと西彼杵半島に渡ってしまうことにしました。
 橋を渡って西彼町に入り、今夜のねぐらは大村湾が見渡せる大西海公園です。ご飯を炊いて、おかずはサバ缶とサラダです。昨日のブロッコリーを半分残して炎天下を走っていたのですが、意外と全然腐っていませんでした。
 サラダを食っていると、口の中からストーブ点火用の芯が出てきました。灯油臭くて、嫌でした。
 蚊(ブヨ?)にくわれた股をぼりぼり掻きながら寝ました。
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5月28日(火)晴のち曇 お手ごろ価格の鍾乳洞  

 この公園は静かでよく眠れました。朝になっても散歩人も来ません。
 朝飯はキャベツラーメン。ゆうべスーパーのお総菜コーナーでピリ辛コンニャクを買ったのですが、晩飯に食べるのを忘れていたので、今朝慌てて食べました。
 ついつい焼酎も朝から飲んでしまいました。いつものことですが。
 東屋の陰で日記を打っていたら昼になってしまいました。いつものことですが。
 
西彼杵半島の西を回って長崎市に向かうことにしました。
 西海町を峠越えし、観光物産所の「みかんドーム」でアイスクリームを食べました(210円)。
甘夏アイスやトマトアイス、豆腐アイスなどいろいろ種類があったのですが、ぼくはその中で紫イモアイスを選びました。
 出てきたアイスは確かに紫色。食べてみるとほのかにサツマイモの味がします。
 サツマイモはキントンにするくらいですから、ペースト状になってアイスクリームにしやすいのかもしれません。味も、なかなか悪くないと思います。
 
 坂を下って、寄ったのは七ツ釜鍾乳洞。秋芳洞やムーバレーをくぐって以来、ぼくも洞窟づいてしまったかもしれません。
 この洞窟は昭和3年に発見され、同11年に国天然記念物に指定されたそうで、洞窟の入口には
「これを刻んで祀ったらこの地に百万の観光客を迎えてやろう」
と夢のお告げによって建てられたというお不動さんがデンと構えておりました。
 洞窟の入場料は500円。ムーバレーなんぞと比べるとずいぶん良心的です。
 
 洞内に足を踏み入れると、一気に気温が下がります。これまでくぐった洞窟と比べてずいぶん狭く、ところどころ腰を屈めてくぐらなければならないところもあります。
 その分いかにも地底探検という雰囲気で、ぼくは好きです。
 いろんなところで自己写真を撮ろうと思ったのですが、後ろからカップルが追いついて来たので、そそくさと抜けなければなりませんでした。通路が狭いので、すれちがう場所がほとんど無いのです。
 出口は人工的なトンネルで、二重の鉄扉を抜けて蒸し暑い外界に出ます。
 洞窟を出たところにちょっとした展示室があって、下手な絵に
「コキクガシラコゥモリ」
「コキクガシラコゥモリ」

「コキクガシラコゥモリ」
とか
「カマドゥマ」
などと変わった発音の名前が書いてありました。
 この洞窟内には、メクラチビゴミムシの一種、クボタメクラチビゴミムシが生息しているそうです。
きっと、久保田さんが発見したメクラでチビでゴミのような虫なのでしょう。
そんな虫を研究している久保田さんって、日本のGDPの増加にどれほど貢献しているのでしょうか。
七つ釜鍾乳洞探検
七つ釜鍾乳洞探検

 通路を歩いて行くと洞窟の入口に戻ったので、もう一度入ることにしました。
 今度は思い切りいろんな写真が撮れました。洞窟内では、フラッシュを焚かずに既存の照明を利用して、いかに岩の立体感を出すかがこつですね。
 
 七ツ釜鍾乳洞を出て、国道202号を海岸沿いにずいずいと南下します。国道を逸れて旧道に入ると、そこは寒村。民家の崩れ具合、石垣の苔むし具合、年寄りのヨボヨボ具合など、
「やっぱこれが日本だよなあ」
としんみりさせてくれます。
 
 夕方になると雲が厚くなってきて、水平線もぼやけてきました。5時すぎ頃にはポツポツと雨が降って来ました。
 スーパーらしいスーパーにも出くわさぬまま、外海(そとめ)町に入り、遠藤周作文学館まで来ました。
 遠藤周作など読んだこともないのですが、なんとなく入ってみようかなという気になって、今夜は記念館の前の「いこいの広場」の東屋に寝ることにしました。
 カップルらしい先客がいたので、自販機のコーラを飲みながら彼らがどくのを待ち、テントを建てました。
 今日は晩の食材を買えなかったので、あるものですませます。具体的には、ごはんと、この前買った塩くじらのみそ汁と、しばらく使っていなかったのりたまふりかけです。
 塩くじらのみそ汁は、七味をどばどば入れてなんとか臭みをごまかしました。
 
 明日は遠藤周作文学館を見て、長崎市入りです。原爆資料館とか大浦天主堂とか、あとなにがあったっけ。グラバー邸ってのは有名だけど、面白いのかな?
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5月29日(水)晴 原爆資料館で子供観察  

 テントを張った「いこいの広場」の東屋は海を見下ろす岬の上で、吹きっさらしのため風が強かったです。
 朝飯は定番のラーメン。中国地方を走っていたころの朝の定番はうどんだったのですが、九州では安い玉うどん(三玉百円)がなかなか売られていません。九州では、一玉65円程度が普通なのです。
 その結果、朝はどうしても手頃なラーメンに走ってしまうのです。
 
 片付けしていると、おっさんが一人近寄って来ました。
 一通りのいつもの会話。もうマニュアル化できますね。
「遠藤さん(遠藤周作文学館)は行かんのかい」
「行きますよ」
「この手前にも資料館があってキリシタン関係の資料があるよ。坂がきついけど、先にそっち行ってから遠藤さん観るといいよ。これから長崎に行くんだったら、どこそこの道を右に曲がって、坂を上ると市街が見渡せて景色がいいよ。上り坂きついけどね。ぜひ行くといい」
おじさんは熱心に道を教えてくれました。
「君携帯持ってるか。そうか、俺はこういうもんだ、何かわかんないことあったら電話してくれや」
と、おじさんは名刺をくれました。サンキュー引っ越しセンターの長崎営業所のセンター長さんだそうです。
 たとえわかんないことがあっても電話なんかしませんが、親切(というか、世話好き)な人がいるものです。
 
 おじさんが奨めてくれた「手前にある資料館」は無視し、遠藤周作文学館へ。崖っぷちに建っているので、景色がとてもいいです。
 自慢じゃないですが遠藤周作は読んだことがありませんので、本人に対する憧れも別にありません。
 それでも、こういう記念館を見学すると、少しは読んでみようかなという気になるものです。
 ということで閲覧室に遠藤周作全集があったので、「海と毒薬」を読んでみましたが、途中で疲れて止めました。
 
 長崎市までの道は、上ったり下ったり。今朝のおじさんの教えてくれた道がよくわからず、圧倒されるほどの見晴らしには出会わないまま市街地に入りました。
 まず行ったのは平和公園。
 修学旅行の子供たちでごった返しておりました。
 ご本尊の筋肉男像にお参りしたいのですが、像の前では修学旅行が記念撮影したり、点呼したり、
「ぼくたちわあ、これでまでのそーごーがくしゅうでえ、平和の尊さを勉強してきましたあ」
などと作文を読み上げたりしていて、近寄る隙がありません。
 すみっこの水道で靴下と帽子を洗い、ついでに頭を洗ってほとぼりが冷めるのを待ちました。
 長崎の平和公園は広島のと違ってこぢんまりしていますが、世界各国から寄せられた「平和の像」が立ち並んでいます。
たいがいどこの国でも「平和」のイメージは似たり寄ったりで、若い女が鳥と戯れているか、あるいは母親が子供を抱いているかです。
 ひとつ、むさくるしい労働者風の男ががふんぞりかえっている像があって、どこの国かと見てみたらドイツ民主共和国でした。民主共和国というと、統一前の東ドイツですか。分かりやすいなあ。
 ころあいをみてご本尊の筋肉男にお賽銭を投げ、ぱんぱんと柏手打って拝んだ後、原爆資料館に行きました。
 
 ここの修学旅行生の密度は、もはや平和公園の比ではありません。
 展示を見に来たのか、小中学生を見に来たのかよく分かりません。
 むしろ、見学の対象をガラスケースの中身から小中学生に切り替えた方がそれなりに楽しめます。
 黒焦げの死体の写真パネルを見て、彼らは口々に
「うわっ、気持ちわる」
と言っています。
大人からすると
「気持ち悪いとはなんだ。不謹慎だぞ」
と言いたくなるかも知れませんが、これは人間として正常な反応でしょう。
 戦争なんて気持ち悪いもんです。
 しかし、修学旅行の小中高校生って、どいつもこいつもすごく馬鹿そうに見えるのはどうしてなんだろう。
 そこの高校生!展示室のすみっこでタムロしてアグラかいてんじゃねえ!
 そこの小学生!どたばた走るんじゃねえ!
 そこの引率教師!でかい声で説教してんじゃねえ!
 それでも修学旅行の子供たちは、記入式の「旅のしおり」なんてのを持ってて、一生懸命メモをとったりしている姿は一見すると健気です。
 ある小学校の児童たちは、原子爆弾の断面模型を必死になってスケッチしていましたが、一体何の学習につなげるのでしょう。
 
 原爆資料館を出る頃には、ぼくはどっと疲れていました。
 浦上天主堂をちらりと見ました。ここは日本一の信者数を誇る教区なのだそうです。
 浦上天主堂は日本のキリスト教復活の中心地だったそうです。信者たちを助け信仰の自由をもたらしたアメリカが、その数十年後にこの天主堂の上に原爆を落とす。
「浦上天主堂の歴史的重さを、今の観光客たちはどれほど知っているのだろうか」
と遠藤周作は嘆いたそうですが、ぼくの感想は、
「うーん、やっぱ黒島天主堂の方がかっこいいよ」
でした。
 
 長崎駅で観光マップ入手。見れば「軍艦島遊覧ツアー」があるではありませんか。
 料金は2980円と高額ですが、憧れの軍艦島が見られるならと、船会社に電話してみました。
 聞けばツアーが出るのは10人以上の場合のみで、近々の団体予約はまだ入っていないとのこと。それでも個人客が10人そろえば船が出る訳で、6月1日(土)に、ぼくみたいな個人客が予約を入れているとのことでした。
 その日までに残り8人の乗客が集まるか分かりませんが、とりあえずぼくも同じ日に予約を入れてもらいました。
 
 ドコモショップや郵便局で所用を済ませ、今夜のねぐら捜しです。
 長崎は、ちょっと走るとすぐ坂道につきあたります。斜面にビルや住宅がカビのように張りついています。今夜は天気が崩れるらしいので、なんとか屋根のあるところで寝たいのですが、なかなかめぼしい場所がありません。
 結局、長崎公園の藤棚の下に決定したころには、8時をとうに過ぎていました。
 晩飯のおかずは、サバの南蛮煮。スーパーのお総菜です。みそ汁は大根入りのを作りました。
 明日は一日、市内観光です。
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5月30日(木)雨 絵葉書作家は大人気  

 長崎公園は静かでいい場所だったのですが、早朝5時頃から早くも人々が集まり始めました。
 ボールをバウンドさせている音は、どうやら若者がバスケットの早朝練習をしているようです。
 中国風な音楽とともに
「イー、アル、サン、スー」
と掛け声の入ったテープを流しているのはどうやら太極拳の人々です。
 じいさんばあさんの雑談がやかましいなと思ったら、6時半からラジオ体操が始まりました。
 朝飯のパンとヨーグルトを早々に食い、テントを畳むために外に出て見ると、中高年が勢揃いして「ラジオ体操の歌」を合唱している最中でした。
ラジオ体操が終わると、一斉に拍手が起こりました。
 誰に拍手しているのでしょうか。体操のアナウンサー、タゴハジメさんでしょうか。それともラジオそのものに対してなのでしょうか。
 体操が終わるとおじいさんが一人近寄ってきたので
「ども、おはようございます」
と挨拶し、雑談が始まりました。
「いつもないところにへんなものができてるから、犬小屋かと思ったよ」
と、じいさんはぼくのテントを指していいます。
「わたしは、一日置きにこの公園まで45分かけて歩いてきてラジオ体操するのが日課なんだ。毎日だと足によくないからね。
 わたしの家の近くにも風頭公園てのがあるけど知ってるだろ。知らない?ああそう。あそこにも屋根があってね、バイクの人なんかが野宿してるけど、ダニがひどくてみんな足をぼりぼり掻いてるよ。屋根の下で犬飼ってる人が犬にブラシをかけるんだ。毛と一緒に犬のダニが落ちてね、それに食われるんだ。大変だよ」
「へえ、大変ですね」
「これから長崎観光?長崎の人は親切だからね、道を訊けば親切に教えてくれるよ」
「はあ、そうですか」
「朝はこうやって挨拶交わすのが気持ちいいね。中には挨拶しない人もいて、それは人それぞれの考え方だけど、やっぱり挨拶した方がすがすがしいよ。そう思うだろう」
「ええ、そうですね」
じいさんは一通り喋って去っていきました。
 
 雨が本格的に降り出したのは、テントを畳み終えてすぐでした。
 レインウエアを着込み、まず向かったのは出島和蘭商館跡。
 出島は長崎港の近くにあって、現在発掘と建物復元作業が進められています。明治時代に周囲が埋め立てられて、今では島でもなんでもないのですが、ビルの谷間に真新しい和風建築が数軒並んでいました。
 いかにも観光客向けの風景の中を、スーツ着たサラリーマンがすたすた通り抜けています。
 展示施設などは9時開館ということなので、それまで復元建物などをのっそりと見物しておりました。
 で、9時過ぎになると、どっと修学旅行生が繰り出してくるのです。出島資料館もあっというまに制服で満ちあふれ、
「おっ、なにこれ」
「スゲ」
みたいな会話が飛び交います。今時の若者は何か見るとすぐ
「スゲ」
と言います。ぼくが見てもさほどすごいと思わないのは、ぼくの感受性が鈍ってきた証拠なのでしょうか。
 出島は現在数棟の建物が復元されていますが、いずれは全てを復元し、四方を堀で囲んで往時の姿を取り戻させる計画なのだそうです。
 オランダ人の住んでいた部屋や、当時連中が食べていた食事なども再現されていましたが、どうやら連中は畳敷きの部屋に椅子とテーブルを据え付け、靴のままで上がり込んで豚肉やら牛肉やらをがつがつ食っていたようです。へんなの。
 
出島の後は、大浦天主堂。日本最古の教会ということで国宝に指定されています。
平戸の潜伏キリシタンが、信仰を告白に行った場所ということです。
 入館料300円をとられました。
 日本最古という割に、外観はペンキ塗りたてな様子で、さほど歴史の重みは感じませんでした。
 しかし、内部はさすが荘厳な雰囲気。ステンドグラスも派手でかっこいいです。観光客なのか信者なのか、おばさんが祭壇の前で指を組んで手を合わせ、祈っていたのが印象的でした。
 祭壇の前には「寄付箱」が置かれていたので、ぼくも1円入れて手を合わせておきました。
 
教会の隣には26聖人殉教資料館というのがあって、ここにも隠れ切支丹の資料が展示されておりました。また、昭和の始めにこの教会で布教をし、その後ヨーロッパに戻ってナチスに捕まり、アウシュビッツに投獄された挙句、他人の身代わりになって飢餓刑を受け殺されたナントカ神父の展示をやっておりました。
 個人的には、地獄絵図が面白かったです。不信心者が炎に焼かれ、蛇や悪魔にかじられているのです。こういうの見ると、キリスト教も仏教も変わらんなあと実感します。
 売店で地獄図Tシャツが売っていれば絶対買ったのですが、あいにく売っていませんでした。
 
この風景を描いていた
この風景を描いていた

 せっかく観光地に来たので、どこかで絵でも描かねばと思い、大浦天主堂脇の路地裏で、ひさしの下で雨宿りしながら坂道の風景をスケッチしました。
 雨の日は、ペンに墨汁がつまらなくて描くのが楽です。
 この道はグラバー園へ通じているので、観光客が賑やかです。当然描いているのを覗きにくる人も多くて、注目度抜群です。
修学旅行の女子高生が覗き込んで
「ちょっとこれ、うまくなーい?ねえ、みてみて」
と叫び、友人らに手招きします。
「うわ、スゴ」
「スゴスゴ」
鬱陶しいですが、女子高生に囲まれて内心うれしかったりして。
 そろそろ仕上がりかな、というころ、今度は修学旅行の小学生たちに囲まれました。
 小学生はまだ躾が残っているので
「見てもいいですか」
と断ってから覗くあたりがかわいいです。
「うわ、すごーい」
と最初の子が言うと、あっというまに十数人の子供たちがぼくを取り囲みます。ぼくにべたべた触ってくる子もいて、
「こら、触っちゃだめ」
と友達に怒られたりしています。
「絵描きさんですかあ?」
「まさか。好きで描いてるだけだよ」
「どうやったら絵がうまくなれるんですかあ?」
「うーむ、それは…」
「何で描いてるの?」
「このペンはね、マンガを描くためのペンだよ」
「えー、マンガ家さんですかあ?」
「いや、それは違うけど」
「この絵、欲しいー!」
「あ、おれもおれも」
「あたしもー」
いきなりねだってくるかあ?普通。けっこう苦労して描いた絵葉書だったのですが、べつに誰に出すとも決めてなかったので、
「じゃあ、あげるよ。学校の住所教えてくれたら、送ってあげるから」
ぼくが言うと引率の先生も
「あ、それはいいですね。ありがとうございます」
とのことだったので、学校の住所をスケッチブックのすみっこに書いてもらいました。
 後で学校の住所を改めて見てみると、佐賀県玄海町でした。
5月20日に「いこいの広場」に泊まった町です。住所を教えてくれたときにしっかり確認しておけば、子供たちとの話がもっと弾んだかも。
 
 絵葉書がだいたい描き終わったので腰を上げ、一応グラバー園に行ってみることにしました。
 入場料は600円。グラバー邸を中心に江戸末期から明治にかけての洋風建築物が並んでいて、明治村のちっちゃいやつみたいな感じです。
 いかにもコジャレた観光地で、ぼくとしてはさほど感動はありません。修学旅行生ばっかりだし。
 やっぱ洋館ってのは、町の中にあってこそ味があるわけで。
 ただ、「日本最初のアスファルト道路」は少し興味深かったです。
 
 休憩所で昨日の分の日記を打っているうちに6時を回り、修学旅行生はいつのまにか一人もいなくなりました。
 シャッターの下り始めた土産屋参道を下って、自転車に戻り、さて今夜の寝場所をどう探そうかと地図を睨んでいると、
「おい、おい」
と呼びかける声がします。振り向くと、真っ黒に日焼けして、ノースリーブの変な服を着て、腕にじゃらじゃら数珠を巻いた、かなり濃い顔のおっちゃんが立っておりました。
「兄ちゃんどっから来た」
「長野です」
「馬に曳かれて善光寺の、あの長野か」
「ええ(馬じゃなくて牛だけど)」
「今日はこれからどこへ行く」
「これから寝るとこ探そうと思って」
「明日も長崎におるんか。兄ちゃんとわし、よう似とるな。わしはあそこの寺の息子じゃけえど、風邪ひかんように気をつけろよ」
「どうも」
それだけ言って、おっちゃんは去っていきました。
「どうや、今夜泊まってけ。ベッド一つしかないけど、男同士やさかいかまわんやろ」
と言われるかと一瞬身構えてしまったのですが、おっちゃんはただ、色黒で、手首に数珠はめて(遍路したときのをお守り代わりにつけているのです)、怪しい人相をしたぼくに親近感を抱いて声をかけてくれただけのようでした。
 
 雨が降ったり止んだりしています。屋根のある寝場所を求めて、しばらく町をさまよいました。ついに観念して、つぶれた(らしき)工場に入り込んだのは8時過ぎ。タイヤや塗料缶などが置かれていますが、明日の朝までは寝ていても迷惑かからないでしょう。
 
晩飯は、ダイエーで買ったアジの塩焼きとダイコンのみそ汁。そして芋焼酎のパック900ml。
 玄海町の値賀小学校6年1組に送る絵葉書の文案を考えてから寝ました。
西九州前編目次 表紙

5月31日(金)晴 人情自慢の長崎人  

 今朝は晴れました。コーヒー牛乳と食パンかじって朝飯。
 8時、ほこりっぽい廃屋を出て長崎市街地に戻り、中華街の近くの湊公園というところで、シュラフやレインウエアを乾かしながら日記を打ちました。
 公園には、まだ年寄りとは言えないような年代の人達がたむろしていました。
 何をするでなく、木陰に座ってお喋りしたり、どこかから座椅子を持ち出して日向ぼっこしたり、競馬新聞をチェックしたりしています。ホームレスさんにしては、さほど身なりが見苦しい訳でなく、何よりも荷物がありません。
 昼日中からいい年したおっちゃんやおばちゃんが、公園でのったりしている。変なところでした。
 そんな中で、一人の50過ぎくらいのおっちゃんが話しかけ来ました。
「センセイはどっから来た」
なんでぼくがセンセイ呼ばわりされねばならんのかわかりませんが、一通り受け答えすると
「おれも全国一周したしたんやで。友達と4人で、安い中古車借りてな。
北海道で車が潰れて、みんなでへそくり出し合って2台目の車買ったらみんなスッカラカンになってな、よその車のタンクからガソリンをポンプで盗みながら行ったらおまわりに捕まったんだけど、若い連中の冒険旅行だからってんで見逃してくれたんだ。
 それでも金がなくなって、工事現場に行ってなんでもいいから働かせてくださいって頼み込んで、荷物運びの手伝いやなんかしたんだけど、まあ千円か二千円くれればいいと思ってたのが二万円くれてさ、現場監督が
『おれも九州出身だから。まあ、がんばって行けや』
って言ってくれたんだよ。
 帰ってきたころにはみんな髭だらけでどこの乞食かって風体だったよ。三十年も前の話だけどね」
それから、
「長崎来たらチャンポン食わなきゃな。店はいろいろあるけど、思案橋の交差点からちょっと入ったとこにある『カンロ』って中華料理屋のチャンポンがうまいよ。地元の人間が言うんだから間違いない。リンガーハット?あんなのただ茹でてるってだけ。ダメダメ、全然。近く行ったら人に訊きな。
 みんな教えてくれるから。長崎の人間は優しいよ。そこいくと鹿児島の人間は冷たいね。昔からそうだ」
どうやら長崎人は人情の厚さを誇りにしているようです。
 正体不明ののんきな中年男女に見送られて、公園を出ました。
 
 石畳のオランダ坂を経て孔子廟(300円だったかな)を見物。
 中に入ると、喜太郎のシルクロード関係の音楽が流れていました。いかにもだなあ。
 門前には大きな石碑があり、碑の台は亀みたいな怪物の彫刻になっていました。説明文によれば、この怪物は贔屓(ひいき)というのだそうです。
 
贔屓
中国の伝説によれば、竜には九人の子がある。贔屓はそのうちの一人で、力持ちで重いものを好んで背負うといわれる。
中国では功なした人の石碑を贔屓の上に乗せ、石碑が倒れないように願った。
 
「贔屓にする」の語源はこんなところにあったんですね。勉強になっちゃった。
 この孔子廟は長崎在住の華僑の人達が建てたもので、孔子像の安置された大成殿の裏には博物館がありました。中国本土の中国歴史博物館の所蔵品をいくつか借りてきて展示しているようです。
 展示品は中国の国宝クラスだそうで、なるほど、殷の青銅器とかはかなり迫力があります。点数が少ないのが残念でした。
 
 旧唐人屋敷付近の中国風なお堂「土神堂(土の神なのだが本尊をみると福禄寿)」「天后堂(航海の守護神の女神を祀る)」などを見物した後、
公園のおっちゃんが教えてくれた中華料理屋へ。漢字までは聞いていなかったのですが、カンロというからには「甘露」とでも書くのでしょう。それを手掛かりに思案橋一帯を探してみましたが、この付近は長崎一の飲食店街で、どれがどれやらわかりません。
 電話帳で調べてみると、「甘露」ではなく「康楽」だというのが分かりました。
 で、それを探してみると、すぐ近くにありました。滅多なことでは人にものを尋ねない男です。
 のれんが出ていないし、入口に立っても自動ドアが開かないので、やってないのかと思い立ち去ろうとすると、店内から和服に割烹着を着た上品なおばさんが出てきて
「やってますよ」
どうやらタッチ式のドアだったようです。
 地元のなじみ客らしき人達が数人おりました。
 注文したのはもちろんちゃんぽん(税抜700円)。こじんまりした店ですが、おばさんがそつなくお茶を注ぎ足してくれたりして、いい感じの店でした。
 出てきたチャンポンは、確かにまあ、うまかったです。普段チャンポンなんて食べないし、今回九州上陸して初めて食べるチャンポンなので、他と比較はできません。
 基本的に、ぼくの「うまいもの」に対しての感情は、けっこう冷めているのではないかと自分で思います。
 どんなにうまいものを食ったときでも目を閉じて肩を震わせて、
「くううう〜、うまい!」
と感動を表現することはまずありません。
ぼくの「うまいもの」の食べ方は、
「あ、これけっこううまいな。ぱくぱくぱく。あれ、おかわりないの?」
という程度のものです。
「うまい」という形容詞の前に
「けっこう」
とか
「まあ」
とか
「意外と」
とか
「それなりに」
という副詞をつけないではいられないのがぼくの性なのです。
 長崎チャンポンを無事食べ終え、
「気をつけてくださいね」
と割烹着のおばさんに見送られて、市内観光を再開。なにしろ、あしたの軍艦島クルーズまで長崎を離れるわけにいかないのです。
 
 向かったのは崇福寺(入場料300円)。中国風なお寺です。黄檗宗なのかな?
 軒下に吊るされたでっかい魚(木魚)の、うらめしげな眼が印象的でした。
 寺の裏山の墓地からの景色がよかったので、スケッチすることに。
 暑くてまぶしくて、そのうえ蚊に食われまくり。虫よけスプレーも蚊取り線香も自転車に置いてきてしまったので、ようやく描き終わったころには何カ所刺されたことやら、あまりのかゆさに足が火照るほどでした。
恵比寿神社のカッパ狛犬
蛭子神社のカッパ狛犬

 
 その後行ったのは以下のとおり。
 
諏訪神社
 長崎中心地の氏神。例祭は長崎くんちとして有名。なんで九州にこんなでっかい諏訪神社があるんだろう。江戸時代に青木ナントカさんが信州から勧請してきたらしいけど。
 本殿のすみっこに蛭子神社があり、そこにあるカッパ狛犬が面白かった。河童は蛭子(恵比須)さんのお使いだという伝承があるらしい。どういう関わりがあるんだろう。
 
聖福寺
聖福寺の瓦コラージュ
聖福寺の瓦コラージュ

 ここも中国系のお寺。入場無料。いらなくなった鬼瓦を壁に塗り込めた「瓦コラージュ」が面白かった。
 
26聖人殉教地
 京都などで捕まったキリシタン26人が、はるばるここまでやってきて処刑されたそうな。26人の像がずらりと壁に貼られているのだが、どの像も顎を少し上げ、つま先を力無く下げている。その様子がまるで首吊りされているようで、生々しかった。
 
これだけ見とけば、長崎観光は十分でしょう。まさかペンギン水族館になんて行きたくないし。
 で、あしたの軍艦島クルーズは、予約状況どんなもんかと船会社に電話して見ました。
「今のところ予約は3人入ってます。これまでの例から行くと、船が出せる可能性はけっこうありますよ」
とのことでしたが、最低人員の10人があしたの朝までに揃うのでしょうか。
 
 寝場所を探しながら市内をさまよいました。原則的に同じ場所で連泊しないのがぼくのポリシーです。
 それにしても、長崎はほんと、自転車にとってつらい街です。坂が多いので、市民はほとんど自転車に乗りません。自転車がないので、平地の道も自転車への配慮がなされていないのです。
 市民は自転車の代わりにバスと路面電車を使います。歩道にあるバス停はいつもバス待ちの客でいっぱいで、通行者をせき止めています。歩行者ならともかく、自転車はその人込みを通り抜けるのにかなり苦労します。
 かといって車道を走ろうにも、路肩に余裕が無いし、路肩駐車は多いし、バスが頻繁に幅寄せしてくるのでかなり危ない。
 車道の真ん中に路面電車が走っているので長崎中心部の道は広い道が多い。
 そうした道の交差点は、歩道橋はついているけど横断歩道が無い。
 歩道橋には自転車用のスロープが無い。もちろん自転車用の横断道なんてものもない。
 交差点では、車道と歩道がガードレールや手摺りで仕切られていて、歩道から車道に降りられない。
 車道に降りられたとしても、左折車専用レーンがあるので左折車が絶え間無く、渡れるタイミングはかなり少ない。
 精神的に元気がないときは横断歩道がある場所まで大きく迂回せざるを得なくなるのです。
 自転車に冷たい街。それがぼくが長崎に貼ったレッテルの一つです。
 市内で自転車屋を一軒だけ見かけましたが、潰れる寸前みたいでした。
 長崎は狭い街なので、野宿場所も少ないです。ところどころにおあつらえな公園を見かけるのですが、「キャンプ禁止」の立て札が立っているのがいやらしい。
 
 ダイエーで買物し、店内のコンセントで少し充電してから、港近くの広場の東屋にテントを建てました。小さな東屋なので雨が降ったらテントもずぶぬれになりますが、今夜はさほど降らんだろう。
 
 ウォーキング中年が多いです。
「自転車旅行ですか」
と話しかけてきた二人組のウォーキングおばさんがいたので、
「長崎は坂が多いからウォーキングすれば体が鍛えられますね」
と言ってみました。
おばさんは
「いやあ、うちは電車の終点のすぐ近くに家があるから、坂は歩かんのよ」
と言っていました。
「気をつけてね」
「がんばって歩いてください」
と言って、去りゆくウォーキングおばさんを見送りました。
 
 飯を炊き、おかずはカツオのタタキと冷や奴。最近晩のおかずは魚が続いています。いいことだ。
西九州前編目次 表紙

6月1日(土)晴 あこがれの軍艦島  

 今朝は寝不足でした。
 それというのも、夜中に高校生らしき連中が三匹ほどやってきて、ぼくの寝ている東屋でまた恋愛談義を始めたのです。
「俺は顔のいい子じゃなきゃつきあわないバッテン」
「〇〇さんはどうよ」
「あの子は〜〜」
あんまり会話内容も聞いていないのですが、同じ屋根の下なのでどうもうるさい。
 パチン、ボッという音からすると、タバコも吸っている様子。
 酒も飲んでいるらしく、他の二人が遠くではしゃいでいる間、残る一人はいつまでも東屋に座り込んで
「ふう〜」
と聞くからに酒臭いため息ついたり、
「ぐおおっ」
と突然唸ってみたりでかなりご酩酊の様子。
かなわんな〜、言葉遣いからしてさほど凶暴な連中じゃなさそうだけど、酒の勢いでテントにちょっかい出されたらやだな〜と、まんじりともしない夜を過ごしました。
 連中がいつごろ去っていったのかはよくわかりません。
 朝になって外に出てみると、チューハイの空き缶が転がっていました。
 
 朝飯はトーストと牛乳。
テントを畳んでいる間にも入れかわり立ちかわり散歩のじいさんがやってきて、ほとんど同じ会話が繰り返されました。
 今日は待ちに待った軍艦島クルーズです。
 出航予定は9時30分、その30分前に船を出すかどうか電話をくれることになっています。
いずれにせよ長崎港のターミナルに行っていたほうがいいわけで。
 自転車で10分ほどのところにあるターミナルビルのトイレで洗顔していると携帯がなり、
「軍艦島出します」
とのこと。ラッキー。
さっそくカウンターでチケット(2980円)を買うと、窓口のおばさんが
「今日のお客様は全員で7名です。天気がよくなってよかったですね」
と言いながら、飴をひとつかみくれました。
なんだ、10名未満でも船を出すのか。
 
 桟橋から船に乗り込むと、他の客もあとからやってきました。
東京から来たという三十過ぎくらいの男性、甲府から授業サボって来たという大学生、そして中高年の男女四人組です。
甲府の学生の彼は、眉毛を細く小さく切り揃えているのが印象的でした。まゆげくん(仮名)とは、郷里が近いこともあって仲良くなりました。
「ぼくは父が長崎出身で、母は松本出身なんですよ。飯田ってけっこう松本と方言似てますよね。なんとかズラっていいません?」
「ダラとかニが多いよ」
まゆげ君は写真が趣味だそうで、軍艦島のことも雑誌で知ったそうです。
 キャノンの一眼レフ(EOS3かな?)をバッグから取り出して、準備に余念がありませんでした。
 かなり日差しが強かったのですが、船が走りだすと風が出て涼しくなりました。男のガイドさんがスピーカー越しに
「あの三菱造船所が戦艦武蔵を作ったところです」
とか
「あのPLGタンカーは神戸を母港としていますが、定期検査のために長崎に来ています」
などと解説してくれます。
 軍艦島が見えて来たのは、出航してから30分ほど経ったころでした。
軍艦島遠景
軍艦島遠景

 軍艦島は正式名称を端島(はじま)といい、高島町に属しています。
三菱財閥の炭鉱として、戦前から採掘が進められ、小さな岩の小島をコンクリートで塗り固め、従業員の住むアパートやその子供たちが通う学校などを作りました。
 沖の方から見るとその島の姿が旧日本軍の戦艦土佐に似ているということで、軍艦島のあだ名が付いたそうです。戦時中、アメリカの潜水艦が島を軍艦と間違えて魚雷を発射したという話がまことしやかに伝えられています。
 現在では完全な無人島となり、高層ビルの廃墟をさらしているため、ぼくのような廃墟ファンが多く、こうした観光クルーズも行われているのです。
「ついこの間までこの島は三菱マテリアルの所有になっていましたが、高島町に寄贈されました。新聞では観光化されると大きく報道されましたが、なにしろお金がかかるので、上陸しての観光というのはいつ実現するか全くわかりません」
とガイドさんが言い、
「今までは『ケガなどしても責任を問わない』って約束で、上陸も見逃されてたみたいです。5000円くらいで磯釣りの船で渡してくれるらしいんですが、最近島で火事起こした観光客がいて、それ以来取締が厳しくなったそうですよ」
とまゆげ君が教えてくれました。
軍艦島近景
軍艦島近景

 いつ頃まで操業していたとか、最盛期何人の人口があったとか、ガイドさんが詳しく解説してくれたと思うのですが、2,980円分の写真を撮ろうと気が焦って、ろくろく耳に入りませんでした。
 山のてっぺんに社らしきものが見えました。ガイドさんによれば鉱山の安全の神様で山神様(サンジンサマ)と呼ばれていたそうです。
 一通り写真を撮って、帰途は遠ざかる軍艦島を見送りながら「浸る」ひととき。
いーなー、廃墟。あんな小さな島でさえ、廃墟になるとあんなにかっこよくなるんだから、今の日本の都市が廃墟になったらもっとかっこいいんだろうな。日本中廃墟にならないかな。
 この呟きは
「いいなあ、後家は。うちのかかあも早く後家にならねえかな」
という古典的小噺に通じるものがあります。
 
 港に着くまでの間、まゆげ君に自転車旅行の話をしたらずいぶん感心してくれました。
「ぼくなんか、自転車の遠出なんて、富士見まで行ったことがある程度ですよ。すごいですね」
「旅に出てるとさ、いつも『学生さん?』って訊かれるわけよ。やっぱこういうことって学生って身分のうちにやっとかなきゃいけないよなって思ったね。君も学生時代に、したいことしたほうがいいよ」
などと、じじくさいことを言ってしまいました。
「どんな自転車で走ってるのか見たい」
というので、港に着いてから、駐車場で自転車を見せてあげました。
「いやほんと、気をつけてくださいね」
「ありがとう。じゃ、またどこかで」
と言ってまゆげ君と別れました。別れ際に彼の名前を聞いたのですが、すぐ忘れてしまいました。平なんとか、平田君とかそんな名前だったような気がします。
 
 軍艦島を見終わった以上、もう長崎市には用がありません。
次の目的地は雲仙。火砕流の被災地が保存されてたりして、かなり面白いみたいです。
 あのあたりは温泉も多いらしいので、久しぶりに風呂にでも入ろう。最近体がかゆいのは蚊のせいばかりではないような気がする。
 ここ3日ほど長崎市内でのんびりしていたので、ひたすら漕ぐのは久しぶりです。
 炎天下、自販機でペプシ500ccをがぶ飲みしたり、橘神社で昼寝したりして、夕方に小浜に入りました。
 ここは江戸時代から栄えた温泉郷のようです。
 町立歴史資料館には温泉の湧き出し口があって、さかんに湯気が出ていました。入館料百円とのことだったので、入ってみました。
鼻ちょうちんがリアル!
寝るな、番台さん!

 小浜温泉の歴史がお風呂屋の雰囲気で並べられており、番台さんが鼻ちょうちんを出して居眠りしてる人形があって、面白かったです。
 
 資料館で入手したパンフレットに、150円で温泉に入れる共同浴場があるとのことだったので、行ってみました。
 古くて汚い風呂屋でした。番台には人がいなかったので、150円を置いて入りました。脱衣場の客のおじさんが
「あんた自転車で?このまえ徒歩で日本一周してる人に会ったよ。おばあちゃんが引く乳母車みたいのに荷物積んで歩いてた。一年間で百万円使ったって言ってたよ」
そりゃまるで職業遍路みたいだなあ。
 汚い手ぬぐいとチビた石鹸をもって浴室に入りました。浴室も古汚い代物でした。高い天井には染みが広がって模様になっています。こういう雰囲気は好きです。
 仕切り壁の向こう側からは、おばさんたちの声が聞こえます。
 湯船は真ん中に二つ並んでいて、熱い湯とぬるめの湯にわかれていました。二つの浴槽の真ん中に温泉と水の湧きだし口があり、その向きによって二つの浴槽の温度に差をつけているようでした。
 熱い風呂は苦手なので、ぬるいほうに入りました。久しぶりの風呂です。
 湯船に浸かったのは飯田に戻って自宅の風呂に入って以来ですから、半月振りです。
 湯を嘗めてみると塩味がしました。湧き出し口の管には白いものがこびりついていました。削って嘗めてみると、案の定塩でした。
 小浜温泉は源泉が105℃もあるのが特徴だそうです。この風呂も水道水でうめていました。水道を使わずに湯量を絞って温度を下げれば、もっといい湯になるでしょうに。
 
 ちょろちょろとしかお湯が出ない洗い場で、じっくりと体を擦り上げました。ぼく以外の客はどんどん回転していきます。
 黒い手足も、心なしか色が薄くなった気がします。これ以上垢は出ないだろうと満足し、再び湯に浸かってから上がりました。
 体を拭きながら脱衣場を観察すると、温泉の効能を書いた古い木の板には「食塩泉」「昭和13年」と書かれていました。
「入浴心得」には
「泥酔者、保護者無キ白痴、老衰者、癲癇者ヲ入レサセザル事」
などとありました。
「古いお店ですねえ、ここ」
と番台のご主人に言うと、
「昭和12年創業。わしで2代目」とのことでした。
 
 近くのスーパーで買い物し、公園にテントを建てました。海岸に沿って公園がたくさんあるので、寝場所には全く困りません。
 今夜はついに煮魚に挑戦。グチとかいう魚が大きさも値段も手頃だったし、頭や腸を取ってパックされていたので、買ってみました。
 アレキサンドル藤崎君がメールで教えてくれたとおり、一回湯通しして水を代え、適当に酒(芋焼酎)、砂糖(プレーンヨーグルトのおまけ)、醤油で味付けして煮てみました。
 食ってみたところ、なかなかうまいじゃないですか。生まれて初めて自分で作った煮魚だったので、感動してしまいました。この調子でほかの魚も煮てみよう。
 あしたは雲仙に登るつもりです。
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6月2日(日)晴 心あったか地獄めぐり  

 午前中はのんびりしてしまいました。7時頃に起きて、朝飯は冷やしうどん。
 昨日のスーパーで、九州に来てようやく3玉100円のうどんに巡り合ったので、キュウリと魚肉ソーセージを刻んでのっけ、醤油、ポン酢、胡麻油、トウバンジャンなどをぶっかけて食いました。
 腹がくちくなった後、日記を二日分打っていたら疲れたので、二度寝してしまいました。
 
 テントを畳んで雲仙目指し出発したのはもう2時近く。
 長い上り坂が続きます。午前中たっぷり休んだので、さほどバテずに上れました。そのかわり暑さはかなりのもので、服もぱんつもべしょべしょになりました。
 
 ツーリングのバイク野郎どもにびゅんびゅん抜かれながら午後4時頃に温泉街に着きました。
 雲仙て、語源はどうやら「温泉」なんですね。昔は信仰の山として高野、比叡と並び称されていたそうな。
 ビジターセンターで雲仙災害のビデオ何ぞを見て、さてこれから地獄(熱泉が噴出している名所)でも見物しようかなというとき、奥さんを連れた恰幅のいいじいちゃんにつかまりました。
「どっからきた」
「長野の飯田ってとこです」
「知ってるぞ。昼神の隣だな」
「お、よくご存じで」
「そりゃそうさ。仕事は」
「無職です」
「フリーターってやつか」
「っていうか、やっぱ無職です」
そっからはもう質問攻め。自転車はいくらで買った、大学出か、専攻は何だ、兄弟は、親の職業は、元いた職場は何だ、などなど。
 おまわりさんの職務質問よりもタチわるい。
「まあ、旅が終わったら仕事にもつかなきゃいかんとは思ってますけど。親の定年も間近ですからね」
「キミはなかなか真面目な男だな」
「ホントに真面目な人なら会社辞めたりしないでしょうけどねえ」
とぼくが答えると、じいちゃんのうしろで奥さんがウンウンと頷いておりました。
「面白いなあ。面白い若いもんがおるなあ。達者で行けよ」
とじいちゃんはいたく面白がりながら見送ってくれました。
日本一周なんて今時珍しくもなかろうに。
 
 で、じいちゃんから別れてすぐ近くの地獄巡りをしました。
雲仙の地獄巡り
雲仙の地獄巡り

 ごつごつした岩場に強酸性の硫黄の熱湯がぐらぐらと沸き出している風景が地獄に似ているということで名付けられた名所です。車道脇の石垣からも湯気が吹き出しているのにはたまげます。
 地獄巡りの遊歩道では、しょぼくれたババアさんたちがこ汚い小屋で温泉玉子を売っています。一個買ったら100円でした。
熱湯が吹き出す岩場には
「立入禁止 地獄内は危険です 環境庁」
の立て札が立ってます。「地獄内は危険」ってのが、なんか間抜けで面白いです。本物の地獄にも「危険 立入禁止」の札が針の山なんかに立ってたら面白いな。血の池には
「この池では あそばれん」
なんて看板が立ってて、河童の絵が描いてあったり。
 立入禁止の場所に入ると鬼にしょっ引かれてえんま様に怒られたりして。
 雲仙の地獄に立っている看板はそれだけではありません。
雲仙小中学校の子供たちが作った標語というのが立ってて、
「雲仙で 心あったか 地獄めぐり」
「温泉の 温泉玉子は おいしいな」
なんて書かれています。それって標語か?
地獄めぐりが心あったかってのも、どこかしら間抜けだな。
 
 地獄巡りのあと、温泉神社や満明寺に参って、大黒天の岩絵を見、入浴料100円の「湯の里温泉」という公共浴場に行きました。
 二日続けて風呂に入るなんてぼくにとっては極めて異例なことなのですが、だって100円だもんねえ。
 昨日の小浜の浴場ほどではありませんが、けっこう古めの建物でした。
硫黄の香りがする薄緑色のお湯で、源泉がばか熱いので湯船もかなり熱かったです。
昨日ほどがむしゃらに体を擦る必要もないので、石鹸で汗を流し、何度も休みながら湯に浸かりました。
 
 ぼんやりするほどいい気持ちになって、近くの小さいスーパーでレトルトカレーを買い、おしどり池のほとりの公園でテントを建てました。
 発泡酒を飲んで、ぐったりして寝てしまいました。
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6月3日(月)晴 災害供養祭に飛び入り  

 夜は雷が鳴り、雷光も見えていましたが、雨は降りませんでした。静かな公園で、よく眠れました。
 朝、テントから顔を出したとき、外が少し硫黄臭かったのは気のせいでしょうか。
 朝飯に冷やしうどんを食い、少し食い足りなかったのでラーメンを一袋食いました。
 
 今日は、雲仙普賢岳に登りたいなあという意気込みです。
 中腹の仁田峠というところまで車道が通じているのですが、有料道路で自転車は通行禁止と看板が出ていたので、池の原の駐車場に自転車を置き、そこから歩くことにしました。
山道は5qほど。池の原の標高が500m、普賢岳山頂が1350m。700m程度の標高差なら、軽く登れるだろう。
自転車にリュックをチェーンでくくりつけ、必要なもの(水、昼飯(食パン二枚、マーガリン、魚肉ソーセージ二本)、三脚、レインウエアの上着)をスーパーのビニール袋に入れて歩きだしました。
 あまり登山といういで立ちではないかもしれません。しかし、靴はそれなりのトレッキング用シューズなので、心強いです。
 仁田峠のロープウェイ乗り場の脇に普賢神社(仮宮)があり、そこに参拝してから鳥居をくぐって登山道へ。
 
 天気がいいです。小鳥の声が、まるで「癒しの音シリーズ」のCDみたいに聞こえます。
CDと違うのは、小鳥のさえずりよりももっと間近に、ハエのブンブンいう音が聞こえることぐらいです。なんでこんなにハエがいるんだ。この山はウンコか。
 でも、ハエばかりでなくセミの声が聞こえたり、アサギマダラ(風な蝶)が飛んでたりして、いい感じです。
 山頂付近は少し急な上りもありましたが、鎖場みたいなハードな場所もなく、午後1時ちょい過ぎ、歩きだしてから1時間半程度で普賢岳山頂に着きました。
 目の前に、ガラガラした岩に覆われた例の溶岩ドーム「平成新山」がどーんとそびえています。
 普賢岳より平成新山の方が標高が高いので、そっちが雲仙の山頂になるのでしょうが、もちろん立入禁止でした。
 溶岩ドーム以外は山全体が濃い緑に覆われ、白く枯れた古木が白骨みたいに林立しています。
 ところどころ、ツツジの赤が残っています。このあたりはミヤマキリシマの群生地だそうで、もう1カ月早ければ満開の花が見られたのかも知れません。
なにやってんだか…
普賢岳で「うおー」

 天気はいいのですが、霞がかかっていて遠い下界はよく見渡せません。しかし平日なのでほかの登山客もおらず、アホな自写真を撮り放題です。
 崖っぷちに腰掛けてパンとソーセージを食ってから、頂上を下りました。
 途中、妙見岳へのルートがあったので妙見岳に寄り道してから仁田峠に下りました。
 後で地図を見ると、国見岳もすぐ近くだったみたいで、行けばよかったかなと思いました。
 
 自転車に戻ったのは3時。島原へ一気に下ります。島原で見物したいのが「みずなし本陣ふかえ」。
かつて一世を風靡した雲仙普賢岳の火砕流と土石流の被害を追想できるという「土石流被災家屋保存公園」が併設された道の駅です。
 道の駅って、なんでもありだな。
 でっかい駐車場とトイレと役に立たない情報コーナーとお土産屋とレストラン。このへんは普通の道の駅なのですが、奥に入っていくと「雲仙火山災害体験学習館」とかなんとかいうのがあります。
中に入ると
「セットで500円がお安いですよ」
と言われ、何と何がセットなのかもよく分からないまま500円を払いました。
 まず右側のシアター(100人くらい収容)に通され、雲仙噴火の災害のビデオを見せられました。
 大画面で迫力でしたが、似たような内容は雲仙のビジターセンターでタダで観たんだけど。
 それが終わって、次は「火砕流体験館」へ。隣にまた同じようなシアターがあるのです。
 火砕流が体験できるって、つまり1000度のガスに灼かれて楽しめるのかな?わくわく。
 と思っていたのですが、そこではまたさっきと同じようなビデオを見せられ、ビデオの「ごごごごご」という音に合わせて座席が振動するという、まあ血行はよくなるかもしれないけどただそれだけ、という代物でした。
 なんだこりゃ。似たようなビデオならシアター一つで十分じゃん。こんなので500円取るって、災害への復興のためとはいえ、ちょっとずうずうしいぞ。
少し憮然とした表情で外に出ると、今まで賑わっていた店どもが妙に静かです。静けさの中で流れてくるのは、坊主の読経。
 店舗群の入口にある被災者供養の阿弥陀像の前に従業員らが勢揃いして、普賢岳に向かって手を合わせているではないですか。
 今日、6月3日は、雲仙の大火砕流が発生して消防団員やマスコミ関係者、研究者ら44名が死亡した11年目の命日だったのです。
災害犠牲者供養祭
災害犠牲者供養祭

 
 こりゃおもしれえや、写真撮ろう、とぼくがデジカメをウエストバッグから引っ張り出そうとしていると、喪服を着た人がぼくにお線香をくれました。
 写真撮ってる場合ではなくなってしまい、ぼくも喪服さんに促されて祭壇にお参りしてしまいました。
さて、気を取り直して写真をと、思ったとたん
「火砕流発生の時刻となりました。皆さん、1分間の黙祷をしてください」
と喪服さんが言いました。
そういう厳粛な場面には飲み込まれやすいタイプなので、ぼくも気をつけして目を閉じて合掌してしまいました。
「黙祷終わり」
といってくれてもよさそうなものなのにそんな声はまったくかからず、いいかげんもういいだろ、と目を開けると、とっくに黙祷は終わっておりました。
 ぼくはようやく写真を撮ることができました。しかし、偶然だなあ。
 
 この道の駅のメインはシアターでも土産物屋でも顔ハメでもなく、土石流に埋もれた家屋です。
復元移築された被害家屋
復元移築された被害家屋

「保存公園こちら」の立て札に沿って行ってみたのですが、さりげなく埋もれているので初めはどれが被災家屋なのかよくわかりませんでした。
 おや、よく見ればなんでこの家は屋根しかないんだ?
 おや、よく見ればこの家はもとは2階建だったのか。
 実は、現在ぼくが歩いている場所は、2m以上積もった土石流の上なんですね。
 さりげなく建ってる道の駅も道路も畑も、すべて土石流の上に作られたものなんですね。ちっともわかんなかった。
 でっかいテントの中には3軒の被災家屋が保存されていて、真ん中の家にはお賽銭がたくさん投げ込まれておりました。
 説明板によると、この中央の家は、みずなし本陣テント内に保存するために、45m離れたところから移築されたんだそうです。
「家屋手前部分については、内部状況を見学しやすいように少し掘り下げて一部補修、復元を行いました。その他のテント内外の被災家屋10棟は被災当時そのままの位置です」
ちゃんと手が加わってるんですね。野島断層の被災家屋展示と同じく、作られた生々しさだったわけです。
 テント内ではアナウンスがひっきりなしに流れておりました。
「地元住民はみずなし本陣内で一生懸命に復興を目指し働いております。ぜひお買い物いただけますようお願い致します」
なるほどねえ。わかるんだけど、客の哀れを誘ってものを売りつけようってのは、ちょっと情けねえなあ。
 みずなし本陣からは雲仙が間近に望めるのですが、今日は霞が強くてうっすらと山影が見える程度でした。
 
 みずなし本陣を後にして、島原市内に入りました。
 島原市は、大学時代の友人マンハッタン君(仮名)の出身地です。彼は現在、ふるさとを遠く離れた新潟県長岡市で働いています。
 彼がぼくの自宅に遊びに来たこともあるので、そのお返しに彼の実家を探して遊ぶことにしました。
 彼の実家の住所は島原市青葉町。
 道の駅の情報端末で調べると、青葉町は運動公園とか大きなビール工場の近くらしいことが分かりました。
 インターネットのマピオンで確認しつつ、青葉町にたどり着きました。眉山のすぐふもと、島原城を見下ろす丘の上の住宅団地です。
 蚊に食われた足をぼりぼり掻きながら路地をさまよいましたが、「マンハ」姓の表札はなかなか見つかりません。
 一度はあきらめかけましたが、ダメモトでもう一度、と町内に入って行くと、うまい具合に住宅地図の案内板がありました。
 見れば、あるじゃないですか、マンハさんち。青葉町のすみっこです。
マンハ姓はこの一軒だけのようなので、これがマンハッタン君の生家(なのか?)に違いありません。
 息を殺して現場に接近してみると、わりと新し目の茶色い家が出現しました。
 表札に「マンハ」と書かれているのを確認して、長岡市のッタン君宛の絵葉書を郵便受けに放り込み、ザウルスで家の写真を撮って、一目散に逃げてきました。
 家の中ではご母堂らしき女性の声が聞こえました。たぶん晩ごはんをお作りになっていたのでしょう。
 なんでぼく、彼のストーカーみたいなことやってんだろ。我ながらばかばかしく思いました。
 
 島原市は「鯉の泳ぐまち」がキャッチフレーズだそうで、何かと思ったらドブに錦鯉が泳いでいるのでした。
 市内のダイエーで買い物し、中央公園でテントを建てていると、夕涼みと思しき近所のじいちゃんが寄ってきました。
「わたしも若いころ山登りが好きでねえ。大山などに登りましたよ。近所の山ばっかりですけどね。
アルプスも登りたいですけど、今はもう歳ですからなあ」
じいちゃんと喋りながらテントを建てたので、ポールの方向を間違えたり、ペグを蹴飛ばして曲げちゃったりしました。
 晩飯用にダイエーで焼きそばとニンジン鳥肉などを買っておいたのですが、牛乳をがぶ飲みしてたらお腹一杯になってしまい、そのまま寝てしまいました。
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6月4日(火)晴 オススメの北村西望  

 28になってしまいました。いい歳こいて何やってんだか。
 朝飯は焼きそば。ゆうべの晩飯に食うはずだったものです。
具の鳥肉とモヤシが余ってしまったので、とんこつラーメンスープの残りを使ってスープにして、全部消費しました。
 
 今日は島原城に行ってみました。昭和に再建された鉄筋コンクリートの天守閣は、資料館になっています。ありがち。
 530円払って入りました。マグシーバーというのを借りて首から下げ、電波を受信して解説が聞けるようになっているのですが、あちこちの解説が混線して気が狂いそうになりました。
 展示の内容はキリシタン関係で、平戸、長崎とその手の資料館をハシゴしてきたぼくにとっては、少しゲップが出そうでした。
 西望記念館と民具資料館と観光復興記念館も併せて見物することになっています。
 西望記念館は北村西望、長崎平和公園のマッチョ像を作った彫刻家の記念館です。
 この人の作品はなかなかいいですね。逞しい男性像が得意な人のようですが、動きや体のひねりなど、ポーズがすごくかっこいいです。
 一方で「将軍の孫」とか「若き日の母」とか、可愛らしい子供や優しい母親の姿なども彫っていて、ほのぼの系もいい味出してます。
鬼の右手にあるのが「原子爆弾」
「人類の危機」

 原爆の像を製作した人だけあって、「人類の危機」なんて作品は、二本の角を生やしたマッチョな鬼が、何やら四角いものを持って投げようとしている姿を彫っているのですが、その手にあるものをよく見ると「原子爆弾」と字が刻んであるのです。
 なんと分かりやすい。
 
 次に民具資料館ですが、これはもうどこにでもあるような物置系資料館で、さして面白くなかったです。
ただ、古時計が今でも動いていて、時計の下の貼り紙に
「大正生まれでん、まーだ元気んきばっちょるばない。
いまどきん若っかもんに負けらるるもんかない。(島原弁)」
と、古時計じいさんのセリフが書いてあったのがかわいかったです。
 次に観光復興記念館ですが、これはまた雲仙災害モノで、また似たような災害ビデオを見せられてしまったのでした。かなわんぜ。
 
 島原城を出て、有明海を北上して佐賀市に向かいます。
これからのルートとしては、佐賀の吉野ヶ里遺跡なんぞを見た後、筑後川を溯って久留米市の水天宮(九州カッパの本拠地)にお参りして、熊本方面へさまよっていこうかなと思っています。
 途中で湧き水があったので補給し、ひたすら走ります。もうほとんど夏。キーホルダーの温度計を見ると、30度を超えています。それでも、道は平坦なのでけっこうはかどります。
 途中の神社の境内のブランコに座って昼飯にパンを食い、今もゴタゴタしているらしい諫早湾の潮受け堤防を遠くに眺め、諫早市に入りました。
「ゆうゆうランド干拓の里」
というつまらなそうなテーマパークがあったので、しぶしぶながら行ってみることにしました。
 入場料は300円、中に入ると「干拓資料館」「庄屋屋敷」「遊ゆう広場」「ちゃりんこ広場(別料金)」「パターゴルフ別料金)」「むつごろう水族館(別料金)」などがあります。
 むつごろう水族館は、建物がムツゴロウの形をしています。
 別料金を払う気はないので、つまらない資料館を見て、面白くない庄屋屋敷に上がり込み、二階に上がって畳の上に大の字になって昼寝しました。
 客が来ないので、寝たい放題です。夏の昼下がり、畳の上でする昼寝って最高ですね。昨日の雲仙登山の疲れが残っていたか、炎天下を走ってかなりバテていたか、ぐっすり寝てしまいました。
 
 目を覚ますと午後4時。空は霞が強くなって、日差しも和らいでいます。
 強ばった体をのっそりと動かしながら「潮見やぐら」に登って干拓の里の全景を確認した後、自転車に戻りました。
 国道207号を佐賀方面へ走ります。
途中、いくつものふれあい物件を発見して喜んでいると、高来町で「まろやか村」という産直市場を見つけました。
まろやか村。一体何がまろやかなのでしょう。
扱っているものは「焼きガキ」「焼きガニ」「バーベキュー」で、どうもまろやかって感じじゃないんですけど。
 その次の小長井町に入ると、果物バス停が出現しました。『珍日本紀行』モノです。
 種類はイチゴ、スイカ、メロン、オレンジ、カキ、トマト。トマトは、葉っぱはトマトなのに、色が黄色なのが気になります。赤いペンキが色落ちしたのか、黄色く腐ったトマトという小粋な設定なのか、それとも別の果物なのか、よくわかりません。
 『珍日本紀行』によれば、小長井町は果物の産地なのでバス停も果物にした、ということなのですが、国道から見る景色に限っては、果物畑も見当たりませんでした。
 
 6時過ぎ、佐賀県に入りました。天気予報を聞きたくてラジオをつけると、案の定天気予報などそっちのけでワールドカップの日本対ベルギー戦をやっていました。
 ラジオの中継では、ボールが今どこに転がってるのかもよくわかりませんが、えらく盛り上がっているのだけはよくわかりました。
 
 スーパー「エレナ」に入って、晩の食材を買いました。有明海はカニが名物らしいので、4匹180円のを買いました。
 今夜は国道沿いのバス停にテントを張りました。
 またストーブのノズルが詰まり、必死こいて掃除していると、母親から電話がかかってきました。
「何か用?」
「一応言っとこうかなと思って。誕生日おめでとう」
「ありがとう。でもうれしくねーなー」
「誕生日プレゼントあげたいけど、送ってやれんな」
 
 カニは、2匹をカチ割ってみそ汁に、残る2匹は網で焼いてみました。
ズワイガニみたいにでっかいカニではないので、脚や爪のミは期待できませんが、甲羅の中のミソは甘くておいしかったです。
 焼きガニは足もバリバリ食えました。
 酒は、少し奮発して買ったウイスキーを、ストレートでちびちびラッパのみしました。
 べらんめえ、文句あるかコンチクショウメ。酒でものまなきゃやってらんねえや、ウ〜イ。

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