日本2/3周日記(北関東) 友情の関東東海編(北関東)

11月24日(月)曇 鹿の湯で芋になる

 夜半から雨が降り出しましたが、おかげで放射冷却がなく、夜は拍子抜けするほど暖かかったです。雨は台風の影響だそうで、暖かい空気が入ってきているのかもしれません。
 朝飯は食パンとラーメン。テントを畳んでいたら50がらみのおっさんが話しかけてきました。
「飯田か。木下工務店の社長が飯田出身だったな。知ってるだろ。釣具のシマノの工場があるよな。そこに勤めてた知人に聞いたけど、冬は室内でも零下10℃になるんだってな」
「そんなに寒くなることは滅多にありませんけどねえ」
「那須まで来たら三軒茶屋温泉がお奨めだよ」
聞けば、那須道路をずうっと上の方に上がっていった山の中にある温泉だそうで。
「温泉宿が三軒しかなくて、今の季節やってるかどうかわかんないけど」
わかんないのかよー。
「ま、雪降る前に帰れよ」
「そうですね」
 
 近くに8時から開いている「鹿の湯」という風呂屋があり、名湯らしいという噂を入手したので行ってみるのと、さっきのおっさんが来ていました。
「何だ、三軒茶屋には行かなかったのか」
「そこまで行く根性がなくって」
一緒に風呂場に行きました。
 鹿の湯は400円。那須湯本では一番安いようです。駐車場や玄関の靴の様子から予感はしていましたが、浴室も脱衣場も男たちの裸体で一杯。
「うわっ混んでるなあ。これじゃだめだ」
連れのおじさんは廊下で服を脱ぎ始めました。
 ぼくは廊下にリュックを置き、なんとか脱衣場にスペースを作って服を脱ぎました。
 古びた板張りの浴室には六つばかりの湯舟が四角く切ってありました。入口近くの舟は熱湯で、頭に手ぬぐいをかけた人々が柄杓で頭にお湯をかけています。そういう作法なのかもしれませんが、ぼくは無視して体をざっと濯いで白濁した硫黄泉に沈みました。ちと熱めです。
 男たちが板の間にぺったりとあぐらをかき、談笑したりうなだれたりしています。
 洗い場もなく、湯治専用ということなのかもしれないと思いましたが、べつにそれらしき注意書きもなかったのでざっと体を擦って石鹸で頭も洗わせてもらいました。何しろ風呂に入るのは青森以来なので、ボロボロ垢がこぼれます。
 あまり長湯しても疲れるので、30分もしないうちに出ました。
 連れのおじさんはよく喋る人で、
「飯田には南朝の皇子がいた大河原ってところがあるだろう。何だっけ、そうそう大鹿村。高橋克彦が書いてたけど、青森にも同じ地名があって、関係あるんだってよ。もちろん小説でのことだけどね」
「飯田の名物は何なんだ?りんご?フン、他には」
などなど。おじさんは
「図書館が開くまでの暇つぶしにここまで来た」
と言っていましたが、一体何者なのやら。
 鹿の湯から出て別れ際、アーモンドチョコを一箱くれました。親切で気さくな人でしたが、少し疲れました。
 
 今後の予定としては、日光観光をしてから群馬に行くつもりです。
 群馬県で見たいのは「三日月村」。笹沢佐保原作、中村敦夫主演で一世を風靡した木枯らし紋次郎のテーマパークです。これも『珍日本紀行』で知ったのですが、かなりバカっぽくて面白いらしい。ただこういうところは一人で入ってもつまらないので、誰かを誘うことにしました。
 東京近在で暇そうなヤツで、下らないものに突っ込んで楽しがる人間という条件で人選を進めた結果、サークルの後輩のホームラン君(仮名)に白羽の矢を立てました。彼とは、若い頃二人きりでナンジャタウンにデートに行って、白鳥の船に乗って恋占いをした仲です。電話してみると、
「久しぶりですねえ。28日ならバイト空いてますよ」
「じゃあその日でいいよ。藪塚本駅の近くらしいんだけど」
「それならオレの家からも都合いいですね。集合場所どうします?」
「うん、詳しいことは調べてまた電話する」
ということで、28日が楽しみです。つきあいのいいヤツで助かった。
 
那須湯本から下ると、昨日の交通整理のおっさんにまた会いました。
「どうも昨日は」
向こうから挨拶してくれました。
「ごくろうさまです」
と返しました。
 
 那須高原はいかにもな観光地で、黒磯市へ下る道路の左右にはナンタラ館やナンタラミュージアムが目白押し。「戦争博物館」の駐車場には改造車がたくさん停まっていました。
 黒磯市の商店街を抜けてイトーヨーカドーでコンビーフサンドと低脂肪乳の昼飯。特売品のバナナも食いました。大の男がスーパーの片隅でバナナを食う姿というのは様になりませんね。
 肌寒い曇り空ですが、風がないのが幸いです。4時頃に今市市に入り、スーパーに寄ってモヤシ、豆腐、キムチを買いました。晩飯をキムチ鍋にしようという魂胆です。
 明日は雨が降るらしいので、屋根のある場所で寝たいところ。橋のたもとに水車つきの東屋があったので、「こりゃいいや」と近寄ると、中にはアベックが一組。この寒い中ご苦労様だなと思いましたが、彼らがどくのをじっと待っているぼくもご苦労様でした。
 ようやくテントを建てて、晩飯の仕度。野菜や豆腐をコッヘルに入れたら一杯になってしまい、キムチを入れる余裕がなくなってしまったので、ただの具沢山味噌汁にして、キムチはキムチだけで食べました。
 リュックに入れておいたバナナがすっかり潰れているのを発見。ペースト状になったそれを、皮からこそげ落として食べました。
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11月25日(火)雨 東照宮でへとへと

 朝、テントの外でなにやら喋り声が聞こえたので、散歩のおばさんが友達連れで来ているのかと思っていたのですが、外に出てみるとぼさぼさ頭のおばさん一人だけでした。歳は50がらみでしょうか。
「おはようございます」
と挨拶したら、
「あ、おはようございます」
と挨拶が返ってきたのでフツーの人だと思っていたら、おばさんは川に向かって大声で喋り始めたのでした。妙な節と抑揚がついていて、歌のようにも聞こえました。
「こらっ政治!自分でできないことをなんで人に頼るんだ!
カンポーウルブンコブン
イワモトケンポー
イマイチコン
ニワトリ三羽、カラスがサンバ、ククックー
サトウツトム、ツトムカンポー
ゴアブッシュ、ケネディ元大統領クリントン
ワットワーザー、ドイツスコットランド
西郷隆盛トルシエデンマークベルギー皇太子
南ヨーロッパ、宇宙南グラジオラス ハハンハン♪」

…何かを読んでいるわけでもないし、もちろん喋る相手が近くにいるわけでもありません。どうやら口から出まかせの言葉を発しているようなのです。
 三メートルと離れていない場所にぼくのテントがあるのに、おばさんはやめようとしません。
ぼくはテントの中で笑いをこらえるのに必死でした。
 多少神がかりな人なのか。それとも、ぼくの知らない健康法なのか。
 やがて彼女が去ったあとを見ると、ゴミが残されていました。レジ袋に入った空き缶やビニール、そしてなぜか大根の葉っぱ。
 おばさん、ヘンなのはいいけど、ゴミ捨ててくなよ。
 
 東屋を出ようとした途端に雨が降ってきたので、レインウエアに身を固めて出発。
 少し走ると日光杉並木に行き当たりました。古めかしい並木は好きです。しっかり残してもらいたものだ。
 杉並木の旧街道は歩道になっていて自転車も余裕で走れますが、旧道が車道と合流すると路肩が無いに等しいほど狭くなり、自転車や歩行者には試練です。交通量も多く、とくに観光バスなどの大型車が多いので最悪です。
 
 湯葉屋が軒を連ねる日光市街を抜け、交差点近くのトイレの軒下に自転車を停め、ビスケットで腹ごしらえしてから東照宮見物へ。リュックはどこかに置いていきたいのですが、この雨だし、観光地は物騒なので背負ったまま行かざるを得ませんでした。
 駐車場のチケット売場で各社寺のセット料金1,000円を払いました。「眠り猫や家康公の墓所は別料金です」とのこと。
 
 輪王寺の三仏堂は阿弥陀、馬頭、千手の三仏が祀られていて、これが男体山の山の神の本地仏なのだそうな。馬頭観音のこんなに大きな像は初めて見ました。
一応陽明門でも
一応陽明門でも

 
 東照宮は、雨天だったせいか、さほどケバケバしさがなく、落ち着いた印象を受けました。
 眠り猫と奥の院(家康墓所)は530円だったかな。眠り猫は通路の上のちっこい彫刻で、
「これのどこがスゴいの?」
という程度のものです。解説によれば、猫の像は社寺の彫刻として珍しくないものの、普通はネズミを追いかけている姿が一般的なのだそうな。その猫が眠っているということは、「陽だまり→日光」と「世の太平」を象徴しているんだそうな。
なるほど、眠り猫が特徴的だということはよくわかったけど、美術的な価値がそんなにあるの?
 長く折れ曲がった石段を登って家康公の墓所へ。お墓のすぐ脇にもお守り売店があって商魂たくましい。観光寺なんてどこでもそうですが、日光はとくに、そこらじゅうにお守り売場がはびこっています。
 
 東照宮拝殿は確かに金ピカでハデ派手でした。
 鳴き竜のお堂では、拍子木を持ったおじさんが観光客を待ち構えていて、ぼくの眼をまっすぐに見つめて流暢な解説を喋ってくれました。
「この天井の竜の目の真下で拍子木を打つと、鈴を転がすような音がします。竜の目から離れた場所で打つと聞こえません」
そう言って拍子木を打って聞かせてくれます。確かに、天井画の竜の目の真下で打つ場合に限って
「りりりりり」
という、きれいな反響音が聞こえます。これが竜の鳴き声か。鈴虫みたいな声だ。この竜、キュウリ食うかな?
「へえ、ほんとだ」
ぼくは感心してしまって、「ぼくにもやらせてください」と言いたくなりましたが、おじさんはもう次の観光客への口上を始めていました。
 二荒山(ふたらさん)神社の拝観券も共通券の中に入っていたので何か神宝でも見られるのかと思ったら、ただ拝殿の中に入って参拝できるという、それだけでした。
 
 東照宮一帯は社域が広く、雨の中リュックを背負って歩き回るのはずいぶん疲れました。まして、建物の中に上がるとき、いちいちレインウエアを脱がなければならないのが面倒くさいです。
 最初にもらったセット券は薄っぺらい紙なので、ポケットに入れておいたら濡れてピッタンコになってしまい、モギリの人にチケットを切ってもらうのも一苦労でした。
 他の観光客は傘をさしているので建物への昇降は簡単そうですが、そのかわりみな靴が水を吸ってガポガポになっている様子。
「今日はお守り売るより、靴下売ったほうが儲かるんじゃないの」
カップルで来ていた観光客のうち、女性の方がそうボヤいておりました。
 
 歩き疲れて頭がモーローとしてきたので、自転車に戻りました。今朝の段階では、今日中に中禅寺湖まで行きたいなあ、という計画でした。
 この先はろくな店もないだろうと思ってコンビニに寄り、食料を買い込みました。
 お金を払い、レシートを受け取ろうとしたら、レジのおばさんが目の前でレシートを握りつぶしました。
 ぼくは旅先でのレシートを全て保存することにしているので、少しムッとしました。
「レシートください」
とおばさんに言うと、
「あらァ、すいません!」
おばさんは叫んで、体を二つ折りにして大袈裟な照れ笑いをしました。
「レシートいらないって人が多いから、ついつい…」
「ここに『当店ではレシートのお渡しを励行しています』って貼り紙がありますよ」
「いらないって人が多いから、レシート入れも置いてあるんですよ」
おばさんはレシート専用の小さなゴミ箱を指さします。
 レシートを捨てるか捨てないかは客の自由ですが、買物をした証拠であるレシートを手渡すのは店側の義務のはず。ましてレジの前に貼り紙してあるんですから、言い訳はききません。オレって融通利かないなあ。親譲りかな。
 そんなお店のおばちゃんとの「ふれあい」を済ませたのち、店の軒下で牛丼を胃に流し込み、再び雨の中へ。
 こんな雨の中、中禅寺湖までいけるかなあ、と思いながら坂を上っていくと、公衆トイレの前に地図看板がありました。地図を見て、今日中の中禅寺湖行きを諦めました。ぼくは今まで「いろは坂」の存在を知らなかったのです。地図からも見事なつづら折の坂の様子が読み取れ、強烈な登坂であることは明らかでした。
 ということでいろは坂は明日に回し、Uターンして潰れたガソリンスタンドの軒下にテントを張りました。
 晩飯は、コンビニで買ったカレーパンとおにぎり。
 自宅の姉から電話がありました。
「母さんがテレビを見て心配してた。『日光の猿は怖いらしいから、アキラが襲われたりせにゃあいいが』って」
「ああ、大丈夫だいじょうぶ」
軽く返事をしておきました。
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11月26日(水)晴 猿軍団め覚えてろ

 狭い軒下だったので、雨が吹き込んでテントの床はビタビタになりました。一生懸命タオルで水気を吸い取り、外で絞りました。
 朝飯は、昨夜から浸しておいた米を炊いてレトルトの「なっとくのビーフシチュー」をかけました。
 雨は明け方に止んだものの、風が強くてテントを畳む間にもマットやシートを飛ばされて慌てました。
 湿った手袋をはめて出発。昨日Uターンしたトイレで歯を磨いていると、犬散歩のおじさんがやってきました。
「SRIKか。最近流行ってるな」と、自転車にも詳しい様子。
「沖縄から青森までか。若さだな。日光は寒いだろ。中禅寺湖なんてもっと寒いぞ。オレは里で木葉が降るようになったら中禅寺湖には行かないことにしているんだ。話題にするだけでも寒くなる」
「そうですか、じゃあどれくらい寒いか確かめてきます」
おじさんは看板の地図を指さして、
「これがいろは坂だ。上りよりも下りの方が道が悪い。よそから来た観光バスなんか、折り返さないとカーブが曲れないくらいだ。…中禅寺湖からどう行くんだ?金精峠を越えるのか?」
「いえ、戻って足尾の方に抜けようかと」
「なるほど、そうだな。峠はもう通れないだろうな」
 
 青空に、雪積もりたての男体山がよく見えます。7〜8合目以上は真っ白です。いろは坂に差し掛かると、
「猿に注意 エサを与えないでください」
との注意書きの札が目につきますが、その割には猿が見当たりません。
 いろは坂を上り始めたのは10時頃。約9qのヘアピンカーブが続きます。カーブの一つ一つに「い」「ろ」「は」と仮名が振ってあります。本当にカーブがきっちり48あるのでしょうか。
 
いろは坂から男体山を望む

 風が強いので方向によっては向かい風が厳しく、自転車を押して歩かないといけません。落葉がビオオオと道の上を走っていきます。ぼくを追い抜く自動車の助手席から、白い顔の女の人がニコニコしながらぼくに振り返ります。
 明智平のロープウェイ駅で小休止したのは11時頃。客は多いですが、みな強風にさらされて
「キャアさむーい」と悲鳴をあげています。でも空気は澄んで、山はきれいに見えます。
 中禅寺湖畔はいかにもな観光地の店がずらり。雪こそ積もっていませんが、朝のうちに融けたのかもしれません。
 外にいると寒いので、暖房の効いたトイレの中に自転車ごと入り込み、充電したり、昨日の雨で濡れた靴下や手袋を乾かしたり、アンパンを食ったり。
 
 湖畔の二荒山神社は神社にしては珍しく拝観料を取るらしいので、中に入らずUターンし、かわりに中禅寺の立木観音に行きました。
 補陀落山中禅寺は拝観料300円。坂東観音札所の一つだそうで、徒歩で巡礼する人はいろは坂を上るの大変だろうなあ。
 日光の名の由来は二荒山の音読みに由来し、その「ふたら」は観音様が住むという補陀落(ふだらく)浄土に由来するそうな。勝道上人という人が、男体山中に補陀落があると信じて山に入り、この寺を開いたそうな。
 海の彼方に観音浄土があるという幻想はなんとなく理解できますが、山奥に観音様が住んでいらっしゃるというのはどういう信念から生まれた発想なのでしょうか。まあ、民俗学的には海の彼方も山の彼方も「あの世」には違いないでしょうが、男体山の山奥で観音様が弓矢持って猪追いかけたりしてたら、勝道上人もきっと幻滅したでしょう。
 
 千社札だらけの鐘楼や、杉に生えた「身代わり瘤」などを眺めて進んでいくと、本堂からおっさんが手招きしていました。
 見ず知らずの人に手招きされるのは昔から好きではないのですが、仕方なくついていくとおっさんは「さあこちらへ」とご本尊の立木観音の前にぼくを案内して解説を始めました。
「この立木観音様は地面に根を張った一本の桂の木を彫って作られたものです。正式な名前は千手千眼観音と申しまして、手の一つ一つに目がついておられます」
「よく見ると顔が十一ありますから、千手千眼十一面観音ですね」
「そのとおりです」
じゃあ、正確には十一面についてる目を合わせて「千手千二十二眼十一面観音」と呼ぶべきですね、と言いたくなるのをぐっとこらえました。もしかしたら、眼のついてない手が二十二本あるという設定かも知れないし。
 おっさんは続けて
「この観音様がお持ちになっている杖は錫杖と言いまして、この先についている輪をジャラジャラ鳴らして道中の獣や魔物を追い払う意味があります。これを模して作ったのがこちらの錫杖お守りで、磁石になっていて車にとりつけられ、交通安全にご利益があります。拝観順路はもうここには戻りませんから、今ここでしか買えませんよ」
と、いつのまにかお守りのセールストークになっているのでした。
「どうですか、旅の記念にぜひ」
「はあ…」
生返事ばかりしているぼくに見切りをつけたおっさんは、売店の兄ちゃんとおしゃべりを始めました。分かりやすい寺だなあ。
 本堂から階段を上ってコンクリート製の別棟に行ってみると、大した仏像はないかわりに中禅寺湖の眺めがよかったです。
 
 駐車場に停めておいた自転車には、アンパンを入れたビニール袋を括りつけておいたのですが、猿にとられてもいませんでした。
 次に見たのは華厳の滝。有料駐車場に有料エレベーターと、有料ものが揃っておりましたが、ぼくは無料展望台から眺めるだけで満足したので出費せずに済みました。
 華厳の滝はさすがにカッコよかったです。落差も申し分ないし、崖の下半分がドーム状にえぐれていて細い枝滝が何本も流れているのがサマになっています。
自殺の名所らしいけど、滝に跳び込むとなるとあの辺の斜面を下りて落下口まで行くのかな、それもしんどそうだな。
 そんな想像を楽しみました。
 
 いろは坂を下ったのは1時過ぎ。確かにハードなヘアピンカーブの連続で、上り道との合流点まで下るのに15分もかかりませんでした。下りのカーブにも仮名が振られていて、「本当に『ん』で間に合うのか?」とハラハラしましたが、微妙に緩やかなカーブを数えるかどうかでうまく調節し、半ば強引に「ん」で締めたような印象でした。
 なにせ寒くて小便が近いので、いろは坂のふもとの公衆トイレに入りました。トイレから出るといつのまにか7〜8匹の猿の群が悠々と道路を占拠していました。
「やば、自転車にアンパンをぶらさげたままだ」
と思い出し、慌てて自転車に戻ると、ビニール袋は無事でした。
「へへん、猿どもめこれに気づかないのか」
と勝ち誇って自転車にまたがり、数メートル走り出したところでした。
 突然茶色い塊がぼくの腕の下を横切ったかと思うと、ハンドルにぶら下げていたアンパンの袋があっけなく引きちぎられ、消えていました。
「やられた!」
思わず叫んで振り向くと、一匹の猿が早くもぼくのアンパンを抱えてかじりつこうとしているところでした。
「ウホウホ」
とヤツが勝ち誇る声を確かに聞きました。
 ぼくをやりすごすと見せて背後から忍び寄り、ぼくの体と自転車の間のわずかな空間をジャンプしてすり抜けるとは何たる運動能力と判断力。こういう点は、人間は猿に勝てないなあと思い知らされました。
 こんなことなら、アンパン残さずに全部食べとけばよかった。
 
 足尾の先が群馬県との境。手元の地図は等高線がないので、
「県境なんだからきっと峠なんだろう。今日のうちにどこまで行けるかな。あまり標高高いところで寝たくないな」
と戦々恐々としておりましたが、いくらも走らないうちに長いトンネルに入り、それを抜けると谷川沿いに緩やかな下り坂となりました。この川が渡良瀬川ということは、あとは群馬まで下りっぱなしということです。
 長野県人のぼくとしては、なぜこのトンネルが県境でないのか、理解できません。足尾銅山の利権が絡んでいたのでしょうか。
 足尾の地名は、木枯らし紋次郎の小説やドラマにもよく出てきました。晩秋の夕日に散りそびれた紅葉が照らされ、いかにも上條恒彦が歌うテーマソングが似合いそうな景色です。
 足尾はひなびていて、いい雰囲気の町でした。特に駅周辺のぼろっちい町並からは、閉山後のうら寂しさが滲み出ていてぼく好みです。これでも褒めてるつもりなんですけど。
 
波支利大黒天
波支利大黒天

 道路脇の崖に「波支利大黒天」なるものが祀られていました。そういえば、中禅寺にも同名のお札が売られていました。素朴な大黒様の図像で、その足に針を刺すと泥棒が動けなくなり、盗まれたものが戻ってくるのだそうな。一枚買っとけばよかったな。
 足尾の「波支利大黒天」の看板によると、昔勝道上人が修行中、彼の許に白ネズミが稲穂を咥えて現れました。上人がネズミの足に紐を結んで後を追うと、ネズミはこの付近の洞窟に入りました。そこで上人はその洞窟を修行の場と定め、その地を「足緒」と名づけました。これが「足尾」の地名の由来だそうです。
 
 足尾観光銅山には入りませんでした。入場料に800円払うのが嫌だったし、一人で入るのも寂しいと思って。
 さらに自転車を進め、県境を越えて群馬入り。Black Bone Village(黒保根村)の駅の下に、ひと気のない運動公園のようなものを見つけたので、ゲートボール場ともただの空き地とも知れぬ一角にテントを張りました。ヌスビトハギがたくさんくっついて不愉快です。
 晩のおかずは鯖缶。大学時代のサークルの先輩で館林市在住のマングースさん(仮名:日記読者)から電話が入りました。
「メールもらったけど風邪引いててさ、返事遅れてごめんな。これからどういう予定?」
「あさって薮塚本町の三日月村に、ホームランと一緒に行くんですよ」
「三日月村か。オレも小学生の頃行ったなあ。面白かったよ。あさってなら授業ないから、俺も有給とって一緒に行こうかな」
「ホントですか!?」
「あさってはオレんとこ泊まりなよ。薮塚から館林だと少し距離あるけど。また電話するよ」
マングースさんは群馬の高校教師です。学校休んで三日月村につきあってくれるなんて、いい度胸してるなあ。
 しかし、これで面白くなってきたぞ。気の合う友達と一緒になって、バカなものに思う存分ツッコミを入れられるのは、ぼくにとって至上の歓びです。わくわく。
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11月27日(木)晴 赤城神社は物忌中

 夜中に小便に起きたら、星がきれいでした。メガネをかけていないのにたくさん見えましたから、夜空がいかに晴れているかは推して知るべし。こりゃ放射冷却がきついぞ、と思っていたら、案の定朝はしっかり霜が一面にこびりついておりました。
 朝食はトースト二枚。食い足りませんが、他に食うものもなし。もたもたしていたらこの谷間にも日が射してきたので、近くの水道でパンツや靴下を洗いました。
 11時ごろ出発するまで、テントから半径50m以内に通りかかった人はほんの三人程度でした。静かな場所を選んでよかったです。
 今日の見物予定地は赤城神社。国定忠治が祀られているのかな。
 黒保根村から赤城神社へは、国道122号から梨木温泉への道に入り、国道353号に合流した方が近そうに見えたので、その道を選んだら失敗でした。かなりしんどい峠道でした。
 朝飯を充分に食べていないので、坂が余計にきつく感じられました。
 ようやく峠を越えて国道353号に出ると、前橋一帯が広々と見渡せました。手元の地図には等高線がなかったので気がつきませんでしたが、けっこう高くまで登ってきていたようです。
 赤城神社は、祭礼に先立っての物忌中だそうで、拝殿の扉もぴったりと閉ざされ、つまんなかったです。
 境内に怪しい古代文字の石碑があったことと、池のほとりの黄色いもみじがきれいだったくらいしか印象にありません。
 明日は大学時代の友人らと「三日月村」に行く計画なので、今夜はなるべく藪塚本町の近くで寝たいところ。
 群馬といえどやはり都市。さっそく道に迷って苦労しました。
 夜遅くなるまでうろうろし、結局ねぐらとしたのは赤堀町の国道50号沿いの倉庫の軒下。晩飯は、マグロの粕漬を焼いた奴と、煮込みうどん。
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11月28日(金)晴 男三匹三日月村

 夜、倉庫の裏に小便をしに行ったとき、耳栓を落としました。暗いので夜が明けてから探すことにして、テントに戻りました。
 どうせこんな倉庫、あんまり使ってないんだろうと高をくくっていたら、夜も明けないうちから大きなトラックが横付けして、朝六時頃から倉庫が開かれてなにやら作業が始まった様子。テントを建てた場所が隅っこだったので作業の邪魔にはならなかったようで、安堵。
「どーも、お邪魔しております」
と挨拶すると、
「どっから来た。飯田?飯田ならよく行くぞ。けっこう取引先があるからな」
「そーですか」
「うるさくしてすまんけど、まあゆっくりしてけや」
と言ってくれましたが、ゆっくりしていくわけにもいかなそうなので、早々にテントを畳んで出発。こっそり倉庫の裏を覗きましたが、耳栓は見つかりませんでした。まあいいや、100円ショップで買ったやつだし。
 
 友人達との待ち合わせは10時に藪塚本駅なので、まだ時間があります。ということで寄ったのは国定忠治の墓。案内看板に従って行くと、養寿寺というお寺にたどり着きました。
 倉庫のおじさんたちの手前、小便ができなくて苦しんでいたのですが、ちょうどお寺のおばあさんがトイレの鍵を開けている最中だったので助かりました。
 おばあさんに訊いて、裏の墓地の忠治の墓へ。「長岡忠治の墓」というでっかい碑の隣に、鉄柵で囲まれた小さな石塔がひとつ。どうやらこちらがホンモノの墓のようです。錆びた賽銭箱に一円玉を入れて参拝。
 本堂の横には「国定忠治遺品資料館」があり、先ほどのおばあちゃんが座っておりました。入館料は200円くらいだったかな。展示品はもちろん「忠治愛用の××」。
忠治が使った弁当箱、
忠治が使った煙草入れ、
忠治が使った道中合羽、
忠治の墓の先代石塔、
などなど。
 忠治の墓のかけらを持っていると勝負事に運が向くと言われているそうで、先代の石塔は参拝客に削られてサッカーボールよりも小さくなっておりました。
 一応ここで国定忠治についてまとめておきます。
 
 本名は長岡忠治、文化七年(1810)に国定村の財産家、長岡家の長男として誕生。13歳で博打を覚え、17歳で最初の人殺し。22歳で「堺町の門二」親分の杯を受け、間もなく縄張りを任される。
 24歳のとき「島村の伊三郎」を斬って信州に遁走するが、逃げ切れなくなって赤城山に立てこもり。この頃からカリスマ性を発揮し始めたらしい。
 以降赤城山を拠点として上州一円に縄張りを広げる。天保大飢饉の折、江戸からの金飛脚を襲ってその金を農民に配ったとか、大塩平八郎の乱に同調しようとしたとか、農民のために溜池を掘ったとかいろいろエピソードがあるらしい。
 39歳で縄張りを手放して妾とともに隠居。40歳で脳出血により半身不随となって御用。江戸に連行されて41歳で磔刑。(以上、ばあちゃんからもらったパンフレットを要約)
 
 忠治の生涯は講談を通じて有名になったものですから、どの程度事実なのかはよく知りません。赤城山で役人との乱闘の末にお縄になったのかと思っていたのに、隠居後に病気で動けなくなって捕まったという最期は、なんとも格好悪くてリアルです。
 展示品を一通り見物して出入口に戻ってくると、おばあちゃんが
「外に置いてある自転車はお前サンのかい」
「そうですが」
「どこから来なすった。信州?そりゃまたご苦労なことだ。この絵葉書、古いやつだけど持っていきな」
と、お土産用の絵葉書をタダでくれました。
 歳のわりに滑舌のいい口調が、いかにも任侠の土地の人っぽくて印象に残りました。
 
 今日は朝が早いので、まだまだ時間があります。次に向かったのは岩宿遺跡。日本で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。
 遺跡といっても、赤土の中から石器が数個出てきただけですから、現地を見てもそんなに面白くありません。岩宿文化資料館はまだ開いていないようでしたが、保護観察施設(岩宿ドーム)は開いていて、無料で中に入れました。半地下式になっていて赤土層の断面が見られるのと、古くさ〜い旧石器アニメを上演しているだけでしたが。
 資料館の向かいにはちょっとした売店がありました。
 季節外れのかき氷もあるようでしたが、「マンモス焼」の幟が気になったので、食べてみることにしました。
 売店が開いて間もなかったので鉄板を温めるのに時間がかかった様子でしたが、焼きあがってきたものはマンモス形の皮に餡が入っているものでした。
 なんだ、これじゃタイヤキとおんなじじゃん、と思いましたが、タイヤキに鯛が入っておらず、今川焼に今川義元が入っていないことを考えれば、文句のつけようもありません。
 焼きたてのアツアツで、皮がパリパリして美味しかったので良しとしました。
 
 約束時間少し前に藪塚本駅に行くと、やがてマングースさんの車がやってきました。
久しぶりの再会を喜び合い、
「すいませんねえ、平日に学校さぼってつきあってもらっちゃって」
とぼくが言うと、マングースさんは
「いいんだよ、昨日まで風邪こじらせてて、遅刻の言い訳は立つから」
と、相変わらずの能天気ぶり。
 やがて電車でやってきたホームラン君と一緒に、三日月村へ向かいました。
 晩秋の平日の午前だけあって、三日月村には客が一人もおりませんでした。吹きすさぶ木枯らしに落葉が舞って、いかにも木枯らし紋次郎の故郷です。
 入村とアトラクションのセット券(1,500円)を買い、一応1,000円分を寛永通宝に両替して関所をくぐりました。
 その辺に置いてあった籠を担いでみたり、「木馬」(木製の竹馬)に乗ってみたりして、三人とも早くも高テンションのはしゃぎぶり。
 
 村内のあちこちに絣姿のおばちゃんが待ち構えていて、我々に向かって手招きしております。
入った順にアトラクションを紹介します。
 
「不可思議土蔵」
入口の看板文句には、
「この地が狂い始めたのか、地の力にさからうものあり、小が大を越し、座して驚き、歩みて我を疑う事ばかり」
と、なかなかの名調子。要は斜めに建てられた建物の中で、平衡感覚を失って楽しむアトラクションです。
「この段に登って、自分がどんな格好になっているか、周りの友達に教えてもらおう」
などと、ご丁寧に楽しみ方のお節解説もしてあります。
 
「戯揶満館(ぎやまんやかた)」
 鏡を使ったトリックですが、押しても何の反応もないボタンや、反応があっても
「…ど、どこが面白いんだ?」
と戸惑うばかりの仕掛けなど、趣向が満載でした。
 
「絡繰屋敷」
 おばちゃんの先導について歩き、屋敷の中の隠し扉を見つけたり、迷路を抜けたりするアトラクション。かなり年季が入っていて、からくりの取っ手が手垢で汚れていてバレバレだったりしてました。
 
「怪異現洞」
 地底探検モノ。真っ暗な中を歩いていくと、扉が勝手に開いたりするという趣向ですが、ただそれだけ。一応人骨なども散らばってはおりましたが、お化け屋敷としてはサービス少なすぎ。別に電動でなくてもいいから、変な妖怪のハリボテとか、たくさん置いといてほしい。
 トンネルの最奥部には、間抜け顔をした恵比寿様と大黒様が安置されており、ぼくたちの失笑を買っていました。
 
 基本的なアトラクションは以上の4つだけで、「絡繰屋敷」以外は人件費不要の
「ほったらかシステム」
を採用しているという、合理的な運営形態に脱帽するばかりでした。
 それにしても、どのアトラクションも木枯らし紋次郎と何の関係もないと思うんですが。
マングース「いやあ、面白いなあ。二度目だけど覚えてないから新鮮だった」
ホームラン「イマイさん、一人で来なくてよかったですねえ」
ぼく「ほんと、助かったよ。もし一人で来てたら、ツッコミの持って行き場がなくて気が狂うね」
などと三人で話しておりましたが、実際にぼくたちの後から、単独客がちらほら。彼らには木枯らしがより冷たく感じられたのではなかろうか。
ホームラン君と。:撮影マングースさん
紋次郎と記念写真

 アトラクションのある場所から少し下ると、一応時代劇風な建物が作られていて、紋次郎や女郎の等身大人形なども鎮座していました。
 茶屋でソバと焼餅の昼飯。
 原作によく出てくる食べ物といえば、冷えて固くなった豆餅ですが、そんなものはメニューにありませんでした。
 荒物屋(売店)で、東京の友人らに菓子でも買おうかと思いましたが、「紋次郎最中」などといったものがなかったので断念。
 自分用に「紋次郎の楊枝」を買いました(6本百円)。
 三人揃ってわざとらしく爪楊枝をくわえながら、笹沢佐保記念館へ。モニターに木枯らし紋次郎が登場して
「お客さん、追っ手が迫っておりやす。次の部屋へ逃げておくんなさい」
と案内するという趣向で、立ち回りのロケも三日月村で行なわれているという凝りようが立派でした。役者が中村敦夫でなかったのが残念ですが。
 マングースさんもホームラン君も、別に木枯らし紋次郎ファンというわけではないので、ざっと流し見しておりましたが、ホームラン君は笹沢佐保の著作一覧を見て
「『サンセット刑事(デカ)』?あはは、どんな刑事なんだ。あはははは」
と大ウケしておりました。感性は十人十色です。
 
 さすがに職場に戻らなければならないマングースさんと別れて、ぼくとホームラン君は隣のスネークセンター(600円)へ。
 こちらも三日月村に負けず劣らず朽ちかけた観光施設ですが、経営者は別なのだそうな。
 基本的に蛇は好きですが、季節が季節だけに、どの蛇もトグロを巻いたままほとんど動きません。ずらりと並ぶ水槽の中で、さかんに動いていたのはウミヘビ君だけでした。
「うむ、こいつはサービス精神がある。えらいえらい」
「今日はこいつが当番なんですよ、きっと」
 
 露天のマムシ園などがありましたが、見えたのは一匹だけ。
スイカヘビ
スイカヘビ

 スネークセンターで面白かったのは蛇ではありませんでした。注目は「スイカヘビ」と恐竜軍団。
 「スイカヘビ」はこの町の名産である西瓜とヘビを合体させたもので、ぼくとしてはカワイイと思うのですが、スイカそのまんまに輪切りされているのが可哀想。
 恐竜模型は、廊下に無造作に放置されたステゴサウルスや、水色の床にペッタリと並べられた三葉虫などが涙を誘います。
 
 さらに、古ぼけた看板を頼りに園内をさ迷うと、崖に穴が空いていて、暗闇の彼方に何かがある様子。
柵の向こうに廃墟が見えたので
「むむ、これは面白そう」
と強引に不法侵入してみました。
「イマイさん、廃墟好きですねえ」
とホームラン君は少し呆れ顔。
ティラノサウルスvsイマイ
ティラノサウルスvsイマイ

 廃墟には、埃をかぶったティラノサウルスのハリボテなどが散乱しておりました。ジュラシックパークの真似をして作ったものでしょうか。いや、それよりももっと時代は古いかもしれない。
「なるほど、脈絡のないステゴサウルスや三葉虫は、かつてここに展示されていたものに違いない。運べるものだけは移動して、このティラノサウルスはでかすぎたためにここに放置されたんだ」
勝手に推理してほくそえむぼくでした。
 
 スネークセンターの出入り口は土産屋になっていて、そこを通過しないと外に出られないシステムでした。
 売られているものは、蛇革の財布やベルト、蛇を使った強壮剤など。
「どうですお客さん、お土産に何か、ぜひどうぞ」
と店のおばさんが、悲しいくらいたどたどしいセールストークで擦り寄ってきました。
「大勢に配れるお菓子みたいなものありませんかね」
「…そういうものはないんですが、どうですか、この蛇革のバッグは」
「それはちょっと…」
「記念に皆さんに配るということでしたら、どうですかこの“蛇ステッカー”は」
「う〜ん」
店内には白衣を着た上司らしきおじさんが目を光らせていて、いちいちおばさんに小言を言っています。
「こら、お客さんに尻を向けるな」
「あっ、す、すいません」
卑屈なおばさんの態度も痛々しいですが、従業員に対して露骨に横柄なおじさんの態度も不愉快でした。
 スネークセンターを出てから、ホームラン君が言いました。
「おばさん怒られてましたね」
「あのおじさんに『客の前で社員を叱るな』と言いたいよね」
 
 今夜は館林市にあるマングースさんの家で、三人で鍋をしようという計画です。
 駅前の喫茶店でホームラン君とお喋りした後、彼は電車で、ぼくは自転車で館林市に向かいました。
 ぼくが待ち合わせ場所の館林駅前に着くと、ほどなくマングースさんもやってきましたが、ホームラン君がなかなか現れません。電話をしてみると近くの雀荘に入ったきり、抜けられなくなったとのこと。
「仕方ない、先に準備していれば奴もそのうち終わるだろう」
ということで、まずマングースさんの自動車の先導で彼のアパートにお邪魔し、二人でスーパーに鍋の材料を買出しに行きました。
「土鍋もカセットコンロもないんだよ」
「土鍋でなくても、普通の鍋でも構いませんよ。台所のガスコンロ使えば充分ですし」
「そうか。まあ、せっかくだから土鍋は買おう」
「これからも活用してください」
一通りの買い物が済んでアパートに帰ろうというときに丁度ホームラン君から
「ようやく抜けられました」
と電話が入りました。迎えに行くと、
「電話もらったときは負けがこんでたんで、とても抜けられませんでした。でもあの後盛り返して、三万円勝ちましたよ」
「へー、そりゃよかった」
 
 アパートに帰り、まずやらなければならないのは、流しにたまっているマングースさんの汚れた食器を洗うこと。
 学生時代の彼の台所も汚かったなあ。人間て、やっぱ変わらないんだな。
しみじみしながらも、ぼくはマメな性分なので全てきれいに洗い、ようやく生まれたスペースで野菜を切って土鍋にぶちこみました。だし汁は既製品なので、調理が楽です。
リビングに運ぶと
「お、うまそう」
と歓声が上がりました。三人とも昼にソバ食ったきりなので、腹ペコ。
 ビールやワインを飲みながら第二ラウンドまで行い、最後は雑炊で締めました。買出しのときは「こんなに食えるかな」と不安でしたが、まだ少し物足りないくらいでした。
 気のあった友達と鍋を囲むのは楽しいですねえ。部屋コンパをやっていた学生時代が懐かしい。
 ホームラン君は最終列車で東京に帰る予定でしたが、頼んでおいたタクシーが現れず、結局明日の始発で戻ることになりました。
「ちゃんと頼んだでしょ。もうあんたんとこ使わないよ!」
と電話の向こうのタクシー屋に苦情を言うマングースさんの口調も、昔どおりで懐かしかったです。
 
 布団がないので、ホームラン君にはシュラフを一枚貸してあげましたが、たぶんあれだけでは寒かったと思います。
 気の毒。
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11月29日(土)晴 分福茶釜の真相

 朝一番で東京に帰るホームラン君を見送り、少し寝直してマングースさんの出勤に合わせて出立。
「今日の予定は?」
「分福茶釜のお寺に寄ってから、つくばにでも行こうかなと」
「茂林寺なら近いよ。…つくばまで一日で行けるか?」
「たぶん大丈夫です。今度、東京でも飲み会開いてくれるみたいですから、またその時に」
「都合がついたら行くよ。気イつけてな」
 
 マングースさんの言葉通り、茂林寺へはほどなく着きました。参道にタヌキの石像がずらりと並んでいます。
 
 分福茶釜といえば、狸が茶釜に化けてどうこうしたという話が思い浮かびますが、茂林寺に伝わる伝説は全然違いました。
 この寺は応永三十三年(1426)に大林正通という坊さんによって創建されましたが、そのとき伊香保からやってきた守鶴という和尚さんが一緒でした。
 守鶴は以後161年にわたって歴代住職に仕え、天正十五年(1587)2月28日に忽然と姿を消しました。
 よって後に守鶴和尚は狸だったと噂されるようになり、ついには寺の鎮守神「守鶴大善神」として祀られるようになったのだそうです。
 なんか、武内宿禰みたいな人だな。
 元亀元年(1570)、千人法会のときに使う湯釜がなくて寺が困っていたところ、どこからか守鶴和尚が茶釜を持ってきました。その茶釜は汲めども汲めどもお湯が尽きない不思議な釜で、守鶴和尚自ら「紫金銅分福茶釜」と名づけました。
 茂林寺に伝わるこの伝説を元に、なんとかいう童話作家が作った物語が人口に膾炙している分福茶釜なのだそうです。
守鶴和尚像
守鶴和尚像

 拝観料を払って本堂に入ると、茶釜の実物や、狸グッズコーナーなどを見ることができ、守鶴和尚の像もありました。像を見る限りふつーの坊さんで、狸っぽくはありませんでした。
 一般的に「文福茶釜」と表記されることもありますが、茂林寺では「分福茶釜」と記されていました。汲めども尽きない湯を福に見立て、福を分けるという意味なのでしょう。
 
 茂林寺を出てからは、一部埼玉県をかすったのち、利根川の土手を東征。
サイクリングロードでは地元の高校生がマラソンをやっておりました。中継地点はジャージ姿の生徒がうじゃうじゃ。走る友人らに
「がんばって」
などと声をかけております。畢竟、ぼくもその中を通過しなければならないわけで、ぼくが通ると笑いと声援が飛びました。
「きゃー」
「あはははは」
「がんばってーっ」
仕方無しに片手を挙げて声に応え、そのままそそくさと車道に逃げました。
 
 茨城県に入り、岩井市を通ったので平将門を祀る国王神社に寄りました。学生時代に何度か訪れてはいますが、平将門のネームバリューのわりにはこぢんまりしていて、茅葺屋根がいい風情でした。
 
 つくばに入ったのはちょうど日没時。吾妻のカスミストアで晩の食材を買った後、すぐ近くの吾妻公園の東屋でテント設営。松見公園よりは静かで寝やすいはずです。
 晩飯は、ニンニクの芽を具にした焼きそば。
 あしたはエキスポセンターでも拝観しようかな。
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11月30日(日)晴 エキスポ幼稚園

 朝、テントを畳んでいると子供が一人やってきて
「なにしてんのー」
「野宿しながら自転車旅行だよ」
「あっそー」
そのまま去っていきました。…学園都市のガキはなんか腹立つぞ。
 
 今日は「つくば市民の日」だそうで、市民でないぼくもエキスポセンターに普段の半額(350円)で入ることができました。
 エキスポセンターは、17年前のつくば万博の燃えカスです。これでぼくは大坂万博、沖縄海洋博、つくば万博と、日本三大博覧会の遺跡をチェックしたことになります。えらいえらい。
 で、中身としては、「これで通常料金取られてたら悔しかっただろうな」
という内容のものでした。
 万博には「星丸くん」というのがいた記憶がありますが、あれはロボットじゃなくてマスコットだったのかな。
「つく丸くん」というロボットが正面玄関に立っていましたが、胸のところに貼り紙がしてありました。
「つく丸くんはただいまお休み中です」
 指で電子オルガンを弾く「ワスボット」とかいうロボットも実物が展示してありましたが、コンセントが抜けていました(動かないことの比喩的表現)。
 
 入場料が割引ということで、館内は子供が多すぎて託児所状態。子供たちはとりあえず目につくボタンを端から押していきます。ボタンを押した結果がどうなのかなんてことには、ほとんど頓着していません。
 海底探検を体感できるコーナーなどもありましたが、子供たちが順番待ちしているので28歳のおじさんのつけ入る隙はありません。
 その辺の覗きカラクリ(古臭い表現だけどピッタリ)をぼくが覗いていると、
「すみませーん、いいですか」
と後ろから声がします。
 なんだ?とぼくが振り向くと、後ろに控えていた子供がぼくを押しのけるようにしてカラクリに目を押し当てます。お行儀がいいのか悪いのか。
 
 プラネタリウムは「世界最大級」というのが謳い文句でしたが、プラネタリウムの番組なんて、だいたいどこもおんなじで。
 映し出される星空を眺めながら、
「このドーム一杯にエロビデオ放映したら大迫力だろうなー」
なんてことをぼんやり考えたり。
 
 面白かったのは、動燃(?)プロデュースのマジックビジョン番組。ハーフミラーで実写動画を投影させるやつです。
 少し金のかかった博物館にはこの手の番組が必ずあり、大概の番組はバカバカしくて面白いので見逃せません。うろおぼえですがストーリーをご紹介。
 
番組その1
 
ピラミッドで眠っていたエジプトのファラオが目覚める。彼は心配している。
「太陽が燃え尽きたらこの世はどうなってしまうんだろう?」
そこに現代の男の子が現れて、ファラオに言う。
「太陽は核爆発しているからすぐには燃え尽きないんだよ。ぼくたちがやってる原子力発電も核エネルギーだから、石油よりも効率がいいのさ」
「そうか、それならわしも安心して眠れる」
ピラミッドの玄室に戻っていくファラオ。
 
番組その2
なんでこんな女の子が原子力に詳しいんだ?
MOX燃料なら大丈夫♪

 
 空から宇宙生物がやってきて、森の中に落ちてくる。ピンク色の体、垂れ目、三ツ口(実写ぬいぐるみ)。
そこへアニメ画像の妖精と、実写の女の子がスキップをしながら登場。女の女は三角巾(?)をかぶり、白雪姫を気取ったと思しきエプロン姿。
女の子と妖精に助けられたピンク星人が、事情を説明する。
「ぼくたちの星ではエネルギーがなくなって滅亡寸前なんだ」
「だったらウランを使えばいいじゃない」
「でも、放射性廃棄物が一杯になっちゃって手に負えないんだ」
「それならプルトニウムを燃料に混ぜて燃やせばいいのよ」
「そんな方法があるのか、知らなかった。故郷のみんなに教えてあげなくちゃ。じゃあね、さようなら」
「さよーなら」
「さよーなら」
 
 ほかに、エキスポセンターで印象に残っていることといえば、センターの裏庭の「こどもの国」がものすごく寒々していたことと、コインロッカーの上に置いておいたリュックを降ろしたら、埃だらけになっていたことぐらいです。
 
 つくばを出て、土浦から霞ヶ浦の北岸を走ります。常陸国風土記に登場する夜刀の神、その伝説地とされる玉造町が目的地です。
夕日に映えるハス田
夕日に映えるハス田

 広々としたハス田。赤く傾いた陽光が水面の鏡に反射すると、折れ曲がったハスの枯れ茎がまるで針金の群のように映って抽象画のような雰囲気。
 
 霞ヶ浦町の道端で見つけた「崎浜横穴古墳群」は、牡蠣の殻が堆積した38万年前の地層に古墳時代後期の横穴墓が穿たれ、そこに近世のお地蔵さんがお祭りされているというちょっと変わった史跡でした。
 
 今夜は「霞ヶ浦水族館」裏の東屋。明日はまた天気が悪くなりそうです。
 公園の売店で気まぐれに霞ヶ浦のハゼの佃煮を買いました(300円)。今夜はカレーなので、明日の朝のおかずにしよう。
 
 近所のうら寂れたガソリンスタンドでストーブの燃料ボトルを差し出し
「ガソリンを500ccください」
と言ったら、お店のおばちゃんは給油機のカウンターを見ながら
「500ccというと、5ね」
と呟きました。
それだと5リットルじゃないですか?とぼくが言う間もなく、ボトルからゴボゴボとガソリンが溢れ出ました。おばさんは照れ笑いを浮かべて、
「あらら、こぼしちゃった。…74円ね」
それって、こぼれた分も含めた値段でしょう?ぼくはちゃんと500ccって言ったんですからね、と反論したくなりましたが、差額にしても20円のことなので、黙って払いました。
 おれって大人物。
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12月1日(月)曇のち雨 夜刀の神のふるさと1

 朝飯は一昨日の焼きそばの残り。したがってハゼの佃煮は今夜以降におあづけ。
 霞ヶ浦大橋を渡ると玉造町です。道の駅「たまつくり」に併設された「霞ヶ浦ふれあいランド」には、以前入ったことがあるので今回はパス。
 近くに開店したばかりの大型スーパーがあったので、食パンやキャベツ、「鮭のやわらかカツ」などを買って道の駅の休憩所に戻って昼飯。
 その後、玉造町内をそぞろ歩いてから図書館で夜刀の神関係の資料を読書。
 ここで『常陸国風土記』の夜刀の神伝説について紹介します。
 
 常陸国行方(なめかた)郡の古老が語るには、継体天皇の御世に箭括の氏麻多智(またち)という人がいた。郡役所(麻見町)の西の谷に葦原があるのを見つけ、そこを開墾して田とした。すると夜刀の神が群をなして集まり、耕作の邪魔をした。
(夜刀の神はこの付近に多く棲む角のある蛇で、これを目にした者には災いが起き、家は滅びて子孫が絶えるという。)
 麻多智は怒って鎧を着て矛を持ち、夜刀の神を山の麓まで追いたてた。そして杭を立てて堀を作り、夜刀の神に言った。
「ここから上は神の地とし、ここから下は人の田とする。以後、私が神主となってお前たちを末永く祀るから、恨んで祟りなどすることのないように」
そして社を建て、その子孫は今まで絶えることなく祀り続けている。
 その後、孝徳天皇の御世に、壬生の連麻呂がこの地に赴任し、池を掘って堤を築いた。すると夜刀の神は池のほとりの椎の木にぞろぞろ登って動こうとしない。麻呂は大声で
「この池を掘るのは人民のためである。命令に従わないのはどこの神だ?」
と言い、夫役の者たちに命じた。
「目に見えるものは魚でも虫でも恐れずにみなぶち殺せ」
すると夜刀の神たちはようやく逃げ隠れた。
 その池は椎井の池といい、鹿島に向かう街道筋にある。
 
 「夜刀(やと・やつ)」とは、谷間の湿地をさす言葉です。この物語は人間が自然を服従させる様を表しているとも解釈できますし、「夜刀の神」とは山間の先住民が祀る神であり、これは大和民族と土着民族との攻防を表した物語であるという解釈もあります。
 蛇好きのぼくとしては、姿を見るだけで家が滅ぶとまで恐れられた夜刀の神が、なぜあっさり退治されてしまうのか納得がいきません。
 夜刀の神に角があったという伝承も気になります。常陸国風土記には他にも角のある蛇が登場するそうです。「角のある蛇」とは中国由来の竜のイメージが重ねられているのか、それとも外来文化とは無関係な土着の観念だったのか。
 青森で見た虫送りの蛇にも角があったのを思い出します。
 ちなみに、玉造町にも7月13日には大蛇の形をした「盆綱」を子供たちが曳いて回り、
「仏様がござらっしゃった」
と唱えるそうです。つまりは蛇が死霊とみなされているわけで、もしかしたらこれこそ夜刀の神信仰の名残かも…。ロマンですな。
 
 本を読んでいたら日が暮れてしまったので、今夜は霞ヶ浦ふれあいランドの公園で寝ることにしました。
 晩飯は、スープかなんか煮たっけな。
 
 東京で友人らが「イマイ君を励ますかい?」をしてくれるのは12月6日頃。スケジュールに余裕があるので、のんびり走れます。
関東東海編目次 表紙

12月2日(火)晴 夜刀の神のふるさと2

 玉造町役場で観光パンフレット一式を入手し、地図を頼りに椎井の池に行きました。壬生連麻呂が築き、夜刀の神が椎にまきついて抗議したと伝えられる場所です。
これじゃただの水溜りだろ。
椎井の池

 実物は、貧相な泉でした。事前に写真で見ていたので承知していたものの、やっぱり雰囲気不足でがっかりです。水底を見ると、透明な水がこんこんと湧いていて、泉としてはきれいです。一応、細い椎の木も生えてはいます。
 風土記には、まるで山の麓にあるかのような書き方がされていますが、椎井の池から上に上ると愛宕神社があり、さらに林を抜けると広々した畑に出ます。そもそも玉造町のある付近は台地があるばかりで、高くそびえる山はないのです。
 
 椎井の池の上にある愛宕神社も、江戸時代に勧請されたことが明らかだそうです。まあ、愛宕神社が建てられる以前に、何らかの信仰遺跡がなかったとは言い切れません。でもやっぱり、きっと本当の椎井の池は、どこか他にあると思いたいのが正直なところです。
 愛宕神社の境内には
「こここそが風土記に記された夜刀の神の伝説地なんじゃあ」
という主旨の碑文が建っておりましたが、これなんか地元のおっさんが大正5年に建てたやつだし。
 まあ、伝説の地なんてものはだいたいこんなもんだよね、と自分に言い聞かせながら、椎井の池を後にしました。
 町指定の天然記念物となっている椎の巨木があるんだそうで、どんな雰囲気のものか見てみたかったのですが、発見できませんでした。
 
 北浦を渡って大洋町に出、国道51号を南下して鹿島神宮に行きました。
 ここも初めて来たわけではないのですが、あらためて思ったことは、
「鹿島神宮って、有名なわりに社殿がちっちゃいんだなあ」
ということです。
 一応要石なぞも見て、次は銚子めざして走ります。道は広くて真っ直ぐで、面白味はありませんが楽に走れます。
犬吠埼まで行けるかと思いましたがそれは少し無理で、波崎町の砂丘植物公園でテント設営。
汚くてぼろい管理棟の脇で寝たのですが、ほとんど廃屋同然だったので、お化けでもでやしないかと、ちょっぴり怖かったです。
晩飯は、中華スープでも作ったかな。
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12月3日(水) イワシ博物館の罠

 男子トイレに放置されていた大便がこびりついて流れないので、女子便所を借用させてもらいました。
 利根川を渡って銚子に入り、犬吠埼へ。
 休憩所で充電がてらネットで情報収集。自転車で東京湾アクアラインを渡れるかどうかを確認したかったのです。
 結果は、「自転車通行不可」。自転車が通れるという噂を聞いた記憶があったのですが、ぼくの勘違いだったようです。つまんねえの。
 
 銚子有料道路を通り、飯岡町の九十九里浜で食パンにピーナツバターを塗って昼食。
 海岸沿いの自転車道を通ると、この寒いのにサーフィンやってる連中の姿がたくさん目にとまります。いい根性してるなあ。あのウエアを着てれば寒くないのかな。
 八日市場付近の県道を通ると、なぜか道に等間隔で小さなイワシが落ちていました。
 どこのヘンゼルとグレーテルが落としていったのかしらと思いましたが、その謎は解けないままでした。
 きっとイワシに誘われて辿っていくと、いつのまにか九十九里町の「イワシ博物館」に来ているという趣向でしょう。
 
 道の駅「多古」で小休憩した後、成田空港の付近を通って成田山新勝寺へ。
 参拝したのは5時ぎりぎりで、辛うじて本堂の中に入れました。
 しかし、初詣のメッカだけあってここの賽銭箱はでかいですね。長さ十メートル以上はあったと思う。
 近くの宗吾霊堂に着いた頃にはすでにあたりは暗くなっていました。
佐倉宗吾のお墓
佐倉宗吾のお墓

 ここの祭神は佐倉宗吾、本名を木内惣五郎という江戸時代の名主さんであります。佐倉藩の悪政によって人民が苦しむのを見て四代将軍家綱に直訴し、人民を救ったものの、本人と子供は処刑されました。
 佐倉宗吾は近世人神の代表的人物です。霊堂の境内に宗吾のお墓がありますが、ここが当時の刑場跡なのだそうです。
 宗吾の人生を66体の人形で再現した「宗吾御一代記館」なるものもありましたが、とっくに閉まっておりました。
 霊宝殿とセットで700円という拝観料は、安いのか高いのか。たぶん高いだろうな。
 
 近くのジャスコ買物し、近くのこぎれいな公園の芝生の上にテント設営。
あしたは雨が降るらしいですが、タイル敷きの東屋の下より、水はけのいい芝生の方が床からの浸水がなくて安眠できるという計算です。
 晩飯は、ひき肉を肉団子にして煮込んだりしたような気がする。

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