日本2/3周日記(京都大坂) 試行錯誤の近畿編(京都大坂)

4月11日(木)晴のち曇や雨 立体曼荼羅に心酔

 醤油臭いサドルバッグに荷物を詰め、割れた醤油ボトルはビニール袋で包んでフロントバッグの網ポケットに入れて出発した。
 黄砂のせいか、空が濁っている。山の端あたりを見ると、確かになんとなくうす黄色い。しかし日差しがあるので気持ち良かった。
 京都目指して木津川を溯り、国道1号線に入る手前でシャープエンジニアリング和歌山から電話が入った。ザウルスが直ったとのことだったので、京都営業所に送ってもらうよう頼んだ。これでようやくインターネットが使えるぞ。

国道1号に入ったところでジャスコに寄り、ウンコと洗顔をすませ、醤油臭いタオルを洗って人心地ついた。
 国道1号を走り、中心部手前の公園で昼飯(食パン・クリームチーズ・はちみつ)を食い、醤油臭いバッグや煤まみれのコッヘル、ストーブを洗った。

 京都に入って、まず東寺に寄った。四国遍路して以降真言密教が気になるぼくとしては、高野山と並ぶ真言宗の本山、教王護国寺には参拝せねばならない。
 去年の10月までは、「東寺=京都の観光寺」以外の認識はなかったのだが。
 拝観料800円(宝物館込み)を払ってなかへ。
 金堂は空海の存命中に完成しなかったらしいが、中の仏像どもで構成する「立体曼陀羅」は空海の構想なのだという。
 教義はややこしい上にうさんくさいけど、やっぱり密教はかっこいい。
 同じ如来といっても、地味な阿弥陀や釈迦よりも、大日如来は王冠つけて派手ハデだし。
 大日如来を取り囲む金剛ナンタラ菩薩どもも、その存在価値など理解できないがやっぱりかっこいい。何でも頭に
「金剛」をつけると密教っぽくなってかっこよくなる。
 たとえばお茶にしても「金剛爽健美茶」なんて名前だったら、無理矢理にでも痩せられそうだ。CMでは千手観音が森の中でお茶飲んで、斜め上を見上げて「ほ」とため息ついたりするのだ。

 講堂は、奈良の薬師寺の系統をひいているらしく、でかい薬師如来が座っている。東寺が空海に与えられる前にできあがっていたものらしいから、密教とは少しコンセプトが違うのだろう。

 宝物館では、企画展として「東寺文書のすべて」をしており、展示物は古文書ばっかりだった。社寺の宝物館にしては珍しく、来観者に勉強させようという意欲が満々だった。
 公式の文書は書式がどうの、同一人物でも時代によって花押がどうの、封の仕方がどうの、紙の質がどうの、と説明してくれてあるのだが、やっぱりなにがなにやらよくわからなかった。
 ただ、自分の花押が作れたら格好いいな、とは思った。

 御影堂(大師堂)で十善戒や光明真言を唱え(さすが八十八カ所も唱えると、今でもちゃんと覚えているものだ)、ぐるりと寺を一回りすると、雨が降ってきた。

 東寺を出て、とりあえず京都駅の観光案内所に行き、観光マップを入手する。15分くらいで自転車に戻ると、すでに駐輪禁止の札が貼られていた。
 京都駅から一番近くの公園、梅小路公園に行ってみる。だだっ広くて好みには合わないが、一応屋根付のスペースもあるので、今夜はここに泊まることにした。

 晩飯の食材を買いに、1qほど離れたダイエーへ。食パンが一斤百円と、ずいぶん安い。
晩飯は、昨夜と同じようなメニューになるが、トリのハツとモヤシの炒め物に決めた。肉の中でも、トリのモツ系は百円前後で買えるので重宝する。
ガソリンスタンドで灯油も入れてもらって(21円)、充実した気持ちで飯を作った。最近観光が続いて出費がたて込んでいるので、今夜は禁酒日にすることにした。

 11時頃、テントの外から呼びかける声がする。顔を出すと、大学生くらいの男性と女性だった。
「お食事とか、大丈夫ですか?」
「は?」
なんでそんなこと心配されにゃならんのだ?とぼくがけげんそうな顔をすると、
「あ、もしかして、旅行なさってるんですか?」
「ええ。野宿しながら」
「ああ、そうですよね。自転車もあるし…。失礼しました」
「どーも、おやすみなさい」
 どうやら、ホームレスの人たちの世話をするボランティアさんらしい。都会には殊勝な団体があるものだ。
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4月12日(金)晴 老の坂の夕暮れ

 京都駅の西にある梅小路公園で寝た。
昨夜の雨は、夜中頃まで続いていたようだ。一応屋根のあるところにテントを張ったのだが、タイルの目地に沿って流れ込んできた雨水が、下からじわじわしみ出してきた。
最近テントの床面の防水性が落ちてきている。寝袋が濡れるので、スーパーのビニール袋を敷いて寝た。

 朝までに雨はやんだ。ラーメンの生麺とニンジンとキャベツを煮て朝飯。スープはこの前残しておいたチャルメラの粉末スープ。

 さて撤収を始めるか、とテントから出ると、70歳くらいのじいさんが寄ってきた。
「そこはタイルの段差があるさかい雨が流れてくるやろ、こっちの方で寝りゃよかったのに」
むむ、このじいさん鋭い。と思ったら、
「わしも以前ここで寝とったから知っとるんや」
どうやら地元のホームレスのお方らしい。背広にチョッキ着たりしてて、そのへんの「ホーム有り」の人と、パッと見では区別がつかない。
「今は桂川の方におるんやけどな、毎朝市役所でパンと牛乳の配給があるんでこっち来とるんや。
 今月の年金使い果たしてしもうてな。まとまった金入ると、わしの場合ホテルに泊まってパチンコに使ってしまうからな。
 昨夜ボランティアに声かけられた?ああ、そうやろ、この公園もそういうの多いからなあ。食べ物とか毛布とかくれるんや」 けっこうこの公園は野宿者が多いらしい。
「昨夜は雨やったからよかったけど、一昨日だったら危なかったで。ここの便所見たやろ、ドアとか壊されて、隣の電話ボックスのガラスも割れとる。おととい若い連中が騒いで壊しよったんや」

へー、そうなのか。ここは危険スポットだったのかな、と思いつつそのトイレへ顔を洗いにいくと、掃除のおばちゃんと、乳母車ひいたばあちゃんが同じ話題で立ち話していた。

おばちゃん「一昨日の夜かな。私がこの前来たときは何ともなかったけど」
ばあちゃん「ひどいことするもんやで。朝になったらビールの空き缶がずらっと捨ててあってなあ。わしらがこんなことしたらここいられなくなるわ」

どうやらこのばあちゃんも野宿者らしい。意外と油断ならんな、京都も。

 さっきのじいさんに加えて、その友達らしきおっさんもやってきて、ぼくの出発準備作業は彼らにとっていい見世物になったようだった。
「そのテントいくらする?ほう、横から見ると狭そうやけど、中見るとけっこう広そうやな。わしもテント買えって友達に勧められとるんやけどな」
「これ何や。ああ、カッパか。いくらする?一万くらいするか。もっと?へええ。これら装備全部でいくらする?10万くらいで揃うやろか」
「へえ、醤油も持っとるんか。今100円ショップで安く売ってるもんなあ。ある店とない店とがあるけど」
二人揃って、ぼくの装備にいろいろ訊いてくる。ホームレスの人達だけに、アウトドアグッズには興味津々のようだ。
たしかに、これらの装備は「ホームレスグッズ」と呼んでも間違いないわけで。

「この前も兄ちゃんみたいな人に会ったで。その人は歩きやったけどな。
神戸出身で、震災で両親無くして、妹も嫁いだし自分は会社リストラされたから、思い切って歩いて日本一周しようって言っとったわ」
やっぱいるんだな、そーいう人。震災にリストラとは、見事に牌が揃っている。たいしたものだ。
「これから九州行くんか。わしの地元は大分でな、90になる親が入院しとって毎月会いに行くんや。もしかしたら兄ちゃんとも九州で会うかも知れんな」
そんな話をしているうちに身支度が終わった。いつの間にかさっきの乳母車のばあちゃんも輪に加わっていた。
「兄ちゃん、気をつけてな」
「九州で会おうな」
爺婆3人に見送られ、
「みなさんもお達者で」
と挨拶を返して、自転車にまたがった。

 シャープエンジニアリング京都から、朝のうちに「ザウルスが届いております」と電話をもらっていたので、さっそく引き取りにいった。保証の範囲内で、金も取られなかった。
 昨日寄った東寺の駐車場で、久しぶりに使ってみる。電源ボタンを入れたら素直に点いた。住所録も本体メモリーに残っていてほっとする。これがシャープでなくソーテックだったら、
「マザーボードを交換致しました」
と、まっさらになって帰ってくるに違いない。
 久しぶりにメールをチェックすると、案の定
「おーい、生きてるか?」
「携帯の電波も届かない海の上にいるのか?」 などなど、日記読者の人達から心配メールが来ていた。いやあ、心配されるって、けっこううれしいな。
「やっぱ気にしてくれるんだな」と安心する。同情欲しくて手首切る人の気持ちが分かるような気がする。
 とりあえず速報を打ち、市内観光へ。去年は行けなかったところを重点的に。

 まず、下御霊神社へ。御霊神社は、平安時代に謀反などの罪で処刑されたりして恨みをもって死んだ8人の怨霊を祭る神社だ。
メンバーの中には、崇道天皇(早良親王)の他に橘逸勢もいる。
 橘逸勢といえば三筆の一人で、空海と一緒に唐に留学して仲良くしてた人、というイメージがある。謀反などとは縁がなさそうに思うが、実際は晩年に何やら政争に巻き込まれて伊豆に流されて死んだのだそうな。
 一方は弘法大師として高野山でありがたがられ、一方は怨霊として恐れられているわけか。悲喜こもごもですな。

 下御霊神社の手水鉢の水は井戸水で、名水として人気があるらしく、ボトルを持ったおじさんおばさんたちがたかっていた。ぼくもさっそくペットボトルの便所水を捨て、井戸水で満たす。なにはともあれ、水道水よりは確かにうまい。

 次に向かったのは京都御所。春の一般解放中ということを聞いたので、無料だしせっかくだからと寄ってみたのだ。天皇の元住居だからといって、さほど興味はなかったんだけど。
 京都御苑には初めて入ったのだが、ずいぶん広くて、天気もよくて気持ち良かった。
新緑のグリーンと八重桜のピンクが鮮やかで、観光客としてはこういうところを楽しむべきなのだろうな、と思いながら御所入口へ。
 警備員のおじさんたちが手荷物検査していたので、意気揚々と背中のリュックをドスンと置いて
「お願いします」
と言うと、警備員さんは
「おやおや、これは大変だ。中身は何ですか?」
「テントとか、シュラフとか」
「中に入ってもこのまま背負ってきますね?じゃあいいですよ、どうぞ」
と、中を見ずに通してくれた。

 他の客と一緒に、だだっ広い御所の中を順路に沿ってぞろぞろ歩く。
 でかい建物がいくつもあって、凝った襖絵なんかがある部屋がいくつもある。
 ひとつひとつ「ここはこの儀礼をする部屋」などと決まっているらしい。贅沢だ。
 普段使ってない部屋には段ボールが詰まってたり、ぶらさがり健康器が放り込まれたりしていなかったのだろうか。

 次に、上御霊神社で遅い昼飯(食パンとクリームチーズと魚肉ソーセージ)を食い、お参りして御札を買った(800円)。

 次に向かったのは広隆寺。半菓子結(こんな字じゃないだろ)の弥勒菩薩像で有名な定番観光地だ。中学校の修学旅行でも来たことがある。
 ここは古代の帰化人秦氏の氏寺で、伝奇ものの漫画なんかを読んでいると、「秦氏はユダヤの末裔だった」とか、
「秦氏は徐福の末裔だった」とか、いろんな説が紹介されるので面白そうだなと思ったのだ。
 広隆寺は、聖徳太子から秦河勝が弥勒菩薩像を譲られて祀るようになったのが初めだそうな。
 知ってるぞ、秦河勝といえば、富士川のほとりで起きた常世神騒動のとき、首謀者の大生部多(おおうべのおおし)をやっつけた人物だ。
 しかし、辺りを見回しても秦氏=ユダヤ人説の有力証拠のダビデの紋章も、三面鳥居も見当たらなくて、宝物殿を見るのに700円とられただけだった。
(※三面鳥居があるのは隣の木島坐天照御魂神社 だということを後で知った)。
 中学生のとき弥勒菩薩を見た感想は
「暗くてわかんねえよ」

「このホトケ、頭がでかいな」
の二つだったが、今回も同じ思いを新たにした。もうちょっと照明を明るくしてくれてもよさそうなもんだ。弥勒菩薩像は特に黒いから、目をこらしても何が何だかよくわからない。
 それでも、国宝・重文クラスの仏像が、ガラスケースなしで見られるだけ、ありがたいと言うべきなのかもしれない。
 宝物殿の入口には
「仏様は美術品ではありません。心してお参りください」 と貼紙がしてあったが、観光客は美術品だと思うから高い入場料を払うのだ。
 美術館にでも来たつもりにならなければ、700円なんて誰が払うか。墓穴を掘るような貼紙をするのはやめたほうがいいと思う。

 夕方になっていたが、次に向かったのは亀岡市との境にある「老の坂」。
酒呑童子が暴れまわった場所で、昔からここを通ると怪異に出会うなどといわれたらしい。
老の坂のゴミ峠
老の坂のゴミ峠

現在は国道9号になっていて、案の定妖怪に出会えそうにはなかった。それでも京阪道(だったかな)入口を過ぎると、道の左右から賑やかな店はなくなり、山の中に入っていく。
ラブホテル地帯を過ぎ、霊園を過ぎ、老の坂トンネルの手前の坂を上ってみると、ラブホテルの廃墟があって不法投棄のゴミの山。
そういえば、「付喪神絵巻」でも、妖怪と化した古道具たちがテロを画策して集結したのは京の外れではなかったか。
 雑然とした寂しさはあって、これが現代の老の坂かと少し感慨深かった。
老の坂で見る夕日
老の坂で見る夕日


 赤い夕日をデジカメに撮って、亀岡市側に下った。 野宿場所のあてはなかったが、とりあえずスーパーに寄ると、グリコの焼そばが四食で138円と安げだったので、今夜は焼ソバに決めた。
 他に買ったのは、900ccのパック酒、明日の昼飯用の食パンとビスケットなど。

 店から出ると、外は真っ暗。とりあえず高槻市方面を目指して走り、今夜のねぐらは鍬山神社の駐車場。
 ニンジンとピーマンと魚肉ソーセージを具にして焼ソバを作り、同じ具のスープを作る。焼ソバはなかなかまずくなかった。あと二食分あるから、明日も焼きそばだ。
 大阪にいる友達三人(日記読者)にメールを出したら、二人が返事の電話をくれた。明後日あたり、久しぶりに気の合った仲間と飲めそうだ。
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4月13日(土)晴のち曇や雨 バイク野郎の急襲

 朝飯は食パン二枚で済ませたので、出発はいつもより早かった。
 峠を越えて大阪府高槻市に入った。峠の、丹波とかいうらしい集落に手書きの看板が立っていて、
「この地こそ邪馬台国のあった場所である」
と力説していた。
看板の文章によれば、それには五つの証拠があるとのことで、それらを列挙しているのだが、どれも
「だから、なに?」
というものばかりだった。
 森林館(だったかな)とかいう市営観光施設のトイレで歯磨きヒゲソリを済ませ、山を下る。
ああ、また騒々しい都市部に入ってきてしまった。熊野路のすがすがしさが懐かしい。
 間食のビスケット(百円菓子)をばりばり齧りながら看板頼りに国道1号に出て、大阪市内へと向かう。

 4時過ぎ、守口市に入った。ここには、小学時代からの友人で日記読者の東八雲(仮名)がいる。
昨日彼に「会えない?」とメールを送ったところ、電話が来て
「もっと早く連絡しろよ。こっちはサラリーマンなんだから」
と怒られたが、
「ここ2〜3日の間になんとか都合つけてみるから、また電話する」
との返事をもらっていた。
 彼の職場(某自動車販売会社)がちょうど通り道だったので、客のふりをして店に入ってみようかとも思ったが、どう見てもぼくの風体は車を買うような人間ではないので、やめた。
 しかし店の前を走り抜けざま、ちらりとの店の中を覗くと、青いユニフォームを着た東八雲が、立って書類をめくっているのが見えた。
 遠目だったが、一目でヤツだと分かった。
 知り合いが働いている姿はずいぶんと興味深い。
 ぼく自身は、自分が客に対して営業トークしているところを知人に見られるなんて、想像するだけで身の毛がよだつが。

 明日は新大阪にいる友人、西中島君(仮名)と待ち合わせている。今日はさほど急ぐ必要もないので、今夜は守口市内で寝ることにした。
 適当に脇道に入っていくと、なかなか寝心地のよさそうな市営球場と公園が見つかった。
 今夜の晩飯は昨夜の続きで焼そばと決めている。近くのスーパーで安売りのモヤシと、おかずに豆腐を買った。

 テントを建ててメシを作ろうとしたが、どうもストーブの調子がよくない。
ぼくの使っているMSRウィスパーライトというストーブは、ホワイトガソリン以外の燃料を使うと煤がたまって、燃料の噴射口などが詰まりやすいのだ。
 ロウソクの光を頼りにストーブを分解し、煤を拭き取ってみたが、なかなかうまく直らない。
 試行錯誤しているうちに、手は汚れる灯油はこぼれる。こぼれた灯油に引火でもしたら、あたりには乾いた落葉が多いので洒落にならない。
 今夜は諦めて、パンの残りと冷奴で済ませようかとぐったりしているところに東八雲から電話がかかってきた。
「今どこにいるんだ?」
「守口市」
「なにー!俺んちの近くか!?」
「いやあ、市営球場なんだけど。今日、東八雲が働いてるとこ見たよ」
「そうか?どんな服着てた?」
「なんか、青い服」
「ああ、じゃあ俺だ。お前まだ大阪にいるんだろ。近いうちになんとか時間作るからさ」
そんなやりとりを終えてから、気を取り直してストーブと格闘し、ようやくまともな火が出るようになって、焼そばを作ることができた。

 パック酒「渡る世間の鬼ごろし」をかっくらって、ぼんやりウトウトしていると、公園の中にバイクが乗り込んでくる轟音が聞こえた。
 ガラの悪いチンピラだな、と思っていると、ぼくのテントのあたりをがさがさ歩き回る足音がする。
やべ、目をつけられたかな、と身を固くしていると、いきなり携帯が鳴ったので飛び上がりそうになった。
「もしもし?」
と出た途端、電話が切れて、外から聞き慣れた東八雲の声がした。
「おい、どこが入り口なんだ?」
テントのファスナーを開けて顔を出すと、ジャンパー姿の東八雲がいた。
「うお、なんだお前。顔じゅう髭だらけになって、青シートにくるまってるのかと思ったら、全然普通じゃん」
それから、質問攻めに会った。
 一時間以上話し込んだ後、
「何だったら今夜は俺んち泊まってけよ、と言おうと思ったけど」
「うう、テント畳むのがめんどくさい」
「そうか、まあこの辺なら大阪市内よりは安全だろうな。まだ大阪にいるんだろ?また電話するからさ」
と、彼はバイクにまたがって轟音とともに去っていった。
 酒をちびちび飲みながら、ザウルスで音楽を聴いて寝る。CFカードにCDからコピーしてきたのだ。
 電池の消耗が激しいので普段は聴かないが、明日はザウルスが充電し放題なので、今日は贅沢ができる。
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4月14日(日)晴 司馬遼太郎の脳髄

 朝からまたストーブの調子が悪かった。
 なんとかうどんを煮て食い終わり、新大阪の西中島君(仮名)のところへ向かった。
去年も泊めてもらった家なので、すぐにたどり着けるだろうと思っていたら、道に迷ってしまい、大阪城までさまよい走ってしまった。
 結局守口から新大阪まで二時間以上かかってしまった。
 地図を持たないと、都市部はやはりきつい。

 西中島君の部屋に着き、やれやれと靴下を脱いだ。
「ううむ、強烈なニオイがするなあ」
と彼は言って、これを履きなよ、とお古の靴下を貸してくれた。
 お茶を飲んでから市内観光に出た。西中島君は今、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にはまっているということなので、最近できた「司馬遼太郎記念館」に行くことになった。
 十三の商店街で80歳のおばあさんが焼いているタコ焼きを買い、乗り換えの梅田駅で食べた。
ぼくは明石焼(風?)ということで、だしをかけて食べた。なかなかうまかった。焼きたてを食べたほうがもっとうまかったのかもしれないが。

 司馬遼太郎記念館は東大阪市にあり、近鉄河内小阪駅で降りて、分かりにくい路地を入り込んだところに建物があった。
 司馬遼太郎の自宅の敷地にそのまま展示館を建設しているので、専用駐車場もない。
自宅の玄関(裏口?)が記念館の入口になっていて、おそろいジャンパーを着た50〜60歳くらいのおじさんたちが三人ほどウロウロしているので気味悪いなと思っていたら、館の係のおじさんたちだった、
 自販機で500円の切符を買っておじさんに渡すのだが、どのおじさんもズブの素人らしく、半券をもぐ手つきがもたついていた。
 客は、雑木が茂った裏庭を通り、窓越しに司馬遼太郎の書斎を覗いてから記念館に入っていく。

 面白かったのは、館内にも例のジャンパーのおっさんじいさんたちがやたらとたくさん徘徊していたことだ。
これまで見てきた展示館では、目に付く職員は窓口の女性か、警備員さんしかいないのが普通だったが、この記念館ではそれらの全てを妙に素人臭いおじさんたちが行なっているのだ。
 女性は、売店のおばちゃんだけだった。
 館内アナウンスもマイクを使わず、ジャンパーおじさんの一人がおもむろに咳払いをして大音声で
「え〜、これから映像ホールで、番組、ええと『時空の旅人』が上演されます…。ぜひご覧ください。ありがとうございました」
と、噛みながらの演説口調で呼ばわるのだ。
 狭い展示室にこんなにいる必要ないだろ、と言いたくなるほどジャンパーじいさんたちの数は多く、展示ケースの前にぼーっと突っ立っているのもいて邪魔くさかった。
 連中は一体なんなんだろう。正規職員なのか、それともシルバーセンターのボランティアなのか。よくわからん。

 記念館の目玉は、司馬遼太郎の蔵書を吹き抜けの天井までずらりと並べた書棚展示だ。
文献資料を駆使した司馬遼太郎にとって蔵書は彼の頭脳の延長であり、この巨大な書棚展示は司馬の頭脳をイメージ的に表現しているのだという。
 本棚一段一段が脳の襞、本のページ一枚一枚が脳の皺ということなのかもしれない。
 あんな高いところまで本を並べて、どうやって取るんだろう、と心配してしまうが、要は「イメージ展示」なので、本を取る必要はないのだ。
ちゃんと「手を触れないでください」と注意書きもされている。
 記念館設立の関係者の言によれば、司馬氏は自己顕示が嫌いな人で、
「自分の記念館を作るなど、生前の彼なら決して許さなかっただろう」
とのことだ。
 だが、氏は生前自分の膨大な蔵書を前にして、
「これらの本をまとめて資料館にすればいい」
と言っていたそうで、その言葉を盾にこの記念館が建てられたのだという。
 司馬遼太郎に活用されていた本たちが、彼の蔵書ということだけで紐解くことが禁止され、背表紙だけを見せて並んでいる。
 つまりこの記念館は司馬遼太郎の墓であり、
 展示数二万冊の蔵書は、主とともに葬られた殉死者であり、この展示室はその死骸を飾るカタコンベであり、そこをさまようジャンパーじいさんたちは墓守なのだろう。

 ぼくは司馬遼太郎の本はほとんど読んだことがないので、
展示されている「愛用の〇〇」にもあまりピンと来なかったが、『空海の風景』くらいは読まねばいかんかな、と思った。

 司馬氏の書斎前で二人で記念写真を撮り、ちょっと早いが鶴橋へ焼肉を食いにいった。
 駅の外に出ると、焼き肉の煙で景色がかすんで見えた。
 ここは朝鮮系の市場として有名らしく、原色のチマチョゴリや、キムチや、牛豚のバラバラ死体が並ぶ狭い路地は、ぼくにとって初めて見る光景だった。
海辺の魚市場にも似たような雰囲気があるが、どんな商品にせよ、色使いの不気味な鮮やかさは、やはり日本とは少し違う。

焼肉店の立ち並ぶ界隈では、店先に老婆が座り込んで客引きをしている。なんとなくやり手ばばあの雰囲気だ。
 そんな店のうち、小さめの店に入った。まだ5時なので、客は他にいない。
ぼくらが着席するなり、店のおばさんがテーブルの炉に真っ赤な炭火をどさりと放り込んだ。
肉も来ないうちに顔を炙られながら生ビールを乾杯した。
 ひゃ〜、うまかった。
 コリコリだの、テッチャンだの、レバ刺だのを食いながら生ビール→マッコリ→真露の順で飲みながら語り合った。
高校時代の思い出話など。
 やがて7時ともなると狭い店も客で一杯になり、真露をちびちびやりながらしゃべっていたぼくらは体よく追い出された。
 帰りの電車の中で、ぼくらはかなり臭かっただろうと思う。

 アパートに帰ってから銭湯に行き、洗濯をしながら、12月にぼくが四国から西中島君に送った海洋深層水焼酎
「空海」を飲んだ。
 彼はあまり焼酎は好きでなかったらしく、ビンはほとんど減っていなかった。
 自分がけっこう焼酎好きだから、自分が飲みたいと思うものを他人にも送ってしまう。
 反省すべきかとも思うが、自分がもらってうれしくないものを送るのでは、土産を買う甲斐がない。うまくすれば、今日のようにぼくもご相伴にあずかれる可能性もあるし。

 焼酎「空海」は、海洋深層水だからどうかという判断は別として、味は悪くなかった、ような気がする。
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4月15日(月)晴のち曇や雨 お前旅の後どうすんの

 朝8時過ぎに起きて、西中島君に
「君、昨日は気持ち良さそうに酔ってたよ」
と言われた。
 餞別に、紫色の古代米というのを一袋もらった。彼の会社は設計会社なのだが、多角経営ということで農業にも首を突っ込んでいるのだという。
 会社の農場で作られたものを、社員は市価よりも高い社員価格で買わねばならんのだという。自家消費というより、自分の足を食うタコのようで、そこはかとなく悲哀を感じる。

 彼の会社はフレックスタイム制というやつで、何時に出社して何時に退社してもいいらしい。基本的に遅刻で慌てるということがないので、少しうらやましい。
ぼくは11sのリュックを背負って、西中島君は手ぶらのスーツ姿で家を出た。
 会社に向かう途中の立ち食いうどん屋でお薦めの肉うどんを食い(ぼくは大盛)、会社の前で別れた。

 今回大阪で見物する予定のものは、国立民族博物館と仁徳天皇陵と通天閣だ。
 今日は民博に行く予定なのだが、その前にゆうべ行った銭湯に立ち寄った。ゆうべ、脱衣場に石鎚山のお守りを忘れて来てしまったのだ。四国遍路のとき石鎚山で買って以来、旅先では肌身離さず首にかけていたものだ。
 しかし、行ってみると銭湯は閉まっていた。まだ市内をうろつくから、明日か明後日、また寄ってみようと思う。

 国立民族博物館は万博記念公園にあるということで、西中島君に地図を見せてもらってだいたいのルートは理解していたつもりだったのだが、
お約束どおり道に迷ってしまい、着いたころはすでにお昼になっていた。
 民博入館料420円を払ってなかへ。

 太陽の塔の下で、守口市の友人、東八雲と連絡がついた。今夜8時に会社の寮の前で待っていてくれ、とのこと。これで二日連続、屋根の下で眠れそうだ。

 民博は案の定、でかかった。世界中の民具を取り揃えて展示していた。
 その多くがどうやら実物だった。中には大量生産されず、金では買えそうにない信仰用具も多い。展示用に作ってもらったとは思えないが、どうやってかっぱらってきたんだろう。
 そのかわり、文字による解説はほとんどなく、素人に対して少し冷たい印象を与えた。民具なんて、どんな場合にどう使えばいいのかがわからなければ、面白くない。
 電波を受信して解説の動画や音声を流す液晶端末を借りたのだが、電波の反応は悪いし、所定の位置から少し動けば圏外になってしまって通信不能という、ろくに使えないものだった。
 ビデオコーナーが充実しているらしかったが、液晶端末と格闘している間にあっと言う間に閉館時間になってしまい、一本も見ることができなかった。
 それでも館内は撮影自由だし、好きな人は弁当持ちで一日つぶせる場所だと思う。受付や係の女性はみんな若くて優しいし。

 夕方、雨の中を守口市へ向かった。
 約束の1時間前に着いたので、近くのクロネコヤマトの街灯下で日記を打って時間をつぶした。
 8時になったので東八雲の寮の軒先に移動し、地面に座り込んでさらに日記を打っていると、東八雲の先輩らしき兄ちゃんに怪しまれた。
「自分、そこで何してるん?」
「東八雲君を待ってるんですけど」
「ああ、友達なん。そこじゃなんだから、玄関に入ってなよ。あいつじき来ると思うで」
「ありがとうございます」
「東八雲の地元って確か長野やったな。自分、長野から自転車で来たの。…なかなかやるな」
「ども、えへへ」
玄関の狭い土間で待っていると、今度は奴の後輩らしき兄ちゃんが会社から帰ってきた。
「わあ、びっくりした」
「すいません、東八雲君を待ってるんです」
「そうですか。ここじゃみんな驚くんで、食堂にでも上がって待っててください。…東八雲さん、まだ当分帰れなさそうですよ」
「えー、そうなんですか?」
それでも食堂で、コンセントを借りて日記を打っていると、ようやく東八雲が帰ってきた。
「わるいわるい。メシ行こうか。近くにうまい焼き肉屋があるんだ」
ぼくは、ゆうべも焼き肉だったことをおくびにも出してみたが、何のことはない、その焼き肉屋は休みだった。
「なあんだ、ここの肉食えると思って今日は張り切ってたのに。なんかトーン下がっちゃうな」
などと言いながらも、彼はお好み焼き屋に連れていってくれた。
 生ビールを傾け、ネギ焼きや豚玉をほお張りながら、けっこうシビアな会話が交わされた。
「放浪日記いつも読んでるけどさ、前回の方が面白かったな。今はダデアル調だけど前はデスマス調だったでしょ。あっちの方が読んでて
『あーこの人呑気だなー、こっちは一生懸命仕事してんのに、腹立つけどうらやましいなー』
って感じがあって面白かったんだけど、今のはただの報告みたいでさ、
『あ、そう。ご苦労様』
って感じなんだよね。俺としては是非、いや断固、デスマス調に戻してもらいたいな」
と言うのです。
「しょうがないなあ。じゃあそうするよ」
とぼくが言うと、
「なんだ、そんなにあっさり戻しちゃうのか。ポリシーあったわけじゃないんだな」
と東八雲は呆れておりました。
 やがて話題はぼくの将来についてとなりました。
「お前さあ、日本一周はいいけど、その後どうすんの」
「一応就職はするよ」
「何か考えてるわけ」
「いやー、べつに。まあ、飯田からは離れた方がいいかなと思うけど」
「俺の同僚で、39歳で転職してきた人にお前のこと話したんだけどさ、その人言ってたよ。30過ぎたらピンチで、35過ぎたらアウトだって。
 まあ、これから全国回ってくわけだからさ、ここに住みたいなって町を探すのもいいんじゃないか?」
「そうかもねえ」
 東八雲の部屋に帰り、シャワーを浴びて、寝袋を借りてもぐりこみました。
 ぼくらの会話は、明かりを消した後も続きました。
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4月16日(火)雲ときどき雨 貞操の危機

 今日は東八雲は休日で、10時ころ出掛けるというのでぼくは一足先に出発することにしました。
「新大阪の彼は高いレインウエアくれたらしいけど、俺はなんにもやれるものないんだよね。この部屋ん中で、何かほしいものある?」
そう言われて見回しましたが、これといったものはありません。
「うーん、別にないよ」
というと、
「これでも持ってけよ」
と、ポケットティッシュをひとつくれました。ありがたくもらいました。
 今日は堺市にある仁徳天皇陵が目的です。
 内環とかいう道を南下します。堺市には着いたのですが、仁徳天皇陵の場所がわかりません。
世界一大きなお墓なんだから、すぐ見つかるだろうとたかをくくってそのあたりを走り回ったのですが、ようやく目的地にたどり着いたのは2時過ぎでした。
 堺市立博物館に入り、仁徳陵について事前学習。この古墳には石棺が二つ埋葬されてて、明治時代に台風で露出したそれをスケッチした資料が残っておりました。
 博物館を出るともう夕方。古墳わきの公園で寝ることに決め、日暮れまでの間芝生で日記を打ちました。
 薄暗くなってきたので近くのスーパーでレトルトカレーと発泡酒を買い、広い公園の中のどこにテントを張ろうかとふらついていると、背後からスクーターが近寄ってきました。
「兄ちゃん、野宿か」 振り返ると、堺市のマークが入った服を着た60歳くらいのじいさんです。やべ、見回りの管理人か、と思いましたが、嘘を言うわけにもいかないので素直に
「はい」
と答えました。
「兄ちゃん、学生さんか」
「いえ、無職です」
「こらこら」
じいさんはひとなつっこく(後から思えばなれなれしく)ぼくの頭をぺしぺし叩きました。
「この辺はホームレスがたくさんいて危ないで。ぼくの家に来んか。飯も風呂もあるで」
こんなことを言われるのは、四国以外では初めてです。最近風呂は足りてるし、知らぬ人の家に泊めてもらうのはめんどくさかったのですが、本土でもこんな優しい人がいるんだなあという驚きと、親切を無にしてはいかんという遍路癖が染み付いていたので、即座に
「ありがとうございます、助かります」
と答えてしまいました。
 じいさんの名は東湊さん(仮名)。彼の家は公園から自転車で10分ほど行った、住宅街の路地裏にありました。
 去年母親を亡くして以来、一人暮らしなのだそうです。
 一人暮らしにしては家は2階建だし、水槽が3つもあってグッピー飼ってるし、ハイビジョンテレビもあるしで、けっこう暮らしには余裕がある様子でした。
 でも、その割に仕事は不法駐輪自転車の取締員なのだそうです。
 趣味は俳句で、NHKの俳句教室で1句入選したのが自慢の様子でした。また、ブラジル人の日系2世と仲がよく、文通しているとのことでした。
晩飯として、東湊さんはぼくのためにレトルトのカレーとご飯をチンして出してくれ、缶ビールも注いでくれました。
ずいぶんお喋り好きなおじいさんで、ぼくはあいづちを打ちながら
「母親を亡くしてから寂しかったんだろう、だからぼくを呼んでくれたんだろうなあ」
と少し感傷的になりました。
 飯が済み、風呂という段になって、ぼくは少し慌てました。東湊さんはさっさとその場で裸になると、
「さあ、入り」
とぼくも脱ぐよう促すのです。
 温泉や銭湯の大風呂ならともかく、狭い家庭風呂で今日会ったばかりの男の人と一緒に入るのは、ぼくの生活習慣になかったことなので面食らい、
「お先にどうぞ」
断りました。
「なんや、恥ずかしいんか。男同士なんやから、ええやないか」
と言いながら、彼は一人で風呂に入っておりました。
ぼくも風呂は無事一人で入り終え、東湊さんに与えられた寝間着(カプセルホテルからもらってきたという、薄っぺらの短い奴)を着せられました。
「ちゃんと洗濯してあるで」
と言っておりましたが、今考えると、キッチンの椅子の上の新聞紙の下から引っ張り出してきたことといい、布地の肌触りといい、どうしても未洗濯としか思えません。
「今日は疲れたやろ、ビールも飲んだし。さ、寝よ」
と東湊氏は2階の自室のベッドにぼくを促しました。
「セミダブルやから、二人寝ても大丈夫や。男同士なんやからええやろ」
後から思えば、男同士だからよけい嫌だったのですが、その時はなんだか断るのが恥ずかしいことのように思ってしまったのです。
 東湊氏に促されて、ぼくは部屋の壁と東湊氏に挟まれて眠ることになりました。これではベッドから降りられません。
 もしかしたら、この人はホモではないのか。頭の隅に芽生えていた疑惑が、どっと大きくぼくの脳裏に葉を広げ始めました。
さっきぼくと一緒に風呂に入ろうとしたのも、体めあてだったのではないか。
そういえばぼくが風呂に入っているとき、湯加減を訊きに風呂場を覗きにきたが、あれもやはりぼくの裸体見たさではなかったか。
 こうなったらこの人が本当にホモかどうか確かめてやろう。いざやばい事になったら、殴り倒してやろう。これも日記のいいネタだ。旅のいい思い出だ。
「寝相悪いかも知れんけど、がまんしてや。寝言言うかも知れんけどな」
明かりが消され、部屋は真っ暗になりました。
 東湊さんはパンツ一枚。ぼくはパンツと薄っぺらな腰までの浴衣だけ。
じいさんと肌が触れるのが嫌なので、体をかばうように毛布を挟み込みました。
 そして、悪夢のような攻防が始まりました。
 じいさんは寝息をたてながらも、どうやら眠ってはいない様子です。もちろんぼくも眠れません。呼吸は規則正しく行いながら、すべての意識をじいさんの動向に集中させています。
 ぼくの被害妄想なのでしょうか、じいさんの肘がぼくにすこしずつ押し付けられてくるのです。
 ぼくはわざとらしく
「ううん」
と言って寝返りを打ち、改めて毛布を体に巻き込み直してじいさんの腕を拒絶します。それでも毛布は端がマットに織り込まれているので長さが足りず、どうしても防備が十分ではありません。そのことを知ってか、じいさんの手は再び1ミリずつ伸びてくるのです。
そんな状態がどれほど続いたでしょうか。
 こいつはもう完全にホモだ。早く何とかしなければ取り返しがつかなくなる、とぼくが考えていると、じいさんの方から動きがありました。
「ううん」
と唸って体を動かし、パンツを脱いだのです。
ふりちんのじいさんの隣で、どうやって寝ろというんだ。これはもう、脱出するしかない、と思っていると、じいさんが起き上がりました。
「ティッシュはどこだ…」
夜中、布団の中で使うティッシュ。最悪です。ベッドに戻ってきたじいさんはしばらくおとなしくしていましたが、やがて寝言を言い出しました。
「チンチン気持ちいい、チンチン気持ちいい…」
優柔不断なぼくも、ようやくこの段になって踏ん切りがつきました。
「チッ、眠れねえ」 と毒づき、身を起こしました。
「すいません、ぼくシュラフで寝ますわ」
「ただの寝言や、気にせんといて…」
自分の寝言を分かってるなんて、それ寝言じゃないと白状したと同じだろ。言っていい寝言と悪い寝言があるぞ。
 ぼくはじいさんをまたいでベッドから逃げ出しました。
 シュラフの入ったリュックはガレージにあります。外に出ようとしましたが、どういう錠の仕組みなのか、玄関は開きません。仕方ないのでキッチンでその辺の本など読んでいると、じいさんが二階から降りてきました。ぼくを呼びにきたかと思ったら、
「トイレ、トイレ」
と言ってトイレに行き、話しかけようとするぼくを尻目にさっさと2階へ戻っていってしまいました。
ぼくに振られて、怒ったのでしょうか。飄々とした彼の表情からは分かりませんでしたが。
 シュラフを使うわけにもいかず、結局、その夜は1階の居間のマッサージ椅子に座って仮眠を取りました。あしたの朝、あのじいさんにどんな顔をしてどんなことを言えばいいのか、考えましたが、答えは出ませんでした。
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4月17日(水)雨 大阪大学のヨガ男

 まんじりともしないまま朝を迎え、7時頃になって東湊氏がふりちんのまま起きてきました。
「なんで一階に行ったんや。ぼくが変な寝言言ってわやわやするからか」
「要するに、そうです」
「同じベッドで寝るの嫌か。男同士なんやからええやないか。恥ずかしいか」
「ぼくの生活習慣とは違うんで」
「ぼくは毎朝、裸で飯食うんや」
「そういうの、俳句にしたらどうですか。入選するかも知れませんよ」
「“イマイ君のチンチン小さかった”ってか。そらええな」
(大きなお世話だ、変態ジジイめ)
にこやかにえげつない応酬をしながら、トーストとコーヒーの朝食を済ませました。
「記念に家の前で写真撮りたいんですが」
と言うと、
「こんな髭も生やしたまんまじゃ駄目や。記念に免許更新のときの写真やるわ」
と言って、人相の悪い3分写真をくれました。
「今日は雨やゆうから、一日大阪巡りして、またぼくんとこ泊まってええで」
「いえ、もう兵庫に抜けますから」
「旅先から葉書ちょうだいな。約束してや」
「ええ、出しますよ」
どこかで、えげつない絵を描いて送ってやろう。

 スクーターで仕事にでかける東湊氏と別れ、きのうじっくり見そびれた仁徳陵へ。
 正面で参拝し、周遊道路をぐるりと走ってみました。まあ、でかいですね。こんなに大きな森があるんだから、中に遊歩道作ってとりあえず木にネームプレートつけて「ふれあいの森」でもつくればいいのに。
 周遊道は通勤通学道にもなっていて、地元の人たちが無表情に自転車を走らせています。
 わざわざリュック背負って古墳を見にきたぼくの方が、風景の中で随分浮いています(いつものことですが)。
世界最大の古墳が日常風景の一部になってるってのもすごい。ピラミッドを横目に通勤するのと同じわけだもんなあ。

 仁徳陵を離れ、東湊氏がぜひ見てくれと言っていた神石神社に寄りました。日本最古のえびす神という触れ込みの神社で、東湊氏のじいさんはここで神主をしていたのだそうです。こんな神社、べつに興味あるわけじゃないのに、なんで来ちゃうんだろ。

 次の目的地は、通天閣。ベタな大阪も押さえとこうかなと思って。
堺からは、天王寺への標識が出ており、道も一本なので迷わずに済みました。

賑わっているかなと思いきや、新世界周辺は閑散としており、暇そうなおっさんが数人歩いている程度でした。記念写真を押さえ、通天閣に登りました。
 エレベーターに三輪神社のお札が貼ってあったのが印象的でした。
 エレベーターガールさんがいましたが、べつに何をガイドするわけでもなく、ただ黙って立っているのだけなで少し気まずい思いをしました。

 展望室も閑散としていて、たまに修学旅行の中学生が来る程度でした。百円望遠鏡の他に、アーケードゲーム機も置いてありましたが、わざわざ高い金払って上まで来て、ゲームする奴がいるのかしら。
 ビリケンの足を掻いて手を合わせ、退屈なのでメールチェックしてみると、大阪にいるもう一人の友達、北豊島君からメールが来ていました。ついさっき大阪に帰ってきて、今日の夜から明日にかけて空いているとのこと。
 さっそく電話して、7時に池田市橋本駅前で待ち合わせすることになりました。これで4日連続屋根の下で寝られます(昨夜はほとんど寝てないけど)。

 通天閣を出て、日本橋のソフマップを覗き、大阪駅前の石井スポーツで防水スプレーや焼き網などを買い込みました。
 これでトーストや焼き魚が作れます。焼き鳥だって作れるぞ。

 池田市に意外と早く着いてしまったので、高速道路のガード下の公園でおやつに具無し焼きそばを作っていると、30過ぎくらいの兄ちゃんが寄ってきました。
「ここでキャンプしてると、撤去されるで」
「そうスか」
「自分、長野から来たの?はっはっは。紀伊半島を来たんなら、和歌山の人形の神社行った?怖えよな、あそこ」
「焼却炉にあった燃え残りの人形が一番怖かったですよ」
「はっはっは」
兄ちゃんは、何かとすぐウケて、猿の人形がシンバルを打つみたいに手を叩くので、ぼくは内心彼を「シンバルさん」と呼ぶことにしました。
シンバルさんとの話が盛り上がってしまったので、焼きそばをおすそ分けしてあげると、お礼に菓子パンをくれました。
 仕事の話になりました。
「30過ぎるとやっぱ厳しいですかね」
「そんなことないで。俺も30過ぎまでふらふらしてた。今でも京都駅前で路上ライブやってるんや。それでも、長男だと厳しいけどな」
「ぼく長男ですけどね」
「そうか、そら大変や、はっはっは」
別れ際、
「またどっかで会うかもしれんな」
と、握手をしてシンバルさんは去っていきました。堺での嫌あな思い出が、多少浄化された気持ちでした。

 ガード下から出るころには、雨は上がっていました。
 橋本駅前は、いかにも大学生な若者達がぞろぞろ歩いています。
 ぼくにもこんな時代があったかなあ、と思いながら北豊島君を待ちました。
 北豊島君は大学時代の同じ学部の専攻生で、今は大阪大学の日本学のドクター院生です。
「どうも、久しぶり」 と現れた北豊島君は、学生の頃とほとんど変わっていませんでした。
「食いたい?飲みたい?飲みたいなら、今日研究室の一年生を交えて飲み会があるから、連れてくけど」
「俺が突然行って大丈夫?」
「全然。日本一周って言うと、先生たちに研究されちゃうかも知れないけど、大丈夫だよ」
とのことだったので、そのコンパに同席させてもらうことになりました。

 いつものとおりぼくの靴下はずいぶん臭かったのですが、そのことがばれていたかどうかは別として、ずいぶん楽しい宴会でした。
 大学の教授たちとこんなに楽しく酒が飲めるとは、学生時代には思ってもみませんでした。
 とくに今回のぼくは部外者で、単位や評価など利害関係がからんでいないのが、肩の力が抜けた最大の理由でしょう。
 みんな気さくな人たちばかりだったし。
 数席離れたところに、酔っ払うと足を首の後ろに組んでヨガみたいなポーズをしたがる人がいました。
 このヨガ君(仮名)はバリ島の仮面みたいな顔をした人で、北豊島君に訊くと、彼はユダヤ教とかオカルトとかをテーマにしていて、かなり筋金入りのオタクなのだそうです。
ヨガ君にはいろいろインタビューしてみたいと思ったのですが、結局言葉を交わす機会はありませんでした。残念。

 楽しく酔って、飲み代も奢ってもらい、いい気持ちで北豊島君のアパートにお邪魔しました。
彼の部屋はちょっとしたマニアな古本屋みたいな感じで、マンガや本などが山と積まれていました。
 今時の民俗学の院生の部屋はこうあるべきなのでしょう。彼は昔からこうだったけど。
 最近授業で発表したレジュメの資料を見せてもらいました。テーマは
「エロマンガにおける射精シーンと読者層との関連」
というものでした。
 おじさん向け、若い男性向け、レディース系、若い女性向けのホモマンガ(やおい)などジャンル別に、クライマックスシーンの描き方がどのように異なり、そこから何を読み取れるか、というテーマだそうです。
「最近フェミニズムの立場からエロマンガを取り上げるのが、女性の研究者の間で流行っててさ。女性がエロマンガを研究対象にするってのは格好いいって風潮があるんだよね。
 でも解釈の仕方がフェミニズム一辺倒だから、違う解釈もあるんじゃないですかって発表したんだけど、ゼミの女の子たちに引かれちゃってさ。先生がフォローのつもりで
『じゃあ君たちはどんなエロマンガを読んでますか』
って、みんなに振ってくれたんだけど、全然フォローになってないんだよね」
あー、なんか大学院生って楽しそう。
それでも、現在日本学の院には院生が60人もいるんだそうで。そのうえ昨今の大学改革の流れで、阪大では理系の教授陣から、文系の研究室を全てなくしてしまおうという「阪大改革ゴールドプラン」なるものが提出されて、文系の教授たちは泡を食ってるんだそうです。
「文系は役に立たないって言い分なんだけど。まあ、役に立たないってのは当ってるよね。
でも、文化なんてもともと役に立たないものでさ、その無駄なものを認められないだけ、世の中余裕がなくなって狭くなりつつあるってことだよね」
主夫になることが将来の夢だと公言する北豊島君は、そう言って笑っておりました。
 もともと同じ教室にいただけあって、妖怪も路上観察も、ぼくと彼とはかなり趣味が重なって話は尽きませんでした。
 彼の読書量はぼくの比ではなく、ずいぶん勉強になりました。しゃべっているうちに気が付くと夜中の3時になっていました。 シャワーを浴びるのも億劫だったので、そのままシュラフに潜って寝てしまいました。
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4月18日(木)晴 日本一周で悪いか!?

 北豊島君が目覚ましをかけてくれ、8時に起きました。
 彼は手際よくトーストと目玉焼きを焼いてくれました。さすが主夫を目指すだけあって、レタスを添えるあたりなど、なかなか気が利いていました。
 北豊島君には、ぜひチャイルドシートをつけたママチャリに乗ってスーパー通いをしてほしいものです。
「どーも、お世話になりました」

「いやあ、旅人を生で見られてよかったよ」 北豊島君にアパートの外まで見送ってもらって、走りだしました。
 近くの公園でテントに防水スプレーをかけて、川西→西宮→神戸と進みました。
 神戸市街を通るのは初めてのことで、震災の爪痕が残っているかとキョロキョロしながら走りましたが、ほとんど分かりませんでした。
 神戸はお洒落な港街らしいですが、観光などせずにさっさと国道2号を走り抜けてしまいました。
 須磨区あたりで海辺の公園で寝ることに決め、近くのスーパーで晩飯の食材を買いました。
 ちょうど87円セールというのをやっていて、常備食のビスケットやうどん、ジュースなどが安かったので、嬉しかったです。
 今夜は豚肉とチンゲンサイの炒め物に決めました。
 ガソリンスタンドに寄ってストーブのボンベに灯油を入れてもらいました。
店長らしき人が
「何に使うの」
「キャンプ用のコンロですよ」
「ああ、よくホワイトガソリンなんか使う奴」
「灯油の方が安くて手に入りやすいんで」
なんて会話をしたのですが、店内に引っ込んだ店長に店員の一人が、ぼくの方を指して
「所長、あれ日本一周ですよ」
と訳知り顔にささやくのが聞こえました。
確かにぼくの目標は日本一周なのですが、まるで
「あの男、日本一周病ですよ」
とでも言いたげなニュアンスを感じて、少しヤな気分になりました。
 たぶん、日本一周なんて恥ずかしい、という意識が自分の中にもあるのかもしれません。
 最終的に全国回り終わったら、自宅の1km手前で自転車降りて、家族に迎えにきてもらおうかしら。
 それとも、家に帰らないって手もあるな。
 テントを張って飯作りにとりかかったのですが、今日もまたストーブの調子が悪く、何度もノズルを掃除しなければなりませんでした。
 西中島君からもらった古代米を少し混ぜてご飯を炊いたら、赤飯みたいに赤くなりました。味は、そう言われれば香ばしかったような。
 少し傾斜のある場所にテントを建ててしまったのが災いしました。テントの床に塗った防水塗料(つまりワックス)のせいで、ツルツル滑ってしまい、寝ている間に体がずり落ちていくのです。かわいそうな生き物のように蠕動運動して這い上がり、そしてまた滑り落ちる。その繰り返しで、寝るのに疲れました。

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