日本2/3周日記(岡山広島) 珍スポット山陽編(岡山広島)

4月27日(土)晴 脅パラ!剥製奇形の館

 朝飯は即席ラーメン(チャンポンメン)でした。
 いい天気。のどかな山の中を、川沿いに走ります。
 途中岸壁に刻まれたばかでかい「南無妙法蓮華経」の字があって、少し面白かったです。
 今の季節は藤の最盛期のようで、山にも野生の藤の花が目立ちます。ここ和気町には藤の名所があるらしく、「藤まつり」の幟がたくさん立っていましたが、花にはさほど興味がないので無視して通過しました。


自転車道を走る
自転車道を走る
 国道の脇に、妙に直線な自転車道が走っていました。さして観光地でもないのになぜだろうと思いながら気持ち良く漕がせてもらっていると、道端に駅の廃墟がありました。廃止になった線路が自転車道になっていたのです。  青い空と緑の山に囲まれた駅舎は、ツタに覆われてなかなかのいい佇まいでした。
 思わず炎天下でスケッチを始めてしまい、あまりの暑さに死にそうになりました。
 田舎道を走り、津山市に入ったのは午後3時頃。目的の津山自然科学教育館は、北豊島君が言っていた通り城跡のすぐそばにありました。
「脅威のパラダイス!世界の珍獣の剥製が一同に集合!」
がキャッチフレーズで、なんだか岸和田の東洋剥製博物館と淡路の立川水仙峡を足して二で割ったようなノリを感じました。
 中に入ってみると、設立者の御託が掲げられておりました。
「当博物館は岩石鉱物動植物を通して大自然の創造者である神様の大知大能大愛を認識するに役立つよう設立され、(中略)地球及び人類の将来の運命がどのように成っていくか、その考察に資することができるように願うものであります。」  設立者は地元出身の森本慶三という人で、内村鑑三の弟子となってキリスト教思想に傾倒し、この博物館だけでなく「キリスト教図書館」などというものも設立しています。
彼は
「聖書の説く審判とか天国とか言うのも、まさに宇宙目的論方向進化説と軌を一にしており、聖書こそ最も優れた進化論である」
などと説明板で力説しているのですが、ほとんどの見物客はそんなことにはおかまいなく、
「すごーい、大きな剥製」
「なにこれー、気持ちわるーい」
などと喜んでいました。

 外観は大きな建物のように見えないのですが、中は部屋がいくつも並んでいてボリュームがあります。施設の名前に「教育」の二文字があるごとく、全体の雰囲気は一昔前の理科室みたいな、いい雰囲気です。
一眼症の豚
一眼症の豚

 展示品は化石・昆虫標本・魚類のホルマリン漬けなど。
 まずいきなりぞっとするのは、「一眼症の豚」のホルマリン漬け。一眼症の馬の写真もあります。妖怪そのものです。
 雑誌の切り抜き記事があって、単眼症や一本足、小人症など、各種奇形の人間の写真もありました。
 ワシントン国立健康医学博物館には、それらの実物が展示されているそうです。アメリカに行ったらこれは必見だなあ。
 次いで、恐ろしいのは
「本館設立者 故森本慶三氏(89才)  脳」
「本館設立者 故森本慶三氏(89才)  心臓」
「本館設立者 故森本慶三氏(89才)  肺」
「本館設立者 故森本慶三氏(89才)  腎臓」
「本館設立者 故森本慶三氏(89才)  胃の一部」
と、ぞろりとならんだ臓物ビン。文字通り体を張った展示です。  そして、ずらり並んだ世界の珍獣の剥製。白熊からアザラシからチーターから、世界中の動物が一通り揃っています。
 キリンは無理やりに足を折って座らせてガラス棚に押し込んでいます。
 ニホンカワウソの剥製なんて、かなり貴重なのではないでしょうか。
ヒグマの標本のところには、切り抜き写真で
「ヒグマの胃から出てきた人間の赤ん坊の足」
なんてのもさりげなく添えられていたり。
「ヒト(故森本慶三氏 89才)」
なんて剥製があったらどうしようとびくびくしておりましたが、幸いそれはありませんでした。
 次に、昆虫の標本。世界中の蝶やカブトムシの標本は分かりますが、蚊やその幼虫、そして蚊の卵までしっかりと標本にしてあるあたりは、その執念に笑ってしまいます。  このようになんとも不気味な博物館なのですが、なぜかBGMにサンサーンスの「白鳥」と、小鳥のさえずりがエンドレスで流れているのでした。
5時いっぱいまで堪能して建物を出ると、門では受付のおじさんが最後の客(ぼく)を待ちかねていて、ぼくが外に出ると同時に背後で門が閉じられたのでした。  あたりはまだ明るかったのですが、これから走るのも面倒だったので、市内中心部のイズミ(スーパー)に寄り、今夜はすぐ近くの川のほとりの草地にテントを張りました。

 晩飯は焼きサンマと小松菜のみそ汁。もちろんお米も炊きました。パック焼酎をちびちび煽りながらの晩飯はなかなか最高です。
 明日は岡山に出て、桃太郎巡りです。

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4月28日(日)晴のち曇 鯨肉ステーキにご満悦

 川岸の草地は犬散歩なども多かったですが、比較的寝やすかったです。
 津山市街を出て、国道53号を岡山市目指して走ります。
途中のドライブインのトイレで洗顔し、自動販売機の電源を借りて充電しつつ日記打ち。
 国道53号は楽な道でした。ゆるやかな下り坂だったせいか、追風だったせいか。
 途中カッパで町おこしをしている商店街がありました。カッパの絵と川柳を書いた木の看板を通りのあちこちに掲げているのですが、日曜の昼間だというのにどの店も閉まっていて、町おこしどころか、ほとんど寝たきり状態でした。  どこぞの川のほとりでトーストを焼いて昼飯。
 4時頃に岡山市街に入り、とりあえず今夜のねぐらと観光情報を得るために岡山駅へ。駅前では高校生どもが、自殺者の遺児を支援する募金活動をしておりました。
「おねがいしまーす」
とうるさかったので、二百円あげました。
 駅前の看板を見て、初めて「吉備津神社」と「吉備津彦神社」の二つがあることを知りました。
 どっちがどうなのか分からないまま、それらしき方面へ走ってみました。
 途中、家電製品販売店DEODEOでイヤホンを買いました。これまで使ってたのが壊れてしまったので。DEODEOとエイデンが事業統合するという話を聞いていたので、試しにエイデンカードを出して
「使えますか?」
と訊くと、店員さんは
「はい、大丈夫です。少々お待ちください」
と即答してくれたのですが、だいぶ待たされてから店長が出てきて
「実は一部の店舗でしか共有できないんですよ」
とのこと。別に期待してなかったけど、だったらこんなに待たせるなよ。  晩飯を何にしようかと、スーパーの中をうろついていると、お魚コーナーにさりげなく鯨の生肉(岩手産)が売られていました。
 先月太地町の物産館で1,700円くらい出して買ったのよりも多いボリュームで、たった500円ちょっと。
 よし、今夜は鯨ステーキにしようと決めました。  寝場所は、吉備津彦神社の駐車場脇。すぐ近くに、ちょっとばかっぽい桃太郎の像があります。
 鯨肉をショウガ、ニンニク、醤油に漬けてから、網で焼いてみました。網にくっつくかと思いましたが、大丈夫でした。表面が焦げるほど炙ったのですが、切ってみると中はレアでした。
 炊きたて飯にのっけて食ってみたのですが、柔らかくてうまいではないですか。太地町で買った鯨刺しを食ったときは、さほどうまいとも思わなかったのですが。
たぶん鯨は刺し身よりステーキ(というか、タタキ)で食った方がうまいと思います。
 いやー、贅沢しちゃったなあ、と御満悦になりました。
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4月29日(月)曇 鳴釜殿で独占取材

 吉備津彦神社も若者の溜まり場でした。
 深夜12時ころ、ぼくが寝ている駐車場に、4人ほどの若人どもが車で乗りつけてきました。声の感じや話の内容からして、二十歳前後の学生と思われました。
 彼らは別に車を乗り回すでなく、花火を打って騒ぐでなく、いつまでもお喋りしているのです。
 最初は仲間と待ち合わせしているのかなと思いましたが、彼らはいつまでも喋っています。
 どうやら彼らは、深夜の吉備津彦神社の駐車場にお喋りをしにきているようなのでした。ファミレスにでも行きゃいいのに、と思うのですが、吉備人はそんなことを思いもつかないのでしょう。
 何を熱心に語り合っているのかと聞くとなしに聞いてみると、話題はほぼ次の通りでした。
 彼らの内の一人が、男友達の恋人から愛を告白されてしまい、どうソツなく断ろうかと悩んでいるのです。
「友達の彼女と付き合うなんてよくないと思う訳よ。もしオレがヒラグチさん(男友達らしい)だったらさ、絶対許せねえもん。でもさ、これからも彼女とは顔会わすわけだし、どんなメール送って断ればいいのかなあ」
そして4人の若者は、あーだこーだ言いながらメールの作文を始めました。
 ばかやろう、そういう問題は直接会って直接言うのが筋だろう!
と、おじさんはテントの中でイライラしておりました。
「『ぼくは今、君と付き合っている時間がありません…』」
「…駄目だよ、オレこの前、みんなの前で『彼女募集中』って言っちゃったもん」
「要はさ、今度その子と会うときに、お前が普通でいられるかってことだよ」
「基本的に向こうが悪いわけだろ、お前は普通にしてりゃいいんだよ」
「でもさあ、オレ…」
 しとしとと雨が降ってきましたが、連中はまだ喋り続けています。やがて本降りになり、ようやく彼らは車の中に入りましたが、しばらくして雨が止むとまた車から出てきて、全く進展のない恋愛相談を続けるのでした。
 どういう結論に達したのか、朦朧としていたぼくにはわかりませんが、彼らがようやく去っていったのはおそらく午前3時過ぎだったように思います。

 朝はどんより雲でしたが、雨は上がっていました。若人らがいた場所を見ると、一台分の車の跡と、ジュースの空き缶が数個、転がっていました。
 恋愛やら人間関係やらで悩むのは結構だが、ゴミのポイ捨てするんじゃねえ。
 プンプンしながら、寝不足のテントおじさんはそのゴミを拾うのでした。ぼくって偉い。

 テントを畳んで吉備津彦神社にお参りしていると、ボランティアガイドのおばさんが話しかけてきました。
 吉備津彦関係の観光パンフをくれ、訊きもしないことをいろいろ喋ってくれました。
 一生懸命覚えたんだろうなあ、と思うと、ついつい笑ってしまいそうになって、必死に我慢しながら聞いていました。
「この吉備の中山が吉備津彦神社の御神体なんです。山頂に竜神岩という岩があって、それがつまり奈良の三輪山と同じように磐座になっているわけですね。
山を境に備前と備中が分かれていまして、双方で神社が欲しいということで吉備津彦神社と吉備津神社とができたわけです。この吉備津彦が、桃太郎のモデルになったといわれているんです」
 ここで一応吉備津彦伝説のあらましを紹介しておくと、以下のとおり。

   昔、朝廷は日本中を平定するために四道将軍という四人の将軍を派遣しました。吉備津彦はその一人で、この地方を平定するためにやってきたのです。
 当時この地方には温羅(うら)という鬼が、鬼ノ城(きのじょう)という山城に住んでいました。
吉備津彦は吉備の中山に陣を構え、鬼ノ城の温羅目がけて矢を射掛けますが、温羅は巨岩を投げつけて矢をことごとくはじき返します。
 一計を案じた吉備津彦が弓に二本の矢をつがえて放つと、見事その一本が温羅に命中しました。
 温羅が血を流しながらも鯉に化けて川に逃げると、吉備津彦は鵜になって追いかけ、ついに温羅を退治しました。
 吉備津彦の館のあった場所には吉備津神社が建てられ、近くには吉備津彦の墓「茶臼山御陵」もあります。
 
ボランティアガイドのおばさんが一生懸命説明してくれるので、
「吉備津彦の"キビ"と、黍団子の"キビ"とは、何か関係があるんですかねえ」
と訊いてみたら、
「分かりません」
とあっさり言われました。

 吉備津彦神社を出て、自転車道を吉備津神社に向かって走ると、「福田海」というお寺みたいなところがあって、「はなぐり塚」がありました。
 ここは例の『珍日本紀行』モノで、屠殺された牛や豚の鼻輪(=はなぐり)を山と積み上げて供養しているのです。
 はなぐり塚を見るためには入場料代わりに護摩木を百円で買わなければならないらしいのですが、ちょうど小銭を切らしているのに寺の人が見当たりません。困ってうろうろしていると、観光タクシーで名所巡りをしている夫婦がやってきました。
 タクシーの運転手さんに千円札を両替してもらい、ようやくはなぐり塚に入ることができました。
 色とりどりの鼻輪が山になっていました。かなり壮観。なんか、生臭いにおいがしてきそう。
 ここはもともと古墳(円墳)で、福田海の開祖が昭和初期に牛の供養のために発案し、全国から鼻輪を集めて現在のものを作り上げてしまったのだそうな。
 もともとの古墳の主にしてみりゃ、かなわん話ではありますが。
はなぐり塚
はなぐり塚

 鼻輪の数は六百八十万個を超え、現在でも年間数万個の鼻輪が納められているのだそうな。
 百円で買わされた護摩木に願い事を書いて塚に供えておけば、毎週住職が護摩供養してくれるのだそうな。
 奉納された他人のを見ると「家内安全」「商売繁盛」などと書かれた木が多かったのですが、ぼくはついついウケを狙うつもりで
「食用肉ブランド産地偽装僕滅」
と書き、ボクの字を間違えたことに気づいて慌てて人偏をなぞって手編に書き換えました。恥ずかしい。

 有名な吉備津神社ははなぐり塚のすぐ近く。静かな吉備津彦神社と比べ、客の入りは大違いでした。
 階段を登って拝殿でお参りし、長い回廊を歩くとどこからか雅楽の音が聞こえてきます。ところどころにスピーカーがあって、そこから流れてくるのでした。
 吉備津神社の目玉は何といっても鳴釜です。境内の隅の方に建物があり、靴を脱いで真っ黒に煤けた室内に上がってみると、注連縄を渡された上座に竈が据えられ、煙とも湯気とも知れぬものが立ちのぼっていました。
 割烹着を着たおばさんが上座の脇にでんと座り、正座した見物客が神妙な顔をしておばさんの説明を聞いている最中でした。
 この竈の地下八尺の所に温羅の首が埋められており、甑(コシキ=せいろ)の載った釜を焚くとうなり声のような音がするのだそうです。
 鳴釜の由来は、昔、吉備津彦の夢枕に死んだ温羅が立ち、
「わしも生前は悪事を重ねた。その償いに釜を鳴らして世の吉凶を知らせよう」
と言ったことに始まるのだそうです。極悪な鬼も、退治された途端に物分かりがよくなっちゃうんですねえ。
カマドの火は千五百年間もの間燃え続けている消えずの火で、釜石製鉄の火入れ式にも使われるのだそうです。
 釜の音が耳に心地よく聞こえれば吉、悪く聞こえれば不吉、鳴らなければ凶なのだとか。
 釜占いの希望者がたくさんいるので、一般の見物客が鳴釜殿に入れる時間はなかなかないのだとか。今日はラッキーなんだなあ。
鳴釜
鳴釜
 ぼくはおばさんの説明の途中から入ったので、他の客が腰を上げたのを見計らって、おばさんに詳しい話をいろいろ訊いてみました。おばさんは話し好きなうえに、すごく詳しいのです。
 
「上座の注連縄の中は立ち入り禁止になっているでしょう。この中は阿曽女(あそめ)という役の女性だけが入れるんです。とくに男子禁制でね、他の人が一歩足を入れただけでお払いの儀式をしなきゃいけないんですよ。鳴釜の儀式を行なうのは阿曽女の仕事でね、だから吉備津神社の神主でさえ、鳴り釜の技は何も知りません。
 鬼ノ城のふもとに阿曽っていうところがありまして、温羅様はここの出身だといわれてるんです。だから鳴り釜の儀式は、温羅様の奥方の末裔という意味で、阿曽出身の女性で、月経が上がった人が代々務めるのことになってるんです。あたしももうこの年で、とっくに生理は終わってますからね」
 
その辺のボランティアガイドかと思ったら、このおばさんこそ鳴釜を行なう巫女さんだったのです。

「ここらの人はね、鬼でもサマをつけて温羅様って呼んでるんですよ。言ってみれば吉備津彦様なんて、よそから来た人でしょ。
 この鳴釜殿は、神社の境内にありますけど、もともとは吉備津神社から独立してて、阿曽の人達が司っていたんです。
 この釜も戦前までは阿曽に組合がありましてね、そこで鋳造してたんです。でも戦時中、「武器は作らない」と言って軍に従わなかったので、解散させられちゃったんです。
 そんなことがあって以来、この鳴釜殿も吉備津神社の預かりになっちゃいましたけど、今でもここだけは神社庁には属してないんですよ。
 このカマドは60年毎につき直すことになってるんですけど、今は耐火レンガでしょ。でも昔は地元の石を使って突いてたんですよ。この甑もね、今じゃ地元で作れる職人がいなくなって、京都から特注してるんです。20万円かかりますけど、だいたい三年くらいで壊れちゃいます。
 甑の上に載ってるムシロ。これもね、何本使って編むかとか、きちんと決まってるんです。
この建物もね、釜の音が響くように計算されて建てられてるみたいです。
 え?ああ、あの正面の3つの大シャモジ。あれはね、永平寺なんかにもありますけど、仏教のものですね。阿曽女が釜占の時あの前に立つと、シャモジがちょうど光背みたいになるわけです。神事の際、阿曽女が丁度仏様みたいに見えるよう計算されてるらしいですね。
 明治の神仏分離以前は、吉備津神社は普賢院っていうお寺だったんです。五重塔もあったそうですよ」
 
へー、すげーなー。ぼくは好奇心を刺激されまくりで、他の観光客そっちのけで阿曽女おばさんを独占取材してしまいました。
「どーもすいません、ぼくばかりお話を伺っちゃって」
「いいんですよ、あたしは好きで皆さんとお喋りしてるだけですから。占いがないときは裏でごろ寝しててもいいんですけどね、せっかく皆さんいらっしゃるんでお話ししようかなと。お兄さんは随分と熱心ですけど、研究なさってるんですか?」
「いえ、興味本位で。こういう怪しいの大好きなんで」
「あらまあ、怪しいですか」
「怪しいですねー。岡山って、マイナーな県ですけどどこか雰囲気的に怪しいですよ。そういうの大好きで」
「あやしい探検隊ですね。これからどちらへ」
「鬼ノ城へ行こうと思ってるんですけど」
「自転車でいらっしゃってるんですよね。かなり大変ですよ。頂上からは阿曽の里も見えますよ」
 阿曽女おばさんの写真を撮らせてもらって、ようやく鳴釜殿から出ました。
なんか、民俗調査の実習の後のような、妙な充実感と高揚感が残っておりました。やっぱ好きなんだな、俺って。根掘り葉掘り訊くのが。
 神社の庭では、牡丹やツツジが満開だったり、弓を引いている人がいたり、落書きだらけの絵馬掛け場があったり、けっこう盛りだくさんでした。
 吉備津神社のお札も買って(500円)、ようやく神社を後にしました。

 次に向かったのは、吉備国分寺。ちょうど度連休の初めということで、「れんげ祭り」なるイベントをやっており、見物客で賑わっていました。五重塔の内部公開をしていたり、ステージでは備中神楽を上演していたり、ここも盛りだくさんでした。
 備中神楽はスサノオとヤマタノオロチの戦いの場面をやっておりました。
備中神楽
備中神楽

 面を被り、派手な衣装を着たスサノオが見栄を切りながら、ヤマタノオロチ(実際は大蛇三匹)を切り伏せていきます。大蛇役の人は蛇の頭を被り、でっかい掃除機のホースみたいな蛇腹を体に巻き付けて走り回っています。かなり大変そうです。
 脇の方に太鼓を叩いてるじいさんがいて、
「ほらほら、敵は油断しているぞ、今がチャンスだ、ドンドン」
などと、アドリブ風な歌を歌って盛り上げています。スピーカーからは
「ゴオオオオー」
と効果音まで流れていて、同じ神楽といえど信州遠山の霜月神楽などとは派手さが全く違います。
 クライマックスには尊と大蛇がステージを飛び降りて客席近くまでなだれ込み、蛇が子供の頭に噛みついたりとサービス満点。
 最後は尊が蛇の頭を切り落とし、勝ち誇りながらステージを去っていきました。

 そんなものを見物していたので、もう夕方。
 今日中に鬼ノ城に登って降りてくるのは無理です。山の上の方に駐車場があるらしいので、今夜はそこにテントを張ることに決めました。
平地のスーパーでニンジン・モヤシ・食パンを買い、山に向かいます。
 ふもとのキャンプ場を過ぎたあたりから坂がきつくなりました。たぶん、今回の旅で一番の急勾配だったのではないでせうか。
 汗だくになりました。

 途中、温羅が使ったという「鬼の釜」がありました。直径1.6m、深さ1.3mの鉄の釜が、東屋の下にでんと据えられているのです。錆びてボロボロになっており、底は抜けておりました。
 温羅が使ったという伝説はさておき、説明書きによれば、この鬼ノ城一帯は平安時代末期には山岳仏教の一大聖地だったそうで、三十八もの坊が立ち並んでいたそうな。
で、この釜はその寺院で使われたものではないかとの説が有力なのだそうです。平安時代の鉄釜が、こんなところに放置されてるってのもすごいよなー。
 他の説明板によれば、、本当にここにそんな大規模な寺院群があったのかについては、諸説あって、本当の所ははっきりしていないのだそうですが。

 5時ころ、ようやく八合目あたりにある駐車場にに着きました。ぜえはあ言っているとおばさんとおじさんが話しかけてきました。
「前から思ってたんだけど、あなたみたいな旅の仕方の場合、旅を続けるのに一番必要なものって何?」
とおばさんが尋ねるので、
「やっぱ財布じゃないですかねえ。金さえあれば、とりあえず何とかなりますから」
と答えたのですが、
「ふうん」
と、おばさんは納得していない様子でした。後になってから、
「旅を続けるのに一番必要なのは、好奇心ですよ」
なんて答えれば気が利いてたかなあと思いました。

今夜の晩飯は、何だったかな。ごはん炊いて、モヤシのみそ汁でも作ったかな。

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4月30日(火)曇 鬼ノ城の串刺し生首

 鬼ノ城の駐車場での一夜は静かで、とてもよく眠れました。
 天気予報ではあまり天候がよくないと聞いていたのですが、幸い雨も降りませんでした。
 朝飯は定番のうどん(具はもやしとニンジン)を食い、テントを畳んで今日は鬼ノ城巡りです。
 重いリュックはチェーンで自転車につなぎ、駐車場に置いていくことにしました。

 ここで一応、鬼ノ城の説明をしておきます。温羅の根城であったという伝承はともかく、学説的には白村江の戦いで日本が唐新羅連合軍に敗れた後、国内に敵が攻めてくるのを恐れた朝廷が、西日本の各地に築いた山城の一つではないかという見方が有力なのだそうです。
 だとすれば、実際は鬼側じゃなくて桃太郎側の城なわけですね。
鬼ノ城
鬼ノ城

 よく鬼ノ城を「朝鮮式山城」などといいますが、何がどう朝鮮式なのかはよく知りません。
 きっとオンドルの遺構とか、キムチの瓶とかが発見されているのでしょう。
 鬼ノ城は標高400mほどの山で、その八合目あたりにぐるりと石垣を巡らせて城としています。石垣の長さは2.8km。

 登ってみると、何やら工事して立派な歩道を作っている最中でした。
 昔はマイナーな遺跡で、木々が鬱蒼としていかにも鬼が出そうな雰囲気だったそうですが、いずれ芝生が植えられて小ぎれいな公園になってしまうのかもしれません。
 あちこち盛んに発掘している最中で、新たな石積などが顔を覗かせているあたりはなかなか興味深いです。
 城門の柱穴などは、しっかりと石に四角い穴があけられていて、けっこうリアルでした。
 江戸時代、ここには石仏が点々と置かれて観音巡りが行われていたそうで、現在の遊歩道もその頃の巡礼道なのだそうです。
 眼下に平野が見下ろせました。曇ってはいましたが、いい眺めです。これなら、外国の軍が攻めてきても、その動きがよく見えるでしょう。
 石垣はかなりでかい石をしっかりと積んであって、
「ほんとにこれ、人力で積んだのかな?」
と思うようなものもありました。なかなかかっこいいです。

 鬼ノ城の近くに、「鬼の岩屋」なるものがあるというので行ってみました。
こんなところに生首が!?
こんなところに生首が!?

 途中の田圃に、竹竿に突き刺されたマネキンの首がいくつも立っていました。
 服を着せられる前のカカシだということは分かるのですが、顔半分を青黒い黴の斑点で染めた美女の生首は、まるで温羅に食われた人間のようでかなり怖かったです。

 意外なことにこんな山の上にも人家があり、その奥に岩屋寺という小さな寺があって、その裏手にでっかい岩が積み重なっているところがありました。
 これが鬼の岩屋です。温羅が石を積み上げて住んだ場所だと言われてるそうなのですが、あれだけ立派なお城作っといて、自分はこんなところに住んでたなんて、おかしな鬼です。
 岩には毘沙門天が線刻されていて、いかにも密教の修行地のような感じがしました。

 昼過ぎまで鬼ノ城や岩屋巡りを堪能し、山を下ったのは午後2時頃。
 降ったり止んだりの半端な天気。
 倉敷市街を通過し、金光教本部のある金光町を過ぎ、今夜は国道2号沿いの潰れたガソリンスタンドの軒下にもぐりこみました。車の音がやかましいですが、今夜も雨になるということなので、テントが濡れるよりはましです。
 近くのスーパー「まるなか」で食材を買い、店のトイレで充電し、その間百円のグレープジュース果汁30%一リットルをがぶ飲みしながら日記打ち。なかなかはかどりません。
 
 晩飯はレトルトのカレーとチキンハンバーグ。今日は発泡酒を飲みたい気分だったので、飯を炊き終わってから再びまるなかに走りました。

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5月1日(水)曇 カブトガニの存在価値

 朝飯は焼きうどんだったような気がします。
 夜は雨が降りました。ガソリンスタンドの給油場で寝たので、雨対策は万全だと思っていましたが、庇から雨漏りしてくることは計算外でした。

 ともあれテントを畳み、向かいのドライブインで歯磨き。ゆきずりのおっさんが
「日本一周かい。わしも若いころ四国一周したよ。気をつけてな」
と言ってくれました。やっぱ多いですね、そういう人は。

 雨も止み、しばらく走ると福山市に入りました。もう広島県です。
 広島県で見物する予定は、


です。なにせ山陽を訪れるのは初めてなので、有名どころと『珍日本紀行』ものばかりです。
 
 今日の見物地はカブトガニ博物館。
 カブトガニといえば、たいがい学校の理科室に標本が転がってて、しっぽの角が折れてたりしていることで日本人にはおなじみです。
 けっこうリアルな恐竜の実物大模型が鎮座する前庭の向こうに、ドーム状の博物館がありました。どうやら、カブトガニをイメージした建築デザインのようです。
 玄関前で何やらわからぬ言葉を喋っている社会見学の子供たち(外国からの修学旅行か?)を尻目に、入場料520円を払って中へ。
 室内の映像では、カブトガニの歌が流れていました。
 
 人間もマンモスもいなかった
 二億年もの大昔
 今でも笠岡で生きている
 がんばれがんばれカブトガニ
 命をいつまでも伝えておくれ
 
 しかし、カブトガニって気持ち悪いですよね。甲羅はまだかわいいとしても、裏側見ればまるきりエイリアンの幼虫じゃないですか。
 笠岡市の海岸では、毎年夏の満月の夜になると、何千匹というカブトガニの大群が上陸してきて飼い犬などを襲い、朝みると鎖に繋がれた白骨だけが残っているのだそうな。
 などというのは大ウソですが、もとはクモやサソリの仲間だというのですから、見た目に気持ち悪いのは当然かも知れません。
 マスコットのカブニくんは、その気味の悪い裏側部分を全く省略してデザインされているので、卑怯です。
 カブトガニは世界的にアジアの東側と、北アメリカの東海岸にしか分布していないのだそうな。大陸の移動によってそうした分布になったのだそうです。へー。
 アジアには三種類、アメリカには一種類のカブトガニがいて、見た目はさほど変わりませんが、アジアのものとアメリカのものとの間では、もはや交配が不可能なのだそうです。勉強になるなあ。
 東南アジアではカブトガニは食材として市場で売られていて、それを食べた日本人の話によると
「油っこくて生臭くて、あまりうまくない」
のだそうです。ちっちゃいやつをかき揚げにしたらどうだろう。ほっぺたに穴あきそうだな。
 
 笠岡市の生江浜はカブトガニ繁殖地として日本で唯一天然記念物に指定されているらしい。
 昭和3年に記念物に指定しておきながら、その後笠岡湾を干拓する大事業が行われ、生江浜は完全に陸地化して、カブトガニは激減して笠岡ではほとんど天然ものが見られなくなり、今繁殖に力を入れているそうな。
 記念物指定も干拓も、どっちも国の事業なわけですよね。保護したいんだか滅ぼしてもかまわんのだか、はっきりせいと言いたいところです。
 かようにカブトガニは環境の変化に敏感で、そのうえ脱皮が複雑なために、脱皮の失敗で死んでしまう個体も多いのだとか。
「二億年も前から生き延びてきた生きた化石」
なんていうから、ゴキブリ並に生命力が強いのかと思ったら、けっこうひ弱なんですね。要するに、今まで生き延びてこられたのが幸運だったということでしょう。
 それに、二億年間姿を変えなかったということが結果的に人間に評価され、こんな立派な博物館まで作ってもらって、細々なりとも生き延びる手助けをしてもらっているということも、カブトガニにとっては幸いでしょう。
 同じ生きた化石でも、人間に嫌われ続けながらそれでも生きているゴキブリなんかは、こうして考えるとたいした生き物です。かわりに、強靭な生命力もなく、人間に注目される特徴もない生き物の多くが、この人間の繁栄している現代にバンバン滅びてるってことでしょう。
 なむあみだぶつ。
 例えばホタル。あれもケツが光るから「ホタルの里づくり事業」とかいって、人間から腐るほどカワニナを放流してもらってるわけです。あの虫が尻から光ではなく悪臭を放って飛んでたら、今頃絶対絶滅しています。
 
 まあ、水槽の中を這い回るカブトガニを眺めながら、そんなことを思ったのでした。
 
 建物を出て、前庭で昼飯の食パンを食っていると、掃除のじいちゃんと少し会話する機会がありました。場所柄カブトガニの話題になって、先程思った感想をぶつけてみました。
「天然記念物に指定しておきながら干拓して繁殖地つぶしちゃうってのは、どういうわけですかね」
するとじいちゃんは、
「まあ、国のすることだからねえ」
と言っておりました。
 事業は国の事業でも、それを受け入れたのは地元住民だろうが。他人事だなあ。
 
 笠岡市を出て、国道2号を走ります。ふと気がつくと車専用のバイパス化していて、自転車は締め出しを食うことがしばしば。
 苦労しながら上り下りの激しい側道を走っていましたが、ふと
「みろくの里こちら」
の看板に誘われ、矢印の方に曲がってみると、旧国道にたどり着くことができました。
 結局、「みろくの里」とはどんなところなのかはわからずじまいでした。ちょっと興味あったんだけどな。
 
 夕闇が迫るころ、尾道に入りました。大きなクレーンが立ち並び、いかにも造船の町といった雰囲気。いいですねえ。
赤い夕焼けをバックに映える大きな橋をくぐりましたが、これがしまなみ海道というやつでしょう。
 駅前の福屋とかいうデパートの食堂売り場で晩飯を買いましたが、全体的に割高であまり手が出ませんでした。
 晩のおかずは、「焼いかなご」に決めました。
 ねぐらを探しながら夜の市内を走って行くと、なんのことはないすぐ近くにスーパー「イズミ」がありました。
近畿はオークワ、大阪なら関西スーパーかライフ、そして中国はマルナカとイズミ。勢力分布はこんなところでしょう。
 
イズミで食パン、マーガリン、百円ビスケットや半額おむすびを買い込み、今夜のねぐらは尾道駅の近くの小さな公園。雨は降らないらしいから大丈夫でしょう。近所に住宅もないから、犬散歩や子連れ母などもさほど来ないはず。
 
 自宅に電話すると姉が出ました。
「今日は尾道」
「へえ、坂のある映画の町ね」
「そうなの?」
「大林宣彦がよくロケ地にしてるよ。出身地だからね」
「大林宣彦?小説家じゃなかったっけ」
「なにそれ」
「ああ、ありゃ小林信彦か」
映画には全く疎い弟でした。
 
 焼イカナゴは、まあまあの味でした。
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5月2日(木)晴 増殖途中のモザイク街

 朝飯は一昨日買った焼きそば二玉。ソースはないので塩コショウで味付け。まあまあでした。
 公園を出て、尾道駅前の観光センターで洗顔・充電。
 昨日姉が言っていたことを思い出し、尾道ってそんな観光的に有名なのか、どれほどのものかしらん、と、マップ片手に散策してみることにしました。
 
 まず行ったのは尾道映画資料館。尾道はとくに小津安二郎の映画の舞台になったところだそうで、小津関係の展示がありました。
 ぼくも以前「東京物語」をビデオで見たことがありますが、そのときの感想は
「笠智衆って、昔からボンヤリした芸風だったんだなあ」
くらいでした。
 そういや、屋根の上から見下ろす港のカットが入っていたような。
 資料館では美空ひばりの企画展示をしていて、ひばりの映画ポスターが張られてひばりの主演映画を流しておりました。
 美空ひばりにもぼくはあまり興味はなくて、
「ひばりって、スターだったらしいけど、やっぱ美人じゃないよね」
が感想でした。
尾道の路地
尾道の路地

 その後、自転車を停めて坂を歩いてみました。
 寺と民家と路地と階段が、モザイク状に絡み合っていました。さらに増殖しようとしているそのモザイクを、鉄道の線路が辛うじてせき止めています。
 狭い道の両側に、家の玄関や窓や便所があって、生活臭がもろに匂ってきてドキドキします。
駐車場などもちろんないのですが、住民たちは車を持っていないのか、遠くの駐車場を使っているのか。
 不思議に思いつつ階段を登っていると、上からおじいさんがキャタピラ式のトラクターみたいのを
ガコンガコンガコンガコン
と押しながら降りてきました。
なるほどこれに載せれば、坂だろうと階段だろうと、重い荷物も運べます。
 でも、絶対階段が壊れると思うんだけど。
すれ違いざま、おじいさんがぼくを見てにやりと笑い
「家出かね」
ぼくも笑い返し
「まあ、似たようなもんです」
 
 そうした迷路みたいな路地の一角に、「尾道文学の館」がありました。一応入ってみると、志賀直哉が仮住まいした部屋が保存されてたり、林芙美子の資料が展示されてたりしていました。
 志賀直哉も林芙美子も読んだことがないので、さほど興味は湧きませんでした。
 
 まあ、これくらい歩けば尾道観光したことになるだろう、と満足し、自転車に戻って漕ぎ出しました。
 途中、でっかいリュックを背負った歩行者を追い越しました。歩きの旅人さんのようでした。
声をかけるのが礼儀なのかなと思いましたが、恥ずかしいのと面倒臭いのとで、素知らぬ顔で通過してしまいました。
 
 次の見物地は毒ガス島(大久野島)です。これは『珍日本紀行』モノで、既に見てきた北豊島君も
「あれは必見だよ」
とお薦めしてくれたのです。
 大久野島へは、竹原市の忠海港から船が出ていました。忠海に着いたのはもう4時過ぎだったので、島に渡るのは明日にして、早々に近くの公園をねぐらと定め、暇があったので久しぶりに洗濯をしました。大阪の西中島君のアパートで洗濯して以来です。
 公園の水飲み場で、スーパーの買物袋に衣類を入れ、石鹸でジャブジャブともみ洗い。公園の休憩所の軒下にロープを渡し、絞った洗濯物を干しました。
 遠目からは、公園を占拠したホームレスそのものです。
 
 洗濯を終わってから、近くのスーパーへ買物。
「今夜は何しよーかなー。最近マンネリだもんなー」
と野菜売り場で考えていると、スーパーの店長が
「いろいろお悩みですね」
と声をかけてきました。
「そーなんですよ、毎晩考えちゃって」
と、まるで主婦みたいな答えを返すと、
「最近野菜が高くてねえ。どうです、このアスパラはお買い得ですよ」
と言うので、とりあえずニラとモヤシと鶏レバーを買ってレバニラ炒めに決めました。へそ曲がり。
 基本的にレバーは苦手なはずなのですが、旅に出てからはけっこう食っています。何しろ、安いので。
 
 今日は天気がよかったので、足がヒリヒリするほど焼けました。腕や顔との色の釣り合いがとれてきました。

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