日本2/3周日記(沖縄2) 南西諸島だらだら編(沖縄2)

8月7日(水)曇 自決の部屋の弾痕

 やっぱ寝台は快適でした。カーテン閉めればパンツ一枚で寝られますし。
 寝てる間に毛布が下段まで垂れ下がってしまい、下段のベッドの女性に迷惑をかけたと思います。恥ずかしい。
 
 那覇港に入ったのは朝7時。
港のターミナルで兎谷さんの携帯に
「着きましたー」
とメールを入れたら、早速電話がかかってきて
「せっかくなので晩飯を御馳走しましょう。7時か7時半ころにどこかで待ち合わせしましょう。また連絡します」
とのこと。やったぜ。
 
 シーズンなのでフェリーが混んでいることを思い知ったぼくは、鹿児島行きのフェリーを今のうちに予約することにしました。
これまでのぼくのペースから計算して、一応8月22日にフェリーの予約を入れました。それより早く沖縄一周できれば、それにこしたことはありません。
 もうすぐ8月中旬。盆が明けたらもう秋です。
 今回の旅は、北海道はもはや無理としても、青森までは行きたいと目論んでいるので、これ以上ノンビリしているわけにも行きません。
 10月中には青森まで行きたいんだけど…。
 
旧海軍司令部壕
旧海軍司令部壕

 今日の予定は、眼鏡の修理と旧海軍司令部壕の見物です。
 眼鏡屋を探しながら走って行ったら、なんやかんやで先に旧海軍壕公園に着いてしまいました。
 ここは、太平洋戦争中に海軍の指令本部が置かれていた場所で、司令官をはじめ幹部らが自決した場所です。
 こざっぱりした公園になっており、入場料420円を払って中に入りました。
 低い天井のトンネルがうねうねと続いており、ところどころに狭い「司令部室」やら「暗号室」やらがありました。
 そのうち「幕僚室」は、幹部が手榴弾で自決したときの破片の跡が壁に残っていて、生々しかったです。というのも、壁の傷だけ残して、ペンキが塗ってあるのでわかりやすいのです。きっと当時もペンキが塗られていたのでしょう。
 戦時中は総延長450m、4000人の兵士が収容されていたそうです。下士官までは専用の部屋が与えられましたが、ヒラの兵士は通路で寝起きしたりしていたそうな。
自決時の手榴弾の痕
自決時の手榴弾の痕

 現在では275mが復元・公開されており、当時を再現した絵などもあって分かりやすかったです。
 信州松代の「松代大本営」の地下壕も迫力ありますが、こうした戦時中のトンネル群を見るにつけ、当時の人々の執念のようなものを感じます。
 
 売店で沖縄戦の写真集を立ち読みしました。
 片足を白骨化させた少年の死体の写真があったり、「斬込隊」の若い女性の死体があったり。
 その一方で、米兵にスープを飲ませてもらう女の子の写真があったり、亀甲墓の中にハンモックを吊るして読書するアメリカ兵の写真があったり。
 
 昼になったので公園のすみっこで湯を沸かしてカップ焼きそばを食い、最近擦り減って効きが悪くなった自転車のブレーキを調節しました。
 兎谷さんとの待ち合わせ場所が国際通りの三越前となったので、その付近で眼鏡屋を見つけ、修理を依頼。
「1,500円〜2,000円くらいかかりますけど」
と言われましたが、了解しました。指宿の眼鏡屋でタダで直してもらったのは例外的な親切なわけで、いっそちゃんと請求してもらった方が気は楽です。
 それとついでに、近くの写真屋でデジカメのデータをCDへコピーしてくれるよう依頼しました。
 
 時間があるので、ちょっと足を延ばして「辨の御嶽」を探しに行きました。以前見つけられなかった、由緒ある御嶽です(日記7月21日参照)。
 前回とは別の方向をうろついてみたのですが、それらしきものは全く見当たりません。
走っているうちに市境を越えて南風原町に入ってしまい、こりゃあかんわ、と、諦めて戻ろうとさまよっているうちに、偶然見つけてしまいました。
 あこがれの辨の御嶽は住宅地の奥にあり、薄暗い公園になっていました。「ハブに注意」の立て札も立っています。
 ここは弁ヶ嶽といい沖縄本島南部の最高峰の山だそうですが、すぐ近くまで住宅が迫っているので「嶽」とはちと大袈裟な、と思います。
 拝所は、昔は石積のしっかりしたものだったそうですが、当然ながら沖縄戦でぶっつぶれ、今では味気無いコンクリート製の門になっています。
 門の横から余裕で人が入れるようになっていて、山の上まで道らしきものがあったので、神様に失礼かと思いながらも弁ヶ嶽の頂上に登ってしまいました。
 まあ、山頂だからといってスゴイものがあるわけでなく、ちょっとした石の線香台がある程度でした。
 公園の便所は管理室と併設になっており、物置のようなその部屋では、管理人さんらしき人が三線を弾きながら民謡を唸っていたのが風流でした。
 
 これで那覇市内では当初の見物予定を全てクリア。
 待ち合わせ時刻より早めに国際通り付近に戻り、今夜の寝場所を探すため、公園めぐりをしました。
 国際通りに一番近い希望ヶ丘公園は至るところに落書きが多く、ちょっと野宿にはガラが悪すぎでした。
 崇元寺公園は、通りからちょっと離れていますが、立派な石門とガジュマルの大木があり、広場も人が少なくてテントを建てやすい印象でした。
 松山公園は広くて、テントを張るには申し分ありませんでしたが、「キャンプ禁止」の看板が目障りでした。
 ということで、今夜の寝場所は崇元寺公園に決定。
 無事直った眼鏡(2,000円)とCD(1,050円)を受け取り、三越の石敢當前で兎谷さんと合流。
「どーもどーも」
「おひさしぶりです」
「沖縄料理がいい?それとも普通の料理がいい?」
「沖縄料理!」
「そっか、それなら…まあどこも似たようなもんだから適当に入ろう」
ということで、近場の沖縄料理屋に連れて行ってもらいました。
 兎谷さんは町誌編纂の調査で沖縄に来ており、今夜は9時から琉球大学で別用があるとか。少ない時間を裂いていただき恐縮至極。
「ほんとは泡盛でも飲みたいところなんだけど、私は車だからサンピン茶。君は好きなのをなんでもどうぞ」
とおっしゃるので、ここぞとばかりにオリオン生ジョッキを注文させていただきました。
いや〜、最初の一口のうまかったこと。
 調子に乗っていろいろ注文してしまいました。
「あ、海ぶどう、これいいな。宮古のスーパーで売ってたんだけど、400円もするんで手が出なかったんですよお」
といいながら600円の海ぶどうを注文したり。ずうずうしいな、俺って。プチプチしておいしかったです。
 他にも、ゴーヤチャンプルーとか、ヘチマの味噌煮とか、ブダイの刺し身とか、ちっこい魚の乗っかった豆腐(名前なんだっけ、忘れちゃった)とか。これだけ食えれば
「いやー、沖縄で沖縄料理食べてきたよー」
と故郷で自慢できます。
 
「どうですか、沖縄の印象は」
と兎谷さんに訊かれました。
「そうですねえ、ちょっと薄汚いような。天気がいい日はいいんですけど、曇りの日には家の白ペンキの汚れが目につきますね」
「人によっては『沖縄は時間がゆっくり流れてる。癒されるのよ〜』ってハマる人もいるけど」
「うーん確かに、昼間から公園で寝てるおっさん見てるとそう思いますね。あんたら、そんなに時間ゆっくり流れてていいのか!?って」
「そりゃ確かに」
 
 兎谷さんからは、今後のお勧め見物スポットなどを教えてもらい、いろんな話をしました。
「君の日記はせっかくなんだから出版社に持ち込んだ方がいいよ。まあ、ちょっと長すぎるから、大幅に短くまとめる必要はあると思うけど」
「うーん、あと『放浪日記』ってタイトルも、陳腐ですから別のを考えた方がいいですね」
「それから、ちょっと文章のガラが悪いから手直しする必要はあるな」
「えへへ」
 初めぼくらしかいなかった店内も、やがて他のお客(観光客)で満員になりました。
大阪の西中島君と行った焼肉屋みたいに追い出されるかと思いましたが、大丈夫だったのでほっとしました。
 お腹いっぱいにごちそうになり、9時まぢかになって
「じゃあ、そういうことで」
「どーも、御馳走様でした!」
兎谷さんは急いで去っていきました。約束の時間に間に合ったかしら。
 この場を借りて改めて。兎谷さん、どうもありがとうございました。
 
 ほろ酔い加減で崇元寺公園へ向かうと、若者数人が隅の方でたむろしていましたが、反対側の草地に無事テント設営完了。
 パンツ一枚になって、水をゴクゴク飲み、ぐわーと寝てしまいました。
南西諸島編目次 表紙

8月8日(木)曇 ひめゆりの「穴」

 朝方ちょっと散歩犬が吠えましたが、総じて静かな公園でした。
 起きてから、携帯電話が無いことに慌てましたが、テントの外に出てみると、近くの草むらに落ちていてほっとしました。
 
 今日から沖縄一周の再開です。
まずは南下してひめゆりの塔やら摩文仁の丘やら、沖縄戦跡三昧のコースです。
 10時、糸満市内で食パン、ヨーグルト、缶詰トマトを買って、バックナー中将戦死の碑のあたりで朝飯。
 バックナー中将はアメリカの沖縄上陸軍の司令官です。
 沖縄戦はアメリカ軍の圧倒的勝利だと思っていましたが、なんやかんやで司令官みずから戦死してるんですね。きっと前線で指揮していたんでしょう。立派りっぱ。
 
 ひめゆりの塔は、塔とは名ばかりで、ただの石碑でした。「ひめゆりの碑」と改称すべきだと思います。
 碑の前にはぽっかり洞窟があいていて、そこが学徒隊が死んだ場所というわけです。だから、本当は「ひめゆりの穴」と呼んだ方が正しいと思います。
 さらにいうと、沖縄県女子師範学校と沖縄県第一高等女学校の生徒によって編成された学徒隊が、
沖縄戦の当時から「ひめゆり部隊」などと呼ばれていたわけではありません。
 戦後、両校が統合したときの校友会誌が「姫百合」という名前であり、慰霊碑を建てた人がそれにちなんで慰霊塔の名前にしただけなのだそうです。
 例えばもし会誌の名前が「みみたこ」だったら今頃…?
 それはさておき、穴の中を覗いてみたら、なにか白いものが見えましたが、まさか遺骨ってことはないでしょう。
お腹に開いた穴は大砲で撃たれたせいか?
平和を祈るギャン

 境内(?)にはお腹に穴が開き顔に十字架がはりついた、変な鳥人間の像がありました。顔の十字を見ると、昔ジオン軍にこんなモビルスーツがあったよなあ、となつかしく思い出します。

 資料館を見物(300円)。
 亡くなった女学生と教師の遺影がずらりと並んでいました。一人一人最後の死に様が
「艦砲射撃を受けて即死」
「友人らとともに自決」
「山中を放浪しているところを目撃されたが、その後消息不明」
などと紹介されていました。どれもみな競うかのように壮絶な最期です。
遺影の中には
「お、けっこう好み!」
という顔のコもいれば、
「もうちょっとましな写真はなかったのか?」
というコまで、いろいろあって面白いです。そういう面白がり方をしてはいけない。
 まあ、いろいろと展示はされておりましたが、つまるところ一番当時の悲惨さを伝えるものは生き残った人々の証言です。
 でっかい字でプリントし、ラミネート加工(っていうのか?)してでっかいリングファイルにしてあるのですが、すごくめくりにくかったです。でも全部読みました。
 こういう手記を読むときは、「もし自分だったら」ということを常に考えます。この姿勢はおりこうさんです。
「アメリカの捕虜になったら、女は強姦され、男は戦車でひき殺される」
と教え込む日本軍と、
「早く(壕から)出てきなさい。命は保証する」
と呼びかけるアメリカ軍との板挟みになる民間人。
「投降するやつはぶち殺す」
と息巻く日本兵を前にして、はたしてぼくは投降する勇気があるだろうか。
 勇気を出して投降した人の命は助かりますが、若い女性の何人かは実際にアメリカ兵に襲われているわけで。
 日本とアメリカ、どっちが正しいと言い切れないのが難しいところです。
 
人は少ないが蚊は多い
健児の塔

 魂魄の塔などをちらりと見た後、健児の塔へ。沖縄師範学校男子部の学徒隊の慰霊碑です。
 鉄血勤皇隊と称して手製の槍を持ち、アメリカ軍に突撃していった哀れな若者達なのですが、色気に欠けるせいか、ひめゆりの塔と違い客は一人もおりません。差別だ。
 こざっぱりとしてしまったひめゆりの塔よりも、鬱蒼として陰鬱で、いかにも戦跡という感じが出ていました。その分蚊も多かったですが。
 崖伝いに階段がついていて、沖縄防衛軍の牛島司令官が自決した洞窟なども見られました。
沖縄戦末期、人々はこうした場所を逃げ回っていたらしい。木は焼き払われていたみたいだけど
摩文仁の丘付近の断崖

 自決するくらいなら司令官みずから突撃しろよなー。民間人だってやってんだからよー。ラスボスが自滅しちゃったらそれまで攻めてきた甲斐がないじゃないか。
 
 歩いているうちにいつのまにか平和祈念公園の最奥部に出てしまいました。
 「高知の塔」とか「北海道の塔」とか、各県の戦没者慰霊碑がずらりと並んでいます。なんか雰囲気的に高野山奥の院に似ています。
「塔じゃないだろ、碑だろ」
といいたくなるのがここでも多いです。塔と称するなら、少なくとも縦長の碑にしてほしいところです。
 「信濃の塔」もあって、なぜか入口に「信濃の国」の歌碑がどーんと立っていました。
 「青森の塔」には、りんごの形のモニュメントがどどーんと建っていました。
 こんなところでお国自慢してどうすんだろ。
 
 もう夕方で平和祈念資料館には入れないので、今夜はこの公園内で寝ることにしました。
 カートに荷物を満載したおじさんが、東屋でボーッとしていました。一応スポーティなリュックなどを持っているので、旅人さんかと思い、声をかけてみました。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
おじさんは
「ああ、うう」
と呻くように口ごもった後、東京から、バイトしに来たんです、と言いました。
「今夜はここでお泊りですか?」
「うう、そうですけど…」
「ぼくもこの辺で寝ようと思ってるんですけど、ちょっと雰囲気的に警備員さんが来そうな感じですよね」
「うう、でも迷惑かけてなきゃいいんじゃないですか」
「そうですね。それじゃまた」
ぼくはそう言ってその場を離れました。どうやら、旅人さんではなかったようです。ホームレスさんではなさそうですが、少なくとも住所不定無職な人のようでした。
 近所の商店で今夜のおかずのサバ缶とキムチを買い、広い公園のすみっこの、警備員さんもあまり来なさそうな「わんぱく広場」あたりをねぐらに選び、トイレの水道で水を汲んでいると、初老の警備員さんがやってきました。
「ここはハブ出るよ。夜中になるとここは電灯消えて真っ暗になるからね、危ないよ。ハブはね、映画の『プレゼンター』みたいに熱に反応してかみつくからね」
それを言うなら「プレデター」でしょ。
「テントの中にいればいいでしょう?」
「だめだめ、薄いテント生地なんて牙が突き通すよ。ゴム長だって通しちゃうくらいなんだから。本土の蛇と違って、打たれて処置しなかったらまず確実に死ぬんだからね。
 この前もこの近くでホームレスが寝ようとしてたから、危ないよって注意してやったばかりなんだ」
くどくどとハブの怖さを力説してくれるのです。
 これまでの経験で言うと、沖縄の人は何かというと
「ハブに気をつけなよ」
「沖縄は暑いだろ」
と言います。沖縄の人にとって、ハブの存在は彼らのプライドの中でかなり重要な位置を占めているのではないでしょうか。
 ハブの実態を知らないから、彼らの脅しに反論もできないのが悔しい。
 警備員さんのくどい忠告(というか、ハブ自慢)に少し辟易しつつ、
「じゃあ、安全なところをぜひ教えてください」
というと、
「完全に安全とは言えないけどね、土産物屋などがあるあたりの東屋なら、まあ大丈夫だろう」
「そうですか。ありがとうございます」
あんまり賑やかなところで寝るのは嫌だったのですが、警備員さんを無視するのも悪いし、実際ハブも怖かったのでそちらに移動することにしました。
「本当は警備上泊まっていいとは言えないんだけど。火だけは注意してね、火気は厳禁だから」
「はい、気をつけます」
ストーブは警備員さんに見つからないように使わなきゃいかんな。
 
 警備員さんが示したあたりにいくと、たしかに雨をしのげそうな東屋がありました。
 今夜はテントなしで寝ることになります。
 やれやれ、と風に吹かれていると、さっきの住所不定無職なウーさん(仮名)が、荷物を牽いてとぼとぼとやってくるのが見えました。きっと彼も警備員さんに脅かされたのでしょう。
心細そうにキョロキョロしているので、
「どうですか、よければこっちにどうぞ」
と声をかけると、ウーさんは力無く笑ってこちらにやってきました。
「警備員さんが来たでしょう?ぼくも、ハブが出るからって言われてこっちに来たんですよ」
ウーさんが風上に陣取ったので、ちょっと彼の体臭がにおってきました。しばらく風呂や洗濯もしていないのでしょう。それはぼくも同じなので、ぼくも同じくらいの臭いを発しているのだろうかと、少し不安になりました。
 そこへあの警備員さんもやってきて、
「あそこのトイレは夜中に電気が消えるから、あっちのトイレに行ったほうがいいぞ」
とか、
「ここの東屋はベンチが一つしかないか。そこのパイプ椅子を並べて寝るといい」
とか、いろいろアドバイス(というか、指図)してくれました。
 親切なんだけど、あとは適当にやるからほっといてくれ、というのが本音です。
 警備員さんが去っていったのを見計らって、ぼくは飯を炊くことにしました。
「ぼく、これから晩飯作るんですけど、よろしければ二人分作りますよ」
ウーさんは
「ああ、うう」
と口ごもっていたのですが、ぼくはもともと自分の飯を他人に食わせるのが好きな性質なので、強引に彼の分も作ってあげてしまいました。
 研がずに炊いたごはんと、ダシ抜きのみそ汁。おかずはさっき買ったサバ缶と漬物。
「どうですかね、お米なんて研がなくてもぼくはもう慣れちゃったんですけど。気になりますか」
とぼくが訊くと、
「うう、ああ、そうですね」
「そうですね」とは、やはり臭いが気になる、ということのようです。
 みそ汁は、具のシイタケを箸でひねくり返してばかりいるので、シイタケが嫌いなのかと思って見ていると、
ウーさんは椎茸は食べたものの
「このみそ汁、なんかシブくないですか」
といって汁は少しも飲まずに残しました。正直な人だな。
 今後、自分の作った飯をむやみに人におすそわけするのは止めよう、と思いました。
 
 ウーさんは四十歳だそうで、東京から仕事を探しに石垣島に来て、サトウキビ農家で働いた後、その仕事も終わってしまったのでとりあえず沖縄本島にやってきたのだそうです。
 親とはほとんど断絶状態だそうで、もちろん家庭もありません。
 たしかに姿形は40のおっさんなのですが、なんか、年相応の貫禄というものがない、なーんか頼りなさそうな、気弱なオーラの漂う不思議なおっさんでした。
 そんな人だから、ぼくも無理やり飯を食わせようという気になったのかも知れません。
 ウーさんはさほど口数の多い人ではありませんでしたが、
「石垣って、ヒキガエルがたくさん道で死んでますよね」
とか、
「沖縄のコウモリってでかいですよね。ぼくが東屋で寝てるとコウモリがぼくの上にとまって、何かの実をかじって、それをぽろぽろ落とすんですよ」
「石垣の港で、UFOを見ましたよ。回転しながらゆっくり動いてるの」
などと、ほのぼのした話をしてくれました。
 ぼくの興味としては、人生なにをどう誤れば住所不定無職になるのか、ということなのですが、なかなか突っ込んだライフヒストリーを聞くことはできなくて歯痒い思いでした。
 誰だってそんなもの訊かれて嬉しいわきゃないですからね。
 3月から7月までのサトウキビのバイトで溜めた貯金は20万円。本島に渡ってからはホテル泊まりしていて、やがて懐が厳しくなったので野宿に切り替えた、と言っていましたから、お金も残り少ないでしょう。
あしたはどうするんですか、と尋ねると、
「鍾乳洞に行こうと思うんだけど」
と言っていました。きっと玉泉洞のことでしょう。大丈夫なんかな、そんなところうろついてて。
 仕事探すんなら、那覇に戻った方がいいんじゃないの?
 ていうか、東京戻った方が仕事あるんじゃないの?
 ぼくの心配することじゃありませんが。
 警備員さんは、しょっちゅう公園内をスクーターでうろついて、見張りに余念がありません。マメだなあ。
 ウーさんとの無駄話にも飽きたのでさっさと寝ることにしました。
 蚊が少ないので幸いです。
南西諸島編目次 表紙

8月9日(金)曇 平和祈念館に入り浸り

 朝6時、警備員さんに起こされました。
「おはようございます!」
「あ…、おはよーございます」
「よく眠れましたか」
「はあ、おかげさまで(あんたに起こされなけりゃもっとよく眠れたんだけど)」
「門を開けたからね、人来るからここは移動した方がいいよ。資料館の向こうの方にいい東屋があるよ、人がほとんど来なくて静かだからよく昼寝できるよ。わたしもしたことあるけど」
はー、あなたも昼寝してるんですか。まるでぼくらが一日中昼寝してそうな口ぶりでした。
 警備員さんが去ってから、
「…ぼくはよく眠れなかったなあ」
とウーさんはぼやいていました。住所不定なんだから、どこでも寝られるような体つくれよ。
 朝飯を作ってウーさんに御馳走してあげることはしませんでした。
「じゃあぼくはあっちのほう行ってますんで」
ストーブをバッグに詰めているぼくにウーさんは言って、そそくさと姿を消しました。いいなあ、こういう別れ方。
 
 平和祈念資料館の開館は9時とのことで、まだ暇があるのでぼくも場所を移動し、人気のない休憩所で充電と日記打ちと朝飯(食パンと魚肉ソーセージ)。
 その場所を掃除のおばさんに追い出された時分には、すでに資料館が開いていたので入館しました(300円)。
 戦争関連をメインにしながらも、沖縄の近代史についてひろく展示していました。
 戦争に至る経緯や、戦争後のアメリカ統治下の人々の暮らし、本土復帰後の基地問題など、幅広い沖縄の問題を扱っていました。
 沖縄がアメリカの統治下だったころのことなんて、ぼくは何も知らなかったので、その点ではずいぶん勉強になりました。
 戦時中、命さえ助かれば万々歳だった沖縄の人たちが、戦後、アメリカ駐屯兵の横暴や、基地の騒音や、賃金格差などに不満の矛先を向けて行く様子から、平和の深まり具合が感じられて面白かったです。
 
 沖縄戦の展示では、地下壕内で人々が耐え忍ぶ様子がリアルなジオラマと等身大の人形を使って再現してありました。
 広島の原爆資料館でも、被災直後の被爆者の姿が等身大の人形でジオラマとして再現されていて滑稽でしたが、これが最近の流行なのでしょうか。それとも、展示を企画施工した業者が同じなのでしょうか。
 泣く子の口を必死で押さえて息をひそめる家族と、銃剣を持ってかたわらにたたずむ日本兵。
 このジオラマの前で、平和団体のメンバーとおぼしきおばさんが声を荒げて、連れに向かって説明しておりました。
泣く子の口を押さえるの像
泣く子の口を抑えるの像

「わかる?これ、泣く子を日本兵が殺そうとしている場面なのよ。最初は日本兵が赤ん坊を睨みつけてる形だったの。それじゃ意味が伝わらないって抗議したら、今度は日本兵が銃剣を持って、でもこんどは視線が逸れちゃったの。
 見てよ、これじゃなんだか一家を日本兵が守ってるみたいでしょう。
 次こっち。日本兵が飯盒の蓋にミルク作ってるでしょ。これは南部撤退のとき、足手まといの重症患者を殺すために、ミルクに青酸を混ぜてるところなんだけど、何の説明もなくて、ただ見れば兵隊さんが患者にミルク作ってくれてるようにしか見えないでしょ。
 こうやって、当時の日本軍のしたことを薄めよう薄めようとしてるわけよ。許せないわよねえ」
 そんなおばさんの激白をぼくは、はあ、そんな悶着があったのか、と陰から楽しく拝聴してしまいました。
 広島の平和資料館でも感じたんですが、このテの等身大人形のジオラマって、滑稽なんですよね。
 本当の戦争の一番悲惨なシーンを再現しようとすれば、手足がもげて、はらわたがはみ出て、脳漿が飛び散って眼球が飛び出してるところを再現すればいいわけですが、そんなことをすればただキモチ悪いだけで、公衆道徳上よろしくないのはわかりきっています。
 そこである程度どぎつさを薄めて、さしさわりのないところで妥協するから、見物客から見ると、なんか中途半端でウソ臭くて滑稽なだけなのです。
 そんなジオラマよりはよっぽど、生存者の証言と、アメリカ軍が撮った写真の方がよっぽどリアルなわけで、しょせんリアルになり得ないジオラマごときに必死に文句つけるおばさんたちも大人気ないような気がするのですが。
 
 生存者の証言はすごいです。
 洞窟の中で水がないから小便を飲んだとか。
 真っ暗な洞窟の中で、蛆が死体を食うジャクジャクという音だけが響いていたとか。
 方言を使ったからというだけの理由で沖縄人がスパイ扱いされ、日本軍に拷問されたりとか。
 日本の敗残兵が農家に押し入って食べ物強奪したりとか。
 証言を通して、アメリカ軍の恐ろしさよりも、日本軍の狂気の方が浮き彫りになってくるのでした。
 万が一、こんな日本軍が戦争に勝ってアメリカ本土を占領したら、一体どんなことになっていたことやら。アメリカの民間人をどれほど人道的に扱えたでしょうか。
 自国人に対してこれほど残虐になれる日本兵のこと、南京大虐殺くらいしでかしてもおかしくはないなー。
 でも、そうした日本兵の一人一人は、故郷に帰ればふつうのいい人にもどるんだろうなー。東条英機だって、人間的にどれほど悪い人だったのでしょう。
 一方で、日本兵の横暴に耐え忍んでいた沖縄の人々が、全く善良で平和的だったかと言えばそうでもなくて、墜落したアメリカの飛行機を見つけた村人が、パイロットの死体の首を切って村中に見せびらかして回り、長い間さらしものにしていたこともあったそうで。
 つくづく戦争は一筋縄ではいかないものです。
 結局は状況と立場が人間を左右するということではないでしょうか。
「国民全てが一致団結し、米英粉砕に努力せよ」
と、
「社員全てが一致団結し、売上確保に努力せよ」
…なんか、日本って基本的なところが戦時中と変わってないような気がする。
 じっくり展示を見物し、その後図書室で関連の本など見ていたら、あというまに閉館時刻(5時)になってしまいました。
 結局一日中資料館に入り浸ってしまったわけです。
 
 こんなことでは予定に遅れてしまう、と、おもむろに急いで知念村方面に向かって走りました。沖縄一周の後半では、だらだら旅にならないようにおおよそのスケジュールを定めているのです。
 今日は、垣花樋川という昔ながらの泉まで行く予定になっています。これは、宮古のウリガーに感動したぼくに、兎谷さんが「現在でも使われてる井戸があるよ」と教えてくれたのです。
 
 垣花樋川の手前に、中村樋川というのがあり、その近くに小さな公園があったので、今夜はそこにテントを張ることにしました。
 樋川(ヒージャー)とは、要するに横穴井戸のことなのでしょう。現在の水場はコンクリートで塗り上げられていますが、樋からは豊富な水が流れ出ています。飲んでみると、水道水などよりよほどおいしいです。
 蚊は多いですが。
 晩飯はレトルトのハヤシライスとブロッコリーのスープ。
 どこかから太鼓の音が聞こえます。お祭りでもやっているのでしょうか。覗きに行けばいいのでしょうが、めんどくさいので、音だけ聞きながら寝てしまいます。
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8月10日(土)晴 こんなもんか斎場御嶽

 朝飯はブロッコリーを具にしてラーメンでも作ったかな。
 テントを畳んでいると、白い長靴を履いた、近所のおじいさんが通りかかりました。
「けっこうここは旅の人が泊まるんじゃよ。ホテルなんかに泊まるよりよっぽどいいな。
 ここも戦場になったんじゃよ。いい水があるから、日本軍が陣地を作ったんじゃ。そっちの方からは眺めもいいし、まあゆっくりしていきなさい」
それだけ一方的に大きな声で言うと、おじいさんは、はっはっはー、と笑いながら去っていきました。
 
 兎谷さんが教えてくれた垣花樋川は、そこからすぐ近くにありました。
垣川樋川
垣川樋川

 古そうな石畳の坂道を下りていくと、じゃばじゃばと水が流れ出る泉があって、その下に小さな池ができており、子供たちが水遊びをしていてのどかな光景でした。
 小さな漁港が見下ろせ、その向こうに久高島が浮かんでいます。
 いい眺めだったので、石畳の道とをからめてスケッチしました。
 
 いよいよ次は、沖縄の旅の最大の目的地、斎場(セーファ)御嶽です。
 琉球神話の創世神、アマミキヨが久高島から渡ってきて作った御嶽といわれ、聞得大君の就任式を行なったりした場所です。沖縄の御嶽の中でも最も格が高いもので、世界遺産の一つにも登録されています。
 まあ、ぼくが斎場御嶽を知って憧れるようになったのは、星野之宜の「ヤマタイカ」(マンガ)のオープニングの舞台となっていて、印象に残っているからなのですが。
思えばあのマンガも、奈良の大仏が歩きだして人を襲ったり、それが熔けて超巨大銅鐸「オモイカネ」になったり、戦艦大和が復活したり、その大和が反物質で大爆発したりと、むちゃくちゃなマンガだったなあ。
 
 斎場御嶽は、久高島に近い岬の山の中にありました。有名どころだけあって、ひっきりなしに見物客が訪れておりました。
 昔は、御門口(ウジョウグチ)から入れるのは王族、それも女性だけだったそうで、どうしても男が立ち入らねばならないときは女装したのだそうです。もちろんいまではそんな禁忌もなく、入場料も取られませんでした。
三庫裡
三庫裡

 斎場御嶽の聖域の中には6つの神域(イビ)があって、中でも有名なのが三庫裡(サングーイ)です。
 崖の上から鍾乳石が垂れ下がっており、そこからしたたり落ちる水を受け止めるように下に甕が据えられています。この水が、いろいろな行事に使われる聖水だったのだそうで。
 三角形のトンネルをくぐると、崖に囲まれた狭いスペースになっており、三方それぞれにちっちゃな線香台が置かれています。
 海に面した側からは、樹木越しに久高島が見えます。
 このことから、斎場御嶽は、聖なる島、久高島を遥拝する場所なのだとか、いや、巨大な岩を神体とするイワクラ信仰なのだとか、いろいろ説があるようです。
 見物に来たおばさんの一人が、訳知り顔で連れに喋っておりました。
「昔の人がこういう聖地を見つけるときは、勘の鋭い、とくに女性が場所選びをしたのよ。こういう場所に来ると、心が安らいで、エネルギーをもらえるのよ。ほら、わかるでしょう?」
 …そうかあ?エネルギー?…感じないけどなあ。
 この場所が昔ながらに一般人立ち入り禁止で、夕闇に紛れてぼく一人が忍び込んで、びくびくしながらこの岩壁を見上げるという、そういうシチュエーションならあるいは
「おお、すごい」
と感動したかもしれないけど。昼日中、家族連れが何組もやってきて、だいたいどの家族もお父さんがカメラ持ってて、
「ほら、撮るぞー。二人とももっとこっち来ないとちっちゃくなっちゃうぞ。ユウカ、もっと笑って笑って。はい、いくわよー」
と、なぜかいきなり女言葉使っちゃったりして、子供が、
「あ、今、目つぶっちゃった」
「次はお母さん撮ってよ」
「えー、あたしカメラ苦手ー」
「大丈夫だよ、このボタンを半押しして、ピピッて鳴ったら押せばいいんだ」
…なんて会話を聞いていると、
「うーむ、いかにも観光地」
という感慨しか湧いてこないんだけどなー。
 確かマンガでは、線香台を押すとガクンと地下への扉が開いて、下りていくと古代船と卑弥呼の白骨死体があるはずなんだけど、どれを押せばいいんだ?
 とまあ、そんな感じでした。
 
 で、次の目的地は久高島です。マンガでは、神懸かった女主人公が秘密の儀礼をへて「二代目卑弥呼」を襲名するという、そういう島です。マンガの舞台の後追いばかりしてるってのも空しいものがあるけど。
 マンガはさておき、毎年麦が実ると、聞得大君は久高島で収穫祭を行い、麦を噛む儀式をしたのだそうな。
 それが済むまでは沖縄の何人も麦を口にしてはならず、もし口にするとたちどころに死んでしまうといわれていたそうな。
 現在でも久高島は12年おきに行われる祭りイザイホーで有名で、女性が先祖の霊力(セジ)を受け継ぎ兄弟を守るオナリ神の信仰が根強く残っている。と、ものの本には書いてあったのですが、今でもそうなんでしょうか。
 地図を見ると、佐敷町の津波古というところから船が出ているらしく書かれていたので、そこの馬天港に行ってみると、腐りかけたような漁船がつながれているばかりで、フェリー乗り場らしきものは見当たりません。
 久しぶりの晴天でくそ暑いので、近くのスーパーでコーラス(乳酸菌飲料)の940mlを1パック買い、それをがぶ飲みしながらコンビーフハッシュと食パンの昼飯を済ませました。
 落ち着いてからインターネットで情報を調べると、フェリー乗り場は馬天港から安座真港へ移ったとのこと。
 安座真港は斎場御嶽のすぐ近くで、ずいぶんUターンしなければなりませんでした。
 久高島に渡る人なんて、ぼくみたいな民俗ファンか地元の人くらいかと思っていたら、合宿でもあるのでしょうか、若者たちもぞろぞろとフェリーに乗り込んできました。
 フェリーの客室の壁には、
「観光客の皆さんへ
 キャンプは指定の場所以外で行わないでください(キャンプ場有料、事前申込必要) 久高区長」
としっかり貼り紙が。小さな島はこれだからせちがらい。
 20分ほどで島に着きました。自転車を組み立て、人家のあるあたりをうろついてみました。
 「宿泊交流センター」とか「久高島総合センター」などという施設には、合宿で数日目になるらしき若者達が、だるそうに澱んでいます。
 夏合宿では、暑さも重なって日ごとに疲れがたまり、すべてがだらしなくなっていく。ぼくも学生時代に経験があります。
 
 学校の跡地を改修したらしきキャンプ場を見つけました。
「申し込みは船待合所へ」
と貼り紙がしてあったので待合所に行き、売店のお姉さんに500円払って、キャンプ場の利用を申し込みました。
 勝手に野宿できないことはありませんが、一応「久高島」というブランドに敬意を払って。
 売店のお姉さんは、妙に言葉に訛りがありましたが、インド人なのでしょうか。
 キャンプ場に戻り、朝日との関係も考えて、グラウンドの隅にテントを張ろうとすると、お兄さんが
「そこは小学校のグラウンドです。こっちに張ってください」
と、これまたインド訛り(?)で言いました。
「こっち」と言われたエリアは、海岸沿いで傾斜が多く、まともな場所は先客のテントに占められていてろくな場所がないんだけど。
 仕方なく、草ぼうぼうの場所にテントを張りました。
近くのテントのおっさんが、
「夜、発電機使うのよ。すこし移動した方がいいね」
俺にどけっていうことか?と思ったら、ぼくの近くにあった発電機を動かして、少し遠ざけてくれました。
 見れば、おじさんのテントにはテレビもラジカセも完備しています。夜中に騒音たててテレビ見るなんて、ありか?
 
 島内見物は明日に回し、水道で洗濯して、日記などを打ちました。
 晩飯は、きのうのブロッコリーのスープ。ほかにおかずになるものを買いそびれてしまったので、梅干しを嘗めながらご飯を食べました。
 発電機の騒音はどれほどのものかと思いましたが、これまでの野宿生活で慣れてしまったのか、さほど気になりませんでした。
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8月11日(日)晴 久高島ウニ共和国

 昨日に続き、朝から強烈な快晴となりました。
 キャンプ場のトイレ炊事棟に行ってみると、えらい騒ぎ。
 若い連中が飲み散らかしたビールの空き缶やら、野菜くずやら、汚れた食器やらが散らかり、トイレの大便器にはひり散らかした糞尿が飛び散っています。
 せめて水くらい流せよ、とレバーを押すと、ずごごごごーと便器から茶色い汚水が盛り上がってきます。
 トイレ詰まらせるほど暴れるなよ、と思いましたが、ぼくとて学生時代は似たようなものだったのかも知れません。
 徹夜で飲んでいたのでしょう、トイレの前では青い顔した兄ちゃんがうつろな目で座り込んでいました。
 人間て、集団になるととたんにずうずうしくなる。一人でキャンプしていれば、他の人の目を気にして羽目を外すこともないけれど、集団になると周りが見えなくなって、したい放題。
 あー、ぼくは一人旅していてよかった。
 何でもいいけどおまえら、今日中にその辺片付けとけよ。
と、口に出して注意できれば正義漢なのですが、そんな面倒臭いことはしません。
 いやな場所からはさっさと立ち去る。それができるのが旅の醍醐味です。
 それにしても、こんな不愉快な目に遭って500円取られるなんて、キャンプ場はこれだから嫌なんだ。
 
 荷造りして、島内巡りに出発。といっても手元にある地図は、フェリーの待合室でもらった見づらい手書きのコピーだけ。
 集落は、狭い路地が曲がりくねっていて、ところどころに御嶽とおぼしき小屋や薮があって、まあその程度でした。
 説明看板もないので、その拝所がどんなに神聖な場所でも、よそ者からはみすぼらしい小屋にしか見えません。
 真夏の日差しの中を、最北端のカベール岬に行きました。
カベール岬にて
カベール岬にて

 せっかくなので、ひとけのない海岸で泳いでみました。お気に入りの水中メガネつけて。
 浅瀬がどこまでも続いているので、泳ぐというより腹ばいになって浮かぶ、という感じです。
 竹富島のビーチはナマコ王国でしたが、こっちはウニ共和国でした。そこらじゅうの岩陰にウニがこびりついているのです。
 岩陰にいる奴は素手ではとても捕れませんが、外をうろついている一匹を見かけたので拾ってみました。
 棘をもそもそと動かして、彼なりに逃げようと必死のようです。
 ひっくりかえして起き上がれるか観察しようと思いましたが、可哀想なので逃がしてやりました。
 ウニに劣らず多かったのが、クモヒトデ。五角形の胴体に、細い足がついたヒトデです。
 捕まえようとすると、足をうねうねと動かして逃げます。手のひらにのせてひっくりかえしてみると、器用にもがいて起き上がり、五本の足をくねらせて歩き回ります。
 まるで宇宙怪獣のようなその動きは、かなり不気味です。
 結局、久高島で一番印象に残ったのは、クモヒトデでした。
 
 帰りのフェリーはえらく混んでいました。畳んだ自転車を持ち込むと、船の人が
「自転車は二百円だよ」
と言いました。行きは何も言われなかったのに。
「そうですか」
と答えましたが、安座真港に着いて人ごみに紛れて下船し、素早く自転車に乗って逃げたので、払わずに済みました。
 
 次の目的地は、世界遺産のひとつ、中城(なかぐすく)です。
 あんまり暑かったので、途中スーパーで発泡酒を買って、カップラーメンを食べながら飲みました。
 暑い昼間に酒が飲めるなんて、自転車旅行ならではの楽しみです。ホントは飲酒運転でいけないんでしょうけど。
 捕まったら減点とか罰金とかあるんですかね。
 いい心持ちで走り、坂を上って中城城跡に着きました。ここは偉そうに、入場料三百円。しかももう時間切れで入れません。今日はこの近くで寝て、明日の朝見物です。
 晩飯を買える店を捜し回り、八百屋さんで菜っ葉が安かったので買いました。一束80円。パパイヤが2個100円だったのでこれも買ってみました。
 今夜のねぐらは、なんとかいう井戸公園。ここも、むかしながらの水が湧いている井戸の隣を公園にしてあるのです。
 今ではほとんど使われていないようですが、水もきれいで、おいしかったです。日本中にこういう井戸があれば、活性炭もトルマリンもいらないんだけどなー。
 パパイヤは、縦に二つに切って、スプーンですくって食うのが流儀なのでしょう。
「よく冷やして、アイスクリームを載せて食べるとおいしいよ」
と八百屋の主人は言っておりましたが、冷えてもないしアイスクリームもありません。
 そのせいか、格別にうまいものとは思えませんでした。安物だったからなのかな。
 残る南国のフルーツはマンゴーなんだけど、高いんだよな。
 晩飯は、菜っ葉をごたごたと入れた沖縄そば。カラシ菜みたいにつうんと鼻に来る辛口の菜っ葉でした。
 井戸の水で割ると、泡盛もくいくい飲めます。
近くに薮はありますが、
「ここはハブが出るぞう」
と脅かしに来る人もなく、よい公園でした。
真夜中に喉が乾いて、ふとした気の迷いで近くの自販機でドクターペッパーの500cc缶を買って飲んだら、すこし気持ち悪くなりました。
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8月12日(月)晴 世界遺産の曲線美

 ハブにも噛まれず無事朝を迎えました。
ラジオ体操の音楽が聞こえてきて、もしやと思いましたが、会場はどこか別の場所だったようで、ほっとしました。
 朝飯は、ごはんを炊いて、菜っ葉とコンビーフハッシュの炒めもの。
ゆうべは菜をろくに洗わず食べてしまいましたが、今朝みると、けっこう虫がいたりして、昨夜は何匹食ってしまったことやら。
 
中城の城壁
中城の城壁

 井戸の水をボトルに詰め、中城へ。300円の入場料の是非は別としても、かっこいい城跡でした。
 以前も書きましたが、沖縄の城は城壁の曲線が美しい。中城を造った(正確には増築した)護佐丸という武将は、築城の名手といわれているそうです。
 石垣の美しさに加えて、眺めのよさも最高です。天気がよいので、青い海が一望です。
 せっかくだったので、日差しに耐えながら絵葉書を一枚描きました。
 
 城跡を出て、近くの護佐丸の墓をちょろりと見、次は沖縄市をかすって勝連城へ向かいます。
 昼飯を買いに、沖縄市に入ったところのサンエーに寄りました。
 ぼくの自転車にはエアコンがついていないので、冷房がガンガン効いたスーパーはオアシスです。
店に入ったとたん、思わず
「うは〜」
と息を吐いて目をつぶり、天井を仰いでしまいます。
 とんかつ弁当と発泡酒の昼飯。昨日に続いて昼に酒を飲んでしまいました。でも、つめたく冷えた発泡酒を飲むタイミングは、この時しかありません。
 ねぐらの近くにスーパーがあるなんてことはほとんどありませんし、夕方酒を飲んでしまうと、テントを建てることも飯を作ることも億劫になってしまいます。
 昼間なら、暑い盛りの冷たいビールは最高だし、ほろ酔い気分でも自転車は漕げる。危ないかな。
 
 沖縄市(旧コザ市)は、アメリカ軍関係者向けの店が多く、横文字の看板が氾濫していかにも「基地の島沖縄」を感じられる場所なのだそうですが、国道を少しばかり通っただけでは、そんなディープな風景はありませんでした。
勝連城
勝連城

 まあ、そのことに未練もないので、国道を右に逸れて勝連城へ。この城は護佐丸のライバル、阿麻和利(あまわり)という武将の居城だそうです。
 中城ほどの広さはありませんが、急な山の上に築かれたこの城も、眺めが抜群でした。遠くに中城も望めると案内板にありましたから、たぶんあれがそうでしょう。
 一の丸は、山頂部の断崖にそのまま石垣をかぶせてあるので、城壁の下は断崖絶壁。足を踏み外したら即死できるような石垣に腰を下ろして風に吹かれていると、夕立がやってきました。
 慌てて城を下りて駐車場に戻りましたが、リュックはとうにずぶ濡れになっていました。
 雨はやがて止み、少しくやしい思いを引きずりながら車道に戻ると、一人のじいさんが頭を剃りながら歩いているのを見ました。もともとハゲのようなのですが、なおもカミソリをあて、ジョリジョリと剃り、そのつどツルツル度を確かめるように頭を撫でながら歩いているのです。
 変なじいさんだ。
 
 途中のスーパー「かねひで」でまた乳酸飲料「森永ヨーゴ」940mlパックを一気飲みし、長い橋を渡って平安座島へ。もう夕方でしたが、一気に先端の伊計島まで突っ走りました。
 島の先端に「鹿の洞窟」というのがあると地図に出ていたのですが、どこにあったのやら。
 途中の海岸沿いの道路の防波堤には、暴走族の落書きがたくさんあって、かなりレベルの高い落書きもありました。
 そうした落書き全てにスプレーで×印がついていて、暴走族同士の対抗意識みたいなものもうかがえて楽しかったです。
  今夜のねぐらは、平安座の公園。風が強いので、テントなしで寝ます。
 公園に着いて、今度は「ピーチソーダ」500mlを飲んでしまって、さほど空腹ではなかったので、晩飯はチャルメラで済ませました。
 晩飯食べ終わってベンチで涼んでいると、でっかい流れ星が夜空を走りました。
 ペルセウス座流星群の噂はラジオで聞いていたので、今夜一晩は流れ星鑑賞と洒落込まねばならんかなと思い、芝生の上に寝っ転がって夜空を見上げていましたが、それ以降は細い光がときどき夜空をかするくらいでした。
 飽きて眠くなってしまったので、ベンチに戻って寝てしまいました。
 もったいなかったかな。
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8月13日(火)晴 泡盛鍾乳洞の誘惑

 山から降りてきたハブに食われるかなと思いながら寝ましたが、無事朝を迎えました。
 ハブに気をつけろよ、と脅かされる割に、いまだ襲われていません。襲われたらただではすまないのですが。
 朝は、飯を炊いてレトルトカレー。昨夜から水に浸けておいたので、芯なく炊けます。ストーブの調子がいいから、朝飯を炊く気にもなるのです。
 ああ、こんなことなら初めから灯油でなくガソリンを使っているんだった。
 
 今日は、金武町にある鍾乳洞を見て、あとは辺戸岬目指し、東海岸をひたすら北上する予定です。
 日記を打って、11時ころ出発。
 通過した石川市は、全体的に建物も新しく、こざっぱりした町でしたが、べつに面白いものはありませんでした。
 石川市なんていうから、石川県の県庁所在地だと思ってしまうじゃないですか。
 金武町はキャンプ反戦もといハンセンのお膝下で、少し「基地の町」な雰囲気が感じられました。
 金武町なんて標記だから「きんぶちょう」かと思ったら「きんちょう」なんですね。主力産業は蚊取りマットかな。
 昼になったので、おろしうどん&テンプラごはん弁当と、オリオン発泡酒500mlを買って店の前で食いました。
 昼に発泡酒を飲む習慣は、これからもしばらく続くでしょう。
 
 金武鍾乳洞は、金峯山観音寺という寺の境内にありました。
 観音寺は、補陀落渡海で沖縄にやってきた例の日秀上人(日記7月24日参照)が開いたと言われ、沖縄戦での破壊を免れているため、お寺の建築物としては本島最古だそうです。
 お寺なのに沖縄独特の漆喰塗りの赤瓦の屋根が風変わりで面白いです。
 金武鍾乳洞は入場料300円で、境内の売店で支払うことになっていました。さすが真言宗、商売上手です。
 昔この洞窟には竜が棲んでおり、それを日秀上人が退治したという伝説があります。熊野からの補陀落渡海を生き延びた坊主にとって、竜退治など朝飯前なのでしょう。
 戦時中はご多分に漏れず、防空壕として利用されていたそうですが、戦後しばらく忘れ去られていました。
 そんなとき、地元の泡盛酒造会社が、泡盛を貯蔵して古酒を作る貯蔵庫としての利用を思い立ち、現在では泡盛をボトルキープして貯蔵するサービスを始めて好評を得ているそうな。年間気温が18度前後と安定しており、また風が吹き抜けるので泡盛の熟成に好都合なのだそうです。
 洞窟の所有者である観音寺もこの企画に一枚噛んでいるわけで、さすが真言宗、商売上手だ。四国を歩いて以来、真言系寺院に偏見を持っているわたし。
 
 洞窟の鍾乳石はなかなかきれいでしたが、入口付近は泡盛運搬用の軌道レールが設置されていて目障りでした。
 入口を下ったところに拝所がありました。その脇で金色の布袋様が破顔大笑していたのが俗っぽくて印象的でした。
ボトル棚が並ぶ洞窟
ボトル棚が並ぶ洞窟

 洞窟の広間にはでっかい泡盛の銀色の樽が並び、ほのかにいい匂いがしています。その奥には棚がぎっしりと並び、ラベルをつけた泡盛のボトルが収められていました。
 うーむ、これはこれで、なんとなく神々しい風景なような気がしないでもない。
 目の前にあるこの棚を全部なぎ倒せたら面白いなあ。そこまでしなくとも、そのへんのボトル一つくらい盗んでもぜったい分からないぞ。棚に収まりきらず、地面に無造作においてあるボトルも多い。
 鍾乳洞を出ようとすると、茶屋のおばさんが今しも新しいボトルを納めに降りてくるところでした。商売繁盛。
 
 金武町を出てしまうと、あとはもうたいした名所もありません。
 周りの景色は、東側は海、西側は森。森はほとんど米軍の領地、いわゆるキャンプシュワブです。
 沖合に米軍のヘリポートを作るとかいう問題でけっこう話題になっている名護市辺野古地区を通過。「へのこ」って、ニュースで聞くたびに笑っちゃうんだけど、正確には「へのご」ですね。
 
 今夜の寝場所は、瀬嵩という集落の砂浜。近くにトイレもあって好都合です。
 テントを建てておき、砂浜で飯を作って食いました。おかずはレトルトのヤギ汁。ヤギの肉って、かなり匂いに癖がありますね。嫌いじゃないけど。
 星空がけっこうきれいだったので、泡盛をちびちび飲みながら砂浜にひっくりかえって星空を眺めました。
 いかにも一人旅。星座にはうといので、さそり座しかわかりませんでした。色弱なので、どれが心臓のアンタレスなのかわかりませんでした。
 夜の砂浜には、けっこう人が来ます。真っ暗な浜辺に寝転がっていて踏まれたり怪しまれたりすると嫌なので、適当なところでテントに引き上げました。
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8月14日(水)晴 バテながら裏沖縄

 朝飯はトーストとみそ汁。
 沖縄本島の最北端、辺戸岬まで、地図で見る限りたいして面白そうな名所はありません。
 沖縄にしては珍しく、上ったり下ったりの坂が続きます。このところ平坦なサンゴ礁島の道に慣れてしまった体には、少しこたえます。
 中学生がランニングしています。先生が車からスピーカーで生徒達をけしかけています。
 高校生も走っています。一旦追い抜くものの、油断してると追いつかれてしまいそうで、気が気ではありません。

 暑さのせいか、ちょっとハイペースすぎたのか、ばててしまったので東村の慶佐次のマングローブ自生地の休憩所で休みました。
 愛のスコールの500ccを飲み、パイン黒糖を食べて日記を打っていると眠くなったので、少し昼寝しました。
 昼寝したら元気になったので、再び走りだしました。右手は海、左手は森、前方には坂。
 森はジャングルと呼んだ方がふさわしいかもしれません。ブロントサウルスの餌になりそうな、ゼンマイのでっかいやつがわさわさ生えています。
 でもまあ、それだけなので、少し単調です。東村とか国頭村とかいう村が続くのですが、集落もまばらで、沖縄本島の中でもいちばん田舎でしょう。
 夕方、安波という集落の「安波共同店」で発泡酒を買い、恒例のほろ酔いタイム。
 このあたりは、集落ごとに「共同店」というのがあります。中身はただのシケた個人商店なのですが、なにが「共同」なのでしょうか。
 
 暗くなる前に、辺戸岬まであと20km弱の楚州という集落に着きました。
 ヤドカリがわさわさといる浜辺にテントを張りました。何匹か下敷きにしてしまい、シートの下からもごそごそと音がしています。
 
 近くに水道がないかと、人家付近に出没してみたら、ちょうどおじさんが庭の野菜に水をまいていたので、声をかけて水をボトルにいれてもらいました。
 あとで飲んでみたら、なんか少しクレゾール臭かったです。それでも飲みましたけど。
 晩飯は、輸入ものの缶詰シチュー。シチューもランチョンミートもコンビーフも、向こうの国の缶詰はどれも同じ味がするのは気のせいだろうか。
 
 浜辺で火を焚いて、夜の海を眺めている人影があります。地元の人なのか、風流なもんです。
 あしたは辺戸岬を回って、今帰仁方面に向かいます。22日にフェリーの予約を入れてありますが、もっと早く本部に着けそうです。
 ヤドカリがまだがさごそいっています。
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8月15日(木)晴 タツロー君青春を語る

 朝飯はまたチャルメラ。
 楚州を発って次の集落に行くと、公衆便所がありました。こっちで寝ればよかったかな。そこで洗顔を済ませ、辺戸の集落へ。
 『中山世鑑』という琉球王朝の歴史書によれば、天から下ったアマミク神が、天から土や石や草木を持ってきて、まず初めに辺戸の安須森を作り、そこに最初の御嶽を作ったのだそうな。
その最古の御嶽といわれる辺戸御嶽を見てみたかったのですが、集落の中にあったあの御嶽がそうだったのかしら。なにぶん、地元の人に尋ねるということをしないもので。
 その御嶽の拝所の奥手には、公衆便所があったのですが、そんなところに便所作っちゃっていいのかしら。
巨大ヤンバルクイナ展望台
巨大ヤンバルクイナ展望台


 辺戸岬もそれなりに景色がよかったですが、何と言っても特筆すべきは「ヤンバルクイナ展望台」でしょう。宮古のタコ、伊良部のサシバ、そして第三弾がこれです。
 でかすぎます。三階建てです。アメリカ軍が演習で使用した劣化ウラン弾の放射能を浴びて巨大化したのでしょう。
 よくよく見ると、腹と肛門を松の木に串刺しにされてたりします。
 真っ赤な足には引っ掻き傷で相合い傘が書かれてたりします。
 この展望台からは辺戸岬がよく見えるのですが、ということは辺戸岬からもこの超巨大ヤンバルクイナがよく見えるわけで、知らない人が見たら
「な、なんじゃありゃああ!」
とびっくりするかも。しないかも。

茅打バンタから
茅打バンタから

 辺戸岬を折り返し、断崖絶壁で名高いらしい茅打バンタへ。束ねた茅を崖の上から落とすと、吹き上げる風でバラバラになってしまうほどすごい崖、というのが名の由来らしいですが、あんまりピンと来ない比喩です。
 ありがたいことに、茅打バンタを過ぎると、それまでの坂がウソのように、真っ平らな道になりました。海岸沿いにまっすぐ国道が走っていて、崖が立ち塞がる場所にはトンネルが掘られています。
 トンネルなど一つもない東海岸と比べてずいぶんな差別です。距離は東海岸より狭いのに、たて続けて道の駅が二つありました。どっちかひとつ、東海岸に回してほしいものです。
 喜如嘉という集落の共同売店でラーメンとサバ缶と発泡酒を買いました。ラーメンは一袋100円、発泡酒は一缶150円です。
個人商店は、つくづく値引きということを知らんな。
「何をお探しで」
と店のおじさんが訊くので、
「晩飯を…」
「総菜は置いてないんだよ。売れないからね」
「それはいいんですけど」
声をかけられたついでに、訊いてみました。
「つかぬことをおうかがいしますが」
「はい、なんでしょう」
「なんで共同売店っていうんですか」
かねてからの疑問です。
「アメリカ統治下のころ、区民が一人1ドル出し合ってお店を経営してたんですよ。だから今でもこのお店は区民のものなんです」
「じゃあ、おじさんは区に雇われている形なんですか?」
「いや、この商品もみんなわたしが仕入れて、わたしのもんです。わたしがお店の家賃も納めています」
「???」
「複雑ですねえ。はっはっは」
いや、はっはっは、と笑われても。
 区民は株主みたいなもんなのか?それとも、建物が区の所有ということなのか?なんだかよくわからないまま、店を出てしまいました。
 海に沈む太陽を見ながら堤防の上で発泡酒を飲み、少し走った「道の駅大宜味」の道端の芝生で寝ることにしました。今夜はテントなしでも大丈夫だろ。
 
 米を水にひたし、ふやけるのを待っていると、旅人さんのバイクが駐車場に入って来ました。やたらとハンドルの位置が高い、バンザイして運転するようなオートバイです。
 そういう格好のバイクに乗る人とは、ぼくは生きている世界が違うと思っているので、知らんふりして海を眺めていると、やがてライダーさんのほうからぼくに近寄ってきました。
 茶髪の、真っ黒に日焼けした若者です。ジーンズの腰には、じゃらじゃらと鎖をぶらさげています。
「学生さんですか」
と訪ねてくるので、
「会社辞めて憂さ晴らしの旅」
「おいくつですか」
「28」
「オレは23です」
互いに自己紹介。彼はタツロー君。神奈川県出身。旅に出てから一カ月めだそうです。ぼくが
「夏休みで?」
と訊くと、
「オレも仕事してないから。日本一周ですか?」
「うーん、この分だと北海道着くころには冬になりそうなんで、日本三分の二周くらいかな」
「日本一周なんて、歩きでもチャリでも、やろうと思えば誰でもできるじゃないですか。オレはそういうのに関心ないっすね。思い出作りばっかりして、旅が終わった後それにしがみついてても仕方ないじゃないですか。やっぱ旅をその後に生かさないと」
 誰でもできる、などと言われると、今まで「自転車で長野から?すごーい」という反応に慣れていたぼくにとっては、少し悔しい気分です。
「そりゃまあそうだ。じゃあ君は?」
「…彼女にフられて、それ忘れたくて、沖縄に来たってのがあるんだけど。でも、与論でいろんな人に会って、いろんなこと学べたから。同じ世代のチャリダーとか、親身になって話聞いてくれるおばさんやおじさんとか。
 沖縄来ても、べつにさほど感動ないし、もう帰ろうかな、と思って。次、自分が何したいかも、見えたような気がするし」
「それならいいね。何をしたいの?」
「オレ、調理師やってて、フレンチとか和食とか転々としてたんだけど、何やっても長続きしないんですよね。
 与論で、人を好きになるってこと学んだから。どんなメシ作るにしても、客を好きにならなきゃダメじゃないですか。だから、もう一度調理師で頑張ってみようかな、って」
「ふうん、いいね。ぼくは、人を喜ばせることは好きだけど、本当に人を好きになるって、いまだにピンと来ないんだよな」
「それから、調理師だけじゃなくて、新しいことも挑戦してみようかな、と思ってるんです」
「へえ、何?」
「前に、モデルやらないかってスカウトされたことがあって。そのときはあんまり興味なかったけど今は、できるんなら何でもやってみようかなって。モデルったって、衣料品のチラシのですけどね」
「へえ」
「ヨシアキ君は何かやりたいことないの?」
「アキラだよ」
「あっ、そうか」
「アキはわかるけど、ヨシがどっから出てくるの」
「アキラ君は何かやりたいことないんですか」
「うーん、漠然と、自給自足に憧れてるんだけど。人に使われるサラリーマンって、どうも性に合わないなとは、以前の会社で思ったな」
「でも、現実にはそうも言っていらんないでしょ」
「まーねー」
5歳年下の彼の方が、ぼくよりしっかりしてそうな気がする。
「タクロー君は酒、飲む?」
「タツローですよ。振り向きざま、いきなり名前間違えないでくださいよ」
「ニアミスだろ。一勝一敗だ。…泡盛あるけど、飲む?」
「飲みてえ〜!」
 ぼくはご飯とみそ汁を作り、サバ缶の晩飯。
 タツロー君は、ゆきずりのおじさんに腹一杯晩ごはんをおごってもらったばかりということで、彼の水筒のコップに泡盛を注いであげました。
 このあたりから、タツロー君はタメ口に切り替えてきました。
「けっこう匂いキツいな」
「そうかな?ぼくは慣れちゃったけど」
「会社はどんなとこにいたの?」
「印刷会社。自治体に観光パンフレット営業したり。でもねー、おれの地元って、観光パンフレットなんか作ってもしょうがないような村ばっかなんだよね。
 客呼ぼうなんて無理だろ、身の程わきまえろよ、なんて内心では思いながら営業するってのは、しんどいね」
「アキラ君はウソつけない人なんだね」
「つけないことはないかもしれないけど、長続きしないね」
「ウソつけない人なんだ」
「そうかもね」
 
 ふと、タツロー君は「テレカない?」と訊いてきました。「携帯ならあるけど」と差し出すと、
「うわっ、ふっるー。これメール使えないでしょ。オレむかしこの携帯使ってたよ」
「なかなか壊れないから」
 彼はどこぞに電話をしていましたが、話中だったらしく、
「あとでもう一回借りていい?」
といっているところに、先方から折り返し電話がかかってきました。
「ああ、オレ。友達の携帯。今?沖縄。いやあ、たいしたことじゃねえよ。誰でもできるって。襲われるな?誰にだよ」
…楽しそうに電話していました。
 
 その夜は、彼もぼくの近くに銀マットを敷いて、仲良く寝ることになりました。
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8月16日(金)晴 祭り太鼓に誘われて

 幸い雨も降らず、ハブにも噛まれず(そればっか)朝になりました。
 タツロー君より一足早く起きたので、彼の真っ黒な寝顔を写真に撮ってやろうかと思いましたが、
「もし自分が寝顔を撮られたら」
と思って、止めました。ぼくって思いやりの心があるなあ。
 
 何か他人に食わせないと気が済まない趣味なのか、チャルメラを作ってあげました。
「朝っぱらからラーメンかあ」
と言っていましたが、ぼくもそんな感慨を旅の初めのころ持ったものです。
「ゆうべ携帯借りたお礼。電話代は一円も使ってないけど」
と言って、タツロー君はペプシコーラをおごってくれました。
 道の駅には地元の年寄りたちがやってきて、店先に野菜やパイナップルを並べ始めています。
「ちょっと見に行こうか」
と誘うので、連れ立って軒先をのぞきに行きました。
「せっかくだから、二人で写真撮ろう」
とタツロー君は店のおばあちゃんに写ルンですを頼み、売り物のパイナップルを二つ借りてぼくにひとつ手渡し、ポーズをとりました。ぼくも仕方なしにそれに合わせました。
「ありがとうございました」
とパイナップルを山に戻すと、
「もらってったらええがな」
とおじいさんが言い、一つずつパイナップルをくれることになりました。末端価格、1個250円。
「早く食べるんなら黄色いの、おみやげにするんなら青いのがいいよ」
 タツロー君は素直に1個もらいましたが、ぼくは
「自転車で荷物になりますんで」
と、辞退しました。もったいない。
 
 タツロー君はうれしそうにパイナップルをバイクの荷台にくくりつけました。
 ごっついバイクの荷台にパイナップル。すごくマヌケでかわいいです。
 住所を交換しました。タツロー君はガソリンスタンドのレシートに住所を書いてくれ、
「旅は一生です!頑張って」
と添えてくれました。こんなあたり、さすがぼくよりずっと青春です。
 ぼくも何か気の利いたことを書き添えようかと思いましたが、すぐには思いつかなかったので止めました。
「じゃ、料理のできるタレント目指して頑張ってね」
「梅宮辰夫みてえ」
「コロッケ作って」
「もしかしたらまたどっかで会うかもね。アキラ君も頑張って」
ということで、それぞれ出発しました。
 
 今日は、橋を渡って屋我地島を一周し、運天で食パンとランチョンポークとオレンジジュースという、ぼく的に沖縄定番の昼飯を食いました。
 大島運輸に電話して、フェリーの予約を18日に変更。案の定混んでいるらしく、臨時席になります、とのことでした。
 フロアにマットを敷いて寝るのだそうです。まあ、それは致し方ない。
 
 午後は、世界遺産の残り最後、今帰仁城に行きました。
 琉球統一以前の三山時代、北山王の居城です。
 城に行く前に今帰仁村歴史文化センター(200円)へ。さほどインパクトある所蔵物はありませんでしたが、若い女性の学芸員さんががんばっているらしく、手作りのイラストやレジュメに工夫があって微笑ましかったです。
 
今帰仁城の城門
今帰仁城の城門

 問題の今帰仁城は入場料300円。金を取る城と取らない城の違いは何なんだ。
 城門が、アーチ型でなく長方形だったので珍しいなと思ったら、案の定昭和に入っての復元でした。
 城全体には、城壁の石が散乱して、現在も復元作業の真っ最中でした。他の城も、今では立派になっていますが、こうやって復元したんでしょうねえ。
 城壁の上から見える風景を絵葉書にし、奄美のモグじいさんへ出すことにしました。
 
 城を降りて、本部町に入り、海洋博公園へ。今夜はここで泊まるつもりです。
 しかし、さすが国営だけあってガードが厳しそう。トイレにはことごとくシャッターが降りるようになっています。夜間は完全に閉鎖されるのでしょう。夜の間使う水をボトルに詰め、ヒトケのない団体用駐車場で野宿することに決めました。
 日が沈んでだいぶ暗くなったころ、どこからか祭の太鼓の音が聞こえてきました。
 せっかくなので覗いてみようと、荷物を柵にくくりつけて、自転車でひとっ走り行ってみることにしました。
夏祭のエイサー
夏祭のエイサー

 音を頼りに走って行くと、老人ホームの庭にやぐらが作られ、ちょうど今、エイサーを勇ましく踊っているところでした。エイサーは衣装が格好いいですね。
 やがて、青年会らのエイサーが終わり、盆踊りが始まりました。盆踊りは見ていてもかったるくてつまらなかったので、そろそろ引き上げることにしました。
 自転車を走らせて駐車場に戻ってみると、何やら車のライトが。
 やべー、警備員か、と思ったらその通りでした。ぼくの荷物を見つけて、戻ってくるのを待っていたのでしょう。
 いやあ、悪いことしたな。どれくらい待ってたんだろ。
「向こうの出口から出てくださいねー」
警備員さんの口ぶりも少し怒ってそう。
「すいません、野宿したいんですけど駄目ですかね」
「駄目ですよ」
きっぱり。
「どーもご迷惑おかけしました」
とりあえず頭を下げてから、
「この近くで野宿できそうなところありませんか」
と尋ねました。
「ないよ」
と言われるかと思いましたが、そこは警備員さんも人の子、
「あの食堂の向こうに空き地があるから、そこで野宿してください」
とのこと。この季節、ぼくみたいな連中も多いから、対応も決まっているのかも知れません。
 お礼を言って、教えられた空き地を見つけ、テントを張りました。薮がすく近くだけど、ハブは出ないだろうな。
 
 駐車場をサッサと追い払われたのが悔しくて、飯を作る気にもならず、コーラと泡盛を飲んで寝てしまいました。
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8月17日(土)晴 海洋博の遺物探し

 朝飯は、スパゲッティ(ミートソース)。
 今日は、一日海洋博公園でのんびりするつもりです。明日の朝フェリーが出ますが、もうここからほど近いので、さほど移動する距離もありません。
 
 自転車のギヤについた汚れを掃除したり、タイヤに空気を入れたりしてから、公園の中央ゲートへ。
 大阪の万博公園みたいに入園料取られるかと思ったら、入園に関してはタダでした。くそ広い園内を歩くのはしんどいですが、自転車は進入禁止なので仕方がない。
 水族館や熱帯植物園は有料ですが、イルカショーやマナティの水槽などは観覧無料なので、貧乏家族にもよろしいのではないでしょうか。ビーチでは海水浴できるし、民家園では畳の上で昼寝できるし。
 水族館は、マンタやジンベエザメが泳いでいるものの、さほどボリュームもなく、インパクトもありませんでした。ぼくの好きなクラゲもいませんでした。
 
 海洋博公園は、昭和50年に開かれた沖縄海洋博の跡地を利用したものです。当然、公園の楽しみ方としては、当時の面影を残すものや、当時の施設で利用されないまま放置された「遺跡」を見つけて喜ぶというのが、正道でしょう。
 その意味で必見なのは「海洋文化館」と「ニュースポーツ広場」。
 海洋文化館は博覧会当時の展示をそのまま残してあるらしく、建物の色使いといい、展示パネルのイラストのタッチといい、確かに27年前の雰囲気を感じさせてくれました。
 解説アナウンスの女性の台詞が、「マオリ族」というべきところを「マリオ族」と言っていて、貼り紙で訂正してあるし。
 一方のニュースポーツ広場は、「新しいスポーツを楽しみましょう」というコンセプトの施設のようで、用具の貸し出しも無料でした。
20年前の「ニュー」なら、今はもう普及していてもよさそうなものですが、紹介されているスポーツの名前を見るかぎり、現在でもいまだに見慣れないスポーツばかり。
 つまりニューというより、ただマイナーなだけなのでした。
 広場の「レストハウス」も、かつてはレストランだったのでしょうが、現在はただたくさんの椅子とテーブルが空しく並んでいるだけ。休んでいる客は一人もいません。
 イルカショー周辺の喧噪とは全く無縁で、静かなひとときを優雅に楽しめます。
 
 しかし、ぼくが海洋博公園で一番楽しみにしていたのは、『珍日本紀行』にも紹介されていた「海上都市アクアポリス」の廃墟。公園の沖あいに建設され、博覧会の目玉だったそれも、現在では利用価値もなくさりとて撤去する費用もなく、そのまま廃墟が放置されている、と書かれていたのですが。
 現地の「夕日の広場」から沖あいを眺めたのですが、それらしき廃墟は影も形もありませんでした。
 いつの間に撤去されてしまったのでしょう。ああ、また一つ「珍日本」が消えてゆく。
看板にわずかに残る海上都市の痕跡
看板にわずかに残る海上都市の痕跡

 海上都市が実在していたことをわずかにうかがわせるものは、公園案内の陶板地図に残された、塗りつぶされた海上都市のシルエットだけなのでした。
 
 海洋博公園を後にして、本部町の市街地に入り、スーパーかねひでに入って今日明日分の食料を買い込みました。
 近くにトイレ付きの広場があったので、今夜はここに決定。
 近くで発泡酒飲んでいたおじさん二人が、
「兄ちゃんどっからきた。まあこっち座れや」
と手招きし、アサヒ本生を一本くれました。
「沖縄はどうだ」
と訊かれたので、
「ゴキブリ臭い島ですね」
と答えるわけにもいかず、
「いやあ、きれいなところですよね」
と答えました。
「そうか兄ちゃんは長野か。わしも親戚の娘が長野に嫁にいっとるぞ。田中知事によろしくな」
「ええ、よく言っときますよ」
 
 日が沈んで、ウォーキングおばさんを尻目に広場の隅で晩飯を作りました。
 今夜はソーキスパゲティ。沖縄そばのスープに入れたスパゲティの上に、レトルトのソーキ煮をぶっかけた、琉洋折衷料理です。ソーキ500gを一度に食ったら、少し胃にもたれました。
 涼しいので、テントなしで寝ようかなとも思いましたが、ぼくはともかく通行人が不愉快だろうし、散歩犬に吠えられるとめんどくさいので、仕方なしにテントを建てました。
 メッシュも開けて寝たので、股間をボリボリ掻きながら寝ている姿が外からも見えたかも知れません。
 まあいいや、沖縄での恥は沖縄に置いていこう。
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8月18日(日)晴 教育長なに言ってんの

 昨夜のソーキスパゲティが胃に残っていたので、朝飯は食わずにテントを畳み、本部港に向かいました。
 チケットを買って、10時の乗船まで、待合所で日記打ち。
 沖縄本島北部の小学生たちが奄美大島に臨海学習(?)に行くようで、子供たちがロビーに整列し、その前でどこぞの教育長が演説しておりました。
「しがつからがっこうもかんぜんしゅうきゅうふつかせいになりい、そうごうがくしゅうがはじまってえ、これまでのきょうかごとでなくう、そうごうてきなべんきょうをしてこころのゆとりをドウノコウノ」
 いまさらそんな文部省のタテマエを実際の子供たちに向かってしゃべってどうすんだ。しかもこれから楽しい旅行だってのに。子供聞いちゃいねえぞ。
 それにしても、こいつらと船が一緒かあ。うるさそうだな。
 
 時間になって自転車を畳み乗船。手荷物料金1,000円を払い、指示されたホールに行きました。
本来は椅子やテーブルが置かれて、ちょっとしたイベントが行えるようなスペースなのでしょうが、今日はぎっしりとマットが敷かれています。どのみち狭苦しいのは普通の二等席も同じなので、臨時席だからといってあまり悔しい思いもしません。
 ぼくの寝場所はテレビの下でした。すみっこだったのはうれしいですが、テレビがうるさい。
 さっきの小学生たちも臨時席です。
 
 船に乗ってぼくがまずすることといえば入浴。往路のこのフェリーで風呂に入って以来、湯船に浸かるのは一カ月ぶりです。浴室に行ってみるとまだお湯が張られていなかったので、自分でお湯を入れて入りました。
 風呂から出た後は、甲板で昼寝したり、奮発して船内の自販機で最後のオリオンビールを買ってポルトギューソーセージをかじりながら飲んだり、カップ焼きそばを食ったり、船室に戻ってまた寝たり。
 ぼくの隣は茶髪の兄ちゃんで、少し寝相が悪く、ぼくは夜中に何度か頭を蹴飛ばされました。

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