日本2/3周日記(福島〜秋田) 東北地方ブルブル編(福島〜秋田)

10月17日(木)晴 温泉紅葉そして蕎麦

 かなり寒かったですが、夢を見た記憶があるので少しは眠ったのでしょう。自転車につけるバッグ用のラックを買う夢でした。考えていることがストレートに出るものです。
 6時に起きたら、日陰に霜が降りていました。今期初霜です。
 朝食は昨夜食べ残したご飯をこれまた残りのラーメンスープで雑炊にしました。
 朝早くバイクの人がトイレに立ち寄りましたが、施設の人はぼくが出るまでには姿を見せませんでした。その代わり、駐車場の作業場でヘリコプターが山と作業場とを往復して資材を運んでいました。ヘリコプターは器用に素早く飛ぶものですねえ。
 
 トレーナーやジャンパーで厚着し、濡れて冷たいゴム手袋をはめて出発。
 尾瀬ミニパークとかいう公園に寄り、武田久吉メモリアルホールと白旗史朗尾瀬写真美術館に入りました(300円)。武田久吉というのは尾瀬と縁の深い登山家で植物学者だそうです。
 ここの標高は980m。昨夜テントを張ったのはここよりも上ですから、おそらく標高1,000mは優に越えていたでしょう。寒いわけだ。
 公園から少し下ると檜枝岐村の中心部に出ました。体が冷えていたので「燧の湯」に入りました(500円)。朝10時とあって客はまばら。みな一人旅のようです。
 農林業関係の補助金を使って建てたそうで、建物は新品。脱衣場にロッカーがないのと、どこのドアも妙に重いのがわずかな欠点。
 泉質は無味無臭。露天風呂(?)から見える紅葉が鮮やか。景色を含めて考えれば、500円はお値打ちかも。
 
 温泉から出て「やなぎや」とかいう蕎麦屋(兼民宿)に入りました。せっかく日本有数の山奥に来たのですから、土地の料理を食べてみたいなと思って。
 食べたのは「裁ちそば定食」1,100円。そば粉100%の盛そばと「ハットウ」、小鉢は山菜漬。
 「ハットウ」は餅米とそば粉を一緒に搗いて捏ね、菱形に切って茹でてエゴマのたれをかけた料理です。モッチリした食感。名の由来は、そのあまりのうまさに驚いた領主が、農民がそれを食べることをご法度にしたからだそうです。
 でも、よその土地ではうどんや蕎麦のことを「ハットウ」と言うらしいし、
「ハッタイ粉」(麦を煎って粉にしたもの)や
「ハブタイ(羽二重)餅」
などと関連がある名ではあるまいか。
 そばもおいしかったです。特にシソの実の薬味が良かったです。食い足りなかったです。
 温泉に入って、土地の旨いもん食って、紅葉見て。久しぶりにまともな観光してるなあ。
 
 村の歴史資料館も覗きました。入場料の表示がなかったので勝手に入りました。館内では、NHKの葛西聖司アナウンサーと思しき声で、館内説明がエンドレスで流れていて鬱陶しかったです。葛西さんは嫌いじゃないけど。
チョビ髭の美女狩人
チョビ髭の美女狩人

 階段を上った脇には、狩猟装束に身を固めた美女のマネキンに、無理やり髭が貼り付けてあって怖かったです。
 猟銃の道具入れは、長野県は上伊那郡宮田村の薬屋「太田徳三郎本舗」の薬箱でした。富山の薬売りみたいに、宮田村の薬屋さんがこんな所まで行商に来ていたのでしょうか。
 資料館から出るとき、窓口に「入場料大人210円」と書かれた札があるのに気づきましたが、気づかぬ振りでさっさと出てきてしまいました。事務室の人たちも、素知らぬ様子だったし。
 他に村内で見物したのは、以下のとおり。
 
板倉
 柱も釘も使わず板だけで組んだ「セイロウ造り」の小屋だそうな。
 
間引き地蔵
 間引きされた子供を弔った地蔵だそうな。近くのお店で絵馬が売られており、願い事が書かれた絵馬がたくさん奉納されていました。このご時勢ですから
「会社から間引かれませんように」
「社会から間引かれませんように」
…そんな絵馬もあったんじゃないかな。きっと。

橋場のばんば
橋場のばんば

橋場のばんば
 おそらくは脱衣婆と思われる石像。誰かと縁を切りたい時はよく切れるハサミを、切りたくない場合は切れないハサミを奉納して願掛けするそうな。錆びたハサミを針金でぐるぐる巻きにし、更に錠前までかけてあるのを見ると、
「死んでもあの人を離さないわ」
という執念が感じられて背筋が寒くなります。
「殺してでも、あの人と別れたいの」
という人は、チェンソーでも奉納するといいかもしれません。ギャオスやギロンを奉納するという手もあるか。何のことやら。
 もう一つ、橋場のばんばの頭にお椀をかぶせてお祈りすると、どんな願いでもかなえてくれるんだそうで、確かにいくつもお椀が載っておりました。どんな由来があるんだろう。
 
疱瘡神
 説明板によれば、元禄年間に村の子供が疱瘡にかかり、神がとり憑いてお告げしたそうな。
「吾れ千手観音にして疱瘡神なり。信濃国善光寺の境内に住みおりしが、盗人に火をつけられそこを飛び出し、常陸・出羽など各地を廻り、この地に至った。当地は山川の眺めよく、人の心も誠実で住みよき所なれば、吾れこの地に永住し民の心の守り神と成る。故に社を建つべし云々」
氏子一同がお言葉どおり社を建てて疱瘡神を祀ると、以来疱瘡が流行ったとしても軽くて済むようになったそうな。
 天然痘ウイルスの正体が千手観音様だったとはびっくり。泥棒に火をつけられて放浪の身に落ちぶれたのは哀れですが、檜枝岐にやってきたのが「景色と人情がいいから」って、そんな理由で来られちゃたまらんな。
 災いの元凶である疱瘡神に向かって村人が
「おかげで病が軽くて済んだ。ありがたやありがたや」
と拝むわけですから、確かに疫病神にとっては「人の心も誠実で住みよき所」でしょうなあ。
 
 檜枝岐の鎮守神は駒形大明神と燧大神で、要は駒ケ岳と燧ケ岳です。ここには農村歌舞伎が伝えられているそうで、歌舞伎舞台が見やすいように、山の傾斜を階段状に固めて客席が作られていました。
 
 JAの売店でラーメンや食パン、缶詰などを買い、檜枝岐を後にしました。村を出てからどこかで手袋を落としたことに気づきましたが、拾いに戻るのは嫌なので見捨てました。

紅葉美の渓谷
紅葉美の渓谷

 国道沿いの山は見事な紅葉。バシャバシャ写真を撮っていたら、あっと言う間にバッテリーが消耗してしまいました。
 日向は暑く、日陰は寒い。南郷村あたりまで降りてくると、茅葺の曲家があちこちに見えていかにも東北地方らしい風情。
 神明様(シンメイサマ=オシラサマ)の南限という観音堂を見つけて自転車から降りようとしたら、段差に気づかず足がつけなくて派手に転倒しました。完全にひっくり返って、馬鹿なコガネムシみたいに手足をばたばたさせてもがいてしまいました。カッコわる。シタタカに股間を打ちましたが、血尿は出なかったのでホッとしました。
 昭和村へ向かう峠道の途中で日が暮れてしまい、国道から林道に入った3q先にあるという大清水公園を目指しましたが、坂道を上るのが嫌になったので途中の道端にテントを張りました。
 近くに沢があったので水には困りません。
 晩飯はレトルトカレーと具の少ないコンソメスープ。昨日よりは標高が低いし、一応は草地の上なのでさほどは寒くないはずです。
 夜中に小便のために外に出たとき、ついつい空を見上げてマンテンの星を愛でてしまいました。ああ、旅だ。観光だ。
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10月18日(金)晴  ザウルスまたもや入院

 予想通りさほど寒くなくて安堵。
 草地といっても石がゴロゴロしていて痛かったのですが、サドルバッグの支え板を敷いたりしてしのぎました。
 朝飯はチャルメラ。夜露に濡れたテントを干していると軽トラのおっちゃんが通りかかり、
「さっきも通ったがようやく起きたな。野宿か?寒くなかったかあ」
 
道路の真ん中に三脚立てて
スノーシェッドを走る

 峠はさほど遠くありませんでした。昨日林道を上った道のりを考えると、昨日のうちに峠を越えられたかもしれません。
 峠はトンネルとスノーシェッド(雪除け屋根)の組み合わせで、少し幾何学的な眺めが面白かったです。
 双体道祖神を見つけて「福島にもあるのか。新潟では見かけなかったけど」などと独り呟きながら、坂を下り、小さな滝で顔を洗いました。水が冷たい。
 紅葉を狙うカメラマンや、キノコ狩りの車があちこちに停まっています。昭和村から会津高田町への博士峠はちょっとしんどかったです。
 里まで下ると、ほとんど紅葉がしていなくて、なんだかほっとしました。
いい表情の道祖神
いい表情の道祖神

 会津高田町の中心部を走ると、「古峯神社」と刻まれた石柱が道路わきに何本も立っていました。石柱には小さな戸がついていて、中にお札が納められているのです。古峯神社ってどこにある神社なんだろう。有名なのかな。
 三時半頃、会津若松市に入りました。スーパーでいつもの白身フライサンドを食い、乳酸飲料1リットルを飲みました。
 近くのコンビニで地図を立ち読みし、シャープエンジニアリング会津若松の所在地の検討をつけてそれらしき場所に行ってみました。これまでの経験では、SHARPのでっかい看板があってすぐ見つかると思っていたのですが、全然見つかりません。
 会社に電話して道を訊き、ようやくたどり着いてみると、看板など一枚も出ておらず、小汚い工場の一角に狭いオフィスを間借りしているような有様でした。
 たった一人留守番していた受付のおねいさんに事情を説明して修理伝票に記入してもらいました。
おねいさんが
「機動不良」
と書いたので
「起こすの『起』だと思いますけど」
とツッコミをしてしまいました。嫌な客だ。
 修理完了後の受取は同じ営業所に出向くか、代引きが基本だそうで、
「他の営業所で支払い引取りというのは…責任者に訊かないとわかりません」
とのこと。前回だって和歌山で預けて京都で受け取ったんだから、可能なはずだけど。
 ダメです、と言われた場合は実家に送ってもらわねばならんのか。めんどいな。
「週末は営業しませんので、月曜日にお電話さしあげます。ちなみに受付時間は平日の4時までになっておりますので、よろしくお願いします」
すみませんねえ、4時半過ぎに押しかけて。
 とりあえずザウルスを託し、会社を出ました。
 会津かあ。お城ももういいし、白虎隊もそれほど興味ないしな。
 さっさと山形県目指して北上しようかとも思いましたが、ふとサザエ堂の存在を思い出しました。
 あれって会津だったかな?と思ってコンビニで地図を見てみると、ほど近い飯盛山にあるらしい。明日はこれをメインに観光することに決め、今夜はその付近で寝ることに決めました。
 ヨークベニマルで買物し、市営墓地の休憩棟の軒下にテント設営。水道でパンツと靴下を洗濯。
 晩飯は、白菜、えのきだけ、鮭の切身を鍋風にしてみました。あいかわらずの味噌仕立てですが、なかなか旨かったです。
 900ml紙パックの「会津ほまれ」も、本醸造ですが悪くありませんでした。
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10月19日(土)曇 カッコ悪いぞ白虎隊

 天気が良くなかったので、夜中じゅう干していた洗濯物はほとんど乾きませんでした。
 朝飯はラーメン。具は昨日の残りの白菜やキノコ。
 7時半頃管理人さんが来ました。
「すいません、どいた方がいいですか」
「いや、シャッター開けるだけだからいいよ」
ぼくのテントの裏のシャッターを開けるのだけは手伝いました。
 
 テントをたたんで飯盛山へ。駐車場に自転車とリュックを置いて階段を登ります。大した段数でもないのに、エスカレーターが250円で営業していました。高いなあと思いますが、お年寄りの観光客が多いので結構利用者がある様子。
 袴を履いて襷に鉢巻姿のお兄さんが団体客を案内し、上の広場で白虎隊踊りを披露していたのでついでに見物させてもらいました。ラジカセの音は割れていましたが、最期に切腹して倒れるというストーリーが面白かったです。
自刃地に立つ隊員像
自刃地に立つ隊員像

 白虎隊の自決組の中で、たった一人だけ切腹し損ねて生き延びた飯沼貞雄さんの墓や、連中の自決現場、ローマ市から寄贈された碑などを一通り見物。この碑は、白虎隊のエピソードに感銘を受けたローマ市長が昭和3年に寄贈したものだそうで、
「武士道の精神に捧ぐ」
と刻まれた一文は戦後GHQによって削られたそうな。
ローマのあるイタリアは連合国と敵対していたわけですが、白人から寄付されたものを白人が削るなんて、日本人のぼくからすれば「何やってんだか」という気分です。
 ついつい白虎隊記念館にも入ってしまいました(400円)。展示品がコチャゴチャしていて見にくかったです。
 白虎隊って、全員ハラキリしたんでしょ、と思っていたら、隊員総数は343人もいて、自決して名を馳せたのはそのうちの「士中二番隊」だそうです。
 その自決も、城が火事だと早とちりしてのことですから、そそっかしい連中です。
 沖縄のひめゆり部隊も、無事投降できる状況の人たちも多かったわけで、そういう「思い込みの激しいソコツ者」たちの自殺をもてはやすのはどうかと思います。
 士中二番隊に、戦闘死は一人もいなかったそうです。一人の死者も出さずに退却しやがって。城の煙を見てヤケを起こす気持ちも分からんではないけど、どうせ死ぬんなら敵陣に突撃すりゃ良かったのに。
 そう考えると、死んでいった連中よりも、一人生き残って「軟弱者」と蔑まれながらも天寿を全うした飯沼さんは大した男だ。
さざえ堂
さざえ堂


 さざえ堂を見物。堂の前ではもぎりのおばさんが
「世界でただ一つのさざえ堂、初めての人はぜひご覧ください云々」
と、人生の大半をかけて繰り返してきたのかと思うほど機械的な口上で客寄せをしていました。
 堂の内部は「うずまき」です。「らせん」です。木造の螺旋スロープをぐるぐる廻りながら登るという趣向です。天井が低くて、千社札がびっしりと貼られています。ほんの少し、和風迷宮を探検する気分です。
 なんでこんなおかしなものを建てたんだろうと思ったら、昔はこの中に三十三観音を安置して、参拝客が一方通行でお参りできるようにしたのだそうな。確かにそういう実利的な狙いもあったんでしょうが、それよりも
さざえ堂内部
さざえ堂内部

「面白いものを作って、みんなをびっくりさせてやろう」
という単純な目的意識が強かったのではあるまいか。
 
 飯盛山を堪能して気がすんだので、山形目指して出発。
 途中の100円ショップでハンカチやタオルや菓子類を購入。スパゲッティ600gが100円というのは、安いなあ。
 道端で昨日買った菓子パンと、100円クッキーを食べて昼飯。
 広い田園の中に続く狭い国道121号を北上。喜多方はさほど興味ないので素通り。山形県との境は大峠という峠で、トンネルが七つも連続するので愛称が「レインボートンネル」だそうな。
 中でも大峠トンネルは3q以上の長さがあり、歩道が狭くて自転車にとっては冷や汗もの。下り勾配だったのが幸いでしたが、こんなののどこがレインボーじゃ!
 
 トンネルを抜けると雨がぽつぽつ降ってきたので、慌てて漕いで道の駅「田沢」に駆け込みました。けっこうしっかりした東屋があったので今夜はここにテントを張ることに決定。
 売店で観光パンフレットを物色。米沢市の観光パンフレットの表紙はますむらひろし(が描いた絵)で、なかなかおしゃれでした。中身は凡庸でしたけれど。
 晩飯はダイソーで買ったスパゲティ。無理やりコンビーフを絡ませました。
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10月20日(日)曇ときどき雨 裏切りの手袋

 弱い雨が降り続いています。
 坂を下ったらじきに米沢市に入りました。上杉謙信の「毘」の旗印の由来となったという毘沙門天のあるお寺があり、寄ってみようかと思いましたが、門のところに箱を持った変なおじさんが立っていて、不気味だったので素通りしてしまいました。
 上杉神社に一応参拝。明治になって城跡に建てられた神社だそうで、言われてみると確かに貫禄が薄いような気もしました。
 米沢は、他に面白そうなものがないのでとっとと北上。
 南陽市のジャスコでキャベツ半玉と食パンとドーナツを買って昼飯。
 山形市に入る手前で、一人の自転者さんとすれちがいました。まだ走ってますねえ。ご苦労様。
 バイパスをひた走って市街地に入り、ごちゃごちゃした街中をなんとか通り抜けました。途中ワークマン(作業用品店)で手袋を買いました。どんなのを買おうか迷いましたが、パッケージに「雨に濡れても大丈夫!」と書いてある手袋を選びました。
 足首カバー(?)も買ったので、理論的にはこれで靴の中が濡れる心配はないはずです。
 さっそく両方着けて走ってみました。確かに安心感はあります。
 夕方になって寒河江(さかえ)の道の駅で小休憩。今日中に月山のふもとの道の駅「にしかわ」まで行こうと雨の夜道をひた走りました。
 疲労と空腹でかなりしんどかったです。
 買ったばかりの手袋には裏切られました。全然防水性がないのです。何が『雨の日も大丈夫』だよ、ウソツキ!と怒ってみたのですが、どうやらあれは
「雨に濡れても滑らないから大丈夫」
ということのようでした。
 やっぱこういうものはスポーツ用品店でそれなりの値段のものを買わなきゃダメなのでしょうか。あああ。
 
 ようやくたどり着いた道の駅には24時間オープンの休憩所はなく、東屋(の、ようなもの)も貧相なものしかありません。雨が吹き込むのを承知の上で東屋(の、ようなもの)の下にテントを張りました。
 今夜の晩飯もスパゲティ。レトルトのナポリタンソースをぶっかけました。
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10月21日(月)雨 震えながら月山越え

 夜は思ったほど風が強くなかったので、テントがさほど濡れずに済み幸いでした。
 朝はご飯に鯖缶と味噌汁。
 テントを畳んでいると掃除のおじいさんがやってきて、
「ゆうべはここでお休みになったんですか」
「ええ」
「向こうの売店の軒下の方が、雨が吹き込まなくて良かったのに」
「でも、お店がいつ開くか分からなかったんで」
「お店の人が来るのは8時だよ。今度来る時はそっちで寝るといいよ」
…こんなところまで野宿旅なんて、二度と来ないと思うけど。
 
 雨の中を月山方面へ。国道112号は「月山道路」という自動車専用道路となり、自転車は旧道へ迂回を余儀なくされました。
月山越えの旧道
月山越えの旧道

 国道から逸れると突然勾配がきつくなり、すぐに汗びっしょり。工事現場のプレハブ小屋のわずかな軒下でカジュアルシャツを脱ぎ、長袖Tシャツとレインウエアだけになって登攀再開。
 志津(地名)付近は標高が高いだけあって紅葉がきれいでした。雨さえ降っていなければ、ばしゃばしゃ写真を撮りたいところです。
 シャープエンジニアリング会津から電話がかかってきて、「他の営業所での受取支払いも大丈夫です」とのこと。ほっ。
「これからどちら方面に向かわれますか?」
「日本海側を秋田、青森に向かいます」
「わかりました」
 
 月山は無理ですが、湯殿山くらいには行きたいなと思い、湯殿山有料道路へ。
 標高が高くて体がすっかり冷えてしまったので、道路入口のトイレの中で休憩。
 気を取り直して料金所のおじさんに
「自転車通れますか?」
と訊くと、
「だめだよ、高速道路と同じだから」
と、にべもありませんでした。…道の貧相な様子はここまで上ってきた道と全然変わりないんだけどなー。基準がわからん。高速道路と同じなら時速80qで走っていいのか?SAがあるのか?くっそー。
 一応路線バスも通っているようなのですが、一時間も待たなければならないし、財布の残金も心もとなかったので湯殿山行きは諦めました。ぼくは残金ぎりぎりにならないとお金を下ろさない男なのです。
 
 「鶴岡方面」と矢印のある道を辿ったら、月山道路に出てしまいました。「自転車通行禁止」の標識も出ていなかったので、いいのかしらと思いつつ、自動車たちに交じって道路を下っていくと、やがて「自動車専用道路ここまで」の標識が出てきました。
 確かに歩道などはついていませんが、自転車や歩行者に対するこの程度の素っ気なさは一般国道として珍しくもありません。なぜこれを自動車専用にせねばならんのか、やっぱり基準が判りません。
 
 道の駅「月山」でキャベツサンドの昼飯。バンジージャンプ場(吊橋)やら山葡萄ワインの工場やら「アマゾン自然館」やらがゴタ混ぜになっていて、全く統一感のない観光施設でした。
 休憩所のテレビを観ながら体温が戻るのを待ち、山を下りました。鶴岡市を過ぎ、酒田市のスーパーで買物と水補給をして「どこか雨のしのげるねぐらはないかなー」ときょろきょろしながら夜道を走り、ようやく遊佐町のバス停にもぐりこみました。蜘蛛の巣がはびこっていたので、蝋燭の火で巣を焼き払ったのですが、巣の主の動きがすごくにぶかったです。死期を待っていたのでしょうか。
 
 晩飯はブロッコリーと肉団子のコンソメ煮。奄美で買った「蘇鉄でんぷん」をひき肉に混ぜてツナギにし、スプーンで丸めてスープの中に落とします。ここ最近肉といえば鶏肉ばかり食べていたので、ひさしぶりの牛豚あわせ肉の香りが懐かしくてうれしかったです。
 このバス停は中学校のスクールバスの停留所になっているらしいので、明日は早めに出立せねば。5時起きだ。
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10月22日(火)曇 静かに眠れ石原莞爾

 鳥海山はきれいな山だそうですが、曇をかぶっていて全然見えませんでした。
遊佐町の道の駅「ふらっと」で、食パンに蜂蜜を塗って朝飯。
 神社から国道を少し進むと、「石原莞爾将軍の墓」という小さな看板が目にとまりました。
 ぼくが石原莞爾という人のことを知ったのは安彦良和の漫画「虹色のトロツキー」です。満州事変の仕掛け人で、東条英機と対立して東亜連盟とかいう組織を作って、かなりのカリスマ性を持っていた人らしい、という程度の知識です。ぼくはべつにファンというほどのものではありませんでしたが、こんな辺鄙なところに彼の墓があることに興味がそそられたので、寄ってみることにしました。
石原莞爾墓所
石原莞爾墓所

 松林の中に丸い塚が作られ、脇の方に物置みたいな小さなプレハブ小屋がありました。
 小屋の中に入ると、本人の写真が飾られ、椅子とテーブル、そして本棚があり、石原関係の資料が読めるようになっていました。
 本棚にあった石原莞爾著『最終戦争論・戦争史大観』の文庫本を読んでみましたが、けっこう面白かったです。
 「最終戦争論」の基となった講演が行なわれたのは昭和15年だそうですから、真珠湾攻撃の前年です。この中で石原は、いずれ「最終戦争」なるものが勃発し、それによって世界が統一されると予言しました。以下、本文を要約抜粋。
 最終戦争では兵士だけでなく老若男女、山川草木全てが渦中に入るだろう。
 太平洋を挟んで空軍が決戦を行い、一発当ると何万人もがペチャンコにされるところの、私どもには想像もされないような大威力の破壊兵器ができねばならない。
 例えば今日戦争が始まって、次の朝夜が明けると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている、その代わり大坂も東京も廃墟になっているだろう。このような決戦兵器を創造してこの惨状にどこまでも耐え得る者が最後の勇者である。それが30年以内に東亜と米州の間に起こるだろう。
 こうした歴史観は、日蓮宗の思想に由来するものだそうですが、まるで原子爆弾の登場を予言するかのような物言いです。大した先見性ですし、それを堂々と講演するのですからいい度胸です。
 東条英機と不仲だった石原は、戦時中の東条を「上等兵」と呼び、「辞職しろ」と罵っていたそうです。けれど東条が現職を去った後は「屍同然の者に何を言っても仕方がない」と言い、東条のトの字も口にしなくなったそうな。
 五百旗頭真という人が書いた解説も引用しておきます。
 最終兵器の出現によって全面戦争が不可能になる、そこで絶対平和が到来する。このように石原は予言したが、核兵器が現実にもたらしたのは絶対平和でなく、冷たい平和と地域紛争だった。
 石原は成算がないにも関わらず、対米戦争論を説いて満州事変を強行したが、昭和16年当時での日米開戦には反対だった。
 石原は満州事変によって丘の上の大岩を動かし、のちに自らその転落を止めようとして下敷きになったのである。
 石原は太平洋戦争よりも前に現役を引退していたため、軍事裁判にかけられることもありませんでした。…個人的には、満州事変や植民地政策の責任などが追求されてもよさそうなものだと思いますが。
 戦後、石原は進駐軍のマッカーサーに意見書を提出したそうで、昭和24年に死ぬ間際になっても病床で言っていたそうです。
「御用のあるうちは死ねない。マッカーサーに注意してやらねばならん。占領軍がやっていることは、どうもかつて日本が満州で失敗したのと同じ間違いのように見える。いずれマッカーサーが意見書に対して質問を寄越すだろうから、詳しく説明してやる必要がある」
…ううむ、デカイことを言う大人物だなあ。なんか、西郷隆盛を連想させる。ごつくてふてぶてしい風貌も、似てないでもないような。
 
 面白がって本を漁り終わり、さて出ようかと思ったとき、ふと壁の貼り紙に気がつきました。
「この椅子は、生前の石原将軍が愛用していたものです」
座っていた椅子をまじまじと見つめ直してしまいましたが、質素な椅子でした。
 
晩秋の日本海
晩秋の日本海

 国道の下に大物忌神社の里宮があったのでちょろりと参拝し、有耶無耶の関とかいう変な名前の所を素通りして秋田県入り。鉛色の空、打ち寄せる波、ぼろっちい家々。いかにも演歌が似合いそうな日本海の風情です。
 仁賀保町のローソンでカップヌードルとカレーパンを買い、倉庫の軒下で昼飯。
 この辺のコンビニは、どの店も入口がガラスの温室みたいになっています。雪対策なのでしょう。
 本荘市のマックスバリュで晩飯用の買物をし、ねぐらを探しながら北上。岩城町の道の駅の休憩所が24時間オープンだったので、ここで寝ることに。
掃除のおばちゃんに
「今夜ここでお世話になります」
と言うと、
「ゆっくりしていきな」
と言ってくれました。
 室内でストーブを使うわけにはいかないので、駐車場に出て焼きそばを作って食いました。風が強くて寒かったです。
 休憩所に帰って食うと、部屋中が焼きそば臭くなってしまいました。まあいいや。
 テントの中でないと、酒を飲むのも遠慮せざるを得ません。
 隅っこに銀マットを敷き、寝袋にもぐりこみました。
 室内灯のスイッチが見つからず、明るいままなのが悔しいです。
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10月23日(水)曇 郷愁の平安堂秋田店

 道の駅の休憩所は、どうも安眠できませんでした。朝になって掃除のおばちゃんが来て、
「よく眠れたかい」
というので
「ええ、おかげさまで」
と答えましたが、実際のところはあまり疲れがとれていませんでした。
 朝飯はラーメン。
 秋田市内のDEPOとかいうスポーツ用品店で、ハーフのエアマットを買いました。バルブを緩めると自然に空気が入るタイプのものです。本来リュックは一杯の筈なのですが、根性で詰め込みました。
 DEPOのあるショッピングタウンには、懐かしい「平安堂」があって少し感動しました。ショッピングタウンのベンチで食パンにメンチカツを挟んで昼飯。
 ドブ川沿いのトイレで大便し、銀色に輝く巨大体育館を横目に走り、臨海公園に寄って寒風にさらされながら洗濯。まだ水が止められていないだけ幸いかもしれません。
 海岸線を走り、男鹿市に入りました。能登半島みたいにド田舎かなと思って秋田市内で食料を買い込んだのですが、男鹿市内はそれなりに街でした。
 残念なのは、加茂青砂あたりで沿岸道路が崩壊し、通行止になっていたこと。男鹿半島を一周するつもりで来たのですが、残念至極。
 今夜のねぐらは、プールのある公園の東屋。なにやらエッチなグッズの空き箱が棄ててありました。パッケージには女子校生のエッチなイラストが描かれているのですが、具体的にどんな商品なのかの説明書きが全くなく、すごく気になりました。おれも修行が足りんな。
 さっそくエアマットを使ってみたら、弾力があって温かい。銀マットがペシャンコになりつつあったので助かります。
 晩飯はカレーか何かだったかな。
 ご機嫌で飯を炊き、マットの上に炊きたてのコッヘルを逆さにして置いておいたら、マットに水ぶくれができてしまいました。熱で急激に膨張した空気が、マットの表布と内部のスポンジを引き剥がし、ぷっくり膨らんでしまったのです。
 そこに空気が集中するぶん他の部位がペッタンコになり、膨れた部分に体重をのっけて空気を分散させようとすると糊の剥離部分がメリメリと広がってしまうのです。くそー、こんなことになるなんて。
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10月24日(木)曇 なまはげづくし

 昨日防水スプレーを買ったので、朝はテントやレインウエアにそれを吹き付けたりしておりました。
テントもレインウエアももともと防水性はあるのですが、撥水性がなくなると乾きが遅いし、表面がビットリ濡れると気分が重くなるのです。
 男鹿駅前に行くと、観光案内所のショーウインドウにはなまはげ人形。入手したパンフを見ると、
「なまはげ館」、
「なまはげライン」、
「なまはげ柴灯まつり」、
「なまはげヨットレース」、
「なまはげオートキャンプ場」。
 
「なまはげ館」では、毎日なまはげの実演が行なわれているらしい。
「なまはげライン」では、なまはげが包丁持って追いかけてくるらしい。
「なまはげ柴灯まつり」は、なまはげが松明を持って踊り狂っているらしい。
「なまはげヨットレース」では、なまはげがさわやかに波を蹴立てているらしい。
「なまはげオートキャンプ場」では、なまはげが泣く子のバーベキューに舌鼓を打っているらしい。
 さすが男鹿。
 
 昼飯用にスーパーで半額のレーズンパンなどを買って出てくると、背の低いじいちゃんが近寄ってきて、話しかけてきました。どんな会話をしたか詳しくは覚えていませんが、なかなか怪異的な風貌のじいさんだったと記憶しています。
「どっから来た、どこへ行く」
みたいな会話があって、
「なまはげ館に行こうと思ってるんですけど」
とぼくが言うと、じいさんは
「ワシは一度も行ったことがない」
と言っておりました。まあ、地元民が行く所じゃあないでしょうね。
 
万体仏
万体仏

 なまはげ館へ続く坂の途中にお堂がありました。パンフレットなどの説明によれば、男鹿には平安時代から日積寺(現在の赤神神社)と光飯寺(現在の真山神社)という二つの修験系の寺があり、この地蔵堂は光飯寺の金剛童子堂だったものを、明治の廃仏毀釈で移築されたものだそうです。
 面白そうだったので靴を脱いで中に上がりこんでみると、壁一杯に木彫の小さなお地蔵さんがひしめいていました。かなり怪しい雰囲気です。「万体仏」というそうですが、なんでこんなにたくさんのお地蔵さんがいらっしゃるのか、よく分かりません。
 堂の中央の祭壇(?)には、女神と思われる石像があり、なんとなく神仏混淆時代の名残を思わせます。
 燃えさしの蝋燭があったので、それ全部に火をつけ、三脚立てて写真を撮って喜びました。もちろん、後でちゃんと消しておきました。
 お堂の軒柱には蓑のようなものが括りつけられていましたが、どうやらこれはなまはげ様が着ていらっしゃった蓑のようです。
 
 なまはげ館は、なまはげの実演が観られる「男鹿真山伝承館」とセット料金で800円。館の前には意味不明な「なまはげモニュメント」や、「なまはげ街灯」があり、館の売店には「なまはげキティちゃん」のハンカチが売られていました。
 さすが男鹿。
 
 展示のメインは、各地区から勢ぞろいしたなまはげ模型。これを見ると、なまはげが一般的な「鬼」でないことがよくわかります。各地区の住民が毎年手作りするのが本来の姿なので、多くの場合が紙のハリボテ。同じ顔のものは一つもありません。きっと毎年顔が変わるのではないでしょうか。
 古形を残しているといわれる真山地区のなまはげ面は木彫ですが、角はありません。要は山から下りてくる恐ろしいモノなわけで、角の有無など問題ではないのでしょう。
 なまはげの正体については、諸説あるそうな。
男鹿に上陸した漢の武帝が連れてきた鬼だという伝説や、
男鹿に漂着した紅毛碧眼の異人(ロシア人)だという噂や、
「仏(教)に山を奪われた古代神の怨霊」だという学説(?)など、
その他いろいろ。
 
 このなまはげがいわゆる「地域おこし」に利用されるようになったのは随分早く、昭和25年に男鹿連合青年会が「なまはげコンクール」なるものを開催したそうです。
 コンクールでどんななまはげが登場したかは大体想像がつきます。まずは、赤い服を着て袋をかつぎ、トナカイの橇に乗ったなまはげが登場したことでしょう。昭和25年という時代性を考えると、サングラスにパイプをくわえ、チョコレートを配って歩くなまはげも登場したに違いありません。
 さすが男鹿。
 
 なまはげ実演が行われる「男鹿真山伝承館」は昔ながらの曲家で、観覧席となる板の間には観光客がぎっしりでした。
 家の主人役のおじいさんが観客に向かって口上を述べた後、なまはげの来訪が再現されました。本来なら大晦日に行なわれるものです。
 まず、先立と呼ばれるじいさんがやってきて、もうじきなまはげが来ることを知らせます。主人と先立が世間話をしてると、突然戸がドカドカ殴られ、ガラピシャンと開けられて二人のなまはげが登場。客席にも押し入って戸板をバンバン叩きまくり、
うおーうおー
と吠えます。なかなかの迫力で、ぼくも一瞬ドキッとさせられました。
もてなしを受けるなまはげ
もてなしを受けるなまはげ

「まあまあ」
と主人になだめられたなまはげは、四股を踏んでから膳に着き、主人から酒の接待を受けます。酒を飲みながらなまはげは
「おめんとこの孫のヨシオは、学校ではいい子にしてるってえが家じゃゲームばっかしとるてえじゃねえか」
「おめんとこの息子は、一昨年嫁をもらって『うちとこのミヨコは別嬪だ』なんてノロケとったが、そのミヨコはろくに家の仕事もしねでカラオケばっかしとるじゃねえか」
「全部この帳面に書いてあるぞ」
「ヨシオはどこいった。ミヨコはどこへ隠れた」
などと、かなり漫才めいたやりとりを交わして、観客を沸かせておりました。
 石垣のアカマタクロマタと比べると、随分とサービス精神旺盛なマレビトです。信仰が芸能へ、それも笑いの芸へと変化していく過程を見せつけられたようで、面白かったです。
 なまはげは確かに帳面を持っていましたが、セリフでも書いてあったのでしょうか。
 公演(?)が終わり、伝承館から出ると、主人役のおじいさんが観客を見送っていたので
「実際のなまはげでもあんな面白いやりとりをするんですか?」
と尋ねてみたことろ、
「まあ、あんな感じです」
とのことでした。
 
 なまはげ館から少し奥に入ったところに真山神社がありました。なまはげ柴灯祭りの舞台となる神社だそうです。
 国鉄が奉納した巨大出刃包丁と、誰が奉納したとも知れぬ武者絵馬が不気味でした。
 
 「温泉ランドおが」にでも入っていこうかなとふと思いましたが、結局やめて半島の北岸を能代市方面に走りました。
男鹿半島暮景
男鹿半島暮景

男鹿市街のある南岸と違って、うら寂しいこと限りなし。でも、夕焼けはきれいでした。
 とっくに日がくれてから八郎潟の大潟村に入りました。空も群青色になってしまい、周りの景色も「平らだなあ」ということ以外は判りません。
 真っ直ぐで真っ暗な狭い道を、弱いライトだけで走ります。車にとってはすごい迷惑。道の海側には、鉄製のフェンスのようなものがずうっと並んでいます。きっと、吹雪対策なのでしょう。東北ならではだなあ。
 八竜町に入ったのは7時過ぎ。スーパーで買物し、でっかい竜のモニュメントがある公園の屋外ステージにテントを張りました。そういや、このあたりは八郎太郎とかいう竜の伝説で有名だったなあ。
 晩飯は、モヤシや鶏肉の炒め物。
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10月25日(金)曇のち雨 白神山南麓を走る

 朝、公園の水道で靴下と下着を洗濯。公園の水道が止まるのはいつごろだろう。
 次の目的地は、大湯のストーンサークルです。大湯から十和田湖を通り、弘前市に出ようという計画です。十和田湖、きっと寒いだろうなあ。
 能代市を通過したあたりで、冷たい雨が降ってきました。名もない小さな神社の軒下でレインウエアを着込みました。国道7号、白神山地の南山麓を走ります。
 道の駅「ふたつい」で一休みすると陽が射して、白神山地に虹が見えましたが、それも束の間。大館、鹿角までずっとうすら寒い曇り空でした。
 4時過ぎに大館市のローソンでカップラーメンを食った以外は、ずっと走りっぱなし。トータルで80kmくらいは走ったでしょうか。ぼくにしては、頑張った方です。
 鹿角市でスーパーに寄り、国道103号を大湯方面にしばらく走ったバス停でテントを張りました。ここ最近天気がぐずつくし、露天は冷えて寒そうなので、どうしても屋根のある場所を探す必要があります。
 今夜は寒雨の中を走ったので、温かいものが食いたいと思い、晩の献立はサーモンシチュー。鮭の切身とジャガイモを、ホワイトソースで煮込んでみました。塩コショウなどで味付けしましたが、どうも味が足らず、ホワイトソースじゃなくて、シチューのルーを買えばよかったなと少し後悔しました。
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10月26日(土)晴 晩秋の十和田湖

 ようやくまともに晴れました。
 バス停なので、いつもより早めに出発。昨日がんばって距離を稼いだおかげで、大湯ストーンサークルにはすぐ着きました。
 昨日の雨で汚れた自転車を拭き、真っ黒に汚れたボロ布を「大湯ストーンサークル館」の玄関の水道で石鹸洗い。迷惑な旅人だ。
 展示館は300円。中身は大して記憶に残ったものはありません。
 ロビーにインターネットの無料端末があったので、青森で見物すべきスポットを下調べ。恐山に行くのはもちろんですが、弘前市には「鬼神社」なるものがあるらしい。これは要チェックだ。
 キリストの墓は新郷町。十和田湖からけっこう近いけど、湖から東に下ってしまうと、後のルートがややこしくなるので南下の途中で回ればいいや。
大湯ストーンサークル
大湯ストーンサークル

 広い芝生の一角にストーンサークルがありました。たぶん出土した実物ではなく、実物を埋めなおした上に作られた複製でしょう。石の配列が太陽の位置と関係があるということを展示館で説明しておりましたが、確かに遺跡は広い台地の端っこにあり、空が広くて東西の山がきれいに見えました。
 ボランティアガイドなどもおりましたが、これといって嫌らしい質問も思いつかなかったので、そのまま立ち去りました。
 
 大湯から十和田湖までは、ゆるやかな上り坂。晴の土曜日だけあって、バイクや車が多いです。道端で食パンにジャムつけて食べたら、パンが埃だらけになりました。
 十和田湖にはまだ紅葉が残っていて、きれいでした。
 観光客も多く、展望台の駐車場はかなり混雑しておりましたが、ぼくには関係ありません。
晩秋の十和田湖
晩秋の十和田湖

「あ、きれいだな」
と思ったところですぐに自転車を停め、気軽に写真を撮れるのが自転者の強みです。
 十和田湖は典型的なカルデラ湖なわけで、急な坂を下って湖畔を走り、また急な坂を上って外輪山に戻ります。
 福井の道の駅で同宿となったカナイ君が
「十和田湖は難所だよ」
と言っていたのを思い出しました。確かに、自転車を降りて押したのは月山越え以来です。
 黒石へ下る峠の頂上に着いた頃には汗だくで、売店を覗きながら休憩。
 子供がぼくの自転車を見て
「あ、バイクだ」
「へへん、かっこいいだろ」
と短い会話。
 夏ではないので、かいた汗がなかなか乾きません。重ね着してから出発。峠付近の木々はさすがに裸でした。峠を越えてついに青森県入り。
 今夜はなるべく標高の低いところで寝ないと寒いぞ、と思ったのですが、峠から下った「湯川温泉」に入ってしまいました。
 青森にいる先輩のリンゴさん(仮名)が、「十和田湖はいい温泉がいっぱいあるか暖まっていくといいよ」
と教えてくれたのです。
 湯川温泉は国道から吊り橋を渡った先にあり、内湯と露天風呂がありました。泉質は忘れましたが、気持ちよかったです。
 すっかり温まって出てくると、もう外は薄暗い。湯冷めするのが嫌だったので、温泉からすぐ近くの駐車場にテントを張りました。
 24時間暖房つきの公衆トイレがあるので、不便はしません。よっぽどトイレに泊まりたいと思いましたが、ぼくの道徳心はそれを許しませんでした。
 晩飯は、カレーかなんか食ったかな。ここは標高が高いので、今夜はかなり寒いだろう。

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