日本2/3周日記(青森) 東北地方ブルブル編(青森)

10月27日(日)雨 レジハンド戦法の威力

 早朝から雨が降ってきてました。東屋の下にテントを張ったのですが、屋根が小さいので余裕で濡れ、下がタイルだったので床からも少ししみてきました。放射冷却が効かなかっただけでもありがたいと思うべきでしょうか。
 雨の中の下り坂は、体が温まらないのでかなり寒い。山形で買った手袋は防水性がないのでとてもつべたい。
 身体はともかく、手足の冷たさがどうにも我慢できなくて、ろくに進まないうちに道の駅「虹の湖」で休憩しました。でも休憩所に暖房が効いておらず、服も乾かないので休んでいても嬉しくありません。
 携帯の電波が通じたので、自宅に救援物資を依頼しました。重ね着用のシュラフなどを青森中央郵便局留で送ってもらうように指定。荷物が届くまで、なんとか今の装備で生き抜かなければなりません。
 仕方なく再び雨の中へ。かじかんだ手を握り締めながらしばらくは走ってみましたが、矢も盾もたまらず、苦し紛れに思いついたのが名づけて「レジハンド戦法」でした。
 つまり、手をスーパーのレジ袋で覆うのです。
 完全防水には程遠いのですが、これが意外と暖かいのです。うすっぺらなビニール袋でも、風を防いでくれるので気化熱が奪われないのでしょう。ものすごく格好悪いのですが、背に腹は変えられません。
 黒石市街に降りてくると、畑にリンゴがたわわに実っており、青森に来たなあと実感が湧く一方、我が故郷飯田でもリンゴは見慣れた風景なので、どことなく懐かしさも感じます。
 4時ごろ、弘前市に入ってCubとかいう大きなスーパーに寄って菓子等を食い、再び走り出そうとしたのですが、すぐ近くに高速道の高架下があって雨に濡れなくて寝やすそうだったので、少し早めでしたが今夜はここにテントを建てることにしました。
 晩飯は、豚肉や白菜を入れた煮込みうどん。ナメコやモヤシも入れて、具沢山です。
 明日は弘前城でも見て、木造町に向かう予定。
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10月28日(月)曇 土偶駅の標語に物言い

 場所が場所だけに騒音はありましたが、テントが濡れないというのは心理的に大きくプラスです。
 雨は上がったように見えたのに、走り出すと時々パラパラと降ってきて不愉快。
 市内マップを入手するために弘前駅に寄ると、警備員のおっちゃんが話しかけてきました。
「なんでこんな寒い時期に青森なんぞ来るんだね」
と呆れられました。
「夏の沖縄経験しましたんで、冬の東北ってのもオツだと思って」
「じゃあ北海道まで行くんかね」
「さすがにそれはちょっと。命が危なそうですからやめときます」
「風邪ひかんようにね」
 
 弘前城は、自転車を置く場所が見つからず少し苦労。近くの薄暗い公園の東屋の柱に、自転車とリュックを縛りつけてお城見物。城内では菊花展をやっていましたが、興味ないのでパス。
 これは櫓か?と思った建物が、天守閣でした。中には入りませんでした。
 
 弘前城を後にして、岩木山を左に見ながら北上。岩木山は中腹まで雪で白く染まっていて、少しショック。平地に雪が降るのももう時間の問題だなあ。
 マップを頼りに鬼神社へ。県道31号を行った鬼沢という集落にあるそうで、その付近まで行くと道端に
「追分 右 鬼神宮
    左 鰺ヶ沢」
と刻まれた石の道しるべが立っていました。
こんなことになっちまって狛っ鯛(キャ〜)
狛鯛

 ただ「鬼神社」という名前に惹かれて訪れたのですが、変わったところといえば狛犬ならぬ「狛鯛」があったことと、でっかい鎌や鍬が奉納されていたことです。
神社の由緒書には
「祭神 高照姫大神 伊弉那岐大神 大山祗大神
 坂上田村磨が東征の折、岩木山の高照比売大神の霊験を蒙るに依り山麓に社宇を建立」
などと記されているばかりで、鬼の気配はありません。
 しかしネットから得た情報によると、地元に伝わる鬼神社の由来はかなり違うようでした。
 昔、この村の弥十郎という男が、山に住む鬼と相撲をとって親しくなった。鬼は弥十郎に頼まれて、ふもとから標高の高い集落まで、一晩で水を引いた。それを感謝した住民は地名を鬼沢と改め、鬼が使った鍬をご神体にして鬼神社を建立した。http://mytown.asahi.com/aomori/news01.asp?c=5&kiji=359
 とのこと。御神体の鍬は、今でも錆びずに祀られているのだそうです。
 
どど〜ん
土偶駅

 適当に走って国道101号に出て木造町へ。青森観光の目玉の一つ、土偶駅に参拝しました。
 駅に無理やりはめ込まれた遮光器型土偶のでかさとリアルさもさることながら、建物の名前は
「木造ふれ愛センター」。
 おう、存分にふれ愛させてもらおうじゃないか!と内部に乗り込みました。
 ベンチには腐ちかけた地元の老人が二人ほど座り込んでお喋りをしており、壁際のガラスケースには腐ちかけた地元特産物のサンプルがありました。
 それよりもぼくが気になったのは、壁にベタベタと貼られた小学生の標語。
「早おきで ごはんタイムと ウンチタイム」
「けんこうは 朝ごはんと えがおから」
「かぜひきさん うがいてあらい しましたか」
「外あそび お日さまパワーを もらえるよ」
「きれいなは いつもきらきら うれしいな」
「けんこうな からだはぼくの たからもの」
小学生にこんな奇麗事を書かせて誇らしげに飾っているなんて、この町の人たちは恥ずかしくないのでしょうか。
標語の数々
標語の数々

 こんな白々しい標語を、子供たちが自分の意志で書いたとはとても思えません。
 朝寝坊して、登校ぎりぎりまで寝ていたいのが正常な子供。
 笑いたいときに笑い、泣きたい時に泣くのが正常な子供。
 家に帰ったらうがい手洗いそっちのけで、すぐにおやつを食べたいのが正常な子供。
 家の中でファミコンしていたいのが正常な子供。
 歯磨きなんかめんどくさいからしたくないのが正常な子供のはずです。
ましてや、
「やっぱり健康が一番の宝だねえ」
なんて本気で言ってるジジイみたいな子供がいたら、その子はもはや病気です。
 「笑顔を作れ」だの「うがいしろ」だの「外で遊べ」だのというのは、大人が子供に強制している価値観にすぎません。大人が口すっぱくして子供に注意するならともかく、子供自身が標榜するのは不自然です。
 もしこれらの標語が本当に子供たちの作によるものだとしたら、それは親や教師の言葉のオウム返しか、さもなければ
「こう書けば大人が喜ぶだろう」
という、子供なりの姑息な知恵の結果に過ぎません。
 木造人は、お行儀のいいことを子供に書かせて、それを人目に着く場所に貼っておけば、子供がその言葉通りの人間に生まれかわると本気で信じているのでしょうか。
 それはもはや教育ではなく、単なるおまじないではないでしょうか。
 縄文時代から脈々と受け継がれてきた言霊信仰なのかもしれません。
 
 もう夕方だったので、木造町縄文住居展示資料館「カルコ」は明日見学することにしました。 
 国道沿いのジャスコで晩飯用の食材を買ったのはいいのですが、寝場所探しに手こずりました。田んぼばかりが広がる真っ平らな田舎で、適当な公園などが見つからないのです。
 ようやく見つけた線路脇の公園でテント設営。
 晩飯は子持ちハタハタとほうれん草の味噌汁。ハタハタは網で焼いて食べたのですが、卵がやたらと固かったでっす。
 今夜も冷えそうです。
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10月29日(火)曇ときどき雨 嗚呼チャンゴチャ

 朝方、あられが降りました。いよいよ空から固形物が降る季節になったかと、感慨もひとしお。
朝飯はたしかチャルメラ。
 カルコ見物(210円)。カルコとは
Kamegaoka Archeaeology-Collections
左の女房は無口。
喋る縄文人ロボット

の略なんだそうです。片仮名にするからわからんのだ。
ここの目玉は、縄文語を喋る縄文人ロボット(ていうか、関節が少し動く人形)です。一階に復元された縄文住居の中を通ると、センサーが反応して縄文人のおっさんが喋り出す仕掛けです。
ナムタチタライチョ(汝達、誰よ)
インズクヨリキタリチモノチョ(何処より来たりし者よ)
ア、ア、ア チャンゴチャ(あはは、愉快)
マンズ ユルルカニ(まあ、ゆるやかに)
ミチュキタマビア(見ていきたまえ)
アンガ ツクユヤチ(吾が友達)
全体的にはなんとなく分かりますが、
「チャンゴチャ=愉快」というのがよく分かりません。そんな古語や方言があるのでしょうか。今度実際に使ってみようかな。
「あっはっは、お前はなんてチャンゴチャな奴だ」
…意味は通じなくても怒られそう。
 
 それ以外の展示はほとんど面白くもないものばかりでした。有名な遮光器型式土偶は複製品だし。
 ただ、二階の資料コーナーにマンガがあったので、ついつい読んでしまいました。面白いのはなかったけど。
 その最中に、珍しく携帯に電話がかかってきました。シャープエンジニアリング会津からでした。
「ザウルス、修理が終わりましたが、どちらの営業所にお送りしましょうか」
「あ、じゃあ青森にお願いします。いつごろになりますか」
「今日発送しますから、明日の午後には着くと思います」
「よろしく」
 
む、胸にカオが…!
む、胸にカオが…!

 かなり強い西風を受けながら、田んぼの中を北上。ところどころの墓地に、白粉で真っ白く塗られた不気味な石仏があるのを発見。中には首がもげているのに、胸に無理やり顔を描かれたお地蔵さんもあって奇怪さ倍増。
 
 また、ところどころの神社には竜の形をしたものが置かれていました。
なんじゃこりゃ、と思いつつ写真も撮らずに通り過ぎてしまいましたが、あとで知ったところによると、これは虫送りの蛇なのだそうです。虫送りと称しながら蛇を作り、その蛇に角があるというのも興味深い。
 
 夕方暗くなってからガソリンスタンドに寄ると、スタンドのおばちゃんが
「これからどこに泊まるの」
「テントですから適当に」
「今夜も冷えるよ。頑張ってねえ」
と、飴玉を一掴みくれました。
 今夜のねぐらは車力村の「しゃりき温泉」の向かいにある松林の東屋。
 晩飯は何食ったっけな。ほうれん草が残っていたから何かに使ったと思うんだけど。
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10月30日(水)曇ときどき雨 寒すぎ龍飛岬

 うーん、かなり冷えた。眠れないほどではありませんでしたが。
朝飯はチャルメラ。
 
 テントを畳んで出発したのは11時近くだったかな。
 帽子が行方不明になってしまいました。帽子がないと、レインウエアのフードを被ったとき、目の前にずり落ちて来て煩わしいのです。
 しばらくは手でフードを押し上げながら走っていましたが、ふとフードの頭頂部にマジックテープの付いた小さなタブ(?)のようなものがついていることを思い出しました。試しにそれを調節してみると、うまい具合にフードが引っ張られて問題が解消したではありませんか。
 ついでに、これまで存在を無視していた襟元のボタンをはめてみると、フードの形がしっかりと固定されて、襟元から冷たい空気が入るのを防ぐことができることを発見しました。
 西中島君からもらったこのレインウエアは、高いやつだけにいろんなところにボタンやマジックテープがついていて、それらの存在意義をよく理解しないまま着ているぼくなのでした。ケガの功名だ。
 
 田舎くさ〜い車力町の家並を抜け、十三湖大橋を渡りました。西風が強烈で、鼻からはもちろん、口で息をするのも苦しいくらいでした。
 少々上り下りのある海沿いを走ります。暗い空から時折冷たい雨が降って来ます。海はうねって白く泡立ち、いかにも日本海という感じです。
 小泊村のマリントピア小泊とかいう施設のトイレで、柿ピーをかじって昼飯。風が寒いので、公衆トイレとかバス停の待合所など、囲まれた場所でないと休むこともできません。
 その道の駅を過ぎたあたりから、道はしんどい上り坂になりました。くねくね曲がりながら、どこまでも坂が続きます。竜飛岬って、こんな山の中にあるのか?
 上り坂なので、手足は冷たくても胴体は汗びっしょりです。
 強い西風に乗って、黒い雨雲がどんどん頭上を通過していきます。時々雲に切れ間があって、そこから光の筋が沖の海上を眩しく照らしていたりします。
 3時過ぎ、つづら折りのヘアピンカーブを上り切ってようやく峠の眺望台にたどり着きました。
 トイレに籠って汗に濡れた服をバタバタさせたあと、展望台に登ってみました。行く手のはるか下の方にいくつもの発電用風車が見え、その先に白い灯台が小さく見えました。なるほど、あれが竜飛岬か。こんな高いところまで登らないと岬に行けないなんて、なんか嫌がらせじみてるな。
 
 風がつべたいのでさっさと展望台を降り、自転車に戻って一気に岬目指して坂を下りました。
 岬には道の駅があり、旅館や土産屋などもいくつか立っていました。
 歩道を登って灯台に行ってみると、ここも風が強い。
 観光客も、ぼくのほかには夫婦連れが一組いただけでした。とりあえず写真を撮り、さっさと引き上げました。
「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと〜」
と歌にもありますが、本州最北端は下北半島の大間崎なわけで、いずれそっちにも行かなければなりません。
 
 広い駐車場の向こうに土産物屋の明かりが灯っていたので、蛾のように誘われて行ってみました。
 店の関係者たちは奥のストーブを囲んで肩寄せあっており、おばさんが
「風が強くて寒いでしょう。どっからきたの」
と言いながら干しホタテとイカゲソの切れ端をぼくの手のひらに乗せてくれました。
「長野県です。ここっていつもこんなに風が強いんですか」
「日本でも一番風が強いところだからねえ。風のない日の方が少ないよ。どう、晩酌のおつまみになにか買ってかない」
「どーもお邪魔しました」
 
夕暮れの階段国道
夕暮れの階段国道

 もう薄暗くなって来たので、今夜は岬で寝ることにし、寝場所を物色するつもりで下の港へ続く階段を降りてみると、その階段には「階段国道339号」の標識が出ていました。ははあ、これが『珍日本紀行』にも出ていた階段国道かと、合点しました。
 しかし、なんでこんな変哲の無い階段を国道に指定せねばならんのでしょう。途中でぶつ切れてる国道なんて日本中どこにでもあるのに。客寄せ?
 階段の途中に集会所があり、そこのひさしが大きくて雨風がしのげそうだったので今夜はここに寝ることにしました。
 ただ、米や食材が乏しかったので、珍しく外食することにして、近くの民宿兼食堂に入りました。客はおらず畳敷きの客席は座布団が積み重ねられていました。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか」
「食事できます?」
「大丈夫ですよ」
 壁のメニューを見上げると、定食物は1,500円を優に越えているものばかりだったので、700円の「アラメラーメン」を注文しました。
 店のおばさんは、気を利かして半ライスをサービスしてくれました。朝炊いて長く保温していたものらしく、少しにおいがついていましたが、ありがたかったです。
 万一2,000円のウニ丼を注文したら、このごはんの上にウニが載ってくるのでしょうか。そんなものをぼくが頼むはずはないので関係ないのですが、ちょっと心配になりました。
 アラメラーメンは、具として糸昆布が載っているものでした。昆布のぬるぬるがスープに溶けているので、麺をすすると「じゅぽ、じゅぽぽぽ」と品のない音がしました。
汁も飲み干してお金を払うと、おばさんが
「今夜はどちらでお泊まり?」
「どっかそのへんでテント張らせてもらおうかなと思ってるんですけど。休憩所なんてありますかね」
「そこの公衆トイレなら暖房が入ってるけどねえ」
「うーん、トイレで寝るのはちょっと。どーもごちそうさま」
「寒いからねえ、カイロ抱いて寝なさいよ」
「はーい」
外に出ると、あられが降っていました。結局先ほど見つけた集会所にテントを張り、ありったけの着替えを重ね着してシュラフにもぐりこみました。
 ここから青森市まで約80qあるらしいのですが、はたして明日じゅうに着けるでしょうか。
 そろそろシュラフを重ね着しないと朝方の寒さに対してはきつくなりつつあります。
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10月31日(木)晴 待望の救援物資

 ゆうべは、龍飛岬の階段国道わきの集会所の軒下にテントを張りました。
 年間平均風速が10m/秒を超えるという龍飛岬だけあって、近くの風速計のプロペラがビュルルルンと高速回転し、時折テントが煽られましたが、直接の風ではなかったので無事に朝を迎えました。
 真夜中に寒さで目が覚め、何度か寝返りを打ちましたが、なんとか寝れました。
 
 朝飯は、ごはんにサバ缶に大根干のみそ汁。
 テントを畳んで階段国道を上り、津軽海峡冬景色の碑に寄りました。
 碑の建つ場所からは、山に雪がかぶった北海道が良く見えます。碑に赤いボタンがついていたので押してみると、大音量で「津軽海峡冬景色」が流れました。歌は、龍飛岬が登場する二番だけでした。
「朝っぱらから鳴らすなよなー」
と、ふもとの漁村のみなさんにご迷惑だったかもしれません。
 トイレで洗顔を済ませ、青森方面へ走ります。雲は多めですが、時々陽差しもあります。陽の出ているときと隠れているときとでは温度差があるので、服を脱いだり着たりする判断が難しいです。
 
義経が祈願した厩石
義経が祈願した厩石

 三厩村(みんまやむら)では、義経寺(ぎけいじ)にお参りしました。
 源義経は平泉で死なず、ここから北海道に渡ったのだそうです。津軽海峡が荒れて渡れないので、義経が大岩のうえで祈願すると、神様が三頭の竜馬をプレゼントしてくれたのでそれに乗って義経は津軽海峡を越えたのだそうです。
 
 鼻水をすすりながら走ります。
 蟹田町の手前の峠道では、道路清掃のおっさんたちがどぶの縁に腰掛けて、ヒイコラ漕いでくるぼくを全員そろって「ジットリ」と見つめているのが気持ち悪かったです。
 おっさんたちにしてみれば、一休みしてる最中に、今時季節外れな旅人がやってくるのが興味深かっただけなのでしょうが、
 道路に直に座り込んだ集団から、じっと見上げられるというのは不気味なものです。
「おう、がんばるな」
と声をかけてきたおっさんもいましたが、無表情のまま会釈を返しておきました。
 蟹田町のスーパーで食パンと白身魚フライとメンチカツとドーナツを買い、バス停の中で食べました。揚げ物を食パンに挟み、マヨネーズを絞って食うのですから、カロリーはバッチリです。
 
 雨に降られることもなく、むつ湾沿いの平坦な道をひた走って、午後3時頃に青森市に入りました。
 コンビニでロードマップを立ち読みして、まず向かったのは青森中央郵便局。
 追加シュラフやタイツなど、冬用の装備を局留めで送ってくれるよう実家に頼んであったのです。
パック酒「温情(おもいやり)」の段ボールに入った荷物を受け取り、その場で中身を確認。ぼくが頼んだもののほかに、使い捨てカイロ二枚、みかん二個、干し梅一包みなどが入っていました。
 
 荷物をどうにかリュックに詰め込み、段ボール箱はちぎってコンビニに捨て、次に向かったのはシャープエンジニアリングの青森営業所。
「ザウルスの修理を頼んだイマイですけど」
と言うと、受付の女性はすぐに品物を出してきてくれました。
「昨日いらっしゃるって聞いてましたけど。自転車で来てらっしゃるんですってね」
「昨日一昨日の雨がしんどくて、距離が進まなかったんですよ」
受付のおばさん(?)は17,745円の領収書を切りながら、
「修理って高いですねえ。メイン基盤が8,300円、技術料も6,300円ですからねえ」
と、他人事みたいに同情してくれました。
「シャープさんにはなるべく丈夫な製品を作ってもらいたいと思います」
せいぜいそんなことを言って、営業所を後にしました。
 
 青森と言えば三内丸山遺跡。公園になっているらしいので今夜はそこに泊まろうと、ユニバース(スーパー)で買い物をしてから国道7号を走りました。
 道が混んでいて、渋滞の最後尾でマイクロバスがバンに追突する瞬間を目撃してしまいました。
「あらー、たいへん」
と思いましたが、別に怪我人が出るほどの事故でなし、おいらは関係ないやと、事故現場をすういとすり抜けてその場を走り去ってしまいました。薄情かな。べつにいいよな。
 
 三内丸山遺跡のまわりは、なにやら建設工事の真っ最中でした。どうやらでっかい展示館を建設中で、大きな遺跡公園に仕立て上げようとしている最中のようでした。
 駐車場にトイレがあることを確認し、目立たないすみっこにテントを建てて、トイレに水汲みにいってみると、カギがかかっていました。夜間は閉鎖されてしまうようなのです。ケチだなあ。
 そのうえテントが警備のおじさんに見つかってしまいました。おじさんはライトでぼくの顔面を無遠慮に照らしながら、
「何してるんですか?」
「いやあ、今晩ここでテント張らせてもらおうと思って」
「だめですよ。禁止になってますから」
「近くにテント張ってもいいようなとこありません?」
「ありませんね。撤収してください」
くそう、沖縄の万博記念公園の警備員さんだって、別の場所紹介してくれたぞ。
 青森人はせちがらいなあ、でもこれは警備員さん個々の違いで、県民性としてくくってはいかんのだろうなあ、いずれにせよ悪いのはぼくなんだから仕方ないや、などとクドクド思いながら、素直にテントを畳んで再びねぐら探し。
 近くに広い公園があって東屋もあったのですが、ちょっと見通しが良すぎてどうもよくない。
 いろいろ思案した結果、池のほとりの護岸にテントを建てました。背の高い葦が生えていて、目立ちにくいのが気に入ったのです。
 晩のおかずは、キャベツとニンジンとトリモモ肉のスープ煮。
 酒は、津軽じょっぱりとかいう地酒。700mlですが、3ん三日で空になるでしょう。
 空が晴ていて星も出ているので、今夜は放射冷却な気配。さっそく今日受け取った冬用衣類を厚着して、二つ重ねのシュラフにもぐりこみました。
 長袖シャツ三枚、その上にカジュアルシャツ、そのうえにトレーナー、そのうえにインナー付のジャンパー。
 下半身はタイツにスエットパンツ、ジーンズ。靴下二枚重ね。
 寝具はシュラフ2枚にシュラフカバー。
 敷物は、グラウンドシートに銀マット、加えて秋田で買ったエアマット。
 どうじゃ、これくらいくるまってれば多少の寒さは大丈夫だろ、と意気揚々です。
 小便するとき、ノズルを掘り出すのに一苦労ですが。
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11月1日(金)雨 一応、三内丸山遺跡

 ゆうべテントを建て終わってから、今日の午前中の降水確率が80%だというのを知りました。
設営地の背後が土手になっており、雨の量が多ければ雨水が流れてきてテントの床が水浸しになる危険性があります。
 幸い、朝起きるまで雨は降りませんでした。テントの外を見ると、昨夜は星が出ていたのに、すっかり厚い雲に覆われています。
 チャルメラ二袋を食って荷造りしている最中に、とうとう降りだしました。コッヘルやストーブを掃除するのに時間がかかるうえに、厚着していた服を脱いで畳まなければならないので、寒季はますます出発が遅くなるのです。
 びしょ濡れのテントを畳んで自転車のハンドルにくくりつけ、三内丸山遺跡に行きました。
 昨夜閉まっていたトイレが開いていたので、洗顔。洗面台には、台の手前にセンサーが付いていて、洗面台を横切るだけで水が出ました。
で、手を洗おうと差し出すとちっとも水が出なくなったりして、
「TOTOはなんでこんな使えん物を作ったんだろう」
と首を傾げてしまいました。
 そもそも、便器の洗浄水を自動にしなければならん理由はどこにあるんでしょうね。
ボタン押したり蛇口ひねったりでいいじゃないですか。とくに手を洗う水は、自動だと不必要にじゃあじゃあ出ることがあって、もったいないと思うのですが。
 ユニバーサルデザインとやらで、手のない人でも手を洗えるようにしようという心遣いなのでしょうか。
 そのうち自動ズボン下ろし機が登場するに違いない。
 
 三内丸山遺跡の展示館の玄関前では、地元テレビ局が関係者にインタビュー撮影をしていて邪魔くさかったです。遺跡の公園整備の工事中、埋め戻しておいた縄文時代のお墓を業者がぶっ壊しちゃったのだそうで、そのことについてのインタビューのようでした。
 展示館では、縄文語を聞けるコーナーや、縄文服やイヤリングや髪飾りを着けて遊ぶコーナーがありました。
 縄文語コーナーでの説明によれは、鳥は「ドゥリ」、「私」は「アー」というそうです。
よく一人でこんなことできるなあ、おれって
縄文ファッション

 縄文ファッションコーナーでは、縄文服を着て貝の腕輪つけて、案内所で暇そうにしていた係のおねえさんに頼んで写真に撮ってもらいました。上半身は縄文服でも、下半身は黄色いレインウエアなので全く様になりませんでしたが。
 ついでにそのおねえさんに、
「縄文語なんて、どうやって分かったんですか?」
と訊いてみたら、
「比較言語学の立場から、南方系と北方系の言語、そして現在の地元方言などをもとに推測したものです」
と立て板に水のごとき回答が返ってきました。
 
巨大掘立建物内部
巨大掘立建物内部

 雨の中、例のでっかい栗の木の六本柱や、でっかい掘立建物などを見物しました。
 高さが地上六階建のビルに相当するこの六本柱がどんな構造物だったのかは諸説あるわけですが、ぼくなどはこれは出雲大社だったのではないかと想像してしまいます。
 天高くそびえる柱の上に神を祭る信仰が縄文時代からあって、それが出雲大社の高層建築に引き継がれたのだ、なんて格好いいな。
 休憩所で久しぶりの日記を打って、食パンにピーナツクリームつけて昼飯にして、次は青森駅に向かいました。
 県庁所在地の駅の割に、青森駅はこぢんまりした駅でした。
 みどりの窓口で時刻表を調べ、青森−東京間の夜行バスがあったのでそれのチケットを買いました。7日夜青森発と、10日夜東京発です。
 9日にぼくの高校時代の友人、樋口君(本名)の結婚式があるので飯田に戻らなければならないのです。
 ついでに北海道の電車も少し調べてみました。せっかく青森まで来たのだから、ちょっと足を延ばして北海道の電車旅もいいかも、と思ったのです。
 しかし、ダイヤを見ているうちに面倒臭くなったので、やっぱり北海道行きはやめにしました。
 外に出ると早くも薄暗くなっていました。観光案内所でマップなどを入手し、下北半島目指して走りだします。
 通りがかりの旅のガイジンがぼくにカメラを向けるので、思わず笑顔でピースしてしまいました。
 
 浅虫温泉あたりまで行こうかなと思ったのですが、天気も良くないし早めにねぐらを見つけようと、合浦公園とかいう公園に行きました。寂れた屋外ステージがあったので、その軒下にテント設営。
 夕食の食材を買いそびれたので、ありあわせのキャベツとニンジン、魚肉ソーセージで野菜炒めを作っておかずとしました。
 久しぶりにザウルスで音楽を聴きながら寝ました。
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11月2日(土)曇ときどき雨 神の椅子と自転車人形

 朝方トイレに起きたら、みぞれぽっい雪が降っていました。
ラジオによれば、今朝の青森の最低気温は1.6℃、初雪だったそうです。日に日に気温が下がるので、自分がどこまで耐えられるかわくわくします。
 朝飯はごはんとみそ汁とふりかけと梅干し。
 近くのトイレで歯を磨きます。鏡の中の自分を見て、長旅のせいで老けたかなあ、などと思います。昼間帽子をかぶりっぱなしなので、生え際が後退してきたような。ゾッ。
「神々の椅子」
「神々の椅子」


 10時ころ公園を出ました。強い西風がしばらくは背中を押してくれます。海岸では、波がざぱ〜んと砕けて飛沫が堤防を越えてぼくのところまでとんできます。
 浅虫温泉には、道端に5mはありそうなでっかい椅子があったり(「神々の椅子」と題された芸術作品らしい)、野辺地町では自転車屋の前に、自転車の部品を組み合わせて作った滑稽なモニュメントがあったりして面白かったですが、印象的だったのはまあそれくらいです。
 昼飯は途中のマックスバリュで食パンと白身魚フライを買い、近くのバス停で挟み食い。あいかわらずです。
 途中、三割くらい雪が混じってそうな細い雨が横殴りに降りました。
 野辺地を過ぎると、「恐山霊場」の看板も出て来て、いよいよ下北半島です。進行方向が北向きになるので、強い横風に煽られてふらつきながら走ります。
こういうセンスは好きだ。
自転車人形の群

 夕方になってもスーパーなどないので、コンビニでレトルトカレーとカップラーメンを買い、ねぐらは横浜町の道の駅のトイレの軒下。近くの壁にコンセントがあるので、そこからコードをテントの中に引き入れて充電し放題。
 ラジオを聴いていると、便所客が自動ドアを開けるたびに「ピピピピピ」と雑音が入ります。
 
 恐山まであと40km弱。明日あさってにかけて寒気はますます強まるとか。恐山は雪積もってるのかなあ。いきなり道路閉鎖なんてやだぞ。
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11月3日(土)曇 ショック!恐山閉山

 朝飯はカップラーメン。
今日はむつ市まで行くスケジュールなので、急ぐ必要がなく、テントの中で日記を打ったり、テントの修復をしたりで、道の駅を出たのはお昼頃でした。
 
 今日も風が強く、煽られて時々車道側にふらつきます。風に向かって自転車を傾けながら走っていると、急に風が止んでカクンとなったりします。疲れる。
 バス停で柿ピーのミニパックを三袋ボリボリ食い、2時過ぎころにむつ市に入りました。「観光物産館まさかりプラザ」というのに立ち寄って情報収集。施設名は下北半島の形に由来するようです。
下北半島〜
命あふれる大地を〜
歴史輝くふるさと〜
海に夕日にあしたに〜
しあわせ伝えてください〜
とかなんとか、下北半島の歌がエンドレスで流れていました。曲の感じは、鹿児島のムー大陸博物館で聴いた新興宗教のテーマソングに似ていました。
 いくつかのパンフレットを漁って読んでみました。
 恐山には「恐山温泉」があって、無料らしい。こいつはラッキー、と思っていたら、「冬期閉山10月31日」ともあるではありませんか。
 慌てて観光協会の事務所の奥の机にいたおっさんに
「恐山って、もう登れないんですか?」
と訊くと、おっさんは椅子にふんぞりかえったまま
「そうですよ。入口までは行けるかも知れませんけどねえ」
 そのうえ、初めて知ったんですが恐山への入山は有料なんですねえ。恐山と言えば、日本を代表する山中他界の場所、死者が住むという山です。亡者も山へ行くのに入場料取られたり、冬は山に入れなかったりするんでしょうか。
仏教系の霊場はどうしてこう金ばっかとるんだあ。神道系の聖地を見習ええ!
 
 恐山参りは今回の旅のメインの一つだっただけに、がっかりして「まさかりプラザ」を後にしました。
 ああ、恐山に登れないんなら、いったいぼくは何のために寒さこらえてこんな本州最果ての地まできたんだろう。
 10月末日閉山って知ってたら、もっとペース上げて走ったのに。
 ああ、今夜はなんか美味しいもん食って、酒くらって、ふて寝しよ。
 
 まだ日は明るいので、寝場所選びのために市内をぐるりと回りました。こんなところに飯田発祥の本屋チェーン、平安堂があるのが少しうれしかったです。
 ガソリンスタンドでストーブの燃料を補給したら、愛想のいい店員さんに
「ご苦労様です」
と言われました。少し複雑な心境でした。
 マエダ本店とかいうデパートで買い物。下北名物というイカずしと、活ホタテと青ツブという巻き貝を買いました。
 
 今夜のねぐらは、先程のまさかりプラザ前のイベントドームの陰。
 スケートボードを稽古している子供たちがガラガラとうるさい音をたてていますが、こんな寒い夜によく頑張るねえ。お疲れさま。
 
 ホタテと青ツブを網で焼き、イカずしをおかずにごはんとみそ汁。ホタテを焼いたら身が上の殻について浮き上がってちゅうぶらりんになってしまったので、一旦汁を青ツブの方に移してからひっくりかえし、再び汁をホタテに戻すという作業を行わなければなりませんでした。
 イカずしは、イカの胴にキャベツやニンジンを詰めて漬けたもので、浅漬けに似てヘルシーな感じでおいしかったです。
 
 あした以降は恐山を目指して行けるところまで行き、ぐるりと海岸線を一周して、6日にはむつ市に住む大学時代の先輩リンゴさんのところにおしかける予定です。
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11月4日(月)曇ときどき雪 河童の湯から出る勇気

 朝日が当たって久しぶりに眩しい朝を迎えましたが、すぐに雲に覆われてしまいました。
 朝飯はチャルメラ。日課ですな。
 イベントステージに遊びに来た子供たちが、
「あ、テントがある!」
「ちっちゃいテントだ」
「なんでテントがあるんだ?」
などと騒いでいましたが、テントの中のぼくは我関せず。
 
 広場の水道で、自転車のチェーン油で汚れたズボンの裾を洗い、恐山目指して出発。
 ゴミを捨てそびれたので、ホタテの殻やら酒の空き瓶やらで一杯になったビニール袋をハンドルにぶら下げたまま走ります。
 むつ市から恐山に続く道には、「をそれ山」と刻まれた丁石が点々と続いています。
 さして上ったとも思わないのに、ぽつぽつ降っていた雨がちらほらと雪に変わり、路肩の斜面にはまだら模様に雪が積もっています。この季節、わずかな標高の差で雨と雪が分かれてしまうようです。
 途中鉄のゲートがありましたから、あと一週間程もすればこれが閉じて、道そのものが閉鎖になるのでしょう。
 
なかなか不気味
ジャケット地蔵

 恐山が近づくにつれ、石の地蔵が路傍にたたずむようになりました。スカーフみたいなのを被せられているのが多いですが、なかには故人の遺品とおぼしきジャケットをすっぽり被せられたお地蔵さんもあって、生々しさが雰囲気を盛り上げています。
 参拝客が身を清め喉を潤し涼をとるという「恐山の冷水」が湧いていましたが、このくそ寒い天気で冷水なぞ嬉しくはありません。それでも一口飲みましたが。
 
宇曽利山湖のほとりで
宇曽利山湖のほとりで

 恐山は、宇曽利山湖というカルデラ湖を中心にいくつかの峰が連なっている山地の総称なのだそうです。
 外輪の坂をびゅううと下ると、湖が見えて来ました。湖の向こうには釜臥山がそびえていて、なかなかいい景色です。紅葉も残っていて、日差しがあれば鮮やかなのでしょうが、あいにくの曇天で、写真に撮っても薄黒く写るだけです。
 粉雪が舞い、強風が吹きすさぶ風景は、それなりに恐山に似つかわしくてよい。
 ぼろっちい茶屋などもありますが、とっくに店じまいしています。道路わきには黄色い河原があって、硫黄がほのかに香っています。
 湖岸には、観光客なのか世をはかなんだ人なのか、車が一台ぽつんと停まっています。
 あの世(恐山)とこの世(下界)をわけるという「三途の川」にかかる太鼓橋を眺めた後、恐山寺へ。案の定、霊場の門はぴったりと閉ざされておりました。
 人々の魂が宿る霊地は、いってみれば日本人共通の財産。それを入場料をとり、冬だからと言って立入禁止にするとはなんたることよ。
 恐山を開いたのは天台宗の慈覚大師円仁だそうですが、天台宗って、真言宗と比べるとどこかしら閉鎖的な印象を受けます。比叡山も、自動車専用の有料道路通らなければ入れないし。境内入るのにやっぱり金取られるし。
 比叡山は学問道場なのですから、よそ者から金を取るのはまだ仕方ないこととしても、恐山はそれこそ庶民の信仰でもってる山じゃないですか。ブーブー。
 
 閉山後なら誰もいないだろう、うまくすれば塀などを越えて侵入できるかもしれない、などと期待をしていたのですが、実際には工事車両がたくさん停まっていて、門の向こう側でなにやらさかんに工事しておりました。
 宿坊「ラフォーレ恐山」でも新築オープンさせるのでしょうか。これでは不法侵入もできないなあ。
 柵越しに霊場の中を覗いたり、でっかい六地蔵の前で記念写真を撮ったり。
 ふうん、ここが「あの世」なのねえ。ここら一帯の人々は、死ぬと魂がここにやってくると信じてるのかあ。
 この風景が日本人のあの世観なのかあ。ぼく自身は、こんな殺風景な山の中で死後の生活を送りたくないなあ。
 
 霊場内には無間地獄、血の池地獄など136もの地獄が散在しているそうですが、亡者どもはそれらを巡って楽しんでいるのでしょうか。地獄内には温泉もあるそうですから、それに浸かって
「いや〜極楽ゴクラク」
などと年寄りくさいことを言っているのでしょうか。
 これまで、徳島の正観寺や大分の「地獄極楽」など、いくつかの「あの世系スポット」を見て来ましたが、それらのどれもが、地獄のイメージはくっきりと強烈なのに、極楽のイメージはなぜか薄っぺらなんですよね。
 極楽と言えば、とりあえずお花畑があったり、とりあえず阿弥陀様がいたり、とりあえず天女がはべっていたりするだけで。
 地獄重視のあの世観は、仏教の影響なのか、それとも日本人の魂がもともとマゾ志向なのか。
 往生要集は読んだことがありませんが、そこに極楽はいったいどのように描かれているのでしょう。
 地獄がすべての苦しみのオンパレードなら、その裏返しである極楽はすべての快楽の集大成なわけで。食欲も性欲も物欲も、すべて満たされて求める必要もない極楽は、よっぽど退屈な場所なんだろう、と日本人は直感的に悟っているのでしょうか。
 きっと本当の極楽なら、「退屈だ」なんて不満を抱くこともないのでしょう。好奇心すらつねに満たされる状態。
 それじゃ脳みそ完全にマヒ状態だ。無の世界だ。死んでんだからあたりまえなんだけど。
 
 すでに閉鎖された休憩所の軒下でロールパンと板チョコの昼飯を済ませてから、20kmほど離れた薬研温泉へ。リンゴ先輩からの情報提供で、奥薬研温泉に「カッパの湯」という無料の温泉があるということを教えてもらったのです。
 カッパの湯は谷川のほとりに作られた混浴露天風呂でした。橋から丸見えなので、女性にはちょっと厳しそうです。
 昔、慈覚大師が恐山を開山して山を下る途中、足を踏み外して怪我をしたのだそうな。
 すると大きなフキの葉っぱをかぶったカッパが現れて大師を運び、この温泉につれて来たのだそうな。温泉に浸かって大師の怪我はすっかり癒え、以来この温泉はカッパの湯と名付けられたそうな。
 湯船の岩の上には河童の像が据え付けられていて、キュウリが二本お供えされていました。
 先客はおっさんが一人いましたが、露天風呂のすみっこでじっと動かなかったので別に声をかけることもしませんでした。
 かなりぬるめのお湯で、いくら浸かっていてものぼせない反面、寒くて出られなくなるのが欠点です。
 ちょろちょろと流れ込んでくる源泉を捜し当て、その近くで湯の中に漂っていると、やがておじさん二人と小さな男の子と女の子がやってきました。おじさん二人は顔がそっくりだったので、たぶん兄弟でしょう。男の子と女の子はどちらかの子供なのでしょう。
 女の子は風呂に入りませんでしたが、おじさん二人と男の子は風呂に入ってきました。
「うほー、河童だカッパだ」
といいながら、おじさんAは風呂の中を泳いでいます。歳のわりにおちゃめなおじさんです。
 男の子はお湯を怖がって泣き叫んでいますが、おじさんは彼を背中にのせて
「なんだあ、なんにも怖くないぞう。息止めろよ、潜るぞう」
「ぎゃ〜、やだあああ」
「〇〇ちゃん、大丈夫だよ、あたしだってこの前カッパの頭撫でたもん」
「ぎゃ〜、やめてえええ」
うるさいのなんの。
 
 彼らが去った後は、露天風呂にぼく一人残りました。ぱらぱらとあられが降ってきました。
早く出ないと、明るいうちに山を下れなくなる、と思いながらも、なかなか風呂から上がる勇気が出ません。
 いっそ明日の朝まで風呂に浸かっていようか、などとも一瞬本気で考えました。
 なんやかやで風呂から上がったのは4時半。急いで服を着て自転車にまたがったのですが、じきにあたりは真っ暗に。
 大畑町の市街地へ下る道の途中に、「やすらぎの駐車帯」というのがあり、公衆トイレもついていたので今夜はここにテントを張ることにしました。
 タイルやアスファルトの上だと冷たいので、芝生の上にテント設営。
 夜間の降水確率は高そうですが、どうせこの標高なら雪やあられになるでしょうから、テントがびしょびしょになることはないでしょう。
 晩飯は、サバ缶とみそ汁。
 明後日はむつ市のリンゴさんちに泊めてもらうことになっているので、明日と明後日で恐山山地を一周しなければなりません。
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11月5日(火)晴のち曇ときどき雨 ようやく本州最北端

 夜、ぱらぱらとあられの降る音が聞こえていました。
 朝、外に出て見ると、草には霜が降りて、テントにはバリバリに氷がこびりついていました。
 標高が少し高いだけで、こんなに気温が違うんですねえ。そのうちテントの中の水も凍るようになるのでしょうか。おーこわ。
 
 朝飯は、やっぱりラーメン。晴れてきたので、テントの中も暖まり、気分がぽわ〜んとしてきて「二度寝しよーかなー」とシュラフの中でまどろんでいると、なにやら外でマンホールの蓋を開けて数人のおじさんたちが作業している様子。
 テント邪魔かな?と思って外をうかがうと、汲み取り屋さんがなにやら悪戦苦闘しているところでした。
 少しくさいので、とっとと出発することにしました。
 
 天気はからりと晴れて、きれいな青空です。逆光で見る紅葉がきれいです。
 でも空気は冷たいので、手袋の上からレジ袋をかぶせてハンドルを握る「レジハンド戦法」は欠かせません。
 この戦法の欠点は、見た目が格好悪いことと。バイクツーリングの人達がぼくを追い抜きざまあいさつしてくれたのですが、ビニール袋を被せた手を挙げてあいさつを返すのはすごく恥ずかしかったです。
 
 ぼくの「ふれあい好き」を承知しているリンゴさんが、
「大畑町には『ふれあいかん』って建物があるよ」
と情報提供してくれたので、食料仕入れのスーパーを探すついでに町内を少しさまよってみました。
 結果的にはどちらも見つからず、コンビニでパンと牛乳を買っただけでした。コンビニで昨日からのゴミを捨てられたのは良かったけど。
 ホタテと青ツブの貝殻はゴミ箱に捨てられなかったので、後で海にでも投げてやろう。
大間崎への道
大間崎への道

 
 海岸沿いに、本州最北端の大間崎を目指します。大畑町から大間崎へは30km、その先の仏ケ浦へは80km。
 明日の夕方にむつ市に着くためには、せめて今夜中に仏ケ浦までは行っておきたいところです。仏ケ浦は海岸に奇岩が立ち並ぶ観光地で、下北半島の中では有名な名所の一つのようなので、公衆トイレや東屋などもあるでしょう。
 
 冬型の気圧配置ゆえに北西風が強く、完全に向かい風です。
 岬を回れば追い風になってくれるに違いない、とそればかりを希望に走ります。
 初めは暖かい日差しがあって、北海道の山並もきれいに眺められたのですが、西の方からもくもくと雲が迫ってきて、やがて肌寒い曇り空になってしまいました。
 大間崎の手前でぽつぽつと雨が降りだし、2時半ころに岬に着いたとたんに雨脚が強くなってきました。
 ツアー客の合間をぬって本州最北端の碑の前で記念撮影したら、三脚の足がへし折れました。三脚もここまで来てついに力尽きたか、と感慨もひとしおです。
 
 今回の旅はこれが北限。あとは飯田まで南下するだけなので、これからの行程はいわば帰路です。
 仏ケ浦まではまだ40km以上あります。のんびりしていられないので、レインウエアを着込んですぐに走りだします。
 下北半島はよくマサカリの形にたとえられますが、そのたとえでいくと大間崎から仏ケ浦、北海岬にかけてはマサカリの刃の部分にあたります。
 地図で見る限り南に向かって走っているので、北西風なら少しは追い風になるかと思ったら、あいかわらず向かい風です。なんでだー。
 大畑から大間崎までが平坦な道だったので、仏ケ浦への道も平らだろうと思い込んでいましたが、裏切られました。
 大間町も多少上り下りがあったのですが、佐井村に入ったとたんに海岸に崖が連なり、峠越えが続くハードな道になってしまいました。
 マサカリというより、これではノコギリです。
 道路標識によれば、仏ケ浦からむつ市まで90km近くある様子。この先ずっとこんな道が続くんじゃあ、明日の夕方までにむつ市に着くのはかなりしんどいぞ。
 焦りながら走るぼくに、交通整理のおばさんが
「気をつけてねえー!」
と声をかけてくれました。
 
 案の定、仏ケ浦のずっと手前で日がとっぷり暮れてしまいました。
 手持ちのライトが故障しているので、真っ暗な道をおそるおそる走ります。交通量が少ないのが幸いな反面、寂しい。
 道はますます峠が高くなり、人家も見えずますます寂しい限り。ペットボトルの水も残りわずか。仏ケ浦まで行けば飲料水も手に入るはずだと思うのですが、真っ暗なので看板や標識も読めません。
 どこだー、仏ケ浦ー。
 うめきながら高い峠を三つほど越え、ようやく下の方に漁村らしき明かりが見えました。心底ほっとしました。
 着いた場所は牛滝いう集落で、仏ケ浦の手前なのか、通り過ぎたのかもよくわかりません。どうにか公衆トイレを見つけ、その軒下にテントを張りました。風も雨もしのげてなかなかいい場所です。
 
 あしたはひさしぶりにあったかい部屋で寝られるぞー。リンゴさんは寿司をおごってくれるらしい。わくわく。
 むつ市まではおそらく80〜90kmはあるでしょう。明日は早起きして走らなければ。
 久しぶりに夜の7時過ぎまで走って、疲れて食欲が無かったので、ラーメン一袋だけ食って寝てしまいました。夜中に目が覚めて空腹に気づいたので、シュラフの中でスナックパンをもしゃもしゃ食いました。
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11月6日(水)晴 「あんたマゾでしょ」

 ゆうべは少し熱が出そうな予感もあったのですが、朝になると治っていました。
 食欲も戻っていたので、朝飯はレトルトカレーと、野菜スープ。スープは残り野菜を、ラーメンの残りスープで煮たという貧乏な代物です。
 
 テントを張った場所がトイレの出入口のすぐ近くなので、利用客が来る前にテントを畳もうと思っていたのですが、間に合わず、おっさんが二人ほどやってきました。
「どーも、お邪魔しとります」
と笑顔であいさつしてやりすごしておきました。おっさんの一人は
「ここは風強くて寒かったろう。あっちにもっと風のないいい場所があったのに」
と言ってくれましたが、夜中に着いたぼくにいろいろ場所を探している余裕があったはずもなく。
 
 出発したのは朝9時。これでも早い方です。
 朝のうちは晴れるというのがここ最近のパターンらしく、青空の下を元気良く走りだしました。といってもまた次の峠に向けて坂を上ることになるのですが。
 標識に、むつ市まで60kmと出ていました。振り返ると、仏ケ浦への標識が出ていました。夜道を必死に走っているうちに、とっくに仏ケ浦を通過していたのでした。
距離が稼げてうれしい反面、名所を見過ごして少しくやしい気分です。
 
 坂を上り切ると高原になっていて、台地に牧草地が広がっていました。
 海岸に向かう国道から逸れ、川内湖畔を走りました。
 路肩には雪が残っています。すでに除雪が行われた様子。平地に雪が積もるのも時間の問題だなー。
 谷川に沿って山を坂を下り、11時に川内町の海岸で国道338号に再び合流しました。むつ市まであと20km。昨日の焦りはどこへやら、この分なら時間的にも余裕ありまくりです。
 人けのない海水浴場のベンチで携帯メールをチェックしてみると、リンゴさんから
「マエダ百貨店四階の本屋で6時過ぎに」
とメールが届いていました。
 
 川内からむつ市までの道はなだらかで、昼過ぎにむつ市に入りました。
 大湊のスーパーマエダでヨーグルトと食パンとトンカツを買い、大湊駅の待合室で昼飯。その後市立図書館へ行って、待ち合わせの時刻まで本を読むことにしました。
恐山関係や、ナンシー関関係、菅江真澄関係など。
 そういや、ぼくはナンシー関の死因を知りません。消しゴムを喉に詰まらせたとか?
 
 ぼちぼち時間になったので、新しい靴下に履き替え、待ち合わせ場所に向かいました。
「よう」
「あ。どーも、お久しぶりです」
リンゴさんとは、去年の学園祭で会って以来、一年ぶりです。
「どう、むつ市は」
「うーん、なにはともあれ恐山に見下ろされてる街ってのは、すごいですよね」
「そんなもんかな。とりあえずアパートに荷物置いて、それから寿司食べにいこう」
「はーい」
リンゴさんちの玄関には、カタピー人形などと並んで、四国から送ったぼくの絵葉書が貼られておりました。ちょっとうれしかったです。
「今日はこのリビングで寝て。布団はかび臭いのしかないんだよね、悪い。こっちの部屋(寝室)は、絶対見せない」
「へいへい」
リンゴさんの車に乗せてもらって、近くの寿司屋に連れていってもらいました。
 回らぬ寿司屋に入ったのは、野田農さんの婚約祝いの席にもぐりこませてもらって以来です。
「うーん、ぼくは上あたりでいいです」
「せっかくなんだから高いのにしようよ。この『おまかせコース』にしよう」
「えー、一番高い奴じゃないですか。いいんですか?太っ腹だなあ。お酒は?」
「車だし、あしたがあるから飲まない。君はどんどんやって」
「申し訳ないです」
ぼくは生ビール、リンゴさんはお茶で乾杯しました。
「それにしても、夏に沖縄行って冬に青森来るなんて、あんたマゾでしょ。今年の春に最初の日記が来たとき、あらー、コイツなんで南に向かってるんだろうって思ったもん」
「3月だったんで、まだ北は寒いかと思ったんですよ。初日の夜に、あ、なーんだ全然寒くないやって気づいたんですけど、一旦南向いちゃうと引き返すのが嫌な性分で」
「旅して、何か見えたものある?」
「うう〜、それを訊かれると。何か悟りたくて旅に出た訳でもないですからねー」


寿司屋を出て、
「あのね、この先に『ふれあい通り』があるよ」
と、リンゴさんはぼくを案内してくれました。これほどぼくの「ふれあい」集めに気をかけてくれる人もそうはいません。デジカメ持ってきてなかったのが残念でした。
 ふれあい通りは田名部神社の正面参道で、バーやスナックが立ち並んでいる狭い路地でした。
 確かに目立たない「ふれあい通り」の看板が貼ってありましたが、こんなものに気が付くとは、リンゴさんもかなりの眼力の持ち主です。
 
「朝ごはんはどうします?何か材料あればぼく作りますよ」
「台所は使わせない。コンビニで買っていこう」
「はーい」
 アパートに戻り、お風呂に入らせてもらいました。何しろ半年髪を切っていないので、頭を洗ったら風呂場が髪の毛だらけになってしまいました。
 上がったあと、ちゃんと掃除しておきました。
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11月7日(木)晴 青いアンドロメダ

 やっぱり家の中で寝るってのはいい気持ちです。こういうありがたさを実感できるのも、野宿旅行の醍醐味のひとつでしょう。
 7時半起床。ぼくは今日、大湊線で青森まで行き、夜行バスに乗る予定となっています。
 自転車をリンゴさんの玄関前に置かせてもらい、駅前まで車で送ってもらいました。
「すいませんです。時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫、いつも遅刻の常習犯だから」
「ラジオ体操とか朝礼とかないんですか」
「ない。昼休みに『下北半島の歌』は流れるけど」
「帰りもお願いしちゃっていいですか。飯田土産買ってきますんで」
「りんごはいらないからね」
 
 下北駅で小一時間待って、上り電車に乗りました。一両編成で、けっこう混んでいました。二日にかけて走った距離を、あっと言う間に電車は走り抜けてしまいます。
 野辺地で乗り換え、青森駅に。
 まず、近くのビルの地下にある「新鮮市場」で土産物の下見。
 店頭には、いろんな魚が横たわっています。とくにタラコ、スジコが充実。フジツボも3匹1,500円で売っていました。
「これ、どうやって食うんですか?」
と店のおばさんに訊くと、
「そのまま蒸すか茹でるかしてね、その動いてるところを引っ張り出して、ワサビ醤油つけて食べるとうまいよ」
「ははあ」
飯田に着くのはあしたの昼だから、ナマモノはちょっと厳しいんだよなー。
 乾物は個人的に好みじゃ無いし、おいしそうなお菓子もないし。まあ、あとで考えよう。
 ということで、次に向かったのは棟方志功記念館。
 適当にそっち方面に行きそうなバスに乗って、地図を見ながら記念館に一番近そうなバス停で降りて歩きました。
 入場料は300円くらいだったかな。少数の作品をじっくりと見てもらいたい、という本人の意向があったそうで、展示室はそんなに大きくありませんでした。
 棟方志功といえば日本を代表する版画(本人に言わせれば板画)家です。
ただ、ぼくの場合美術を鑑賞する場合は、
「すごーいこまかーい」
「すごーい本物そっくりー」
「わーおもしろーい」
という価値観でしか見られないので、棟方作品のようにヘタウマ(って言っちゃいかんのか)な芸術は、実言うと良さをよく理解できません。
 確かに力強さは感じますけど。
 絵本の挿絵やインテリアとしては、いいかもしんないと思うけど。
 展示室の入口にあった「鑑賞の心構え」には、
「美術作品は右脳(だったっけ?)で味わいましょう。作品を通して作者のエネルギーが伝わって来るでしょう」
などと書いてありましたが。確かに力強い作品群だとは思うけど、それを「エネルギー」だと感じたり、「美」だと感じる感性はぼくにはないかもしんない。
 まあいいや。
 そんな自分を確認して外に出て、のんびり歩きながら駅前に戻りました。
 福岡のアレキサンドル君が
「青森駅前では丸海ラーメンを食べるべし。煮干しダシがユニークでおいしいよ」
と情報を提供してくれたので、電話帳で住所を調べて行ってみました。観光物産館アスパムの前にありました。
 丸海ラーメンは、派手な看板ものれんもないかわりに玄関に段ボールが積まれているという地味な店でしたが、店の外にまで煮干しのいい匂いが漂ってきていました。
 店のメニューも醤油ラーメン一品だけで、客に与えられた選択肢は普通盛(500円)か大盛(550円)か、ネギを入れるか入れないかだけでした。
 ぼくは大盛。スープをすすってみると、確かに煮干しのダシが効いています。ラーメンというよりかけソバのおつゆに近い味ですが、なかなか麺ともよくあっていると思いました。
 
 くちくなった腹をさすりながら、観光物産館アスパムを覗きにいきました。
 三角形のビルで、AOMORIのAをかたどっているそうです。
 マスコットは建物の形そのまんまに手足をつけただけの姿の「アスパム君」で、可愛らしい目とド三角な体が完全に不釣り合いでした。
 ここにも土産物コーナーがありましたが、どこにでもありそうな乾物とどこにでもありそうな菓子とどこにでもありそうな置物ばかりで、ぼくの興味はそそられませんでした。
 
 結局、午前に行った新鮮市場で「けの汁」缶詰二本と「いちご煮」缶詰一本、そして「串つぶ」三本を買いました。けの汁は野菜汁、いちご煮はウニを煮たやつ、串つぶはでっかいタニシみたいな巻き貝を串刺しにしたものです。串つぶの貝は、岩を這っている姿そのまんまで行儀よく串刺しになっているのですが、どうやったんでしょう。殻に引っ込む前に素早く突き刺せばこうなるのかなあ。
 
 夜行バスの出発は9時50分。それまでまだ暇なので、同じビルの7階にある市民図書館で読書。9時まで開館してるとは、サービスのいい図書館です。
 郷土関係の図書はそろそろ飽きたので、谷川俊太郎の詩なんぞを読んじゃったりしました。
なんのことやら、と思う作品も多いですが、時々今のぼく好みに合った詩があったりするもので。
ひとりぼっち
            谷川俊太郎
 
だれも知らない道を通って
だれも知らない野原にくれば
太陽だけがおれの友だち
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち
 
きみの忘れた地図をたどって
きみの忘れた港にくれば
アンドロメダが青く輝く
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち
 
みんな知ってる空を眺めて
みんな知ってる歌をうたう
だけどおれにはおれしかいない
そうだおれにはおれしかいない
おれはすてきなひとりぼっち
個人的にこういうの好き。自分で曲つけてくちずさもうかな。
 
「そろそろ閉館のお時間です」
と、館のお兄さんが耳元で囁くので、図書館を出ました。
 近くのコンビニでパンなどを買い、バスの待合室へ。ベンチにはバス待ちのおじさんやおばさんがごろごろ寝っ転がっていて、だるそうな空気が漂っていました。
 東京行きの夜行バスは3列の座席で、博多から名古屋に行ったバスとほぼ同じ仕様。
 出発してからほどなく消灯となりました。
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11月8日(金)晴 北の国からトンボ帰り

 東京八重洲口にバスが着いたのは朝7時。やっぱバスの座席で寝るってのは、首が安定しないので疲れますね。ぼくの場合よだれ垂れちゃうし。
 新宿発の高速バスで飯田に着いたのが午後1時。
 晩飯は、トンカツと刺し身、そしてワイン。
「ひさしぶりの一時帰国だねえ」
などと母は言っておりました。冗談なのか、本気で言い間違えたのか。
「上川路(母方の実家)のおじいちゃんがねえ、日記読んで『面白い』ってよ。『アキラはいろんな人に会ってるんだなあ』だって」
うーむ…。
 しかし、たまに戻るとうまいもんが食えていいですな。これで無職のまま家でゴロゴロしていたら風当たりが冷たいだろうけど。
 たまってる日記打たなきゃ、写真整理しなきゃ、靴やレインウエア洗わなきゃ、とやるべきことをいろいろ考えてはいたのですが、酒飲んだ後はコタツでうたた寝して、布団に入ってマンガ読んで寝てしまったのでした。

 9日、10日の日記は省略。
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11月11日(月)曇 北の国へトンボ帰り

 友人樋口君の結婚式も無事すみ、10日の夕方新宿行きの高速バスに乗りました。
 バスに乗る当日になって靴を洗いはじめたので、親に
「今頃何しとるんな。乾くわけないら」
と呆れられました。
 靴紐も結ばずにバスに飛び乗りました。相模湖のあたりで渋滞し、9時半東京発の青森行きバスに乗り遅れるのではないかとヒヤヒヤしましたが、なんとか間に合いました。
 夜行バスではぼくは後部座席の一番すみっこで、トイレやお茶くみに行くのにとてもめんどくさかったです。
 11日の朝、目が覚めてバスのカーテンを少し開けて外を見ると、バスはすでに青森市に近づいており、たんぼや屋根にはうっすらと雪が積もっておりました。
 ぼくが留守してるうちに積もるなんて、ずるいぞ。
 
 青森駅に着いたのは朝7時。バスターミナルの待合室のベンチの近くにコンセントがあったので、溜まっていた日記打ち。ほんとは自宅にいるときにすませておくつもりだったのですが。
 恐ろしいもので、数日間の日記を打ち終わった頃にはもうお昼になっていました。
 さーてどうするかな。月曜日なので県立郷土館も休みだし。そうだ、金木町に川倉地蔵堂とかいう怪しいスポットがあるらしいから、そこに行ってみるか。
 そう思って時刻表でスケジュールを立ててみたのですが、今から電車で金木町に行こうとすると、夕方までにむつ市に帰れないことがわかりました。つくづく計画性がないな、おれって。
 
 そういえば、沖縄を出てから絵葉書を一枚も描いてないな、と思い立ち、青函連絡船八甲田丸をスケッチすることにしました。
 船の近くの展望台へ上って描きました。久しぶりだったので、遠近感をつかむのに苦労しました。それにしても、連絡船とフェリーとは何が違うのでしょう。
 近くの岸壁でおじさんが二人、釣りをしていました。
 片方が獲物を釣り上げ、それを見せびらかそうともう片方に「おーい、おうい!」と何度も呼びかけるのですが、もう片方さんは全然気が付きません。
 業を煮やした片方さんはもう片方さんのところへ歩み寄って声をかけると、もうさんはようやく振り向き、でもただ片方さんの魚を一瞥しただけでまた背中を向けてしまいました。
 片方さんの寂しそうな様子が面白かったです。
 
 昼飯を食っていなかったので、駅の立ち食いそばで一杯たぐってから、むつ市に向かいました。車内では高校生がうるさかったです。
 下北駅からリンゴさんに電話すると、「はい、ちょっと待っててね」
と、すぐ迎えに来てくれました。ノー残業デーでもないのに、申し訳ないことです。
「今日のお仕事はもう大丈夫なんですか?」
「まあ、べつに今日中にやらなきゃってものじゃないから。晩ごはんどこに行こうかな。…何か希望ある?」
「ご飯ものがいいな」
「ご飯ものねえ…」
「ファミレスでもいいですよ」
「むつにファミレスは無い」
「へえ。その点は飯田の勝ちだな」
荷物をアパートに置かせてもらってから、ちょっといい感じの和食料理屋に連れて行ってもらいました。
「リンゴさんお酒飲めないんじゃな。今日はぼくも飲みません」
「どうして。ここの日本酒おいしいよ。田酒がお勧めだよ」
リンゴさんに勧められて、結局一合だけ注文してしまいました。
「なんだ、県立郷土館行かなかったの。今平山郁夫展やってるからちょっとお勧めだったのに。金木町の地蔵堂もすごいよ。それから、サンタランドなんてテーマパークもあるし」
「キリストの墓は南下の途中で寄るつもりですけど」
考えてみると、今回は恐山にも入れなかったし、ぼくは青森県の重要なスポットをろくに見てないんだな。
 釜飯御膳を食べ終わって、リンゴさん宅へ。
 飯田からのお土産は、トップ(地元の菓子屋)のクッキー詰め合わせです。
「これは一人じゃ食べきれないなあ。職場に持ってくよ」
「そうしてください」
ぼくなら、一週間くらいかけて一人でボリボリ食っちゃうかもしれないけど。
「あしたはシリヤ岬?」
リンゴさんに訊かれて一瞬アラブの国を思い浮かべてしまいましたが、ああ、「尻屋岬」なんてのがあったな、とすぐ我に帰り、
「ええ、そうです」
と答えました。
 風呂に入らせてもらって、寝ました。ここ数日室内の生活に浸ってしまいましたが、あしたから無事テント暮らしに戻れるかしら。
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11月12日(火)曇 風の中の寒立馬

 8時20分、出勤するリンゴさんと別れて旅を再開しました。
 まず、先日の「ふれあい通り」を写真に収めてから、田名部神社にお参りし、その後尻屋崎へ向かいました。
 尻屋崎は寒立馬(かんだちめ)のいるところです。たかが馬が放牧されてるだけなのに、寒立馬などと言われるとぼくでもなんだか旅情がくすぐられます。
 
 朝の天気予報でも「最低気温は11度」と言っていましたが、確かに妙に暖かい日でした。手袋もせずに走れるなんて、何日ぶりのことでしょう。
 かわりに西風が強めでしたが、尻屋崎に行くまでは追い風で楽ちんでした。
 
尻屋崎灯台と寒立馬
尻屋崎灯台と寒立馬

 山の上の方に風力発電のプロペラが何台も回っていたのでもしやと思いましたが、尻屋崎は龍飛岬並、もしくはそれ以上に風が強い場所でした。
 草原の先端に白くておしゃれな灯台が建ち、それをバックに馬が冬枯れの草を食んでいます。うう、観光パンフで見たとおりの光景だ。
 ここの馬はモンゴルから輸入した馬の血を引いているそうで、寒さに強く粗食に耐えられるのだそうです。
 
 風が強いのであんまりのんびり景色を楽しむ余裕が持てません。突風に煽られてゆるんだ口元からよだれが垂れると、糸を引いたまま飛んで2m先に落下します。
岬からUターンして来た道を戻ると、右斜め前方から突風をまともにくらってペダルもろくに漕げない状況でした。
 尻屋崎から国道338号へは、ヒトケの少ない殺風景な台地を走ります。森と牧草地と沼が広がり、晩秋の今となってはすべて褐色の世界です。
 街で昼飯を買うのを忘れたので、ドロップを嘗めながら走ります。
 ようやく国道338号に入り、太平洋が見えてきたあたりで人家も増えてきたので、コンビニ風な店でパンを買って食いました。
 夕方になって少し寒くなったので、おととい飯田で買ったスキー用のグローブを着用。これでレジハンド戦法などというみっともない真似をせずにすみます。
 5時頃に六ヶ所村のスーパーに寄り、キャベツやらひき肉やら晩の食材を買いました。
 原発の村なんだからスーパーでもガスマスクくらい売ってるかなと思いましたが、見た限りそういうグッズは売られていませんでした。
 ただ、村の中を走ると、なるほど研究所風なコジャレた大きな建物が目につき、これまで見てきたその辺の田舎村とは一味違います。
 六ヶ所村にも一応温泉があり、「日本一深い温泉」というのが売りのようでした。
温泉の成分表を見ると
「天然プルトニウム温泉:白血球増加、甲状腺肥大に効果あり」
なんて書いてあるのでしょう、きっと。
 明日は原燃のPRセンターを見物したいので、なるべくその近くにテントを張りたいとは思うのですが、もう暗いので場所が分かりません。
 あてずっぽうで夜道を走っていくと運よく運動公園があったので、その中の手入れの悪いグラウンドのベンチの軒下にテントを張りました。
 
 晩のおかずはキャベツと肉団子のスープ。このメニューも最近多いなあ。
 上空にマイナス30℃の寒気が近づいているんだそうで、今夜は雪になるのかしら。
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11月13日(水) 曇ときどき雪 原発PRゲームセンター

 夜中もさらさらと雪がテントをたたく音が聞こえていましたが、朝になって外を見ると、案の定粉雪が舞っていました。
 朝飯は、ゆうべの残りの肉や野菜を煮てラーメン。
 テントを畳んで、公園の水道で歯を磨こうとしたら、ゆうべは水が流れたのに、蛇口をひねっても水が出ません。夜のうちに管理人さんが元栓を締めていったのでしょう。
 幸い元栓は蛇口のすぐ近くにあって、そこをひねればすぐ水が出たのでよかったのですが、いよいよ公園の水が使いにくい季節になりました。
 
 原発PRセンターはどこかいな、と思ったら、ぼくがテントを張った運動公園のすぐとなりにありました。
 中に入るときれいなおねいさんが
「いらっしゃいませ。三階からご覧ください」
とほほ笑み、パンフレットを手渡してくれました。もちろん入場料は無料です。
 三階には立体シアターがあって、アパトサウルスの子供とヴェロキラプトルの親方との友情を描いた、子供向けCGアニメが上映中でした。
 恐竜アニメで子供をだまして、いったいこれをどう原発宣伝につなげるのかと思いながら見ていたら、原子力のゲの字も出ずに映画は終わってしまいました。
 
 二階は、これまた子供向けのゲームコーナー。日本中を車で走って各地の放射線量を知ろうとか、飛行機を操縦して高度による放射線量の違いを知ろう、などというコンセプトのゲームがありましたが、実態はただのレースゲーム、飛行シュミレーションゲームで、画面のわきの放射線量の数値など見ていたらゲームをクリアすることなどとてもおぼつかないのでした。
 他にも、上から降って来るウラン235を中性子で狙い撃ちして核分裂させてスペースシャトルを月まで打ち上げよう、というゲームもありました。ウランを撃つと中性子が放出されるので、中性子を制御棒で狙い撃ちして原子炉内の温度も下げなければならない、という(ぼくにとっては)ややこしいゲームでした。
 元来ゲームの下手なぼくは、何度やっても原子炉がメルトダウンしてしまうのでした。うーむ、原子炉の操業って難しいなあ、とこんなゲームを通して実感したつもりになってしまったのですが、これで良いのでしょうか。
 原燃PRセンターのマスコットは三匹の「なんだろウサギ」です。
性格の悪そうな雄ウサギのペレート、気味悪い髪形の雌ウサギのウーラ、頭の悪そうな雄ウサギのプルットです。
 プルットが「放射線発射機」でウーラに愛を伝えよう、というゲームもありました。
「アルファ線で届かなければ、ガンマ線でどうだァ!」
などとやっていましたが、恋する相手にガンマ線を浴びせるなんて、なんというヒトデナシでしょう。そこが畜生の浅ましさ。
 
 一階〜地階は、原発や放射性廃棄物埋設施設の中が再現されていましたが、それまでのお遊びとは打って変わって、なかなかムズカシイ内容でした。
 
 のんびりとPRセンターを堪能して1時過ぎに建物を出ると、外は吹雪になっていました。
フードをしっかりとかぶって、三沢方面に走ります。
7,000円で買ったゴアマックスの手袋をしていても指先がかじかむので、手袋の中で手をげんこつにしながら走ります。ブレーキを握れなくてちょっと危ないですけど。
 六ヶ所村から三沢までの道は、草ぼうぼうの丘陵地が波打っているだけのかなり殺風景な風景でした。
 4時ころに「ゆとりの駐車帯」に行き当たったので、少し早めでしたが今日はここで寝ることにしました。
 トイレわきの東屋にテントを建てて、晩飯はきのう買っておいたレトルトカレーとキャベツのスープ。
 三沢空港が近いので時々空から爆音が響いてきます。
 明日は新郷町のキリストの墓に参拝する予定です。
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11月14日(木)曇のち雪 愛の毛布

 かなり冷えました。朝はたぶん零下だったと思います。
 エアマットの下に、シュラフの収納袋やビニール袋などを敷いて、地面からの冷えに耐えました。たぶん気休めだったでしょうけど。
 朝のラジオでは、青森市が氷点下1℃、岩手県盛岡市が氷点下3℃などと伝えておりました。
南に下ればあったかくなるだろう、という希望だけで走っているぼくにとっては、青森より南にある盛岡のほうが寒いなんて、どうも納得できません。
 
 かじかむ手に息を吐きかけながらテントを畳み、出発。
 ろくに朝飯を食っていなかったので、どこかにスーパーがないかしら、と思いながら走っていたのですが、国道338号は三沢市の郊外を通っているので、まともな店がありません。
 その後も結局店に寄れないまま、五戸町に着いてしまいました。
 五戸の中心街はさびれた商店街で、ようやく見つけたスーパーも定価のものしか置いていないような店でした。
 仕方ないので適当にパンや菓子を買い、近くの「歴史の里ロマンパーク」とかいうところの東屋で、雪が舞い散る中、寒さこらえながらぱくついていると、おじいさんが一人、近寄ってきました。
 東北弁がきつくて時々聞き取りにくいところがあったのですが、どっからきた、学生か、というおきまりの会話。
「どうしてこんな寒い季節に青森に来るモンが多いのかな」
「へえ、ほかにもぼくみたいのいますか」
「一月前くらいかな、自転車で旅してる32歳ってのがいたよ。今日はここで泊まるのか?」
「いえ、まだ1時ですんでね、もう少し走るつもりなんですけど。新郷町のキリストの墓に行きたいんですよ」
「新郷はここより寒いぞ。さっさとキリストの墓行って帰ってきて、今夜はここで寝ろ。そうすれば毛布貸してやる」
確かに、キリストの墓に行っても、八戸方面に行くには同じ道を戻って来る必要があります。
 せっかく毛布を貸してくれるという善意を無にするのも悪いと思ったので、
「そうですか、じゃあ今夜はここでテント張りますよ」
とぼくが言うと、おじいさんは
「そうしろそうしろ、今夜はユルくないぞ。これも一期一会だ、ワシャあんたみたいなのが好きなんだ。4時頃には戻って来れるだろ、そのころまた見に来るからな」
と言って、去っていきました。
 
 キリストの墓は、八戸から十和田湖に伸びる国道454号の途中にあります。
 先程の吹雪は小止みになりましたが、道端の電光掲示板の気温を見ると、「0℃」。ふーむ、これが零度なのか。ごいごい漕いでいれば胴体があったまって、ついで指先もあったかくなってきてさして寒さは感じません。
 「キリストの墓公園」に着いたのは3時頃でした。
 国道わきの丘の上に、二本の十字架が立っていました。キリストと、その弟イスキリの墓なのだそうです。
 このキリストの墓は有名どころなので、インターネットで検索すればいくらでも情報が出て来るとは思いますが、一応その由来を押さえておきましょう。
 キリストの墓は、古くは十来塚と呼ばれていましたが、茨城の竹内巨麿と言う人が当地をたずね、地元の人からこの塚のことを聞いて
「十来塚こそ、わが家に代々伝わる「竹内文書」に記されたキリストの墓に違いない!」
と騒ぎたてたので以来「キリストの墓」として、村も便乗して宣伝している、ということらしいです。
 イスラエルで磔になったのはイエスではなく弟のイスキリであり、イエス本人は日本に渡ってこの地で没した、のだそうです。
 処刑されたのは弟だったなんて、それじゃカムイ伝なみのごり押しだよなー。だいたいイスキリなんて名前はイエスキリストを縮めただけだろ。
 一体竹内文書ってのは何なんだ、と興味が湧きますが、ぼくはさほどオカルトに詳しくないので良く知りません。
 キリストの墓の近くには「キリストの墓伝承館」という展示施設らしきものがあり、そこを見学すれば詳しいことが分かるのでしょうが、当の施設は11月上旬から冬季閉鎖中ということで、入れませんでした。
つくづく、東北観光は冬にするもんじゃありませんな。
 
 キリストの墓では、近所のおじさんがひとり、黙々と落葉掃きをしていました。
せっかくなので何か話しかけようかとも思いましたが、
「これって本当にキリストのお墓なんですかねえ」
などという月並な問いかけしか思いつかなかったので、黙ってその場を後にしました。
 そういえば、能登では「モーゼの墓」を見るのを忘れました。残念。
 
 同じ道を五戸町まで戻ります。行きに通り過ぎた工事現場の交通整理のおじさんが、
「ごくろうさん」
と声をかけてきました。リュック背負った若い旅人が小一時間で戻ってくるということは、
「ははあ、キリストの墓参りだな」
とバレバレだったでしょう。べつにばれてもいいんだけど、なんか悔しい。
 下校途中の小学生がぼくに気づいて、じっとこちらを見つめているので、愛想よく手を振ってあげました。
 総じて、道を走っているぼくをじろじろ見るのは、年寄りと子供です。
どうしてでしょう。
 五戸の「歴史ロマンパーク」に戻ったのは4時ちょうど。
 あのおじいさんが毛布を持ってきてくれるのかもしれませんが、外で待っているのは寒いので、自転車だけはその場に置いて近くの図書館に入ることにしました。
 自転車に「図書館におります」とメモ書きを残しておきました。おじいさんがそれを見るかどうかはわかりませんが、まあ念のため。
 
 図書館で暇をつぶし、暗くなったので自転車に戻り、さてどうしたものか、と思っていると、
「戻ってきたか」
という声が暗闇から聞こえ、あのおじいさんが現れました。
「ここはあんまりよくないからな、もっといい場所を教えてやる」
と言って、おじいさんは図書館の下の駐車場の屋外ステージにぼくを案内してくれました。
「こないだ来た人もここを教えてやって、ここで寝てったぞ」
「場所的にかなり目立ちますけど、大丈夫ですかね」
「目立つところの方が若いもんにいたずらされなくていいだろ。ワシはこの近くの神社の親分でな、地区のコレもやっとるから心配するな」
と、おじいさんは親指を立てて見せます。氏子総代兼区長ということなのでしょう。それならまあ、安心だ。
「毛布貸してやるから家まで取りに来い」
「はい」
おじいさんの自宅はすぐ近くにありました。玄関なのか裏口なのか良く分からない戸口をあけて、すでに廊下に出してあった大きな毛布を二枚持たせてくれました。
「まだあるけど、もってくか」
「いえ、テントの中いっぱいになっちゃうんで」
「そうか、あったかくして寝ろよ」
「ありがとうございます。明日の9時頃にお帰しにあがりますんで」
 
 屋外ステージにテントを建て、借りて来た毛布を敷きつめます。「よその家の匂い」がテントの中に充満します。
 ふかふか。ううむ、これだけふかふかなら氷点下も怖くない。今夜は熟睡できそうだ。
 
 晩飯は、キャベツとコンビーフのスープ煮。
 ぐつぐつ調理していると、さっきのおじいさんが様子を見にきました。
「やっぱりそこに建てたか。おう、あったかいもん作っとるな。よしよし」
おじいさんは安心して帰っていきました。
 テント一杯の毛布にうずまるようにして寝ました。今日は、今までみたいに狂ったような重ね着をせずにすみます。
 明日朝の最低気温の予想は軒並氷点下。いや〜、ありがたいなあ。でも今夜は無事過ごせても、明日以降どうなるんだろう。
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11月15日(金)晴 巽山公園の猫

 朝外を見ると、真っ白でした。5pは積もっていました。ついに雪景色の中を走ることになったかあ、と感慨もひとしおでした。
 朝飯はパンか何かだったかな。
 食い終わってテントの中でコッヘルを拭いていると、
「おはよう」
と声がしました。顔を出すと、毛布を貸してくれたおじいさんが来ていました。
「どうだ、眠れたか」
「おかげさまで」
「毛布出しな。持ってくから」
「どーもありがとうございました」
「気をつけてな」
おじいさんの住所氏名を訊いて絵葉書でも出そうかなと思いましたが、ついつい訊きそびれました。
 
 森が雪で白く浮き上がっている風景を眺めながら走るのはいい気分ですが、八戸までの車道は一部シャーベット状態でした。かといって歩道は雪がそのまま残っているので、余計走れません。
 日が照ってどんどん雪は融けてきましたが、今度はタイヤがびしゃびしゃと水を撥ねて背中のリュックが泥まみれ。やはり雪はめんどくさいですねえ。
 
 八戸は来月に新幹線が開通するんだそうで、いろいろ盛り上がっているようです。
 昼飯を買いに寄ったスーパーでも、レジ袋に「祝 東北新幹線八戸開業」とプリントされておりました。
 公園の日だまりでパンにハムとチーズを挟んで昼飯。
 後は国道45号をひたすら南下します。県境の階上(はしかみ)町の道の駅でトイレをすませてしばらく走り、3時頃に県境を越えました。岩手県入りです。
 久慈市に入ったのは5時ころ。中心部のユニバースで食材を買い、向かいの酒屋でウイスキーを買い、久慈駅の観光案内所で市内マップを入手。
 すぐ近くに巽山公園というのがあるらしいので今夜はそこにテントを張ることに決めました。
 公園への入口を見つけるのに少し苦労しましたが、公園に登ってみると久慈市の夜景が見下ろせる見晴らしのいい場所でした。
東屋の下でテントを組み立てていると、どこからか一匹の猫が擦り寄ってきました。立ち歩くぼくの足元にまとわりついてきます。野良猫でしょうか。岩手のこの寒空の下で野良生活をしているとは、なかなかたいした猫です。
 ぼくがテントを建てると、勝手に中に入ろうとします。
 公園のトイレは、蛇口をひねるのではなくボタンを押す方式で、押すと「しゅごー、ぷすぷす」と不気味な音が出て、妙な間を置いてからようやく水が出ます。凍結防止対策なのでしょうが、めんどくさい。
 
 晩飯は大根や干しシイタケを入れて豚汁。ぐつぐつと煮ている最中も、猫はテントの軒下に顔を突っ込んで、物欲しげに鍋とぼくとを見比べています。
 煮ている鍋の中に鼻を突っ込もうとするので、
「熱いぞ!」
とたしなめます。
料理ができたので、テントのファスナーを閉めて食いました。
 猫はしばらく外でにゃあにゃあ鳴いていましたが、ついに諦めたのか、どこかへ去っていきました。
 なんだ、粘りのない猫だな。素っ気ない振りして、じつはおじさんも仏ごころがあるんだぞ。
 ハムの切れ端と豚肉一切れと、ごはん少々をコッヘルの蓋に入れて、テントの軒下に出してあげました。
 本当にあの猫が野良なら、匂いを嗅ぎつけてやってくるでしょう。
 
 今夜も晴れているので、かなり寒くなるでしょう。めいっぱい着込んでシュラフにもぐりこみました。

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