四国巡礼てくてく編(阿波1)
四国巡礼てくてく編(阿波1)
10月24日
うずしおふれあい公園を出発し、お昼過ぎに四国八十八ヶ所の一番札所、霊山寺に着きました。 観光バスが数台停まっており、かなりの賑わい。
売店の店先には、お遍路完全装備の美女マネキンが屹立して客を待ち構えており、中に入るとお遍路グッズがずらりと揃っていました。
直前まで、自転車で行こうか歩いて行こうか、どんな格好をしていこうか迷っていましたが、グッズを眺めているうちに、
「これは徒歩で、ある程度それっぽいカッコしていかないとつまんないな」
と考えがまとまりました。ということで買い揃えたのは、以下の通り。
霊山寺にて
納経帳
1500円
ガイドブック
1000円
納め札
200円
杖
1500円
すげ笠
1500円
白衣(袖無)
1800円
ずた袋
1500円
輪袈裟
2200円
数珠(小)
700円
蝋燭
300円
線香
200円
合計
12400円
売店のおばさんに色々聞きながら一式身につけると、私もなんとなく、お遍路さん。オレって格好いいかも、と思いながら本堂と大師堂で作法を済ませました。
遍路のお参りの作法は以下のとおり。
山門で一礼
手水鉢で手と口をゆすぐ
蝋燭1本、線香3本を供える
お賽銭を供える
お経(般若心経+α)を唱える
納め札に日付・住所・名前を書いて箱に入れる
3〜6は本堂と大師堂両方で行う
納経所で300円支払い、奉納経帳に書いてもらい、各寺の本尊の絵が書かれた「御影」をもらう
山門で一礼して立ち去る
たどたどしく本堂で以上の作法を済ませ、自転車を寺に置かせてもらおうと寺の尼さんに頼みました。
「住職に聞いてくるから、そこの椅子に座って待ってなさい」
と言われたので素直に待っていましたが、待てど暮らせど尼さんはぼくのところに戻ってきません。すっかりぼくのことを忘れているようなので、声をかけると、
「あら、あなた、まだそこにいたの。姿が見えなかったからもうよそへ行っちゃったかと思った」
とおのたまいになります。ぼくはずっと、言われた椅子に座っていたのですが。
「邪魔にならないところに置いとけばいいんじゃないかってのが下の人達の意見なんだけど、住職がいないから、なんともいえないのよ。もし自転車がなくなっちゃったり壊れちゃったりしたら、あたし弁償できるほどお給料もらってないしねえ」
「壊れても失くなっても文句いいませんから」
というと、
「じゃあ裏に案内してあげるからまってなさい」
と言われ、また長い間待たされました。
ようやくガレージのわきに自転車を置かせてもらい、礼を言うと、尼さんは熱心にお参りの作法を教えてくれ
「おうちの親御さんには毎日連絡するのよ、無理はしないのよ、あーたらこーたら」
とお説教までしてくれました。
(俺をすっぽかしてた照れ隠しかしら)などとも思いましたが、ぼくはその手の面と向かった説教に弱いたちなので、ついつい涙目になってしまったりしました。
そんなわけで始まった、ぼくのお遍路さん体験ツアー。
一日目は一番札所で時間を食われたので、次の2番札所極楽寺までしかいけませんでした。
3番金泉寺の近くの集会所の裏でテント張り。夜はネズミらしき小動物が、とたとたテントのまわりを走り回り、騒々しい夜でした。
遍路中は
「生き物をむやみに殺すな」
「盗っ人をするな」
「酒を飲むな」
「異性にやたらと声をかけるな」
などなど戒律があって、品よくしていないといけないらしいです。ほとんど毎晩発泡酒かワンカップを飲んでいたぼくとしては辛いものがあります。また、厳密にいえばバッテリー充電だって無断でやれば電気を盗むのと同じですし。
それから、ぼくは基本的に引っ込み思案なので、なれなれしく異性に声をかけることについてはあまり機会がないとは思いますが、それでも、もし何かチャンスがあれば、ねえ。
まあ、ぼちぼちやりますワ。
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表紙
10月25日
3番金泉寺で歯磨きとお参りを済ませ、4番大日寺へ。大日寺は少し距離がありましたが(6km)、いかにも日本昔ばなしに出てきそうな山寺のたたずまいでした。
5番地蔵寺は、八十八ヶ所唯一五百羅漢があるところという売り文句でした。200円払って拝観してみましたが、
「ふーん」
という感想しかありませんでした。地蔵寺の先の食堂でミックスランチを食いました。ごはん大盛りを頼んだのですが、代金は変わらず。
お遍路さんだからまけてくれたのか、ただ忘れてたのか、大盛りはサービスという決まりなのか。
6番安楽寺への途中で、足の裏が痛くなりはじめました。6番に着いてから靴を脱いでみると、両足にかなりでかいマメが。いかんなーと思いながらもそのまま絵葉書を書いていると、同じ遍路の60歳くらいのおっさんが話しかけて来ました。
「歩いて巡礼してるの?」
「はい」
「ぼくは歩きで今日結願したんだ。40日かかったよ」
自分が達成し終わった嬉しさと、まだ序の口にいる若いモンへの優越感もしくは親近感などがあるのでしょう。
いろいろアドバイスしてくれた上、しばらく立ち去りがたそうにしていましたが、
「マメができたら、糸を通してそのまま残しておくと治りがいいんだよ」
と、針と糸とイソジンをくれました。
さっそくマメにたまった水を抜き、教えられた通りに糸を通して薬をつけました。足の裏をよくよくみると、マメはかなりデカいものになっていて、それも複数のマメがくっつきあって、瀬戸内海の島々のようなありさまになっていました。
今までこの程度の歩きでここまで大きなマメを作ったことはなかったので、これはやはり靴下を履かなかった祟りかしら。
そう思って、遅ればせながら靴下を履いて歩きだしました。こうなると、文字通り苦行です。
(ひええ、痛えよお)
とつぶやきながら、それでも
「あ、あの若いお遍路さん足引きずってはる、可哀想やなあ、助けたろかいなあ」
などと思われるといやなので、頑張ってすたすた歩きました。
7番十楽寺にお参りし、絵を描いていたら5時すぎてしまったので、それ以上歩くのも面倒臭く、寺の駐車場のわきでテントを張りました。
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表紙
10月26日
朝、マメのできた足の裏を見てみると、歩いてもいないのにもう水がたまっていました。痛む足でピョコピョコしながら七番十楽寺を出発し、3.8kmはなれた8番熊谷寺に。
そこは一日中大音量でお念仏のテープを流している寺でした。
本堂に行くと、お守り売場のおばあちゃんと雑談していた八百屋のおっちやんにつかまりました。おっちやんはかなりの遍路マニアらしく、
「歩き遍路なら番外までぜひ回れ、あそこの番外がどうのこうの」
とか、
Γあそこの道はこう行った方がいい」
とか、
「今日中に11番まで行きなさい、その先12番までが遠いから」
とか、遍路のコツをあれこれ教えてくれるのです。そこでつぶれた時間約3O分。
そのおっちゃんから解放されてやれやれと思っていると、今度はおばあちゃんが、
「どや、あんた、お経奉納していかんか、百円納めて願い事書きな」
と話しかけてきます。それに乗って納経すると、
「まあお茶でも飲んでいきな」
とお茶とお茶菓子を出してくれます。
そして、
「ほう、兄さん長野かい。うちの孫も信州大出てなあ、学校の先生になるいうて受験してなあ…」
と長々とお話ししてくださって30分。
おばあちゃんから解放され、門前の池で絵葉書を描いていると、香川ナンバーの軽トラがとまっておっさんが一人おりてきて、みかんを6つもくれ、
「兄ちゃん、飯田かいな。おいさんもよく行くぞ。なんやったかいな、豊橋行く途中の公共温泉、あれ入ったで。ああ、そうそう、かじかの湯」
「兄さん齢はいくつや、その齢やったら彼女を待たせとるんやろ」
「会社辞めたか。遍路出たばっかでやなこと言うおっちゃんやと思うかもしれんどな、クビになるならともかく、仕事にはかじりついてでも続けた方がいいぞ」
果てはぼくの隣に座り込み、
「見い、このちっぽけな草だってちゃんと実を付けとる。兄ちゃんも人生大切にせにゃいかんぞ、自分なんてお父さんとお母さんが夜中に気持ちいいことやった後のカスだと思うかもしれんけどな、 お父ちゃんの精子の何万って中のたった一つ、君の種が自力でお母さんの卵子にたどりついたわけやからな、いや君はそうやって笑って茶化すけどな、君だって毎日マスターベーションしとるやろ、それはな、仏様が…」
「香川来たらうち泊まりなさい。君のそのペースだと時間かかるから年末になるかもな。そしたらうちで年越しなさい」
これで約一時間。なんだかんだで、熊谷寺では三時間くらいすぎておりました。
九番法輪寺の門前でたるうどんを食い(うまかった)、仁王門前でまた絵を描いていると、同じお遍路のおばさんが
「接待させてえ」
といきなり焼き芋をおごってくれました。
焼き芋をほお張りながら10番札所切幡寺へ。
長い石段がきつかったですが、
この寺は昔弘法大師が村の娘に布施を乞うたところ、娘は七晩かけて織っていた布を真ん中から切って大師に与え、感動した大師が娘を得度させると娘は観音様になってしまったという、ありがたくもおかしな由来の寺であります。
境内の「はたきり観音」の絵をかいていると、またおばさんのお遍路さんが
「まあ、歩いて回ってはるの。接待させてえ」と千円くれました。
ぼくは寺での滞留時間が長いので、そういったお接待を受ける機会も多いのでしょうか。人に聞いたところによると、今でも《職業遍路》なる乞食さん同様の人がいて、いつまでもいつまでも四国を回り続けているそうです。
11番から12番の間は山道が険しいということで、行くのに一日かかるという話だったので、10番から11番まで12kmくらいありましたが、痛む足を無理して歩きました。
寝場所は11番藤井寺の駐車場。スーパーで買った弁当を食い、野菜生活1リットルをがぶ飲みして寝ました。
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表紙
10月27日
11番藤井寺の駐車場で一泊し、テントを畳んでいると、またどこかの遍路おばちゃんが来て
「野宿で歩いてはるの。御利益あるなあ。これでなんか食べて」
と千円接待してくれました。
なんか、病み付きになりそうで恐い。やっぱ菅笠、白衣、ずた袋、輪袈裟までを揃えていると、 普段着で巡る人よりもお接待の量が多いのでしょうか。他の人の例は知りませんが。
藤井寺でお参りしていると、プロの衆つまりお坊さんたちが大型バスでどやどやとやって来ました。真新しい僧衣に真っ白な手甲脚絆、頭の剃り跡も真っ青な集団が20人ばかり。 彼らは本堂の前で並んで記念写真をした後、さすがプロ、と聞くものを唸らせるようなハーモニーでお経の大合唱。本堂・大師堂で念仏をこなした後、境内の白竜弁天のわき水を一口ずつ
「これ水道水じゃないのか」
などと言いながら飲んで、再びバスに乗って去って行きました。
け、プロなら足で歩いて回れよな、と少し優越感に浸ってしまいました。
遍路転がしをゆく
藤井寺から十二番焼山寺までの道は、
「空海が歩いた道が現在に残る最後の道」というのがキャッチフレーズで、要するに山道です。四国山地を12km縦走するわけですが、
「遍路ころがし」
と呼ばれ札所巡りの4つの難所のうちのひとつというだけあって、これはきつかった。途中までは擬木の手摺りなんかあって
「ただの遊歩道じゃん」
とせせら笑っていたのですが、やがてそんなのもは無くなり、道しるべの札が木の枝にぶら下がっているだけ。
「遍路道」
「お大師様と二人連れ」
「頑張って」
などとメッセージが書かれています。ところどころはかなり急な登坂で、足の踏み出す場所に困るような岩の坂もあります。時々ぽつねんと古いお墓があったりして、
(これはもしや、昔行き倒れた遍路の墓なのだろうか?)
と想像がかき立てられます。
途中、同道になったご老人は八十歳の記念に来たとのことで、一日で焼山寺までは無理ということで、途中の宿坊に一泊するとのことでした。
「この歳じゃあ、一日20キロ歩くのが精一杯ですねえ」
とおっしゃておりましたが、一日20キロ歩く八十歳のじじいってのもすごいと思います。
坂道を歩くと自然、うつむき気味になります。額の汗がポタポタと眼鏡に落ちます。その汗を拭うと、地面がよく見えます。
山を這う生き物は不気味です。30cmはある巨大ミミズ(表皮が緑色に光る)、宇宙から飛来したのかと思えるようなアシナガグモ(体が真ん丸で小さいくせに手足がやたらと長い)などがうようよしています。
遍路が持つ杖は、お大師様の身代わりと言われていて、ぼくもまあ、ただのポーズのつもりで一番札所で買ったのですが、今日ばかりはずいぶんお世話になってしまいました。
阿波の山奥
ヒイフウ言いながら八分目まで来ると、ぱっと目の前に山里の風景が広がりました。手前には、茅葺きをトタンで覆った昔ながらの民家、ミカンの畑、そして彼方にはずっと続く山並み。南信濃もかくやという風景です。
いつのまにこんなド山の中に来てしまったのかしら、街にはどうやって戻るのかしらと不安になるほどでした。
遍路道は最後の二分目がまたきつかったので、12番焼山寺に着いたのは午後5時寸前、もう少しで納経所が閉まってしまうところでした。
そこで絵などを描いているから日はとっぷりと暮れ、辺りは真っ暗。一人で山を下るのは寂しいなあと思っているところで、幸いぼくと同じような歩き遍路の兄ちゃんと同道になりました。
山を下った民宿に彼は泊まるということで、そこまで夜道を共にしたわけですが、いやあ、似たような奴はいるもので。
彼、尾形君は香川県出身の28歳ということでしたが、去年の12月に会社をリストラされ、夏まで車で日本一周をした後、
「遍路デモしてみるか」
ということで来たデモ遍路だそうです。
「一日に一寺のペースでいければいいかなと。寝袋とテントも保険のつもりで持ってきましたけど、基本的には宿に泊まってます」
とのことで、外で寝れないときにはやむなく宿を選ぼうか、というぼくのスタンスとは逆です。 しかし、
88寺×1泊6,000円=528,000円
リッチな若いモンですな。
それでもまあ、境遇も性格もずいぶん似た者同士で、最後は住所電話番号を交換しあって別れました。こんな調子で、どこかに若いメス遍路はいないかしら(煩悩深すぎ)。
その夜は、団体駐車場にテントを設営。山の中とて食堂もコンビニもなく、晩飯は念のために残しておいた昼用のおむすびを、よく噛んで、水をたらふく飲んで寝ました。
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表紙
10月28日
今日は風の強い日でした。12番焼山寺から下って来る道、よろめきそうになるくらいの向かい風が吹き、思わず笑ってしまいました。
12番があるのは神山村、13番大日寺があるのは徳島市。この神山村がくせ者で、やたら広いのです。いくら歩いても村から出られない。その上、道端には
怪しい看板
が。
「
日本人のルーツ第二版
『ソロモンの秘宝は阿波神山にある』
たま出版より好評発売中
古代文字を解読してソロモンの秘宝の謎に迫り解読と発掘に
賞金5億円
ウガヤ王朝の
京(みやこ)
は神山にあった!
日本超古代研究所チナカ」
こんな看板出してるくらいだから、きっと村では「ソロモンで村おこし」やってんのかなと思ったら、残念そうではなく、観光の目玉はありがちな公共温泉施設《神山温泉保養センター》でした。
道の駅「温泉の里神山」で不味い手打ちそばを食い(頼む、機械打でいいからうまいそば出してくれ)、《神山温泉保養センター》で一週間ぶりの風呂に入りました。
センターに併設のホテルは《ホテル四季の里》、センターの裏にある公園は《農村ふれあい公園》、駐車場でおばさんたちが出してる直売所は《ふれあい市》と、コテコテの田舎臭いネーミングのオンパレードで、私は一人ほくそ笑んでしまいました。
センターの風呂では、じじいどもがひしめきあっていました。痩せたじじい、太ったじじい、両肩にカラフルな絵のあるじじいまでいて、神山村の懐の深さを思い知りました。
風呂からあがって休憩所に行くと、そこもまたじじいとばばあのごった煮状態。居場所がない私は、給湯器のわきのすみっこに縮こまって、マメに薬を塗って早々に退散しました。
13番は遠い。途中雨が降ってきたので、早速大阪の友達にもらったゴアテックスのレインウエアを着込みました。
降ったり止んだりの中途半端な天気だったので、ゴアテックスの本領発揮とまではいきませんでしたが、かわりに4時ころ、大きな虹が見えたので少し幸せでした。結局13番に着いたのは午後5時20分、納経には間に合いませんでした。
どっかで飯を食ってから寝場所を探そうと、近くの旅館に
「飯だけでも食べさせてくれませんか」
と聞いたらあっさり断られました。
歩いて20分のところにコンビニがあると教えられ、歩きだしたのですが、いくら歩いても見つかりません。
疲れた足を引きずりながら歩き回り、ようやく《はじめ食堂》という食堂に入ることができました。外目は汚いですが中身はさらに汚い店で、客はだれもおらず、半分ボケたじいさんと、橋田寿賀子みたいな顔のばあさんだけがおり、ばあさんの方がろくにいらっしゃいませも言わずに水を出してくれました。
麺類とお好み焼きがメインの店のようで、焼きそばを注文したのですがはっきり言って、ペヤングの方がずっとおいしいです。
情けなくなったので、酒断ちの禁を破ってビールを注文してしまいました。きっと明日から、テントでの晩酌が復活するでしょう。
その夜は、近くのJAの倉庫の軒先でテントを張りました。車の音がうるさかったので、ティッシュで耳栓して寝ました。
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表紙
10月29日
朝早く13番大日寺(4番と同じ名前)で納経をさっさと済ませました。納経帳を書いてくれる坊主が無愛想だったことと、境内に怪しい菩薩像(合掌した手の形のモニュメントの中に納まっている)があったこと以外は何の感慨もない寺でした。
ゆうべの焼きそばはボリュームがなかったので、空きっ腹を抱えながら14番常楽寺へ。平日だからか客も少なく、寺の建物はこじんまりして古びた感じのいい寺でした。
次、15番の阿波国分寺で、売店で買った寿司とパンをがつがつ食い、腹が一杯になったので、トイレで数日振りにう〇こしたら、でかすぎて、生産者自らペーパーを巻いた手で押しやってやらないと流れませんでした。
晴れ間がのぞき、ぽかぽか天気の下をのんびり歩くのは気持ちいい。腹一杯食えて、ぐっすり眠れて、すっきり出せて。幸せを感じます。
しかし16番観音寺に着いたころ、天気が悪くなって本降りになってきました。17番井戸寺に着くと、まだ5時だというのに、絵葉書も書けないほど暗くなってしまいました。
下書きだけ書いて、残りは明日、思い出しながら書くことにしました。
ゆっくり歩いて、中華料理屋で800円の天津飯定食と300円の生中を飲み、またしばらくとぼとぼ歩いて、今夜は国道沿いのちっちゃな公園でテントを張りました。
今日は寺が密集していたので歩く距離も少なく、絵を描いたりしてのんびりできたので楽でした。客の数も少なかったので絵を覗きに来る人もおらず、ことさらに濃い人物との出会いもありませんでした。
明日は18番札所まで、20kmほど歩かねばなりません。結構ハードな一日になるでしょう。
札所では、寺によって個性があります。駐車料金がただの寺もあれば、当たり前のように300円とる寺もある。
納経帳書いてくれるのが死にそうなじいさんのところもあれば、二十前の兄ちゃんが書いてくれたり、ふつーのおばさん人が書いてくれるところもある。
門前にお店がたくさんあるところもあれば、住職すらいるのかどうか怪しい寺もあります。ただ、基本的にはどれもみな寺なので、少しずつ飽きが来るのは確かです。全ての寺で一枚ずつ、面白い風物を絵葉書に描くことにしているのですが、ところによっては
「つまらんな〜、どこを描こう」
と困ってしまうような寺もあります。
ただ、たいがいの寺には水子地蔵もしくは水子観音があって、菩薩様にたかっている水子はたいがい気持ち悪くて楽しいです。
みなさんもお寺に行ったときには、ぜひ水子を観てみてください。
阿波目次
表紙
10月30日
今朝泊まったのは、袋井用水水源公園という史跡だったらしくて、テントを撤収してリュック詰めしていると、近所の小学生がどやどやと社会見学に押し寄せてきたので、慌てて退散しました。
徳島大医学部前のコンビニで弁当を買って食い、おなか一杯で歩いていると、自転車のおばさんがぼくを追い越しざま停まって振り向き、
「兄ちゃんこれ食べなさい」
とコンビニ弁当と両手一杯の小銭をお接待してくれました。
「あそこのコンビニでこのレシート見せれば温めてくれるから」
どうやらおばさんは、歩いているぼくを見かけるなりコンビニに飛び込んで弁当を買い、ぼくを追っかけてくれたようなのです。
くれた小銭は千円札で弁当を買ったお釣りのようでした。そのうえ、ぼくが手に提げていた弁当のゴミを、
「それ、捨てといてあげる」
といって取り上げ、
「兄ちゃん、いい旅しなさいよ」
と言って、すういっと自転車で去っていきました。
朝飯はさっき食べたばかりだったので、頂いた弁当はお昼に食べました。食べながら、メールを打とうとザウルスの予備電池を探すと、無い。
ウエストバッグに入れといたはずなのに、バッグにも、ポケットにもない。神山村では、ウエストバッグのファスナーを閉め忘れて歩いていたことがあったので、そのときに落としたに違いありません。
くっそー、3,000円もする電池なのに、と思いましたが、どうしようもありませんでした。
18番恩山寺に着いたのは2:30頃。夕方、次の19番立江寺に行きました。ここには黒髪堂という小さな祠がありました。
江戸時代、情夫と謀って夫を殺したお京という女が、遍路に身をやつしてこの寺まで来たところ、急に髪の毛が逆立ち、本堂の鉦(お参りするところにぶら下がってる間抜けな音のする奴) の綱に巻き付いてお京は逆さ吊りになってしまいました。
和尚が問いただして、お京が過去の悪事を白状した途端、髪は頭の肉ごとこそげ落ちて、お京は一命だけはとりとめたという話です。
で、そのお京の髪の毛が残った、鉦の綱というのが黒髪堂に納められていて、薄暗いガラスの向こうに見られるのです。
ぼくも覗いてみましたが、確かにぱさっとした細長い髪の毛らしきものの束が、太い綱に絡まっておりました。
いやあ、なかなか不気味なものを見られて良かったなあと満足しながら寺を後にし、近所の酒屋さんで発泡酒を買い、
「どこかに食堂とか、お弁当売ってるお店とかありませんかね」
とお店のおばちゃんにきいたら、わざわざ近所のお店に電話して、やってるかどうか確かめてくれました。
教わったスーパーで値引きになった寿司を買い、さてどこで寝ようかとぶらぶら歩いていると、車が停まっておっさんが
「兄ちゃんどこまで行くんや、これでも食え」
と、お米のポップコーンをくれました。
JA徳島のガソリンスタンドの裏手にテントを張りました。月がとても明るいです。
これだけ天気がいいと、朝方は冷え込むでしょう。人の親切にたくさん会った一日でした。 いい話だ。
阿波目次
表紙
10月31日
案の定明け方は冷え込みましたが、なんとかしのげました。ガソリンスタンドで水道を拝借し、顔だけ洗って出発。途中、郵便局で葉書を20枚買ったらポケットティッシュをくれました。ティッシュは何かと重宝するのでラッキーでした。
鶴林寺は、5kmほどの山道があります。道は急な坂ですが、距離がそれほど長くないことが分かっているので、精神的にも楽です。
途中に湧水があって《水呑み大師》というのが祀られていました。確か一桁台の札所の辺りには「小豆洗い大師」というのがありました。 弘法大師にも、百姓みたいのから妖怪みたいのまで、いろいろあります。そのうち絶対「ふれ愛大師」にお目にかかれるでしょう。わくわく。
鶴林寺の頂上近く、急にうんこがしたくなりました。うんこしたくなって限界に近くなると、寒気がしてきますよね。俺だけかな。寺の駐車場についてトイレに駆け込むと、トイレットペーパーがない。さっそく郵便局でもらったティッシュが役に立ってしまいました。ぼっとん便所の場合は、こういうとき普通のティッシュが使えるから楽です。
歩きの場合は、下りがけっこう疲れます。膝に体重がどんとかかってくるので、膝が痛くなってくるのです。
20番鶴林寺から21番太龍寺へは、山道を下ってすぐにまた上らなければなりません。
下った先には小さな集落があって、色づいたミカンの黄色と艶のある青い葉がきれいでした。太龍寺への上り坂で会ったおばさんは、
「若い人が多いねえ。今日はあなたで4人目よ」
と言っていました。
太龍寺は歩き以外だとロープウエーがあって、往復で3,000円以上します。
ロープウエーの駅で「松茸茶」という松茸の匂いのするお茶をただ飲みし、構内を見回していると、《舎心ヶ嶽》というところの写真がありました。弘法大師が19歳のとき、虚空蔵求聞持法という、超記憶術の修行をしたという崖を撮った写真で、朝日をバックに崖の上で座禅をする坊さんのシルエットが映っていました。
「はは、誰だよホントにこんなところでモデルやってる奴は」
と笑い、現場に行ってみると、本当に切り立った崖の突端にお大師様が向こうを向いて鎮座なさっているではありませんか。
平成に入って建てられた空海の実寸大ブロンズ像でした。像にしても、あんなところにどうやって据え付けたんだろう、というような場所なのでありました。
太龍寺でのんびり充電なぞしていると、あっと言う間にあたりは暗くなり、下山の途中でとっぷり日が暮れてしまいました。
杉や桧の木立の向こうに真ん丸なお月様が出て、笑っちゃうくらいきれいでした。
山から下りて、道沿いに飯を食うところがあるかしらと思って歩いてみたのですが、田舎のこととて食堂もなく、結局飯も食わないまま、国道わきの退避所でテントを立て、おやつ用のクランキーと、昨夜もらったお米ポップコーンを食いました。 寝るとき、ジャンパーのポケットから、無くしたとばかり思っていたザウルスの予備電池が出てきて、思わず
「お大師様、ありがとうございます」
と言ってしまいました。
お礼に、次の札所の大師堂では、お賽銭を奮発して、いつもの倍の20円お供えすることをお誓い申し上げました。
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