四国巡礼てくてく編(阿波2) 四国巡礼てくてく編(阿波2)

11月1日

 朝。テントを畳み、国道を歩くこと約8km。なにせ昨夜からろくにものを食べていないので、途中に食い物屋があれば入ろうと思いながら歩いていたのですが、田舎のこととてどこも開いておらず、結局22番平等寺に着いてしまいました。リュックを降ろしてやれやれと思っていると、
「おひさしぶりです」
と背後から声が。振り向けば、12番焼山寺の夜道で一緒になった香川出身の若者、尾形君でした。
 彼はもう納経を済ませ、寺を出るところでした。
「最短距離の道は国道行くばっかりでつまらんから、海岸沿い行こうと思ってるんですよ」
とのこと。あ、そーいうのもいいなあ、と僕も思いましたが、あまり寄り道ばかりしていて真冬になったら野宿できなくなるので、やめました。
「じゃあ、またどこかで」
と別れました。

 この平等寺で、僕は初めて「いざり車」の実物を目にすることができました。
 いざり車とは、足が立たない遍路さんが使った、昔の車椅子みたいなものです(「いざる」とは、「這う」の意)。
 昔は、病気で足腰の立たなくなった人が遍路となり、病気が治るまで八十八ヶ所を巡り続けたのだそうです。
…というのがぼくの予備知識だったのですが、実物のいざり車はかなり大きく、まるで犬小屋の大きな奴みたいな形をしていました。
 平等寺に奉納されていたのは3つで、大きいものは高さ1.5m、幅1m、長さ2mはありました。
これだけでかいということは、人か馬が引っ張ってたのかしら。不勉強なのでよくわからないのですが。どれも木製で、脇の部分を見ると、車輪が取り付けられていた跡がありました。
 これらは、霊験によって病が治ったために奉納された大正〜昭和初期のものです。昔はたくさんのいざり車がガラガラと走っていたことでしょう。
「爆走・威座理連合」
なんて旗を翻して。しかし冗談抜きで、中には薄暗い車の中で死んじゃった人も多かったことでしょう。

 そんな生々しいものを見た後は、門前の「山茶花」という店でようやくコロッケ定食580円にありつき、次の23番薬王寺に向かいました。その距離22km。道の半分以上は殺風景な国道55号でした。
 ひとつ収穫と言えば、交差点で珍しい足型を見つけることができたことです。交差点などで、
「歩行者はここで停まれ」
の意味で路上に足型が描かれているのを見ることがあります。僕は今回の旅で、これを観察するのが楽しみのひとつなのです。自治体ごとにけっこう違いがあって、
「小人さんは車道を渡らんだろ」
と言いたくなるくらいちっちゃいのから、
「こんな田舎にマイケルジョーダンはいないだろ」
と言いたくなるくらいでかいのまで、色も形も結構個性があるのです。
 平等寺のある阿南市新野町では
「この町にはガニ股しかおらんのか」
というほど角度の開いた足型(しかも色は赤)がありました。
黄色土人の足跡
黄色土人の足跡

そして23番薬王寺のある海部郡日和佐町には、「どこかにきっとあるに違いない」と僕が探していた、裸足の足型(色は黄色)があったのです。きっと日和佐町の交差点は、土人さんしか渡らないに違いありません。
 一人で盛り上がってしまいましたが、 「そんなもん、どこにでもあるよ」 とか、 「おれはこんな足型知ってるぜ」 という方はぜひご一報ください。(詳しくは路上足型研究所へ)

 日も暮れ、「とりあえず薬王寺の駐車場で寝ようかな」と考えつつ歩いていたぼくの前にワゴン車が停まりました。通り過ぎようとすると窓が開いて、
「お前今日泊まるとこあんのか」
と怖そうなおっさんの声。
「いえ、野宿考えてるんですが」
「ここから2km行くとな、俺の店やけど、バス改良して泊まれるようになっとる。今日は3人来る予定になってるが、一緒に飯用意してやる。いいか、途中休まずに来いよ。遅れたら飯ないぞ」
そう言って、おっさんは店の名も言わずに走り去ってしまいました。面食らいながらも、言われたことを手がかりに歩いて行くと、見つかりました。
《はしもと》という和食の食堂らしきお店でした。店は既に閉まっており、裏口を覗いて
「先ほど声をかけていただいた者ですけど・・・」
と恐る恐る声をかけると、さきほどのおっさんが仕事をしており、
「おう、意外と早かったな。荷物をバスに置いて、飯取りに来い」
とのこと。庭先に置かれている廃車バスに行くと、中は座席が撤去されており、畳やら布団やら蛍光灯やら、テレビまで完備されており、先客のお遍路さん(ぼくより年上の男ばかり)3人がごろごろしておりました。
 先客のおっさん遍路に聞けば、この店の主人橋本さんはけっこう遍路界では知られた篤志家で、宿も飯も無料で提供してくれているとのことでした。
 その日の夕食は、ごはん、煮物、てんぷらの煮浸し、ツナなど。どれも冷めてはおりましたが、昼のコロッケ定食はボリュームに欠けていたので、ぼくはがつがつと平らげました。腹が減ったときゃ、なんでもうまいですな。

 近くのホテルで温泉(硫化水素泉)が500円で入れると聞いたのでそこに行き、来る途中見つけたコインランドリーで10日ぶりに洗濯し(靴の内底も洗いました)、発泡酒を買って帰ってくるとバスはもう消灯されておりました。
 先輩方に恐縮しながら暗闇の中で発泡酒を流し込み、その辺の毛布をかき集めて寝ました。
 身体も服もきれいな状態にリセットされ、いい心持ちでした。
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11月2日(上)

 橋本さんの善人宿で一緒になった人は、以下の三人の方々です。
一人目
40歳代の筋肉質のおっさん。遍路18周めだとか。慣れた様子で善人宿のことをよく教えてくれた。朝早くに出て行った。
二人目
50際近くの人の良さそうなおっさん。長野市出身で、自転車にカセットコンロなど、荷物を満載して回っている。この人も、一人目のおっさんほどではないらしいが、けっこう回ってるらしい。
三人目
 東京都出身の三十代と見えるあんちゃん。線が細く、もの静かでちょっとインテリっぽい感じがする。遍路二回目で、今回は「テロとその報復が世界から無くなることを祈るために回っている」とのこと。薬王寺でも会ったが、ずいぶんと熱心にお祈りしていた。

薬王寺では、境内からの港町の景色がよかったので、丁寧に絵を描いたり、三人目の兄さんとおしゃべりしていたら、あっというまに昼近くになってしまいました。
 少し歩いた定食屋に入ると、様々な小鉢を選べるシステムで、家庭料理風の献立が多かったので目一杯食ってしまいました。 全部で1,250円ナリ。
ううむ、献立としては毎日実家で食べていたのと同じレベルだったのに。家の有り難さを実感しました。

 腹一杯になって歩きだしたのですが、皮膚が固くなってほぼ治りかけていたと思っていた左足のマメが、どうも痛んで歩きにくい。靴下を脱いで見ると、マメの部分が赤黒く変色しています。これはどうやら血マメが固まって肉を圧迫して痛むに違いないと思い、試しにハサミでその部分の皮を切って見ると、どろり。緑色の膿が流れ出ました。
(なんだ、治ったと思ったら膿んでたのか)
と、膿を出し薬をつけて歩きだしてみると、さっきまでの痛さがほとんど無いではありませんか。数滴の膿を出すだけでこれだけ違うとは、びっくりしました。

 それから1時間ほど歩いたでしょうか、国道の対岸を、向こうからおばあさんが乳母車を押してよちよち歩いてくるのに会いました。
 よく見れば、杖とすげ笠を持ったお遍路さんです。おばあさんが手招きするので道を渡って近寄ると、
「おめさん腹は減ってねえか。これ、オバア(自分のこと)がもらったやつだけど、食い切れねえからもってけ」
と、おむすびを3つ分けてくれました。おばあさんは70歳は越えているでしょう。もう腰も曲がり、歯も前歯が少し残っているだけ。服も持ち物も、決していいものではありません。しかし杖はしっかりと乳母車に縛り付けてあります。
「失礼ですけど、何度も回ってらっしゃるんですか」
「13年前からなあ。もう、60回まわったよ。逆打ちだと、こうしてみんなに会えるだろ。もうオバアは齢だから、山道はお大師さんに勘弁してもらってるけどなあ」
乳母車を見ると、しっかりとアウトドア用の銀マットが積んであります。老婆と銀マット。これほど似つかわしくないものもありません。
「まだ11月はあったかいけどなあ。冬になると雪も降る。去年は雪が深かったなあ」
「ずっと野宿で?」
「駅とか、バス停とかなあ。托鉢してな、知り合いが多いから、いつもお接待くれるんだあ。このむすびもなあ、知り合いのおばさんが後から追いかけてきてくれたんだ。宿に泊まりながら歩く遍路は金持ちだから、オバアにゃメじゃねえ。アニイ(ぼくのこと)は野宿だろ。だからむすび、わけてやるんだ」
「ありがとうございます」
「今日はどこまで行く」
「鯖大師まで行ければいいなあと思ってるんですが」
「あそこは泊めてくれるって話聞くぞ。オバアは泊まったことねえけどな。頼んでみるがいいぞ。道中気をつけてなあ」
そしておばあさんはまた、よちよちと歩いて行きました。
 うひゃあ、すごいのに会っちゃったぞ。ぼくははじめて、本物の四国遍路に触れた気がしました。
 あのおばあさんが、信心に基づいたお遍路さんなのか、それとも職業遍路と呼ばれるいわゆるお乞食さんなのか、よくわかりません。しかし、たとえ職業遍路だとしても、あれだけの年齢なら、生活保護とか、施設に入るとか、もっと楽な定住生活ができるはずです。
 それとも、何か深い祈願をかけて回っているのでしょうか。彼女を苦しい遍路の道に駆り立てているものは何なのか。想像しようとすると怖くなります。
 どこだったか前の札所で、60代くらいのおっさんのお遍路さんがいきなり
「これやるわ」
と、金色の納め札(巡拝100回以上の遍路が持つ札)をくれたことがありました。自慢のつもりなのかなんなのか、その時は困惑しましたが、今ではガイドブックの栞として重宝させてもらっています。
 あのおばあさんみたいな歩き遍路もいれば、車を使って、チビ黒サンボのトラみたいにぐるぐる回って自慢する人もいれば、大型バスでどやどやと回り、写真撮ってうまいもん食って帰って行く団体さんもいれば、ぼくみたいにミーハー野郎もいる…。
 四国遍路の世界は、なんか、すごいですよ。
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11月2日(下)

 24番の最御崎寺(室戸岬)に向かう途中、牟岐という町を通ります。都築響一著『珍日本紀行』に、牟岐には正観寺という寺があり、そこの八大地獄という見世物がスプラッター入ってて最高だ、と出ていたのを思い出して、その寺に立ち寄りました。
 正観寺は華厳宗で東大寺の末寺らしいのですが、立ち並ぶ鉄筋建の伽藍は新興宗教じみた派手さ加減で、入る前から期待を煽られてしまいました。
「八大地獄こちら」
の看板に従って入って行くと、その入り口は建設現場用の足組で覆われ、受付にも人の気配はありません。B級スポットの運命として、ここも閉鎖されてしまったか、と一瞬思いましたが、インタホンのボタンを押すと
「はい、ただいま参ります」 の声。作務衣着たお坊さんがやってきて、シャッターを開け、電源を入れたとたん、暗い入り口の奥から
「ウイインガコン、ウイインガコン」
という機械音が聞こえてきました。
八大地獄
八大地獄

 中に入ると、閻魔様の裁きを受けるところから始まって、8種類の地獄で苛まれる亡者たちの姿を動く模型でビジュアル的に解説しています。
 ほとんどお化け屋敷でした。鬼に臼で曳き殺される亡者(亡者だから死なず、永遠に苦しむわけですが)、槍で串刺しになっている亡者、腕がもげて転げ回っている亡者、怪獣にかじられて振り回されている亡者・・・。
 うっすら埃はかぶっておりますが、飛び散る血糊の表現などは生々しく、血みどろの惨劇がこれでもかこれでもかと通路を埋め尽くしているのです。おまけに出口は改装中で通行止。荷物を置いた入り口まで元来た道を戻らなければならず、
「あんなおっかねーとこ、また行かにゃいかんのか」
とげっそりしてしまいました。ほんと、地獄なんてものを考え出して民衆に説いて回った坊主って、けっこうよくない趣味の人ですよね。
極楽休憩室
極楽休憩室

 ただ気が抜けたのは、地獄通路を抜け終えるとお釈迦様の絵が描かれた部屋があって、机と椅子が真ん中にぽつんと置かれていることでした。外に出てからお坊さんに「あの部屋は何ですか」と聞いたら、
「一応休憩室ということで作ったんですけどね、使うのと言ったら、アベックくらいですかねえ」
…アベックが来るんですね、こーいうところに。
 来客者はほとんどいないらしいですが、時々年寄りなんかが孫を躾のために連れて来るそうです。子供がこんなの見たら、絶対トラウマになるぞ。

 こんなおっかないもの見て、今夜一人で野宿するの怖いなあ、と思ったので、先に会ったおばあさんの言葉を思い出し、番外霊場の《鯖大師本坊》というところに泊めてもらうことにしました。
 お寺の社務所に行って
「すみません、お金ないんですけど、どこか夜露をしのげるところがあったらお借りできませんか」
というと、お寺の人はしげしげとぼくを見て、
「ありますよ。…あなた、お遍路さんですよね」
と念を押した上、境内の隅のプレハブ小屋を開けてくれました。部屋の中は畳やテーブル、鏡、本棚、布団などが揃い、最高でした。テーブルを見ると
『心のふるさと発見マガジン へんろ』
という、お遍路専門の月間雑誌がどさと積まれてありました。あるんですねえ、こういう雑誌が。 中を開くと、托鉢遍路さんへのインタビューやら、投稿やら、お寺のグラビアやら、しっかりマトモな雑誌になっています。遍路グッズの広告もあり、
「専用シューズで快適な遍路修行を」
…って、なんか違うんじゃないか?お遍路業界も、奥が深いんだか浅いんだか。
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11月3日

 朝から雨でした。ゴアテックスのレインウェアを着こみ、宿を借りた鯖大師本坊で納経を済ませ、歩きだしました。
 途中、海部町で「イーランド(EEL-LAND)」という大ウナギの水族館に入りました。海部町は数少ない日本でのオオウナギの生息地で、全国に4ヶ所指定されている天然記念物のうちの一つです。館内には体長2mの「うな太郎」(17年物、日本最大)や、1.5mの「ニュー太」など、十数匹の大ウナギが水槽の中で寝そべっていました。もう、ウナギというよりナマズに近い太さです。
 大ウナギと普通のウナギとは脊椎の数が違うのだとかいろいろ説明がありましたが、肝心な
「大ウナギは食ってうまいのか」
ということについては、全く解説がありませんでした。大ウナギで町起しして、マンホールの蓋まで大ウナギの図柄なんだから、かば焼きが旨いかどうかはあるにしても、
「真夜中のお菓子・大うなぎパイ」
くらいは売り出すべきだ。
 ちなみに最後に大ウナギクイズがあり、ぼくは15問中13問正解して「ウナギ博士」の称号を与えられました。全問正解していたら、きっと「大ウナギ王」くらいもらえたかもしれません。

 海岸沿いの道の駅で休んでいたら、静岡から来たライダー遍路の兄ちゃんが、缶コーヒーを奢ってくれました。
「俺なんかバイクじゃなくて車で来ればよかったなと思うくらいなのに、歩きとはすごいですね」
「そ、そうスかねえ」
 その兄ちゃんから逆打ちの意味を教えてもらったのですが、四国では、亡者はお大師様と一緒に88カ所を回っているという言い伝えがあるので、夫を亡くした未亡人などは、死者に会うために逆打ちに出るのだそうです。
 亡者はお大師様と一緒に順打ちをしているので、逆打ちで一周すれば、2回は死者と出会うことができる、という理屈なのだそうです。
 してみると、昨日会ったおばあさんも、亡くした人と会うために逆打ちをしていたのでしょうか。確かに彼女は
「こうして逆に回っていれば、いろんな人に会えるからなあ」
と言っていました。「いろんな人」というのは、生きている人だけではないのかも知れません。

 夕方4時ころに、東洋町にある《東洋大師明徳寺》という番外のお寺にお参りしました。お大師様を祀っているのに、5色の幣束が吊るされていたりする、修験系の気配が漂う寺でした(夜になると住職が九字を切りながら滝に打たれてました)。
「誰でもピカソ」に出てくる熊さんを恐くしたような住職さんが、
「こっから先は難所だぞ、次の町は20km先だぞ、引き留めるわけじゃないが、あした24番まで行ければいいと考えてるんなら、うちの宿泊所に泊まってけ」
と、おっしゃってくれたので、お言葉に甘えることにしました。
 東洋大師の宿泊所(ここも無料)は、布団はもちろん、ストーブもあるし洗濯機やシャワーも使わせてもらえるし、赤チンやらバンソコまであって、野宿者には至れりつくせりでした。また『学習マンガ 空海』があって、それを読んで随分勉強になりました。
まがりなりにも大学で民俗学を専攻したものとしては、事前にじっくり勉強してから遍路に出るべきだったのでしょうが、何せただ憧れと勢いだけで出発してしまったもので。
 不勉強なわたしが仏教のことで一番よく分からないのは、最初釈迦の教えは「諸行無常」「色即是空」みたいな哲学思想だったのでしょうに、どっから阿弥陀やら大日やら観音やらが出て来たんですかね。釈迦の教えに、そうした如来や菩薩の存在を説いた内容があったんですか?今じゃ釈迦は如来のうちの一つになってるし。旅から帰ったらちゃんと勉強しよ。
あとよく分からないのが、
「欲を捨て一心に仏に願えば、望みはかなえられる」
という理屈。願い事ってそれ自体が欲じゃないのかな。欲を捨てたら仏を拝む必要もないよねえ。欲がないってことは、それこそ悟り開けてるわけだし。
「欲を捨てたい」
なんて願いもそれ自体欲だし。
そういう疑問を口にすると、
「仏の教えは理屈じゃないんな、身体で感じるものなんな、イマイ君にゃわからんかも知れんな」
みたいなこと言われそう。実社会で「欲を捨てたい」なんてこんなこと考えてちゃいけないでしょうね。国民が欲を捨てたら、経済活動がマヒしちゃうから。

 などと思考の輪廻にはまっているところに、
「すいません、今日ご一緒させていただきます」
と、濡れネズミの歩き遍路さんがやってきました。聞けば一昨日ぼくが泊まった橋本さんのところから、今日一日で40km歩いて来たとのこと。恐ろしいですね、ぼくには真似できません。
 彼は下着もリュックもびしょ濡れの様子で、住職さんが作ってくれたラーメンを 「うめええええ」
と言いながらむさぼっていました。
 彼はぼくより下の25歳、会社を2年ほどで辞め、バイク放浪の後歩き遍路に来たのだそうです。ほんと、似たような奴ばっか。
 布団が一組しかなかったので、どうしようかと思いましたが、彼が
「いいですよ、ぼく寝袋で寝ますから」
と言ったので、ぼくだけ布団で寝させてもらいました。悪いなあとも思ったのですが、遠慮のしあいって、オバサンっぽくて嫌なんですよね。

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