四国巡礼てくてく編(土佐1) 四国巡礼てくてく編(土佐1)

11月4日


 同宿の彼(静岡出身の松井君)は、部屋に干した衣類の取り込みなどで時間がかかるということなので、部屋の掃除も彼にまかせ、午前7時に東洋大師を出ました。住職が
「よく眠れたか、気をつけてな!」
と言って合掌して送ってくれました。
 遍路に出ると、時々合掌されます。されるとあわててぼくも合掌します。 今日び、ご飯食べるときすら手を合わせることがなくなっているので、ドキドキします。

 雨上がりで、最高の快晴でした。24番最御崎寺のある室戸岬まで、太平洋沿いの国道55号線をひたすら歩きます(東洋大師から約35km)。磯に打ち寄せる波しぶき、潮風、いい気持ちです。
 ただ一つのアクシデントは、財布に530円しかないのに、郵便局が日曜で閉っており、金が引き出せなかったことでした。
 11時ころ、ようやく見つけた小さな郵便局に寄ると、局員さんはいましたが業務は行っておらず、
「室戸市街までいけば、午後2時までやってるとこがあるけど・・・」
3時間で20km以上をどうやって歩けっちゅうんじゃあ。
 お寺での納経のために、300円はとっておかねばなりません。 残る230円でどうやって明日の朝まで食いつなごうか、と考えながら歩いているうちに、道の両側から民家が消え、辺りは山と海だけになってしまいました。ゆうべの晩飯はコンビニむすび2個。今朝の朝飯は板チョコ1枚。途中、京都ナンバーの車のおばさんからもらったお接待があめ玉3つ。
 後、手元にあるのはハイチュウ5粒、ジャッキーカルパス(つまみ用のちっちゃいサラミ)が2つ。
 昼は、1個のジャッキーカルパスをじゃぶりながら、15km歩きました。ひもじかったです。
 
途中、「即身成仏 法海上人堂」という小さなお堂が海を見下ろす斜面に建っていました。お堂の中には小さな宝筺印塔がありました。何も由来書がなかったのでわかりませんが、なんとなく補陀落渡海した坊主を祀るお堂のような気がしました。

 ようやく室戸岬に着き、巨大大師像を拝み、弘法大師が修行したという御蔵窟(みくろど)を見物してから、険しい山道を登って24番最御崎寺に着きました。
 この寺には団体客用の宿泊施設「遍路センター」があり、トイレを借りるために中に入ると、折しも食堂では夕食の準備がされておりました。あー、いーなー、と横目で眺めながら外に出、山門を出ようとしたら、東洋大師で同宿した松井君と出くわしました。彼は今日の宿が決まっていないということだったので、
「よけりゃ俺のテントで一緒に寝てもいいよ」
と言って山を下りました。
 もう少し歩いて室戸市街に入る手もありましたが、弘法大師も拝んだ室戸岬の日の出が見たくて、その夜は近くの駐車場でテントを張り、ハイチュウをなめて飢えをしのぎました。
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11月5日

 室戸岬は風の強いことで有名なのですが、幸いテントは飛ばされずにすみました。朝早く起きて磯に出て、でかい岩の上に座ってザウルスで喜太郎の音楽(シルクロード・巡礼の道など)を聴きながらご来光を待ちました。
室戸岬の夜明け
室戸岬の夜明け

 室戸岬は弘法大師が虚空蔵求聞持法を体得した場所だそうで、なかなかオツな気分に浸れました。朝飯も食わずテントを畳み、絵葉書を描き、5キロ歩いて、郵便局と店のある室戸市市街地に行くのは難儀でしたが。
 ようやく金を降ろし、コンビニで朝飯を買いました。
 それだけを一気に食うと腹も落ち着いたので、次の25番津照寺に。由緒はあるらしいのですが、建物は皆新しくて、あまり味のある寺ではありませんでした。ここで、一昨日道の駅で缶コーヒーを奢ってくれた静岡のライダー遍路、山本さんに再会しました。なんでも、友人宅で一日のんびりしていたとかで、
「驚異的に早いですね」
と驚かれたので
「そうっスかねえ」
と頭を掻いておきました。

 津照寺を出たらお昼時になっていたので、先程食べたばかりだったのに門前の食堂でカレーを食べてしまいました。
 少々食い過ぎたようで、次の26番金剛頂寺へは登りの山道だったので、途中気持ち悪くなりそうになりました。山道の途中で、どでかいリュックを背負った男の遍路さんとすれ違い、道を教えてもらいました。
もうおじいさんに近い齢で、着ている物もかなり年期が入っているようでした。
金剛頂寺のトイレで充電と排泄をし、のんびり絵を描いているうちに腹の方もこなれてきて調子がよくなりました。
 さて歩くぞ、と立ち上がり、時計を見るともう夕方。山を下り、3kmほど先の駐車場のあずまやにテントを張りました。山を下る途中の道は、田圃の畦を通ったり、狭い農家の脇道を通ったりして、いかにも遍路道といったいい風情の道でした。
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11月6日

 夜から大雨になる、とはいろんな人から聞いていたので、あずまやの下にテントを張ったのですが、果たして、真夜中に土砂降りが来ました。この地方は風が強く、テントにもバラバラと飛沫が当たりました。中は濡れないんで大丈夫だったのですが。雨の日は温かいので、安心して眠れました。
 飯田の自宅に電話したら、今日ストーブとコタツを出したとのこと。長野はかなり冷えているようです。

 朝には雨も上がったので、濡れたシートを乾かして出発しました。一夜の宿をお世話になったお礼として、あずまやに捨ててあったゴミを、自分のゴミと一緒にしてちゃんとした場所(コンビニのゴミ箱)に捨ててあげました。俺って良い奴でしょ、ねえお大師さん。

 27番神峯寺(こうのみねじ)へは、25kmほどの道程です。国道55号から逸れて細い遍路道に入って行ったら、昨日金剛頂寺の手前で会った年季の入ったお遍路さんに再会し、同道になりました。
 彼は広島出身のMさん(56歳)で、もう10年以上歩き遍路を続けている半職業遍路でした。僕が先日あったおばあさん遍路の話をすると、
「ああ、あの人のことならよく知ってるよ。
お金の無心はされなかったかい?」
「いいえ、逆におむすびをもらいました」
「へえ、あのおばあさん、そんなこともするのか」
彼の話すところによれば、あのおばあさんも年季の入った職業遍路の一人で、別に信心で遍路しているわけではないそうです。
「あの歳になっても、家族が面倒見ようとしないってことだから、あの人も深い事情があるってことだよね」
亡き夫を偲んで逆打ちしてるのかと想像してた僕としては、少しがっかりなような。
「後、有名な古株遍路としては、『熊さん』のあだ名で呼ばれてる髭面の人がいるんだ。きっとどこかで会うかも知れないよ。彼は今どこらあたりかなあ…」
「10年も遍路やってると、遍路する人の変化から社会の世相が見えてくるってことはありますか」
と僕が聞くと、
「あるよ。特に最近は遍路ブームだからね、遍路する人が増えたよ。春なんかは遍路の季節だからね、歩き遍路がうじゃうじゃいて、宿はどこも満杯さ。
 ぼくが歩き始めたころなんて、バスで巡る団体はいたけど、歩き遍路はほとんどいなかった。一周する間に2〜3人、会うか会わないかくらいだったからね。白装束着て歩くのが恥ずかしかったよ。  今は若い子で歩いてるのも多いけど、中年男で野宿の歩き遍路してて、暗い目をしてる奴は要注意だよ。借金とかリストラとかで、自殺の場所を探しに来てるのも多いから。年に数回だけど、お堂で首吊ったりとか、あるよ」
Mさんの話は続きます。
「じゃあ、今の歩き遍路で、本当の信仰心で歩いてる人ってのはいないんですかね」
とぼくが聞くと、彼はきっぱりいいました。
「いないね。遍路は修行だって言うけど、これだけ道が整備されちゃ修行にもならない。本当に修行するんだったら高野山の山の中とかでやらなきゃ。
 坊主の格好して、『お大師様がどうとか』ってもっともらしいこと言って門前で托鉢してる坊主風の奴がいたら、逆にうさんくさいね。そういう奴に限って、お布施が集まったら夜の店行って酒ばかり飲んでるんだよ。
 ぼくだって社会からドロップアウトした側の人間だけどね。まだ托鉢はせずに済んでるけど、四国を離れては生きてけない。遍路って大義名分があるから、堂々と野宿もできるしお接待も受けられるんだ」
僕が、
「ぼくも、今まで何回かお接待を受けると癖になりそうで恐いんですよ」
と言うと、 「特に若い子はお接待を受けやすいからね。女の子なんて、100円のパンを買いに個人商店に入ったら、カマボコだのチクワだの、食べ切れないほどもらってくることもあるから。お接待してくれるのはおばあさんが多いし、そうした人にしてみれば、歳を食った男よりも若い子の方が孫みたいで可愛いし、何より安心できるからね。
 そうなると遍路する子の方も自然と知恵がついて、わざわざ個人商店でカップラーメン買って
『お湯下さい』って言って、
『いいよお接待するよ』とタダにしてもらうのを期待したり、夜になると家々を回って
『野宿できる場所はありませんか』って聞いて回って、
『泊めてあげるよ』って家に当たるのを狙ったりね。
 人の親切をあてにしてずるくなる自分に途中で気づいて『やばいな』と思える人はいいけど、 気づかないまま抜けられなくなる人も、少数だけど、いるよ。
一度親切にしてもらった家に、二度行くようになったらおしまいだね。親切をあてにして、物乞いに行くのと同じだから。って、ぼくは若い人に言ってるんだけど」
Mさんの話振りはかなり筋が通っていて、年季の入ったその風体とあいまって、その語りは恐ろしく説得力があるのです。
「八十八ヶ所なんて、弘法大師よりも後の誰かが作って流行らせたんだろうけど、たいしたもんだよ。今じゃ札所の寺はほっといたって客が来るからね。黙ってても旅行会社の方から宣伝させてくれって頼みに来るんだから。寺の坊主の方も調子に乗って、寺の仏像なんかを借金のカタに入れて、女囲って豪遊した奴とかいるしね。」
「…まあ、修行とかそういうのはともかく、旅のかたちとしては、遍路はいいですよ。歩くと体にもいいし、頭がすっきりするしね。遍路に限らず、初めての道を歩くってのはいいね。だからぼくは、四国を回るにしても、なるべく通ったことのない道を通るように心掛けてるんですよ。じっとしてると、淀みにはまって精神に良くないよ」
お接待の虜になり、四国遍路の輪から出られなくなってしまった人にとっては、四国自体が大きな「淀み」なのかもしれません。

 そして、Mさんは鉛筆画を描いているということで見せてくれました。彼の画風は二通りで、ちょっと少女マンガっぽい観音様や猫の絵(顔に似合わない)と、頭を空っぽにして紙の上を塗りつぶしていき、なりゆきに身をまかせるという、抽象画っぽい絵の2種類です。
 後者の絵は、ほとんどが真っ黒だったので、最初、何かカーボン紙がわりに使うために塗りつぶしたものだろうと思ってしまいました。
「何かを描こうと思って描いてるわけじゃなくて、見る人がどうとでも想像してくれればいいんですけどね」
と彼は言っていました。
(個人的には、そういうことを言って抽象的なものを作る芸術家のことを、ぼくはよく理解できません。Mさんの場合はプロではないし、ぼくが見せて下さいと頼んで見せてくれたものだからいいのですが、プロの芸術家の、なんだか良く分からない作品を見せられて、
「それが何を表現しているかは、見る人それぞれが感じてくれればいい」
というような作者のコメントがついていると、
「そんな無責任なものを芸術と称して他人に押し付けるなよ」
と言いたくなるのですが。)
 どちらも一定程度描きたまったら、ある人のところに送っているのだそうです。どうやらその人が、彼に生活費を仕送りしているようでした。
 彼との話は尽きず、
「非常食にはピーナツが一番経済的だ」みたいな話まで聞きました。
お昼過ぎに彼は
「じゃあここでぼくはゆっくりしてくから」 ということだったので、
「握手させてください」
と握手してもらって、別れました。
いやあ、四国っていろんな人がいるもんだなあと、彼と別れてからもぼくは歩きながらずいぶんの間にやにやしてしまいました。

 Mさんとゆっくり話をしていたお陰で、27番の神峯寺への山道を、大急ぎで登るはめになりました。
 神峯寺は海を見下ろす山の上にあり、土佐で一番の難所とのこと。痛くなる横っ腹を抱え、遥か上に見える建物を睨みながら汗だくで登りました。幸い体力も温存していたので4時50分に納経所に滑り込みました。
 なぜかここの寺はサービスが良く、歩いて来た人にはコーヒーとビスケットが出され、
「野宿の方は泊まってっていいですよ」
と宿泊所にも入れてくれました。
「ラーメンくらいなら作りますよ」
「あ、ありがとうございます」
インスタントラーメンが出て来るのかなと思って待っていると、チャーハンを作ってもって来てくれ、感激しました。お茶とみかんとバナナと昆布の佃煮もついていました。ありがたいかぎりです。
 でも、こういうお接待を期待するようになってしまうと、危ないんですよねえ。常にお接待に感激できるような、謙虚な心構えでこれからも歩き続けなければ、「四国の輪」の中から抜けられなくなるのかも…。
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11月7日

 神峯寺での一夜は、なぜかなかなか眠れないものになりました。昼間会ったMさんのインパクトが強すぎたせいでしょうか、寝付けないまま
「札所巡礼という形式を他の地域にも導入して、ホームレス問題に応用できないか」
とか、
「職業遍路を社会機能に組み入れて、なんらかの役割を果たせるように組織化できないか」
なんてことを夢うつつに考えておりました。

 寺の宿泊所でも、朝飯はさすがに出ないので、非常食に買っておいた一口チョコを朝飯代わりに食べていたら、食い過ぎたのか鼻血が出ました。どういう仕組みなんですかね。
 朝は7時前に宿泊所を出て、近くの神峯神社にお参りし、山を下りました。次の28番大日寺には40km近くあるので、今日中に着くのは無理です。ぼちぼち歩いていると、足が痛い。靴を脱いでみると小さめなマメができておりました。もうマメのできない足になっただろうと思い込んでいたので、 少し意外でした。道の駅の隅に座り、マメを針でつついていると、通りすがりのサングラスのおっちゃんが
「ほう、やっぱりそんなに足が荒れるのか」
と覗きに来ました。
ぼくの足の裏は、マメができていた部分が黒く変色して(内出血してたのが固まったらしい)、カチカチになっています。
「いや〜ん恥ずかしい」
と照れ笑いをして、そそくさと靴下を履きました。道端で足の裏をいじってる歩き遍路って、いかにも哀れを誘う光景ですよね。

 歩き遍路のMさんに影響されて、僕もなるべく食費を安上がりにしようと、朝飯(兼昼飯)は、コンビニのカップラーメンとパンにしました。270円でした。
 確かに安く済みますが、あんまり極端なことやって体壊すとアホなので、ほどほどにしようと思います。
伊尾木洞
伊尾木洞

 安芸市に入り、「伊尾木洞」というのが近くにあったので寄ってみました。ここは都築響一の『珍日本紀行』にも紹介されてた所です。農家のわきのドブ川をじゃぶじゃぶ溯ると洞窟になっており、 それを抜けると緑のシダに覆われた崖の下に出ます。
 川は汚いですが、ちょっと独特の雰囲気があって、天然記念物に指定されているシダ群の説明看板なんかもあります。そして、
「少年ダビデ」
とか
「望み」
といったタイトルの彫刻があちこちに据え付けられています。雰囲気としては、文化祭で作った高校生の作品を、置き場がなくて持ってきたんじゃないかという感じ。
都築氏も 「シダの群生はすごいと思うが、そこに彫刻をもちこまねばならん必然性がわからん。彫刻は彫刻で、別の場所で鑑賞したいところだ」
と書いておりましたが、同感です。そもそも、この伊尾木洞は落ち着いて彫刻を鑑賞できる場所ではありません。歩道なんかないから、絶対靴はびしょ濡れになるし、腐った竹やら枯れた木やら、破れたビニールやらが散乱して足の踏み場ないし、川の水は生活廃水でうす汚れてるし。シダが生えてるくらいだから、全体的に薄暗くてじめじめしてるし。
 そんな素敵なところなので、皆さんもぜひお越し下さい。

 伊尾木洞を出て150mくらい行くと、今度は《寅さん地蔵》なるものが鎮座しております。寅さんシリーズでロケの誘致活動が成功し、『寅次郎花へんろ』が高知で撮影されるはずだったのが、渥美清の急逝でボツになり、そのために建立されたものだそうです。
 落書き帳を見ると、案の定歩き遍路がよく立ち寄っていました。ちなみに、御利益は交通安全と縁結びだそうです。

 晩飯は、どこかのスーパーに6時ころ入り、特売を狙おうかなと思っていましたが、その時分には店がなく、ようやくでくわした小さな個人商店に入りました。晩飯になりそうなものもあまりなく、UFO焼きそばとおむすびと発泡酒を買いました。
店のおばちゃんが「よけりゃここで食べてきな」
と、店の奥でお湯やお茶を出してくれ、柿を剥いてくれました。この店はよく遍路が立ち寄るのだそうです。
「最近近くに大きなスーパーができたからねえ、お客さんも減っちゃったから、店を半分にして、奥をこうして人によってもらえるようにしたんですよ」
とおばさんが言うので、
「へー、そりゃ大変ですねえ」
とぼくも相槌を打ちましたが、一方で(なんだ、もう少し歩けば、大きな店があったのか)と、冷酷なことを内心考えてしまいました。

「今日は冷えますよ。立冬だからねえ」
と言っておばさんは見送ってくれました。
今夜は川の横の公園みたいなところにテントを張りました。暦の上では冬に突入というだけあって、南国土佐といえど肌寒いです。ビール(もとい発泡酒)をかっくらって、思い切り重ね着して、寝てしまいました。
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11月8日

 川のほとりの公園でテントを張った朝、水道の蛇口で石鹸を使って軽く頭を洗いました。髭は2〜3日に一度剃るからいいのですが、放浪生活が一月ともなると髪の毛が伸びてきます。もともと髪には無頓着なほうでしたが、今はムースどころか櫛も持っていないので、はたから見れば、少々見苦しいと思われるかもしれません。
 ゆうべの商店のおばちゃんが 「最近は大きなスーパーができてなあ」
と言っていましたが、確かに歩いて5分もしないうちに、でかいスーパーに2軒も出くわしました。
「ほんと、もう少し歩けば、夕方の特売でましなものが買えたんだろうな。まあ、柿を剥いてくれたから損じゃないけど」
と、薄情なことを考えました。

 今日の目玉の一つは、28番大日寺の手前にある、「龍馬歴史館」でした。ここは『珍日本紀行』ものの一つで、坂本龍馬の生涯を26場面180体の蝋人形で再現している力づくの歴史館です。
 1,050円の入場料を払って中に入ると、長い廊下に沿って龍馬の先祖の一族の場面から、龍馬誕生、少年時代、剣術の修行時代、勝海舟や薩長連合成立、船中八策、そして最期の近江屋の場面まで、龍馬の一生を再現しているのです。
 一体200万円かけているというだけあって、すべて超リアル。髪の毛が一本一本植えてあって、手には血管も浮き出ています。遠目からは、生きた人間と区別がつきません。
 それほど人形の出来がリアルなだけに、どの人形も目が虚ろなのが不気味でした。人形同士の目線が合っていないのです。例えば、龍馬誕生の場面では、家族が笑顔で赤ん坊の龍馬を囲んでいるのですが、全員目線が泳いでいて、もしかしたらこの家族崩壊寸前なんじゃないかという雰囲気ができあがっておりました。
 それから気づいたのが、各場面に出て来る龍馬の表情が全く変わらないこと。例の、あの有名な写真そのままの表情。少し眉根を寄せたような、どこか不機嫌そうな顔付きが、青年時代から死ぬまで続いているのです。せめて「ハネムーン」の場面ぐらい、笑顔の龍馬にしてあげればよかったのに。
 龍馬コーナーの後には、今度は「世界の偉人」コーナーが続いています。マッカーサーや吉田茂、毛沢東、ガンジー、政治家が大半を占める中、最期の方に来るとなぜか「藤山寛美」。そしてだんだんお色気が入ってきて「クレオパトラ」「楊貴妃(入浴シーン)」「マリリン・モンロー」。
 マリリン・モンローは、客が近づくとセンサーが感知して蝋人形の下から風が吹き、スカートかひらつくという、完全な秘宝館テイストになっています。せっかく幕末ロマンに浸ってたのに、最後がこれかよ。しかもこっちの人形は、龍馬のより倍の製作費がかかってるんですって。

 龍馬歴史館を堪能してしまったおかげで、今日の札所は28番大日寺しか行けませんでした。29番国分寺の近くでテントを張ろうと6時まで歩き、晩飯を買いに通りがかりの商店に入りました。昨日同様、へぼい菓子パンくらいしかありません。
「お弁当になるようなものはありませんかねえ」
というと、
「すいませんねえ、今日に限ってないんですよ」
とお店の人が気の毒がり、
「賞味期限切れたのだけど」
とサトウのごはんを、
「残り物だけど」
と言っておでんをお接待してくれました。
いや、ぼくは別に物欲しそうな顔したわけじゃないですよ。
 ありがたいなあと感謝しつつ、ねぐらを探しながら歩いて行くと、観光ブドウ園がありました。天気が曇りで雨が降りそうだったので、その軒下にテントを張ろうかなとうろうろしていたら、農園の人にみつかってしまいました。
「兄ちゃんお遍路さんか」
「はい」
「家は真言宗?」
「いやべつに」
「ぼくは遍路はしたことないけど、密教の修行はしたことあるよ」
「へえ?」
「魔術の勉強もしたよ。今は心理カウンセラーもやってるんだ。そういうの興味あれば、話してもいいけど」
「そういうの、大好きです」
普通なら怪しい人だと警戒するかもしれませんが、僕自身、傍から見れば怪しい人なので、怪しい人同士馬が合い、ブドウ園の管理室で語り合うことになりました(ぼくは専ら聞き手でしたが)。
 彼(Nさん:40歳代)は日本大学で弁護士になる勉強をしていましたが、そのせいで精神的に不調になり、それを自ら治すために密教から陰陽道から西洋魔術まで、文献を参考に独学で修行したんだそうです。その後自分を立て直した彼は稼業のブドウ園を継ぎ、「密教を駆使して」巨峰の新品種を開発して事業を拡大する一方、心理学の勉強もして、農閑期には心理カウンセラーとしても活動しているんだそうです。
 かといって彼はさほどオカルティックなわけではなく、かなり理論的で冷めているところがあるので、話もそれなりに分かりやすく、面白いのでした。
「修行ってのは、目的持って、それを行えば効果があると信じてやれば、効果ありますよ。僕も虚空蔵求聞持法の修行してみたことあるけど、何日目かに目の前に光が見えて、『これが空海の言う明星ってやつか』と思ったもの。記憶万能になるまではいかなかったけど、あるとき目の前にあるものが 《向こうから目の中に飛び込んでくる》ような体験を一瞬だけしてね、『ああこれが、求聞持法で体得するものなのかな』って思ったよ」
 彼によれば、西洋魔術も東洋密教も通じるところがあり、その基本は伝統に裏付けされた手順(呪文を唱えたり、呪具を使ったり)を踏むことによって精神状態をコントロールし、ふだん眠っているコンプレックス(隠れた別の自我・人格)を呼び起こしてそれを利用する点にあるのだそうです。安倍晴明の使役した式神も、そうした自我のことなのだそうです。
「誰でも、たくさんの自我を持ってる。今自分を自分と認識してるのは、そのたくさんあるもののうち、完成度の高い一つにすぎない。他の自我が反抗したりすると、精神的に不安定になったり、ひどい場合には多重人格症になったりする。精神分析では、不満や悩み、恐れなんかの原因を見つけてやることで、それらを解消させてやる。理由がわかれば、その理由が真実かどうかは別にしても、人は安心して、無意識化の不安は消えるからね。
 ぼくが言えるイマイさんへのアドバイスは、これからなるべく多くの自我を味方にしなさいってことかな。そうすれば、漠然とだけど“自分は一人じゃない”って安心感が生まれて、自信がつくものだからね」
Nさんは最後に、四柱推命でぼくを占ってくれました。それによれば、
  1. 今年はぼくにとって変化の年で、会社を辞めて旅に出たのも当然の流れであること。
  2. 今月は関節の怪我や病気、特に左半身に気をつけるべし。
  3. 来年は就職の年、就職先の方角は自宅から見て南の方角(愛知県とか)が吉。
  4. 再来年あたりに結婚が来るだろう。ぼくと特に相性のいい女性は一つ年上の才色兼備で、
    「イマイ君たら、しょうがないわね」とかいいながらよく面倒を見てくれるだろう。
って、ホントかよ!?
この占いは一種の統計学で、あまりに的中率が高いので天海僧正が手を加え、的中率を8割に下げたといういいつたえがあるそうです。
 ポテチと缶コーヒー、ポカリスエットをごちになり、夜中の11時まで話を聞きました。
「まあ、自分が気の済むまで旅を続けるというのはいいと思うよ。とことんまでやって気が済めば、そのときに外的環境も整ってるものだ」
といって、Nさんは励ましてくれました。いやあ、ほんといろんな人に会うもんだ。
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11月9日

 昨夜は遅くまで魔術&心理学講義を受けていたので、朝はかなり起きるのが辛かったです。

 幸い雨も降らず、テントを畳んで29番国分寺へ。
 国分寺の駐車場には、荷物を荷車に積んで、地面に座って托鉢している男の職業遍路さんを見ました。
Mさんの言ってた「熊さん」かなとも思いましたが、挨拶だけでそれ以上話しかけるのはやめました(なんとなく面倒で)。

 30番善楽寺への途中、高知県立歴史民俗資料館があったので、入りました。
 民俗コーナーでは鍛冶屋の解説を中心に海・山・田の生業と信仰を紹介しており、やはり物部村に関する資料も多く、現代に生きる陰陽道「いざなぎ流」のふるさとに、改めてあこがれを熱くしました。
 常設展から企画展(長宗我部氏のことをやってた)まで、じっくり見ていたら3時間以上経ってしまって、30番に着いたのは5時ぎりぎりでした。

 寺そのものはつまらなかったので、隣の土佐神社の絵を描いていたら真っ暗になってしまいました。
 もう高知市内に入っていたので店も多く、スーパーで寿司やらおかずやらを買い込んで、数キロ歩いた小さな公園でテントを張りました。
 夜1時ころ、バイクの近づく音がしたかと思うと女性の声で
「いらっしゃいますか」。
「はい」と返事すると、
「泊まってるんですか」
「はい」
それだけで、またバイクは遠ざかって行きましたが、約一カ月間の野宿生活で、テントの外から声をかけられたのはこれが初めてだったので少し驚きました。小学校が近くにあったから、PTAのパトロールが来たのかしら。
 それとも、近所の住宅から「公園に怪しいテントがある」と通報があって、婦警さんがかけつけたのかしら。
 声の主の姿は見なかったので、想像ばかりが膨らんでしまいました。

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