四国巡礼てくてく編(讃岐1) 四国巡礼てくてく編(讃岐1)

12月13日

 案の定、朝はビチョビチョの雨でした。冷たく濡れたそぼったテントを畳んでいると、なんだか暗い気分になります。

 昨夜きれいに夜景が見えた川之江の市街も、すっぽりと霧に覆われていました。
 昨夜のうちに菓子などの常備食を食い尽くしてしまい、田舎道とて店もなく、すきっ腹を抱えて66番雲辺寺を目指します。
 この寺は八十八ヶ所中、最も標高の高いところにある寺で、横峰寺に勝る難所と言われています。明日の朝登ることにして、今日は登山口まで歩く計画です。

 途中、椿堂という番外札所に寄りました。椿の古木が夜な夜な村人を襲ったのを弘法大師が退治した、という伝説ではなく、
村に流行った疫病を大師が地面に杖を突き立てて封じ込め、その杖から椿が生えて木になった、という伝説があります。
ここで納経帳を書いてくれたおばさんは、素人らしく、お手本の紙を見ながら書いていたのが印象的でした。
納経料がいくらなのかも知らなかったし。そのかわり、ちゃんと
「お参りありがとうございます」 と言ってくれました。
他の札所も見習ってもらいたい。
この寺で100円で買ったのが、「絵解き般若心経」。
お経の一文字一文字に絵が添えられてあって、どうやら一般庶民にも分かりやすくお経を解いているということのようなのですが、はっきり言って、その絵が何なのか、それをしっかり説明してもらわないと、さっぱり意味の分からない代物でした。

 空腹のままふらふらと国道を歩き、「境目トンネル」というわかりやすい名前のトンネルをくぐると、長い四国遍路もついに最終の「涅槃の道場」。
 ようやく「水車」とかいう国道沿いのうどん屋で日替り定食(800円、てんぷらうどんとちらし寿司)にありつき、となりのコンビニでおむすびやらパンやらビスケットやら、変わり映えしないものを買い込んで明日に備えました。

 登山口である雲辺寺口には、夕方4時頃たどり着きました。
東屋などがあるかとそのへんをうろうろしてみましたが、そんなしゃれたものはありません。仕方なく、集会所の軒下に、雨の中濡れたテントを広げて設営しました。
 濡れているので、夜はレインウエアを着るわけにいきません。ラジオでは、今年一番の寒気が近づいているとのこと。どうなることかしらと思いながら、シュラフにもぐりこみました。
 最近、いつもラジオを聞いています。今日はNHKの「いきいきホットライン(やなタイトルだ)」で、ベンチャー起業のことをやっていました。
過去にベンチャーを立ち上げ、大儲けした後大破産した人がゲストとして来ていて、
「ベンチャーを起こす人に必要なのは、全て自分でやっていこうという姿勢と、起業して何をしたいのかというはっきりした目的と、いつまでにどれほどの規模の会社にしたいのかという具体的な目標値だ」
と言っておりました。いずれ自分の進路を決めなければいけない僕にとっても、何をしたいのかはっきりさせることは今のうちに結論を出さなければならない宿題です。
ううむ、やっぱNHKラジオはためになるなあ。

 それにしても、なんで携帯ラジオだと、鮮明に聞こえるのが朝鮮語の放送ばかりなんだろう。

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12月14日

 地獄のような寒さでした。
…と書くと読者が心配するから、こうしよう。
 なかなかの寒さでした。
 レインウエアが着れないのと、下がアスファルトなのとで、ろくに眠れませんでした。それでも、夢を見た記憶があるので、いくらかは寝たのでしょう。覚えてないけど、やらしい夢だったような気がします。
 朝方、ぱらぱらとテントを叩く音がするので、窓から外を覗いてみると、あられが降っていました。ついに空から固体化した水が降るようになる時まで、テント暮らしで来てしまったかと、感慨にふけりました。
 風の強いのが、寒さに輪をかけます。テントを畳む時も、かじかんで手がうまく動きません。風のせいか、テントはだいぶ乾いていましたが、下のシートはびっとり濡れていて、それをタオルで拭き、濡れたタオルを絞る時なんかは、脇でぼくの表情を観察する人がいたら大受けだったでしょう。こういう朝が毎日続くとしたら、遍路は確かに修行です。

 死ぬ思いで身支度を終え、昨日の雨で冷たく濡れた靴に足を突っ込み、山を登り始めました。
 山登り自体は、ゆっくりマイペースで登ればいいわけで、またいくら88カ所最高峰といっても石鎚山ほどではないわけで。
 気温が低かったこともあってさほど汗もかかず、なんだかんだ歩いているうちに66番雲辺寺に着きました。
 ただしきついのは着いてからで、雲辺寺の寒さは半端ではありませんでした(青森の寒さなんかに比べれば、半端なのでしょうが)。道は凍り、白く雪が積もっていました。手水鉢も氷が張っていました。これで手を洗うのは拷問でした。
 手がかじかんでいるのでロウソクや線香に火を付けるのも一苦労。風が強いので、ロウソクの火はすぐ消えてしまいます。お経を唱え終わって、納め札に書く住所氏名も、なんだかわからない字になってしまいました。

 やっとの思いで納経を済ませ、休憩所みたいなところでおむすびを食っていると、でかい荷物を背負った歩き遍路のおっちゃんと一緒になりました。四国巡りは2回目とのことでしたが、笈摺も金剛杖も菅笠も持たず、納経も、かといって托鉢もしていないようだったので、彼自身は遍路というより「遍路道を歩くのが好きな人」程度の自意識なのかもしれません。
彼は昨夜は扉のあるバス停に泊まり、座布団を重ねて敷いて寝たので全く寒くなかったと言っておりました。
 それらの寝場所情報は、歩き遍路用の地図に詳細に載っており、彼もそれを見て歩いているのでした。ぼくもその地図(1冊3000円)を買えば楽できるのでしょうが、荷物になるのと、そんな丁寧なものを頼りにしていたらつまらないのとで、いまだに買っておりません。
 彼は炊事道具も持っており、無明さんと同様3玉100円のうどんを食って食費を抑えているとのことでした。
「バーナーが5000円、ナベが4000円。ボンベが400円でだいたい10日もつ。食費はガス代合わせても1食300円もかからない。絶対お勧めだよ」
と彼は言っていました。確かにそうだろうなあ。しかし、今のぼくのリュックにはもう入らないし、重くなるし…。自転車に戻ったら、ケツの痛さ半端じゃないだろうな。

 この寺で何を描こうか思案しました。本当は雪をかぶった山門など描けば絵にも記念にもなるのでしょうが、外に出るのが億劫だったので、休憩所のサッシにとまってじっとしているスズメガを描いて間に合わせました。
 あまりの寒さにウダウダしてしまって、雲辺寺で3時間半も費やしてしまいました。幸いその間、トイレでザウルスと携帯をかなり充電できましたが。

 次の67番大興寺に着いたのは4:30。絵を描いても、色を塗る時間と気力がありませんでした。
 真っ暗な中、飯を買えるスーパーとねぐらを求めて、観音寺市内へ。途中道に戸惑って地図を見ていたら、車が停まっておじさんが道を教えてくれました。頼みもしないのに。地元の人はいつも遍路を見守ってくれているのですねえ。

 ずいぶんと距離がありましたが、なんやかんや歩いて、68番の近くの琴引公園というところにたどり着きました。
 ラジオでは、今夜も寒気が居座って冬型の気圧配置と言っていますが、どうなるでしょうか。昨夜より標高低いし(海がすぐ近く)、下は草地だし、レインウェアも重ね着できるので、なんとか大丈夫だろうと踏んでいるのですが。
 テントを建て終え、発泡酒の蓋を開けて一息ついたのは、9時過ぎでした。晩飯は、生協(こっちの生協は店がでかい)で買った半額弁当、半額寿司、発泡酒。全て冷たいので、腹が冷えます。 でも止められないんだなあ。

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12月15日

 一日のうちで、一番冷え込むのは朝方の4時から6時頃。
 昨日の寒さが記憶に染み付いていたことと、天気予報で「今年一番の寒気」と宣伝していたこともあって、今朝はどうなるかと思ったのですが、意外と寝やすかったので拍子抜けしました。 山間部から海の近くに降りてきたこと、場所がアスファルトでなく草地だったことが幸いしたのでしょう。
 朝方ぱらぱらと雨が降っていたので動くのが億劫で、日が高くなってもシュラフの中で溜まった日記を打っていたら、いつの間にか昼になり、午後になってしまいました。
 日記は一段落ついたのですが、今更動き出すのも面倒だったので、のんびり髭剃ったり、溜まってた絵葉書の色付けしたりして、どこにも行かずに一日を過ごしてしまいました。
 言葉を交わした人と言えば、ぼくのテントを誰か別の人のと勘違いして声をかけてきた浮浪者風のおっさん。
「この前はお世話になりました」
と、テントの外から声をかけてきたので、恐らくはぼくと同じテントを持った人が、おじさんになにかしてあげたのでしょう。ぼくがテントから這い出るとおじさんは気恥ずかしげに
「すいません、人違いでした。テントが似てたもので。…テントがあると、やっぱり違いますか?」
「そうですねえ、ぼくはこれ無しだと野宿できませんねえ」
「そうですか…」
そんな会話をして、おじさんはわずかな荷物と傘だけを背負って、背中を丸めてとぼとぼ去って行きました。
 その日、彼は夜遅くまでトイレの辺りをうろうろしていました。ひとけがなくなったら、トイレの中で寝ようと思っていたのかも知れません。

 今日の晩飯は、近くのスーパーで買った中華弁当と鳥の唐揚と地酒一合。地酒をテントの中で飲むのは、高知以来だと思います。唐揚と冷酒は相性がよくないせいなのか、少しも歩いていなかったせいか、酒を飲んでも
「うひゃ〜、たまらんナア」
という感慨はありませんでした。

 明日は動かんと。

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12月16日

 快晴。
 ペキニーズとかいう毛むくじゃらの犬に服を着せて散歩する厚化粧のおばさん等を尻目に、テントを畳んで歩きだしたのが9時ころだったでしょうか(記憶あやふや)。

 この琴引公園には、砂で作った寛永通宝のでっかい銭形があるということを知ったので、まず銭形展望台に登りました。展望台は公園の真ん中にそびえる山のてっぺんにあり、琴引八幡神社の隣にあります。
神社では、気を利かしてどこかのスピーカーから琴の演奏を流しておりました。
 展望台からは、でっかい銭形と瀬戸内海がきれいに見えました。ただ、影の具合からすると、いちばんいいのは夕方の3時ころではないでしょうか。朝は影が少なくてイマイチでした。

 この銭形は、徳川家光が四国巡視に来たとき、それを歓迎するために地元民が作ったと言われていますが、真相は古代インカ帝国の末裔が、UFOの発着の目印として作ったということは皆さんご存じの通りです。

 ふもとに下り、海岸の松林を抜けて銭形の現地へ行ってみると、案の定ただの砂浜としか見えませんでした。
 ここで絵を描いていたら、雲辺寺で会った、でかい荷物を背負ったおじさんとまた会いました。 雲辺寺ではぼくより先に降りたくせに、一日どこにも行かなかったぼくとまた会うとは、ぼくに勝るとも劣らぬゆっくりペースです。
 それはそれとして、この公園は結構浮浪者の溜まり場のようです。公園内にある68/69番札所に向かう途中、見るからに浮浪者なじいさんとすれちがいました。髭は胸まで垂れ、髪はぼさぼさ、汚れた服を重ね着してずるずる歩いている、典型的な浮浪者さんです。
 そんな人と比べると、職業遍路のほうがよっぽど見た目にいいですね。

 68番神恵院、69番観音寺は、同じ境内にあります。高知県の、札所間の距離が90kmなどというのと比べると、まるでアホです。
八十八の札所を決めるとき、寺が派手な誘致活動を行ったのでしょう。納経所は共通で、600円払って二つのご朱印をもらうのです。たぶん神恵院の経営は観音寺が行っているので、観音寺はずいぶん儲かっていることでしょう。

 次、70番本山寺。広々した平野を川沿いに歩きます。香川の風景は、愛媛や高知とは一味違います。
 海坊主みたいなつるりとした形の山が、あちこちにニョキニョキと立っています。
 車で通りがかったおじさんに教わった土手の道を歩き、そこで道と寺の塔を入れた絵を描き、寺境内へ。まあ、どうちゅうことのない寺でした。

 70番を出たのが3時、71番弥谷寺へは約12km。山の中腹にあるらしいので、今日中に山のふもとにつければいいやと、のんびり歩きます。
 昨日一日歩かなかったせいで足が固まったのか、それとも一昨日雲辺寺からの下り坂が負担だったのか、妙に足が痛くて、ゆっくり歩きました。特に左膝の関節と、右の足裏の土踏まずの隣が妙に痛いです。

 今夜寝たのは弥谷山のふもと、神社の参道脇。落ち葉でふかふかしてるので、多少は暖かいでしょう。

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12月17日

 天気、曇り。今朝はけっこう寒かったなあ。でも寝れないほどではなかったです。

 弥谷寺のある弥谷山は、近隣では「死者が行く山」として信仰されているそうです。いわゆる「山中他界観」というヤツです。
 標高382m、山の形もさほど特徴的ではなく、似たような山は他にもいくつかあるのですが、なぜこの山ばかり特別視されてきたのでしょう。
 そしてこの山には戦国時代、香川氏という豪族の居城「天霧城」がありましたが、豊臣秀吉の軍に滅ぼされたという歴史もあります。
 死者の山にそびえる天霧城。落城した戦死者たちの怨念は今も山中に漂っている…。いいですねえ、こういうの大好き。

 わくわくしながら坂道を登って行くと、寺の門前で参拝客を待ち構えていたのは、道の駅にして温泉宿泊施設、その名も
「ふれあいパークみの」。
また「ふれあい」だよ。駐車場の脇には、一言
「ふれあい」
と刻まれた石碑が据えられてるし。
弥谷寺
弥谷寺

 ふれあいパークでウンコして、気を取り直して寺への階段を登って行くと、そこは確かに死霊とふれあえそうな、いい雰囲気の世界でした。
 山が人工林でないため、雑然とした木々が陰気めいた雰囲気を感じさせますし、苔むした墓やら石仏やら五輪塔やらが、階段脇の斜面にびっしりと張り付いてるし。
 建物は、地層剥き出しの崖を削った狭い場所に建てられており、その崖には、鎌倉時代に死者の遺骨を納めたという四角い穴がボコボコあいていたり、風化してのっぺらぼうになった磨崖仏が刻まれていたり。
 大師堂の裏には弘法大師が求聞持法の修行をした「獅子の岩窟」があったり。少し前までは、大師堂に松葉杖やらギプスやらの奉納品が所狭しと置かれ、さらに不気味な雰囲気を盛り上げていたようなのですが、今ではすっかり片付けられ、その点は残念でした。

 せっかくなので、山頂の城跡まで登ってみようと思ったのですが、意外と距離があるようなので、途中で引き返しました。もし夕方にこの寺に来ていたら、また一層いい雰囲気だったことでしょう。

 山門には、二人の職業遍路さんが、般若心経の紙と鉢を前に置いて座り込んでいました。
 ぼく自身これまで接待されてばっかりだったので、一人100円ずつ、接待させていただきました(ちょっと優越感)。
 一人は僕の顔を見ると
「お参りご苦労様です」
お金を入れると
「ありがとうございます」
と言って愛想がよかったのですが、もう一人の方は舟を漕いで半分寝ておりました。

 72番曼陀羅寺への途中、「鳥坂峠」というところで「元祖・鳥坂饅頭」の店があったので、一個だけ買って食ってみました。甘酒の味がしました。

 曼陀羅寺の呼び物は、お大師様が植えたという「不老松」です。着陸した空飛ぶ円盤みたいな形の大松なのですが、「不老松」というわりに、葉っぱが黄色く枯れて今にも死にそうでした。

 74番出釈迦寺は、73番から400mしか離れていません。
 道の途中、荷車に荷物をどかと積んだ、見るからに職業遍路なおじさん(というか、じいさん)が、道端の大師堂で休んでいました。これまでの寺で、ときどき顔を見かけた人でした。
「この大師堂に俺は泊まってくけど、あんたもどうだ」
と声をかけてきました。出釈迦寺が終わったら、また同じ道を通るので、
「もしかしたらお世話になるかもしれませんので、よろしく」
と答えておきました。

 出釈迦寺の裏には我拝師山(がはいしさん、481m)という山がそびえていて、頂上近くに捨身ガ岳という崖がありました。
この捨身ガ岳は、弘法大師が7歳の時、
「自分は仏門に入り、多くの人を救いたい。もしこの願いがかなわないのなら命を捨ててこの体を仏に捧げます」
と言って崖から飛び降りたところ、お釈迦様と天女が現れて大師を受け止めた、という話がまことしやかに伝えられています。
 捨身ヶ岳へは、急な坂道を30分ほど登ります。崖っぷちにお堂が据えられており、その背後がさらに急な崖=捨身ガ岳となって山頂まで続いています。
 パッと見、登り口もなさそうなので、危険だから一般人は入れないのだろうと思って、鐘衝き堂から眼下の景色を絵に描きました。
 しかし、そろそろ暗くなって来たから帰ろうかと腰をあげ、帰り際に再びお堂の辺りを見回すと、なんとお堂のわきに通路があり、捨身ガ岳に出られるではないですか。
 見上げると、岩はごつごつしていますが、そのぶん足掛かりなどが多く、素人でも登れそうです。
 あたりは夕闇が近づいていましたが、すぐ降りてこられるだろうと高をくくって、リュックを降ろして登り始めました。
 実際、ぐいぐい登れました。
捨身ヶ嶽からの夜景
捨身ヶ嶽からの夜景

 木がほとんど生えておらず、足元に善通寺市の町並みがきれいに見えます。途中には鎖場などもあり、スリル満点でした。
 100mほど登ると平らな林に入り、そこが頂上でした。
 こんなもんかと踵を返し、下り道にさしかかったとき、ぼくのキンタマは少しちぢみました。いつのまにか夕日の残光は完全に消え、足元がほとんど見えなくなっていたのです。
 見えるのは、眼下一面に広がる街の夜景ばかり。曇り空で、月も出ていません。
 細く曲がりくねった木の根を掴みながら、一歩間違えば真っ逆さまという岩場を、そろりそろりと下りて行ったのですが、鎖場に差しかかっても鎖が見当たりません。
 鎖無しでも降りられるかと一度は足を延ばしてみましたが、ここに限って特に足場のもろい砂岩の崖。
「いかん、これは死ぬ」と直感が働いて足を引っ込ませました。
 必死の思いで岩棚まで戻り、
「今夜は山頂で夜明かしか」
と一旦は覚悟を決めそうになりました。

 結論を言えば、鎖は岩棚の反対側にあり、ぼくはそれをようやく見つけて、岩からとび出た鉄の棒にケツを強打されながらも、なんとかお堂まで戻ることが出来ました。
 しかし、「これはやばい」と腹の底から恐怖心が沸いて来たのは、石鎚山の鎖場以来でした。
お堂に着いたぼくは、安堵のヒイヒイ笑いをして
「お大師様、ありがとうございました!」
と、マジになって拝んでしまいました。

 その夜は、夕方職業遍路さんが声をかけてくれた大師堂に泊まりました。畳敷きでトイレまで付いたお堂でした。
「一晩お世話になります」
とぼくが堂に入ってみると、彼はカップ酒を何本か空にしてぐうぐう寝ている最中でした。
 僕がコンビニ弁当の晩飯を食っていると、近所のおじさんが覗きにきました。
「明かりが付いてるから来てみたんだけど」
「すいません、お世話になります」
「こっちの人(酒飲んで寝てる職業遍路さん)はお連れさん?」
「いえ、今日行き会ったんですけど」
「ああそう。まあ、火だけは気を付けて…喉が乾いた。お水を一杯もらってくかな」
おじさんは堂に上がって来て、お大師様にお供えされている茶碗の水をゴクゴク飲み、
「ヤイトに使うのにもらっていこう」
と、線香の灰を袋に入れて行きました。聞くと、お灸のモグサを作るとき、指に線香の灰をつけてヨモギを揉むと都合がいいのだそうです(葉の毛が手につかないって言ってた気がする)。
 大師堂って、地域の人達の生活に密着してるんだなあと実感しました。

 おじさんが帰ると、職業遍路さんはもぞもぞ起き上がりました。少し風邪をひいているらしくしきりと咳をしておりました。うつされたらアウトだなとひやひやしながらも、少しお話をしました。
「職業遍路さんですか?」と聞くわけにいかないので、
「四国は何回くらいお回りになる予定ですか?」
と聞くと案の定、
「死ぬまでだよ。他に行く所ないからな」
という返事が返って来ました。
「お家の方は…?」
「若いころ極道したから、勘当同様だよ。久しぶりに帰ってみたら、家も家族もなくなってた。浦島太郎みたいなもんだ。浦島太郎」
あまり多弁な人ではないので、聞き出せたのはそれくらいのことでした。

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12月18日

 朝、ぼくは7時頃に出たのですが、職業遍路さんはまだ寝袋の中でもぞもぞしていました。

 74番甲山寺(こうやまじ)までは2kmくらい。問題は、ハガキが切れてしまっているのに、まだ郵便局は開いてないし、道中ハガキを売ってる店もなかったことです。結局、1kmちょっと離れた75番観音寺まで行って葉書を買い、甲山寺(の近く)まで引き返して絵を描いたのでした。
 たいしたものを描くわけでもないのですが、一度決めてしまうと厄介なものです。

 それはそれとして、甲山寺の創建は、こんな由来です。

 お大師様は善通寺と曼陀羅寺の間にお寺を作ろうと考え、霊地を探していたところ、この甲山(かぶとやま)の岩窟から老人が現れ、ここに寺を作れと言ったそうな。
大師は喜びのあまり、石を割って毘沙門天の像を刻んで洞窟に安置したそうな。

 曼陀羅寺から善通寺って、3kmくらいしか離れてないのになんでこんなとこにまだ寺作ろうとしたんだろう。
「喜びのあまり」石を割って毘沙門天の像を掘るってのも、変わった感情表現だなあと思ったりして。

 甲山寺から善通寺までの道には、近くにお大師様が子供のころ遊んだ観音堂があったり、自衛隊の駐屯地があったり、感染病患者の隔離病院の跡地があったりします。

 善通寺は、市の名前になっているだけあってでかい寺でした。
お大師様の生まれた場所という触れ込みで、大師堂の地下には戒壇巡りというスポットもありました。宝物館とセットで500円。
 階段を降りて暗闇の中を歩いて行くと、真ん中にお大師様の像がある祭壇があり、センサーが感知して再現された「お大師様の肉声」が流れるという趣向です。
「これからお大師様からお言葉がありますので心してお聞きください」
というアナウンスがあり、おどろしい般若心経の誦経をバックコーラスに、お大師様の声が流れてくるのです。
「よくここまで来られました。わたしがあなたがたとこうして出会えるのは仏縁です。わたしは、あなたがたが自分を大切にし、充実した人生を送ることを願っています」
どういう根拠で再現した声なのか知りませんが、お大師様の声は、テープをスロー再生したような間延びした声でした。お言葉も、何の差し障りもない内容で拍子抜けでした。お大師様といい天皇様といい、偉い人ってのはほんと、どうでもいいことしか言いませんね。

 宝物館では、濃紫の布に金泥で描きこんだ大日如来などがカッコよかったです。最近の作家の作のようですが、こんなTシャツあったら絶対買うな。

 また、この寺では、雲辺寺や琴引公園で顔を合わせたでかリュックのおっさん遍路と会いました。余っていた納め札をあげると彼は自分の住所氏名を書いてくれました。彼は大分県臼杵市の人で、
「ああ、臼杵市。ここって「臼杵ミワリークラブ」っていう妖怪探訪の同好会があるんですよね。いいなあ」
とぼくが言うと、
「へえ、そんなのあるの、知らなかった。市の名前を「うすき」って読める人も珍しいですね」
と驚いていました。へへん。

 四国と言えば金毘羅さん。一度行ったことはあるのですが、やはりお参りせねばならんだろうと、遍路道をそれて琴平町へ向かいました。門前街に着いたのは午後5時すぎ。
金毘羅温泉という温泉もあったのですが、結局入らずじまい。
晩飯はさぬきうどん、肉天うどんの大盛り。
 夜は大麻神社の境内の草地です。
 明日は朝から金毘羅さんに登ります。

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12月19日

 夜。どうも寒いのでなんとかならんかと思い、リュックの中身を抜いて、背中に敷くということを思いつきました。リュックの背中の部分にはクッションが入っているのでかなりあったかいです。
 俺って賢いぜ、と御満悦で眠り、朝起きてみたらテントの夜露が凍り、外には白い霜が降りていました。
 明け方の外気は零度に近かったのでしょう。こんな状況でも眠れる自分の生命力にちょっと得意げになりました。

 金毘羅さんは、平日の朝ということであまり客は多くありませんでした。参道の土産屋もところどころ閉まっておりました。
 金毘羅さんは長い階段が有名なわけで、一応一番奥の白峰神社まで登ってきました。目立ったのは、まっ黄色の金毘羅ポスター。
「しあわせさん、こんぴらさん」
とか
「幸せの黄色いお守り」
などのコピーがそこらじゅうに掲げられ、客を呼ぼうという懸命さが見られました。
金毘羅さんて、どんな神様なのかなと思って祭神をチェックしてみたら、大物主命と崇徳上皇なんですね。たしか金毘羅さんはクンピーラとかいうインドのワニの神だというようなことをどっかで聞いたような気がしたんだけど、そんなことは立て札に何にも書いてない。。
 まあ、参拝客でそんなこと気にしてる人はあまりいませんが。

 宝物館を覗いてみたら、仏像やら掛け軸やら絵画などに交じって、百鬼夜行絵巻がありました。いいですねえ、こういう絵はいつまで見てても飽きませんねえ。見学客はほとんどいないんで、皆さんぜひどうぞ。
 あと、少し面白かったものといえば、本殿横の絵馬堂ですか。日本人で最初に宇宙に行った秋山さんのリアルな絵の絵馬とか、モルツマーメイド号などが奉納されておりました。

 まあ、それくらいですね。

 昼は呼び込みのおばちゃんに誘われて門前のうどん屋に入り、てんぷら醤油うどんを食いました。汁がなく、醤油をちょろりとかけて食ううどんです。伊勢でも同じようなのを食いましたが、それよりはおいしかったです。大盛りで1100円。ちと高い。

 その後、綴じたシャッターばかりのアーケード街をそぞろ歩き、来た道戻って76番金倉寺へ。この寺は智証大師円珍という、空海の遠縁の親戚にあたる偉い坊さんが生まれたところなのだそうです。自画像を見るかぎり、ずいぶん頭のとんがったおっさんだ。坊さんはそのへんごまかし効かないからかわいそうだなあ。
 空海の親戚なら真言宗だろうと思ったら、天台宗の坊さんなんだそうで。よくわからん。
 門前の町並を絵に描いたのですが、道路工事中でやたらと埃っぽく、下描きだけで早々に退散しました。

 もう5時、次の77番道隆寺へは約5km。77番の門前で寝ることに決めて歩きだしました。狭い遍路道を通ると近道なのですが、途中晩飯を買いたいと思って大きめの県道を歩いたのですが、どこにも店が見つからないまま寺に着いてしまいました。
 駐車場にテントを立て、賑やかそうな明かりを頼りに歩いて行くと、西武系のでっかいスーパーにたどり着きました。隣接の本屋で少し立ち読みして時間をかせぎ、そろそろかなりの割り引きセールをやってるだろうと食品売り場のお総菜コーナーに行ったら、どれも「この商品は午後6時以降に製造いたしました」のシールが貼ってある新しいのばかりで、がっかりしました。
 この日の晩飯は、助六寿司と発泡酒という、定番のものでした。

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