四国巡礼てくてく編(讃岐2) 四国巡礼てくてく編(讃岐2)

12月20日


 道隆寺では、「お大師様にひざまづく百姓像」を絵に描きました。説明書きがなかったので正確なことはわかりませんが、たぶん衛門三郎の像でしょう。
昨日の時点で絵筆を紛失したことに気づいていたので、ペン画に挑戦してみました。実をいうと、今まで色を塗っていたのは、ペンの輪郭の下手さをごまかすためだったので、ペンだけでそれなりに見られる絵を書こうとするのはずいぶん苦労でした。

 道隆寺から78番郷照寺への道を歩いていると、目の前に軽トラが停まり、 なんとなく見覚えのあるおっさんが降りてきました。
田原総一郎を色黒にしたような人相のおっさんです。
おっさんの方もぼくを見て
「君はどこかで会ったことがあるぞ。なあ、そうやろ」
と言います。ぼくが遍路を始めて三日め、熊谷寺の路上でたっぷりとお説教をしてくれた黒田原さん(仮名)でした(10月26日の日記を参照)。
前回会ったとき、 「香川に来たら泊めてやるから電話しろ」 と言われていて、ぼくも気にはしていたのですが、下手に世話になって一晩中説教されたら面倒なので、無視して香川を通過してしまおうと考えていたところでした。

そんなぼくの内心を知ってか知らずか、黒田原氏は
「おっちゃんはこんなことしてお遍路さんにちょっかい出して家に泊まってもらってるんだけどな、実はうちのかあちゃんが
『おとうちゃん、最近わたしも体が弱くなったから、お遍路さんをおうちに連れてくるのはしばらく休みにしてくれんか』
と、こう言うんや」
「そうですか、それじゃあ…」
「でもな、君に関してはもううちに泊めてやるとあの時約束してしまっているから、今日は何が何でも泊まってもらおうと思う」
「いや、それはご家族にご迷惑じゃ…」
「いや、かまわんかまわん。そりゃ旅館みたいなお世話はできん。おっちゃんはケチやからご馳走は出せん。でも晩と朝の食事は用意させてもうらおうと思うとるから安心して欲しい。
君は確か絵を描いているんだったかな。だったらそんなに進めんやろ。せいぜい今日は79番天皇寺あたりやな。夕方5時に天皇寺に迎えに行こうと思う」
「はあ、そうですか。どうもありがとうございます」
黒田原氏は遍路の行動を根掘り葉掘り聞きたがる人で、
「昨日はどこに泊まったんや。金毘羅さん?金毘羅さん登ったか。じゃあ満濃池は行ったんか」
「遠いんでやめました。行きたかったんですけどね」
「そうか。ではどうや、これからぼくが満濃池に連れていったる。一日歩くのもええけれども、たまにはドライブというのもええやろ。こんなおかしなおっちゃんやなくて、もっと若くてきれいなお姉ちゃんの方がええやろうけど、今日は我慢してほしい」
「いやなんの。ありがとうございます」
ということで、急遽ぼくと黒田原氏とのドライブが始まりました。
黒田原氏は兼業農家で、仕事を定年退職して現在は年金暮らしとのこと。どうやら彼は、ヒマがあるのをいいことに毎日遍路道を走り回り、歩き遍路を見つけては自宅に連れてくる「趣味」の人のようでした。
 このあたりは黒田原氏の庭にも等しいらしく、彼は狭い遍路道を軽トラでぶっとばしていきます。
 僕が西林寺のおばあちゃんから聞いた満濃池の人柱伝説を話すと、黒田原氏は、
「そういう話は香川の池にはいくらでもあるよ。平池(へいけ)という池にもこんな話がある。

昔、この池の堤が切れてしょうがないので、村の人たちが相談していたところ、一人の白髪の老人がやってきて、
『明日の朝一番早くここを白い服を着た乙女が通りかかる。これを人柱にすれば、堤が切れることは無くなるだろう』と言った。
 翌朝村人たちが待ち構えていると、はたして白い着物の乙女が通ったので、それっと捕まえて人柱にしてしまった。実はそれは昨日の老人が化けた姿で、老人は「わしは違う」と言ったがそのまま埋められてしまった。
 それ以来堤防が切れることはなくなり、池から流れる水が
『言わざら来ざら、言わざら来ざら』
と音を立てて流れるようになったという」

「へええ、面白いですねえ」
とぼくは相槌を打ったのですが、その爺さんの行動がつじつま合わなくて引っかかりました。女に化けて翌朝現れたということは、自ら犠牲になる覚悟があったと思われるのに、往生際と往生後の悪さが物語としては妙にちぐはぐです。 本来はもう少し違った筋の話だったのでしょうか。

「香川は雨が少ないから水はそれこそ死活問題やった。昭和の初めの頃でも、人柱をやっていたと聞くな。堤防のすぐ近くの家の老人を人柱にした。堤防が壊れたらどうせ命のない人ということで。人柱を埋めるふりをしてこっそり助け出して代わりに身代わりの物を埋めておいた。そんなことが昭和の初めまで行われていた」

黒田原氏は、説教好きなだけでなくなかなか物知りです。

 満濃池は、山あいにある湖でした。弘法大師が堤防工事をしたということで有名な池です。 いろいろ頑張ってるねえ、空海ちゃんは。
 谷川を堰き止めた日本最古のダムということで、堤防を湖の方向に弓形にカーブさせているのが弘法大師のアイデアで、水の圧力をうまく分散させているわけです。
 では大師が工事をして満濃池は決壊しなくなったかというとそんなことはなく、その後も決壊と修築を繰り返し、もう工事もされることなくダムの底に集落が作られていた時期も長く続いていたんだそうです。
なあんだ。

「さて、昼飯はどうするか。香川といえば讃岐うどんやから、この辺で一番汚くて、一番まずい店に行ってみようか」
「汚い上にまずいんですか」
「観光情報誌なんかでずいぶん宣伝してて有名になっとるけど、地元じゃ一番汚くて一番まずいと評判なんだ。まあ、讃岐うどんなんてものは、打ちたての茹でたてを食えば大概うまい」
どれほど汚くてどれほど不味いのか興味津々だったのですが、あいにくその店は休みでした。
「せっかく来てやったのに、休みとはどういうことだ、けしからん。この辺だと後は道の駅しかないなあ。あんなところは高い上にまずい、儲け主義丸出しやから好かんけど」
と言いながら、満濃池近くの道の駅に連れて行ってくれました。
 食堂は昼時ということでずいぶん混んでいました。ぼくはここで釜揚うどんが食いたいと思い、それらしき
「たらいうどん(五玉)」
というのを注文したのですが、出てきたのは洗面器ほどもあるでかいタライに入った大量のうどんでした。たらいうどんは2〜3人が囲んで食うものだったのです。
 僕も「五玉」とあるのでおかしいなと思ったのですが、写真では大きさがどれほどあるのかも分からなかったし、観光地のことだから、わんこそばみたいに1玉がちっちゃいんだろう、と勝手に思い込んでいたのです。
 きつねうどんをすする黒田原氏の隣で、ぼくは必死の形相で洗面器うどんを食い尽くしたのでした。あほだ。

 地獄のうどんタイムの後、軽トラ黒田原号はふたたび山の奥に向かって走り出しました。黒田原氏は目的地も何も教えてくれないかわりに、お得意の黒田原節をこれでもかというほど聞かせてくれます。
「イマイ君ももうその年や、彼女を故郷に待たせてきとるんやろ。なに、そんなのはいません、そんなことはないやろ、さびしいこと言うな。健康な若い男性なら、女性に興味ないことはないはずや。四国に来る前は好きな彼女と
『おまえのこと好きや、好きや』
言い合ってセックスを楽しんでいたことと思う。今も遍路中で修行の身だとは言っても、週に何回かは気持ちがもやもやして、頭の中でいろんなこと想像して自分で男性自身を愛撫してマスターベーションをしとるはずや。それが正直なところやと思う。
 いやおっちゃん、俺そういう欲求全然沸かんのやなんてことになると、それは病気の可能性があるから、病院で診てもらったほうがいい。ボクがいいたいのは、遍路の身やからといってそういうのを無理やり我慢するのは体にも精神にもよくないから、そういうこともほどほどにやった方が体にもいいということや。
 まだ彼女がおりませんということなら、四国から帰ったら早くいい人を見つけて結婚して、子供を育てて、お父さんお母さんを安心させてやること。それが人間の幸せやとボクは思う。
 悟りということは無になるということや。無になるなんてことは滅多なことじゃできんと思うけど、ボクが思うに、好きな女性と抱き合って『ああイクイク』、そう言って絶頂の時、何も考えられなくなって頭が真っ白になったときが無の境地なんやとボクはそう思う」
 このおっさんは真言立川流の信者か?つまり仏陀の頭の中はずっとイキっぱなしってことかしら。
「えげつないことばっかいうおっちゃんやと思うかもしれんけどな、それでも
『どれどれパンツ開いて君のを見せてみい、触らせてみい』
なんて無理をいうわけじゃないんやから、まあ変なこと言うおっちゃんやと思って許して欲しい」

 軽トラはいつのまにかトンネルを越え、徳島県に入ってしまいました。そして急傾斜の細い道を、ごいごいと登っていきます。なにやらずいぶんと山の上のお寺について、我々は車を降りました。
「どこですか、ここは」
「これはな、金毘羅さんの奥の院で箸蔵寺というお寺や。明治に廃仏毀釈される前は、金毘羅さんも神社じゃなくてお寺だったわけやな。番外札所にもなっとる。どうや、この階段。金毘羅さんの本殿前の階段も、これほど長くはないやろ」
こんなところに金毘羅さんの奥の院のお寺があるとは全然知りませんでした。冬なので参拝客は1人もおりませんでしたが、ふもとからはロープウエーも伸びており、いい季節には客も多いのかもしれません。
せっかくですので一応本堂と大師堂でお勤めをし、朱印も押してもらいました。

箸蔵寺を下り、吉野川の上流に沿って下り、次に黒田原氏は塩江(しおのえ)温泉という温泉に連れて行ってくれました。
 塩江温泉は、香川と徳島を結ぶ街道沿いにあり、谷間に何軒もの温泉旅館が立ち並んでいます。 ここは尾形君の地元でもあり、すでに結願した尾形君の家がどこかにあるんだろうなあと、ついついキョロキョロしてしまいました。
「我家でもお風呂があるけれども、まあこの温泉でざっと垢を落としていってほしい」 黒田原氏が連れて行ってくれたのは道の駅に併設された真新しい《行基の湯》。典型的な今時の公共温泉です。その名のとおり、ここの温泉は行基が発見したと言い伝えられているそうです。

 以前ラジオで「よい温泉の見分け方」というのをやっていました。
 最近の温泉は、わずかな温泉を循環・ろ過して使っているので、お湯の質が低下している 所が多いというのです。中には何週間もお湯を捨てずに循環させている所も多く、そうした浴場では温泉成分が無くなってしまっている一方で、レジオネラ菌を防ぐために塩素をバンバン入れているとか。
 循環式の温泉の見分け方としては、
1.注ぎ口からどんどんお湯が出ているのに、湯船から少しも溢れていない
2.お湯に塩素の匂いがある
の2点で、塩素臭の強い温泉は、湯から上がるときにしっかりと水道水で体の温泉を洗い流さないと体に悪いそうです。下手すると
「この温泉、お肌がつるつるになるわね」
なんて喜んでると、実は塩素で皮膚が溶けてつるつるしてたりすることがあるそうです。

なんてことを聞いてたもんですから、行基の湯はどうかしらと思って入ってみると、しっかりと塩素の香りがしました。これじゃあ温水プールと変わんないですねえ。
 それでも石鎚温泉以来、1週間ぶりの風呂は気持ち良かったです。
 いい気持ちで外に出るともう夕闇が近づいておりました。
黒田原氏の家に着くまで、彼のお話は続きました。彼の喋り好きもさることながら、俺も聞き上手なのが良くないのかなあ。
 恋愛して結婚して仕事について子供育てて、まっとうな人生送ることがいかに大切かととうとうと語ってくれるので、じゃあアンタの場合はどうなんじゃい、と思い、
「黒田原さんは今の奥さんとはかなりの大恋愛だったんですか?」
と水を向けると、氏はこれまたかなり詳しく自分の恋愛遍歴と結婚するまでの歴史を語ってくれました。
 要するに、最終的に今の奥さんとは見合いだったというオチですけれど。

 黒田原邸が近づいた時に彼は少しドキッとするようなことを打ち明けました。黒田原氏には二人の息子がいて、次男は嫁をもらって離れで暮らしているのですが、母屋には、少し精神を病んだ長男が同居してるというのです。
「一見普通に見えるけど、やっぱり職場なんかにもなじめんようになっとる。イマイ君にいろいろ変なことを言うかもしれんけど、我慢して欲しい」
ええ?そんなフクザツな家庭に通りすがりの遍路を連れ込んじゃっていいの!?
 内心ビクビクもので黒田原氏のお宅にお邪魔しました。
 黒田原氏の奥さんは静かで控えめな人でした。黒田原家はかなり亭主関白のようです。
 そして黒田原氏の息子さんは、布団にくるまってテレビを見ておりました。ぼくを見ると首を伸ばし、いきなり
「お遍路さん、浜田省吾のビデオ見んか。浜田省吾、NHKのBSでやっとったの録画したんや。なあ、浜田省吾サイコーやで」
と、でかい声で言いました。なるほど、確かに少し変わってる。
 遍路専用になっているらしき座敷に通され、なにやかや支度をしていると、隣の部屋から
「なあお遍路さん、浜田省吾のビデオ見ようや。浜田省吾のビデオ」
と息子さんがやかましい。晩飯にもまだ間があるらしかったので、僕は息子さんと一緒にビデオを見ました。
「お遍路さん、うちの父ちゃんにどこで捕まったんや。うちの父ちゃん、お遍路さんのストーカーやねん」
意外とうまいことを言う。
「浜田省吾、好きなんですか」
とぼくが聞くと、
「俺、浜田省吾大好きや。コンサートにも行っとるで。観音寺市の文化会館に来たんや。雨漏りするようなボロいホールでなあ。ハマショー、『好きだなあぼく、こういう会館』って言っとった。浜田省吾、トークも面白いんや。浜田省吾最高やで。俺CDも全部もっとる」
親譲りなのか、息子さんもよく喋ります。喋りが少しくどいのも、親譲りのような気がするんですが。
「それからな、いいもん見せてやろうか。これや、すごいやろ。河合奈保子のCD10枚組のボックスや。予約して買ったんや。DVDもついとるけど、うちにプレーヤーないから今度友達の家でみせてもらうんや」
「へえ、河合奈保子も好きなんですか」
「俺、河合奈保子大好きや。コンサートにも行ったで。中学の頃な、友達と親衛隊のカッコして背中に《奈保子命》って書いて、最前列で叫んだで。お遍路さん、君は誰のファンや」
しつこく聞かれるので、しぶしぶ
「中島みゆきを少々…」
「中島みゆきか。ええやないか。ええわええわ」
かなわんな〜、疲れるな〜、と思っていたら、ようやく夕食となりました。
 おかずはイカと大根の煮物、ぼくには大盛のどんぶり飯。奥さんが気を利かしてぼくにだけ卵焼きを焼いてくれました。
食事が終ると息子さんが言いました。
「イマイくん、将棋できるか。将棋やろう」
黒田原氏が怖い顔で、
「イマイ君は疲れとるんや。明日も早いし、早く寝たいんや」
というので、ぼくは
「いや、じゃあやりましょう」
「そうか。じゃあイマイ君先手な」
10年ぶりの将棋でした。棒銀とやぐら囲いしか知らないぼくは、息子さんに2局続けてあっさり負けました。 「いやあ、イマイくんなかなか強いわ」
と慰められました。

讃岐目次 表紙

12月21日

 朝は7時に起き、黒田原氏とともに朝食。
どんぶり飯のおかずは、みかん入りの大根おろしとジャコ、ほうれん草のおひたし、そして味噌汁でした。
「夜は息子がうるさかったやろ」 と黒田原氏は言っておりましたが、当の息子さんは寝坊しているらしく、姿は見えませんでした。
 歯を磨いていると奥さんが
「仕事がありますので、お気をつけて」 と言って出かけていきました。黒田原貞夫(全くの仮名)、ニョウボ働かせて自分は遊んでていいんかい。ヒトのこと言えないけど。

 黒田原氏の軽トラにリュックを積んでいると、離れの玄関から若い兄ちゃんが出てきました。 これが噂の次男坊かと思い、
「おはようございます。一晩お世話になりました」
とさわやかに挨拶すると、
「ども」
と言ってどこかに消えてしまいました。たぶん、
(あー、またオヤジ、遍路引っ張り込んだな)
などと思ったことでしょう。

 今にも降り出しそうな曇天の下、黒田原号に乗せてもらい出発。拾ってくれたところにすぐ送ってくれるのかと思いきや、近くにある黒田原家の菩提寺へ連れていかれました。
 ここも真言宗で、昔は大層なお寺だったらしいのですが、目立った札所になっているわけでもなく、屋根も雨漏り寸前という貧乏寺でした。
 総本山の高野山では、朝廷から贈られた衣をお大師様に着せる衣替えの行事があるのですが、明治時代、廃仏棄釈で総本山の高野山が衰退し、行事を行えなくて困っている時、この寺の住職が多くの私費を寄付したので行事が途絶えずに済んだのだそうです。
 そのお礼としてこの寺にはお大師さまの古衣が贈られ、御衣のご開帳には、かつて近郷近在から参拝客が押しかけたものだそうです。
 しかし現在ではこのご開帳も、客が集まらず、ずいぶんシケたものになってしまっているのだとか。

 そんな一檀家の愚痴を聞いたあと、今度こそ昨日の場所に、と思ったら、次に連れて行かれたのは近所の山のてっぺんの展望台でした。
展望台から
展望台から

「先を急ぎたいのに、このおっちゃんどこまでひっぱり回すんや、と思ってるだろうけど、 まあもうすこし我慢せいや。せっかく来たんだから、讃岐の国ってものを見てってもらいたいんや」
確信犯的な言い訳をしつつ、黒田原氏の観光ガイドは続きます。
「讃岐七富士っていって、讃岐には七つの富士山みたいなきれいな山があるんや。それに、香川は日本で一番小さい県やけど、溜池の数は日本一なんや。こっからでも、たくさん溜池が見えるやろ。 ワシの家はあそこ。最近つぶれたレオマワールドがあそこ、君がこれから行く郷照寺があそこ、国分寺があそこ、一宮寺が…」
いろいろ言われても何がなにやらよく分からなかったのですが、香川はこじんまりした山やこじんまりした池やこじんまりした森があって、風景的にかわいいところだなあ、というのは感じました。

「黒田原さん、いろいろ物知りですしお話も面白いですから観光ガイドになったらどうですか」
 半分お世辞、半分本音でそういうと、
「こんなぶさいくなオッチャンじゃダメや。もっと美青年がガイドすればツアーのオバサンも喜ぶやろけど。
『まーこのオッチャンえげつないことばっか言って』って怒られるわ」
「そのえげつないところが、おばさんに大受けだと思うんですけどねえ」

 山を下り、ようやく昨日の地点に向かってくれてほっとしました。昨日であった道端に降ろしてもらい、黒田原氏と握手をしました。
「息子がわしのこと《お遍路さんのストーカー》て言うてたやろけど、今夜またひどい雨だったりしたら、もう一晩泊まれやって、携帯に電話するかも知れんでな」
「いえもう、基本的に大丈夫ですから」
ぼくは慌ててそう言って、何度も礼を言って黒田原氏と別れました。
 一晩くらいなら、ドライブもしつこいお説教も楽しいしありがたいのですが、同じのを何度も食らっていては、それこそ年が明けてしまいます。

 歩き出してしばらくしないうちに雨が降り出しました。
途中丸亀市内で絵葉書用の筆を買い、大通りを歩いていると、通りがかりのおじいちゃんがお接待で200円くれました。
男の人から現金をもらったのはこれが初めてです。

 78番郷照寺は、八十八ヶ所中唯一の時宗の寺です。かといって一遍上人の像や踊り念仏の舞台があるわけでもなく、真言の寺と同様に大師堂も完備しています。年に一度くらいは住職が踊り念仏やってんだろうか。
 立派な納経所を新築中で、プレハブの仮納経所で納経してもらったのですが、参拝者の僕にとっては納経所なんてプレハブで十分な気がします。

 雨のそぼ降る中、おととい買ったボソボソのコンビニむすびを食いながら79番天皇寺へ。ここは、保元の乱で流されてきた崇徳上皇が滞在していたという由緒の寺で、隣の白峰神社には上皇がまつられています。
 ここでは松本ナンバーの車遍路のおっちゃんを見かけました。
「ぼくも長野県から来たんですよ」
と声をかけようかなとも思いましたが、同郷人に飢えていると思われると格好悪いのでやめました。

真っ暗な曇り空、雨交じりの寒風ふきすさぶ中で、今夜は80番国分寺のなるべく近くで寝ようと夜7時ころまで歩きました。
「電話するかもしれんから」
という黒田原さんの言葉を思い出し、そっと携帯電話の電源を切りました。
 俺って薄情。

 今夜の寝場所は、国道11号のガード下。車の音がやかましいですが、テントが雨に濡れて出発が遅れるよりはましです。

讃岐目次 表紙

12月22日

 朝、目が覚めてふと携帯電話を見てみると、黒田原氏からの着信履歴が入っていました。着信音を鳴らさないようにしていたので気がつかなかったのです。もし出ていたら、
「今どこや。そうか、今夜も泊まれ、迎えに行ってやるから」
と押し掛けてきたかしら。ふう、電話に気づかなくてよかった。つくづく薄情だな、俺って。

 今日も小雨。朝、近くのドブに立ち小便してから出発準備。昨日以来濡れているシートに、ガード下の砂がべっとりと付いてヤな感じ。

 80番讃岐国分寺は、これまでの国分寺の中で一番大きくて風格のある寺でした。
 大師堂はなぜか納経所の中にあるということで、ガラガラと戸を開けて中に入ってみると、なんじゃこりゃ。堂内は完全にお守りや遍路グッズの売店と化しておりました。
「ボケ封じの枕カバー」
「糖尿封じの箸」
「縁結びキーホルダー」
「これであなたも大金持ちに!商売繁盛お守り」
「つもりちがい十箇条 一枚百円」
「不思議!お大師様の法号が出る線香」
などなど、嘘臭さ大爆発の現世利益グッズがうずたかく積まれ、その奥のガラス戸の向こうにお大師様がまつられております。これでは落ち着いて経を読むスペースもろくにありません。団体の参拝客は中に入りきれないので、入り口の外で礼拝するのだそうです。

 この現場を絵はがきにするしかないなと思い、納経所のおばさんに
「ここをスケッチしていいですか」
と聞いたら、
「変わった人やねえ、普通は本堂の絵描くやろに。一日中いるわけやないんやろ」
と言いながらあっさりOKしてくれました。こちらとしては、こんな商売根性丸出しの所を描いたら嫌がられるかなと心配していたのですが。
 しかしまあ、売ってるということは買う人もいるわけで。近くにあったイスを拝借し、ストーブにあたりながらスケッチしている間にも、お守りなどを買っていく人がけっこういます。
 なかでも、常連らしきおばさんは、納経所のおばさんと親しげにおしゃべりしたあと、皆へのおみやげにと総額1万円ちかくも、箸やら念珠やらのグッズを買っていきました。

 81番白峯寺は、おおざっぱに言うと国分寺の裏山にあります。裏山と言っても3時間近くかかり、けっこう急な上り坂です。
 住宅地を抜け、お墓の間を通り、急斜面のミカン畑の横を登ります。気温は寒いのですが上り坂になるとすぐ汗が出てきて、体温調節が難しい。
 峠近くの休憩所で景色を眺めながらシャツ一枚になり、他人がいないのを確認してからベルトを
 外して汗で濡れたトランクスとともにバタバタやって汗を乾かしました。バタバタやるたびに、股間にすうっと冷気が入り、顔めがけてむわっと臭いが立ち上ります。風呂・洗濯せにゃいかんなあと思いながらも、こうやって空気を通していれば少しは臭いも薄まるだろうと、都合のいいように考えることにしています。

 山の頂上付近は陸上自衛隊の訓練場になっており、遍路道はその脇を通っていました。兵舎みたいなところもあり、兵隊さんたちがドラム缶のカマドで大鍋を煮たりしていました。
流れ弾に当たったりしたらやだなあと思いながら通り過ぎ、少し退屈だったので、ふと
「ハルマゲドンとは、悪を滅ぼす神の戦争である」(札所のあちこちに貼られていたビラの一節)
と大きな声で独り言を言ったら、目の前に歩き遍路さんがこちらに向かって歩いてきていたので、恥ずかしさに一人照れながら会釈をして通り過ぎました。
崇徳上皇を祀る頓証殿
崇徳上皇を祀る頓証殿

 白峯寺は、崇徳上皇のお墓がある所です。崇徳上皇がどんな人かというと、平安の終わり頃に謀反を起こした罪で讃岐に流され、朝廷を呪いながら死んで祟り神になった人です。
上田秋成の「雨月物語」なんかにも登場して、
「自分は日本の天狗の統領になり、源平合戦も俺の祟りで引き起こしたものだ」
などと語ったと記憶してるんですが、違ったかな。
 ということで、ここでは崇徳上皇を祀った頓証寺殿をスケッチしたのですが、意外なことに遍路のほとんどはこの頓証寺殿を素通り。
「ここは何?」
「別のお寺じゃない?」
という会話が聞こえてきます。そっかあ、崇徳上皇ってあんまりメジャーじゃないのかな。かくいう私も、
「崇徳上皇はたいそうな御霊らしい」
という、あいまいな知識しかないもんな。
 お墓は頓証寺殿の裏にあるのですが、木に覆われていて、また一般人が近寄ることもできないらしくて、全く見えませんでした。

82番根来寺は、白峯寺と同じ峯の山にあります。
途中の山道に弘法大師が掘った井戸というのがあったので、水筒(ペットボトルですが)を満タンにしようと井戸の鉄の蓋を開けてみたら、カマドウマがぞろぞろ。気持ち悪くて飲み水にする気になりませんでした。

 根来寺に着いたのは4時過ぎ。雪混じりの風が強くなってきていました。この根来寺では、思いがけず妖怪の痕跡に出会うことができました。
 山門の横に出ていた案内板によれば、 今から400年前、この山には牛の角を生やした「牛鬼」という怪物が住んでいて人々を悩ましていたが、山田蔵人高清という弓の名手に退治され、今でも牛鬼の角が寺の宝物となって伝わっているのだとか。
 牛鬼の角は見られませんでしたが(どうせだめだと思って頼んでもみませんでしたが)、魔よけになるという牛鬼手ぬぐいをGET(500円)。
 妖怪の手ぬぐいが魔よけになるというのも、不思議といえば不思議です。牛鬼の手ぬぐい持ってたら牛鬼を呼び込むことにはなりゃせんか、とは日本人は考えないんですねえ。一度退治されちゃうと、たとえ妖怪でもこんどは守り神になってしまうわけです。

 この寺の本堂は回廊式になっていました。灯籠と蝋燭のほのかな光に照らされて、全国から寄進された小さな仏像の大群が並んでいます。なかなかいい雰囲気でした。
牛頭観音
牛頭観音

 それから、この寺には牛頭観音像という、珍しい観音様の石像がありました。頭に馬の顔をのっけた馬頭観音はそこらじゅうに見かけますが、この像に限っては、よく見ると確かに角を生やした牛の頭が載っています。これも牛鬼と何かの関連があるのでしょうか。

 あたりはもう暗くなり、雪と風も強くなってきたのでとてもハガキにスケッチなどしている余裕はありません。
 とりあえず牛頭観音や、物欲しげにすり寄ってきた寺の犬などをデジカメに収めて後日それを見て絵にすることにしました。

 根来寺を出たのは午後五時。次の83番一宮寺へは17km。ふもとの町まで降りるにも6kmあります。
 あさっては月曜日。明日のうちに高松市内で歴史資料館を見学したいので、今日のうちになるべく距離を稼ぎたいところです。
 高松市の夜景を眺めながら、車道に沿って下りました。手元のガイドブックのルートはどうも遠回りのような気がするのですが、もう夜のことで遍路道の道しるべも見えません。

 途中、鬼無町というところで桃太郎神社なるものを発見しました。
 道端の説明版によれば、この神社の本名は熊野神社なのですが、昔ここには昔鬼が住んでいたといい、それを権現様が退治したために鬼無という地名になったのだそうです。
加えて、近くには「鬼が塚」などといったそれっぽい地名が多数あるということで、昭和の初めに橋本仙太郎という人がそれらを桃太郎伝説として体系付け、昭和63年に祭神に稚武彦命(桃太郎のモデルといわれている神様)を加えて愛称を「熊野権現桃太郎神社」として神社本庁の承認を得たんだそうです。
 境内には犬・猿・雉の墓もあるとのことで、よっぽどお参りしてみたかったのですが、暗いし寒いし急ぎたいので、やむなく通過してしまいました。
 ちなみに、桃太郎神社は愛知県犬山市にもあり、ここはかなりのアホスポットなのでお勧めです。犬山では桃太郎伝説が残る市町村の首長を集めて「桃太郎サミット」を行い、「桃太郎宣言」まで採択しているのですが、おそらく鬼無町長もそれに一枚噛んでいるに違いありません。

 晩飯は、喜多方ラーメン屋。四国に来て、インスタントではないラーメンを食ったのはこれが初めてのような気がします。
 以前喜多方で食ったラーメンとはずいぶん違うような気がしましたが、べつに不味いわけではないのでよしとしました。
 ただ、客がいないのと、バイトの高校生の態度がぞんざいなのと、トイレがもわもわと泡だらけの洗浄方式だったのが印象的でした。

 この日は国道沿いの資材置き場みたいな空き地にテントを張り、シュラフに入って一息ついたのは夜9時過ぎでした。
 かなり冷えてきています。
 ラジオを聴いていると、携帯が鳴りました。案の定黒田原氏からでした。
(オッサン!なんでかけてくるんだよ)
と思いながらも、無視するわけにもいかず電話に出ました。
「やあ、イマイ君か。まだ歩いとるんか」
「いえ、もうテントの中です」
「あれからどうした。昨日はどこで寝た。今どこだ。根来寺からどれくらい歩いた。ナントカ川は渡ったか。国道は過ぎたか」
根ほり葉ほり聞いてくるので、正直言って気持ち悪い。
下手に現在地を教えようなら、またあの軽トラでやってくるに違いないと思い、のらりくらりと適当なことを言ってごまかしました。 「そうか、橋を渡ってないんならあの辺だな。なるほどなるほど。そのペースだと、あと3〜4日かかるな」
 俺がどこで寝ようが、何日かかろうがいいじゃねえか。と思いながらも、一通り先日の礼を丁寧に言って、なんとか電話を切りました。ホントに遍路ストーカーだな。つきまとわれる側の気持ちがよくわかった。
 男同士でもこれだけ気持ち悪いんだから、女の人が、好きでもない男にしつこくつきまとわれたら恐怖だろうなあ。…と思いました。

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