四国巡礼てくてく編(讃岐3)
四国巡礼てくてく編(讃岐3)
今朝は、これまでで一番の寒さでした。底冷えしないようにコンクリではなく土の上にテントを立てたのですが、地面がどうこういう問題ではなく、上も下もまんべんなく寒くてほとんど眠れませんでした。
テント内側の露は完全に凍り、布地はごわごわになっていました。枕元のキーホルダーの温度計も、限りなく0度に近い値を指していました。
外に出てみると、テントも地面も霜で真っ白になっていたので、笑ってしまいました。
こんな状況下で野宿やってる俺って、けっこう凄いかも、などと悦に浸る一方で、このままでの野宿生活の限界を感じました。高松市内でなんとか装備を追加しなければなりません。
バンバンとテントを叩いて霜を払い落とし、手の冷たさに悲鳴を上げながら出発準備。冷え込みがきつかった分、今日は快晴で一安心です。
所持金がわずかで郵便局も見あたらなかったので、朝飯はカップラーメンとパンで済ませました。
83番一宮寺への道は、太いバイパス道路ばかりで面白くありません。本当の歩き遍路用の道は他にあるのかもしれませんが、遍路シールが見あたらない以上、手元のドライブマップに沿って歩くしかありません。
一宮寺そのものも、住宅街の中にある、どうちゅうことのない寺でした。ただ、薬師如来の石仏を納めた石の祠があり、ちいっと面白い伝説が書いてありました。
昔このあたりに「おたねばあさん」という、意地の悪いばあさんが住んでいました。
あるとき近所の人が
「このお寺には地獄の釜というものがあって、性根の悪い人がこのお薬師様の祠に頭を入れると、
地獄の釜の音が聞こえるらしい」
と言いました。おたねばあさんが試しに祠に頭を入れてみると、祠の扉が閉まり、本堂の方から
ごおおおというものすごい音が響いてきました。
おたねばあさんは驚いて頭を抜こうとしましたが、祠の扉はびくともしません。
とうとうおたねばあさんが泣いてこれまでの悪行をわびると、
ようやく扉が開いておばあさんは命拾いしましたとさ。
伝説そのものはどうちゅうことのない話ですが、「おたね」というおばあさんの名前が中途半端にリアルで親しみが湧きました。試しにぼくも祠に頭を突っ込んでみたところ、確かになんとなくゴーという音が聞こえます。
要するに、貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるのと同じ理屈だと思うのですが、まあぼくもおたねばあさん同様性根の悪い人間だということにしておきましょう。
寺を昼頃に出て、6kmほど離れた高松市街へ急ぎます。
高松市の県立歴史資料館には、空海の展示室があるということで、明日は月曜休館の可能性が高いため、どうしても今日のうちに見学しておきたかったのです。
財布の中には数百円しかないため、開いている郵便局を探し回っていたら、結局資料館に着いたのは午後3時過ぎでした。
5時の閉館まで1時間半。これまでみたいに旧石器時代のコーナーから始めて映像を一つ一つ見ていたら時間がないので、それらはざっと流し、中世など、遍路関連の面白そうな所を重点的に見学しました。実際、博物館なんてものはそうした見学の仕方で十分なのかもしれません。
ここの遍路関係展示は、愛媛の県立歴史資料館ほど充実しておりませんでした。
期待していた空海のコーナーは、空海の生涯を描いた絵巻物(複製)や空海の書(複製)、曼陀羅(複製)など、国宝級の展示物(全て複製)はたしかに迫力ありましたが、人としての空海や、神としての空海の突っ込みは今ひとつでした。
この資料館では、PHSを利用した音声ガイドというものをやっておりました。イヤホン付きのPHSを借り、展示コーナーの番号を押すと、説明が流れてくるというものです。
だいたいは説明プレートのダイジェストみたいなことばかりしゃべっているのでぼくにはほとんど必要ありませんでしたが、目が悪くてプレートの字が読みにくいという人には便利かもしれません。
ただし、そういう人は展示プレートの隅に書かれているPHSの番号も読みにくいでしょうけど。
農家の土蔵を再現したコーナーでは、PHSに加えて外部からも解説アナウンスが流れ、アナウンスの多重放送に襲われて気が狂いそうになりました。
資料館を出るともうあたりは暗くなっていました。
今夜のねぐら情報を求めて高松駅前に行ってみると、クリスマスの電飾が瞬いてまことにお洒落な世界が出来上がっておりました。
クリスマス直前の日曜日とあって、カップルやらがお洒落な格好をしてそぞろ歩いています。クリスマスに染まる街に臭い遍路が一人。
うーむ、居心地悪いなあと思いながら観光案内所で市街地マップを手に入れ、今夜は中央公園でテントを張ろうと当たりをつけて行ってみると、そこはクリスマスイベントの真っ最中でした。
特設ステージでは地元の歌手が歌っとるわ(いや、カラオケ大会だったかも)、ジャンボたこ焼きやピカチュウカステラの出店は軒を連ねるわ、まるでお祭りのような騒ぎ(お祭りなんですけど)。
しかし他に行くところもなし、何とか人通りの少ない場所を見つけ、テントをたてました。
晩飯は、あいかわらず近くのコンビニの弁当と発泡酒。
明日も今朝みたいに冷え込むのかなあ、勘弁してほしいなあとびくびくしながらシュラフにもぐりこみました。
明日はどこかスポーツ用品店を見つけて、シュラフインナーでも買ってから、その後どうしよう。観光パンフを見ると、女木島という島に「鬼の館」「鬼の洞窟」があるらしい。この島には昔鬼が住んでいたという伝説があるらしく、鬼にちなんだ観光に力を入れている様子。妖怪としての鬼にも興味あるけど、田舎のことだから「鬼の公衆電話」とか「鬼のトイレ」とか、イメージキャラクター「鬼丸君」とか、ミス鬼むすめとか、いろいろ面白そうなのがあるに違いない。
となると84番屋島寺に行くのは明後日になるかなあ…。
などと考えながら、寝ました。
昨日ほどの冷え込みではなくて一安心。
すぐ近くでクリスマスイベントやってたわりには、取り締まりの警備員なども来なくて一安心。
ただし、またもや携帯電話に黒田原氏からの着信が入っていてやな気分。しつこいぞ、オッサン。マジでストーカーだな。用もないくせにかけてくるな。洒落にならんぞ。早く他の遍路見つけろよ。俺は男だからまだいいけど、女の遍路に同じことしてたら迷惑防止条例でつかまるぞ。
夕べはカップルやら親子連れやらでごったがえしていた公園も朝は閑散として、清掃係のおじちゃんやおばちゃんが山のようなゴミを掃除していました。その中に混じって、浮浪者さんとおぼしきじいちゃんが一人二人、朝からけだるそうにベンチに座りこんだり、あてもなく歩き回ったりしています。彼らもあの雑踏の中で、何とか寝場所を確保して夜を越したのでしょう。
クリスマスイベントだかチャリティーコンサートだか知りませんが、浮浪者がさまよう中を犬の散歩人が足早に通り過ぎる、やっぱりこれが本来の公園の姿というものです(かたよりすぎ)。
公衆電話の電話帳でアウトドア用品が充実していそうなスポーツ店を調べ、その店がある「YOU ME タウン」(ゆめタウンと読ませるらしい。勘弁してほしい)というでかいショッピングセンターに行きました。
シュラフのインナーはありませんでしたが、薄手のシュラフがあったので、それを買いました。
ダウンで暖かそうだから、これでなんとか今月一杯は保つでしょう。そんなに大きくないから、押し込めばリュックにも入りそうです。
調理用バーナーのコーナーもあったので物色してみました。どれも意外とコンパクトな上、
ガソリンや灯油などあらゆる燃料にも対応した機種もありました。しかし、鍋なども揃えなければならんとなると、結局かなりかさばりそうです。
いずれにしろリュックの余裕も予算の余裕もないので、バーナーについてはまた今度にしました。
のんびりしていたら早くも昼。パン屋コーナーでパンを買って食い、外に出る。
鬼ヶ島(=女木島)に渡ろうかと高松港まで行ってみましたが、船の時刻が都合悪そうなのであきらめ、屋島寺へ向かいました。
途中「平家物語歴史館」という蝋人形館がありました。蝋人形は高知の竜馬歴史館で半分見飽きていたのではありますが、かの『珍日本紀行』モノの一つだったので、ついつい入ってしまいました。
入場料は1200円、竜馬歴史館より少し高めの設定です。
竜馬歴史館には数人の従業員が事務室で働いていましたが、こっちには見たところ支配人らしきおっちゃん一人だけで、ずいぶんガランとしていました。
見学(というか、見物)する間携帯とザウルスを充電させてもらい、展示室に入りました。
のっけから四国出身の偉人コーナー。支配人さんが後ろから追いかけてきて、
「こちらにお大師様がいらっしゃいますよ」
と声をかけてくれました。遍路姿のぼくに気を利かしてくれたのです。
見れば、他の衆とは少し離れたところに、空海の蝋人形が金剛杵を持ったあのスタイルで鎮座ましましていました。顔は少し頬骨が高くて、精悍な感じです。
賽銭箱もちゃんと置いてありました。1200円も払っているので賽銭をやる気になりませんでしたが、納め札くらいは置いてくればよかったなあ。荷物をフロントに預けてしまって、手元に納め札がないのが残念でした。
どうせなら、賽銭箱の他に納め札入れの箱と、一休さんの看板置いて、さらに善通寺の戒壇巡りのお大師さんのテープを流せば完璧なのに。
本命の平家物語の蝋人形ジオラマは、人形の数も出来も竜馬歴史館に及びませんでした。着物に隠れている部分は蝋で再現されているわけではないらしく、ときどき人形の袖口から塗料のはげかけた石膏みたいなものが覗いていました。
しかし全体的に、面白さという点では竜馬歴史館よりも平家物語歴史館の方が楽しめると思います。
竜馬館の方は、終始しかめっつらした竜馬が、西郷隆盛や勝海舟と向かい合っているだけで
動きも表情もありませんが、平家館の方は逃げまどう都人たち、戦う侍たち、熱病に苦しむ清盛、巨大な髑髏の妖怪、そしてリアルな動きで物語を語る琵琶法師ロボットなど、どれも表情が生き生きしていて楽しいです。
だからって、何度も足を運ぼうとは思いませんけど。
ここの蝋人形もだいたい一体200万円かかっているそうです。
屋島寺への道を支配人さんに聞くと、親切にもるるぶの地図をコピーしてくれました。時間は3時半を過ぎていましたが、今からなら5時までに寺に着けるということだったので、礼を言って歴史館を出ようとすると、入れ違いに小太りのおっちゃんが入ってきました。
「なに、これから屋島に行く?車で送ってやろうか」
とそのおっちゃんが言い、支配人さんが
「イマイさん、うちの社長が車でお送りすると言ってますが」
とぼくに声をかけてくれました。蝋人形館の社長といモノには興味がありましたが、歩き通すのがモットーなのでお断りし、歩き出しました。
なんでこんなもの作ろうとしたんですか?資金集め大変じゃなかったですか?年間売り上げと入場者数は?ズバリ、黒字ですか?
などなど、社長に聞いてみたいことはたくさんありましたけれど。
84番屋島寺は、源平の合戦で有名な屋島の頂上にあります。普通の観光客は有料道路かケーブルカーで登るのですが、ちゃんと徒歩道もついています。
ただしその徒歩道への入り口がなかなかわかりにくく、途中すこし迷ったりしたおかげで、屋島寺に着いたのは5時ぎりぎりでした。必死こいてで坂を登ったので汗びっしょり。時間に追われて歩くのはきついです。
参拝客もいない境内に入ると、本堂の戸締まりをしていた寺のおっちゃんが、
「納経所閉まっちゃったから、納経するんなら横の戸を開けて入りな」
と言います。入ると、今しもおじさんたちが山を下るために帰り支度している最中でした。
「良かったな、あと5分遅かったら、みんな山下っちゃって誰もいなくなってたところだぞ」
と言われました。
ギリギリで納経帳を書いてもらい、息を整えてから、既に扉の閉まった本堂と大師堂にお参りしました。
絵を描くのもめんどくさくなっていたのですが、とりあえず《蓑山大明神》という狸の像をざっと下描きし、デジカメに撮って後で描くことにしました。
この狸は屋島に住み、地震が来るときにそのことを住職に知らせたりしたという、健気な狸さんです。
他にも《獅子の霊厳(弘法大師が修行した崖)》とか宝物殿とかいろいろ見所はあったのですが、
もう真っ暗になっていて見物できませんでした。
高松の夜景を眼下に、ラジオを聴きながら山を下ります。登りでかなり急いだので足が痛い。クリスマスイブということで、ラジオからはクリスマスソングがこれでもかというほど流れてきます。
山を下りてしばらく歩き、今夜のねぐらは小さな橋の下。近くのスーパーに晩飯の買い出しに行き、ついつい鳥のもも肉を買ってしまいました。橋の下のテントでひとり鳥モモを囓る、チョンガー遍路のクリスマスイブ。
なかなかオツなものですな。
高松市内で買ったシュラフを重ね着することで、防寒対策は「レベル6」にアップしました。
うーむ、さすがシュラフの2枚重ねは暖かい。気温もさして冷え込まなかったおかげで、レインウエアを着なくても十分でした。
天気は曇り。テントはさほど結露しなかったので、早めに出立することができました。途中、「ファッションセンターしまむら」のトイレでウンコし、すがすがしく坂道を登ります。
八栗寺は、屋島から、湾を挟んだ隣にある山の上にあります。
山のふもとに「石の民俗資料館」というのがあったので寄ってみることにしました。若い頃、石仏を彫る石工に憧れていた時期があったのもので。
八栗寺のある牟礼町は、庵治御影といって高級御影石の産地で、道の両脇には石屋が軒を連ね、職人さんが仕事をしていました。
石の体験学習広場とかいう、展望台をかねた広場で靴下を洗いました。ここしばらく洗ってなくて、ゴワゴワに固くなり悪臭を放っていたからです。つべたい水道水で、洗顔用の石鹸をつけてゴシゴシ洗い、ぎゅううと絞ります。余っていたビニール袋を足にはき、その上から濡れた靴下を履きます。
こうすれば足の汗は浸みないまま、歩いているうちに足の体温で乾かすことができるのです。靴下を履くと、とたんに白い湯気が立ち上りました。
石の民俗資料館では、「大正のモダンガールファッション展」なる特別展をやっておりましたが、別料金だったので常設展示だけを見ることにしました。
それにしても、石の民俗とモガと、どう関係があるんでしょうか。まあ、石というテーマだけじゃ特別展の企画なんてすぐ行き詰まることは確かでしょうけど。
資料館のパンフレットを受け取ると、怪しいマスコットキャラクターがプリントされているのが
気になりました。オサゲ髪とソバカスがチャームポイントの、上半身紫色、下半身緑色した宇宙生物が、
「COME HERE」
とか
「Togeter!」
とか言いながら跳ねているのです。
名前は「アン・ツー・ゴ」というらしいのですが、いったいどういう由来なのでしょう。どうせ石の資料館なら、ゆでたまごから版権借りて「イワオ」(キンコツマンの手下)にキャラクターになってもらえばわかりやすいのに。
それはそれとして、展示室では石工の蝋人形たちが、採石場で石を切り出したり、修羅で切り出した石を運んだり、金槌で石灯籠を刻んだり、石の下敷きになって苦しんだりしていました(一部嘘)。
昨日平家物語歴史館を観てきたばかりだったので、蝋人形にはゲップが出そうでしたが、皆さん若くてキリリとした職人さんばかりなので、女性の方も楽しめるのではないでしょうか。
展示の仕方もすっきりしてますし、アナウンスに従ってジオラマの関連箇所がスポットライトで
照らされる、という工夫もわかりやすくて結構です。
欲を言えば、石の信仰のコーナーではもっと石棒や陰陽石についての突っ込みが欲しかった。
一応AVコーナーで石クイズにチャレンジしたり地元の民話伝説の番組を見たりして、「一通り見たぞ」という達成感を得て資料館を後にしました。
八栗寺へはケーブルカーもありますが、もちろんそんなものは無視して徒歩参道を登ります。
五剣山は山頂付近が切り立った崖になっており、ちょっと中国の桂林っぽい雰囲気です。八栗寺は山の中腹にあるのですが、そこから見上げると、断崖の上に奥の院らしき建物が見えました。捨身ヶ嶽みたいに登れないかと思ってうろうろしてみましたが、登山道らしきものは見当たりませんでした。
ここの寺は歓喜天(象顔のエッチな神様)が祭られており、歓喜天のお堂の前には狛犬ならぬ
「狛二股大根」ともいうべき、二股大根の石像がでんと置かれていたのが印象的でした。
またここには71番弥谷寺と同じように、砂岩の岩壁に五輪塔などが彫られており、ここも死者の山として信仰されていたのではないかと思わせるようないい雰囲気でした。
崇徳上皇を祀る頓証殿
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境内の上の方には「中将坊」という天狗様が祭られており、たくさんの下駄が奉納されておりました。
市販の普通の下駄もあれば、40cm四方もありそうなドでかい鉄板に鉄筋の鼻緒を溶接したワイルドな鉄下駄もあり、そうかと思えばちっちゃな鉄板に針金の鼻緒をつけたミニチュア鉄下駄もありました。
中将坊への石段の脇には、赤い小さな旗が転々とお供えされておりましたが、あれは何かの願掛けか、それとも厄落としか。こういう怪しいものがたくさんある寺は、見ていて飽きません。
納経所の人に聞いたら、中将坊という天狗さんは日本5大天狗の一つで、四国では石鎚、金毘羅に次いで三番目の偉い天狗さんなんだそうです。
納経所ではふかした金時芋が切って籠に入っており、お接待ですのでご自由にお持ちください、
と書かれていました。
「今日は参拝客少ないから、余っちゃってしょうがないの。その辺考慮してたくさん持ってってね」
納経所のおじさんはそう言って、奥の人に
「オフクロサンあったでしょ。そう、それ、渡してあげて」
と、ぼくにビニール袋をくれました。
ありがたく芋片をいくつかもらい、それをつまみながら山を下りました。
今日は86番志度寺まで納経を済ませ、87番長尾寺の門前でテントを張る予定です。
志度寺へは平賀源内の生家などがある古狭い町並みを歩きます。平賀源内の旧宅は資料館になっていましたが、道草ばかり食べているわけもいかないので素通りしました。
途中志度寺の奥の院地蔵寺に寄ると、ここにも妖怪の伝承がありました。
景行天皇の時代、土佐の海にいた怪魚が瀬戸内に入り込み、時には海岸まで押し寄せて悪事を働きました。天皇はヤマトタケルの息子の霊子という人に退治を命じ、見事怪魚討伐に成功した霊子は讃岐の国をもらい受け国司となりました。
後に怪魚の祟りを恐れた里人は堂を建てて地蔵菩薩を安置し、これを魚霊(うおみ)堂と呼んだのがこの寺の始まりだそうです。
一体どんな怪魚だったのでしょうか。イクチオサウルスとかモササウルスの生き残りかな。
志度寺はこの地蔵寺から歩いて10分くらいのところ、道の突き当たりにありました。門前のオマケ寺(そんな名前じゃないぞ)には平賀源内のお墓があり、志度寺の境内の隅には「海女の墓」という古ぼけたお墓がありました。
この「海女の墓」の伝説はかなり嘘っぽいけどちょっとかっこいいので紹介します。
昔、藤原不比等の妹は絶世の美人で、その美人を買われて唐の皇帝のお妃になっておりました。
その妹が兄のために宝珠を贈りましたが、船が志度の海(このあたり)に来た時、ここに棲む竜神に奪われてしまいました。
知らせを聞いた不比等は宝珠を取り返そうと身分を隠してこの地にやってきて、四苦八苦するうちに土地の海女と恋に落ち、夫婦になりました。
やがて夫の願いを知った海女は、単身海に飛び込み、竜神と戦って宝珠を取り返したものの命尽きてしまいました。嘆いた不比等が妻を弔ったのがこの海女の墓であり、後に出世した子供の房前(ふささき)が母の供養にお堂を建てたのが志度寺の始まりなのだそうです。
まあそんな伝説がある以外は普通の寺で、他に記憶に残ったのは本堂の裏が無縁仏やら石塔やらをガラガラ移動中で騒々しかったことと、境内にぽつんと立つ古時計が8時を指して止まっていたことと、汚い便所の汲み取り口のマンホール蓋が腐っていて中が丸見えになりそうだったことくらいです。
ついに八十八ヶ所も残る札所はあと二つ。87番長尾寺へは約7kmの距離です。
途中、横断歩道の足型に、手形のついた珍しいタイプを発見しました。
足型は本来「ここに足を乗せて止まれ」の意味のはず。そこに手形がついているということは、「ここに手をつけ」という意味なのでしょう。
なぜ手をつかなければならないのか。それは全く謎です。
雨のそぼ降る中、ラジオで不審船が逃走中というニュースを聞きながら歩き続け、長尾寺に着いたのは夜7時すぎ。ほどよい駐車場がなかったので、寺に断りもせず山門を入った脇の所でテントを立てることにしました。
ただっぴろい境内なので、迷惑になることもないでしょう。
明日は早起きして、早々に納経を済ませ、17km先の88番大窪寺に向かわねばなりません。この時期、標高が高い上に内陸にある大窪寺周辺は、夜はかなり冷え込むはず。明日のうちにどこまで山を下れるかが勝負です。
自転車が置いてある1番霊山寺へは、大窪寺から30km以上あるみたいだし。明日はかなりの強行軍が予想されます。
しかし、北朝鮮ってつくづくアホだなあ。日本近海うろついて、一体なにしようってんだろう。
また日本人さらってこうってのかな。
不審船の国籍が北朝鮮のものと判明しても、不審さは全然消えないな。国自体が不審だもん。
長尾寺での朝。小便がしたくて、境内にあるトイレに行ったのですが、まだ開いておりません。
境内で立ちションするわけにもいかず、かといって他に公衆便所もなく。何とか我慢しながらテントを撤収し、7時も過ぎて
(納経始まってんだから、もう開いてるだろう)
と再び行ってみたのですが、まだ閉まってる。
お経読んで気を紛らしていればそのうち開くだろうと思い、本堂と大師堂でお勤めを始めたのですが、大師堂でのお勤めの途中でついに漏れそうになり、般若心経を途中で中断して三たびトイレに走ると、ようやく鍵が開いておりました。
小便器コーナーに駆け込む途中、ちょっと漏れちゃいました。
寒くなってこのかた、頻尿になって困ります。歩いている時も、全体の時間の3分の1はトイレを探しながら歩いています。
巡礼も終わりに近づいてくると、気持ちが急(せ)いてきます。朝日の当たる長尾寺をスケッチしたのですが、やたらと雑なものになってしまいました。
(まあ、急ぎたい気持ちが良く表れてるから、これはこれでいいや)
と都合よく考え、さっさと88番大窪寺へ。
日が照ったり、曇ったり、小雨がちらついたり、中途半端な天気です。途中「乗せてってやろうか」と車のお接待の申し出がありましたが、もちろんお断りしました。
ここまで歩いて来て車に乗っちゃ、もったいなさすぎる。
大窪寺の10kmほど手前、前山ダムのほとりに「お遍路交流サロン」なる建物がありました。
「遍路」と「サロン」という言葉の組み合わせにはなんだかケツが痒くなるような違和感を覚えましたが、ここの「遍路資料館」は感動だよと澤谷さんが教えてくれていたので、楽しみにしていたのです。
玄関先に杖とゴミ袋を置いて中に入ると、施設は展示室と農産物直売所の二つで構成されており、展示室は入場無料となっていました。
丹波哲郎みたいなサングラスをかけたおいさん(館長かな)が、お茶やお茶菓子を出してもてなしてくれました。
「明治時代の札所写真展」では、古いお寺の写真が並んでおりました。今はド派手なお堂や五重塔をおっ建てている札所も、一昔前まではふるくさ〜いお寺だったんだなあと感心しました。
いかにも、ハンセン病や口減らしなどで社会から追い出された遍路が巡り続けるのにふさわしいような寺ばかりでした。
また、遍路から寄贈された各札所のスケッチなども飾られており、みんなも同じことやってるんだなあと思いました。
「こいつには勝ったな」というものから「こりゃ勝てんわ」と舌を巻くものまで、絵のレベルもいろいろです。
中でもプロの画家が描いたお寺のペン画は、描いたというより製図したというべきほどの緻密さで、俺もこれだけ描けりゃあいいのになあとため息が出ました。
常設展示室では、遍路の歴史、衛門三郎の伝説などをパネルにしてあるほか、昔の遍路の納経帳が展示されておりました。
何十回となく巡礼した人のもので、一度お参りしたお寺はその後もずっと同じページに朱印を押すため、もうページが真っ赤になっておりました。
特に中務茂兵衛(1845〜1923)という人は「衛門三郎の再来」と言われたほどの有名な遍路だそうで、22歳で故郷の山口県を出奔した後二度と故郷に帰らず、生涯四国を巡り続けて279回巡拝したという元祖遍路マニアです。
どうなんだろうねえ、そういう人生は。
その他に迫力の展示品としては、接待を受けた遍路が残していった納め札がぎっしり詰まっているという俵などがありました。僕としてはいざり車の実物とか、ハンセン病遍路の遺品とかを期待していたのですが、そういったディープな展示品や解説は全くなかったのが残念でした。
一通り見学して、
「気をつけて行きなさいよ」
と館長に見送られて外に出てから、杖と一緒に置いておいたゴミ袋が無くなっていることに気がつきました。適当なゴミ箱が見つかるまで持ち歩くつもりで置いておいたのですが、野良犬が持っていったか、施設の人がポイ捨てと思って片付けたか。
あまり人に見られたくない恥ずかしいゴミも入ってたんだけど、分別のために袋開けられるとヤだな。まあいいか、遍路の恥はかき捨てだ。
結願めざし最後の山越え
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気を取り直して、最後の山越えに向かいます。ここから大窪寺への徒歩道は二手に分かれていて、女体山という山を越える「四国のみち」コースと、昔ながらの「旧遍路道」です。
「四国のみち」コースの方がキツイ分楽しいらしいので、こちらを選びました。
キツイのは承知でしたが、女体山越えは思った以上に難所でした。
昔からこの山は修験者の修行場だったらしく、鎖場こそないものの、頂上までの十数メートルはほとんど岩を這い登るような道で、石鎚山を思い起こさせました。
雪が積もり、足元はかなり凍っています。岩場はさほど長い距離ではありませんでしたが、でかいリュックを背負っているので、鉄の手すりを離せばのけ反り落ちそうなところでした。
狭い山頂には神様の祠が祭られ、瀬戸内海が見渡せました。
女体山頂から来し方を望む
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山頂をクリアしてしまえば、あとは下り坂。しかし2ヶ月間歩き続けてきたぼくの足には、上りよりもこたえます。特にこのところ膝の関節が軋むので、あまりすたすた歩けません。
途中まで降りたところに大窪寺の奥の院があったので寄ってみました。崖の下に古ぼけたトタンの小屋があり、扉を開けてみると中は薄汚い畳敷きで、なにやら祭壇があるようでしたが暗くてよく見えませんでした。
ついに88番大窪寺に到着したのは3時半。何はともあれトイレに直行し、小便したあとコンセントを発見して早速ザウルスを充電。
それからゆっくり大師堂と本堂でお勤めしました。
大窪寺では、遍路の金剛杖や菅笠を奉納する風習があります。ぼくは、せっかく買って使ってきたこれらを奉納する気は毛頭ありませんが、昔はギプスやらコルセットやら松葉杖やら髪の毛やらいざり車やら、いろんなものが所狭しと奉納されていたらしいのです。
しかし今ではそんなものは影もなく、真新しいガラス張りの納杖堂(って言うのかな。錫杖の形した変なデザイン)に、整然と金剛杖が納められているのを見ることができるだけです。
それらの金剛杖も、歩き遍路よりも自動車遍路のものの方が多いので、真新しいものばかり。全く迫力は感じません。
ちょっと拍子抜けしながら、朱印を押してもらい、記念に手ぬぐい(200円)と錫杖型のお守り(1000円)を買ったら、財布が空になってしまいました。毎回1万円ずつしか下ろさないので、3日か4日で財布が空になるのです。
こんなところに郵便局はないだろうけど、魚肉ソーセージやピーナッツチョコ、ヤマザキパンの残りもあるから明日までなんとか凌げるでしょう。
記念撮影の台を独占
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雪混じりの風が冷たいのでスケッチするのがすごく面倒くさかったのですが、ここで描かなくてどうすると自分を励まし、題材を探しました。
本堂なんか描き始めると時間かかるので、境内の真ん中に据えられた団体記念撮影用の台を描くことに決めました。団体ツアーの遍路さんたちがここで記念写真を撮らないなんてことはほぼ100%ないでしょう。そう考えるとこの撮影台こそ、結願寺を象徴するものだと
思えたからです。
「ふふ、ようやく結願した88番札所で、こんな間抜けなものを絵葉書に描く奴もそうはいまい」
と少し悦に入ってしまいました。
この寺で、自動車遍路のおじさん二人連れに会いました。手甲脚半の白装束に身を固め、胸に「先達」の字が入ったバッジをつけています。
「ほう、歩きで結願ですか、おめでとう」
「ありがとうございます」
「何が一番大変でした」
「日曜日で郵便局からお金が下ろせなかった時ですかね」
「わしも来年、野宿で歩きに挑戦しようと思ってるんですよ。先輩、ぜひ握手させてください」
「いやもうそんな、こりゃどうも」
放浪日記の読者の人たちに「放浪速報」で結願の報告を送信したころにはもう午後5時。それでもど根性で山を下ろうと、そそくさと山門をくぐって寺を後にしました。門前の土産物屋や食堂も店仕舞を始めています。お店の人が僕を見て
「結願ですか、おめでとうございます」
と声をかけてくれました。彼らは、これまで色んな歩き遍路の結願の表情を見てきているにちがいありません。それらの表情には「感無量型」「恍惚型」「呆然型」「拍子抜け型」「得意満面型」など、色んなタイプがあるでしょう。ぼくの表情はどのように見えたのでしょうか。
一番霊山寺へは、10番切幡寺のわきに出てから、逆打ちのコースとなります。この道筋はもはやガイドブックに載っていませんが、
遍路保存協力会の道しるべはついているので助かります。
薄暗い道を歩いていると、先ほどの先達おじさんが車で追い抜きざま、
「これでジュースでも」
と千円札をくれました。現金をくれた男性の二人目です。さすが先達さん、お金のお接待はくれても「乗ってけ」とは言いません。僕みたいなタイプの歩き遍路の性格をよく分かっていらっしゃる。
月明かりの中をずいぶん歩いて、夜でも煌々と電灯のついた真新しい公衆トイレがありました。結願してもまだお大師様は同行しているらしく、彼が僕に
「ここで泊まってけ、泊まってけ」
と囁くので、このトイレの軒先にテントを立てることにしました。少々便所くさい(サンポール臭い)ですが、雨に濡れる心配もないし、障害者用トイレで充電し放題なので満足すべきでしょう。
チラリと「黒田原氏に電話すべきかな」と思いましたがそれはせず、自宅と尾形君に電話して結願を報告しました。
尾形君は
「おめでとう。いやー、もう会えないんかあ。名残おしいなあ」
と言ってくれ、一旦電話を切った後に再び電話をくれました。
「どう、霊山寺にお礼参りすんだら、明日の夜はうちに泊まりませんか。車で迎えに行きますんで」
「えー、いいんですか。ありがとうございます」
「今が切幡寺の近くやったら、霊山寺には昼頃着くでしょう。じゃあまた明日連絡しますんで」
いやあ、ほんといい友達持ったなあ。
メールチェックすると、早くも何人かの日記読者の方から祝福メールが届いていました。インターネットってありがたいなあ。