四国巡礼てくてく編(讃岐4) 四国巡礼てくてく編(讃岐4)

12月27日

 家に帰るまでが放浪ということで、日記は続きます。
山の中で、吹きっさらしのタイルの上だったせいか、レベル6でもけっこう冷えました。
今日は尾形君の家にお邪魔する日。臭すぎるのも失礼なので、靴下とトランクスをトイレの水道で洗い、例の「直接着用乾燥法」を実行しました。

 毎度のごとくヒイヒイ悶えながらテントの夜露をぬぐい、出発。
 切幡寺へはすぐ着くかとおもいきや、見覚えのある風景がなかなか出てきません。ようやく見覚えのある門前にたどり着いたのはお昼でした。尾形君に電話すると
「それじゃあ、霊山寺に着くのは夕方になりますねえ。僕んちから霊山寺までは車で1時間ほどなんで、5番か6番あたりまで来たら電話ください」
とのことでした。

「あー、そーいやこんな道通ったなあ」
と二月前を懐かしみながら、それでも一生懸命歩きます。なんだか、今日がこれまでで一番辛いような気がします。
 別にもう札所に寄る必要はないので、地図を睨んで最短距離と思われる道をたどりましたが、6番安楽寺がすぐ道端にあったので、トイレ休憩に立ち寄りました。
 遍路二日目、「昨日満願したんだよ」というおじさんにマメ治療のための糸と薬をもらった寺です。
 あの時は「なんで満願した人がこんなところをうろうろしているんだろう」と不思議でしたが、 今ではそれも理解できますし、あのときのおじさんの気持ちもかなり分かるような気がします。
 ついついぼくも、初々しげな歩き遍路はいないものかと探してしまいましたが、境内にいるのは工事関係のおじさんばかりでした。
 もしいたら 「君、これから通し打ちするの?頑張ってね。やっぱり難所は…」
などと知ったような口をきいてから、
「マメは大丈夫?早く治すコツはね…」 と言って、先代から受け継いだイソジンをプレゼントしてあげたのに。
 寺では庭やらお堂やらを新しくしているようです。客の少ないこの時期は、大規模な工事のチャンスなのかもしれません。金がなきゃ寺は朽ちてくし、金がありゃどんどん新しくなってくし。

 ああ、あの店で定食食ったなあ。あのコンビニで晩飯買ったなあ。などと懐かしさにひたりながら、2番の手前あたりを歩いていたら、一台の車が軽くクラクションを鳴らして追い越していきました。
 尾形君でした。あいかわらずの髭面で、サングラスをかけていたのでどこのおっちゃんかと思いました。彼は2番極楽寺の駐車場で待っていてくれました。
「どうします、乗ります?」
「いや、ここまで来たんですからあと15分、歩かせてください」
「じゃあ、先行って待ってますんで」

なつかしの霊山寺に着いたのは午後5時ジャスト。
「ひゃー疲れた。とりあえず、ここでがっちりと固い握手」
と握手を交わして再会を喜び、
右が新品、左がぼくの
右が新品、左がぼくの

「杖がどれだけ減ったか見てみませんか」
「あ、それ面白そう」
 納経所(兼売店)は閉店寸前でしたが、お店の人が快く物差しを持ってきてくれました。
新品の杖と比べると、約10cm縮んでいました。
納経所のおっさんが
「お礼参り?納経はいいの?」
と言いましたが、
「ええ、いやそれは、いいです」
と歯切れ悪く断りました。尾形君が
「はは、ぼくと同じですね。お礼参りは高野山に行けばいいわけですからね」
と囁きました。
 納経所のおばさん(お姉さんかな。微妙だ)に頼んで門前で二人並んだ記念写真を撮ってもらい、朱印は押してもらわないけどお勤めはしました。
 寺務所が開いていたので一言声をかけ、本堂裏に行くとぼくの自転車はパンクもせずに置いてありました。あの時いろいろお世話になった尼さんにお礼を言いたいと思ったのですが、彼女はもう帰ってしまったようでした。

 自転車を畳んで尾形君の車のトランクに積んでもらい、彼の故郷塩江町へ。しばらくもしないうちに雨がざあざあ降ってきました。

 温泉に連れて行ってくれるというので、ぼくは「湯元に行きたい」と贅沢を言いました。
「地元なのに湯元がどこか知らないんですよ。ちょっと待っててください」
尾形君が自宅に電話をかけて確認し、連れて行ってくれたのは「あんずの湯」という温泉ホテルでした。
 さすが湯元、少なくともお湯に塩素臭さはありませんでした。風呂から上がった時に肌がつるつるしていたので、循環式としても頻繁にお湯を落としている、良いほうの温泉なのではないでしょうか。

 先に上がった尾形君を待たせて、ぼくはごいごいと垢をこすり、ふらふらになって出てきました。車の助手席でぐったりしていると、数分で尾形君の家に着きました。
 家では、ご両親が夕食を食べずにぼくたちの到着を待ってくれていました。
すでに夜は8時近く、もうしわけありがたい限りです。
 そして、ちゃぶ台の上に出てきたのは、鍋。うおお、我が家に帰ったらまず先に食いたいと思っていた鍋が一足早く四国で食えるとは。
「イマイさん、絵葉書拝見しましたけど、上手ですねえ、さわやかな絵で」
ううむ、やはり事前に尾形君あてに2枚ほど送っていた絵葉書が効いていたか?
「何て鍋ですか?」
と聞くと尾形君の母君は、
「べつに名前なんてありませんけどね、我が家ではよくこういう鍋を作るんですよ」
味は味噌ベース、具は大根・白菜・鶏肉・餅入巾着などなど。
尾形君の父君にビール(発泡酒でなくて)を注がれ、遍路談義に花が咲き、いやあ飲んだ食ったうまかった。

 夕食後は、尾形君が遍路前に車で全国放浪して撮りためた「道の駅」の写真を拝見しました。
「下条そばの城」「信州ひらやひまわりの湯」「稲武どんぐりの湯」「つぐグリーンパーク」
など、数ヶ月前の営業生活を思い出させられました。

尾形君のパジャマを借り、布団を敷いてもらって、まるでお客様になったような気分の夜でした。

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四国巡礼てくてく編(高野)

12月28日

 夕べは「朝7時に起きます」と言っておきながら、尾形君の母君に起こされたのは7時40分。
 暗いのでまだ夜かなと思いながらウトウトしていたのですが、カーテンを開けたらとっくに日が出ていました。
 尾形君の父君と妹君(看護婦さんだそうです。見てみたかった)はとっくに出勤した後でした。

 朝ごはんをいただき、お弁当まで持たせてもらって、尾形君に徳島駅前まで送ってもらいました。

イマイ 「就職活動とか、どうします?」
尾形 「うーん、とりあえず来年、沖縄旅行から帰ってから考える」
イマイ 「なるほど。ぼくも来年春に全国放浪に出て、帰ってきてから考えよう。ほんとは四国遍路終わったら直接九州に渡ろうかなとも考えてたんですけど」
尾形 「それでも、一度家に帰って、疲れとってからの方がええね。今は気が張ってるからわからん やろけど、かなり疲れ溜まってますよ。僕も家に戻ってしばらくはボンヤリしちゃったもの」
イマイ 「足は痛いけど、疲れはさほど感じてないんですけどね」
尾形 「気がついてないだけですよ。疲れ溜まってくると好奇心が弱くなってきて、ただ歩くだけになりますよ」

なるほど、そんなものかもしれません。
 徳島駅の近くで下ろしてもらいました。強風の中自転車を組み立て、菅笠をリュックに縛りつけ、杖は苦労した末なんとか自転車に縛り付けました。
尾形「なんだか名残惜しい気がするなあ。またこっち来ることあったら寄ってくださいよ」
イマイ「意外と沖縄で会ったりして。尾形さんの似顔絵描いて送りますんで」
尾形「楽しみやなあ」

 尾形君と別れ、二ヶ月ぶりに自転車に乗りました。ううむ、やはり自転車は楽だ。すいすい進むから、遍路を終えた達成感とあいまってなんだか晴れがましい気分です。徳島駅ビルの地下などで土産を買って宅急便で送り、和歌山行きのフェリー乗り場へ。
 いよいよ高野山奥の院、空海の廟所へお礼参りです。
 出航待ちから和歌山港に着くまでの数時間、ずっと溜まっていた日記を打っていました。
 フェリーの一般席は靴を脱いでめいめいカーペットに陣取ります。
 けっこう混んでいて、自分の足の臭さが周りの人たちに気づかれはせぬかとはらはらしていました。たぶん、気づかれていたんでしょうけど。

 和歌山港に着いたのは午後4時。今日のうちに、なるべく高野山のふもと近くに進んでおきたいところです。
 スケジュールとしては、明日中に高野山に上って下山し、明々後日には大阪に出て、その後はバスでも電車でも使って、なんとか年内に自宅に戻ろうという魂胆です。
 自転車で飯田まで帰るのは、体力的には問題ないとしても、本州の寒さが野宿を許さないに違いありません。
 夜の国道24号線をひた走り、今夜は粉河町の草だらけの空き地にテントを張りました。
 とりあえず使い捨てカイロをコンビニで買って、本州の寒さを待ち受けます。標高は高くありませんが、多少内陸に来ているので冷え込みはどんなもんでしょうか。
 まあ、なんとかなるでしょう。
 晩飯は尾形君の母君が作ってくれたお弁当。ハンバーグまで焼いてくださって、ありがたい限りです。

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12月29日


 朝は案の定霜が降りていましたが、さほど寒くありませんでした。
それなのに、なんだかよく眠れなかったのはなぜだろう。
遍路を終えた嬉しさ?そんなこたあないと思うんだけど。

 びっとり付いた夜露を拭い、テントを畳んで自転車にまたがります。昨日半日乗っただけなのに、もう股間が痛くなっています。なつかしい痛さです。

 奥の院にお礼参りするまでは遍路だと思って、笈摺を着てみました。四国を出ると、なんとなく恥ずかしい。
 天気もよく、登り坂なので、ジャンパーを脱ぎ、トレーナーを脱ぎ、アンダーウエアとシャツ、そして笈摺だけになりました。こんなに薄着になるのは、一月ぶりではないでしょうか。自転車はスピードが速い分、少し登り坂になるとどっと汗が出てきます。

 高野山まで残り8kmを切るあたりになると、がぜん自転車を押す比率が高くなります。残り5kmあたりになると、日陰には雪が積もっています。
 高野山の大門に着いたのは午後2時すぎ。寺の境内はどこも7〜8cmの雪が積もり、大伽藍の前には雪だるまが作ってありました。
 200円払って大伽藍の中を見物しました。でかいですね、さすが総本山は。太い柱には仏どもの絵が描かれ、真ん中に金ぴかの大日如来が鎮座しています。おそらく曼陀羅の宇宙空間を立体的に表しているのでしょう。参拝客は他に誰もおらず、外の日差しが堂内を明るく照らしています。 大日如来の前で一人で真言を唱えるのは気持ちいい。

その後、金剛峰寺を後回しにして奥の院へ。一応遍路らしく菅笠をかぶり、輪袈裟をつけ、杖をついて参道を歩きます。
武田信玄・勝頼の墓
武田信玄・勝頼の墓

 奥の院は大学時代先輩に連れてきてもらい、企業の墓が林立するのを見て「なんじゃここは」と呆れた記憶があるのですが、そのとき通った参道はどこか別の道らしく、高野槙の林の根元に林立するのは、織田信長だの明智光秀だの歴史的有名人の墓がほとんど。
 武田信玄・勝頼親子の墓もあり、信玄の終焉地論争はこれで一件落着でしょう。

参道を進むと小さな橋があり、そこから先は写真撮影禁止。この立て札を見ただけで何となく「聖地に足を踏み入れた」という神妙な気持ちになります。
 奥の院の中心は「灯籠堂」で、コンクリート造りの建物でさほど歴史は感じませんが、ちゃんと四国巡拝の納め札入れ箱も置かれています。
 普通の参拝客も多いので、ちょっと小声でお経を唱え、納め札を投げ、廊下を回って堂の裏に回ると、塀にぐるりと囲まれた空海師匠の廟がありました。 弘法大師は今もこの廟の中で生きており、毎日僧が食事を運んでいるそうですが、まあどう考えてもお大師様があのお堂の中で今も暮らしてるなんてことはないでしょう。
 だってテレビの受信アンテナがどこにも立ってないもの。はっきり言って、大師のお住まいとしては、比叡山の伝教大師の廟の方が広い庭付きでリッチです。
 お参りしているのは、ぼく同様四国遍路のお礼参りらしき夫婦連れから、なにやら 「ぷひゅうう」
と呼吸法を実践しながら何度も複雑な印を結んでいるおばさんや、先輩に連れてきてもらってとりあえず
「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」
とたどたどしく唱えている女子大生みたいのまで、いろいろいます。
 ここで本当に最後のお経をお勤めをして、納め札を賽銭箱にすべりこませ、雑に廟のスケッチをして奥の院を後にしました。

 納経所で朱印を押してもらい、4時過ぎだけど金剛峰寺に行ってみよう、とふと納経時間を確かめると、
「納経時間は4時半まで」。
納経は5時までという四国の常識はここでは通用しないのです。
奥の院の参道は長いので、今から自転車に戻って金剛峰寺まで走ってみても4時半には間に合いそうにありません。駄目元で行ってみましたが、既に門が閉まっており、建物を拝むことすらできませんでした。

 まあいいや、お礼参りは奥の院だけでいいはずだし。と勝手に納得した後は、夕日に染まる山並みを横目に、一気に山を下るばかり。
 といっても、ライトが壊れていて暗いのと、ブレーキが調子悪くて効きにくいのと、手がかじかんでうまくハンドルが握れないのとで、あまりスピードを出すわけにもいきませんでした。穴の空いた薄軍手じゃ駄目ですね。

 それでも橋本市まで降りてきて、紀ノ川沿いのちょっとした公園にねぐらを定めました。
 すぐ近くにSATYがあったのでそこで弁当を買い、店の裏を物色して警備員さんに怪しまれながらも段ボールを分けてもらい、テント設営時にマットの下に敷きました。これならタイルの上でもなんとか暖かいでしょう。
 今夜から明日にかけて全国的に雨模様とのこと。一応東屋の屋根の下に設営したのですが、どうなることやら。

明日は大阪に出て、あわよくば明後日には高速バスで飯田に帰るつもりです。そろそろ今回の旅も大円団を迎えようとしております(大円団っていうのか?)。

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12月30日

 朝から雨と強風でした。東屋の屋根は何の役にも立ちませんでした。
 中でぼくが寝ていないとずるずるとテントが飛んでいってしまいます。下がタイルなのでペグも打てず、テントはずっとしなりっぱなしでした。ポールはちゃちなアルミ製なのですが、よくまあ折れないもんだ。

 ばたばた踊るテントを畳むのも一苦労でしたが、なんとか出発準備完了。
 国道371号線の峠越えに挑みます。挑むったってたいした峠じゃないのですが、天気の気まぐれにつきあうは大変でした。雨が止み日が照ってきたので薄着になればまた寒い曇り空になり、トレーナーを厚着して漕ぎ出したとたんにこんどは吹雪。なかなか自転車での体温調節は大変です。

 トンネルを抜けると大阪府。山を下ると向こうのほうにPL教団の白い塔が見えました。
 途中住吉大社に寄りました。正月の参拝客準備でえらくごたごたしておりました。
 大阪のバスセンターに電話すると、案の定明日の飯田行高速バスは満員。
 電車(鈍行)で帰ることにして、大阪駅に立ち寄り、時刻表を調べて明日の朝6時07分発の米原行に乗ることを決めました。
 下見して近場の公園を今日のねぐらに決定してから、近くの立ち食い蕎麦屋で晩飯(あなご天うどん)を食いました。
 腹を満たしてから公園に行ってみると、さすがは大阪。ホームレスさんのテントがそこかしこにあります。彼らの世界にもいろいろ縄張りがあるのかなあとびくびくしながらも、先輩たちの邪魔になりそうにないところにテントを張りました。

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12月31日

 大晦日の朝は4時半起きしました。6時の始発にどうしても乗らなきゃいけない理由はなかったのですが。
 自転車を畳み、長浜行きの快速列車に乗りました。普通列車とはいえ帰省ラッシュで混んでいるかと思いきや、余裕で座れました。
 京都過ぎたあたりで夜が開け、車内も混んできました。座席の後ろに立てかけた自転車バッグが コケないか心配でしたが、彼は行儀よくしてくれていました。
 つくづく電車って楽ですねえ。よだれ垂らして寝ているうちに大津を通過。滋賀あたりはずいぶんと雪が降っていて寒そうで、自転車で帰らなくてよかったと思いました。

 米原で豊橋行きに乗り換え。
目の前に座った若い兄ちゃんが、座席に荷物を置いたまま眠りこけておりました。マナーとしては荷物は網棚に置いたほうがいいんじゃねえのかなあと思っているうちにずいぶんと混んできて、
この兄ちゃん起こして空席作らせたほうがいいのかなあと思っているうちに年寄りの立ち客がずいぶんと増えてきたので、黙って席を譲ることにしました。
 しかしすぐに名古屋に着き、僕が席を譲ったばあちゃんも、眠りこけていた兄ちゃんも降りて車内はがらんとしてしまいました。
 電車って、こういう心理的駆け引きがあるからその点疲れますね。
 下手に「同行二人」なんて書かれた菅笠やずた袋持ってるから、自分一人でプレッシャー感じてるし。
 でも、他人の荷物が席を陣取ってる段階で、席を譲るのって悔しいじゃないですか。かといってビシッと
「荷物、どかしてくれませんか」
と言う勇気もないんだよなあ、俺って。

 豊橋から飯田線に乗り換え、新城で40分ちかく乗換えで待ちました。駅のトイレでウンコしようとしたらトイレットペーパーがなく、販売機のちり紙を100円出して買う羽目になりました。

 11時過ぎ、岡谷行きの列車に乗り、のんびりと故郷へ。
 山の中、天竜川の崖を伝って走る飯田線の風景は、四国の山奥を見てきた僕の眼にも、なかなか悪くありませんでした。いかにも山ン中に入ってくなあ、という実感があって。
 天気が良くてアルプスがきれいでした。飯田は雪が積もっているかと思いきや、日陰を除いて雪はほとんどありませんでした。

我が家の近くの伊那上郷駅で降り、
「やれやれ、着いちゃった、着いちゃった」
とつぶやきながらホームで自転車を組み立て、ちょっとしたこっぱずかしさを肌に感じながら我が家に到着。玄関に入るとなにやらメモが置いてあります。
「お帰りなさい。玄関で写真を撮りたいので、家に上がる前に声をかけてください」
と、母からの置手紙でした。
「えー、何、上がっちゃいかんのー!?」
これが約3月ぶりに家に帰ったぼくの最初の声となりました。

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