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阿仁合駅隣にある異人館(ドイツ人鉱山技師の旧宿舎)の敷地内には阿仁鉱山とゆかりのある鉄道設備が展示されています。
写真のローダーと鉄鉱車は当時実際に使用されていたもので、説明板によると昭和34年から昭和45年まで活躍していたそうです。 |
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敷地内には腕木式信号機も展示されていますが、これはおそらく旧国鉄阿仁合線で使用されていたものではないでしょうか。
残念ながら説明板は破損していたため詳細は不明です。 |
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実際に専用線に使用されていたとされるレールです。
しかも説明板によると、このレールは明治5年に日本初の鉄道として敷設された新橋〜横浜間で使用されていたものだそうで、歴史的に非常に貴重なものです。
そんな歴史的遺物を風雨にさらしていていいのでしょうか。 |
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軌道の起点付近です。
阿仁の町は、交番駐在所や阿仁病院がある高台と阿仁合駅や商店街のある低地に分かれており、軌道は高台に敷設されていました。
右奥に見える山が九両山で、かつては山頂まで索道が延びていました。また、中央奥に見える青い屋根の建物は老人ホームで、ここに旧阿仁町役場がありました。
なお、この周辺に製錬所などがあった形跡はないことから、輸送されてきた鉱石はどうやって処理されていたのか、あるいは阿仁合駅まで運ばれていたのか不明です。 |
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軌道敷を転用した道路です。
右の道路に入って50mほど進むと、当時からの阿仁病院があります。 |
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旧国道と国道バイパスの合流点付近です。 (右側にバイパスの茶屋庫トンネルが見えます。)
中央の空き地を軌道は進んでいました。 |
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軌道は、向岱地区までは現在の市道の北側を進み、ここで道路を斜めに横切っていました。
現在も右側に軌道敷が残っているのがわかります。 |
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向岱地区からは荒瀬川と道路の間を縫うように軌道が敷設されていました。
そして、荒瀬川の支流が合流する付近で荒瀬川を渡っていました。
現在も「寛文坑橋」の下には軌道の橋脚が川の真ん中に残っています。 |
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橋脚は、現在の道路の位置に比べてかなり低いですが、寛文坑橋の横には道路と同じ高さの位置に橋台らしき構造物も確認できましたので、橋脚上部は倒壊した可能性があります。 |
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道路の落石覆を過ぎた当たりに「ほんげさま橋」という橋があり、そこからは川の対岸に軌道のコンクリート構造物が確認できます。
この先も何度か川を横切っていたはずですが、川の周辺は樹木が生い茂ってしまい、橋脚の有無は確認できません。
ちなみに「ほんげさま」とは日蓮宗の本化菩薩に因んだ「本化(ほんげ)様」が由来と推測されます。 |