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沿革
延慶2年(1309年)阿仁金山として発見
享保元年(1716年)銅の産出が日本一となり日本三大銅山の1つに
昭和45年資源枯渇により操業停止
昭和53年閉山
 ※資料不足により、専用線の開業日と廃止日は不明

実は「阿仁鉱山」という名称は「小沢」「真木沢」「三枚」「萱草」「一の又」「二の又」の各銅山の総称です。
これら阿仁鉱山で採れた鉱石などを運搬するために阿仁合駅付近まで軌道が敷設されました。また、昭和28年の地図を見る限り、小沢地区にあった小沢鉱山から九両山方向にトンネルで抜けていた軌道もあったようですが、資料不足のため詳細は不明です。また、当時の地図では、阿仁合駅から九両山山頂を経由して小沢鉱山まで索道も敷設されていたのが確認できます。なお、阿仁鉱山自体は昭和53年に閉山しています。

路線概要

種別:軌道(貨物)
廃止時営業キロ:[不明]
線路規格:非電化単線
区間: 阿仁合阿仁小沢鉱山

廃線跡

 
阿仁合駅隣にある異人館(ドイツ人鉱山技師の旧宿舎)の敷地内には阿仁鉱山とゆかりのある鉄道設備が展示されています。

写真のローダーと鉄鉱車は当時実際に使用されていたもので、説明板によると昭和34年から昭和45年まで活躍していたそうです。

 


敷地内には腕木式信号機も展示されていますが、これはおそらく旧国鉄阿仁合線で使用されていたものではないでしょうか。

残念ながら説明板は破損していたため詳細は不明です。

 


実際に専用線に使用されていたとされるレールです。

しかも説明板によると、このレールは明治5年に日本初の鉄道として敷設された新橋〜横浜間で使用されていたものだそうで、歴史的に非常に貴重なものです。

そんな歴史的遺物を風雨にさらしていていいのでしょうか。

 


軌道の起点付近です。

阿仁の町は、交番駐在所や阿仁病院がある高台と阿仁合駅や商店街のある低地に分かれており、軌道は高台に敷設されていました。

右奥に見える山が九両山で、かつては山頂まで索道が延びていました。また、中央奥に見える青い屋根の建物は老人ホームで、ここに旧阿仁町役場がありました。

なお、この周辺に製錬所などがあった形跡はないことから、輸送されてきた鉱石はどうやって処理されていたのか、あるいは阿仁合駅まで運ばれていたのか不明です。

 


軌道敷を転用した道路です。

右の道路に入って50mほど進むと、当時からの阿仁病院があります。

 


旧国道と国道バイパスの合流点付近です。
(右側にバイパスの茶屋庫トンネルが見えます。)

中央の空き地を軌道は進んでいました。

 


軌道は、向岱地区までは現在の市道の北側を進み、ここで道路を斜めに横切っていました。

現在も右側に軌道敷が残っているのがわかります。

 


向岱地区からは荒瀬川と道路の間を縫うように軌道が敷設されていました。

そして、荒瀬川の支流が合流する付近で荒瀬川を渡っていました。

現在も「寛文坑橋」の下には軌道の橋脚が川の真ん中に残っています。

 


橋脚は、現在の道路の位置に比べてかなり低いですが、寛文坑橋の横には道路と同じ高さの位置に橋台らしき構造物も確認できましたので、橋脚上部は倒壊した可能性があります。

 


道路の落石覆を過ぎた当たりに「ほんげさま橋」という橋があり、そこからは川の対岸に軌道のコンクリート構造物が確認できます。

この先も何度か川を横切っていたはずですが、川の周辺は樹木が生い茂ってしまい、橋脚の有無は確認できません。

ちなみに「ほんげさま」とは日蓮宗の本化菩薩に因んだ「本化(ほんげ)様」が由来と推測されます。

 
小沢地区にあった小沢鉱山の選鉱設備と思われる遺構です。

かつては多くの民家が密集していたとされるこの地区も、今は数軒の家と廃屋しかありません。

 


選鉱設備の上部付近です。

九両山方面への軌道はここを起点としていたようですが、現在は草むらに覆われた広い空き地と側壁だけが残されています。

 


寛文坑橋付近のコンクリート構造物です。

小沢地区からの軌道と関係があると思われますが、詳細は不明です。

▲TOP2005/5/2〜2006/11/5撮影
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