(27)青森オペラ研究会 その1 |
2003年11月 1日(土) |
はげしい拍手のうず。カーテン・コールで出演者たちがステージに立つと、またもはげしい拍手。舞台と観客との間に熱っぽい交流の一瞬があった。地方ではめったにみられない熱狂した演奏会風景である。(中略)地方の音楽文化運動のなかでは、貴重な1ページとして記録されるであろう歴史的一夜である。
これは昭和33年5月18日号「サンデー毎日」に掲載された、「青森オペラ研究会」による「うとう物語」公演の記事です。 この公演から40年近くの歳月が流れましたが、はたして、「地方の音楽文化運動のなかで貴重な1ページとして記録」されているのでしょうか。 青森オペラ研究会の中心人物のお一人、北彰介氏の葬儀が本日とり行われます。 生前、北氏は「あの当時、全国でもはじめて結成された青森オペラ研究会の存在を知る人も、今では本当に少なくなってきた」と嘆いておられました。 青森県内には本格オペラの弘前のほか、八戸市・十和田市・むつ市・黒石市では、子どもを入れてのミュージカル運動が盛んです。当協会では、諸団体の活動史を集め、順次、青森県の音楽史として総括していきたいと考えておりますが、本日より、数回にわたり、 北彰介氏
追悼の意を込めまして、青森オペラの歴史を連載してまいります。 「青森県内学校での郷土芸能の取り組み」は、その後で引き続き連載の予定です。
さて、協会に寄せられた資料を見ての第一印象は「若さのスパーク」です。 中心となった三名は当時、萩野昭三氏(30歳)、木村一三氏(27歳)、そして北彰介氏が(32歳)。その他、商門合唱団の指揮者・鹿内芳正氏、フレンドコーラス代表の黒滝昭一氏ら、青森オペラ研究会は二十代、三十代の青森の若者が一丸となって作り上げた、全国でも類を見ない創作オペラ運動です。 共に参加していた小倉尚継氏は、「テレビも何もない時代だもの。このことを中心に生活が回っていた。命をかけていた」と語っていました。さすがに「命をかける」という表現はオーバーだと思われたのか、すぐに訂正されましたが、しかし、全身全霊をかけて一つのことに打ち込む。そういったところから出た「命をかけた」という表現、小倉氏だけの心境ではないようです。
北氏は綴っています。昭和30年代といえば、まだ昔のままの天候である。11月上旬に初雪、下旬に根雪。12月からは絶えず雪が降り続け、1〜2月は吹雪が荒れに荒れ続ける。そんな中での稽古である。男も女も勤務時間が終わると、全身真っ白に雪まみれになって集まってくる。 北氏は「うとう物語」の台本は六回も稿を改め、作曲者の木村一三氏は二時間を超えるオペラのスコアを短期間で書き上げるために、肉体的に過酷な負荷がかかったそうです。 北氏、木村氏ともに昼間は中学の教師という仕事がありました。萩野氏をはじめとする演奏者、そして舞台制作者も日中は仕事をもっており、それが終わってからのボランティアでの参加。ここにあったのは「若さ」、そして「情熱」です。 本日、萩野昭三氏に資料チェックのためにお目にかかり、当時の状況を伺いました。「大変でしたでしょう」との問いに、「無我夢中でやっていたので、そんなことを感じる暇がなかった。それどころか楽しくて楽しくて」と意外な返答。 おそらく参加した多くの方が同じ心境だったのかもしれません。でなければ、ボランティアで、これほど多くの方が集うはずがありません。 今、青森に失われつつある「何かが」、ここには確かに存在しているように感じました。(連載つづく)
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(28)青森オペラ研究会 その2
| 2003年11月 2日(日) |
「青森オペラ研究会」が発足したのは昭和31年12月1日。 発足時の中心人物は萩野昭三氏と木村一三氏。ここに、商門合唱団の鹿内芳正氏、フレンドコーラス代表の黒滝昭一氏ら、青森市の音楽家が結集する形でスタートしていきました。 後に、当時、全国でも類を見ない「地元の風土に根ざした創作オペラ」を手がけることになる青森オペラ研究会も、発足当時からそのような方針を示していたわけではありません。 昭和29年弘前大学医学部助手をやめ、青森逓信病院に勤務することになった萩野氏は同年12月、青森市内の音楽団体が結集・発足した「青森音楽サークル協議会」の会長に推されます。 その頃、文部省の芸術課は青少年のためのオペラ普及活動を進めており、「青少年音楽台本シリーズ」を選定。萩野氏がそのうち「牛若丸(小林源治作曲)」と「手古奈(服部正作曲)」を入手、歌ってみると楽しいものだったので、ぜひ舞台にかけたいものだと思っていたそうです。 それから間もなく、青森音楽サークル協議会で木村一三氏と顔を合わせることとなり、若い二人は意気投合、青森オペラ研究会へとつながっていきます。 木村氏は先年まで、東郡蟹田町の中学校の音楽教師をしており、この時、同僚の先生やPTAのお母さん方を出演させ、自作の「姫の昇天」という創作オペラを上演、県教育界に話題をまいた人物です。こうして青森オペラ研究会は、文部省選定題材から活動を開始しました。 弘前大学医学部から青森逓信病院への勤務となった萩野氏ですが、これには萩野氏のプロフェッサーの心遣いがあったそうです。 「萩野君は歌をやるから、逓信病院がよかろう」との配慮を受けての青森逓信病院への勤務。逓信病院は原則として一般患者は診ないそうで、そのため、患者もまばら、ほぼ3時に勤務終了となり、残りの時間を思う存分、音楽活動に傾けることができたそうです。 萩野氏の同期の多くが地方勤務となったといいます。もし、自分がそのようなことになっていたら、あのような音楽活動はできなかった。青森オペラ研究会の陰の立役者は、もしかしたら大学のプロフェッサーかもしれないなあと萩野氏は、しみじみ語っておられました。 文部省芸術課の担当職員であり、「牛若丸」の作曲家でもあった小林源治氏は、「全国をみても、アマチュアのオペラグループは少なく、発表会も少ないのに、青森では『牛若丸』と『手古奈』の二つを同時に上演するなど、驚きにたえない」と、しきりに感心していたといいます。 その小林氏が驚嘆した「青森オペラ研究会 第1回公演」は、昭和32年3月6日、7日の両日、「牛若丸」と「手古奈」の同時上演で、青森県立図書館ホールにておこなわれました。 演出は、「牛若丸」を青森市内の自立劇団創弦座演出部の鎌田勝夫氏が、「手古奈」を ラジオ青森編成課長の中村清一氏が担当されました。
さて、この公演を見ていた一人の中学校教師がいました。彼の名は山田昭一、ペンネーム・北彰介。 この北氏の青森オペラ研究会への参加により、木村・北両氏による創作コンビが結成、青森オペラ研究会は新たな展開を迎えることになります。(つづく)
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(29)青森オペラ研究会 その3
| 2003年11月 3日(月) |
北彰介氏は、昭和31年4月に荒川中学から旧市内の古川中学校へ転勤となります。当時の古川中学校は各学年10学級、1クラス50名、全校生徒が千五百名というマンモス校であり、教職員も50数名いて、実に個性的な先生方が多かったといいます。 北氏によると、その中に、黒っぽい服に、いつでもきちっと蝶ネクタイを締め、背骨をしゃんとのばし、大声で話す音楽の先生がいて、その人が特に際立っていたとのこと。その人物が木村一三氏でした。こうして両氏は運命的な出会いを果たします。 少し前に、バリトン・ドクターの萩野氏も弘前から青森市に勤務。青森オペラ研究会の土台は、不思議な見えない糸に操られるかのように固まっていったそうです。 さて、北氏新任の年、11月頃のこと、木村氏が「今、音楽やっている連中とオペラ研究会を作ろうと話し合っているところだ。先生も入りませんか」と、北氏に、いつものせっかちな口調で声をかけてきたそうです。 オペラは外国のものとばかり思っていた北氏は「青森でオペラをやる? まさか」という疑念が強く、最初の木村氏の申し出は、あっさり断ったそうです。 そして一ヵ月後、北氏は木村氏から、またも声をかけられます。 「今、『牛若丸』と『手古奈』というオペラの稽古をしている。一度見に来ませんか。先生には、津軽を題材にした創作オペラの台本を書いてもらいたいと思っています」 北氏は生まれ故郷の荒川村(昭和30年に青森市に合併)で若者を集めて「荒川演劇研究会」を主催したり、荒川中学校教員として演劇部の指導に明け暮れ、古川中学校への転勤と同時に同校演劇部の顧問となっていたことから、木村氏は、どうしても北氏に参加してもらいたかったようです。 しかし、北氏は、どうして自分が戯曲を書いていることが木村氏に知れたのだろう。不思議だったと述懐しています。
その北氏ですが、せっかく誘われたので、とりあえず見に行くことに決めます。 「牛若丸」と「手古奈」がそれぞれ別々の日の稽古だったため、各二回ずつ、全部で四日、稽古場の浪打中学校体育館へ通ったそうです。毎夜吹雪だったそうです。 「牛若丸」での、からす天狗や牛若丸の速い動きがなんとも楽しく、また「手古奈(のちに『真間の手古奈』と改題)」は、叙情的な、しっとりした歌曲に心が洗われるような感じがしたそうで、北氏はオペラの魅力に開眼。本気でオペラ台本を書くつもりなら、自分もまた、青森オペラ研究会の一員となって、運動の一翼を担わなければならない。 そう考え、昭和32年の1月に入会。二ヵ月後、県庁北側にあった県立図書館の二階ホールで「第一回青森オペラ研究会公演」を北氏はメンバーの一員として客席で観ることになります。・・・鳴りやまない拍手。北氏は非常に大きな感動を覚えたそうです。
こうして第一回青森オペラ研究会公演は無事終了しました。しかし、その舞台裏は、大変だったようです。歌手とコーラスは三つの合唱団から選び、伴奏は青森市民管絃楽団。 舞台や照明も地元の演劇グループに協力を求めるなど、主義主張の違うグループの混成チームです。 グループ間での意見の違い、そして厳寒の冬季、仕事を終えてから臨む夜間の練習のために流感で倒れる者。練習のつらさから脱落する者が続出。 一時は第一回公演ができないかと思われるときもあったそうです。それを乗り越えての公演。・・・・が、そのあとには三万円近い借金が残ったそうです。 当時、県庁職員の初任給が一万円の時代です。
こういったデータを見たら、今の私たちは誰しも、次はないと思います。青森オペラ研究会の第一回公演後、反省会が開かれました。そこで話されたのは、次のような内容だったといいます。
「既成の作曲のものに頼っていては地方でやる意義がない。自分たちの手で身近な材料をオペラに作り上げよう。市民のオペラを市民が生み出そう」 夢と希望に燃える若者たち、今ではもはや死語になりつつある言葉ですが、そういった人たちが生きる時代が、確かに青森の地に存在していたようです。後ろ向きのことを考えず、大きな熱意のもと、常に前向きに考える姿勢・・・。驚かされます。 萩野氏にその当時のことを尋ねたところ、「みんなモツケ(馬鹿)だったんだね」と笑っておられました。
こうして苦労を苦労と思わない情熱集団は、様々な応援者を巻き込み、「日本の音楽界に記録すべきページを残した」とサンデー毎日に記事が書かれることになる、第二回公演「うとう物語」に向かって突き進んでいくことになります。 しかし行く手には、第一回公演を上回る数々の障害が待ち構えていました。(つづく)
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(30)青森オペラ研究会 その4
| 2003年11月 4日(火) |
さて、昭和32年4月の青森オペラ研究会総会で会長に萩野昭三氏(30歳)、副会長に北彰介氏(32歳・台本・演出)と木村一三氏(27歳・作曲・歌唱指導)が就任。ここに歴史的な、北彰介・木村一三の創作コンビが誕生することになります。 北氏の話によると、日本・外国のものを問わず、オペラの台本を探し回り、青森にはそのようなものがないと判明するや、東京の知人からオペラ台本を借り、音楽書を買って、にわか勉強を始めたそうです。 しかし、北氏はすぐにそれを放棄してしまいます。今からそんなことをしても、しかたがないと思ったそうです。 北氏の頭の中には、江戸時代の旅行家、菅江真澄の「外ヶ浜つたえ」に書かれている 「善知鳥神社由来」の短い文がありました。 そのイメージを膨らませ、作曲の木村一三氏や青森オペラ研究会の人に見せる形で、台本を発展させていったそうです。 北氏は一旦イメージが固定すると物凄いエネルギーとスピードでそれを形にしていく速筆家として知られています。 「うとう物語」も昭和32年の4月に取り掛かり、一ヶ月足らずのうちに四稿、五稿と書き直し、最終稿(第六稿)ができたのは5月初旬だったそうです。
今度は作曲。木村氏が昼・夜となくピアノに向かい、曲作りに励み、出来次第、楽譜は歌唱指導に回され、木村氏の奥様、ピアニストでもある美恵子氏のピアノで歌の猛練習となったそうです。 当初10月公演を目標にしていたそうですが、制作最低限度予算14万円が集まらず、作曲の遅れもあって、公演を延期。昭和33年1月26日に青森県立図書館主催「新春音楽の夕べ」で「うとう物語」の第一幕のみ、県立図書館で上演。全三幕上演は、同年4月5日・6日まで待つこととなります。 こうして公演が遅れたことにより、またしてもリハーサルが、厳寒の1月・2月に重なり、脱落者続出。さらに楽譜を受け取ったオーケストラのメンバーの中に、作曲に不満を持ち不参加を表明する人が出るなど、またしても公演が危ぶまれる事態に発展していきます。 新たに編成したコーラスのメンバーにしても、オペラというものを全然知らない人が大部分。しかし、合唱指揮の鹿内芳正氏(22歳)の若さあふれる熱っぽい指導の中、なんとか形になっていきます。こうした20代、30代のメンバーの情熱に打たれ、協力者が次々に現れます。 当時、円形校舎で有名だった青森中央文化服装学院(青函連絡船がこの建物を目印に入港、観光バスが斬新な形に立ち寄ったそうです)の久保ちゑ学園長もそのお一人。舞台衣装を予算なしを承知で引き受けられます。 縫製は放課後、先生と学生たちで一針一針手縫いしたそうです。材料費持ち、工賃なしの、完全「手弁当持ち」の手伝いだったといいます。 数年前、久保ちゑ
元学園長、桜庭せつ子
現青森中央文化専門学校長のお二人にお目にかかる機会がありましたが、当時のことを、お二人ともたいへん楽しそうに語っておられました。材料こそ一番安い無地のモスリンがほとんどだったそうですが、「着る喜び、作る喜び」とおっしゃっていた桜庭校長の言葉通り、そこには大変な情熱が込められ、最高の技術で素晴らしい衣装に仕上がっていきました。ちなみに当時の衣装は大切に同校に保管されています。 また、メーキャップもコナカ美容室の小中鈴江氏の全面的ボランティア協力。「うとう物語」の稽古場は、堤川そばにあった山田学園体育館を無償提供してもらい、厳寒の夜間おこなわれたそうです。 こういった中、萩野氏を先頭に、メンバーは、昼は仕事の合間を縫ってのスポンサー集め、広告取りに駆けずり回ります。 萩野氏は逓信病院勤務が終わるとすぐに自転車にまたがり、青森県庁、青森市役所に直行。何度も何度も、協力を要請したそうです。当時、青森県庁には横山武夫副知事が、青森市役所には横山実青森市長がおられ、萩野氏ら若い世代を全面的にバックアップしてくれたといいます。 萩野氏によると、記憶が定かでないので「うとう物語」だったかどうかは忘れたが、とにかく横山武夫副知事は自分たちのことを見るに見かねたのか、とうとう7万円の助成をしてくれた。稽古場にも来てくれました。あんな人格高潔、学識の深い、文化というものへの理解のある人はいなかったと語っておりました。後に萩野氏が東京に転居するとき、夜行列車の出発するホームに、横山副知事はわざわざ見送りにきてくれたといいます。
こうして公演初日を迎えますが、上演第1日目、開演午後6時の二時間ほど前に電話が入り、「プリマドンナの若井悠記子さんが盲腸で病院に行った」との知らせ。 萩野氏を囲んでの相談となりますが、もちろん代役などいません。観客も入り始めています。みんな「困った、困った」の連発。いったい公演はどうなるのでしょう(つづく)
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(31)青森オペラ研究会 その5
| 2003年11月 5日(水) |
こうして公演初日、プリマドンナの盲腸の知らせに皆、天を仰ぎました。もはや万策尽きた。公演も土壇場で中止かと思われた、まさにそのとき再び電話が鳴ります。 慌てて取ってみると「薬で散らして舞台に立ちます」との知らせ。 みんな、オーという安堵の声。 北彰介氏は、長い人生、このときほどホッとしたことはないと述懐しておられました。
このように直前まで様々なトラブルに見舞われながらの公演。2日間で約二千人の市民がつめかけ、「うとう物語」は観客の絶賛を浴びることになります。
菅江真澄の「外ヶ浜つたえ」に書かれている「善知鳥神社由来」。 「伝え聞く、烏頭(うとう)中納言
藤原安方朝臣(ふじわらのやすかたあそん)というやん事なき君の、いずれの御世に、何のおかしありてかさすらいおまして、この浦にかくれ給いたるが、そのみたまの鳥となりて海にむれ、磯に鳴きてけるをしか、名によい、その名を斎い祀りて、うとう大明神というなと、浦人に残りたる物語ともあり」 この短い文から大きくイメージを膨らませたオペラ「うとう物語」。
かつて外ヶ浜といわれた北の国の果てに、人間の様々なかなしさやよろこびが清水のように湧きおこり、そして消えていった。 その上を吹きすぎる歴史という風。 台本作家と作曲家は文学と音楽の力を借りて、もう一度、その源へさかのぼり、人間の英知と情念をつかみ取ろうとする、はかない戦いとも思われる。
これは昭和33年4月全幕初演時のプログラムに寄せられた北氏の文ですが、今、青森オペラ研究会の歩みを振り返るとき、この文は単にオペラのストーリーに言及したものではなく、公演実現に向け奔走した多くの若者たち、そしてその若者をサポートした多くの協力者たちの姿がここに重なってくるかのようで、大きな感動を覚えます。
当日のスタッフ・キャストは次のとおり。
演出・・・・・・・北彰介
音楽総指揮・・・・木村一三
合唱指揮・・・・・鹿内芳正
ピアノ・・・・・・木村美恵子
オーケストラ・・・青森市民交響楽団
舞台装置・・・・・佐野明(劇団 木曜座)
舞台照明・・・・・伊藤 実(劇団 創弦座)
舞台衣装・・・・・中央文化服装学院
メークアップ・・・コナカ美容院
中納言安方(バリトン)・・・・萩野昭三
村の娘 ますみ(ソプラノ)・・若井悠記子
アイヌの青年(テノール)・・・秋田利尚
じじ(バス)・・・・・・・・・佐々木哲男
村人(テノール)・・・・・・・小倉尚継
船頭(バリトン)・・・・・・・黒滝昭一
郡司所の侍(バリトン)・・・・福士孝行
村の娘たち
(ソプラノ)高杉裕子・町田エイ子
石沢紀子・三浦渓子
(アルト) 宮川澪子・今野美佐子
村の男たち
(テノール)田中善雄・吉田雅宥
(バス)小林啓一・斎藤泰三・岡田耕司
合唱・・青森オペラ研究会合唱団
当時の上演に接した人の感想を聞く機会がありました。 世界最高峰のオーケストラを自由に聴け、世界最高のオペラ歌手の演奏を簡単に耳に出来る現代の観点からとらえると、たしかに「うとう物語」の初演は16名編成のオーケストラ(というよりこの人数ではアンサンブルか?)の演奏は、今にも止まりそうな危ういものであったし、歌手、合唱団ともに最高とはいえないコンディションであったと思う。 しかし、何なのでしょう。 あのような、熱い込み上げてくるような感動。魂を揺さぶるような興奮は最近、とみに少なくなってきたように思う。世界最高といわれるオケの演奏を聴いても虚しさが残るときがある。あの初演の場に居合わせたことは、本当に幸せでした。今も、私の心の財産です。(次回完結)
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(32)青森オペラ研究会 その6完
| 2003年11月 6日(木) |
「うとう物語」公演では四万円の赤字が出たそうです。 しかし、はじめて取り組んだ創作オペラの成功に会長の萩野昭三氏、副会長の北彰介・木村一三の両氏、そして青森オペラ研究会の全員がいっそうの興味を示し、ひるむことなく、その後も旺盛な活動を展開していきました。 以下青森オペラ研究会の歩みです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和31年12月1日発足 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和32年3月6日・7日 第一回公演オペラ「牛若丸」とオペラ「手古奈」 於・青森県立図書館ホール ・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和33年1月26日 青森県立図書館主催「新春音楽の夕べ」で 創作オペラ「うとう物語」第一幕上演 於・青森県立図書館ホール 同年 4月5日・6日 第二回公演 創作オペラ「うとう物語」全三幕 於・青森県立図書館ホール 同年 4月8日 青森放送ラジオ「オペラ・コンサート」で「うとう物語」放送 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和34年11月1日・2日 第一回県下合同音楽会でオペラ「真間の手古奈(手古奈 改題)」と 演奏会形式で創作オペラ「藤太と姫」を発表 於・青森県立図書館ホール 同年 11月12日 第三回公演 オペラ「真間の手古奈」を上演 於・青森県立図書館ホール ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和35年1月14日 第四回公演 青森市鶴ヶ坂に伝わる「炭焼き藤太伝説」素材の創作オペラ 「藤太と姫」(一幕・台本 北彰介 作曲 木村一三)上演 同年 2月18日・19日 第二回県下合同音楽会で 創作オペラ「うとう物語」第二幕、三幕上演 於・青森県立図書館ホール 同年 5月14日 弘前市柴田学院でオペラ「真間の手古奈」を上演。於・同校講堂 同年 8月1日 NHKラジオ第二放送の「日本のオペラ」の第二夜 「地方のオペラ行動」で二時間にわたり、 創作オペラ「うとう物語」が紹介(山根銀二・團伊玖麿) 同年 8月6日 NHKラジオ第二放送のローカル番組で創作オペラ「藤太と姫」が紹介 同年 10月12日 八戸市白菊学院でオペラ「真間の手古奈」を上演。於・同校講堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和36年10月8日 北郡板柳小学校でオペラ「桶山伏」を上演。於・同学体育館 同年 10月25日 「音楽の夕べ」でオペラ「真間の手古奈」を上演 於・青森市民会館 同年 11月12日 三本木高校でオペラ「桶山伏」を上演。於・同校体育館 同年 12月18日 第五回公演 オペラ「桶山伏」を上演。於・青森市民会館 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和37年3月27日 「歌劇と合唱」でオペラ「桶山伏」を上演。於・青森市民会館 同年 10月21日 上北郡七戸町でオペラ「真間の手古奈」を上演。於・七戸町公民館 同年 10月27日 大湊でオペラ「真間の手古奈」を上演。 同年 11月11日 五所川原市でオペラ「真間の手古奈」を上演。於・五所川原市民会館 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和38年2月11日 第六回公演 オペラ「異本出雲風土記」上演。於・青森県立図書館ホール ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和39年3月22日 第七回公演 津軽に伝わる民話を狂言風に作り上げた創作オペレッタ 「ホラ伝の手柄」(一幕・台本 北彰介 作曲 木村一三)上演。 於・青森県立図書館ホール ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和40年2月14日 三沢市の少年音楽会で創作オペレッタ「ホラ伝の手柄」上演。 於・三沢市民会館。 同年 2月28日 五所川原市の少年音楽会で創作オペレッタ「ホラ伝の手柄」上演。 於・五所川原市民会館 同年 3月21日 青森市の少年音楽会で創作オペレッタ「ホラ伝の手柄」上演。 於・青森市民会館
・・・・・以後、青森オペラ研究会は自然解消・・・・・・
昭和55年4月20日 第二次青森オペラ研究会が発足 顧問・北彰介 会長・野村正憲 事務局長・石谷純一
同年 10月25日 津軽の雪女の民話から素材を得た創作オペラ 「赤いくし」(二幕・台本 北彰介 作曲 野村正憲)上演。
・・・・・・・・・・そして、 平成12年9月24日 青森市文化会館大ホールにて 創作オペラ「うとう物語」が42年ぶりに再演。
全国に先駆けて北の街につくられたオペラグループ「青森オペラ研究会」が、40数年ぶりに目を覚ましたと思いたい。再び活動を本格化し、市民に「おらたちのオペラ」を見せてほしいと思うや切である。これは大方の市民の声であるし、今回、出演した人たちの声でもある。 この言葉を残し、北彰介氏は平成15年10月26日青森市で永眠されました。
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(33)オペ研連載あとがき
| 2003年11月 7日(金) |
青森オペラ研究会(略称「オペ研」)の連載が終わりました。 結成時から現在に至るまで、一貫して中心的な役割を果たしたのが北彰介氏でした。
北氏は一年前「ワが死んだら、次の日には音楽資料はゴミ捨て場に置かれてるべな」と笑って語っておられました。また、多くの同世代の県出身の音楽家が同様な環境に置かれている。なんとかせねばとも語っておられました。 死の二週間前まで、元気になることを確信した内容の手紙を送って寄こしていた北氏です。まさか自分が一番初めに、予言通りの資料散逸の危機的状況に置かれるとは思ってもいなかったはずです。 当協会としてもそれは同様で、北氏が退院したら、現在大病を患っている方が多くいらっしゃるので、その方々の音楽資料を優先的に取り扱う予定で北氏と連絡調整をしていたところでした。 北氏は単なる過労による入院と聞いていましたが、その北氏があっけなく逝ってしまわれました。 青森県音楽資料保存協会が、最も身近なところから、その存在意義を問われる結果となってしまいました。
北氏のかかわったオペ研の歴史は、いつかは記録としてまとめておきたいと考えておりました。が、まだ3年は先のことだと楽観しておりました。しかし、一刻の猶予もならない事態となりました。 北氏が懸念していたようにレア資料がゴミ扱い破棄されないうちに、青森の音楽史の1ページに活動内容を刻印しておくべく、多方面から資料を集めました。 いずれこれらの資料を再構成し、当協会のホームページのしかるべき場所に掲示する予定です。 しかし、青森県の音楽資料に関心を持たれる方との情報共有は、早いほうがよいのではと考え、事務局日記に、青森オペラ研究会の歴史を掲載していくことになりました。
掲載方法については考えました。客観データを並べるだけなら「連載その6」に掲載した年譜情報だけで充分です。 しかし私の手元にアサヒグラフ(1961年3月10日号)が来ました。ここには「うとう物語」に打ち込む当時のオペ研メンバーの写真が何点も掲載されています。 狭い楽屋で、おそらく手弁当で手伝っていた中央文化服装学院の皆さんだと思われますが、着物姿の若い女性10名近くが萩野氏に衣装を着せている写真(入口にずらり並ぶ長靴が印象的)。 また、オーケストラピット内で横山副知事が見守る中、詰襟の学生服・セーラー服姿の男女が舞台の上で稽古している写真。 そして、作業服姿の若者5人が舞台装置の製作に励んでいる写真(配線やランプが散乱し、みな天井を見上げているので、おそらく照明についての打ち合わせか)。 さらに、青森県庁のわきを十名以上の若者がセットを担いで運んでいる写真(県庁周辺は雪景色、街頭が点いている夜間の幻想的な写真)など。 これらを見、また萩野昭三氏から当時のことを伺うにつれ、私の手元にある資料は単なる客観的情報ではなく、いつのまにか、切れば熱い血が吹き出るような人間の生々しい活動史となっておりました。 それをそのままお伝えしていく方が、よいのではと考え、今回、年譜を提示して終わりではなく、数回の連載形式にし、当時の活動に係わった方々の体温が感じられるような形で取り上げることにいたしました。ご感想などお寄せいただければ幸いです。
今後とも、青森県内にある各団体、個人の音楽資料が集まりましたら、事務局日記で速報として、随時取り上げていきます。 それぞれが小さな活動であっても、ジグソーパズルの一片のように、各活動は重要。 それなしには青森県の音楽史という全体像がとらえられなくなります。 当協会に寄せられる情報は、当協会が秘蔵しておくのではなしに、ホームページをご覧の方と情報を共有し、ご一緒に、青森県の音楽史を捉えていきたいものだと考えております。 小さな普通の情報を多数お待ちしております。
追伸 「メンバーの声」を更新しました。来週は川越晴美氏の連載第二回エッセイ掲載の予定です。 どうぞご期待下さい。
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(34)県民文化祭のこと
| 2003年11月 8日(土) |
青森オペラ研究会の連載に対し、「興味深い」「楽しかった」「知っている人の当時の意外な姿に驚いた」など、いくつかご感想いただきました。 どうもありがとうございました。 そういった中で「うとう物語」が再演されることになった「県民文化祭」についての貴重な証言もいただきました。 本日は皆様にそのご意見をバックしたいと存じます。
「うとう物語」の再演された平成12年度の第10回県民文化祭は、総合フェスティバルの他にシンポジウムや分野別フェスティバルなど、合唱・演劇など、18もの各種イベントから成り立っていました。 「うとう物語」は総合フェスティバルのメインであり、当日は、青森文化会館に千六百もの人を集めることになったそうです。
その県民文化祭ですが、もともとは、いろいろな分野の出し物をメニュー方式で次々と披露する形であったそうです。 それが、第8回に弘前市でオペラ「魔笛」を行ってからというもの、第9回は十和田市で、市では初めての市民ミュージカル「炎(ほむら)のもり」を上演(市長さんも一村人としてちょんまげ姿で出演)するようになり、総合フェスティバルは自分たちで作った、自分たちが出演する「大きな出し物」をという雰囲気に変わっていったそうです。この流れを受けての、第10回青森市での「うとう物語」の再演であったといいます。
実は、こういう文化祭をやっている県はたいへん少なく、メニュー方式の発表会で終わっている文化祭が、ほとんどなのだそうです。 それだと日頃の成果を発表するだけなので、準備等にもあまり時間がかかりません。
ミュージカルでもオペラでも台本を書き、キャストなどを決め、音楽を作ったり、合わせたり、スタッフや出演者もたくさん必要となります。練習の日程を調整するだけでも、大変な労力が必要となります。 ですから、県民文化祭では2年も前から準備にかかってもらっていたそうです。 県の仕事を地元にやらせている。丸投げだ、との批判が必ず出るそうですが、青森県の場合は、文化的イベントは、地元や関係者に任せてしまうというスタイルで運営がなされてきたそうです。 青森県には、自分たちが満足できるようなものにするためには、いくらでもボランティアでやります。自腹を切ってでも、いろいろやりますという人が多く、県民文化祭は、そのような地元の熱意ある人たちに支えられているとのこと。 こうした芸術や文化を愛する人が、青森には多いということでした。
岩手県や秋田県の担当者の方も県民文化祭を見に来られ、大変感動され、自分たちの県でも、市民が自発的に取り組む、このような文化祭にしたいと言っていたそうです。
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