青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2003年12月(3)>

(72)まるきた伝統空間 その1
(73)まるきた伝統空間 その2
(74)まるきた伝統空間 その3
(75)陰の功労者 その1
(76)陰の功労者 その2
(77)陰の功労者 その3
 
(72)まるきた伝統空間 その1 2003年12月12日(金)
 11月25日の日記「青森県での取り組み その20」で詳しく触れましたが、当協会の大きな柱は「保存」と「活用」です。
 順番として「活用」の前に「保存」があり、現在の協会活動の力点は、「保存」という部分に置かれています。
 しかし何年先になるかわかりませんが、保存活動に一応の目鼻がついたら、それらの音楽資料をどのように活用していくか。保存活動を継続させる一方、「活用」の方向へも活動を広げていく予定でおります。
 そのような観点から会則には、「青森県の音楽文化に係る演奏会、講演会、研究会等の開催事業」と明示されております。
 さて今回は、その「演奏会」について、一つのヒントとなる事例を取り上げてみることといたします。

 東京駅を訪れたことのある方は多いと思いますが、ここに「丸の内北口ドーム」という広々とした空間がございます。
 以前より、この空間を利用し、様々なイベントがおこなわれていましたが、平成13年11月、この場所で、民俗芸能公演が開催されました。

 丸の内北口ドームの名にちなみ、「まるきた伝統空間」と名づけられたこの公演。東京の玄関口ともいえる場所、しかも改札口前というパブリックスペースでの入場無料・観覧自由という、本来の祭りそのままの雰囲気での公演に2日間で来場者は、のべ五千人を超えたそうです。この大きな反響を受け、翌平成14年からは年2回開催となりました。

 「まるきた伝統空間」は、祭りや民俗芸能発信における新しい場の可能性を提示しているように思われます。
 何度か触れておりますが、先日おこなわれた第6回民俗芸能研究協議会(詳細は11月21日分の内容をご参照)で、「まるきた伝統空間」のスタッフが、「パブリックスペースでの民俗芸能公演の試み〜『まるきた伝統空間』を例に」という題で、事例報告をおこないました。

 正規報告文は近日、東京文化財研究所のホームページにアップされますので詳細はどうぞそちらをご参照ください。
 主催である東京文化財研究所芸能部の担当の方のご厚意により、当日の配布資料からの引用なども含めた、内容紹介についての承諾を得ておりますので、概要をこちらでもご説明したいと存じます。

 その詳細は、一回での掲載データ容量の都合もあり、連載で明日以降述べさせていただくことにし、まずは下記に動画配信のURLを示します。どうぞ、ご自身の目と耳で、どんなものか、雰囲気をご覧になられることをお勧めいたします。伝統芸能だけに限定しない、新しい保存と活用に関する視点が、開けてくるかもしれません。

http://www.ejrcf.or.jp/archives/marukitanote/index.html

 
(73)まるきた伝統空間 その2 2003年12月13日(土)
 昨日示しましたURLから「まるきた伝統空間」の公演記録をご覧になった方はお気づきになったように青森県からは、八戸三社大祭が登場しています。
 八戸三社大祭の名前は聞いたことがあるが、詳しい内容については知らないという若い方も多いようなので概要を説明いたしますと、次のようになるそうです。

 280年の歴史を持つ八戸三社大祭は、毎年8月1日から3日間に渡って行われます。
 内容は、おがみ神社、神明宮、新羅神社の三社の行列。それに続く附祭と呼ばれる山車が八戸市庁前を出発、長者山新羅神社へと向かいます。
 祭りの起源は享保6年(1721)、法霊大明神(現 おがみ神社)が神輿行列を仕立て、長者山三社堂(現 新羅神社)に渡御したことに始まるといわれています。
 これに神明宮と新羅神社が加わり、三社となったのは明治22年(1889)のこと。この頃より、毎年新しく作った山車が、行列に加わるようになり、現在の祭りの原型が完成したとのことです。行列や催しには、町の人たちの手による勇壮で華麗な山車の他、虎舞などの民俗芸能が加わります。

 さて、「まるきた伝統空間」の話に戻ると、素晴らしい山車で幾多の祭りの賞に輝いた
八戸市職員互助会が登場。
 山車の運行をにぎやかに彩るお囃子を披露しました。

 山車運行のお囃子には、大太鼓(鋲留)、小太鼓(締太鼓)、篠竹の笛が使用されます。
 運行のときに演奏されるお囃子は「通り拍子」と呼ばれ、2〜3分ぐらいの曲が繰り返し演奏されます。リズムが速くなると、山車が坂道を上がるときや、急ぐときの合図。
 一方、ゆっくり進むときは、いくぶん遅めに演奏されます。休むときは「休み太鼓」と呼ばれる、小太鼓だけの少し違ったリズムとなるのが特徴です。

 お囃子をリードするのは大太鼓の力強い響き。「まるきた伝統空間」で観客の喝采を浴びたのが、女性の大太鼓打ちだったそうで、男性奏者に負けない力強いバチさばきに、詰めかけた観客は大変魅了されたとのことです。
 その八戸市職員互助会お囃子組のメンバーは40名。全員が八戸市役所に勤務されているそうです。
 小太鼓や笛、山車を引っぱる「引き子」は職員の子供たちが担当しているとのことで、祭りの時は、総勢150名ほどの大所帯になるそうです。

 また、「まるきた伝統空間」では、お囃子の合間に「木遣り音頭」も披露されました。
 これは、山車が自分たちの町内の家々をまわってご祝儀をたくさん頂いたときなど、声のよい人が、扇を口元にかざして朗々と歌うものだそうです。
 東京駅「丸の内北口ドーム」に美声が響き渡り、観客は、八戸の伝統空間に引き込まれたと聞きます。
 このように、東日本各地(主催が東日本鉄道文化財団による)の優れた伝統文化を発掘し、東京駅丸の内北口ドームで紹介しているのが「まるきた伝統空間」です。
 しかし舞台裏の苦労もいろいろあるようです。明日はそれについて触れてみたいと存じます。なぜ「まるきた伝統空間」が成功したのか。その秘密についても触れてみることにいたしましょう。
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 八戸三社大祭については、次のURLが参考になるかと存じます。

http://www.hachinohe.jp/sanshataisai/

 
(74)まるきた伝統空間 その3 2003年12月14日(日)
 伝統芸能の公演を、パブリックスペースでおこなうこと自体は珍しくありません。
 「まるきた伝統空間」のように、人の出入りの多い駅スペースなどでの開催は過去にいくつも例がありました。しかし、こういったイベントはいずれも単発で終わり、継続性、そしてイベントとしての華が、あまりなかったようにも思われます。
 伝統芸能の公演には、お客さん、特に若い人が来ないことが問題視されていますが「まるきた伝統空間」第1回公演の来場者は、2日間で五千人を超えています。
 もっとも、ただでさえ人の多い東京駅改札前ですから地の利もあり、単純比較はできないようにも思います。しかし、その分を差し引いたとしても集客力の違いは、無視できないように感じられます。これはひとえに「イメージ作り」の問題なのかもしれません。

 「時が磨き、土地が刻んだ記憶」という共通スローガンのもと、「まるきた伝統空間」では以下のコピーが並びました。

 ◆DNAが、懐かしいという。
 ◆「いま」が忘れたパワーに出会う。
 ◆365日にはない、面白さ。
 ◆夢二日
 ◆感動の魅せどころ。

 伝統芸能について、今や知らない人がほとんどであるという点を逆手にとり、これまで見聞きしている文化とは次元を異にする新しい世界の広がり、そこから得られる新鮮な感動をアピール。今まで自分が知っているのとは別種の感動が味わえそうだ。そんな期待感を喚起させるイメージ作りが非常に功を奏しているかのようです。

 「獅子舞」の名を知らない人はほとんどいないと思われますが、その詳しい内容を知っている人は、特に若い人の間ではあまり多くはないようです。
 しかし、テレビなどで断片的に目にする情報から、なんとなくこの芸能に対するイメージを各自が持っており、実体を知らないのにもかかわらず、「獅子舞? ああ、昔から伝わっているあれですね」と、すでに、もうわかりきっているかのような感じを持っている人が、意外に多いように思われます。
 
 こういった対象に、「古くから伝わる伝統芸能」という切り口でアピールしても、反応が鈍いというのは、当然なのかもしれません。
 様々な娯楽が氾濫し、時間的にも忙しい現代人のこと、「自分のわかりきっていると思われる刺激のなさそうな世界」に進んで足を運ぶ人は多くはありません。新しい刺激ある方向へと興味が優先されるのは無理もないところです。

 が、これは「大きな錯覚」であり、本当は、ほとんどの人が伝統芸能の実体、その魅力を理解していません。こういったところに鋭いアプローチの矛先を向けたのが、「まるきた伝統空間」成功の一つの要因のようにも思われます。

 まず、様々な斬新なデザイン展開とからめ、あなたの知らない世界・感動がここにあるという点を強調。
 「新しいもの」「新鮮なもの」との出会いがありそうだというイメージ作りにより、まず集客。
 その後はひたすら正攻法です。

 過度の演出はもちろんのこと、イベント用に祭りをアレンジするのは厳禁。
 舞台を、地元とできるだけ同じ条件に整え、地元そのままの姿、伝統芸能の本物を見せる。
 これが「まるきた伝統空間」の本意だそうです。

 芸能に対する、正確ではない思い込みを様々なイメージ戦略で消去。その心の空白部分に、時代を超えて普遍的に人々の心に訴えかける芸能本来の持つパワーを注入。
 そのことによって伝統芸能の持つ本当の魅力を発見させる。ここまでの一連のプロセスが非常に巧み。
 これが、「まるきた伝統空間」を成功に導いた一つの要因のようにも思われます。
 伝統芸能を残すには、まず多くの人に見てもらい、その魅力に気づいてもらうことが第一です。
 アプローチの方法を誤ると人々を伝統芸能からかえって遠ざけることにもなりますが、「まるきた伝統空間」のような手法を用いることで、伝統芸能が、新しく命を吹き返すことが期待されます。特に伝統芸能は「保存」と「公演」が相互に関連を持っており、芸能の魅力をいかに公演で伝えるかによって、芸能継承の死活問題へとつながる場合もあります。
 芸能継承へ向けた、イベント等の公演を成功させていくための一つのアイディアとして、この事例が参考になるかもしれません。

 ただ、「まるきた伝統空間」の場合は、オールスタッフによる現地打ち合わせ、綿密な資料調査、消防署など様々な舞台制約の条件クリア、などなど、関係者の大変な努力の裏打ちがあってこその成功だという点も、忘れてはなりません。
 この点については、東京文化財研究所で近日アップ予定の正規報告書をご覧になり参考とされることをお勧めいたします。

http://www.tobunken.go.jp/~geino/index.html

 
(75)陰の功労者 その1 2003年12月15日(月)
 歴史の表舞台で活躍し、後世の記録に残っていくと思われる人もいれば、重要な役割を果たしながらも、知られることなく歴史の流れには載らない方もいます。
 萩野昭三氏は青森県の音楽史において重要な方であり、すでに評伝なども刊行されています。よって萩野氏の名前は青森県の音楽史に刻印されることは間違いありませんが、その萩野氏の方向性を決定づけた人の名をほとんどの方が知らないようです。

 萩野昭三氏は耳鼻科を開業しながら歌にも本格的に取り組まれ、歌うバリトンドクターとして著名な方です。
 昨年まで新宿の朝日生命ホールで毎年1回、合計25回(ということは25年)にわたって
リサイタルが開催されました。
 
 そのリサイタルを特徴づけているのが津軽弁による歌の数々です。
 標準語の普通の歌曲の中に散りばめられる「津軽方言歌曲」が萩野氏のリサイタルの大きな魅力となっています。
 また、リサイタルで歌うための委嘱作品として、たくさんの津軽弁による歌曲も生まれました。中には、青森県人ではないのに地方語の魅力に引き込まれ、津軽弁の歌を書きたいと言ってくる芥川也寸志氏(萩野氏の吹き込んだ津軽弁朗読テープを聴きながらイントネーションをつかんで作曲を進めたそうです)もおられ、萩野氏を中心に様々な津軽弁の歌曲作品が生まれました。青森県の創作音楽史において、このような重要な役割を果たした萩野氏の名前をはずすわけにはいきません。
 
 が、萩野氏は当初より津軽の方言歌曲に取り組んでいたわけではありませんでした。
 青森時代に活動されていた青森オペラ研究会の「うとう物語」も標準語。NHKの全国コンクール歌曲の部で優勝した際も、歌ったのはドイツ歌曲。
 当時は、津軽弁の訛りが抜けず、それを揶揄され続けたために自殺された青森県出身者の方もいらしたという、そんな地方蔑視の風潮もありました。加えてクラシック畑の声楽家は外国歌曲を歌ってこそ正当な評価を受けるものであり、日本歌曲を取り上げるのさえはばかられる時に地方語を積極的に取り上げる。萩野氏のようなクラシック畑の人にとって、これはずいぶん勇気が要ることだったといいます。

 まだ、現在のように「地方」の重要さが叫ばれていない時代、地方の特質を大事にし、ふるさとの心ともいえる「方言」を大切にするため、萩野氏に津軽の方言歌曲を取り上げるよう進言した方がいらっしゃったそうです。
 その方の名は安田進。

 安田進氏の名を知る人はほとんどいませんが、安田氏がいなかったら、萩野氏は津軽方言歌曲を積極的に取り上げることがなかったかもしれません。
 その結果、萩野氏を中心とした津軽方言歌曲の数々の委嘱作品も生まれなかったかもしれません。

 こういった青森県の創作音楽史において重要な役割を果たした方の名を、しっかりと歴史の中にとどめておくべく、作品などを含めた保存管理作業を事務局では進めてまいりました。
 昨日、その作業がようやく完了いたしましたので、それを機に、萩野氏がどうして津軽方言歌曲に取り組むことになったのか。それに多大な影響を及ぼした安田進氏の青森県の創作音楽史への貢献について触れてみたいと存じます。
 人気テレビ番組「徹子の部屋」におけるエピソードも登場してまいりますが、この続きは、明日、詳しくお伝えしていくことにいたします。
 
(76)陰の功労者 その2 2003年12月16日(火)
 ひとっつ 人よりおっき あだま
 ふたっつ 二つど ねーほど おっき あだま
 みっつ 見れば見るほどー おっき あだま
 よっつ よっぽどー おっき あだま

 これが十まで続く数え歌。最初はシーンと聴いていたお客さんの中からクスクスと笑い声がもれ始め、次第にそれが大きな笑いの渦となり、最後の「とおで とほうもねぐ おっき あだま」で爆笑。
 歌っていたのは萩野昭三氏。東京は新宿でおこなわれた第1回リサイタルでの話です。もちろん萩野氏は笑わせようと思って歌っていたわけではありません。真剣に楽曲に向き合い、まじめに歌っていたそうです。
 「クラシックのリサイタルで笑いがもれるなんて考えられないことでしたよ」とは萩野氏。驚いたと語っておられました。
 今でこそ、クラシックコンサートでも笑いがもれる楽しいコンサートはたくさんあります。しかし、30年近く前は、クラシック音楽といえば、姿勢を正して拝聴といった教養主義の雰囲気が強く、リラックスして聴く。まして笑うなどは、もってのほか。いうならばクラシックコンサートは「お勉強の時間」だったとのことです。
 が、ここで萩野氏はハッと気がついたそうです。音楽を楽しむ姿勢、人の心をなごませる。こういった要素は、たとえクラシック音楽とはいえ、必要なのではないか。それには、音楽の中に生活実感を含んだ方言歌曲が一番なのかもしれない。
 こうして萩野氏のリサイタルには津軽方言歌曲が必ず組み込まれるようになり、津軽弁のよくわからない東京の人にも、ほのぼのとした情感が伝わるのか、多くの聴衆の心を以後25年にもわたって、とらえ続けることとなります。
 これが萩野氏の個性として定着し、NHKのテレビ番組「音楽の広場」に2度にわたって出演(もちろん歌われたのは津軽方言歌曲)するなど、青森県のみならず、全国的にも唯一無二の存在感を示すようになるのです。
 さらに萩野氏だけではありません。萩野氏の第1回リサイタルを聴いていた人に、声楽界の重鎮、四家文子女史がいらっしゃいました。萩野氏の恩師でもあり、リサイタルの様子を気にかけて聴きにこられたのだそうです。
 ここで耳にした「ひとっつ 人よりおっき あだま・・・」という歌に、やはり衝撃(クラシック畑の人には文字通りショックだったとのこと)を受け、私もぜひ歌いたい、と萩野氏にリサイタル終了後、頼みにみえたそうです。
 四家女史はもちろん青森県出身ではありません。しかし、標準語とは違う津軽弁の持つ独特なアクセントや情感に惹かれたのか、自分の未知の世界の津軽方言歌曲にトライしてみたいということになり、なんとこれを、人気テレビ番組「徹子の部屋」で歌われたそうです。

いづっつ いつ見でも おっき あだま
むっつ むやみに おっき あだま
ななっつ なもかも おっき あだま
やっつ やっぱり おっき あだま
こごのっつ この世に ねーほど おっき あだま
とおで とほうもねぐ おっき あだま
あだまの おっきやづ ふんべつ い(良)ー

 このように萩野氏のその後のリサイタル活動の方向性を決定付け、四家女史、さらに後に作曲家 芥川也寸志氏といった青森県以外の音楽家にも、津軽方言歌曲の魅力を開眼させる契機となったのが安田進作曲「頭の大きやづ」です。

 こういったところから、この曲は青森県の創作音楽史上、非常に重要な一曲となるものです。しかし、この曲の存在を知る人はあまりおらず、それ以前に作曲者の安田氏についても、ほとんどの人が知らない状況です。
 これではいけないということで事務局では、安田氏の音楽資料保存に向け、以前より作業を進めておりました。
 「頭の大きやづ」の鉛筆書き自筆譜も押入れに埃をかぶって眠っていたものを預かり、県公共施設の古文書を管理する特殊スペースに搬入を完了。
 後世へ青森県の音楽遺産として残していくことがどうやら可能となりました。
 まだ安田氏の手元には貴重な録音物がたくさんありますが、これは来年、保存へ向けての作業を進めていく予定でおります。

 先人の業績の上に新しい文化が花開いていくという意見も伺うところでございます。
 地域の独自性や特色ある文化を育てていくためには、先人の業績に敬意を払い、それらを大切に守っていくことが、もしかしたら必要なのかもしれません。協会ではそういった先人の音楽文化遺産を守っていくことを目的に作業を続けていくことにしております。
 ここで得られた資料情報については、個人情報の扱いに留意しつつ、こちらで随時ご紹介しておりますが、明日は、ほとんどの方がご存じない安田氏のご経歴、萩野氏が「私の師匠」と呼ぶ安田氏の横顔についてご紹介したいと存じます。「徹子の部屋」のその後のエピソードなど、興味深い話も登場する予定でございます。
 
(77)陰の功労者 その3 2003年12月17日(水)
 昨日触れた「頭の大きやづ」は、民放のテレビ番組「徹子の部屋」では取り上げられました。が、NHKのテレビ番組で萩野氏が歌おうと思ったところ、許可が得られなかったそうです。理由は子供を蔑視した内容だからだということです。

 確かにそうとも受け取れないこともありません。しかし、これは当時の津軽の子供たちの間で日常的に歌われていた遊び歌、蔑視などという難しい感情の含まれない、わらべうたの中の戯歌の一つであると、ご年配の方などは語っておられます。
 が、差別用語に関し神経質になってきている現在では、民放であっても、取り上げるのが難しくなってきていると聞きます。

 それはさておき、なぜ安田進氏(昭和16年 板柳町生まれ)が、津軽のわらべうたに題材をとった作品に手を染めることになったのでしょう。
 これは沖縄と密接な関係があるそうです。

 安田氏はいったん東京の電気会社に就職するものの、音楽への思いが断ち切れず、大変なご苦労の末、日大芸術学部音楽科へ入学。そこで一人の教授と出会います。
 この教授が沖縄の伝統音楽研究に打ち込んでおられ、この教授に付き添う形で、沖縄まで、民謡の収集旅行に何度も出かけたそうです。
 今のように沖縄の伝統音楽が脚光を浴びていなかった頃の話です。

 安田氏いわく、当時はデンスケという大きなテープレコーダーしかなく、荒縄で重い機材を担ぎ、現地まで運ぶ必要があった。そのための人足だったのかなあと笑って語っておられました。

 しかし、無料で沖縄や奄美大島に出かけ、各地の伝統音楽に触れた経験は非常に大きなものがあったそうです。今でも、当時の録音されたオープンリール・テープは青森関係の録音物とともに、ご自宅に大切に保管しているとのこと。
 ただ、オープンリールのテープはカビが生えやすく、白いカビをふき取らないと聴けないかもしれないということです。その中には、今は伝承されていない貴重な歌もいくつか含まれている可能性があるそうで、沖縄は安田氏にとって青森に次ぐ第二の故郷であると優しい目をして語っておられました。

 さて、沖縄の民謡を収集しているとき、教授から「青森の方言の音楽をぜひやりなさい」と強く勧められたそうです。
 沖縄だけではなく、青森の地域文化も片隅に追いやられていた30年も前の話です。
 たまたま、安田氏のお父さんが板柳の小学校の先生であった関係で、様々な地域の伝承音楽の資料が集まっていたそうです。安田氏に届けられたその資料の中に、断片的に津軽のわらべうたの情報が含まれていたそうです。

 ここから生まれたのが「頭の大きやづ」に代表される数々の津軽のわらべうた作品です。

 私の世代では、これらはすでに消滅してしまっていますが、上の世代の方に伺うと「ああそうそう、確かに歌ったよ」と懐かしそうに語っておられる身近な題材が、いずれも基となっています。

 安田氏がまだ若い学生だったとき、たまたま青森高校の先輩だったという関係もあり、知り合いの紹介で萩野昭三氏の知遇を得ることになったそうです。「生意気だったんだろうね」とは安田氏。
 萩野氏に津軽弁の方言歌曲をぜひやるべきですと進言したそうです。
 沖縄の伝統音楽の研究者でもあった恩師の「青森の方言をやりなさい」という声が心にこだましていたそうです。

 こうして取り上げられた安田氏の作品が萩野氏のリサイタルの中で重要な位置を占めるようになり、安田氏の影響を受けた萩野氏の委嘱作品として、たくさんの津軽方言歌曲が生まれ、青森県外の人にも津軽弁の魅力を開眼させていきました。

 萩野氏がそういったところから「私の師匠です」と語る方、安田進氏ですが、大変謙虚な方です。
 青森県の現代創作音楽史の一角を占める非常に重要な存在でありながら、功績は他の方々であると譲って、ご自身は決して表に出ようとはされません。その人格高潔なお姿にはいつも感服するところです。

 その安田氏ですが、東京の公立小学校の校長を勤められるなど、長い間子供たちと一緒に学校の現場で過ごされ、昨年退職。現在もお元気で区立教育センターにおいて、教育関係のお仕事を継続されております。


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