(78)沖縄からのエール |
2003年12月18日(木) |
協会の本格準備作業は2年前に始まりますが、まずおこなったのはモデルケースを探すことでした。協会がこれから取り組もうとしていることと同種の事業をすでにおこなっているところがないか。 インターネットを駆使し全国を探し回りましたが、結果はゼロでした。 確かに有名音楽家に限定し、その人たちだけの作品を収集しているという団体はたくさんありました。また、分野を限定し、例えば郷土芸能資料だけを専門的に収集しているところもいくつか見つかりました。しかし、特にジャンル制限を設けず、地域ゆかりの音楽資料を広く保存しようとしているところは見つけることができませんでした。いろいろ尋ねてみたのですが、おそらくないと思います、との返答。 モデルケースがあれば先行する団体の失敗や成功例を参考にできると考えたのですが、 困ってしまいました。そこで、当協会と同じ事業活動をしているところはないにしても、 同じような志で保存活動をおこなっているところに学ぶところはないか、さらに調査活動を進めました。そうしたところ、いくつか大変参考になる取り組みをしている団体・組織が全国各地に見つかり、現在、協力関係を保ちながらいろいろと情報交換をさせていただいております。 実は沖縄にもネットワークの拠点を得ております。昨日、沖縄について少し触れることになりましたので、参考まで本日は、当事務局と情報交換させていただいている琉球舞踊館「うどい」について書いてみることにいたします。
全国的に文化行政が切り捨てられているのは周知の事実ですが、沖縄県も例外ではないそうです。 「うどい」を運営している平良信孝氏はもともと東京で高校教諭をしていた人ですが、 ある年齢を超えたら情熱ある指導はできないと、あっさり自分の課した年齢制限に達したことを機に高校教諭を引退、ふるさと沖縄に戻られたそうです。 その沖縄の伝統文化の一つに琉球舞踊がありますが、飲食を伴う夜の公演が主体で、昼間に観光コースの中で琉球舞踊を鑑賞できる場所がなかったそうです。 琉球舞踊だけを堪能できる場所がないのは観光立県として情けない。バリ島で見たバリダンス常設劇場のような場所が沖縄にも作れないか。 一時のイベントではなく、地元の人や観光客が年間を通し、いつでも見られる常設館が あれば、多くの人に沖縄の素晴らしい伝統芸能を伝えられるのに・・・。 こういった思いで行政に働きかけたものの、話をしてもズレを感じるばかり。援助は望めないと判断した平良氏は、私財を投げ打ち、なんと琉球舞踊の常時鑑賞できる場所「うどい」を作ってしまわれました。2000年1月のことです。「うどい」という名前は、「踊り」の沖縄方言に由来しています。
平良氏のすごいところは、208席ある会場が観客ゼロという日も、出演者はプロの踊り手という意識で、1日六回の公演を欠かさないとのこと。 奥さんが演目の合間に、歌や踊りの背景について説明を入れ、ナレーションを担当しながらご夫婦で、文字通り体を張って伝統芸能の保存に向け、がんばっておられます。 舞踊は宮城流美能留会の師範・最高賞受賞者である一流の舞踊家によるもので、本格的な踊りは、あまりの美しさに心が奪われ、時がたつのも忘れるほどだそうです。 こういった沖縄が誇る伝統文化、琉球舞踊を昼間実演している唯一の常設館がここのみ。 芸能に対する取り組み先進地域だと聞いていた沖縄の現状がこれだということです。他の都道府県の文化行政は推して知るべしといった感じではないでしょうか。
行政との折衝で落ち込むことの少なくない事務局ですが、取り組みは違っても志は地域の伝統を守ろうという点で一致している。がんばりましょう、と平良氏から、いつもエールをいただいて励まされております。
参考まで「うどい」のURLは下記
http://www.udui.net/
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(79)鶴田町の獅子舞保存 その1
| 2003年12月19日(金) |
「もう、体、ゆうごときがね。しかへらいね・・・」 長い間、子どもたちに獅子舞指導をしてこられた長内英五郎氏、その弱々しい声が、鶴田町立富士見小学校にショックを与えることとなりました。
富士見学区に伝わる西中野獅子舞は、「礼拝の舞」「抜き獅子の舞」「鹿の舞(神楽の舞)」など13からなる舞で、古くから地区の祈願祭などで披露されてきた伝統あるもの。その郷土の伝統を継承する人が、70歳を越えた長内氏ただ一人なのです。 長内氏のほか誰一人として指導者がいない状況に、郷土の誇り「西中野子ども獅子舞」は、ついにその長い歴史に幕を下ろすこととなりました。
子ども獅子舞の継承の場となっていた富士見小学校の関係者、そして子供たちの父母たちも、いかんともしがたい状況に苦悩の日々が続いたそうです。このまま伝統の灯が消えてしまうのか・・。
これは鶴田町に限らず、郷土芸能の後継者不足は青森県全般の大きな問題だと聞いています。 昔はどこの村にも獅子舞があった。正月になると若い者や子どもたちが獅子となって各家々をまわったものだ。その獅子は自分の村には五体あったが、今はどうなっているのだろう。神社の倉の中で埃をかぶって、道具は人知れず眠っているのだろうか。そんな話を先日、耳にしたところです。
ところで、獅子舞の出る祭りは全国で三千以上もあるそうで、日本の民俗芸能の70%は獅子舞ではないかともいわれているそうです。その獅子舞は7世紀に百済から伝来したものだという説が有力だそうですが、東北地方のものは別系統で、古くから日本にあったものだと考える研究者も多いと聞きます。 青森県に残される芸能も、もしかしたらそのような古い流れを汲んでいるのかもしれません。
長い年月を経て、世代を継いで、地域の人から人の体へと溶け込み伝承されてきた芸能には、その土地の魂がこもっている。地域に伝承されている芸能を失うということは、その土地の魂を失うことだと感じている人も少なくないようです。
現在、青森県の多くの地域では岐路に立たされているといってもよいようです。 伝統芸能の指導者が村の古老というケースが多く、継承者がなく、芸能が途絶えるのは時間の問題という地域が少なからずあります。 冒頭に述べた鶴田町の西中野獅子舞もその一つであり、今まさに伝統の灯が消えようとしていました。 そのとき、立ち上がった5人の若者たちがいました。
獅子舞が家にやって来たときに耳にしたあの音楽。子供心にも忘れられないものがあるなあ。このように語る方に何人か出会っていますが、その音楽は今どうなっています? ぜひ保存できるものなら残したいのですが、こう尋ねると、その音楽を発していた芸能自体がすでに廃れてしまった。あの囃子や独特な節回しの歌はもう聞けないと思う。皆さんいずれも同じようなご返答でした。
かつて録音記録されたこのような昔の伝承音楽資料の保存作業も当協会では進めていますが、やはり、こういった伝承音楽は録音物だけではなく、その土地に生きた形で伝承保存され続けるのが一番幸せなように感じられます。
こういった音楽を残すには、それを発する芸能自体に残ってもらわなければなりませんが、この点においてお役に立ちそうな情報も次々と入ってきております。今後、このような情報も、こちらで随時、発信していきたいと存じます。
その第一弾として鶴田町から来た参考事例を、明日より取り上げ、5人の若者がどのような気持ちで、どのようにして地域の伝統を守ることに立ち向かっていったのか。その軌跡を追ってみたいと存じます。
県内他地域で同種の取り組みをしている人たちの参考資料となるかもしれません。
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(80)鶴田町の獅子舞保存 その2
| 2003年12月20日(土) |
「ナやなが」 「わっきゃ、まね。時間ねして、まね」 「ナ、へばサ」 「わも、まね。忘えでまった。しかへるほんど上手でね・・・」 長内英五郎氏のショックな引退宣言を聞きつけ、かつて長内氏の指導を受けた卒業生たちが次々に富士見小学校に集まり始めました。そして学校の図書室で会議を持ったそうです。しかし、地域の誇りある伝統芸能を残したいとの気持ちとは裏腹に、出てくる答えは「時間がない」「自信がない」「指導にあたる仲間がいない」という「ない」のつくものばかり・・・だったそうです。
「長内さん大丈夫だんだが? あど何年生ぎるんずや」 長内氏の身を案じ、お世話になった長内氏に何とか恩返しをしたいのだが、結局それが出来る人は誰もいない。 気持ちはあっても簡単にできない。
こうして参加者は会議を開くたびに減っていったそうです。
実はこうした声は10年も前からすでにあったそうで、「長内さんに、なんがあったらどすべ。だ、しかへるんずや・・?」こんな意見があがってはいたものの、いざ後継者として獅子舞指導をする人はとなると、誰も手を上げる者が現れません。こうして、長内氏に頼りきったまま、現在に至ってしまったのだといいます。
これは伝統芸能、青森県内どこでも見られる風景なのかもしれません。
大きな市街地に近い、町や村などの芸能がまっさきに消えたのは、若い世代が、都市部に出てしまい、芸能を受け継ぐ若手が町や村にいなくなってしまったからだといいます。 かろうじて都市部から離れた町や村で伝統芸能がなんとか残されてきたものの、交通網の整備により、人口流動化が加速。町や村にとどまる若者がどこの地域でも減ってきているようです。 住居は村や町にあっても、仕事場は別な場所にあるため、自分の生まれ育った町や村の地域の行事にかかわっているゆとりがない。自分の育った村や町に帰るのは、眠りに戻るだけという、若い世代にとって半ばベットタウン化している地域もあると聞いています。 地域への帰属意識の希薄化に拍車をかけ、地区の伝統芸能継承への無関心さを助長しているのは、こういったところにあるのでは、との見方をしている人も少なくありません。
「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」だといいます。
「嫌い」と言っているうちは、まだ対象に関心が向けられているので救いがあるが、無関心という意識状態になったら本当に危ない。 伝統芸能に無関心な若い世代が増えているが、これによって、多くの伝統芸能が消えていくのではないか、と危惧されている方も少なくないようです。
鶴田町の富士見小学校で長内氏の獅子舞指導に直接・間接を問わず触れた人は500人を超えると聞きました。 そのほとんどの人たちに、文書で窮状を訴えたそうです。が、冒頭の「ない」づくしの返答で、最後に残った若者は、たったの5名だったといいます。
こうして「ない」が、やがて「できない」へ、そして「後継者は現れない」という言葉となって、地区に、あきらめムードが広がっていくこととなった中、最後に残った5人の若者たちが、地区の伝統を守るため立ち上がりました。
この続きは、明日、詳しく述べます。
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(81)鶴田町の獅子舞保存 その3
| 2003年12月21日(日) |
小さい頃から、長内英五郎氏の獅子舞に憧れ、それを目にして育ってきた一人の若者がいました。その人の名は川村武悦氏。 この川村氏を中心に、郷土の誇り「西中野子ども獅子舞」の保存のための方策が練られていったということです。
しかし、昨日も触れたように、五百人以上の卒業生のほとんどが地域の伝統を守りたいとは思いつつも、実際的な行動に踏み込んだのは川村氏を中心とした若手五名だったそうです。 20代後半から30代前半の富士見小学校卒の先輩・後輩のつながりを持つ若手が郷土の伝統を守るために立ち上がり、2000年12月25日「富士見小学校 獅子舞応援隊」が、こうして結成されることとなりました。 が、たった5人では舞が精一杯。 笛・太鼓・鐘などの囃子方まで手が回りません。どうする? 困ったぞ・・・。この窮状を聞きつけたのが富士見小学校卒、鶴田中学校の生徒たちでした。 郷土の伝統を守ろうと熱く燃えている先輩たちをバックアップするため、囃子方として応援にかけつけてきました。 いよいよ、「富士見小学校 獅子舞応援隊」が動き出すこととなります。 その最初の目標は「21世紀カウントダウンin 鶴田」に置かれました。 「鶴」の名にちなんで青森県鶴田町と鹿児島県鶴田町の町民が思いを込めて作った五万一千個の折鶴をバックに、鶴田町役場前で獅子舞を披露するというものですが、大晦日のことです。もうあまり時間がありません。
舞は以下の順序です。
@礼拝の舞 A参進の舞 Bお互組の舞 C橋見の舞 D抜き獅子の舞 E橋下げの舞 F山見の舞 Gつる下げの舞 Hお可笑子の舞 I山下げの舞 J雌獅子の舞 K鹿の舞(神楽の舞) L終わりの舞
これらの舞は、「荒れた土地を切り開き、平和で豊かな世代を造る」という意味の踊りで、まさに新世紀の幕開けにふさわしいもの。
当日の本番へ向け、囃子方の中学生、そして5人の富士見小・獅子舞応援隊のメンバーたちが燃えます。 が、不安もよぎります。大丈夫だろうか。
そして、いよいよ初披露の日がやってくるのです。
恩師の長内英五郎氏を筆頭に約四千人の観衆が、富士見小獅子舞応援隊のメンバーたちの姿を固唾を呑んで見守ることになったそうです。
明日に続く
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(82)鶴田町の獅子舞保存 その4
| 2003年12月22日(月) |
大晦日の夜「21世紀カウントダウンin 鶴田」が開催されました。さて、いよいよカウントダウンです。
3、2、1・・・、新年明けましておめでとうございます。
その合図とともに、夜空に200発の花火が打ち上げられ、鶴田町役場三階からつり下げられた折鶴ツリー50本と、両翼約10メートルの日本一大きいジャンボ鶴凧がライトアップされました。
と、同時に雪の中、富士見小獅子舞応援隊は、勢いよく飛び出していきました。 凍てつくように冷たい風、足袋の底にはりつく雪。 そういった寒さを、鶴田中学校の囃子連中の笛・太鼓・鐘の音が、吹き飛ばしていきます。
役場前に入れ替わり立ち替わり集まってくる聴衆も興奮して掛け声をかけます。 「のれ それ。負げるな!」 「えど! えど!」
こうした約四千人の聴衆の中、21世紀を迎えるにふさわしい若者たちの勇壮な舞を、涙をこらえながらじっと見つめている一人の老人がいました。「なーんぼ、えば・・・。よぐ、こごまで成長したな・・」 獅子舞の最後の継承者といわれた長内英五郎氏でした。
「6年生のとき、初めて舞ってみて、とても楽しかった。その楽しさが忘れられず、後世に伝えていきたかった」と、このように語る川村武悦氏を中心に結成された富士見小獅子舞応援隊、現在はその名称を「鶴田町西中野組 獅子舞保存会」と変え、富士見学区での後進の指導はもとより、結婚式の披露宴や神社の大祭など、積極的に活動を続けているそうです。
こうして存続が危ぶまれていた「西中野獅子舞」は、20代後半から30代前半の若者たちの手にゆだねられ、21世紀へ、地域の誇りある伝統が継承されていくこととなったそうです。
囃子方の問題など、まだまだ前途多難だそうですが、地域の応援、そしてなにより参加メンバーの熱い思いが未来を拓いていくものと、協会事務局でも今後の取り組みを注目しています。
ところで、なぜ、こんなエピソードが協会に飛び込んできたのか。不思議に感じておられる方がいるかもしれません。 実は、先の「青森県での取り組み」というタイトルで青森県内学校での伝統芸能への取り組みの連載を続けておりましたが、それについての最新データを鶴田町教育委員会よりいただきました。その際、担当の方と、いろいろ内容について確認作業を進めていました。そこでちらりとこの話が出てきたのでした。 私にとっても、まったく知らなかったことであり、尋ねてみると、たいへん詳しい情報が返ってきます。 不思議に思っていると、実は・・・、私もその5人の応援隊の一人です、とのこと。驚いてしまいました。 そこでこの方から詳しい資料をいただき、内容掲載の許可を受け、ここにご紹介することとなりました。 さて、その後の幸せなエピソードも伺っております。 それは明日、ご報告させていただき、鶴田町の獅子舞保存連載をまとめることといたします。
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(83)鶴田町の獅子舞保存 その5
| 2003年12月23日(火) |
「富士見小学校 獅子舞応援隊」の5人のメンバーの中に女性が一人参加しています。
「見ている人がウキウキしたり、参加したいと思われる舞をすること、女性の皆さん 積極的に参加してほしいですね」と 語るこの女性の方と、川村武悦氏が中心となって獅子舞応援隊が作られたそうです。こうして獅子舞が取り持つ縁というのでしょうか。 その後、お二方は、めでたくご結婚されたそうです。
長内英五郎氏に一番弟子と認められ、「舞のセンスは天下一品」「彼の舞には魂が入っている」と仲間からの評価も高い川村氏が最高の伴侶を得たようで、ますます活動に磨きがかかることを事務局としても期待しているところです。
さて、応援隊メンバーでもある鶴田町教育委員会の担当の方から「津軽獅子舞」の由来についての資料もいただいております。以下、ご紹介させていただきます。
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古文の説によると慶長年代(350年前)の頃、通称「赤石派立」といわれている所(現 弘前市松森町)に猫右ェ門という方が来在された。 あるとき、流行り病のために住民たちが苦しんだ。 そのとき、猫右ェ門の所持する巻物により、悪病払いのための舞を踊り、流行り病を追い払うことができたという。 これが津軽獅子舞の始まりとされている。 その後、貞享年代(300年前)の頃、津軽藩こもづちの冠左ェ門氏の教えにより、津軽地方に獅子舞が広められ、五穀豊穣、無病息災、世代繁栄祈願のために舞い続けられた。 また、津軽地方では鹿獅子と熊獅子とがあるが、我が応援隊は鹿獅子といわれ、頭が鹿で顔は唐獅子となっている。 お可笑子は猿と人間の中間で「ます」といわれている。
この獅子舞は、鶴田町立富士見小学校にて、学校教育の一環として受け継がれている。 なお、舞台の三本の木は山といい、原森林をあらわす。白い紙は神事を意味し、縄は山の木にからまる「ツタ」もの、ゴザは谷間の丸木橋を意味する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私もまだ見たことはありませんが、お話を伺ったところ、鹿獅子らしく、こちらの獅子舞は軽快な舞だとのこと。これからもいろいろと情報をいただくことになっております。
保存に取り組む子どもたちの生の声などの続報が入りましたら、随時、こちらでご報告していくことにしたいと存じます。
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(84)沖縄からの続報
| 2003年12月24日(水) |
先日、12月18日の日記で沖縄の琉球舞踊館「うどい」をご紹介させていただきました。 示しておいたURLより「うどい」のホームページをご覧になった方は、もしかしたらお気づきになったかもしれませんが、リンク集に当協会の名がひときわ異彩を放っております。
周りが沖縄関係の中にポツンと「青森県音楽資料保存協会」と名があります。 知らずに「うどい」のホームページのリンク集を見て、なんでここに青森県のものがあるのか? 何かの間違いでは、と怪訝に思う人がいるのではないかといつも申し訳なく思っているところです。 が、すべてこれ「うどい」の館長、平良信孝氏のご厚意によります。
協会のホームページができましたとお知らせしたところ、すかさずリンクをはっていただきましたが、伝統芸能保存、地域の文化を守っていこうという同じような志を持つ人に対し、心よりの応援を惜しまない。 こういった平良氏の温かいお人柄を非常に感じるところでございます。
その平良氏より最新情報が届けられました。先日の日記で、舞踊は「宮城流美能留会」の舞踊家によるものであると記しましたが、現在は、三会派の先生方と若手舞踊家の構成による、会派の壁を越えた出演者の自由な活動の場になっていますよ、と連絡がありました。ますます盛んな活動となっているようです。
信じられないのが、沖縄が誇る伝統文化「琉球舞踊」を昼間実演している唯一(!)の常設館、行政がやって当然の文化事業を個人の立場で運営されておられる・・・!!!。
前回の記述「行政に働きかけた」という部分に、ひょっとして行政に相談し、行政の援助を頼りに活動しておられると感じられた方がいるかもしれませんが、「行政に相談していません。自分の思いでつくっただけですよ」とキッパリ。 こういったところに、いつも襟を正してしまいます。
平良氏を筆頭として、このような凄い方が日本のあちこちにおられるようです。 この種の情報を耳にすると背筋がシャキッとなって、こちらも負けずにがんばらねばと、気持ちがリンと引き締まるような感じを受けます。
事務局では全国から、文字通り、芸能保存に生命をかけて打ち込んでおられるという方々の情報を得る機会もございます。 青森県内あちこちで芸能保存に取り組んでいる方たちへの大きな刺激剤となる可能性がありますので、今後とも随時、こういった情報は、発信していきたいと考えております。 壁にぶつかったとき、これらは、落ち込んだ精神を奮い立たせていくための活力剤になっていくかもしれません。
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