青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年1月(4)>

(107)江釣子ストーリー その1
(108)江釣子ストーリー その2
(109)江釣子ストーリー その3
(110)江釣子ストーリー その4
(111)江釣子ストーリー その5
(112)江釣子ストーリー その6
 
(107)江釣子ストーリー その1 2004年 1月16日(金)
◆今までショボクレて、今にも死にそうな人だと思っていた爺さんが、いったん太鼓を持つと、一時間も続けて練習する。ところが、子どもたちは10分で疲れてしまう。
 腰の曲がったような爺さんが、いったん踊りだしたら、若者のような踊りを踊るわけ。で、子どもらはびっくりする。そして単に踊りを教えるだけでなく、昔の暮らしとか思い出とか・・・、いろんなことを、子どもらに注ぎ込んでいくわけです。
 芸能をやるまでは、子どもたちは老人を『あのクサレ爺』と思っていたし、年寄りからすれば「なんたら言うことをきかない、あそこのガキは」という感じだった。
 それが芸能発表会が終わったら、「この子どもたちは、おらだの孫だ」というふうになっていった。子どもたちは芸能を教えてもらったお礼と、これからもっと、老人が持っている豊かな宝を伝えてほしいということで、敬老カンパに取り組んでいくわけです。イナゴ採りをして、それを売ったお金をカンパしたり、アルバイトしてためたお金を全額出し合ってる・・・。

●ずっと聞いていると、子どもたちは芸能を通しながら、自分の生まれ育った土地の人々の生き方を学び、人と人との対話やふれあいを大事にして、そこで新しい発見をして成長してきている、という気がします。
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 お隣岩手県は1999年に発表した総合計画の中で「学校と地域社会の連携のもと、自然や伝統文化を生かした、いじめや暴力のない、子どもたちの個性や創造性を伸ばす教育」を進めるため、学校づくりの指標の一つとして、2010年までに伝統芸能の学習に取り組む小中学校の割合を、それぞれ70%まで持っていこうと目標を立てていると耳にしています。

 ここまで来たのは、市町村や地区単位で青少年民俗芸能発表会の開催を続け、数年前から「郷土芸能教育研究協議会」を地区もちまわりで年1回開催するなど、たくさんの方々の努力の積み重ねがあったからであり、決して「岩手は芸能の宝庫」の一言で済ませられないものがございます。

 上記の対談は1979年の「わらび」六月号のもので、もう25年も前のものになりますが、実はこういった時代からの膨大な蓄積があり、その上に、現在の岩手県があるという点を理解しておく必要があるように思われます。

 青森県は岩手県に負けず劣らず郷土芸能の盛んな場所であり、本州最北端という地理的要因も作用して、さまざまな祭礼行事や芸能行事が重層的に流入集積しており、文化史の上からも注目されている場所です。
 しかし、豊かな郷土芸能の上にあぐらをかいているのか、保存・次世代への継承という点に対しての取り組みが、必ずしも充分進んでいるとはいえません。
 当協会は音楽的側面から青森の文化を守っていけないかをひとつの願いに活動を続けておりますが、民俗音楽の発信元である、郷土芸能団体の保存に関し、先駆的な取り組みを見せているお隣の岩手県には学ぶところがたくさんあります。
 今後の青森県での取り組みにおいて大変な参考になるのではと考え、岩手県情報を集めておりましたが、まず、秋田県「たざわこ芸術村」の民族芸術研究所より、参考資料が送られてきました。それが冒頭の対談でございます。

 内容はまったく古さを感じません。
 それどころか、今の時代においてますます、大きな輝きを発しているようにも感じられます。

 同研究所より掲載の承諾をいただきましたので、本日より連載で、現在の岩手県の土台を作った偉大な先達のお一人である、江釣子中学校音楽教諭であった高橋脩浩(のぶひろ)氏のお話に耳を傾けてみたいと存じます。きっと、心に響く何かがあるのではないかと存じます。
 詳細は明日よりのスタートとなります。
 どうぞご期待ください。
 
(108)江釣子ストーリー その2 2004年 1月17日(土)
 当時 江釣子村立江釣子中学校の音楽担当教諭であった高橋脩浩氏と、わらび座中学生担当の太田民氏の対談です。

 1979年の「わらび」六月号掲載であり、対談中に出てくる「今年」「去年」という言葉は、同誌発行年が起点となっております。どうぞご注意ください。

 なお、以下、高橋氏を◆マーク、太田氏を●マークで表記することといたします。

 それでは本文をご覧ください。


◆村には17の地区があるんですが、各区ごとに、鬼剣舞や大黒舞、さんさ踊り、神楽などをやったんです。
 これには村の人が千人近く集まって見てくれました。
 それから今年の1月15日には、子どもたちが田植え踊りを一軒一軒まわって踊りました。
 これが今、私たちと子どもたちが作った最高の到達点じゃないかと思うんです。ここまで来るのに5年かかるわけです。
江釣子というのは北上市の近くにある村で、だいたい都市の近郊にある村というのは荒れると言われてますけど、私が行ったときは、まあ校内暴力は頻発する、タバコの吸殻はあちこちにある、万引きでつかまる。惨たんたる状況でした。
 それで学校の指導は何かというと、決まりをいっぱい、数えきれないぐらい決めておいて、それに合うか合わないかでチェックしていく。
 たとえば髪の毛が長くて、言うことを聞かない子は、ステージの上に乗っけて、みんなの見せしめにするという指導でした。ですから、子どもたちはどうしてもよくならない。 そのときも体育祭に「台笠踊り」という郷土芸能をやってたんです。
 やってるんですけど、教師の押しつけでしかないから、子どもはグッタラ・グッタラして、興味を示さないんです。
 だから私は、郷土芸能をやればいいというもんではないということをそのとき初めて知ったわけです。

●先生方は、どのようにして、そういう子どもたちに手をのべていかれたんですか?

◆まず学校の中では、子どもたちの仲間づくり、班づくりです。
 一人ひとりの悩みとか願いを班や学級全体の問題として考え、解決していく。
 同時にいろんな行事のなかで、子どもたちのよさとか豊かさを膨らませていく。
 新入生を迎える会に始まり、遠足、体育祭、文化祭などの行事で、子どもたちに創意を働かせて、自分たちの手で運営させていく。そうやって子どもたちの自治能力を育ててきたんです。

●それだけのことをやっていくには、先生一人のがんばりじゃできないことですよね。教師が集団として変わっていかなければならなかったと思うんですが。

◆どんなに荒廃して、まるでダメだと思えるような学校でも、その中には、このままじゃダメだ。なんとかしたいと思っている先生が必ずいるんです。
 どこにだっている。
 ただ、たまたま年齢とかポジションの関係で、全体の活動に広げたり、手を結んだりすることができないという場合が多いわけです。
 私が江釣子に行ったら、やっぱり何人かいるんですよ。
 そういう人たちが核になり広がっていきました。

●学校で郷土芸能を取り上げたのはどういうことからだったのでしょう?

◆直接的には、子どもたちの夏休みの生活をどう組織していくか、ということからなんですよ。
 家庭では親子が断絶しているし、地域にも連帯感というものはなくなっている。
 子どもたちも気の合った同士のつき合いはあるけど、たとえば隣の子が何をしているか全くわからないという状況です。それで、どうしたら連帯感を作っていけるか、ということで、区の組織的な活動に力を入れていきました。
 学習会とか奉仕活動(道路の清掃など)とか、レクリエーション活動とか活発にやって、しかもその内容を区ごとに新聞を作り、親たちに知らせていったんです。
 これは一定の成果があがりました。しかし、もう一つ迫力がない。
 それは、もうすっかり荒廃している子はそれに参加しないし、ほかの子たちも「あれはそうなんだ」と決めつけたままなんです。郷土芸能にぶつかったというのは、これよりもっといい方法はないかな、と考えていたときなんです。
 
  (明日に続く)
 
(109)江釣子ストーリー その3 2004年 1月18日(日)
◆あるとき滑田という地区の子どもから、今度の日曜日、お祭りで鬼剣舞やるから、先生来ないかと誘われました。
 それで、私たちは録音機やカメラを持って行ったわけです。神社でやってました。お母さんたちが大きな鍋に魚なんか煮込んでてね。
 私らは大歓迎されて、たくさんごちそうになり感動的な1日を過ごしました。そのとき鬼剣舞をずっと見てたら、老人から壮年、青年、中学生と切れ目なく続いて踊りがつくられている。そしてよく考えてみたら、その地域の子どもは非行がないんですよ。
 そのときは地域の教育力なんて深く自覚していませんでしたが、大事なことを学んだような気がしました。
 その後、ほかの地域を見ていくと郷土芸能はいっぱいあっても、今は受け継ぎ手がいなくて、風前の灯みたいになっているわけでしょう。
 それで、ほかの地区でも、どこかに芸能を発掘できるところがないかと、さがしていったんです。

●それがあったわけですね。

◆ええ。鳩岡崎というところに、消滅しかかっている田植踊りがあって、ちょうどそこに住んでる先生がいたわけ。そこを突破口にしていったんです。

●子どもたち、抵抗なく踊りました?

◆始めのうちはしぶしぶだったんです。
 だけど、教える年寄りの人たちがもう喜んで来るでしょう。今まで自分の息子にも見放されていた踊りを、孫たちに教えれると。だから張り切って来るの。そこで私、練習を見てたんですが、年寄りのカリキュラムって素晴らしいんですね。
 それは、絶対に怒らないの。
 で、ちょっとでもうまくなると「ああ、おめえらメンコイ」とやる。
 私らが踊りを教えると「なんだ、足のあげ方がまずい」なんて言うわけだけど、そんなことは絶対に言わない。
 だから子どもたちもその気になってやります。
 それで上手になるとちょっと厳しくなって、だんだん本格的に教えていくんですよ。これだな!と私は思いました。これが伝統芸能のカリキュラムじゃないかと。
 そうやって、鳩岡崎の田植踊りを復活させ、これと滑田の鬼剣舞を学校行事の中に取り入れていきました。少しずつ。
 たとえば新入生を迎える会なんかでプログラムに組むわけです。
 それまでは合唱なんかが中心でした。で、行事で芸能をやるようになったら、生徒の間におもしろい反応がおこってきました。

●どんなことですか?

◆それはね、ほかの区の子どもたちが刺激されたわけです。
 「なあんだ。鳩岡崎の田植踊り、あれはおもしろぐない。おらほの田植踊り、もっとおもしれ」と。なぜかっていうと「おらほの田植踊りは回った瞬間に髪の毛もパッとなるし、たもともこうなる。鳩岡崎のやつ、そうならね」って。
 そういうふうに「おらほにもある、おらほにもある」と、子どもら自身が自分たちの地域の今まで目を向けなかった部分に目を向けていきました。
 私ら教師もそこに目を向け一緒に学んでいくわけです。そして芸能も行事にのっけるだけでなく、多面的にのせていくんです。
 
 (明日に続く)
 
(110)江釣子ストーリー その4 2004年 1月19日(月)
◆たとえば去年の修学旅行でも子どもたちは、自分たちの修学旅行だといって、鬼剣舞や田植踊りの衣装一式持っていくの。
 北海道まで。
 で、青函連絡船の甲板でお客さんをワーッと集めて踊ってみたり、旅館に行ったときは従業員の人たちに見てもらったり、それから、白老のアイヌの酋長さんのところでもやるわけです。「こんな生徒さんたち見たことない」って、どこでも言われました。

●そういうことの基盤の上に「芸能発表会」がおこなわれていくわけですね

◆そうですね。夏休みに入る前に子どもたちと打ち合わせて、各区とも芸能を発表できるようにしようということになるんです。
 それから各区ともPTAの懇談会があるでしょ。
 で、私たちはそこへ行って、「実は隣の区ではこういうことを親たちが先頭になってやるって言ってました。こっちはどうします?」と挑発をかけると、親たちは、他の区に負けていられないとばかりに燃えていくんです。それで区の力が総動員されていきました。

●でも反対する人はいなかったんですか? たとえば、そんなことしないでもっと勉強させてくれとか。

◆それはありました。
 ところが親たちが討議し見事に解決していくんですよ。
 たとえば、今まで箸にも棒にもひっかからないと公認されていた子は、学習会にもレクリエーションにも来なくてよかった。ところが、芸能の場合は人数が足りないと成立しないでしょ。
 だから子どもたちは、その子が来るまで説得に行き、結局どの子も踊りに入ってくるんです。
 これはいったい何か、ということで親たちは討議し、お互いに分裂を克服していくわけです。
 そうやって親たちは、たとえば誘致工場なんかへ働きに行っているわけですが、休み時間に集まるとその話になるわけです。
 おらほでは着物をこうして揃えたとか、おらほでは、このままではブザマだから何とかしなければいけないとか・・・。
 で、発表会の前の晩はどの区でもリハーサル(地元では笠揃いと言うんですが)をやったんですが、ある区では区長さんが全戸にビラまきして人を集めてるし、ある区では青年たちがヤグラを組んでやってる。どこも本気なんです。もう火花の散るような感じでしたよ。

●そうやって発表会を大成功させたわけですね。なんか話を聞いているだけで、熱気がグングン伝わってきて、私までワクワクしてきました。発表会をやってみて、一番良かったと思うのはどういうことですか?

◆それは芸能を取り上げたことで地域の親が関わり、老人たちが関わり、青年たちが関わってきた。そういうふうに地域の教育力が膨らんだことですね。
 そして特に大事だと思うことは、老人がすばらしい知恵と力をもっていることを子どもたちが学んでいくんです。
 今までショボクレて、今にも死にそうな人だと思っていた爺さんが、いったん太鼓を持つと、一時間も続けて練習するの。
 ところが、子どもたちは10分で疲れてしまうの。
 そして、腰の曲がったような爺さんが、いったん踊りだしたら、若者のような踊りを踊るわけ。で、子どもらはびっくりするのね。
 そして、単に踊りを教えるだけでなく、昔の暮らしとか思い出とか、いろんなことを子どもらに注ぎ込んでいくわけ。そして、そのことが逆に老人たちの生きる目あてになっていくんです。
 今年の1月に出た老人クラブの文集には、中学生に芸能を教えるために持てる力を充分発揮していこう。そこに、自分たちの生きがいがある・・・。こう書かれていました。

  (明日に続く)
 
(111)江釣子ストーリー その5 2004年 1月20日(火)
◆それともう一つは郷土芸能を追求していくと子どもたちは、これがどうしてできたかということに必ず目が行くのです。
 たとえば、全明寺盆踊りというのがあるんですが、これを踊り上げたときに老人が由来を話してくれます。
 ずっと昔、江釣子は水がなくて米がとれなかったって。
 だから先祖の霊と大迦和尚に感謝するために踊ったんだって。
 それで、子どもたちは八方手を尽くしてその堰が実在するのかどうか、奥寺某は実在したのか、『村史』を調べたり、老人から聞いてまわったりして調べていくわけ。
 夜遅くまであちこち駆けずりまわって。
 そうやって、その由来は支配の論理だってことに気がついていくわけですが、そのことで地域の歴史を身近にとらえていくわけね。で、そのあと「大迦和尚」という創作劇をつくって上演していきました。

●ずっと聞いていると、子どもたちは芸能を通しながら、自分の生まれ育った土地の人々の生き方を学び、人と人との対話やふれあいを大事にして、そこで新しい発見をして成長してきているという気がするんですが大事なことですよね。

◆こういう運動に関わって、親たち自身が今までより地域を深くとらえたり、子どもたちをとらえ直すことができていっていると思うんです。
 もう一つ、子どもたち自身の認識でいえば、地域をとらえ直していったとき、「学習というものは自分たちのものだ。自分たちには学習する権利があるのだ」ということに目覚めさせていかないと、意味はないと思うんです。
 つまり「地域に生きている俺たちは、地域の明日のためにしっかり勉強しなければいかん」ということがつかめたときに、もう大成功じゃないか。私はそう思うんです。

●すごく大事なことですよね。具体的にはどういうふうな変化が見られたんでしょうか?

◆踊りから発展して、拙い劇をつくっていったわけだけど、踊りの背景を探って、どうやってこの田んぼが出来てきたかなんて深く考えていくと、米一粒だってムダにできなくなります。
 今の減反のことなども、やっぱり考えていきます。
 そうすると親の手伝いをして、家で働く子も出てきます。
 やっぱり農業の考え方が変わっていくんです。
 あくまで減反しないでがんばっているお父さんを偉いと思ったり、そういうふうになってきます。

●芸能を通して、そこの土地の歴史を知り、誇りを持って自分がそこに生きていくことを考える。そういう教育というのは、うんと考えさせられますね。
 子どもたちは、農業に対して誇りを持っているんですか?

◆江釣子は、ほとんどが農業なんですが、親自身が農業に見通しがもてないで迷っているわけだから、子どもがそれに誇りを持てるわけはありません。
 ただ、何が問題かという問題意識は鋭く持っていくわけです。
 一番大事なことは、そういう問題意識をずっと持ち続けていくことではないかと思います。
 
●ところで、地域に芸能のないところもだいぶありますよね。そういうところではどんなふうにしていったらいいんでしょう。
 
 (明日に続く)
 
(112)江釣子ストーリー その6 2004年 1月21日(水)
◆教研集会なんかでも、江釣子中学の実践を発表するとよく言われます。
「岩手はいいやなあ。芸能があるんやからなあ」なんて。だけど、なければないなりに展開させていけるんじゃないでしょうか。
 たとえば、山形で「みかぐら」を踊る運動が展開されていますが、あれは、もともとは、岩手の踊りですよね。

 だけど子どもたちは、あの踊りを踊るなかで心と体を開放し、仲間づくりをおこない、さらには地域のお祭りや盆踊りでも踊っていって、新しい郷土芸能としてその地域に根づいていってます。
 だから、何を教材にして子どもにぶつけていくかという視点さえちゃんとあれば展開していけるんじゃないでしょうか。
 やはり、私らは子どもたちを「村の子ども」にしたかったんですよ。一対一の親と子という関係だけでなく、親からしたら子どもが村に百人いたとしたら、全部自分の子だし、子からしてみたら、親が全部自分の親だと思うような。

 芸能をやるまでは、子どもたちは老人を、『あのクサレ爺』と思っていたし、年寄りからすれば、「なんたら言うことをきかない、あそこのガキは」という感じだったでしょ。
 それが芸能発表会が終わったら、「この子どもたちは、おらだの孫だ」というふうに変わっていきました。

 子どもたちは芸能を教えてもらったお礼と、これからもっと老人が持っている豊かな宝を伝えてほしいということで、敬老カンパに取り組んでいくわけですが、イナゴ採りをして、それを売ったお金をカンパしたり、アルバイトしてためたお金を全額出し合ってるんです。だから、ことあらためて「老人を大切にしましょう」とか「福祉」という言葉を使わなくていいんです。
 根本はお互いの生命を尊重し、人格を尊重するということではないでしょうか。

●生きた教育ということですね。どんな小さな成果の芽をも、とっても大事に、それもみんなの力にしていくという先生方の熱気と、こまやかな子どもへの愛情に深く教えられる思いです。
 「村の子どもたちにしたかった」という先生のお話に強く共感しました。
  うちの子どもたちがこんなことを言っていましたよ。
 「江釣子中の人は生きてるんだ。目が輝いている!」って。(完)


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