青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年2月(2)>

(127)金木町レポート その1
(128)金木町レポート その2
(129)金木町レポート その3
(130)金木町レポート その4
(131)金木町レポート その5
(132)金木町レポート その6
(133)金木町レポート その7
(134)金木町レポート あとがき
 
(127)金木町レポート その1 2004年 2月 5日(木)
 金木町教育委員会から届いた資料を見て驚きました。

 金木町のすべての小学校、中学校、そして金木高等学校までが地域の伝統芸能に熱心に取り組んでいます。

 小学校に限定して、すべての学校が地域の芸能に取り組んでいるというところはありますが、小・中、そして高等学校を含めた全部の学校が、郷土芸能に取り組んでいるという地域は青森県内でもあまり例がないように思われます。

 岩手県は小・中学校の伝統芸能の取り組みを、それぞれ70%まで持っていくことを課題にしていると以前の事務局日記で触れ、その先進性に驚いたものですが、金木町だけに限定すると、なんと青森県は100%の取り組みを行っていることになります。
 青森県にも、こういった熱心な地域があることを知りませんでした。

 金木町教育委員会の担当者に伺ったところ、学校への指導は確かに保存会の人も見えているが、昔から取り組んでいるので、すでに先生方も芸能についてはよく知っており、三味線などの専門技術を要するものは、あいかわらず保存会の方の力を借りてはいるものの、それ以外のものは、学校側が率先して指導するケースも少なくないようだということでした。

 こういった金木町の熱心な学校の中でユニークな取り組みをしている小学校の一つに嘉瀬小学校があります。

 嘉瀬小学校では、全校生徒で嘉瀬の伝統芸能である「奴踊り」に取り組んでいますが、
その取り組み方がたいへんユニークです。

 毎年6月の運動会で、全校生徒と父母たちが保存会の人たちも交えて一緒に踊るのはもちろんのこと、毎年9月に「奴踊りチャンピオン大会」を開き、たくさんの保護者・地域の人たちに観てもらい、好評を博しているそうです。
 昨年でこれがなんと12回目を数えることになったそうです。
 
 昨年の「奴踊りチャンピオン大会」は、生の三味線演奏やトロフィー授与などで審査会を盛り上げたということで、こうした学校側の環境作りの努力に対し、保存会など地域の人たちも大きく感謝しているそうです。

 嘉瀬小学校は、「地域の大人・保護者も積極的に踊り、盛り上げようとする環境づくりをすること」を目標に、今後は、踊りだけではなく、三味線・歌・囃子などについても検討しているところだと聞きます。

「学区民だけではなく、町全体、県全体、もしくは全国に広め、伝統ある踊りをたくさん知ってもらいたい」との方向性を示している嘉瀬小学校が取り組んでいる「奴踊り」。

 一体それは何なのでしょう。

 金木町教育委員会からご厚意によりたくさんの資料をいただいております。明日、その興味深い踊りについて、触れてみたいと存じます。
 
(128)金木町レポート その2 2004年 2月 6日(金)
 津軽地方の新田開発には、越後・能登・京浜地方などからいろいろな人が訪れたそうです。

 特に田植えの時期には、出雲大社や大阪住吉神社の神事たる田植踊りを勧進に(寺や仏像の建立や修理のために寄付を集めること)、願人坊の一群が年々訪れてきたといいます。
 今も、その海路の入口であった十三湊周辺に残る「ヤッチョマカショ」という出雲節、またの名称を越後節という民謡は、これを如実に物語っているといわれています。

 さて、この願人坊の一群によって踊られるのが、その年の秋の豊作を祈願する田植踊りであり、これが各地に広まっていきました。

 中でも金木新田でおこなわれた田植踊りは、特に重要視・盛大におこなわれていたそうです。

 その昔、神は「さの神」、あるいは「ざんばい」と称されていたそうです。
 田植えのときにそれを迎えることを「さくだり」「ざをろし」「ざんばいおろし」と言い、田植えが無事完了し、その状況を見届けてもらい、その年の豊作を更に神々の約束を重ね送り返すのが「さのぼり」「さなぶり」と呼ばれていました。
 
 「さの神」は、一時の休暇を人々と共に取った後、馬に乗って昇天するといわれ、「さなぶり」の時にも、馬が一役買って出ます。
 
 これが芸能化して残されたものが古い意味の荒馬踊り。これに伴うササラ踊りや、太刀振り踊りといわれる棒踊りは一種の呪術であり、踊りのとき打ち合わせ振りまわることは、もともとは悪霊退散の意味合いが込められていたそうです。

 さて、田植踊りは、さの神のヨリシロ(神霊が現れるときの媒体となるもの)である大傘を中心に、早乙女、太郎治、弥十郎が唄声おごそかに、また楽しく踊るもので、弥十郎は特に奴の衣装を飾って加わることが多いといいます。

 早乙女の踊りの前後には、荒馬、太刀振りが伴うのが昔からのならわしだとのことですが、かつて金木新田開発でおこなわれた田植踊り一般の形式も、現在は個々に分裂し、今や消滅寸前の状態だといいます。
 こうして田植踊り行事が消滅に向かう中、この中の配役の一つである弥十郎の奴だけが嘉瀬地方に残り、「嘉瀬の奴踊り」として伝えられることになります。

 現在、嘉瀬小学校はもとより、金木地方の神事、祭典、田植終了を祝う行事など、ことあるごとに踊られている嘉瀬の奴踊りですが、その背景には、一つの興味深い伝説があるようです。

 その詳細については明日、触れることにいたします。
 
(129)金木町レポート その3 2004年 2月 7日(土)
 今から三百年ほど前、津軽藩主の信政公は領内の開墾に力を注ぎ、藩士を投入して新田を開発、米の増収を図りました。
 しかし、藩士たちは、藩公の仰せとはいえ、武士として、はずかしめにあったように思い、新田開発の希望者は多くはなかったといいます。

 こうした中、鳴海伝右衛門は、妻子と奴徳助を連れて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意を持って、昼夜の別なく総力あげて働いたそうです。

 この結果、数年後には三百町歩の良田の造成に成功することになりました。

 さて、ある年、伝右衛門が金木御蔵に年貢米を納めに行ったときのことです。
 かつての同僚であった者が、金木御蔵の役人として出世していました。
 その役人の伝右衛門を見る目はたいへん冷ややかであり、伝右衛門は「腰抜け武士の典型よ」とさげすまれ、冷笑されます。

 このときから、伝右衛門は懐疑的となり、次第に覇気を失い、沈みがちになります。
 主人思いの奴徳助はこの様子を見るに見かね、恵まれない主人を慰めようと思いついたのが次の歌詞であったそうです。
 「嘉瀬と金木の間の川コ、石コ流れて、木の葉コ沈む」

 「石コ流れて、木の葉コ沈む」とは、誠実なものは恵まれず、上役に要領よく取り入る軽薄な者が幅をきかせることを暗に皮肉ったもの。
 「世の中、逆さまだ」という風刺を込めたものであろうといわれています。

 こうして自分で節をつけ、振りもし、秋の取り入れの振舞い酒の席や、月見の夜など、
自ら踊り、主人の不遇を慰めたそうです。
 この奴徳助の心遣いに伝右衛門は心から喜び、自分でもこれを唄って踊ったといわれています。
 これが、藩主の耳に入り、領内の巡視の際、この踊りを見て賞賛、藩主によって「奴踊り」と命名されたと言い伝えられています。

 やがて二人は弘前城に呼ばれ、御前で唄い踊り、藩主の賞賛を受けたとのこと。それからは村人も踊りを習い、お祭やお盆には村をあげて踊り、今日に及んでいる。これが嘉瀬の奴踊りになったということです。
 こうした伝説が残っています。

 その「嘉瀬の奴踊り」ですが、昭和44年3月1日、青森県教育委員会より係官が出向き、嘉瀬小学校において、実際の踊りが視察されました。
 その後、昭和44年12月に青森県教育委員会の県文化財指定会議において、県文化財への指定が決定。
 翌昭和45年に、青森県文化財指定書を受けることとなります。

 嘉瀬奴踊り保存会は、昭和26年ごろ、土岐繁一氏を中心に創立されますが、当時は赤襦袢を着て踊ったそうです。
 しかし、昭和30年ごろより、奴踊りは奴の服装でなければならないとのことで、服装は半天になっていったそうです。

 その嘉瀬の奴踊りは現在、嘉瀬小学校を中心に伝承がおこなわれていますが、嘉瀬小学校の子供たちの様子については明日ご報告させていただきます。
 
(130)金木町レポート その4 2004年 2月 8日(日)
 嘉瀬の奴踊りは、嘉瀬小学校において学校の教育課程に位置づけられ、以下のような形で指導がおこなわれています。

◇開始年・・・平成5年
◇目的・・伝統芸能に対する関心を高め、継承していこうとする意欲を持たせる。
◇形態・・・授業
◇活動時間・・総合的な学習の時間、生活科
◇発表の機会・・運動会、学習発表会、奴踊りチャンピオン大会、金木町産業文化祭り

 129人の全校生徒で嘉瀬の伝統芸能である「奴踊り」に取り組んでいる嘉瀬小学校より次のようなご報告をいただいております。

◆1年生
初めて習う奴踊りに興味・関心を持ち「わからない、難しい」と言いながらも、保存会の方や上学年の児童の踊る様子を見て懸命に覚えようと努力している。

◆2年生
少し余裕がでてきて、踊りを楽しみながら踊り、「わかっている、好きだ」という子も出てくる。

◆中学年
好きで上手に踊れる子も出てきて、奴踊りチャンピオン大会に向けて意欲を燃やす子が多数となってくる。

◆高学年
ややマンネリ化していくのか、意欲的な子とそうでない子の差が出てきている。意欲のない子は「踊りが恥ずかしい、ダサイ」と思っているようだが、意欲的な子は踊りが上手く、誇りを持ち、地域の行事への参加においても自主的に練習し、意欲を持って取り組んでいる。


 学校としての課題は「子どもにおける奴踊りに対しての意欲の差をなくすること」だそうですが、地域に伝統芸能があることを認識し、保存会の方が継承していることを知り、自分たちも守っていこうとする意識を子供たちが持てるようになった。そのことが取り組んでみて良かった点だという報告をいただきました。


 父母、地域の人たちも、子どもたちが奴踊りを継承することに対しては、大変うれしく思っているとのことです。

 なお、奴踊り保存会の方のコメントは次のとおりです。
「一人でも多く奴踊りに親しんでほしいが、時代の流れなのか、あまり子どもたちに強制せずに、楽しんでやらせることを心がけています。今年度の奴踊りチャンピオン大会は生の三味線演奏やトロフィー授与などで盛り上げ、環境づくりをしてくれた学校側の対応に感謝しています。」

 ところで、子ども会加入者が参加している「虫送り」ですが、こちらは次のようなご報告をいただいております。

 全校で23名の児童が子供会に所属。児童は楽しんで参加しているが、積極的に地域の伝統芸能に関わる人が大人も含めて減りつつあるのが現状である。児童数減少にともない、家庭どうしでの連携が希薄になり、子供会の存続も危うい状況であり、子ども会の会長から「学校側に積極的に呼びかけてほしい」という要望がある。

 明日はその存続が危ぶまれている「虫送り」、そして金木の「さなぶり荒馬」について触れてみたいと存じます。
 
(131)金木町レポート その5 2004年 2月 9日(月)
 村をあげての、さなぶり休みに、わら製の蛇体を先頭に、傘ぶくろ、太刀振り、荒馬、獅子踊りの順に、太鼓、笛、手振りがねの鳴物がついて、にぎやかに村内をねりまわった後、村はずれの林の木に蛇体を投げかけて帰る。
 この「虫送り」の行事は、津軽一帯に広くあったそうですが、明治から大正年代にかけて、次第に姿を消し、「虫送り」または「虫祭り」と呼ばれ、北郡や西郡地方に残るだけとなってきているようです。
 その「虫送り」行事に見られる、金木の「さなぶり荒馬」は、一種独特なものだそうです。
 これについては次のように言い伝えられています。

 金木地方の水田の開発が進められ、農村の虫祭りもにぎやかになり行事化してきた頃、藩主の信政公が少数の士卒を連れての民情視察の途次、金木村を訪れ、八幡宮に五穀豊穣と武運長久の御祈願をされたといいます。

 突然のことであったが、神主の笹木氏、ならびに庄屋の角田氏がはからい、村人をあげて迎え、帰りには礼をつくし、村はずれまで見送ったそうです。

 当時、赤坂(若松町)手前の橋は、丸太橋のいたって粗雑なものであったそうですが、藩主は馬上豊かに馬の手綱をとり、供奴2人が左右に手綱をのばして、一回二回と後ろに下がり、右にひき、左にまわり、三回目に、英姿さっそうと橋を渡られたとのこと。

 初めて見たこの藩主の見事な英姿に感激した村人たちは、村の誉れとして永久に残すべく「虫送り」の荒馬踊りに、これを取り入れるようになったということです。
 こうして金木の荒馬踊りは、藩主の橋渡りの勇壮な状況が中心となるように変わっていったそうです。
 後の藩主が金木村に来たとき、庄屋が神主とともに、先の藩主の橋渡りの勇姿をほめたたえ、今まで農耕を表現してきた「荒馬踊り」を「橋渡りの英姿」の踊りとしたい旨、おそるおそる言上したのだそうです。
 それを聞いた藩主は非常に気をよくして許され、同行の絵師に、馬の百態を六尺屏風に描かせ与えたと伝えられているそうです。

 後日、庄屋角田、神主笹木の両人が弘前城に招かれた時、藩主から「金木の荒馬は先公妙心院殿の御姿なれば、無礼させるな」として、警護の衣装五着賜ったとのこと。それ以後、この衣装を着用し、虫送りには警護役として付き添うことになったといいます。
 警護の衣装は、現在一着だけ残っているそうです。
 
 (明日に続く)
 
(132)金木町レポート その6 2004年 2月10日(火)
 さて、藩主より荒馬警護の衣装を賜った際、同時に金木の獅子に、権現の水玉模様の立派な衣装を与えられたそうです。
 金木の獅子が水玉模様の衣装を用いて、権現獅子舞と呼ばれるのは、こうしたいわれがあるからだといいます。

 こうして金木の荒馬は、以上のような経過をたどり、藩主の橋渡りに影響を受けた踊りへと変化していきました。
 また獅子踊りも、権現獅子の気位を保ちつつ、太刀振りとともに虫送りの中心をなし、藩主より許された警護に守られて、三百有余年、有志の練習と、郷土の芸能を愛する信念によって今日まで継承されてきているそうです。

 この郷土の芸能を更に永久に保存しようと、金木さなぶり荒馬保存会の方々が尽力されています。子供会に入っている児童たちも「太刀振り」「獅子舞」「荒馬」の各役割を演じ、嘉瀬地域を踊りながら練り歩き、五穀豊穣、安全祈願をし、現在も地域の人たちに喜ばれているということです。

 ところで藩政時代から今日に至るまで、金木町をはじめとする各町村の神社では例祭日に5〜6名の神職奉仕の「津軽神楽」が神前に奉納されているそうです。

 ことに昔は、年一度の公的な祭場であり、シトギをつくり、神前に供えて祝うなど、地域全体のレクリエーションになっていたとのこと。

 地域をあげて初饌初穂をお供えして、金木・十三・武田・中里・脇元・小泊在住の神職が、それぞれ、太鼓・小太鼓・笛・手拍子の位置につき、神入舞・千歳・宝剣・磯良・天王の5曲が奉納されていたそうです。

 また、社殿新築の際には、特に四家舞が行われ、これは、りりしい若い神職4人の太刀舞だということもあってたいへんな人気を博していたそうです。

 金木地方では田植えのことを「五月」と称しているそうですが、この五月の神楽行事は神職にとっては、一年中の大任として、曲目の稽古に精励したそうです。
 昔は「神楽迎え」「神楽送り」と称し、馬や馬車に乗った神職らを村から村へと案内したものだそうです。

 それは村々の歴史を象徴し、人々の心に強い印象を与えるものだったということです。


 さて、金木といえば忘れてならないものがございます。
 それが津軽三味線です。

 各学校とも熱心な取り組みを見せています。その件については明日触れ、金木町の報告を終えることにしたいと存じます。
 
(133)金木町レポート その7 2004年 2月11日(水)
 金木町は津軽三味線発祥の地だけあって、津軽三味線に取り組んでいる学校は多いです。

◆喜良市小学校では平成11年度より取り組みが始まっており、津軽三味線といえば喜良市というようになり、子どもたちも自信を持って取り組んでいる。地域住民も伝統継承に期待を持っているとのことです。
 現在は18人で5・6年生の希望者で総合的な学習の時間に取り組んでおり、運動会や学習発表会、町音楽会などで発表しているとのこと。取り組みも5年目を迎え、子どもたち同士でも教えあうことができるようになった。練習には時間と努力がいる。しかし、子どもたちが発表すること、賞讃を受けることで、練習の苦しさを乗り越えている。全校生徒数の減少で多人数での演奏ができなくなりつつあるが、今後も継続していく方向だとのことです。

◆川倉小学校での津軽三味線の取り組みは下記のとおりです。
・開始年・・・・平成13年度
・目的・・・・・津軽の伝統文化に親しみ、郷土に対しての理解を深める。
・形態・・・・・総合的学習の時間
・活動時間・・・35時間
・発表の機会・・学習発表会、町音楽発表会
・現在の参加人数は26人

 練習には意欲的で上達を認められているので、充実感を覚えている。
 父母や地域の人たちも好反応で行事での演奏を楽しみにしているとの報告をいただいております。

◆金木中学校は2年生が9人、3年生が5人の計14名が津軽三味線に取り組んでいるそうです。詳細は下記のとおりです。    
・開始年・・・・平成11年
・目的・・・・・郷土芸能に触れ、三味線の技術を習得
・形態・・・・・授業(選択式による希望者)
・活動時間・・・毎週木曜5校時 
・発表の機会・・町音楽発表会など

 郷土の芸能に触れ、三味線の技術を習得し、演奏ができる喜びを体験させ、それらを通して「豊かな心」を育み、将来に役立つものとしたい、とのことです。

◆金木南中学校は36名が津軽三味線に取り組んでいます。
 平成14年より開始し、文化祭、また、町の文化祭や仁太坊祭りなどで発表しているそうです。
 すでに郷土についての学習が小学校で取り組まれており、これが中学校に来て深められていることにより、郷土への愛着が育っているものと思う。今後も、小・中と連携しながら、本校の特色ともなっている郷土についての学習を推進していきたいと考えている、との報告をいただいております。

◆金木高等学校では12名が津軽三味線に取り組んでいます。  
 学校祭や町音楽祭、仁太坊祭、施設慰問演奏(ケアハウス「サンフラワー」)などで発表しているそうです。
 金木高校では三味線部の活動が顕著であり、生徒も技術向上に伴い、意欲的に取り組んでおり、父母や地域の方々から好評を得ているそうです。
 今後、三味線部の演奏に、奴踊り、歌を一緒にしたステージづくりを検討中とのことです。


 さて、喜良市小学校のホームページURLを示します。ホームページ上部に示されているメニュー「三味線」「荒馬」をクリックしますと、「三味線を聞こう」、「おはやしの音楽」の項目がそれぞれあり、そちらより音声付動画配信のメニューがお楽しみいただけるようです。ご覧いただければ子どもたちの芸能への取り組みの様子がよくわかるかと存じます。

http://www.goshogawara.net.pref.aomori.jp/kirasho/

 
(134)金木町レポート あとがき 2004年 2月12日(木)
 確かに出雲大社の祭礼の中に田楽がありました。しかし出雲大社の田楽踊りとして、津軽地方(金木町)まで伝える一団があったとは知りませんでした・・・

 連載した金木町のレポートに「出雲」が出てきました。そこで以前、事務局日記(1月8日)でも取り上げたことのある島根県の「古代文化センター」に聞いてみました。それが冒頭の回答です。さらに以下のように続きます。

 出雲大社の勧進を進める御師の活動は、一般に西日本が中心(とはいえ、幕末には北海道までいっていますが)とされており、このような動きが津軽にまであったとは非常に興味深い事例です。また、島根県とりわけ石見部では、田植囃子が盛んであり、かつては囃子を伴う花田植も各地で行われていました。このような囃子を習得した一団が津軽で勧進活動を行ったのでしょうか。

 以前より情報交換をおこなっている秋田県の「たざわこ芸術村」の民族芸術研究所の研究員からはこんな感想が届きました。

 出雲や大阪の願人たちが、津軽に行き、田植踊りを上演していたことも初めて知りました。また、津軽に「田植踊り」があったということに驚きました。東北でどうして秋田と津軽だけに田植踊りがないのか、不思議でしょうがなかったのです。ただ、太郎治や弥十郎、早乙女が中心になるのは他と同じですが、荒馬や太刀振りが加わるのは津軽独特で、かなり他とは違う様相を呈していたんですね。
 津軽神楽と人々の関わりなどもおもしろかったです。津軽神楽は、まだ見たことがないので、一度見に行きたいと思います。

 県内からも、「嘉瀬の奴踊り」は田植踊りのひとつの形式であったというのを全然知らず、改めて文化財原簿を確認したところ、確かに田植踊りのことも記載されており驚いたとの声も聞かれました。えんぶりなど、田植えに関係した踊りはありますが、早乙女が踊るような「田植踊り」は青森県にはないものだと思っていた。そういった方が少なくなかったようです。

 青森県内にいながら、県内の各地に伝承されている芸能、そしてその現在の取り組みがどうなっているのかをほとんどの方が知らない。これは、関係者が芸能の保存継承活動をおこなっていく上で、好ましい土壌であるとはいえないように思われます。
 芸能の保存継承活動の第一歩は、まず伝統芸能についての興味や関心を喚起すること。そのためには周知活動が第一であるように思われます。今回のような情報発信をおこなうことで、県内はもとより、全国の研究者の理解を助け、結果、日本の民俗芸能研究の発展にも貢献しうるということを再認したところでございます。

 今年に入って、楽譜76点、録音物19点、その他の音楽資料8点を県公共施設の特殊庫に搬入完了。さらに30点あまりの録音物が青森県民の将来的な音楽財産に供すべく現在、保存管理の準備中です。

 準備中のものを含めますと楽譜は210点、録音物は130点、その他の音楽資料が18点。合計358点の資料を昨年の10月より保存管理しておりますが、そのほとんどが現代創作音楽のジャンルです。民俗音楽は楽譜や録音物の形で保存したくても、そのもの自体がない状態で、現在、多くが消失の危機にさらされています。
 先の金木町の例では、金木獅子の笛を吹く人はいずれも故人となり伝承がついに途絶えたそうです。
 保存したくても楽譜や録音物のほとんどない民俗音楽の保存は、やはりそれを発する芸能自体にがんばって残ってもらうしかありません。
 当協会としてできることは、全国や県内各地から保存継承に関する有益な情報を集め、それを関係者に提示したり、全国に情報を発信し、多くの研究者の保存を求める目を県内に向け、保存継承の気運を盛り上げるなど、こういったことぐらいしかできませんが、今後もできうる限りのお役に立ちたいと考えております。

 青森県内外の関係者が注目するこの田植踊りですが、ぜひ「奴踊り」の部分だけでなく、太郎治・弥十郎・早乙女の踊りに荒馬や太刀振りが伴う、昔からのならわし通りに復活してもらいたい。全国の研究者もここに期待しているようです。


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