青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年2月(4)>

(144)隔世伝承
(145)伝統芸能うんちく その1
(146)伝統芸能うんちく その2
(147)伝統芸能うんちく その3
(148)伝統芸能うんちく その4
(149)伝統芸能うんちく その5
(150)伝統芸能うんちく その6
(151)伝統芸能うんちく その7
 
(144)隔世伝承 2004年 2月22日(日)
 隔世伝承という言葉、先のお手玉連載に出てきたものなのですが、実は、はじめて目にした言葉でした。辞書を引いてみましたが載っていないようです。
 最近流行の造語なのかと考えてみましたが、よくよく考えてみると、伝統を伝えるスタイルとしておじいさん、おばあさんから子どもたちへという伝達経路は、ごく普通のもので、豊かな経験と知識を持ったおじいさん、おばあさんと触れ合うことで、かつての子どもたちはその豊かな無形の知的財産をごく自然に受け継いできました。そのことで、子どもたちは(私もそうでした)、畏敬の念を、おじいさん、おばあさんに感じました。

 1960年代にお手玉は全国的に突然姿を消したそうですが、この理由として人口の都市集中により、三世代同居が減り、核家族化が進んだことがあげられています。

 豊かな智慧、知識の源となるおじいさん、おばあさんとの触れ合いは、子どもたちにとって絶好の学習の機会であったはずなのですが、その機会が徐々に減少しているのは少し寂しいような気もしております。

 以下の作文も隔世伝承について触れているのでしょうか。
 どうぞお使い下さいと青森県階上町教育委員会よりいただいた資料の中に、このような文面がありましたので、皆様にもご提示したいと存じます。


「ぼくのおじいさん」
 
ぼくのおじいさんは物作りの名人です。
そこらへんにあるものでなんでも作ってくれます。
たとえば竹笛です。
竹を切ってきて、妹に向かって「ブーブ」といい音を出してふきます。
妹はとてもよろこんで「その笛ちょうだい」というしぐさをします。
だからおじいさんは、妹に竹笛をあげます。
妹はさっそくふいてみるけど「スース、スース」と、まったく音を出すことができません。一生けんめいふくけど、よだれだけがでてきます。
「ぼくだったら、ふけるのになあ」と思って竹笛を借りてふいてみるけれど、
「スース、スース」
それを見て、みんなわらいます。
またおじいさんがふくと「ブーブ、ブーブ」と、かんたんに音を出します。
おじいさんはすごいです。
「もっとかんたんにできるのないの」と聞いてみると、「草笛だったらできるよ」と言われ、やってみました。
さいしょはぜんぜん音が出なかったけれど、音の出し方がわかると、「ピー」と、いい音を出します。
おじいさんはなんでも作れて、ぼくと妹をいっぱいよろこばせてくれます。
ぼくはおじいさんのことがすきです。ぼくも年をとったら、おじいさんのように物作りの名人になってみたいです。

(3年男子児童 資料提供 階上町教育委員会)
 
(145)伝統芸能うんちく その1 2004年 2月23日(月)
 ただ今、県内各地域の教育委員会と連絡を取りながら、小・中学校を主とした伝統芸能の取り組みの最新データを集めています。
 その際、ご厚意でいろいろな資料をいただくことも多く、なるべくそういった資料は皆様に還元すべく、いただいた教育委員会と協力して文面を作成し、連載記事として「事務局日記」に掲載しております。
 すでに昨年の鶴田町、そして先日の金木町でその一端をお目にかけましたが、現在も複数の地域の資料をまとめています。
 
 ここで、各教育委員会より伝統芸能資料をいただくのですが、生データがほとんどで、それを解析するのに骨が折れます。
 コンピュータの勉強をはじめてされる方が、「アカウント」「ドメイン」「プラグイン」「ログイン」「ログアウト」・・・と、日本語なのか外国語なのかわからないカタカナ単語の含まれた文にとまどわれるとはよく耳にする話です。
 私自身も実際そうだったので他人事ではないのですが、これと同じような思いを、伝統芸能理解に際しても感じております。

 現在、全国的にも興味深い青森県階上町(はしかみちょう)の取り組みについての連載文が完成、階上町教育委員会の最終チェックを受けているところですが、これについても、たいへんに苦労しました。金木町もそうでしたが、文案を練る際に関連して次々に登場してくる単語がまずわからないのです。
 「三番叟(さんばそう)」「反閇(へんばい)」・・・、意味より先に発音できない言葉ばかりです。
 「風流」という言葉があったので普通に「ふうりゅう」と読むと、そうではなく「ふりゅう」だとのことで意味も違う。誠に困ってしまいます。

 しかたがないので人に尋ねたり、自分で調べられるものは文献にあたって理解を進めましたが、ふと、これはもしかしたら自分一人の問題ではなく、多くの人共通の問題であり、こういった点が地元の芸能の理解をさまたげ、とっつきにくい印象をあたえている一因かとも感じました。

 そこで、軽い読み物形式で青森に関する伝統芸能の基礎的な用語をまとめてみることにいたしました。
 料理やお酒をたしなむ際、その背景がわかっていることでより一層おいしくいただけるという話もございます。そういった背景は蘊蓄と書いて「うんちく」と言うのだということですが、伝統芸能にも、より一層それに親しむための「うんちく」があってもいいのではと、事務局に蓄積している情報を皆様に明日より、いくつか還元してみたいと存じます。
 斜め読みし、楽しんでいただければ幸いです。
 
(146)伝統芸能うんちく その2 2004年 2月24日(火)
お隣、秋田県には、おそらく全国でもっとも美しい手さばきの一つではないかと評判の盆踊りがあります。雄勝郡羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊りです。
 その流麗で優雅な振りに多くの人が感嘆しますが、この西馬音内盆踊りで特徴的なのはその衣装です。彦三頭巾(ひこさずきん)という、目の穴だけがポッツリと開いた黒長の頭巾を頭からすっぽりかぶり顔を隠して踊られます。誠に不思議なスタイルです。
 ここまで極端ではないにしても、踊り手が笠を深くかぶったり、手ぬぐいで顔を包んだりする光景はあちこちの盆踊りで見られます。どうしてこういった不思議な格好で踊るのか。これは平安時代の頃にさかのぼって、当時の人々の生活や、そこから生まれた考え方「風流(ふりゅう)」を知らなければ意味が取れないといわれています。

 当時、医学的知識の乏しかった人々にとって、目に見えない原因で引き起こされる現象はたいへんな恐怖であったといいます。その一つが疫病です。
 現在であれば、発生のメカニズムがわかっているので、それに対応した医学的処置が施されることを知っているため、流行病のニュースに接してもショックを受ける人はあまり多くはありません。
 しかし、平安期は世の中が乱れていたこともあって、目に見えない原因で人が次々に倒れると、これは何かよくないものの仕業、目に見えず暗躍するこの世のものとは違う何者かの仕業であると認識されました。現代人の私達はつい笑ってしまいますが、当時の人々は大真面目にそのことを信じ、それに対応する手段に知恵を絞っていきました。
 こうして当時の人々の暮らしの中から芸能に関する「風流(ふりゅう)」という考え方が生まれてきました。

 当時の人たちはこういった悪さをするこの世ならぬものを御霊(ごりょう)と定義。この御霊を遠ざけることで災厄から逃れられると考えました。現在も4月の第2日曜日に京都の今宮神社で厄病払いとしておこなわれている「やすらい花」は最も古い風流踊り(1154年より開始)として知られています。

 桜の花が散ると、そろそろ暑くなって疫病の心配をしなければならない時期(正史に疫病流行の発生はほとんどが旧暦4月から7月の頃と記されています)となります。そこで、当時の人たちは桜の散り具合で、その年の疫病の流行などを占いました。早く桜の花が散ると凶なので、できるだけ花を枝にとどめおこうと歌や踊りを催したのだそうです。「やすらい花」とは「ゆっくりと散ってくれ、急いで散るな」の意です。
 ここで催された歌や踊りに京都中の人が貴賎を問わず見物に集まったことが「梁塵秘抄口伝集」などに記されています。
「風流」にはよく風流傘という大傘を立てますが、「やすらい花」の傘の頂には桜や山吹などの生花が飾られ、それを持って町を練りまわります。
 その花傘を見ると、子どもや赤ちゃんを連れて多くの人が花傘の中に入り、そこで頭をなでたり、体をさすったりしたとのことです。
 花傘は町中に充満するけがれや厄を拾い集める装置と考えられ、当時の人々はこの花傘の中に自分の体に付着したけがれや災厄を払い落とそうと考えたのでした。
 こうして集まった厄を踊り子たちが持ち歩いて、最後に今宮の境内にある疫神塚へ持っていき、その中に封じ込めるのだそうです。1年に1回こうしたことをして当時の人たちは心を安んじたのだそうです。

 ところで、疫病のもとと当時の人が考えた「御霊」ですが、これは荒っぽいもので、そうやすやすと雲散霧消するようなものではない。よって、あっと驚く奇抜な格好をしたり、太鼓や鐘を主体とした豪快な囃子で道を練り歩く。そのことで、この迫力に、さすがの御霊も退散、勢いを鎮圧できると人々は考えたのでした。

 日本の夏祭りの源流ともいわれる祇園の御霊会(ごりょうえ)も最初は厄を水の中に流すというものだったそうですが、だんだん御霊を送り流すのに鐘や太鼓を派手に打ち鳴らすスタイルに変わり、この囃子から祇園囃子と称される有名な音楽が生まれることとなりました。
 一般に夏祭りの音楽は派手で豪快、リズミカルなものが多いのですが、これはいずれもこの時期に発生する疫病や災害の駆除に主眼を置き、災厄の因たる御霊のような荒ぶる霊を鎮圧するために、強くて豪快でたけだけしくリズミカルな性質の囃子や踊りが採用された結果だそうです。
 こうした芸能形態が「風流」と呼ばれるもので、それは笛・太鼓・鐘でにぎやかに囃し立てる。しかも一ヶ所にじっとしているのではなく、ものに憑かれたように装飾性・仮装性の色濃い衣装に身を包んで、踊りながら練り歩くという、御霊鎮送を主軸にしたところが特徴となっているようです。このスタイルが後の日本の芸能に多大な影響を与えていくのです。(つづく)
 
(147)伝統芸能うんちく その3 2004年 2月25日(水)
 さて、笛・太鼓・鐘でにぎやかに囃し立て、装飾性・仮装性の色濃い派手な衣装に身を包んで踊りながら練り歩くという「風流(ふりゅう)」の芸態は、「祭り」の考え方を大きく変えたようです。
 これまでの祭りは秘事的要素が強く、ごくわずかの人だけが、他人の披見を容易に許さない環境でとりおこなっていたという、いわば「見せざる祭り」の性格が強いものでした。

 ところが御霊(ごりょう)の祭りとなると、白昼堂々、集団が派手に楽器を打ち鳴らし、新奇華美な衣装に身を包んで踊りまわります。
 当初、御霊を威圧・鎮送する目的であった「風流」の芸態も、貴族文化の爛熟した平安時代の中末期には、参加する人が金銀の縫い取りの豪華な装束を羽織る。奇抜な作り物をかついだり、身にまとったりするなど、見物人の目を引くことを競う「見せる祭り」へと意識が変化していきます。

 また、見物も、宮廷の貴族たちが、わざわざ、きらびやかな装飾をあしらった物見車を仕立てて祭り見物に行くなど、一般庶民にとっては、それを見るのも大きな楽しみであったというように、御霊鎮送より、祭りそれ自体を楽しむという側面がいつしか強調されるようになっていきました。
 当時の都のはなやかな様子は、藤原宗忠の日記「中右記」や源師時の日記「長秋記」で詳しくうかがえるとのことです。

 平安末期から鎌倉初期になると、これが一段と加熱し、祇園会などがあまりに派手になりすぎたため、風流禁止令をうけることがしばしばあったとのことです。
 しかし、一度おぼえた楽しみの味は法令が出たからといって容易に捨て去ることはできるものではありません。それどころか、都の風流を見た地方の有力者や、芸好きたちが、ぜひ自分達の土地でもということで持ち帰り、次第にこれが各地の生活と密接に結びついて、華美で楽しい祭礼風俗や芸能が地方でも次々に生まれ、各地に風流が伝播していくこととなりました。

 こうして、御霊とのたたかいの中から生まれた風流が、中世以降の日本の芸能に大きな影響を与えることとなり、風流は舞踊・歌謡を中心とするあらゆる雑芸を包含するようになって、庶民の芸能のエネルギーの大半はここに注ぎ込まれていったのだそうです。

 ところで、風流は都から各地に伝播し、たちまちのうちに浸透していくことになりましたが、実はその素地があったといわれています。

 それが歌舞伎の祖ともいわれる出雲の阿国(おくに)も踊っていたという、念仏踊りの流行なのです。

 (詳しくは明日へ)
 
(148)伝統芸能うんちく その4 2004年 2月26日(木)
 風流(ふりゅう)の芸能の展開に力を与えたのが、念仏とそれに伴う念仏踊りの流行であったといわれています。この念仏の素地があって、都の御霊(ごりょう)思想が一般にも広く普及するところとなったといいます。

 念仏とは、もともとは自分のため、自己の煩悩解脱が本意なのですが、特に過去1年に亡くなった人の魂は、まだ現世から完全に離脱せず、成仏しえない状態であるという昔の人々の信仰も手伝って、次第にこの念仏が、死者に対しても同じ効果があるのではないかと考えられるようになりました。

 こうして、死者が出るとその霊前で念仏を唱え、集団で踊り、亡き人が現世の煩悩から解き放たれ、無事、成仏することが願われていくようになりました。先祖の霊を迎え祭る盆に「念仏踊り」を行う風習は、こうしたところから生まれるところとなったということです。
 今でも、各地でおこなわれている念仏踊りは、特に集落での一年間に死者を出した家の庭先などで、念仏や和讃を唱え踊る形式のものが多数あるそうです。

 こうした芸能は体に太鼓をつけた「太鼓踊り」の色合いを一段と濃くするようで、この太鼓踊りを主体とした念仏踊りが日本の民俗芸能に大きな影響を与えていったということです。歌舞伎の祖としてあらわれた出雲の阿国(おくに)も、はじめは、念仏踊りで人々の興味を引いていたといわれています。

 さて、盆の念仏踊りの踊り手の格好に注目すると、シデを垂らした笠をかぶったり、背中に何か背負ったりする場合があります。
 これは他界からの亡き祖先を象徴し、それらが現世に戻ってきて、みずから踊って煩悩解脱するさまを表現しているのだといいます。
 また、念仏踊りの踊り手に一般的な旅装束は、他界からの長旅をシンボライズしているのだそうです。
 もともと日本の芸能には神や仏や精霊を表すものが村の祭りに登場する形が一般的ですが、その伝統が「念仏踊り」にも受け継がれていったのではないかとみられています。
 各地の盆踊りの踊り子が、笠や手ぬぐいで顔を包んだり、仮装したりするのは、この風習に関連していると考えられています。

 第2回連載文の中に、彦三頭巾(ひこさずきん)という黒長の頭巾を頭からすっぽりかぶって顔を隠して踊る西馬音内(にしもない)盆踊りについて触れましたが、ここでその扮装の理由が理解できます。

 西馬音内盆踊りは、1600年に最上義光によって滅ぼされた領主の小野寺氏の子孫が、亡き祖先を慰めるために亡者踊りを踊ったのに始まると伝えられています。
 江戸時代には庶民は一枚の布で華美な着物を作ることを禁じられていたという事情もあって、この盆踊りでは、祖母や母の着物の端切れをきれいに組み合わせた着物を衣装にまといます。この衣装がまた美しいのだそうですが、これはそうした美的観点から作られたものではなく、その衣装をまとうことで、祖先の霊とともに一緒に踊る。こうした思いが込められているのだそうです。こういった精霊や祖霊の歓送、慰安の行事が盆踊りの起源だとみられています。
 
 盆踊りとは、祖霊に見せるものではなく、盆の間、数日来訪する祖霊自身が一緒に踊り、皆から敬われて、踊りをおどって楽しんでもらい、そのまま満足してお帰り願う。
 これを主眼とした歌や踊りによる行事であったということです。
 こうした風習が育ってきた背景には、元来、流行していた「念仏踊り」に、御霊鎮送の「風流」が合致していったためではないかとみる研究者も少なくないようです。
 (明日につづく)
 
(149)伝統芸能うんちく その5 2004年 2月27日(金)
(昨日のつづきです) 
 さて、本来は自分自身のための念仏踊りが、次第に死者供養のためにおこなわれるようになり、さらにそれが稲に取り付く虫などを追い払うために村人が念仏を唱えて踊り歩く習俗が普及するようになりました。
 これは、田にたかる虫は、昔戦いに敗れて死んだ怨霊の化身と考えられたからで、その恨みが凝り固まって田畑に虫害となってたたる。また、ときとして日照りを続かせ雨を降らせない。このようなたたりを鎮めるためには念仏踊りが効果的ということで、風流(ふりゅう)思想とあいまって、各地に広がっていくこととなりました。

 日照りが続いたり、虫害が発生すると、それは誰それのたたりだ、怒りだということで、その怒りをやわらげ厄をはらおうと、鐘や太鼓をたたいて高吟しながら大勢で乱舞。怨霊をなだめ鎮めるため、怨霊をかたどったワラ人形や、怨霊に仮装した者を先頭に立てて一同行列し、鐘や太鼓をたたきながら村境や川べり、塚などへ踊りはねていきます。
 そして、集団の激しい跳躍・踊りの楽しい雰囲気の中に怨霊を巻き込み、集落の外へと送り出す。こういった行事が各地で盛んに見られるようになっていったということです。
 徳島の阿波踊りも、もと田畑を荒らす猪(害獣に化身した怨霊)の鎮送のために始めたという言い伝えもあるそうです。

 もとは、こうしたところからはじまったものなのですが、そうした本来的な要素が忘れられ、その後、娯楽的部分が強まって念仏踊りの多くが、純粋な芸能としての「踊り」に転身していくこととなります。

 燈籠をともしたり、顔を隠すように頭巾をつけたり、笠をかぶるなどの仮装は、亡魂をこの世に迎え、その亡魂がこの世で踊ることを本来的には表現していたものでした。
 しかし室町時代の中頃より、当時、庶民の間に高まった風流の流行に動かされ、豪華な彩色の燈籠をならべたり、かぶりものの笠にいろいろな装飾を施したり、着物に華美な刺繍をほどこしたりするようになり、これらは、念仏踊りの娯楽化をより一層進ませる道具立てとなっていったようです。

 また、念仏を単純に繰り返すだけではおもしろくないということで、はやり歌も取り入れられ、はなやかさや美しさや奇抜さといった要素がだんだん色濃くなって、現在見られるような芸能の形へと、次第に姿を変えはじめていったとのことです。
 (明日に続く)
 
(150)伝統芸能うんちく その6 2004年 2月28日(土)
 日本には古来より、モノを踏み鳴らすことによって、中にこもっている根源的な何かを発動させようという考え方があったようです。力強く大地を踏み鳴らすと豊作になるとの伝承は、ここに由来しているのだそうです。
 この古くからの考えに、中国由来の反閇(へんばい)の作法が合流し、日本の伝統芸能において「足踏み」が、ことのほか重要視されるようになっていったといわれています。

 「反閇」とは邪気を払いのぞくために、足で強く大地を踏みしめる作法で、平安時代に魔よけの術として盛んに用いられるようになったものだということです。

 こうして、古代的な考えの足踏み、すなわち、「精霊を呼び覚まし、その強いパワーを人の体に呼び込み、生活力を高めよう」というこれまでの目的の他に、「悪霊を押さえつける、魂の遊離を防ぐ」という反閇の意味が加味されることとなりました。
 そしてこれが神楽や猿楽、田楽の芸能に取り入れられ、しだいに本来的な意味が忘れられて、芸能の中の一つの伝統的な作法として定着していくようになるのです。

 「能」でも、この足踏みの作法が大切にされ、能舞台の下には、床を踏み鳴らす音がより響くよう、反響装置としての大きな瓶をわざわざ置いたりしているとのことです。

 ところで、この「足踏み」の所作が、芸能の技法へ転身していく大きな役割を担ったのが、修験道の人々(山伏)だといわれています。

 修験道とは護摩をたき、呪文を誦し、祈祷を行い、難行苦行して神験(しんけん)を修得するという信仰で、日本固有の神道的な山岳信仰と、仏教の密教がミックスされたものだと認識されています。
 日本の古い芸能には、意外なほどこの修験の面影が色濃く残っており、足踏みも、修験の影響を受け、日本の芸能の重要な案件の一つになっていったといわれています。

 青森県はもちろんのこと、東北各地に修験によって伝えられた神楽が数多く伝承されています。

 それらは青森県下北の「能舞」。岩手県の「山伏神楽」。日本海側の山形県の鳥海山付近で「比山(ひやま)」。そして秋田県に入ると「番楽(ばんがく)」と様々に呼ばれたりしていますが、そのもとは同根だということです。

 ちなみに、番楽とは「武士をテーマとした舞」という意味合いが込められているそうです。
 また、比山とは、鳥海山を「日山」と呼んだことに由来するという説が有力だといわれています。


 これら修験由来の芸能の「舞の手」と「囃子の手」が、東北の民俗芸能の土台になっているのだそうです。

 さて、昔の山伏系の流れを汲む芸能では「足拍子」に重点を置いているというのは先にも触れました。
 たとえば具体的に山形県の杉沢の「比山番楽」の中では、次のように古代の反閇的な意味合いが今も生かされているといいます。

 杉沢でおこなわれている式舞は「番楽・みかぐら・鳥舞・翁・三番叟」の五曲から成り、最初の「番楽」は、四方と中央で足を踏むことに重きを置いた舞となっています。

 これは他の舞に先立って「足で踏むことで舞台が鎮められる」という、反閇的な考えを継承しているといえます。
 この「番楽」で、舞台を踏み鎮め、みかぐらで祓い清め、鳥舞で宇宙のはじまりを暗示し、翁は宇宙の根元を語って祝福。三番叟はそれをわかりやすく解説して(もどいて)いく。このような構成をとっているのだそうです。

 ところでこの三番叟(さんばそう)ですが、一般的にその役回りは翁のモドキといわれ、たいへんに重要な位置づけをあたえられています。これは、青森県のイタコにも流れている古代の伝統に由来しているのだそうです。
 
 (明日に続く)
 
(151)伝統芸能うんちく その7 2004年 2月29日(日)
 (昨日の続き)
 古い時代、神懸りした巫女が神の言葉を伝えるという「託宣」が人々のくらしにとって重要なものとなっていたようです。
 ところが、その巫女の伝える言葉は、忘我の境地で論理を超越した調子で語られるため、そばで聞いていても、普通の人には理解しにくいことが多いといいます。
 そこで、それを翻訳し、わかりやすく解説する者が、巫女の傍らに控えることとなりました。その役目を果たす者は、「審神者(さにわ)」と呼ばれ、実はこれが「モドキ」の原形といわれ、「巫女から解説者である審神者」へというこの流れが、「翁(おきな)から三番叟(さんばそう)」の芸能へ、変貌していくことになったのではないかとみられています。

 山伏系の神楽には古い時代の面影が色濃く残っているといわれていますが、広範囲に伝承されているバリエーション豊富な山伏系の神楽にあって、「翁」と「三番叟」を欠く伝承地はほとんどないそうです。
 古代に根を持つとみられている、この二つの舞が特に重要視されているのは、それだけ山伏系の神楽が、古い時代の名残をとどめている証拠の一つだともいわれています。

 では具体的に青森県下北地方の「能舞」を見てみることにいたしましょう。

 下北の場合は儀礼舞として「鳥舞」「かご舞」「翁」「三番叟」の4曲が取り上げられるケースが一般的だといいます。

 「鳥舞」とは2人舞で、天の岩戸が開いて夜が明けるのを告げる舞。
 「かご舞」とは「けんざい」「へんざい」とも呼ばれ、これは「千歳」の訛ったものではないかといわれていますが、内容は一人舞で「翁」の白い面と「三番叟」の黒い面をのせ、これを持って舞うというものです。翁が登場する前の露払いの役目を果たしているといいます。
 続いて登場する「翁」は、延命長寿・千秋万歳の御祝いを舞うというもので、謡も舞いも大変めでたいものだそうです。
 下北の翁でユニークなのは、翁が観念・抽象的なものではなく、より具体的な存在になっているという点です。
 翁は大きな紙袋を持って見物席まで降りていき、袋の中のみかんやりんごを配って歩きます。
 また、子どもを幕の中に引っ張り込んで、おみやげを持たせて帰します。年寄りも引っ張り込まれますが、その場合のおみやげは御神酒となります。
 こうして、より具体的に、「翁」は人々へ富や福をもたらす存在となっているのです。

 その後に登場する「三番叟」ですが、これは新しい年を迎えて祝福した「翁」のしぐさを、おもしろおかしく解説する役割を担っています。
 下北の「三番叟」は魚を釣ったり、酒を飲んでよっぱらったまねをしたり、翁のしぐさを茶化すのと同時に、人々の生活感情をおおらかにうたいあげる役割を担っているといわれています。
 その下北の三番叟には以下のような独特の伝承があります。

 「サンバ」は「オキナ」のところで3年3カ月働きました。その報酬として、給金の代わりに、困った時にこの扇であおげば何でもうまくいくという、不思議な扇をもらいました。
 ところが、この話を聞いてバカにした人からけんかをふっかけられ、扇であおいでやっつけようとしたところ、扇の要がはずれて役に立たず、結局、サンバは焼き殺されてしまいました。
 そこでオキナが扇の要を直して、サンバをあおいだところ、サンバは元の体になりました。
 しかし、そのときなぜか、サンバの顎だけが見つからず、その顎は後に糸で縫いつけられることになりました。よって、サンバの顔は一度焼けたので黒い。しかも顎が切れている・・・。  


 翁は狩衣に大口袴という正装なのに三番叟の衣装は労働着です。これは翁の祝福を受けて、復活・再生する三番叟に村人の存在が投影されている。福を得ようという村人の願いが、ここに表れているのだと言う人もいます。

 芸能は、日本だけに限らず、その本来的な意図は、神や精霊などに見せるものという考え方が根底にあったといいます。
 下北の三番叟の場面などで、よく見物人から演者に対し、「もっとうまくやれ」など、いろいろな野次が飛ぶこともあるそうですが、これは実は演者に教訓を垂れる祖先霊たちの激励の姿を表現。見物人も芸能構成の欠くべからざる存在なのだということです。


 古い時代の伝統の痕跡が、こうしたところからも下北の能舞の中に受け継がれているとみる研究者もいます。

 古代託宣の流れを汲むイタコもその一つですが、日本各地で廃れてしまった伝統が、芸能を含めたいろいろなところに残されており、それゆえ青森県はタイムカプセル。たいへん重要な場所だと認識している研究者も少なくないようです。
(つづきます)


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