青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年3月(5)>

(177)伝承文化の宝庫 その1
(178)伝承文化の宝庫 その2
(179)伝承文化の宝庫 その3
(180)伝承文化の宝庫 その4
(181)伝承文化の宝庫 その5(終)
(182)伝統の背後にあるもの その1
 
(177)伝承文化の宝庫 その1 2004年 3月26日(金)
 東北地方、特に青森県は「民話の宝庫」ですねと言われることが少なくありません。
 ふだんあまり意識しませんが、確かにそうなのかもしれません。

 そういえば、青森県立図書館の隣に近代文学館がありますが、以前、担当の方より、青森県は文学界に影響を与えた偉人を多数輩出しているからこそ、このような施設を、運営できる。他県でこのような施設を作ろうにも、ソフトとなる作家が、あまりまとまって出ている所がそれほど多くなく、うらやましいですね、と言われることもある。
 そういったお話を聞いたことを思い出しました。

 このような文学者輩出の背景には、民話の宝庫としての青森県の文化的特質がなんらかの形で影響しているのかもしれません。
 昨年、お亡くなりになった当協会の副会長、北彰介氏がこの方面の権威で、青森に古くから伝わる民話を土台に独自の文学世界を構築されておられました。

 その青森に伝わる民話は実に音楽的な要素が多く、北氏も青森の伝承から着想を得た創作オペラの台本をいくつも仕上げています。

 北氏の世代ではこういった方が何人もご活躍されていますが、それに続く若い世代がいないというのが、少しばかり寂しいところです。

 県文化財保護課の方から伺っても、民俗芸能の祭典に来る若い人が少ない。
 そういったお話を聞きます。やっぱり、こういった伝承文化の世界は、魅力のないものなのでしょうか。
 
 決してそうではないように思われます。

 先日、アメリカ映画界の祭典である、アカデミー賞で史上最多タイの11部門を制覇することとなった映画「ロード・オブ・ザ・リング」などは、この伝承民話の発展形です。

 全世界で大ヒットとなった映画ですが、昔ながらの伝承文化の世界に若い世代の新しい感性が加味されることで、実に魅力的な創作物が誕生することの、これは見本だということもできます。このような魅力的な素材が、青森県にはゴロゴロしているのだそうです。

 宝石の原石と同じで、一見するときたない石のように、どこそこに転がっていますが、若い世代の感性によって磨きをかけることで、それらは、とてつもない光を放つダイヤモンドに変貌していく可能性があります。

 文学者だけではなく、芸術分野多方面の若いアーティストが地元の古いものに目を向け、それを自身の感性で研磨し、素晴らしい輝きを放つ宝石にしていってもらいたいものだと願っております。実はお隣岩手県の代表的作家、宮沢賢治も、地元岩手の伝承文化に興味を持った一人です。

 岩手県では獅子舞のことを「鹿踊り(ししおどり)」と称することが多いようですが、彼はそれをモチーフに「鹿踊りのはじまり」という童話を書いています。
 
 これはそのまま創作バレーや、オペラの題材に使えそうな音楽的な詩情の漂うものです。
 地元の伝承文化にアーティストの感性で磨きがかけられると、どのようなものに変貌するのか、参考事例として、少しばかり、その内容をご紹介することにしたいと存じます。
(詳細は明日へ)
 
(178)伝承文化の宝庫 その2 2004年 3月27日(土)
 昨日26日午前10時すぎ、今年も青森市酸ケ湯と十和田湖町谷地を結ぶ観光路線「八甲田十和田ゴールドライン」(国道103号)が開通。青森県も本格的な春の観光シーズンを迎えることとなりました。
 雪と強風が吹きつける中、昨日は最後の除雪作業が行われ、2地点から進められてきた雪の回廊がようやくドッキング。約8キロに渡る一本の壮大な回廊が出現。
 ドッキングと同時に、作業にあたってきた両除雪隊長が歩みより、ガッチリと握手を交わし、貫通式では、任務を果たした除雪隊員ら約60名が肩を組み、これまた恒例の「八甲田除雪隊の歌」を大合唱。最後に全員で万歳三唱したそうです。今年も雪男たちの声が八甲田の山々にこだまし、春を呼ぶこととなりました。その「八甲田除雪隊の歌」の誕生秘話が、当協会ホームページの「玉稿」のコーナーにございます。未見の方はどうぞご参照下さい。雪男たちの「熱き魂の物語」に触れることができます。

 さて、昨日の続きでございます。 

 獅子舞には一人が頭を担当し、もうひとりが尾の役目をつとめる「二人立ち」の形式があります。
 胴体に大勢の者が入る場合もありますが、定説では、この「二人立ち」の方は、古い中国渡来の芸能の一部として伝来したとされています。
 その中の一つ「伎楽(ぎがく)」は仮面仮装の行列と舞踊劇からなっていたようで、正倉院などに200以上の当時の面が残されています。ここに獅子頭もあるそうですが、現在のものと形は、ほとんど変わらないといいます。
 獅子舞は、現存する日本の芸能のうちで最も古い歴史を持ち、しかもあまり変化せず、古風を残し全国に広く分布している日本の代表的な民俗芸能といわれていますが、その理由がこうしたところにあります。

 ところで「伎楽」は、鎌倉時代になくなってしまったのに、獅子舞の方は消えずに全国各地に広まり、日本を代表する民俗芸能の一つになっていきます。
 その獅子舞にはもう一つ、一人で一頭を演じる「一人立ち」の形式があります。
 厳密にはこちらは「獅子舞」ではなく、「シシ踊り」と呼んだ方がよいということなのですが、この二つの呼称は、混同して使用されることが多いようです。

 その「シシ踊り」ですが、これは関東以北に見られるもので、不思議なことに西日本にはあまり見られないスタイルのようです。どうしてこうもはっきり分離しているのか不思議だといわれています。

 「一人立ち」の形式も、歴史が古いそうで、こちらはどうも中国渡来の芸能とは別系統なのでは?とみられていますが、詳しいことは、よくわかっていません。

 「鹿踊り」と表記し、「シシオドリ」と読む「一人立ち」形式のものは、宮沢賢治のふるさと岩手県を中心に青森県や宮城県に広く分布しています。「鹿」と書くように、頭に鹿の本物の大きな角をつけたり、鹿角をかたどった大きな板で作った角をつけています。

 ちなみに「シシ」とは、もともと「肉」の意味で、それが転じ、食肉のために捕獲する獣一般を総称し「シシ」と呼ぶようになったのだそうです。一例として、イノシシ(猪)の「シシ」がそれにあたります。

 現在では鹿を食すことはめったにありませんが、昔はよく食べていたようで、万葉集の巻16にも鹿の長歌があります。
 ここでは老いた雄鹿が猟師に身を投げ出し、自分の体を役立ててください。そうすれば七重八重に花が咲き誇るように光栄です、との内容の部分があります。
 「鹿踊り」は、盆に新仏の前で供養の所作を演ずることが多いようですが、これは食肉に供した鹿供養の名残ではないか。
 そこから念仏踊り(2月バックナンバー・伝統芸能うんちく参照)に転じ、広まったのではないかとみる研究者もいます。
 が、これも詳しいことは、よくわかっていません。

 さて、この「一人立ち」の「鹿踊り」は、たいてい3〜8頭の多数で踊られます。宮沢賢治は、この起源不詳のふるさとの民俗芸能の伝承に次のような詩的イメージを与えています。

 物語は「わたくし」が夕陽の沈む、真っ赤に染まった野原で疲れて眠っている場面から始まります。
 うとうとしていると、風の音が、しだいに人の言葉として聞こえてきます。
 そこに耳を澄ましていると「鹿踊り」の由来が語られていた・・・。こんな内容の書き出しで始まるのです。

 (つづく)
 
(179)伝承文化の宝庫 その3 2004年 3月28日(日)
 登場人物は「嘉十(かじゅう)」です。
 
 彼は、おじいさんたちと力を合わせ、小さな畑を開いてアワやヒエを作っています。

 そんな作業の折、嘉十はあやまって木から転落。
 左足の膝を悪くしてしまいます。

 そこで、温泉に行くことになりました。

 西の山に湯の湧く所があって、村人は怪我をすると、小屋をかけてそこに泊まり、治すのが常でした。
 嘉十もそこへと向かいます。が、びっこをひきながらゆっくり歩いていったため、太陽も落ちかかり、あたりは暗くなりかけてきました。

 そこで、少し一休みと、背中の荷をおろし、トチとアワの団子を食べはじめました。

 銀色の穂を出した、すすきの野原には嘉十のほかには誰の姿もありません。

 すすきは風に吹かれ、真っ白に光って波を立てています。

 さて、目的地に向かおうかと立ち上がった嘉十ですが、少し団子が残っていることに気がつきます。

 そこでこれを鹿にやってしまおうと、それを白い花の下に置き、ゆっくりと歩き出しました。

 が、少し行ったところで、忘れ物に気がつきます。

 手ぬぐいを、さっきの場所に忘れてきたのでした。

 急いで引き返した嘉十はぴたりと足を止めます。
 鹿の気配です。

 5〜6頭はいるようです。

 驚かしてはいけないと、そっと手ぬぐいの場所に歩みを進めます。
 確かに鹿がいました。

 6頭の鹿がやってきていました。

 沈みかけた青い太陽の不思議な光を浴びながら、芝原をぐるぐると輪になって回っている鹿たち。不思議な光を浴びた、その青い生き物たちが、くるくる回転している様子に、嘉十は心を奪われます。

 よく見ると鹿たちの注意は回転の中心に向けられています。

 そこは、嘉十が残したトチの団子のひとかけらが置かれていた場所です。が、鹿はそちらにではなく、その隣に落ちていた嘉十の手ぬぐいに、注意を向けていたのでした。
(つづく)
 
(180)伝承文化の宝庫 その4 2004年 3月29日(月)
(昨日のつづき)
 鹿の様子を見ているうちに、嘉十の耳がきいんと鳴りました。
 そのとき風に乗って、鹿の言葉が聞こえてきました。

「自分で行って見てみよう」
「危ないぞ。もう少し様子を見よう」
「食べ物に爆薬がしかけられて捕らえられたキツネがいたからな」
「これは生き物かな」

 宮沢賢治は岩手訛りの方言で鹿たちの言葉を描写していますが、こういったことを口々に6頭の鹿たちが言い合いながら、くるくると回っていたのでした。

 その鹿たちの言葉が嘉十の耳に届きます。

 嘉十は自分の落とした白い手ぬぐいを鹿たちが観察しているのだということがわかりました。

 次第に鹿が一頭、また一頭と白い手ぬぐいに近寄って行っては、パッと飛びのきます。

 こうして、大きくなったり小さくなったり、リズミカルに鹿の輪が躍動していきます。

 鹿は、手ぬぐいに触れたり、匂いをかんだりと不思議なモノに気をとられていましたが、ついに一頭が意を決し、手ぬぐいをくわえて仲間の所に戻ってきます。

 心配ないことがわかると、他の鹿たちはピョンピョン飛び跳ねます。

 その手ぬぐいを中心に、鹿たちは、また輪をつくってまわりはじめるのでした。

 「さあ、いいが。オレ うだう(歌う)はんで、みんなまわれ」
 一頭の鹿が歌い始めます。

 他の鹿たちは走りながら踊りながら風のように進んでいきます。

 そのうち鹿のめぐりはだんだんゆるやかとなり、鹿の興味は今度は団子に向けられ、それを一頭、また一頭と口にしながら、また輪になってまわりはじめます。

 太陽が黄色に輝き、大きな、はんの木の梢にかかりはじめました。

 それを見た鹿たちは、ぴたりと回転をやめ、たがいにせわしくうなずき合いながら、一列に太陽を向いて、拝むようにしてまっすぐに立ちます。
 そのときまた鹿が歌い始めます。

 水晶の笛のような声に、嘉十は目をつぶって感動のあまり、震え上がります。

 一頭、一頭と、鹿たちは順に太陽に向かい歌っていきます。
 すすきは、真っ白い火のように燃え立っています。
 鹿たちの歌と踊りの回転は、だんだん激しくなります。
 北からの冷たい風が、はんの木にぶつかって立てるカチンカチンという音、すすきの穂が波のように揺れ、鹿たちと一緒に野原がめぐっているかのようになります。
 それを見ていた嘉十は我を忘れ、自分も鹿になったような気がして、つい、すすきのかげから飛び出してしまうのです。

 (つづく)
 
(181)伝承文化の宝庫 その5(終) 2004年 3月30日(火)
 鹿たちは驚き、一度に竿のように立ち上がります。
 それから風に吹かれた木の葉のように、
 逃げていってしまうのです。
 銀のすすきは、まるで湖のようであり、鹿が通った跡は
 いつまでも夕陽を浴び、
 輝き続けているのでした・・・。

 こうして、
 嘉十はその場所に残された自分の手ぬぐいを拾い、
 彼自身もまた、西の方へと歩き始めるのでした。
 
 このような話を「わたくし」は苔の野原の夕陽の中で、
 すきとおった秋の風から聞いた。

・・・・・・・・・ 
 こうして物語「鹿踊りのはじまり」は終わるのです。


 宮沢賢治は農村指導者として多忙な暮らしを送っていたことで知られています。

 物語は「わたくし」が夕陽の沈む、真っ赤に染まった野原で疲れて眠っている場面からスタートします。これは賢治が本当に農村を回って、くたびれて、どこかの畑で、うたた寝していたときに得たイメージがもとになっているのかもしれません。

 その背景には、岩手県に伝承される「鹿踊り」のイメージが土台にあったことはもちろんのことです。

 すすきをイメージさせる「ササラ」という白い紙をびっしり貼り付けた長い棒を、「鹿踊り」のシシ一頭一頭が背中に一本ずつ立てて踊ります。

 最後、賢治の物語に、すすきと鹿が一体になって踊る描写が現れますが、これは鹿踊りの風俗がイメージのもとにあったようにも感じられます。

 風が木にぶつかるカチンカチンという金属的な表現は、お囃子の鐘をイメージさせます。

 あまり知られていない賢治の小品ですが、誠に音楽的な詩情漂う作品だと感じます。
  
 実は青森の古い伝承、そして歴史民俗の中にも、こういった素晴らしい素材がゴロゴロ眠っているといわれています。

 それをどういった切り口でカットし、素晴らしい宝石に仕上げていくかは各自の感性、個性による腕の見せ所です。

 音楽的な素材も充分にあるようです。

 これらをもとにイメージをふくらませ、素晴らしい音楽作品などの芸術作品が、若い世代の手により、次々と新しい青森の芸術として生まれることを期待しているところです。
 そのためのヒントとなりそうな、伝統芸能の、あまり一般には知られていないエピソードを明日より、項をあらたに連載してまいります。

 多くの方のイメージを刺激し、結果、古い青森の伝承文化に目が向けられ、郷土の芸能の保存継承につながっていくことを期待しています。

 青森は伝承文化の宝庫、アーティストにとっては、またとない創作の泉だということをしっかりと認識しなければいけないのかもしれません。そして、もしかしたら、こういった素晴らしい土地に生まれたことを感謝すべきなのかもしれません。


 そうおっしゃる県出身のアーティストの方は、実は少なくはないのです。

 (終)
 
(182)伝統の背後にあるもの その1 2004年 3月31日(水)
 【神楽と囃子】

 古い・・古い・・時代の人たちは、こんな理論を立てていたようです。

 人体はいわば容器で、そこへ生命の本源たる「魂」が出たり入ったりしている。
 「生」とか「死」とかいうものは、魂が体に定着しているか、外へ遊離しているかという状態を指す。こうした理論に基づき、人が何かの原因で倒れると、これは魂が飛び出したからに違いないと考えられ、当時の人たちはあわてて、人の体の中に魂を呼び迎える儀式をとりおこなったということです。

 また、体内にある魂も、古くなると、生命力が弱まって離脱しやすくなると発想されたようです。

 そこで、いつでも新しく強力な状態に保っておくため、毎年、年の暮れになると、よそから威力のある魂を迎えてくる行事をとりおこないました。
 これが、「鎮魂祭」の本義だといわれています。
 古くは、これが「神遊び」といわれることもあったようです。

 もともと「遊び」とは、「鎮魂」という意味なのだそうで、万物をつかさどる存在のパワーあふれるエネルギーを人々にわけてもらうこと。そして村や人々の生活を安定させること。これが「神遊び」の本来的な意義だといわれています。

 こうした「人間の体の中に魂をいわい込める祭り」が様式化・芸能化し、数々の芸能に変転していくこととなりました。

 古代の人々の理念を要約すると、万物を生成進化させている根元たるエネルギーを何らかの方法で集める。そしてそこから、必要とするところへエネルギーを分配・享受していく。
 ここにつきるといわれています。
 
 ところで、そういった巨大なパワーに直接触れるのは、高電圧の電流に触れるのと同様に大変危険なので、家庭用に電気を引きこむ際、パワーを落とすための変圧器が設けられているような役割を果たす者が必要だと考えられたようです。
 これが本来的な巫女の役割とみられ、この巫女を媒介にすることで、高波動のエネルギーと安全につながることができる。
 このように、大昔の人たちは信じていたといわれています。

 そのエネルギー集中点は「神座(かむくら)」と呼ばれ、ここに聖なるエネルギーを集める。そこから巫女を媒介に、強力なパワーをいただく。こうして、けがれを祓う。すなわち、枯渇した生命力を補給していくという祭事が、いつしか芸能化していくことになりました。こうして生まれたのが、「神楽」ではないのかとみられています。
 その名称も、「神座」の「かむくら」が転じ、「神楽(かぐら)」になったのだという説が有力だということです。

 語源については他にも諸説あるようですが、背景に、こうした超自然的なパワーにあやかろうとする人々の願いがあったのは確実だろうとみられています。

 ちなみに「囃子」というのもここから出ているそうです。

 もともと、「ハヤス」とは「切る」ことを祝っていう言葉なのだそうです。もっと古くは「魂を分割する」という意味があったといいます。

 威力あふれるエネルギーは特定の木に宿っていると大昔は考えられており、それを「御神木」と呼び、遠くからその木の枝を切って村に運び、そこからエネルギーをもらおうと昔の人々は考えたようです。

 こうして、木の中にこもっている聖なる力を分割する(ハヤス)ことが、特定の時期におこなわれるようになりましたが、この木を祭場に運んでくる道中、歌や楽を奏することが多かったのだといいます。

 そのため、ハヤサれた木を持つ人たちの行動が、しだいに音楽を意味する「囃子」に転じていったのではないかとみられています。

 「囃子」を伴う「神楽」は、現在は単なる芸能として見られることが多いようですが、もともとは古代人の生命観、そこから生み落とされた「より良く生きるための祭事」だったのではないだろうかということです。それゆえ、神楽を知るということは、古代人の人生観、生命観を知ることにもつながっていく。このように考える人も少なくないようです。

 (つづく)


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