青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年4月(1)>

(183)伝統の背後にあるもの その2
(184)伝統の背後にあるもの その3
(185)伝統の背後にあるもの その4
(186)伝統の背後にあるもの その5
(187)伝統の背後にあるもの その6
(188)伝統の背後にあるもの その7
(189)伝統の背後にあるもの その8
 
(183)伝統の背後にあるもの その2 2004年 4月 1日(木)
 【獅子舞】

 先日、八戸市の長久保遺跡(縄文中期後半、約四千五百−四千年前)から、猪の姿を表現した土製品が出土し話題を集めました。はるか昔、猪は豊饒のシンボルとされ、天の神への使者と考えられていたようです。
 縄文人が、収穫を祝う儀礼や豊饒を祈る祭りに、このような土製品を使っていたのではと考えられています。
 日本の民俗芸能の特色として、獅子や鹿、さらには猪などの動物に仮託していく形式が多いことがよく知られています。これは、縄文時代の頃からの伝統だといえます。

 獅子舞もその系譜としてとらえることができます。


 定説では、「獅子舞」は、古い中国渡来の芸能の一部として伝来したとされています。
 その中の一つ「伎楽(ぎがく)」は、仮面仮装の行列と舞踊劇からなっていたそうで、正倉院などに200以上、当時の面が残されているそうです。
 そこに獅子頭もありますが、これは現在のものと形がほとんど同じです。ちなみに大陸から渡ってきた当初は「師子」と表記されていたそうです。
 この獅子頭は神聖な仮面であり、超自然的な存在の象徴とみなされていました。

 獅子はアジアのあらゆる地域を通して畏敬されてきたもののようで、獅子には特別な力があり、悪霊邪鬼を祓い、天地を浄化する神秘力を持つと信じられてきたといいます。
 そのため獅子は、祭りの行列の先頭を行ったり、行く道を浄める役割を受け持つようになりました。
 口をあけて天地四方に頭を振り回しながら、歯をかみ鳴らす。この音に悪魔が逃げていくとされたのです。

 現在も、行列の先頭にたって歩いたり、祭りのしめくくりに舞われたりしていますが、これは、古来の伝統をくむものです。

 この「獅子パワーを利用して場を清める」という日本の伝統は非常に古いもののようです。伎楽は、西暦550〜612年頃に日本に伝来したようで、ここに獅子も参加しますので、ゆうに千年を越える伝統を持つこととなります。
 獅子をもたらした「伎楽」自体は、鎌倉時代に滅びますが、なぜか獅子舞だけが現在まで残るのです。
 これは、縄文時代の頃(もしかしたらもっと前)より、脈々と受け継がれてきた「動物の神秘力に仮託する日本古来の伝統」と「獅子舞」が結びついたからではないかとみられています。


 日本の芸能には一つの癖があって、新しいものを取り込んだからといって今まで持っていたものを捨てず、むしろ、古い形を大事にして、その上に新しいものをどんどん取り込んでいくところが特色だとされています。

 獅子舞も、日本古来からの精神性に、大陸由来の風習が重なり合い、発展していったものだとみられています。

 こうしたところから、獅子舞は現存する日本の芸能のうちで最も古い歴史を持ち、しかも千年以上もほとんど形を変えず、古風を残し全国に広く分布している日本の代表的な民俗芸能と称されています。

 (つづく)
 
(184)伝統の背後にあるもの その3 2004年 4月 2日(金)
 【獅子舞その2】

 千年以上も前の古い時代に、神聖な仮面として、大陸より、獅子頭をつけた獅子舞が入ってきました。この伝統は現在も人から人へと伝えられ、獅子頭に敬信の念を持つ習俗が日本のあちこちに残っているようです。

 獅子頭を保管箱から出すときには御神酒をあげ、燈明を供える。
 また、獅子頭を塗師のところに修繕に出すときには、やはり御神酒をあげ、魂抜きをする。
 帰ってくれば再び魂を入れる。
 こういった習俗は一昔前なら、どこの村でも、普通に見られた風景だそうです。
 現在ではこうした「魂抜き」「魂入れ」をするところは少なくなってきたということですが、舞う前に必ず獅子頭を壇上に置いて御神酒を供えるという風習は、今も多くの地域で残っています。
 それが千年以上も前の獅子頭に対する先人の敬信の念に由来し、獅子頭に対するその畏敬の念が、現在もなお、全国で受け継がれているというのは驚きです。
 こうした長い歴史の中、獅子頭は次第に擬人化されるようにもなっていきました。

 魂の入った獅子を永いこと倉に入れておくのはよろしくない。舞う期日が来ても保管庫から出してやらないと中で踊ったり喧嘩したりする。このような数々の言い伝えをそれぞれの村に残しています。

 かつては、神聖な獅子頭をかぶった者の一行は、たとえ、名主の家に入るときでも、玄関から奥座敷へ土足のまま上ってもかまわなかったのだそうです。獅子頭へ寄せる人々の敬信の念は、それほど、大きなものがあったということです。


 獅子はすぐれて悪魔祓い(場を清める)の効果を有している。
 形や色は違っていても、獅子頭に寄せる思いは底辺では共通しており、突き詰めると、ここに帰一していくようです。

 獅子頭をつけて舞う人は、霊鬼に対面し、悪鬼を追い払うと昔の人々は信じていたようです。
 こうした思いの背景には、目に見えない原因によって生ずる数々の災いへの先人たちの大きな恐れがあり、それを祓い除くこと。それすなわち仮面をつけた獅子舞の大きな社会的機能であったと考えられています。

 その理念が高じ、獅子頭は「宝物」のように扱われて、一度箱におさめたら、一定の期日まで開いて他人に見せることはしない。
 虫干しのときに一式ひろげて、それに風を当てて一杯飲むだけという所もあるそうです。

 獅子頭の前で一杯やるだけで霊力にあずかれるということで、踊らずに、獅子頭を秘蔵している地域もあるそうです。
 
 ところで、獅子舞は大きく分けて二つの形式があります。

 一つは、獅子頭の下の幕の中に二人以上の者が入って舞う「二人立ちスタイル」。
 そしてもう一つは、獅子頭をかぶって一人一頭形式となる獅子、それが3〜12頭と組を作って踊る「一人立ちスタイル」です。

 主に「二人立ち」の方は、神社の春秋の祭りに出て、おみこしの先ぶれ、あるいは後で舞いながら場を清め、あるいは単独に各戸をまわり、家々を浄化。こういった役目を果たします。

 一方の「一人立ち」は、関東以北に多く分布しているそうで、不思議なことに西日本にはあまり見られないスタイルなのだそうです。なぜ、こうもはっきり分離しているのか、研究者でもよくわからないとのことです。

 「一人立ち」の動作は「二人立ち」の獅子舞に比べ、念仏踊り(2月のバックナンバーより『伝統芸能うんちく』参照)の要素が強いことが指摘されています。

 腹に太鼓を付けて、それを打ちながら踊るスタイルは、獅子頭を除けば、西日本の念仏系の踊りに等しくなるのだそうです。

 この「一人立ち」も歴史が古いそうで、ここより「一人立ち」は、どうも大陸由来の芸能とは別系統なのではと考える人も少なくありません。
 
 したがって「一人立ちスタイル」の方は「獅子舞」ではなく、「シシ踊り」と明確に区別すべきだと主張する人も少なくないようです。 

 しかし、一般的には「獅子舞」と「シシ踊り」の区別は、それほど明確にはなされておらず、両者をひっくるめて、大きく「獅子舞」と、現状ではとらえられることが多いようです。

 (つづく)
 
(185)伝統の背後にあるもの その4 2004年 4月 3日(土)
 【獅子舞その3】

 種類や芸態は多種多様の獅子舞ですが、共通理念としてあるのは、悪魔祓い、すなわち「場を清める」という思想です。
 
 たとえば、隣の集落との境界である「辻」で踊り、他村から悪疫や伝染病が入ってこないように予防する「辻固め」、そして、家屋の落成式などでよくおこなわれる土地清めを主たる目的とした「地固め」など、獅子舞の数多くの所作に、この思想が具体的に表出されていると指摘されています。
 「伎楽(ぎがく)」以来、広くおこなわれるようになった悪魔祓い・祈祷の「獅子神楽」や、道清めのための「行道」が、ここに、大きく影響しているとみられています。


 実は獅子による、こういった場清めの思想を日本中に広める役割を果たした人たちがいました。それが、「御師(おし)」と呼ばれる民間祈祷師たちでした。


 この御師の成立に強い影響を与えたのは、伊勢神宮だったといわれています。

 古い時代、皇室以外の祭祀を受けることを伊勢神宮では厳格に禁じていました。時代の推移とともに、次第にこの禁がゆるむようになったといわれているものの、やはり、表向きは、民間人の直接参拝は許されませんでした。
 そこで祈願・奉幣を神宮に取り次いだり、それを勧める者としての民間の祈祷師が現れるようになりました。彼らが「御師」と称される人々なのです。

 この御師ですが、伊勢神宮だけにあるものではなく、平安時代の後期より、その活動が知られていました。
 しかし、伊勢の御師がことのほか有名になったのは、伊勢神宮の神格が高いということに加え、伊勢の地が、伊勢湾沿岸の交通の要地として発展したことによります。

 こうした交通の便に恵まれたことが、伊勢神宮の御師の活発な活動を助けることになったのです。

 ちなみに津軽にも来ています。
 記録では1681年2月7日に伊勢太夫次郎なる者が、津軽藩主に会ったとあります。
 これが御師と津軽との最初の関係とされています。


 さて、昔はお伊勢参りを一生の願望とし、長年小銭を貯め込み、講を組んで伊勢参宮を志す人が絶えなかったといいます。

 江戸時代は特に盛んだったようです。
 1830年の「おかげ参り」には、半年間に459万人が訪れたと記録されているほどです。
 こういった膨大な参詣人を案内したのが、神宮周辺に居住する御師たちでした。

 遠隔地からの伊勢参拝者のための宿屋業、そして彼らのための祈祷が御師たちの主たる職業となっていましたが、実はこの御師たちが、「二人立ち」獅子舞の伝播に、一役買うこととなるのです。


 (つづく)
 
(186)伝統の背後にあるもの その5 2004年 4月 4日(日)
 【獅子舞その4】

 御師(おし)は、伊勢参宮の道案内をつとめるかたわら、それぞれ祭屋を設け、参詣の人々に、安全息災・生命長久の祈祷の祭儀をおこないました。

 この御師たちが主におこなったものが「湯立神楽」だったそうです。

 「湯立」と書いて「ゆたて」「ゆだて」「ゆだち」と様々に発音されるようですが、これは、釜に湯を煮え立たせ、それを万物を司る大いなるものに献じ、あわせてその神聖なるお湯を人々にふりかけ、人々の魂を清める。それを主たる目的にするものだったということです。
 
 その湯立の行事を中心におこなうものが「湯立神楽」です。
 手に笹などを持った舞人が、湯を四方にはねかけながら舞うところより、この名が出ているそうです。

 ところで、御師は、なかなかの芸達者たちで獅子舞を演じる者も少なくなかったようです。この御師による獅子舞が「代神楽」なるものです。

 名の由来は諸説あるようですが、「代参神楽」の短縮形という説が、有力なもののようです。
 当時、伊勢のお参りに行きたくとも、経費や時間の都合上、参詣できない人が各地に大勢いました。
 そこで、伊勢の方から、各土地に御師たちが出張していきました。

 そして御師たちが各地でお祓いをし、伊勢神宮のお札を配って歩きます。
 そのお祓いというのが、実は「獅子」を舞わすことだったのです。

 家々の庭や門口に立ち、獅子が御幣と鈴を持って、清めの舞を舞い、その後で剣を抜いて悪魔祓いの舞を演じる。このような形態が多かったとのことです。

 これで伊勢に参拝した代わりとなって、同じ功徳が得られる。ここより「代参神楽」、転じて「代神楽」と称されるようになったのだと言われています。
 現在使われている「太神楽(だいかぐら)」、または「大神楽」は、これの替え字ではないかということです。
 「大」ではなく、「太」の字を使う「太神楽」の方は、より曲芸の意味合いが強くなりますが、これは大陸伝来の獅子が、その付属芸に種々の曲芸を持っていたことに由来するものだそうです。
 ちなみに、「太々神楽」と「太」の字が重なると、獅子ではなく、舞人が、さまざまに舞う、「奉納神楽」の意となります。

 さて、常時諸国をまわったのは4階級あるうち、比較的身分の低い御師だったとのことです。

 彼らは伊勢の獅子頭を神のお使い、または神そのものと称し、これを模型の祠(ほこら)や箱に収め、台にのせたり、背負ったりして、二人立ち獅子舞を各地に持ち歩くようになるのです。

 (つづく)
 
(187)伝統の背後にあるもの その6 2004年 4月 5日(月)
 【獅子舞その5】

 御師の持ち歩いた祠(ほこら)のことを、一般に「宮(みや)」、または「かぐら」と呼んだそうです。
 宮とは文字どおり、お宮のことです。
 「かぐら」とは連載第1回でも触れたとおり、大いなるパワーの「よりたもう座」、すなわち「神座(かむくら)」の音略です。


 御師たちはこの神座に御神体の獅子頭を奉じ、諸国を巡回したのでした。

 この獅子舞を「神楽」と呼ぶのは、神座に奉じた「獅子の神を取り出して舞う」ところからきたものと考えられています。
 「神座」というポイントに神聖なるエネルギーを降ろし、必要とするところへ、このエネルギーを分配していこうという大昔の人たちの発想(詳しくは第1回連載参照)が、ここでも生きているといえます。こういった強力なパワーを媒介するものが獅子頭とみなされていました。

 ちなみに「獅子神楽」は二人立ち。
 諸国めぐりは季節を問わなかったようですが、やはり正月が一番多かったそうです。

 それは日本人の心情からして、正月が、神の来訪するのに一番ふさわしい季節であったからだということです。
 毎年、年の改まりの季節になると、はるかなる他界より神と認識される何かが村里をおとずれ、土地と人々に、新しい年の生命と穀物の稔りを、さずけてくださるという先人の思いが底辺に、いつの時代も変わらずあったようです。現在でも、年神、正月さんなどと、来訪する神を迎え入れるために門松を立てますが、これは、はるかなる昔からの人々の思いの名残だということです。


 ところで、古い時代の人たちは、正月にやって来る神をいろいろと想像したようです。そしてその神はイメージ上のものにしておくだけではなく、現実の形に表現していくことへ、人々は情熱を注いだようです。
 こうして正月の祭りの場に、様々な扮装をした者が、「神」となって実際に現れ、人々に祝福を授ける行事が次々と生まれていきました。
 
 獅子舞もその正月の来訪神の一つと考えられ、人々に歓迎されたのでした。


 「代神楽」の獅子頭は狛犬で、原形は中国の獅子舞から出ているといわれています。
 現在の獅子頭は、そこから龍・虎・鹿・猪などいろいろな姿に分化し、さまざまな姿となっていますが、これは土地の信仰や習俗に合わせて変えられたもののようです。
 しかし、共通しているのは、これらの獅子を舞わすことで悪魔が祓われる。火難が避けられる。亡魂が成仏する。雨乞いが果たされる。五穀が稔るといった理念を備えている点です。
 神秘な力を持つ「動物神」として、獅子がそれぞれの地域社会で、一定の役割を果たしていったとみられています。


 さて、「代神楽」の二人立ち獅子舞に対し、一人立ちの「三匹獅子舞」や「シシ踊り」の方は、御霊鎮送の性質を持つため「風流獅子舞」と呼ばれています。(御霊(ごりょう)と風流(ふりゅう)については2月バックナンバーより『伝統芸能うんちく』参照)

 明日は、この一人立ちスタイルの獅子舞の方へと目を転じます。

 (つづく)
 
(188)伝統の背後にあるもの その7 2004年 4月 6日(火)
 【獅子舞その6】

 一人一頭の形式を取り、三頭が組で踊る「三匹獅子舞」は、各集落の農耕儀礼に重要な役割をはたしてきました。津軽地方にはこの形式が多いといわれています。

 三匹獅子舞は、二人立ち獅子舞と違って集落の共有物であり、神社に専属するものではない点が特徴となっています。
 確かに村の神社に出ることもありますが、これは、集落の祭礼のために「獅子が神社にも参拝する」という考え方のようです。その証拠として、神社だけが獅子参拝の対象となるのではなく、仏寺に獅子の登場する点をあげる人もいます。
 このようなところより、三匹獅子舞は、二人立ちの「代神楽」とは、少し性格を異にするところがあると、多くの人が指摘しています。

 三匹獅子舞(以下、単に「獅子舞」と表記)は職業的な出稼ぎをあまりしません。
 他の集落の求めに応じ、落成式や地固めに出ることもあるようですが、これはあくまでも臨時の場合で、昔から、獅子の生活空間は各集落内に限られてきたようです。
 
 特定の共同体の福祉と繁栄のため、特に農耕儀礼に、獅子は重要な役割をはたしていきますが、興味深いのは、五穀豊饒・村内安全というような抽象的なものではなく、より具体的に、雨乞いなどの特定の目的のために登場するところです。

 獅子舞を執行することで、降雨をもたらし、農作物の風害が避けられ、上作になるとの固い集団的信念に基づき、長いこと、獅子舞が各集落で続けられてきました。

 おもしろいのは、この獅子舞は何にでも利く万能の農耕儀礼とは考えられていない点なのです。各地域ごとに、特定の目的(雹除け、雨乞い、嵐除けなど)に向けられており、その結果、地域の個性がここに鮮明に表出されています。これがローカル色豊かなユニークな獅子を生むこととなり、獅子の多様性はこうして広がったと考えられています。
 
 隣の村と、獅子頭の形や色、そして舞い方など、差異が見られることが珍しくないというのは、ここが原因になっているのだそうです。

 ただし、底辺に流れている理念は共通しています。
 今年もまた豊かな実りを期待する農民が、自分達の力で予知できない季節や気候への不安を、獅子の悪魔祓いの能力に期待しておこなう予祝の行事。
 旱魃や暴風雨などの予測される危機を、獅子舞に託し、乗り切ろうという人々の願いが形になったものだとみる人が多いようです。
 万年豊作を「感謝する行事」ではないようなのです。

 獅子舞が晩春から夏、さらに初秋にかけておこなわれるのは、こうした農事暦と密接に関連しているからだとみられています。

 さて、三匹獅子舞を踊ることができるのは、やがて集落の主要メンバーとなる15歳以上の若者で、それぞれ家々の相続者となる資格を持った長男に限るところが多かったといいます。

 昔は、他の集落からやってきた婿養子は、獅子舞の若者組には入れても、獅子は踊れず、脇役として奉仕するだけだったそうです。それだけ、霊獣である獅子頭をかぶって踊ることは一種の特権であり、かつては誰にでも許されるものではなかったということです。

 さらに獅子舞は一子相伝であり、集落の芸能や唄が他にもれるのを極度におそれる風潮もあったと伝えられています。

 獅子舞の秘伝の巻物は外部に公表されることは稀で、唄の文句も、他人に知られないよう、わざと歌詞が聞き取れないように歌われるところもあったといいます。

 かつての集落の年齢階層は、年寄・中老・若者(青年団)にわかれ、獅子舞を担当するのは若者で、年寄と中老は後見するだけであったそうです。

 (つづく)
 
(189)伝統の背後にあるもの その8 2004年 4月 7日(水)
 【獅子舞その7】

 昨日触れた「三匹獅子舞」は関東から東北にかけて広く分布しています。津軽地方にも、たいへん多く見られるものだそうです。
 これは単に「おしし」、または、太鼓をつけて踊るこの太鼓に由来した「カッコ」、さらには「ササラ」と呼ばれることもあります。

 三匹獅子舞は農耕儀礼と最も深く結びついたものだということについては、すでに昨日触れたとおりですが、芸能として、著しい効果もあるようです。

 それは、「聖」と「俗」をたくみに交錯させ演出している神遊びのダンスであり、笛・太鼓・唄を伴った総合芸術だととらえることもできるのだそうです。


 また見物人も構成員として重要で、演じる者と観衆が融和しながら、同じ生命のリズムと感情にひたることが三匹獅子舞の醍醐味だともいわれています。


 三匹獅子舞は、多くの祭儀と同様、三部構成をとることが多いようです。
 まずは「入場の儀礼」、そして「神話的な劇、または世俗的なダンス」、最後は「退出の儀礼」です。
 日本の芸能表現では、これは「では、なかをどり、ひきは」に分けられるものだそうです。


 まず、祭儀をおこなう人が、自身の世俗的な部分をはぎとり、祭儀に現れる神聖な存在に危険なく接近するための準備行動となる所作をおこないます。いきなり運動すると肉離れなどの怪我をしてしまうのと同じ理屈なのだそうで、いわば「精神の準備体操」とみなされるものだといいます。

 その後、祭儀では「聖」と「俗」のバランスを保ちながら進行され、最後は、日常世界とは異なった集団的雰囲気から、「俗」なる世界へと、意識を戻していきます。
 マラソンでゴールに入り、急に立ち止まると循環器系に障害を起こすのと同様、終わっても急に流れを止めず、ゆっくりと非日常から日常へと意識を戻す。このプロセスが「退出の儀礼」なのだそうです。

 さて、祭儀の中心でみられる「聖」と「俗」の巧みなバランスが魅力であったといわれる三匹獅子舞ですが、明治以後、このバランスが崩れるところが多くなったといわれています。

 今は伝統的・格調高いものだといわれている芸能の多くも、隠退した古老に話を聞くと、これは明治年間にやかましく干渉されて改めたもの。もともとは、もっと俗っぽいものだったという話が聞かれることが少なくないようです。
 文明開化の理想に適応させるため、祭儀上の舞踊にいろいろと厳しい統制が加えられ、「俗」の部分の典型とされる性愛描写を連想させる道具や所作が禁じられ、「聖」の部分が強調される形で、演じられることが多くなったのだといいます。

 「あれでは長時間誰も見物しませんよ」と語る古老もいます。

 これらの禁止品が、現在も獅子舞の大箱の底に、ひっそりと、残されている集落もあるということです。



 さて、明日は「一人立ち」の中でも特に有名な、宮沢賢治も童話に書いた「鹿踊り(ししおどり)」について触れてみます。

 (つづく)


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