青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年4月(2)>

(190)伝統の背後にあるもの その9
(191)伝統の背後にあるもの その10
(192)伝統の背後にあるもの その11
(193)伝統の背後にあるもの その12
(194)伝統の背後にあるもの その13
(195)伝統の背後にあるもの その14
(196)伝統の背後にあるもの その15
 
(190)伝統の背後にあるもの その9 2004年 4月 8日(木)
 【獅子舞その8】

 宮沢賢治も記した「鹿踊り(ししおどり)」ですが、もとは概して盆に、祖先供養のために踊られたようです。
 仏前回向の唄をうたい、お寺で舞うことも少なくないために、「彼岸獅子」と呼ばれることもあるといいます。

 鹿踊りは大きく二つに分けられます。

 一つは「太鼓踊り形」。腰に太鼓をつけ、それを打ちつつ踊ります。


 もう一つは太鼓を腰につけない「幕踊り形」と呼ばれるスタイルです。
 囃子方として、太鼓打ちをわきに置き、踊り手は、体の前から足下まで大きく垂らした幕をひるがえしながら踊ります。


 「太鼓踊り形」は本物の鹿の角。「幕踊り形」は木板製の鹿角をつけるという獅子頭の形状の違いがよく指摘されています。

 また、衣装の違いが踊り方の差異を生んでもいます。


 重い太鼓を腹につけているので、「太鼓踊り形」の方は、大きく軽やかに舞うことができません。
 そのため太鼓のリズムに合わせ、常に小刻みなステップを踏み、リズムが高鳴るときに、大きくジャンプしていきます。
 動きが鈍いぶん、衣装に趣向が凝らされているようで、腰に長さが3メートル以上ものササラ(秋のススキを表したものという説あり)などと呼ばれる白い紙をびっしり貼り付けた竹をさし、身を前に拝み倒して前方地面にたたきつけるという激しい所作を見せることもあります。

 一方、「幕踊り形」の方は身軽なので、幕をひらひらと美しくひるがえし、軽快に踊られます。
 この様子から、まるでバレーを見ているようだと形容する人も少なくありません。


 ところで、四国の宇和島市でも「鹿踊り」が見られるそうです。が、これは仙台藩からの移入であり、特例。やはり「鹿踊り」は、東北特有のスタイルだといわれています。


 青森県の三匹獅子舞も、岩手県の「鹿踊り」同様、彼岸や盆の墓に詣で、亡き魂の供養を営むことがあるそうです。明日はこの青森県の三匹獅子舞について見てみます。

 (つづく)
 
(191)伝統の背後にあるもの その10 2004年 4月 9日(金)
 【獅子舞その9】

 獅子舞の保存継承の難しさは、いろいろ指摘されていますが、一番の問題点は、後継者の人数確保です。

 一般的に青森県の獅子舞は
 男獅子が2
 女獅子が1
 おかしこ(猿面をかぶる)が1
 囃子方として中太鼓、笛吹き、打ち鐘がそれぞれ1
 ほかに口唱する人が3

 以上、最低でも10名は必要となるようで、その人数を確保するのが厳しく、戦前までは県内各地で隆盛を極めたものの、現在は次第に衰微し、消滅の危機にあるところが少なくないとの情報をいただいております。


 その青森県の獅子舞分類ですが、かつて主要なところでは、次のようになるとのことでした。
 (資料提供 金木町教育委員会)

◆津軽内陸地方
 ・大鰐、石川、竹館、碇ヶ関、尾崎、猿賀

◆西浜踊
 ・岩崎、赤石、中村

◆新田
 ・出精、森田、板柳、長橋、飯詰、中野新田、嘉瀬、長富、金木

◆浜獅子
 ・油川、荒川、高田、新城

◆混合踊
 ・岩木、新和、東・西目屋一帯

 
 これは昭和50年代の資料ということで、現在、もうすでに消滅してしまったところもいくつかあるようです。
 ちなみに、私の出身地区「新城」の獅子舞も、今は活動休止に追い込まれていると耳にしています。ふるさと青森県の伝統がこうして一つ、また一つと、消失していくというのは、本当に、なんともいえない気分です。



 さて、獅子舞の由来は県内各地でまちまちで、比較してみると、微妙な差異や矛盾点もあるのですが、参考まで金木町教育委員会の提供資料より、津軽獅子舞の由来を、明日示してみます。

 (詳細は明日へ)
 
(192)伝統の背後にあるもの その11 2004年 4月10日(土)
 【獅子舞その10】

 津軽獅子舞の由来は下記のとおりといわれています。

 津軽藩主信政公が産業振興のため、京都より野元道玄という人物を招きました。
 野元氏の指導の下、養蚕のための桑木や、製茶のための茶の木、津軽塗りのための漆の木が植えられるなど、津軽の地に、広く産業がおこされました。

 あるとき、野元氏の耳に、弘前松森町派立に住む猫右衛門という人が、獅子踊りの原本を持っているとの情報が入ります。

 そこで、野元氏はそれを手に入れ、津軽地方でも広く踊れるよう、歌詞を直して、猫右衛門に渡したのだそうです。

 猫右衛門はこれをもとに、派立の若者たちを集めて練習。
 その後、これが、藩主の観覧に供するまでになっていったのだといいます。

 信政公は、1682年8月15日の弘前八幡宮の御祭礼の際に、獅子舞を参加させています。これが公式におこなわれた津軽獅子舞の始まりだとされています。


 津軽獅子舞は、それぞれの地域の影響を色濃く受けながら、各地域の個性を取り込んで若干変化を遂げ、非常な勢いで津軽地方に広がっていきました。

 この優雅にして、にぎやかな踊りも、現在は、衰微の一途をたどっているそうです。
 それについては、昨日も触れましたが、残念なことです。


 津軽は獅子舞が盛んで、南部地方に比べ、数は多いとされています。
 ただ、これは厳密には「しし踊り」と称する芸能のようです。


 以前も触れましたが、「獅子舞」とは、神楽の中の「御獅子(舞)」あるいは、「権現さま」として祭礼の一項目とされ、獅子頭を荘厳に舞わすもので、幕の中に一人、あるいは複数の人が入って、村内の悪魔祓いをおこなうスタイル。

 一方の「しし踊り」は、一人立ちで獅子頭をかぶり、さかんな跳躍を伴う芸態で演じられるもの。
 津軽の場合がそうであるように三匹形態が多く、ここに道化役がからんで軽妙な動作所作を見せ、念仏踊りと田遊びの要素が入り混じり、神社信仰とは無関係な伝承になっています。

 これが厳密な見方とされておりますので、津軽獅子は「しし踊り」と称するのが妥当なのかもしれません。



 ところで東北地方の「獅子舞」には、伊勢の御師を代表とする「代神楽」の系譜とは違った流れがあることがよく知られています。

 それが、修験(しゅげん)の影響を強く受けた「権現さま」です。


 青森県も例外ではなく、東北地方の芸能には修験の影が色濃く落ちていることが多くの研究者によって指摘されています。

 ところが、この修験については、名前だけは知っているものの、長いこと秘密主義のベールにおおわれてきたため、実態がわかっていませんでした。

 しかし、最近になって研究が急速に進み、修験のことが、あちこちで取り上げられるようになってきました。

 明日より、青森県はもとより、東北地方の芸能全般に大きな影響を与え、土台を作っていったとされる修験について、触れてみます。

 (つづく)
 
(193)伝統の背後にあるもの その12 2004年 4月11日(日)
 【修験その1】

 先日の階上町の芸能で触れた鶏舞(けいばい)は、修験の手を経て生まれた阿修羅踊りです。また、階上町の道仏神楽も山伏系の神楽です。

 このように中世以来、日本人、特に東北地方(当然、青森県も含む)に生きる人たちの芸能に大きな影響を与えているのが修験道(しゅげんどう)です。
 修験道に関する論文・報告研究は東北に特に多いことが知られていますが、それだけ、東北地方に密着した存在であったということがうかがわれます。


 農耕民族である日本人の生活環境から出た自然崇拝と、呪術的な信仰を根幹とする固有の信仰に道教・陰陽道がむすびつき、密教思想が中心となって、修験道の信仰体系や修行形態が形成されていったといわれています。


 しかし、これだけ東北地方の芸能に大きな影響を与えていながら、実態は長いこと知られていませんでした。
 研究者により、芸能との結びつきから、その存在に光が当てられるようになったのは、つい最近のことです。

 青森県の芸能にも大きな影響を及ぼしている修験道です。
 青森県民としても、郷土の芸能の土台の一部を形成している修験道については、一般常識としておさえておいてもよいかと思われます。


 さて、修験の「験」は、祈祷の効果や結果を具体的に示す「しるし」のことだといいます。
 その「しるし」とは、来世を待たず、この身このまま、今生において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間となる。すなわち、「即身成仏」を証するものだということです。

 「修」とはそのための努力精進のこと。
 「道」とは、その方法を研究・実践するための最上の手段や方法の意だそうです。

 厳しい修行を積んで独特の力を身につけた者は、験者(げんざ)または、修験者と呼ばれました。
 修験者は山へ入って修行をしますが、そこにはもちろん家や小屋があるわけではありません。ある時は木の根を、またある時は石を枕に、ごろりと横になって、眠ることとなります。
 それゆえ彼らは「山伏」、または「山臥」と称されるようになりました。


 きわめて初期の頃は「山伏」と「修験者」は区別されていたそうです。

 「山伏」とは、あまり移動せず、山に臥し、洞穴に禅定して山林にこもり、孤独に耐え、欠乏をしのんで修行する者たちのこと。
 一方の「修験者」とは、山から山へ、峰から峰をわたって遊行する者たちのことを指していたといいます。

 しかし、両者は、たがいに接近し交流し合うようになり、「修験者」と「山伏」の区別は消え、「山伏修験」または「修験山伏」などの言葉が生まれるようにもなっていきます。
 現在では、「山伏」と「修験者」は同一のものとみなされています。
 
 しかし、もともとは違った存在であったのだそうです。

 ところで、山伏たちは、即身成仏の目的を達成するため、山に入ります。
 これを入峰(にゅうぶ)修行、峰中(ぶちゅう)修行と言ったりするようです。
 しかし・・、どうして彼らは山に入るのでしょう。

 (つづく)
 
(194)伝統の背後にあるもの その13 2004年 4月12日(月)
 【修験その2】
 
 津軽地方に住む人たちにとっての岩木山に寄せる感情が特別なものであるように、一般にどの地域に住む日本人にとっても、ふるさとのシンボルとなる山には、物質的な存在を超えた感情が付随しているといわれています。

 古い時代の人たちは、特にその意識が強かったといわれています。

 昔の人たちは、人が死ぬと、その魂は山へ行って山の神様となり、春には里に降りて田の神となり、正月には年神として里にやってきて、子孫繁栄を見守ってくれると考えていました。
 また、山は、鳥獣草木をはぐくむ、生命の根源的な存在として聖なる場所とみなされ、物を浄化し、新たな生命をはぐくむ特別な場所と信じられていたようです。


 その聖なる場所にこもり、山から山へ、谷から谷へと巡歴し、木の根を枕に修行することで、けがれを取り除き、迷いをはなれ、悟りの境地に到達しよう。これが修験道の極意だといわれています。

 ここに到達するため、けがれに満ちた自分の身体をいったん母なる大地にかえし、精霊となって、山川渓谷を駆けめぐり、洞穴にこもり、山中に伏し暮らす。
 そのことで新しく清浄なるエネルギーを充填、若々しい肉体となって復活再生するために修行者は山へ入るといわれています。

 ところで、峰入りを前にした修行者に出される食事は、箸を左側に置いた左膳です。これは死者との食い別れを意味するものです。
 また、食事のあと、頭巾をあたえられ、額にあてたりすることもあるようなのですが、これは死者が紙をたたんだ三角冠を頭につけるのと同じ意味が込められているといいます。
 さらに出発に際し、門口で火をたき、皿を割るなど、死者を生き返らせぬ出棺の作法がおこなわれます。


 誠に不思議です。
 しかし、山に入る前に、本人に向かって、このように、死者に対するのと同様の葬礼の儀式がとりおこなわれるのには、理由があるのだといいます。

 (つづく)
 
(195)伝統の背後にあるもの その14 2004年 4月13日(火)
 【修験その3】

 峰入りを前にした修行者に対し、死者への葬礼と同様の儀式をとりおこなう不思議については昨日触れたとおりです。

 このことによって当人は、いったん意識の上で死ぬことになります。つまり、こうした一連の葬礼のプロセスを経ることにより、古い自分自身の一切を、峰入り前に、強制的にはぎとってしまうのだそうです。

 その後、山に入りますが、期間は75日と定められています。


 これは、母が胎内に生命の種子をやどし、出生するまでの275日。
 その下二桁がもとになっているのだといいます。

 こうして山という「胎内」での修行を終え、下山するときには、釈迦誕生の産声であると口伝されている「南無十方仏」と、大音声を発するそうです。

 これは、新たな肉体と生命を手にしたことを自分自身へ宣言。
 「新生児」の産声なのだそうです。

 精神の純化をはかるために、こうした死と再生の儀礼を通過することで、修行者は「修験者」として生まれ変わります。そして新たな第一歩を踏み出していったのだそうです。

 この修験者が農山漁村や都市に居住する人々だけではなく、武士や公家の生活にも、非常に大きな影響を与えていくことになったといいます。

 
 しかし、1872年(明治5年)の修験宗廃止令が決定的となって、実質的に修験道は壊滅へと向かいました。


 結果、多くは帰農したり、神職に従事したりと、新たな道を歩むことを余儀なくされます。
 しかし、修験は消えても、彼らの残した芸能は脈々と現在も受け継がれ、東北地方の芸能の土台の一部を形作っています。


 その一つが、東北地方に存在している「権現舞(ごんげんまい)」と称する獅子舞です。

 青森県の芸能としてもポピュラーなものですが、その詳細については、明日触れることといたします。

 (つづく)
 
(196)伝統の背後にあるもの その15 2004年 4月14日(水)
 【修験その4】

 権現舞(ごんげんまい)と称する獅子舞が、青森県にも伝承されています。

 顔の形は、代神楽と似ているものの、色が黒っぽく、舞い方や囃子は非常に異なっていることが指摘されています。

 それは、伊勢の御師(おし)の演じた神楽とは違い、かつて早池峰(はやちね)山、黒森山、太平山、鳥海山などに道場を開いて修行に励んだ山伏修験者たちに由来する芸能だということが、大きく影響しているからだといわれています。


 「権現」とは、仏が「権(かり)」に、神の姿になって人々の前に「現れ」て、功徳を授けるの意味だそうです。
 このような理論をもとに、山伏たちは、熊野権現、早池峰権現など、獅子頭に「権現」の名を冠して、東北各地を巡ったのだといいます。

 こうして獅子頭は、土地の人々に「権現のシンボル」とみなされるようになっていきました。


 権現舞を伝えるかつての村では、獅子頭を「権現さま」と称し、常時けがれの付かないように、特別の箱に収めて保管し、祭りになれば座敷の床の間などに飾って、御神酒や洗米などをあげ、拝んだものだといいます。


 昔のしきたりでは、毎年暮れから正月にかけては、山々で暮らす山伏たちが一団を組織し、権現さまを奉じて、それぞれの地域内の各戸を訪れては、獅子舞(権現舞)を演じたものだそうです。これは「春祈祷」「門打ち」と呼ばれました。


 正月の権現舞の意図は、代神楽獅子と同様です。

 それは、聖なるものの象徴である獅子が、年の改まりの時期に家々を訪ね、新年の福運を授けるというものです。


 獅子の舞人に、笛や太鼓、そして手びらがねの囃子方らが、道中、囃子を奏しながら家の前に来ては、門口や土間の中で獅子を舞わしたそうです。
 権現さまは、歯切れのよいリズムに乗り、きびきびと舞い狂いますが、途中、「歯打ち」といって、しきりに歯をカタカタと打ち鳴らす所作をおこないます。
 「魔よけ」の作法です。


 昔の人々はこの権現さまにいろいろな願いを託したようです。健康を願う人は権現さまの歯で頭をかんでもらい健康祈願。
 また、商売をしている家では、帳簿やそろばんをかんでもらい、商売繁盛を祈願したそうです。人それぞれの願かけが権現さまに対しておこなわれたということです。


 ところで、この権現舞の一団ですが、単に獅子を舞わすだけではなく、頼まれれば、その家の座敷にのぼり、簡易舞台を設置して、獅子以外の舞踊曲や舞踊劇を夜通し、いろいろと演じたといいます。

 (その詳細については明日へ・・・つづく)


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