青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年4月(3)>

(197)伝統の背後にあるもの その16
(198)伝統の背後にあるもの その17
(199)伝統の背後にあるもの その18
(200)伝統の背後にあるもの その19
(201)伝統の背後にあるもの その20
(202)伝統の背後にあるもの その21
(203)伝統の背後にあるもの その22
 
(197)伝統の背後にあるもの その16 2004年 4月15日(木)
 【修験その5】

 権現舞を終わったあと、求めがあれば、その家の座敷に簡易舞台が設置され、夜を徹して、様々な舞踊曲や舞踊劇が演じられることとなりました。

 「神物」は神仏の霊験を説き、「女物」は女人の罪業消滅を願い、「武士物」は修験者の呪力を荒々しい所作で示すなど、これらは、単なる余興ではなく、神仏の功徳、人生の苦しみ、山伏の法力などを芸能を通して、大衆に知らしめようという意図が、当初は含まれていたそうです。

 山伏神楽に限らず、関東や関西に流布する神楽などにもこれは、共通する目的観であったといいます。

 かつて、獅子こそ用いないものの、巫女や神職が榊や笹を手に、神おろしや悪魔祓いの舞を舞い、その後、天岩戸やヤマタノオロチなどの神話を題材とした舞踊劇がいろいろと演じられました。
 この目的は、自分達の信奉する神々の威力を具象化、人々に見せることにあったといわれています。

 青森県はもとより、東北地方の各地域に今も残る山伏系の神楽ですが、地域の信仰を集めている土地より獅子頭に「聖なるパワー」を移し、「権現さま」と呼んで、家々の祈祷をしてまわることが中心となっていました。
 その後、求めに応じておこなわれた舞踊曲や舞踊劇ですが、修験の理論が土台になっているものの、地域の人たちの信仰や世界観が巧みに織り込まれ、独特な芸能へと発展していくこととなりました。
 各地の風土、そこから生まれた信仰や伝承、さらには人々の願いが多数含まれた、実に豊かな民俗的世界が、ここに表出する結果になったということです。


 神楽の観客である、農民や商人や漁民たちは、日常生活では手の届かない「聖なる何か」を、山伏神楽の中に見出そうとしたのではないか。
 山伏たちのもたらした神楽の中に、村人たちは、自分たちの信仰の世界を、観念的なものではなく、より具体的なものとして実感していったのではないか。このようにみられています。

 神楽は、本来的にはこういった信仰心に深く根ざしているとはいえ、地域の人々にとっては、娯楽の要素も多分にありました。

 この娯楽性が時代とともに強められ、もともとの宗教性は背後にまわり、神楽は一つの「芸能」として村々に浸透していきます。
 こうして神楽は、村人にとっての重要なレクリエーション行事の一つとなっていったということです。

 (つづく)
 
(198)伝統の背後にあるもの その17 2004年 4月16日(金)
 【修験その6】

 ところで、山伏(法印)神楽ですが、神楽を演じた人すべてが、山伏であったわけではありません。

 山伏は祈祷を済ませるとサッと戻ってしまい、山伏に率いられてきた神楽衆が後を任され、山伏神楽を演じる場合も少なくなかったということです。

 主として年末から正月、またはお盆の頃、神社の神楽殿や民家の一室を舞台に演じられますが、内容は非常に美しく、力感に富んでいるとの定評があります。

 曲目は、儀式的な舞踊や、「古事記」「日本書紀」に題材を求めた神話劇。さらに女舞や、戦記物を題材とした武士舞(番楽舞)があるなど多種多様です。

 部分的に能の曲目と共通していますが、これは能をまねたものではなく、別系統であり、能以上に中世の芸能の面影を色濃く残しているとされています。

 このような観阿弥・世阿弥の能大成以前と思われる古風、古態の要素をとどめている点において、山伏系の神楽は、芸能史的に非常に貴重だといわれています。

 山伏系の神楽は、全部合わせると百以上の演目があるのではないかといわれています。
 能楽は四拍子(しびょうし)といって、大鼓(おおかわ)・小鼓(こつづみ)・太鼓・笛が、囃子を担当します。

 一方の山伏神楽は、胴と呼ばれる大きな太鼓と銅拍子の二人に、笛がつくだけです。
 こういったシンプルな編成で、ときに、かなり荒っぽく演奏されます。かえってそれが新鮮に響き、さわやかな足拍子、リズムに乗る動きの力強さ、足踏みのダイナミックさ、また、随所に見られる振りの面白さなど、現代人にアピールする部分が多いのか、たいへん人気があります。


 ところで、以前は、津軽でも山伏神楽が広く普及していたそうです。


 しかし娯楽的な要素が強くなりすぎ、通俗的過ぎるとして、津軽地方一帯におこなわれている神楽に手が加えられることとなりました。

 明日は、この結果生まれることになった「津軽神楽」について、続けることといたします。

 (つづく)
 
(199)伝統の背後にあるもの その18 2004年 4月17日(土)
 【津軽神楽その1】

 津軽一帯でおこなわれていた神楽、その手直しへの動きが大きくなったのは、1710年、4代藩主の津軽信政公が、65歳で没した後だといわれています。

 神楽改革の中心となったのは堰八豊後安高という人物だとの伝承があります。

 堰八氏は1712年ごろ藩に申請書を出し、了解を得て、本場の神楽の伝習(江戸、京都など諸説あり)へと出かけました。こうして、津軽に戻った堰八氏の指導によって生まれたのが「津軽神楽」だといわれています。

 ちなみに「堰八」という苗字は、灌漑用の堰を守る神社に、その由来をおいているとのことです。

 さて、津軽神楽が1714年7月21日に高岡宮の祭典で披露されると、山伏神楽は背後にまわり、津軽地方では、新しい「津軽神楽」が主流になっていきます。

 一般に津軽神楽は、神事色の濃い、娯楽性の薄いものとみられることが多いようですが、これは、娯楽色の強くなった神楽を手直ししたところから生まれたという、発生事情が影響しているとされています。


 ただし、民衆の娯楽性を求める声をも、津軽の神職たちは充分了解しており、山伏系神楽の影響の強い娯楽色あふれる演目を「狂楽舞(きょうらくまい)」と呼んで、神楽に準じた地位を与え、民衆の欲求をしっかりと汲みとってもいます。

 その狂楽舞の演目としては、平維茂、牛若丸、弁慶、鬼女、恵比寿舞、猖々祖号舞、熊坂長範、狐があったそうです。
 これらは下北地方に伝承されている山伏系神楽と同種の演目だそうです。


 祭式をおこなったり、祝詞を読み上げたりする点から尊重するのではなく、やはり神主といえば、6〜7人集合して祭りの庭で舞をおこなうとき、その神々しさにこそ存在意義を認める。これが昔からの津軽の土地柄のようです。
 実は、これが、神主に寄せる最も古風な感覚なのだそうです。より本質的な感覚であると断じる人もいます。
 こうした神職観が現在あまり多くはないようで、このような点に、津軽地方の文化史の独自性を見出す人も少なくないと聞きます。


 さて、津軽神楽は郡単位の神職の「組」組織によって運営されることが多いといいます。
 本式には、神職が7人ほど必要となるようなのですが、場合によっては4〜5人でも、演じることが可能だそうです。
 得意な舞と楽器を交換し合っておこなわれ、神社祭礼のときの番数五つが普通だといいます。

 明治維新の神仏分離と神道国家政策の影響で、それまで神職のおこなっていた神楽をやむをえず放棄し、村人がこれを伝習して存続させたというケースは全国的に多いようです。しかし、津軽神楽の場合は、地域の人たちの支持もあり、神職のみによって演じられる格式の高い芸能として、大きな混乱もなく、伝統が存続されることになりました。

その津軽神楽の曲目を明日ご紹介したいと存じます。

(つづく)
 
(200)伝統の背後にあるもの その19 2004年 4月18日(日)
 【津軽神楽その2】

 津軽神楽です。

@神入舞(かみいりまい)
東西南北、そして中央を祓い清める舞。2人が鈴や扇などを持って舞う。

A宝剣
大神に宝剣を献ずるさまを演じる。

B磯浪(いそら)
海神が磯に立って藻をかきならすさまを演じる。

C千歳(せんざい)
老翁が日を拝するさま、扇、鈴を持ってゆっくり舞う。

D朝倉
二人で鈴、扇を持って舞う。

E榊葉
一人で榊に御幣をつけたものと鈴を持って舞う。

F天王
二人が弓矢と鈴を持って舞う。舞の中で矢を天上に向けて射る。四方と中央に五本の矢を射込む。

G弓立(ゆだて)
一人で大弓と弓矢を持って舞う。途中で片手を鈴にかえる。

H湯平均舞(ゆならしまい)
四方と中央下界に散米をおこない、献酒や湯手草(笹の束)の舞をする。これに続き、釜清めがあり、湯花献備もともなう。

I国堅舞(くにがためまい)
鈴、御幣を持って一人で舞う。

J御獅子舞
一人が鳥兜・白衣・差袴で舞い、もう一人が神前の向かって左側で獅子頭を持って斜め向きに座し、前の舞が終わると、獅子頭の幕の中に入り、頭をかざしながら道行舞をおこなう。

K四家舞(しかのまい)
士農工商の舞ともいわれ、4人が四隅におり、それぞれ祓いを受け舞う。曲は四家舞拍子で、剣のときは三人で勇壮活発に舞う。これは上棟式や遷宮式など、とくにハレの機会におこなう。

 上記12番が今日普通に舞われるもの。



 このほか明治6年までは、以下のような舞もあったということです。

◆木綿幣舞(ゆうしでまい)

◆神子舞(みこまい)
 他の土地の湯立神楽に相当し、湯平均舞の次におこなわれた。

◆若子舞(わかごまい)

◆榊舞

◆木綿東女舞(ゆうあずまめまい)

◆御幣座舞


 これらがあったということですが、現在はおこなわれていないようです。


 「津軽神楽」は、昭和31年5月14日に県無形民俗文化財に指定され、さらに昭和51年12月25日に「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」の国選択となり、津軽の人たちにとって、大きな誇りとなっているとのことです。

 (つづく)
 
(201)伝統の背後にあるもの その20 2004年 4月19日(月)
 【国境を越えた系譜 その1】

 史上最多の29カ国(地域も含む)から、1000人を超える選手や役員が参加し、5競技51種目の熱戦が青森県を舞台に繰り広げられた第5回冬季アジア競技大会。
 まだその余韻が残っているようですが、先ごろおこなわれたこの大会式典には、青森県の伝統芸能団体が多数出演しました。
 ご覧になった方はお気づきのように、青森県の芸能は「着ぐるみ系」が多いのが特徴となっています。先般の開会式を「まるで動物園のようだった」と形容する方もいるくらいです。

 私も、この指摘を受け、はじめて気がついたのですが、そういわれてみれば確かにそうなのです。
 
 獅子舞は完全なる動物への変装ですし、青森県には、その他にも鳥に変装して踊る「鶏舞」、馬になって踊る「駒踊り」など、動物に変身して踊るスタイルが主要な流れの一つになっているということに気がつきます。

 鹿角を頭につけ、鹿の形態を模した「シシ踊り」は、青森県だけではなく、東北全般に共通していますが、ルーツがこれまでの研究では不明とされていました。

 その原因は、伝統芸能を「地域に限定した狭い枠」でとらえていたからだといわれるようになってきました。
 最近、世界の研究家同士で情報交換が進められるうちに、ある一つの共通見解が解答として浮かび上がってきています。

 青森県音楽資料保存協会の設立から現在に至るまで、本当にいろいろな方から専門的なアドバイスをいただき、深く感謝しているのでございますが、共通して聞かれるご意見は、「目を外に向けなさい」ということです。

 確かに、青森県の音楽文化を扱うので、青森県というフィールドを土台にすることは当然であるが、狭い地域ナショナリズムにとらわれていては本質を見失うおそれがある。
 視点を地球的規模でオープンに保ちつつ、その上で地域の伝統に深く潜行していく。そのことで、地域の特殊性を他との比較検討の上で明確にでき、また地球的規模で交換されている芸能の流れ、その根底に存在している共通した理念を知ることができる。
 逆説的なようだが、郷土のことをよく知るには、インターナショナルな視点に立つこと。これが研究の基本姿勢であるとの示唆を、少なからざる方々より受けました。

 確かに青森県のことだけを考えていたのでは研究者の姿勢としては不備なのかもしれません。

 郷土の芸能の箇条書き的記録はできても、それがいったいどのようなものなのか、本質的な部分を深く知るには、視点を大きく保ったところから得られる、地球的な規模での広範な知識が要求されるのかもしれません。

 実は、こうした視点に立って青森県の芸能を眺めると、かえってシンプルに青森県の芸能の本質が浮かび上がってくる場合があります。

 キーワードとなるのは「動物」です。特に「鹿」と「鳥」です。


 明日より、最近の調査で明らかになりつつある、青森県はもとより東北芸能の本質、その流れについて追跡してみることにしたいと存じます。

 (つづく)
 
(202)伝統の背後にあるもの その21 2004年 4月20日(火)
 【国境を越えた系譜 その2】

 シャーマニズム(シャマニズム)という言葉が学術的に定着しています。

 これは、もとはシベリアの地方語であったそうです。

 民族学では、現地語を、そのまま学術用語に転用する例は少なくないそうです。
 「シャーマン」という言葉は、ツングースのエヴェンキ語「サマン(無我夢中・狂乱した・有頂天のという意味)」に由来するもので、これがロシア語に入り、ヨーロッパ諸語に取り入れられ、現在は、世界共通の学術用語として用いられています。

 シベリア地方の習俗で特徴的なのは、一種の魔術師である「サマン(シャマン、シャーマン)」が、地域社会的に重要な役割を果たしている点です。


 17世紀から19世紀初頭にかけて、探検を目的とした旅行熱が高まりましたが、探検隊の関心は、こうした少数民族の不思議な習俗に向けられていたそうです。
 
 東アジアでは、シベリアが主たる研究対象になっていたようで、はじめのうちは、地理的に有利なロシア人学者が中心。
 やがて北欧、またオランダ・ドイツ・アメリカなどの世界の学者が参加し、調査が行われるようになりました。後になって日本からも参加メンバーがあったということです。


 ヨーロッパの人たちは自分たちとは異質の世界観にたいへんな興味を覚え、次々に調査隊を送ったそうです。

 1932年当時、ロシアの民族学文献だけで、およそ650点のシャーマニズム関係の研究論文があり、その後、世界各地の研究者によって書かれた研究論文や著作は、膨大な数にのぼるとされています。
 現在では、シャーマニズムは文化人類学の重要項目であり、人文科学の研究をしていく上で、避けて通ることのできない大きなテーマになっています。


 青森県をはじめとする東北の「動物スタイルの芸能」の本質を考えるカギが、実は、このシャーマニズムにあるとされているのです。

  (つづく)
 
(203)伝統の背後にあるもの その22 2004年 4月21日(水)
 【国境を越えた系譜 その3】

 昨日も触れたとおり、「シャーマニズム」が意識的に観察の対象となったのは、17〜18世紀、シベリアにおいてだといわれています。

 最初に、一種の魔術者である「シャーマン」のことを述べたのは、1692年に中国へ旅行をし、旅行記を刊行したモスクワ大公の使節、エーヴェルト・イスブラント・イデスと、同行のアダム・ブラントであるとされています。

 「シャーマン」は、シベリア地方といっても、ツングース系民族にかぎった現地語であり、彼らの生活に大きな指針を与えていた特別な職能者「サマン」が語源だといわれています。

 これが後に、シベリア地方全域の魔術師的な仕事に携わる人たちを総称するものとして使用され、ここより、シベリア諸民族の持つ独特な世界観が「シャーマニズム」と呼ばれるようになっていったそうです。

 その後の研究で、シャーマニズムは、極東地方からスカンジナビアにかけて広く分布する「北方ユーラシアの狩猟民および、一部の遊牧民に特有の観念とそれにまつわる儀礼の総体」ととらえられるようになりました。現在では、さらにそれが拡大しています。

 ベーリング海峡を越えたアラスカのイヌイット、北米大陸のインディアン、南米大陸の諸部族、加えてオセアニア、さらにアフリカ大陸でおこなわれている原始的宗教の一部。そして、東南アジアや中近東にも、シャーマン的機能を果たす人がいることが知られるにいたり、範囲は、地球のほぼ全域となってきています。


 かつてはシベリア地方のシャーマンのスタイルが標準としてとらえられ、それにかなうものが「真正シャーマン」、そこからはずれたものを「擬似シャーマン」としていました。

 日本には、明治時代、白鳥庫吉氏が「シャマン教」という形で導入したといわれていますが、これが民族学関係の文献に頻繁に登場するようになったのは昭和元年(1926年)ころからです。

 青森県でおなじみのイタコも、「真正」か「擬似」かをめぐって、多くの学者の間で白熱した討論がおこなわれたといいます。

 しかし現在では、「シャーマン」という術語は、シベリア地域の特殊な職能者を指すものではなく、「超自然的な存在、あるいはその領域に直接的に交流できる能力を有する職能者一般」という、包括的な見方がなされるようになってきているようです。
 
 地球規模でこういった職能者は普遍的に見られるものであり、たまたまそれがシベリアのツングース地方で最初に発見されたにすぎない。
 こうしたとらえ方により、「シャーマン」とは、ツングース族内の独特な形態であり、そこが本家・本流であるという考え方は、かつてのような力を持たなくなってきているということです。

 ところで、シャーマンに「遊び」に由来する表現があることが注目されています。

 シベリア地方はもとより、韓国でも巫祭を「遊び」という言葉であらわすそうです。
 青森県のイタコも「オシラ様を遊ばす」という表現を使い、なぜか、日本の芸能の中にも「遊ぶ」という表現は、「獅子を遊ばす」、神楽などで見られる「神遊び」など、「遊ぶ」という表現が、多方面に浸透しているようです。

 「遊ぶ」という言葉は、現在のようなレクリエーションではなく、シャーマニズムに関係したところから発したものだといわれています。その言葉が日本の芸能にも数多く用いられているということにより、シャーマニズムと芸能の深いかかわりが、最近検討されるようになってきています。

 そうしたシャーマニズムとの関係より、「着ぐるみ系」の多い青森県の芸能をとらえる重要なポイント、そのいくつかを、明日より見ていきたいと考えております。

 (つづく)


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