青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年4月(4)>

(204)伝統の背後にあるもの その23
(205)伝統の背後にあるもの その24
(206)伝統の背後にあるもの その25
(207)伝統の背後にあるもの その26
(208)伝統の背後にあるもの その27
(209)伝統の背後にあるもの その28
(210)伝統の背後にあるもの その29
(211)お知らせ
 
(204)伝統の背後にあるもの その23 2004年 4月22日(木)
 【国境を越えた系譜 その4】

 世界の伝説や神話の中で、英雄が動物によって他界に運ばれていく様子が描かれているケースは多いようです。

 悠久の昔より、動物は他界への導き手と考えられてきたといいます。

 空を自由に飛びまわり、大地を猛然と駆け抜け、人間の捕捉範囲を超えた鋭敏な感覚を持つ動物に対し、古代の人たちは畏敬の念を持っていた証拠が、いくつか残されています。
 特に、古い狩猟採集民の間ではそれが顕著だといわれています。


 彼らは、動物に変装し、その動物になりきることで、動物の言葉を理解し、その予知能力と神秘力にあずかることができると考え、そういった人物を「シャーマン」として、リーダー的な役割を与えていたといわれています。


 ところで、その「シャーマン」の発生ですが、もともとは狩猟の際に、動物の仮装をして近づけば、獲物が得られやすいという、一般的なところからスタートしたようです。
 その後、動物が得られないとき、動物に仮装し、実際に動物が現れる様子をまね、その通りになってほしいと祈願。
 ここより、動物の毛皮を着込み、動物のまねをし呪術をおこなうと、動物が獲得できるとの思想が生まれ、動物模倣者が専門の呪術師、すなわちシャーマンとして分化していったと考えられています。

 そうしてシャーマンは当初の動物獲得の範囲だけにとどまらず、共同体の安全や福利に関与するようになり、結果、彼らは、共同体のリーダーとして君臨していくようになったとみられています。

 こうして動物に変身し、動物の所作や声をまねたりし、「踊るシャーマン」が現れるようになったということです。

 この動物仮装でもっとも多いのは「鳥スタイルのシャーマン」だそうです。

 アメリカインディアンは特に有名ですが、鳥の羽を身に付け、鳥の扮装をして儀式に臨むシャーマンは、地球的規模で、かなり広範囲に見られるそうです。実際に羽を用いなくとも、腕に細長いヒラヒラをたらすなど、羽にみたてたりして鳥の格好をしている場合も少なくないそうです。

 これは、天上界と地上界をつなぐ聖なる動物として、大空を自由に飛びまわる鳥が最もふさわしいと考えられたからのようで、鳥に変身することで、異なる世界へと飛翔、天上界や冥界に自由に行けると信じられていたからのようです。

 ところで、シベリア地方ですが、鳥はもちろんのこと、シャーマンの動物擬態の主要なタイプとしてあげられているのが「鹿」と「熊」です。
 「熊」の方は、アイヌの人々にその精神性が受け継がれているようですが、今、ここで特に注目したいのは「鹿」の方です。

 シベリアのシャーマンは、動物に仮装し、片面太鼓を打ち鳴らしながら踊るのだそうですが、その様子は次のように記されています。

 特殊な服装(動物仮装)をしたシャーマンが登場。
 続いて太鼓、鈴、笛、その他の楽器が用意される。
 準備が整ったところで歌唱、そして音楽。
 この音楽に合わせ、体を前後左右に動揺させたり、震わせたりする。
 そのうちに立ち上がってジャンプしたり、体をぐるりと回転させたりする。さらには音律に合わせステップを踏んで踊るしぐさを見せる。

 この様子は、日本の東北地方で見られる「鹿踊り(シシおどり)」の芸態とよく似ていることが指摘されています。
 しかも、鹿の角を頭につけ、鹿の毛皮を身にまとって、鹿に仮装するとのことで、芸態のみならず、扮装まで、「鹿踊り」に共通しているのです。

 青森県の亀ヶ岡遺跡から宋銭が多数出土しているように、十三湊を通して青森県は、西日本との交流のみならず、大陸と古くから直接交流していたことが知られています。
 さらに時代をさかのぼった太古の時代にも、世界各地の文化的拠点と交流を持っていたことが、三内丸山遺跡や是川中居遺跡などに代表される巨大縄文集落の存在より予想されています。
 
 このことが現在、DNA鑑定などの結果より証明されつつあるということですが、かつて、大陸とは陸続きであり、歩いて来れる時代もあったということで、古くより、文化的交流があったこと自体は不思議なことではないといわれています。


 こうした文化交流によって、日本、特に東北地方に動物仮装のシャーマニズムの精神性が流入してきた可能性が指摘されているのです。

 (つづく)
 
(205)伝統の背後にあるもの その24 2004年 4月23日(金)
 【国境を越えた系譜 その5】

 日本の古い時代の研究が、縄文遺跡の発掘によって加速したことをうけ、古代日本列島への国境を越えた他地域からの文化的影響が考察されるようになってきました。
 シルクロードを通った文化的影響はこれまでも様々に指摘されてきましたが、最近は、もっと古い時代の文化的交流について、研究のメスが入れられています。
 そのきっかけになっているのが、縄文時代のこれまでの概念をくつがえす重要資料を提供する青森県内各地の縄文遺跡であるようです。

 ところで、「縄文カラー」とでもいえる、縄文人が特に好んだとみられる色の組み合わせがあるそうです。ご存じの方も多いと思いますが、「赤と黒」がそれです。

 赤色は後期には水銀朱も混合されていたそうですが、主としてベンガラ(第二酸化鉄)を、黒色には、炭や煤が用いられていたそうです。

 縄文土器や土偶が、赤と黒に彩色されていた形跡はよく知られています。これにより複雑な縄文文様が、当時は鮮明に浮き上がっていたそうです。
 さらに同様の彩色で耳飾や骨角器、さらに石器などもいろどられていたようで、ここより「赤と黒」の彩色は、縄文カラーと呼ばれることも多いといいます。

 ところで、シベリアのヤクート人も同様の配色観を持っているといいます。
 彼らは、赤と黒で描かれた神秘的マークを伝統的に利用しているのだそうですが、ちなみにこれは、人間と動物を表しているのだということです。


 ここでみられる「赤と黒」の共通した彩色観、これも歴史的な文化交流から生まれた共通した価値観、そのようなものの名残なのではないかと、とらえる人もいます。


 ダイナミックに活動していた古代人の様子が、青森県の遺跡などから明らかになってくるにつれ、自給自足的にささやかな定住生活を送っていたという古代人のイメージが、大きくくつがえされようとしているようです。

 私たちの祖先は、これれまで過小評価されてきましたが、どうも国境を越え、実にダイナミックに移動展開していたようだ。
 と、従来の古代人への既成概念が、このように大きく切り替わろうとしている流れを受け、日本の芸能の起源も、国境を越えた文化交流、その影響という広い視点に立って、眺められるようになってきているようです。

 そのような観点に立った事例報告として、例えば次のようなものがあります。

 シベリアの森林地帯に住むエヴェンキ族は、年に一度、全民族が聖なる石、岩壁、樹木の前に集まって祭りをおこなうそうです。
 祭りのクライマックスは、狩猟の幸の祈願。
 トナカイの皮をかぶり、頭に枝角をつけて動物に仮装した猟師たちが、最初に動物の繁殖を祈って仮装の雌雄の交尾のさまを演じます。
 そして次は出産。ついで狩猟の場面で、動物を誘惑するための呪術的踊りがおこなわれるのだそうです。

 現在では規制され、あまり露骨に演じられなくなったといいますが、関東以北で見られる三匹獅子舞でも、かつては雄獅子と雌獅子が、かなりエロチックな所作を見せることが一般的であったそうです。
 雄と雌の交わりを模した所作は、豊作祈願を意味する神聖なものとしてとらえられていたそうで、明治期あたりまでは、各村々で普通におこなわれていたといいます。

 シベリア地方で見られるのと同様の動物擬態による表現、また、その根底にある考え方が、ここで共通しているのは大変興味深いところだとみられています。

 上記シベリアのエヴェンキ族でおこなわれている祭りは、「鹿角シャーマン文化」の名残だとみられていますが、鹿角を頭につけたシャーマン文化は、ある独特の広がりを見せているといいます。

 実は、これに関する不思議な史跡が青森県の黒石市にあるのだそうです。

 (詳細は明日へ)
 
(206)伝統の背後にあるもの その25 2004年 4月24日(土)
 【国境を越えた系譜 その6】

 黒石市教育委員会より資料をいただいたのですが、その中に大変興味深いものがありました。地元の人が「しし石」と名づけている不思議な石(市指定民俗文化財)が、それです。

 黒石市の「獅子が沢」と呼ばれている場所に、「鹿の頭」を彫った石があるそうで、古くから地元の人たちは、これを「しし石」と呼んでいるのだそうです。
 これが最初に文献で登場するのは、菅江真澄の「追柯呂能通度(つがるのつと)」です。

 菅江真澄(本名・白井秀雄)は、三河出身の紀行家・民俗学者で、信濃・東北・北海道を遊歴し、その様子を日記やスケッチ画に綴りました。彼が津軽を訪れたときにまとめたものが「つがるのつと(1798年)」で、その中に、しし石のスケッチ画を残しています。 彼は、絵とともに、「岩の面に、鹿の頭の大なるも、ちいさくも、いくはくとなうひしひしとほりたる」との記述を残しています。
 その「しし石」ですが、安山岩で、1つが高さ約1メートル・奥行約70センチ、もう1つは高さ1.6メートル・奥行2.3メートル。大きい石には8頭分の枝角を持つ鹿の顔が、小さい石には2頭分の鹿の顔が彫られています。
 これが、どのくらい古いものかはまったくの不明だということです。県内には他に類例がなく、全国的にも、稀少な史跡だとのことです。
 ところで、3万年前から4千年前の中国内モンゴルの岩壁画にも、同じように鹿が多数描かれているそうで、中国ウイグル自治区には、西暦前3世紀から後7世紀の「鹿石」と称する鹿を刻んだ1メートルから、2メートルの立石がいくつもあるそうです。
 ひょっとして、この系列のものかともいわれていますが、詳しいことは、よくわかっていません。どうして、こういうものが黒石市に残っているのか謎だとされています。
 おそらく菅江真澄も同じように感じ、江戸時代にスケッチ画を残したのでしょう。

 ところで、不思議なことに、その正面を向いた鹿の顔は「シシ踊り」の頭にそっくりなのです。ここより、同地に伝わる「上十川(かみとがわ)のシシ踊り」に、これが関係するものではないかとみる人もいます。

 北海道のフゴッペ洞窟の岩壁に角のある人物(シャーマンとみられる)が描かれていますが、これとの関連を指摘する人もいます。同じ北海道の洞窟には、翼を持った人物像が描かれていますが、これは鳥シャーマンだとみられています。

 シャーマンは鹿と鳥スタイルが代表的であり、現在でも鳥の羽は程度の差こそあれ、シャーマンの衣装の記述の中では、いたるところに記されています。その範囲は地球規模にわたり広大なのですが、一方の鹿角を身につけたシャーマンの文化圏は、ある特徴的な広がりを見せているようです。
 
 1705年にロシア駐在のオランダ外交官ニコラス・ヴィトセンが、頭に鹿角のついたかぶりものをのせ、毛皮で身をつつみ、手には大きな太鼓を持っているシベリア・ツングース族シャーマンの絵を残しています。
 現在も、シベリア地方のシャーマンは金属製のレプリカの鹿の角をつけている人がいるそうですが、もとはこの絵にあるように本物の鹿角を使っていたそうです。ちなみに、鹿角をつけられるシャーマンは、かつては位の高い「大シャーマン」に限られていたそうです。
 
 さて、この鹿角をつけたスタイルなのですが、シベリアのシャーマンに限定したものではないようです。
 中部フランスのレ・トロワ=フレールのマドレーヌ期の洞窟に、大鹿の壁画があります。旧石器時代のものだそうです。一見すると鹿の絵のように見えるのですが、二本足で直立しており、毛皮をすっぽりかぶり、頭に鹿角をつけた人間の仮装のように見えるところから「踊る妖術師」と称されている不思議な絵です。別の洞窟にはカモシカに扮したダンサーの絵があるそうで、ここより、やはり、これは動物仮装した人間の姿ではないかという意見が強いようです。

 ヨーロッパでは、中石器時代のイギリス・ヨークシャーからも鹿角つきマスクが出土しています。また、目を中国に転じると、湖南省から前4世紀の鹿角のついたマスクが出土。
 アジアから太平洋を越えてアメリカ大陸に目を向けると、メキシコにも鹿角をつけたシャーマンと思われる人間の絵が残されています。
 また、アメリカのミシシッピー州南部からも鹿角をつけた仮面が発見されています。1200年ごろのものだといわれています。
 アメリカ大陸最北端に住むイヌイットの中にも、シャーマン的役割を果たす人がおり、やはり頭に鹿角をつけています。

 枝角のシンボルは、旧石器時代のフランス、中石器時代のイギリス、そしてアジアから北極圏を経由してアメリカ大陸に広がっているようなのです。

 (つづく)
 
(207)伝統の背後にあるもの その26 2004年 4月25日(日)
 【国境を越えた系譜 その7】

 以前は、鹿角シャーマンはシベリア独自のものとみなされていたようですが、最近は、昨日触れたとおり、日本も含んだ広範囲に鹿角文化圏が広がっているため、違った見方をされるようになってきました。

 シベリアは、他地域の影響を受けにくい隔絶した環境にあり、古くからの風俗がタイムカプセルのように温存され、それが調査隊の目にたまたま最初に触れた。これが現在の見方のようです。
 それに伴い、鹿角をシンボルとしたシャーマン文化の源流は、シベリア起源説が根拠を失ったことで謎となってしまいました。が、重要なのは、そのような本家・本元探しよりも、鹿角をシンボルとしたシャーマン文化の影響を東北地方の「シシ踊り」がなんらかの形で受けているという可能性です。

 こうして、シャーマン文化の観点から、東北、特に青森県の「動物仮装の芸能」を見ると、その本質がシンプルにとらえられるとの意見があります。

 青森県には鹿獅子系と熊獅子系両方の獅子舞がありますが、鹿と熊はどちらも北方シャーマンの聖なる動物です。そしてもっとも普遍的な鳥についても、青森県には「鶏舞」があり、遊牧民族にとって足となっていた馬も、「荒馬踊り」や「駒踊り」として、動物仮装のスタイルが残っています。

 霊鳥信仰がシャーマンと強く結びついていること、そしてこの「鳥シャーマン」のスタイルが世界的にもっとも多いことについては先の連載で、すでに述べました。
 青森県に伝承されている鶏舞ですが、その由来を紐解くと「霊鳥信仰の名残」であり、悪霊退散の神様としての鶏信仰がベースになった念仏踊りの一つだとされています。現在も、墓前で踊られることが多いようですが、死者との媒介役という発想は、伝統的なシャーマニズムの思想です。
 芸能に形式化、抽象化されているとはいえ、やはりシャーマンの伝統、その精神性が基層に存在しているといえるのかもしれません。


 日本の文化の特徴として、古いものを捨てずに、その上に新しく流入してきた形式をどんどん取り入れ、重ねていくという特徴が指摘されています。
 その性質からすると、明確にシャーマンのスタイルとして、鳥スタイル、鹿スタイルが分離せず、混合型となっていることが予想されますが、果たしてそのようで、シシ踊りの衣装に鳥の羽が使われることが少なくないとのことです。

 先日、フィン系ウゴル族のシャーマンの写真を見る機会がありましたが、羽のはえた鳥のような格好で胸に太鼓をつけていました。ここに獅子頭をつけると「シシ踊り」そのままの格好なのです。びっくりしました。

 青森県の一人立ち獅子舞は「鹿系」「熊系」、またはその混合形態が多いといいますが、獅子の衣装に鶏の羽が使われるケースが多いということで、シャーマンの動物擬態の「鹿」「熊」「鳥」が溶け合っている形と、みることもできそうです。


 二人立ちスタイルの獅子舞は、文字通り四足のライオンをイメージさせますが、二本足で直立して踊る一人立ちスタイルは「獅子」と名が付いてはいるものの、やはりイメージさせられるのは、二本足で直立する「熊」です。
 芸態、その動きも荘重で熊そのものです。
 熊獅子とはまことにピッタリのネーミングだと思います。

 アイヌの人々が持っている熊信仰は、シベリアシャーマンと共通するものですが、熊獅子にも、基底にはそういったシャーマン文化の名残が存在しているのかもしれません。

 その証拠というか、鶏舞だけではなく、一人立ちの獅子舞(鹿系・熊系ともに)も、念仏踊りとの強い関連を指摘されています。

 獅子頭をつけ、手に提灯を持って死者供養をしている古い絵も残されており、起源になんらかの形でシャーマニズムが影響しているとの見方もあります。
 そのためなのか、一人立ち獅子舞の方は、二人立ち獅子舞とは違って風流(ふりゅう)のジャンルに入れられることが多いようです。
 その風流思想は2月のバックナンバー「伝統芸能うんちく」で触れたように、シャーマニズムとは強い関連があります。


 さて、風流系の芸能にとってなくてはならないものが太鼓です。
 明日はその太鼓について触れてみます。

 (つづく)
 
(208)伝統の背後にあるもの その27 2004年 4月26日(月)
 【国境を越えた系譜 その8】

 シャーマンにとって、なくてはならないものが太鼓だといわれています。
 このシャーマンの必需品である太鼓は「シャーマンの馬」と呼ばれることもあるそうです。これは、太鼓を打ち続けることで忘我の境地に入る。つまり、太鼓の音がシャーマンの魂を異界に運ぶとの解釈より生まれた表現だとみられており、実際に太鼓に馬の絵が描かれ、馬の皮が使われることも少なくないそうです。

 鹿信仰の強いところでは、毛を取り去った鹿皮が使われているそうで、「われはシャーマン、野生のマラル(鹿)に乗って行く」と歌われ、太鼓を叩く地域もあるそうです。
 こういった地域では、太鼓によって、鹿の霊力を発動させられると信じられているそうです。

 さて、シベリアから中央アジアにかけてのシャーマンの太鼓は片面太鼓。木枠の片面に皮を張り、裏に十字に棒を組んでそこを握り、太鼓を片手で固定、もう一方の手でばちを持って打つスタイルが多いといいます。
 場合によっては、首から、太鼓を駅弁売りのスタイルで地面に平行にさげて胸で固定し、打つこともあるようです。
 このシャーマンの太鼓が韓国に入ると両面太鼓となります。日本の太鼓も両面太鼓ですが、これは朝鮮半島を経由した流れだと指摘されています。


 ところで、シベリアのオビ川下流に住むユラーク人のシャーマンは、呪歌の中で、太鼓のことを「弓」、あるいは「歌う弓」と呼んでいるそうです。
 こういったところから、シャーマンの太鼓は二次的なもので、弓の方が歴史的に古いのでは、とみる人も少なくありません。もちろん、その弓は狩に使われる道具ではなく、楽器として利用される弓です。

 実際、例えばテュルク系民族では、シャーマンは儀式で弓を使用するそうです。アルタイ地方でも、小さな弓を用いて儀式がおこなわれます。また、キルギスのシャーマンもコブツという一弦弓を使っているそうです。
 これらの弓は、矢を射るための道具ではなく、一弦琴、すなわち楽器として用いられているということです。
 しかもそれらは、打楽器的に弦を叩かれることが多いのだそうです。
 ちなみにアイヌのユーカラも、小さい弓の弦を指で叩きながら語られるといいます。

 古い時代に弓を楽器として用いる例は、青森県の是川中居遺跡からも興味深い遺物が出土しています。
 五種類の弓が是川中居遺跡より出土しているそうですが、実用的な120センチ、173センチのアララギの白木弓の中に、一本だけ不思議な弓が含まれています。
 これは全体の下地が赤色漆で塗られており、上面には、黒色染料を3センチの間隔で2本、細い平行線を描くよう彩色。さらに中央には文様として、より糸のかがりを巻くなど、たいへん豪華な飾り弓となっています。
 これは、しなわない柳の木で作られ、サイズも73センチと小型なところより、狩猟に用いられたものではなく、なんらかの呪具、すなわち、国境を越えた他地域で見られるような「楽器としての弓」ではないかとみられることが多いようです。


 弦楽器の祖は弓であるといわれています。
 古代人は、弓を射るときに、耳のそばで鳴る弦の振動音。その弓鳴りの音に何かを感じとり、その弓の音を専門的に拡張するために、弦楽器が発生したのではと考える研究者も少なくありません。その弓から直接的に発生したのが琴だとみられています。

 筝も琴も同じようなものだと考えがちですが、筝(そう)は弦の下に柱(じ)といわれる支柱を入れ、琴(きん)の方は、ヴァイオリンのように弦を押さえて音を出すものとして、楽器学では区別されているそうです。

 「コト」とは、古くは、「弦楽器一般」を指す言葉であったそうなのです。

 ところで、正倉院に残る中国の琴ですが、これは四弦で棒で叩いて弾くスタイルだといいます。千葉県から出土した古墳時代の埴輪も、四本弦の琴を、右手に撥をもって弾いている様子より、つまびいていたのではなく、弦を叩いて演奏した可能性が指摘されています。

 登呂遺跡からは、一枚板に弦を張るスタイルのものが見つかっているそうですが、こういった弦楽器の原形は、いずれも弓にあるといわれています。
 
 しかも、重要なのは、その弓は棒でたたかれ、打楽器的に扱われることが多かったという点です。

 打楽器的に弦を叩く・・。

 これは、青森県民にとってはおなじみのスタイルです。そうです。津軽三味線の演奏スタイルを彷彿させるものなのです。実はイタコを経由し、津軽三味線に受け継がれているとみられる古代シャーマニズムの影響が最近、注目されるようになってきているようなのです。明日はその部分について触れたいと存じます。

 (つづく)
 
(209)伝統の背後にあるもの その28 2004年 4月27日(火)
 【国境を越えた系譜 その9】

 実は、昨日も触れた青森県の是川中居遺跡から、縄文琴と呼ばれている木製品が数本出土しています。長さは約55センチ、最大幅7センチ前後の細長い三角形の板だそうで、彫刻のある頭部からは2センチほどの2本の角状突起が出ているとのことです。
 この突起と先端部のくぼみに弦を張ったのではないかとみられています。
 この種の琴は、弓から直接的に派生した楽器とみられており、奏法自体も、打楽器的に叩かれることが多かったのではと考えられており、昨日の赤漆塗の弓と合わせ、青森県にも弦を叩く音楽文化が、縄文時代の頃(あるいはそれ以前)より存在していたということが語られるようになってきています。

 腰を掛け、琴を膝の上にのせて弾いている人形埴輪(6世紀のものとみられる)は有名ですが、是川中居遺跡より出土した琴のサイズ(55センチ)は、膝の上にのせて演奏する際に適当な大きさだといわれています。

 「日本書紀」には、神功(じんぐう)皇后が琴を弾かせて神意を問うたという記述があるように、琴は元来シャーマニズムとは深いかかわりがある特別な楽器とされています。琴が直接的に弓から派生した点を考えると、これは納得できるところだといわれています。

 「お琴」とは言っても「お尺八」とはあまり言いません。「お」のつけられる楽器は琴だけのようですが、シャーマニズムに使われた法器としての神聖なるイメージが、伝統的に日本人の中に残されているためではないかと指摘する人もいます。

 さて、叩き弓は、日本だけではなく国境を越えた各地でも、琴のような弦楽器として、神意を問う道具から「音を楽しむ道具」にかわっていきました。
 その一方で、シャーマン自身は、古くからの伝統的な叩き弓を手放すことがなかったようです。日本の場合は、その叩き弓を「梓弓(あずさゆみ)」と呼んでいます。

 やかみしし あが大きみの 朝(あした)には
 とりなでたまひ 夕べには いより立たしし みとらしの
 あずさの弓の なかはずの 音すなり 朝がりに
 今立たすらし 夕がりに 今立たすらし みとらしの 
 あずさの弓の なかはずの 音すなり

 上記は万葉集(中皇命・なかつすめらみこと)の長歌です。
 ここに「梓弓」の記述が登場します。日本では伝統的に、あずさの木で作られた丸木弓の弦を竹の棒ではじきながらカミやホトケを憑着させる風習が、古くからあったそうです。
 資料として「新猿楽記(1030年頃)」に「巫女、口寄」の文が見られ、また「人倫訓蒙図彙(1690年)」には、箱の上に置いた弓を左手で固定しながら、右手に持った棒で叩いている巫女の姿、そしてそれを聞いて泣いている人が描かれ「くちよせ」と記されているということです。

 イタコも、イタコ道具を入れた箱の上に、麻縄の弦が上になるよう弓を固定し、これを篠竹の棒で打つそうですが、資料は、これとあまり変わらない情景を提示しています。

 現在のイタコは、動物の爪や歯などがつけられた「イラタカの数珠」をもみながら、歌をうたうことが多いそうですが、かつてはイタコも梓弓をよく使っていたそうです。
 イタコの最初の口寄せを「弓開き」、神つけの成功を「弓渡し」または「あいあずさ」とも言うところからも、「叩き弓」との深い関連が指摘されています。

 中国の古書「隋書」にも、人が死ぬと弓を持って弦を叩き、歌をうたって死者の葬儀をおこなったと記述されているといいます。
 これは口寄せではありませんが、死者の葬儀の際に弓を叩く風俗は、かつて中国にもあったようです。

 音色的に、梓弓はシャーマンが使う一枚皮の太鼓と似たような音だそうです。
 弓は古い時代には打楽器としてとらえられていたふしがあり、その伝統が日本にも伝播。他地域では消えてしまった習俗が、なぜか青森県では、イタコの中に、現在でも垣間見れるというのは非常に興味深いところだとされています。

 津軽三味線の創始、仁太坊の奥さんが、イタコ関係者であることが指摘されるようになり、この仁太坊が一緒にイタコ修行をしたこともあるとされており、彼がここで梓弓に興味を持った可能性に光が当てられるようになってきました。
 とすると、津軽三味線の一つの特徴的なスタイルとしてあげられる「叩き奏法」は、ルーツをたどっていくと、イタコを経由し、人類の古いシャーマニズムの系譜へとつながっていくことになります。


 是川中居遺跡の叩き弓とみられる赤漆弓、そしてその叩き弓の系譜とみられる津軽三味線が時代を超え、青森県では共存しているわけです。まことに不思議な場所だといわなければならないようです。

 (つづく)
 
(210)伝統の背後にあるもの その29 2004年 4月28日(水)
 【国境を越えた系譜 その10】

 シャーマニズムを機軸に伝統芸能を眺めると新たな展開が見えるとのことで、その観点からの研究が最近盛んになってきているようです。

 その種の貴重な資料が本県にはたくさん残されているようです。
 このような貴重な生資料を後世に残すことが、青森県音楽資料保存協会の役割でもあります。

 最近取り上げられることの多い事例より、興味深いものを最後に追加提示させていただきます。

 シャーマンの踊りです。この基本は20センチくらいの高さでジャンプしながら踊る「跳舞」にあるそうです。
 両足をそろえてジャンプすることもあるそうですが、激しく踊るときは、もっぱら片足跳びで回転するのだといいます。
 まさに「ネブタの踊り」の基本形が、ここに垣間見られるといわれています。
 ちなみに、小さな鈴を体につけていた例は古代の人々に多々見られるそうです。

 また、中央アジアではシャーマンのことをバクシという場合もあり、これは「歌をうたう人」の意味だそうです。
 シャーマンと音楽の密接なつながりを表しており、音の要素から離れたシャーマンの儀礼は考えられないとのことです。

 そのシャーマンの歌なのですが、動物の鳴き声を模倣したり、奇妙な声を発することも多々あるそうで、歌唱の際、例えば、特殊な高音を使うなど非日常的な発声法が使われることが、普通にみられるそうです。

 ところで、青森県にはホーハイ節という、ヨーデル風に裏声と地声を使う、他県には類例のない不思議な民謡(起源不詳とされている)があります。
 もともと霊山である岩木山で歌われていたものだそうですが、ホーイホーイ、ホイホイ、ヒュウヒュウなどの呪術的掛け声が全国にみられるそうで、こういった囃子言葉は、呪術的な効果を期待して発せられたという伝統を考えると、ホーハイ節の背後にも古代シャーマニズムの伝統が、もしかしたら横たわっているのかもしれません。詳しいことは、今後の研究成果が待たれます。


 かつて、コマンド諸島の銅島ではアレウト語が話されていたといいます。ところが、そこにロシア人が入ったことがきっかけとなり、ほぼ100年で動詞の活用がロシア語化したそうです。しかし、その後も歌われている民謡には、なんら変化はないのだそうです。

 上記の例からも伺えるよう、音楽的な感覚は、もっとも変化しにくい固定性を持つといわれています。

 これは、音感が感性の基層領域にあるためで、言語や衣食住の文化体系が変わっても、ほとんどこれは変化しないものだといわれています。


 ということは、青森県に残る音楽文化を保存し、それに対する考察を深めることで、青森県人とは何か、そういった本県のアイデンティティを知ることにもつながる。このようなことが期待されます。


 青森県、その本質を知るためにも、当協会を通して蓄積され始めている音楽資料は、後世において、様々な方面への貴重な情報を提供するのではないかと考えられます。(終)
 
(211)お知らせ 2004年 4月29日(木)
 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 誠に勝手ながら、本日より10日間ほど、パソコンに触れられない環境に身を置くこととなりますので、事務局日記は5月9日頃までお休みとさせていただきます。

 なお、連載の再開は5月10日(月)を予定しております。


 バックナンバーには多数、価値ある情報が詰まっております。この機に、バックナンバーを未見の方は、どうぞ過去情報をご参照いただければ幸いと存じます。


 新しい情報をいろいろ仕入れてまいります。どうぞご期待いただければと存じます。


 青森県音楽資料保存協会  事務局長


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