青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年5月(1)>

(212)情報発信再開です
(213)よみがえる十和田の歌 その1
(214)よみがえる十和田の歌 その2
(215)よみがえる十和田の歌 その3
(216)よみがえる十和田の歌 その4
(217)よみがえる十和田の歌 その5
 
(212)情報発信再開です 2004年 5月10日(月)
 ご無沙汰しておりました。

 当協会の定例総会が5月2日(日)に開かれました。
 それに合わせ、青森に戻り、いろいろな関係者と会いまして、生情報を多数仕入れて参りました。

 本日より、事務局日記を再開させまして、様々な価値ある情報発信に努めていきたいと考えております。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。


 総会の結果がホームページに反映されるまで、まだ少しばかり時間がかかりそうですので、主なものをここでお知らせいたします。

 ◆新副会長の就任
 北彰介副会長死去に伴い、新しく以下2名を副会長に選出いたしました。

・川越 晴美
(青森市民交響楽団団長)

・野村 正憲
(青森県立青森工業高校教諭/女声合唱団青森コール・マミ指揮者)


 戸塚範子現副会長(青森麦の会会員/青森県立青森商業高校教諭)に加え、三名体制で臨むこととなりました。


 ◆会則の語句修正
「会員」「賛助会員」となっていた部分を「正会員」「賛助会員」に改め、両者を総称する名称として「会員」という言葉を使用することといたしました。


 ◆年会費の改定
  正会員・・・三千円
  賛助会員・・・千円


  以上でございます。

  情報発信は明日より開始いたします。
 
(213)よみがえる十和田の歌 その1 2004年 5月11日(火)
 昨年の10月3日に次のようなお手紙をもらいました。

 掲載について、ご本人の承諾をいただきましたので、以下、その文面を掲示させていただきます。

・・・・・・・・・・

 前略

 10月1日付の東奥日報で貴協会の設立を知り、早速お便りさせていただきます。
 会の目的に添う資料かどうかはわかりませんが、次の2曲の保存をご検討くださいますよう、お願い申し上げます。

 「湖畔の乙女」
 「奥入瀬大滝の歌」
 作詩 佐藤春夫  作曲 長谷川芳美

 1952〜3年ごろ、詩人の佐藤春夫氏が、県立三本木高校の校歌の作詩を当時の校長に依頼され、下見のために十和田市を訪れ、十和田湖を遊覧されました。その折に詠まれた詩に、三本木高校の音楽教師だった長谷川先生が曲をつけたものです。

 当時は十和田湖遊覧バスのバスガイドが、十和田音頭とともに必ずこれらの歌を挿入しながらガイドをしていました。しかし自家用車の普及で、観光バスの本数が減り、ガイドはテープに変わり、歌はいつしか歌われなくなってしまいました。

 全国から大勢の観光客がこれらの歌を聞いて帰ったと思います。
 8年前にフルート演奏用に長谷川先生に編曲していただいたものを、十和田市でフルート演奏家に演奏してもらい、コンサートを主催したことがありますが、50才以下の人たちは知らないということで、ショックを受けました。

 作曲者の長谷川先生も亡くなられ、あの歌はどうなるのだろうと非常に心配しております。

 長谷川先生は当時のクラス担任であり、奥様もよく知っておりますので、お訪ねし、作曲された当時のお話を伺い、資料を貸していただくこともできます。

 今なら自筆の楽譜や当時の高校生による合唱テープ等が得られると思います。佐藤春夫氏の詩による十和田湖に関わる歌というのは貴重な作品だと思うのですが、いかがでしょう。

 美しい詩に、いい曲がついていると思います。

 このまま消滅してしまうのは惜しい気がします。


・・・・・・・・・・・

 65才の女性の方からのお手紙でした。


 なんとも心打たれました。そこで事務局より、次のような内容のお手紙を出したところ思いもかけない展開となっていきました。

 (つづく)
 
(214)よみがえる十和田の歌 その2 2004年 5月12日(水)
 音楽資料の保存に関しては、常々思うところがありました。
 それが「生きた保存」にするということです。

 保存に「生きた保存」も「死んだ保存」もないように思われるかもしれませんが、実は往々として「死んだ保存」の態勢になるケースが多いように感じられます。

 楽譜をお預かりして、それを保管庫に入れる。
 確かに保存といえますが、時間が経過すると作詩者、作曲者はもとより、どうしてその曲が生まれたのか、背景が次第に忘れられていくようになります。
 
 こうしてその曲は、ただの無味乾燥な文献的資料として取り扱われるようになり、人々の興味を引かないまま、歌われることなく、埃をかぶって保管庫の片隅に眠るようになります。
 これでは保存とは名ばかりで実質的にその歌は失われたも同然です。

 大量生産される商業音楽とは違って、地域より何らかの必然を持って生まれ出る音楽には、必ず背後に人間ドラマがあります。さらにそこに付随して、制作に携わった人達の喜怒哀楽があるものです。これらはいうならば楽曲の「魂」というべきもので、それを知って歌うのと、知らないで歌うのでは、歌の輝きに大きな影響を及ぼすということです。
 こうしたことを、心ある歌い手さんはよく知っており、作詩者・作曲者のプロフィールはもとより、曲が生まれ出た背景を調査、その後で、はじめて歌に取り組むという方は少なくありません。
 このようなプロセスを経ることで、より良く歌うことができるのだそうです。

 将来的に、楽曲がより良く歌い継がれていく参考資料として、単なる楽譜だけにとどまらない、楽曲の「魂」にあたる周辺情報、すなわち楽曲にまつわる「人間ドラマ」も同時に保存していくことは極めて重要なことだと考えております。

 地域から生まれ出た音楽は、単に「音」を発するというのではなく、楽曲に込められた地域の方々の「思い」を再確認、その「思い」を地域に、あらたに発信していくという役割があるように感じております。

 地域の人々の手作りとなる楽曲には、こうした特別な機能があるようです。

 ということは、そうした地域の人の「思い」が忘れられると同時に、その楽曲は取り上げられる機会が少なくなり、いつしか、その曲の存在自体が忘れられていくことにもつながっていきます。そうした事例を、実は数多く耳にしておりました。

 地域より生まれた音楽を後世に歌い継ぎ、「生きた保存」として残すためには、まず、その音楽が成立した背景、当時の方々の思いを伝えていく。その作業が大切だと常々感じておりました。
 こうした点について、お手紙をいただいた方にご説明申し上げ、ぜひ、楽譜だけではなく、楽曲の魂とでもいえる、楽曲の背景情報をいただきたい旨、お願いいたしました。

 そうしたところ、実にたくさんの資料情報をいただきました。年月が経過すると、これらの多くは風化してしまいますので、今、楽譜と同時にこのような情報をいただけたのは、本当にありがたいと思っております。

 さて、さらに、僭越ながら、「歌というのは、楽譜の紙の上で保存しているだけでは意味がありません。人から人へと歌い継がれていくことが、本当の意味での『生きた保存』につながるのではないか。そのような方策が考えられないものか」と、ご提案申し上げましたところ、嬉しいお返事が届きました。

 「生きた保存」につなげていくため、十和田湖畔、乙女の像の前にて「湖畔の乙女」と「奥入瀬大滝の歌」の歌う集いを立案。
 当初は20人ぐらい集まればと思っていたところ、現在のところ100名近い申込みがあるそうで、うれしい悲鳴を上げているそうです。青森県外からの参加者も少なくないとのことです。


 昔懐かしい歌を、なんとか守っていきたい。このような思いをもたれる方が多数おられることに事務局としても驚いております。歌の集いは、5月22日(土)に催されるそうです。
 乙女の像の前で、昔なつかしい歌を歌いたい方は、当日、午前10時に、十和田湖畔、乙女の像の前にお集まり下さいとのことでした。

 何十年かぶりで、美しい歌が、十和田湖畔に響きわたるようです。

 (つづく)
 
(215)よみがえる十和田の歌 その3 2004年 5月13日(木)
 天から降りてきたのか
 湖水の泡が寄り集まり、形となったものなのか
 ああ、美しい
 湖畔の乙女(の像)よ
 二人向かい合って
 何を語り合っているのだろうか

 春の桜か秋の紅葉か
 十和田湖の清らかな水のことか
 あるいは 美しい
 永遠のわが身のことか
 そうではなく 三人の
 懐かしい人たちのことを 語り合っているにちがいない


 これは「湖畔の乙女」の原詩を現代語に訳したものです。

 実は、この歌の成立の背景には、三本木高校の存在が大きく関係しています。

 作曲者の長谷川芳美氏(大正3年生まれ)は三本木高校と深い縁のある方でした。
 長谷川氏は代用教員として勤めたものの、一時、学校を離れます。しかし、その後、再び三本木高校に赴任することになったということで二度、三本木高校に来ています。よっぽど縁があったのでしょう、とは、かつての教え子さんのお話。

 その三本木高校ですが、前身は女学校だったそうです。
 それが昭和24年の4月、三本木高等学校と改名。男女共学となりました。
 これを受け、男女共学にふさわしい新校歌を求める声が上がったのだといいます。


 こうして、8代目校長であった佐藤勇介氏をはじめとする学校関係者の希望により、作詞を佐藤春夫氏にお願いすることになったのだそうですが、依頼は難航します。



 佐藤氏といえば、当時は大変に有名な詩人であり、地方の校歌の作詞にはなかなか意が進まなかったようです。
 校長が二度にわたって上京し、お願いしてもダメだったそうで、とうとう三回目には当時の生徒会長まで一緒に陳情に行くことになりました。
 こうした関係者の熱意が、ついに大詩人の心を動かすことになり、佐藤氏の承諾をようやく得る運びとなったのだそうです。


 作曲は「やしの実」で有名な大中寅二氏に依頼。大中氏は、長谷川芳美氏の国立音大のときの恩師でした。


 こうして三本木高校の新校歌は昭和26年2月に完成。ギリギリ3月に、校歌制定に奔走した生徒達を、新校歌で見送ることができたそうです。関係者は、感無量であったに違いありません。



 さて、昭和26年の5月の末、佐藤春夫氏が新校歌発表会の席に、右足が不自由であったにもかかわらず、ご夫婦で、わざわざ三本木高校を訪れることとなりました。


 実は、この三本木高校と佐藤春夫氏の出会いによって、青森県にとって重要な記念像、そして新たな音楽作品が、後に十和田の地に生み落とされることになるのです。が、それは、まだこの時点では誰も予想していないことでした。

 (つづく)
 
(216)よみがえる十和田の歌 その4 2004年 5月14日(金)
 さて、三本木高校の校長と長谷川芳美氏の案内で、十和田湖の大自然に、佐藤春夫氏は触れることとなりました。
 遊覧船で子ノ口から休屋まで行ったそうですが、途中、長谷川氏と校長が十和田湖についてあれこれ説明をしたところ、佐藤氏は少し不機嫌な表情となり「黙っていてくれませんか。自然の英知をかみしめていたいのです」と厳しく一喝されたそうです。
 このとき、佐藤氏はただ黙って十和田の渓流、そして遊覧船に乗っては十和田湖の湖面をじっと見つめていたそうです。そして、最後に遊覧船を降りるとき「これだけの自然が残っているとは・・・」と、一言、ポツリと語ったといいます。
 こうして、たいへんな感銘をこのとき十和田の大自然から受けたと佐藤氏は後に語ることになるのです。

 帰途、佐藤氏は、太宰治氏とも親交があったため、太宰氏の兄であった津島文治県知事に会い、打ちとけた関係を作ったといいます。

 その後、昭和28年、十和田国立公園指定15周年を記念して、十和田湖を世に紹介した3人の功労者を顕彰する、記念モニュメント制作のための委員会(顕彰会長 津島文治)が青森県に設置されました。(事業自体は昭和25年頃より進められていたとのことです)

 その3人とは、まず大町桂月氏であり、彼が明治41年に雑誌「太陽」に十和田湖のことを紹介したことがきっかけで十和田湖が世の脚光を浴びるようになったこと。それが顕彰理由とされました。あとの二人は、十和田湖開発に尽力した元青森県知事の武田千代三郎氏、そして元法奥沢村長(現 十和田湖町)の小笠原耕一氏です。

 この顕彰記念碑制作の依頼をするため、当時副知事であった横山武夫氏が、ある芸術家とコンタクトをとっていました。
 
 その人の名は高村光太郎。



 当時、高村氏は妻の智恵子を亡くし、一切の芸術活動から遠ざかり、岩手県の山中、太田村に引きこもっていたそうです。

 その高村氏に、横山副知事が幾度も依頼しますが、承諾を得ることができないでいました。こうした状況に強力な味方が現れるのです。
 
 それが佐藤春夫氏でした。


 佐藤氏は高村氏と親交が厚く、高村氏の説得役を引き受けてくれたのだそうです。

 不自由な体をいとうことなく、佐藤氏は昭和27年の7月、わざわざこのためだけに太田村近くの志戸平温泉に行き、高村氏と会うこととなります。


 この佐藤氏の説得を聞き入れ、高村氏は「十和田湖の自然が、自分の創作意欲をかきたたせてくれたならやりましょう」と、ついに重い腰を上げることになるのです。

 こうして高村氏は、昭和27年、詩人の草野心平氏らとともに十和田湖を訪れるのです。

 (つづく)
 
(217)よみがえる十和田の歌 その5 2004年 5月15日(土)
 三沢駅に到着した高村光太郎氏らを長谷川芳美氏が迎えたそうです。長谷川氏によると、高村氏の姿はレインコート、レインハット、それにリュック。
 いかにもという、野人的スタイルが印象に残っていると語っています。

 高村光太郎氏はこうして十和田湖を訪れたのですが、十和田湖の大自然にたちまち心を奪われたようです。そのときの感動を彼は「十和田湖は永遠に汚れを知らない乙女の姿である」と語ったといわれています。そして彼はついに「乙女の像」の制作に取り組むこととなったのでした。

 あまり知られていませんが、十和田湖の象徴である「乙女の像」制作の背後に、佐藤春夫氏の尽力があり、彼の高村氏への働きかけがなかったら、おそらく「乙女の像」は生まれなかっただろうといわれています。

 なぜ佐藤氏が高村氏に働きかけをおこなったのか。それはいうまでもなく、佐藤氏も十和田湖の大自然に深く魅了されていたからであり、芸術家として、十和田湖に関わることは誠に意義あることだ、と高村氏を説得したのだろうと推察されます。


 さて、「乙女の像」の完成に佐藤氏も祝いとして詩を青森県に寄託することとなりました。それが「湖畔の乙女」なのです。
 「湖畔の乙女」の詩の前文には、十和田湖畔の記念碑を祝して高村光太郎氏に捧げるとの内容の一文が、佐藤氏によって付記されています。


 
 乙女の像が二人対峙しているのは、十和田湖で高村氏が船に乗ったときに、湖水に映った自分の姿からの発想だといわれています。ちなみに、同型のものを向かい合わせた像は、当時、世界ではデンマークと十和田湖の「乙女の像」ぐらいのものであったということです。

 「乙女の像」の肉体的モデルは当時25才前後であったプロモデルの藤井照子さんですが、顔は亡き妻、智恵子さんの面影をとどめているそうです。


 ところで、佐藤春夫氏の「湖畔の乙女」ですが、佐藤氏と関係の深い三本木高校の生徒達に歌ってもらいたいという希望が出ました。

 
 それならば作曲も三本木高校の音楽教師である長谷川芳美氏にということで、「湖畔の乙女」の作曲依頼が長谷川氏にきたそうです。
 長谷川氏の奥様に伺ったところ、長谷川氏は作曲にあたって、ずいぶん苦労されたそうです。

 (つづく)


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