青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年5月(2)>

(218)よみがえる十和田の歌 その6
(219)よみがえる十和田の歌 その7
(220)よみがえる十和田の歌 その8
(221)よみがえる十和田の歌 その9
(222)十和田の歌  後記
 
(218)よみがえる十和田の歌 その6 2004年 5月16日(日)
 さて佐藤春夫氏より長谷川芳美氏のもとに、詩の国語的解釈について、葉書2枚にわたって解説が届けられたそうです。これをもとに、長谷川氏は、昭和28年の2月より実に8ヶ月の歳月をかけ、曲を完成させていったそうです。

 長谷川氏の奥様に伺ったところ、夜中、楽譜をじっとにらんでいた姿が印象に残っているそうで、ふとんに入りながらも楽譜をはなさず、思索していたといいます。

 大詩人の名を汚してはいけないとの大変な苦労があったようです。



 こうしてついに完成した曲は、昭和28年の10月21日、「乙女の像」除幕式で歌われることになりました。あいにくの秋雨だったそうですが、長谷川氏の指揮のもと、三本木高校30名ほどの女子音楽部の皆さんによる「湖畔の乙女」の歌で、「乙女の像」が除幕されました。
 あのときの小雨が、かえって十和田湖の神秘さをかもしだしていた。と、後に長谷川氏は述懐されています。


 生徒さんたちは直前までバスの中でも一生懸命練習を続け、本番は、緊張の連続。ただ、ただ夢中で歌ったそうです。


 その歌を、来賓席で佐藤春夫氏、そして高村光太郎氏が、さらには袴姿の詩人 草野心平氏が聴き入っていたそうです。

 この3年後、「乙女の像」に精魂を傾けた高村氏は、世を去ります。
 高村氏にとってこれは、最後の大きな仕事でした。その遺作となった像が、十和田湖畔に「湖畔の乙女」の歌と共に誕生、それ以来、この「乙女の像」は十和田湖の象徴となっていくのです。


 さて、この除幕式の10年後、「湖畔の乙女」が、高石かつ枝さんの歌により、コロンビア・スタジオでレコーディングされることになりました。

 このとき、作曲の長谷川氏はもちろん、作詞の佐藤春夫氏も、体調不良にもかかわらずスタジオにかけつけ、セーラー服姿で歌う高石さんを指導したそうで、その当時の写真も残されています。

 
 自分の作品がレコードになったのは戦前に一度あったが、流行歌手が自分の詩を歌うのは初めて。低俗な歌が多い最近のレコード界に健全な歌が少しでも聞かれれば、と佐藤氏は笑って語っていたそうで、長谷川氏の楽曲に大いに満足していたそうです。

 歌手の高石さんも「まずもって詩の美しさにひかれ、こうした曲を歌うことに対し、責任を感じている。高校生の間で流行らせたい」と、大変な意気込みで吹き込みをおこなったそうです。
 その後、高石さんは、コロンビアからクラウンに移籍するところとなり、残念なことに、好評だったレコードは、倉庫入りしてしまったということです。

 後日、ある歌手によって、再び録音されたそうですが、高石さんほどの反響は呼ばなかったということです。

 (つづく)
 
(219)よみがえる十和田の歌 その7 2004年 5月17日(月)
 「乙女の像」の台座に、記念像についての格調高い由来記があるそうです。
 これは横山武夫副知事が、県の原案を佐藤春夫氏に示し、加筆・訂正の依頼をして仕上げたものだそうです。

 昭和35年に青森県を訪れた佐藤春夫氏は、53年前に母と浅虫の旅館に泊まったのが初めての青森訪問。それ以来、たびたび来ているが、特に高村光太郎氏との関係から十和田湖との縁が深くなり、たび重なるにつれ、十和田のよさがわかってきた。
 このように語っているとおりに、十和田を中心に、県内あちこちを訪ね、格調高い歌や句、そして文を生み出していきました。

 当協会で調査したところ、佐藤春夫全集の中に「奥入瀬谿谷の賦」と「湖上吟」という十和田湖を歌った詩。そして、「あすなろう」という青森市の内真部(うちまっぺ)のヒバ林をうたったものなどが掲載されていることがわかりました。

 ところで、奥入瀬渓流の銚子大滝の岩壁に佐藤春夫氏の直筆の詩が彫られています。

 その大きな岩壁は、佐藤氏みずからが探しあてたものだそうです。
 ここに「奥入瀬谿谷の賦」の反歌として約40字が刻まれています。

 原詩は9連よりなる長いものですが、その補足、大意要約という意味で短く圧縮された文面が、銚子大滝の下流30メートルほどの地点に刻まれています。

 ちなみに原詩は、別の場所の木製の案内板に記され立っているそうです。


 この文字を刻んだ石碑も、大きな自然の中にやがて苔むし風雪に消されていくことになるだろうが、それでいい。これが佐藤氏の考えであったということです。

 しかし、なぜこの詩を刻んだのか。
 それは次のようなエピソードがあったからだといいます。

 実は長谷川芳美氏は、佐藤春夫氏の二つの詩に曲をつけています。一つは昨日まで触れてきた「湖畔の乙女」。もう一曲が「奥入瀬大滝の歌」でした。

 「乙女の像」建立を祝って、この二編の詩が青森県に寄託されたのだそうですが、佐藤氏は「奥入瀬大滝の歌」の旋律をことのほか気に入っていたそうです。

 「奥入瀬谿谷の賦」の反歌として、自然石に刻まれたのはこの「奥入瀬大滝の歌」の歌詞だということで、その動機となったのは長谷川氏の美しい旋律にあったようです。

 ところで、長谷川芳美氏とはどのような方だったのでしょうか。

 これは、三本木高校でのクラス担任ということで指導を受けられ、当協会にお便りをいただいた方に、直接語っていただきたいと思います。

 (つづく)
 
(220)よみがえる十和田の歌 その8 2004年 5月18日(火)
 (昨日のつづき)

 昭和25年春、我家は父が弘前大学の講師を辞めて、三本木高校の教頭になったので、弘前市から三本木町(現十和田市)へ転居しました。
 
 小さな田舎町は普段、通りには人影もまばらなのに、秋、大通りに面した稲荷神社の大祭には、通りが歩けない程の人出で賑わいました。
 
 宵宮の日、神社近くの自転車屋の二階が開け放たれ、人だかりがしていました。

 近づくと燕尾服に蝶ネクタイの男性5〜6人が管弦楽を演奏していました。

 三本木文化連盟の演奏会とのことで、ヴァイオリンを弾きながら指揮をとっていた人が主宰者の長谷川芳美先生でした。

 背が高く、背筋がすっと伸びたヴァイオリンを弾く姿が素敵に見えました。

 文化的には弘前の方が進んでいると思っていた私は、この町で初めて、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、確かアコーディオンもあったと思うのですが、弦楽器の生の演奏を聴いて感激しました。
 あの時の曲は「ラ・クンパルシータ」「蒼空」等だったと後で知ったのですが・・。


 昭和26年、佐藤春夫氏が三本木高校を訪れた時、女子寮の寮監もしていた父は、新制高校にふさわしい寮の名前をと、佐藤氏に所望して「薫風寮」と名付けてもらいました。
 その直筆の看板は、昭和30年、父が田名部高校の校長となって転任後、盗難にあい、行方不明になったそうです。


 ある日、学校から続いている廊下から、七三に分けたロマンスグレイの端正な顔立ちの老人が現れ、ぽっちゃりとした感じの夫人が、その後からついて来られました。

 見物に立っていた中学生の私をぎょろりと一瞥して、父の先導で、寮監室に入って行きました。その人が佐藤春夫氏でした。

 (つづく)
 
(221)よみがえる十和田の歌 その9 2004年 5月19日(水)
(昨日よりつづく)

 昭和28年、私が三本木高校へ入学した年の10月21日、乙女の像除幕式の日、長谷川芳美先生と三本木高校の女生徒30名が除幕式の歌を歌いに、十和田湖畔休屋へ行きました。
 
 その後、長谷川先生が毎年春に十和田観光電鉄のバスガイドに指導に行かれ、観光案内でも歌われるようになり、当時、十和田観光には欠かせない歌となっていました。
 町の人が数人集まると歌う事ができるというくらいにポピュラーな歌でもありました。私も友人達と奥入瀬から十和田湖を訪れる時には、銚子大滝と乙女の像の前で必ずこの歌を歌いました。

 落ちたぎり 急ぎ流るる・・・

 曲は、詩想と良く合って、人生について思索する年頃の私達は、少しセンチメンタルになって歌ったものです。私の仲間は、皆この歌が好きでした。



 それから私は田名部から進学のため上京し、青森県を離れましたが、父は十和田工業高校設立のため再び十和田市に戻りました。
 開校後、長谷川先生を音楽講師に迎えて、父の友人でもある横山武夫氏作詞、長谷川先生作曲の校歌を制定しました。

 父の家から長谷川先生の家までは歩いて10分位だったので、父は散歩の途中、よく長谷川先生宅に立寄り、「何かピアノで弾いて下さい」と言っては先生の演奏を聴いていたそうです。

 10年程前、十和田市で若い人とこの歌について話す機会がありましたが、どちらの歌も「存在すら知らない」というので愕然としました。

 歌の誕生から50年以上が過ぎ、それ以来、十和田湖を訪れる度に、あの歌の消滅を危惧しておりました。
 そんなとき「歌は歌い継いでこそ本当の保存」 という青森県音楽資料保存協会からのお手紙に触発され、長谷川先生の奥様のご了解と賛同者を得て、この度、歌う会を催すことになりました。

 当日は長谷川先生から指導を受け、今も音楽活動をしている数名がヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ等で伴奏を受け持つことになっております。


 十和田湖、乙女の像、新緑を背景に弦楽の美しい伴奏で大合唱ができたらと思っております。どうぞご参集下さい。

 (完)
 
(222)十和田の歌  後記 2004年 5月20日(木)
 私事で恐縮なのですが、以前、ある幼稚園に頼まれ「幼稚園音頭」を作曲したことがあります。幼稚園を起点に地域の人たちの心をつなぐ何かが欲しいということで依頼を受けたのですが、たった3分の曲を作るのに1年近くかかりました。

 歌詞は幼稚園の先生方、振付は近くの日本舞踊のお師匠さん、そして保護者会、また幼稚園の園児さんたちと協同作業をおこない、何度もダメ出しをおこない、共に笑ったり、泣いたりしながら、ようやく楽曲を完成させました。

 完成後3年間は歌い継がれましたが、5年近くたった現在では、ほとんど歌われなくなっているようです。

 理由は人事異動で、音頭制作に直接かかわった先生がいなくなってしまったからだといいます。
 園児さんも卒園し、制作にかかわった保護者の方も幼稚園に来る機会もなくなり、こういった楽曲が存在していること自体、忘れられているようです。

 当時、楽曲の制作にかかわった人たちは、自分達の思いの結集した楽曲を、地域の誇りとして大切にしていこうと話し合ったものですが、こうした背景情報を知らない人が増えてくるにしたがい、ロッカーの片隅に楽譜がある。なんだろうこれは・・?という扱いに次第になってきているようです。

 楽譜は捨てられることはないでしょうが、演奏される機会は、ますますなくなっていくのではと考えています。

 地域より何らかの意味を持って生まれた音楽は、単に「音」を発するというのではなく、音の背後にある、地域に寄せる多くの人々の「思い」を確認し、その思いをあらためて地域に発信するという役割があるようにも感じております。

 そうした地域の人の「思い」が忘れられるにつれ、楽曲を取り上げる意義がなくなってくるのは、ある意味当然なのかもしれません。

 したがって、地域の歌を残すためには、楽曲が成立した背景、当時の人たちの思いをまず伝えていくこと。これが一番大切ではないかと感じております。こうした目に見えない当時の人たちの思いをかみしめて歌をうたう。こうしてこそ曲は魂を得て、生きたものとなるようにも思います。

 十和田湖に関する二つの歌の背景情報を提示いたしましたが、そういった点でのお役に立てればと願っております。

 5月22日の土曜、十和田湖畔に、十和田湖に魅了された人々の思いが何十年かぶりによみがえり、この二つの歌に乗って、先人の「思い」が十和田の地にこだまするのではないかと拝察しております。

 こういったきっかけを与えられたということは、私たちとしても大きな喜びであり、失われつつある青森県の楽曲が、一曲でも多く、このようにして命を吹き返していくことを願ってやまないところです。


 一通のお手紙からはじまった「保存への思い」。
 それが、先日いただいたお手紙によると、百名を超える大合唱になりそうだとのこと。私は東京にいるので十和田に行けませんが、当日、合唱の時間に合わせて、佐藤春夫氏、高村光太郎氏、長谷川芳美氏、そして乙女の像に関係した、たくさんの青森県関係者の皆様に思いをはせまして、楽曲を一人口ずさむことにしたいと思っております。


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