(223)北 彰介氏 追悼 |
2004年 5月21日(金) |
お亡くなりになられた場合には、会則により、会員ご本人は退会扱いとなりますが、昨年お一人、そのような形で退会された方がおりました。
北 彰介
氏です。
5月2日、全員で北氏に黙祷を捧げ、定例総会をスタート、ホームページの「組織」のコーナーにあった「副会長・北彰介」の名も入れ替わることとなり、先日、ホームページの内容更新によって、北氏のお名前は、ついに消えました。 バックナンバーから昨年の「10月28日の事務局日記」をご参照いただければおわかりいただけると存じますが、北氏は当協会の大黒柱でした。 青森県音楽資料保存協会がこれから発展していこうというまさにそのとき、予期せぬ形での北氏の退会に、まだ、ショックの余韻が少しばかり残っております。
当協会の新年度事業スタートに伴い、北氏の名は消えていくことになりますが、ここで最後に、北氏追悼の意を込め、小倉尚継会長より寄せられた一文を掲載し、北氏の名を送りたいと存じます。
【北彰介さんご逝去】
ブルービーバーズ(男声四重唱団)の最初から、作詞でお世話になっていた北彰介さんが、平成15年10月末日に亡くなられました。これまでのご厚意、ご協力及びご指導に深く感謝申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。 ご存じの方も多いと思いますが、北さんは青森県文化賞をいただいておられます。それは児童文学における功績が認められたからだと思いますが、私たちブルービーバーズの作品もたくさんございます。なにしろ、ビーバーズがどう進んだらよいか、いろいろご相談に乗っていただいた頃もあったわけですから、作詞の数も多くなったのです。 北作品によってビーバーズが支えられたといってもよいほどです。
北彰介作詞の最大のヒット曲は「雷様の話」「キンキラキンのキン」です。 北先生は楽しい方で、こんなユーモアのある面白い話が大好きな方です。 面白くてスリルがありますので、東京で演奏しても大受けでした。
また「津軽の糸」は大作ですが、これも感動的な内容です。
そのほか「地獄から帰ってきた男達の話」「小僧っこまだだが」など、どんなにたくさんの人々を笑わせたことでしょう。
平成16年6月6日、青森アカデミー混声、ドクターズ・レディースのジョイントコンサートで北先生の追悼ステージを設定し、先生の作品の一部を演奏させていただきます。天国からどうぞお聴きください。
北さんの仕事ぶりは猛烈なもので、殴るように書かれた原稿を拝見すると、その勢いがわかります。 まるで、版画を彫る志功さんのようです。
平成12年の青森県民文化祭における、オペラ「うとう物語」(北彰介作詞・木村一三作曲)が無事上演されたのも、北さんの並々ならぬ意気込みがあったからです。
あの時も様々な障害があり、途中で消えてしまうのではないかと心配しましたが、執念にも似た意志の力で、とうとうやり遂げてくださいました。青森県にとって大事な文化的実績でした。
北さんの作品によって子ども達は夢を抱き、大人達は大いに笑い、泣き、生活に希望と潤いをもって生きていくことでしょう。
長い間本当にありがとうございました。
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この文面のほかにも、「メンバーの声」の原稿が、久々、小倉会長より来ています。 (明日掲載)
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(224)ブルービーバーズ その1
| 2004年 5月22日(土) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿です。
青森県を代表する男声四重唱団であったブルービーバーズについて語られます。
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(1)誕生
昭和33年頃、弘前大学教育学部音楽科が、演奏会を開いたり、演奏旅行をする際は、プログラムに男声四重唱の1ステージを設定していた。
その構成員は学年の近い4人、小倉尚継・野呂馨・野倉盛夫・奈良武則で、伴奏は西谷安正が務めていた。
卒業しても、なお、演奏会を続けようと「耕音会」という団体が作られ、何度か総合演奏会がおこなわれた。 やはり上記の男声四重唱のステージは、プログラムの中に設定されていた。
この耕音会の中より、男声四重唱の演奏だけを取り出して、単独の音楽会を開こうと、三沢高校勤務の野倉盛夫、青森西高校勤務の小倉尚継が中心になり、準備が進められた。
野呂馨は五所川原高校、奈良武則は下北から田舎館中学校に転勤。伴奏の西谷安正も、下北から青森明の星高校に勤務していた。
時機到来。
昭和39年に正式結成。声を合わせるには、わりに近いところにいるので、曲目を決め、練習を続け、ゴールデンウィークに仕上げをした。
そして昭和40年5月8日、耕音会男声四重唱団として、第1回リサイタルが行われたのである。
これがブルービーバーズの誕生ということになる。
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明日はブルービーバーズ命名秘話 (つづく)
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(225)ブルービーバーズ その2
| 2004年 5月23日(日) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その2です。
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(2)命名
耕音会男声四重唱団が発足した当時、中央ではダークダックス、ボニージャックス、デュークエイセスなどの男声四重唱団が華やかに活動していた。
わが耕音会男声四重唱団が第3回目のリサイタルを迎えるにあたり、上記のような固有の名前がほしくなっていた。
練習の合間に5人で知恵をふりしぼり、新しい名称を考えようとしたが、なかなかよい名前が思いつかない。
青森の青だから「ブルー」がいい。5人の頭ではそこまでで、あとは全然思いつかない。
ここで、過去に萩野昭三先生を中心に歌った団体を思い浮かべてみた。その名前がブルービーバーズだったのである。
構成員は萩野先生・小倉尚継・山口道廣・県病の黒滝先生・市役所の池辺さんなどであった。
「ブルー」は青森の「青」だけでなく、「若さの青」も表す。ビーバーズとは「やんちゃ者」とか、物を貯めるということを表すからいいね。これをいただこうか、ということになった。
こうして「ブルービーバーズ」と決定したのである。
ちなみに頭文字をとるとBBになり、当時、世界的人気女優だったブリジット・バルドーのイニシャルと一致すると喜んだ人もいた。
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(事務局注) ブルービーバーズをその後の新聞記事で「青いウミダヌキ」と訳して表記した方もいらしたようです。しかし、これはちょっと・・・・
明日は、レパートリーについて触れます。
(つづく)
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(226)ブルービーバーズ その3
| 2004年 5月24日(月) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その3です。
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(3)レパートリー
はじめは中央の既製の曲を取り上げていた。 しかし、いくら歌っても何かが足りない。
もちろん、技術的に劣っていることもあるが、時間をかけた分、充実感が出てこないのである。
そういえば、第1回の「なんげえむがしこ(雷様の話)」や、第2回目の「キンキラキンのキン」が異様に受けたところをみると、お客さんの欲求は、オリジナル作品にあるのではないか。私達にしても、ダークダックスやボニージャックスの真似事ではなく、津軽に住む者でなければ出来ないものを歌いたいものだ。
そうだ、津軽のオリジナル作品だ。 青森から中央に文化を発信するのだ。
こうして北作詞・小倉作曲のコンビで、たくさんの津軽の歌ができはじめるのである。後に北先生が児童文学研究会の会長として多忙になり、小倉の作詞作曲の作品が数多くできあがった。
【オリジナル作品名(完成順)】
◆北彰介作詞・小倉尚継作曲によるもの
・雷様の話 ・しがまの嫁こ ・くまん蜂の話 ・キンキラキンのキン ・あすなろ ・うばすて ・森林鉄道 ・小僧っこまだだが ・世界一の話 ・まりつき唄 ・たんぽぽひとつ ・てんぽだ名前こ ・嘉瀬の奴踊り由来 ・とりこあめ ・ほらくらべ ・白い小さなレクイエム ・寒い二つの話 ・グスのバラード ・なんじょ歌 ・津軽の糸(全6曲)
◆小倉尚継 作詞作曲によるもの
・いだこに託す大鰐の悲話 ・りんご物語(全8曲) ・砂子瀬風土記(全10曲) ・むつ湾に生きる(全10曲) ・志功ひとすじ道(全10曲) ・弘前城物語(全12曲) ・今昔青森十六景(全16曲) ・津軽沖縄千里を越えて(全15曲)
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明日は各メンバーについてです。
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(227)ブルービーバーズ その4
| 2004年 5月25日(火) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その4です。
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(4)メンバー紹介
昭和41年 第2回プログラムには次のように記載されていた。
〔トップテナー・・・小倉
尚継〕 昭和35年弘大卒。 青森オペラ研究会の「うとう物語」「桶山伏」などのオペラに出演し、萩野昭三氏らと男声四重唱団を歌っていた。現四重唱団の道化役と編曲を引き受けている。 青森西高校に勤務。
〔リードテナー・・・野呂
馨〕 昭和34年弘大卒。 シューベルトとシューマンの歌曲が得意で、2児の父になってから、ますます味が出てきた。 メンバーの中で最も練習熱心で、五所川原は青森の隣町みたいなものだと言っている。 五所川原高校勤務。
〔バリトン・・・山口
道廣〕 昭和34年武蔵野音大卒。 学生時代から深みのある美声には定評があった。ある人曰く、「シューベルトは彼のために『冬の旅』を作ったようなものだ」。 身だしなみがよく、よごれたハンカチなど持ったことがない。 筒井中学校に勤務。
〔バス・・・奈良
武則〕 昭和34年弘大卒。 結婚二年目を迎え、ようやく落ち着いた感じ。自称「記憶力の塊」で、一度練習した曲は、ほとんど忘れないという。年とともにその低音に、渋味が加わってきた。 田舎館中学校勤務。
〔ピアノ・・・西谷
安正〕 昭和34年弘大卒。 細い体に似合わない強い意志と努力は相当なもの。ショパンやリストの曲を得意としているが、男声四重唱団の伴奏も引き受け、たいへん仕事熱心な人である。 青森明の星高校勤務。
第1回リサイタルだけは、今は亡き野倉盛夫氏がバリトンを歌っていた。 その時のプログラムから彼を紹介しておく。
〔バリトン・・・野倉
盛夫〕 昭和36年弘大卒。 チェロを持たせると、相当高度な即興演奏をすることができ、作品も十数曲を数え、三沢のベートーベンと呼ぶ人もある。 三沢高校勤務。
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さらにもう一人、ブルービーバーズの陰のメンバーがいました。
それは明日。
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