(228)ブルービーバーズ その5 |
2004年 5月26日(水) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その5です。
昨日のつづき ・・・・・・・・・・・・・・
〔マネージャー・・・熊坂
昭三〕
仙台市出身で青森県立図書館から郷土館に転勤。 第3回リサイタルからマネージメントの一切を処理。ブルービーバーズの心臓部分を担当して下さった。 人柄がよく、若い女性に慕われるタイプで、反省会などの外交は最も得意とするところであった。
(5) マネージャー熊坂昭三という人
ブルービーバーズが演奏を続けられたのは、熊坂昭三さんというマネージャーがいてくれたからです。 マネージャーの仕事は、広告集め・プログラム編集・印刷屋との交渉・入場券の頒布と回収・収支決算の計算・資料集め・打ち上げの手配・・・等々、たくさんあります。 熊坂さんが手伝ってくださる前は自分たちでやっていたのですから、練習や演奏に支障があったのはいうまでもありません。 熊さんのおかげでどんなに助かったか、想像に難くないでしょう。
さて、熊さんは仙台市出身で、昭和3年生まれです。 したがって私たちグループより、7歳年上です。 にもかかわらず、威張ることなく、一生懸命やってくださいました。 そんなに働いてくださっても、私は、せっぱつまってくると、いろいろ文句をつけます。
それでも熊さんは「わかった。わかった。明日またやるから」と言って、二次会まで一緒に酒を飲むのです。
熊さんの勤務は古い県立図書館で、後に県立郷土館に転勤になりました。私たちが図書館音楽会に出ている頃に知り合いになったのです。
ある日、青森市内の新町でばったり出会って「ちょっと一杯行きましょうか」というのが、おつきあいの最初でした。
ビーバーズの練習には毎回つきあって、2時間も3時間も黙って聴いています。 終わればもちろん、赤提灯をくぐります。 広告取りがうまくいったからとまた飲みます。 新曲ができたと言えば、また飲むのです。
不思議なことに熊さんは二日酔いをしません。
私が次の日、ゲーゲーやっても、熊さんは、今日もまた飲もうというのです。私達はよく言いました。 「熊さんの胃と肝臓にはビニールでも張っているのかな」と。
(つづく)
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(229)ブルービーバーズ その6
| 2004年 5月27日(木) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その6です。
昨日のつづきでマネージャーの熊坂昭三氏について語られます。
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しかし、そんな熊さんでも血圧が高かったのです。
定年一年前の冬のこと、自宅の玄関前の雪を片づけてから、お風呂に入ったという。 その温度差が災いして、いわゆる脳内出血をおこしたのです。
病院に運ばれ、頭を手術しましたが、意識がはっきり戻りません。
私たちが行っても、わかっているのかいないのか。それがはっきりしないのです。 回復を祈っていましたが、半年か、もう少し入院して、とうとう亡くなってしまいました。
私は葬儀で弔詞を読みました。
こんなに早く亡くなって、なんてことだ!と、半分怒って読みました。
だから、絶対泣くことはないと思っていたのです。
でもちょっと、一緒に旅行した日の事に触れたら、のどが、ガツンとつまってしまったのです。 怒っていて、絶対に泣くはずがないというのに、涙が出てしまい、声が出ないのです。
定年になったら、雪のない仙台で暮らしたいと言っていた。あの姿が思い出されて、ますますのどがつまります。
弔詞を読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまいました。
楽しいことをたくさん提供してくださった先輩の熊さん。
たくさんのお仕事どうもありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・ (つづく)
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(230)ブルービーバーズ その7
| 2004年 5月28日(金) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その7です。
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八甲田除雪隊の歌
百戦錬磨のつわものどもが 熱と意気と誇り持ち 十和田の春を呼び起こす ああ八甲田除雪隊 ああ八甲田除雪隊
平成5年11月、青森市萱野茶屋手前の岩木山展望所に八甲田除雪隊の石碑が建立されました。その石に刻まれているのが、上の詩で「八甲田除雪隊の歌」の最後の歌詞です。
この歌は昭和41年、青森県土木部が制定したもので、作詞は土木部五所川原土木事務所勤務の竹内博さん、作曲は一般応募してとりあげられた鶴谷みつさんでした。
その頃、土木部で八甲田除雪隊の活躍を描いた「白魔に挑む」という映画を作りました。
映画の中で雪を吹き上げる大型除雪車の轟音の中から、この歌が無伴奏で流れ出し、しばらく歌を聴かせてから、また、機械音につながっていくという、なかなか味のある映画でした。
実はその歌を録音したのが、ブルービーバーズだったのです。 部分四重唱で、編曲は私が担当しました。
その関係で、現在、その石碑に、私の名前も刻まれているというわけです。
映画は大変好評で、あちこちに借りられ、ついには、行方不明になってしまったそうです。
あの石碑の前に立つと、青森東高校の生徒達が歌っている除雪隊の歌がセンサーで演奏されるようになっています。
その年、NHK合唱コンクールで県下一だった青森東高校が録音を依頼されたということです。
街に春の気配が感じられる頃、酸ヶ湯温泉では除雪隊激励会がおこなわれます。
私も出席しましたが、それはそれは感激的な熱い熱い男達の宴会でした。最後は全員が肩を組んで、涙を流してこの歌の大斉唱になるのです。
なにしろ命がけの作業をしている仲間達ですから、無事を喜び合う気持ちと使命感が、涙になるのだと思いました。
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(事務局注) 八甲田除雪隊の歌は、「玉稿」のコーナーにも関連情報がございます。未見の方は、どうぞご参照ください。
ブルービーバーズつづく
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(231)ブルービーバーズ その8
| 2004年 5月29日(土) |
青森県の音楽史において大変ユニークな存在となっているブルービーバーズですが、現在、まったく知らない(私もその一人)という方が増えてきているようです。 ここまで連載してきた原稿は、ブルービーバーズについて若干の知識があることを前提とした文面であったため、わかりにくい部分があったかもしれません。
そこで事務局より、以下に補足資料をご提示させていただきます。 まずは、第1回リサイタルの様子です。
昭和40年5月8日 場所・青森市民会館
第1部は「さくら」など4曲の日本の歌、また「カリンカ」などの6曲の世界の歌が歌われました。 第2部は歌と詩による「津軽の四季」と題し、構成は北彰介氏、ナレーターはNHK青森放送劇団員の西沢いく氏が担当し、次のような楽曲が歌われました。
春・・どじょっこ 木村繁編曲「津軽の旋律」より 方言詩「じゃこ釣り」 一戸謙三 作 歌物語「タニシとからす」 斎藤正・工藤健一編「津軽わらべ歌」より 夏・・夜宮、ねぷた 木村繁編曲「津軽の旋律」より
秋・・山唄、もうっこ 木村繁編曲「津軽の旋律」より
冬・・はだよし 木村繁編曲「津軽の旋律」より なんげえむがしこ 北彰介作詞 小倉尚継作曲 方言詩「吹雪」 高木恭造 作
そして又春・・・月ごよみ、どじょっこ 木村繁編曲「津軽の旋律」より
ブルービーバーズも当初は、大変な人気のあったダークダックス、ボニージャックスといった歌唱団のスタイルをめざしていたそうです。 こうした方向性により作られた第1回プログラムですから、あくまでも主軸としたのは第1部の楽曲であり、第2部は余興という感じだったそうです。
ところが、ダークダックスやボニージャックスが取り上げるようなロシア民謡や黒人霊歌、またはその他ポピュラー曲よりも、余興であるはずの楽曲に会場から大きな拍手がわきおこり、聴衆の反応は第2部「津軽の歌」で、最高潮に達したのだそうです。
ブルービーバーズのメンバーは、こうした反応に大変な驚きを感じたそうです。
と、同時に、「これだ。ダークダックスやボニージャックスにできないもの。津軽に生まれ育った我々だけが歌えるものは」そのように感じ、ここでグループの方向性が決まったのだといいます。
(つづく)
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(232)ブルービーバーズ その9
| 2004年 5月30日(日) |
自分たちが男声四重唱団として、地方に存在する意義をどこに求めたらよいか。その結論は、自分たちが一番知り尽くしている青森県を素材としたレパートリーを持つこと。
青森県に住む者として、他の地方にはない豊かな音楽素材を掘り起こしていきたい。 郷土に密着した泥臭い、しみじみと、心にしみこんでくるような古里の味を乾燥しきった現代の潤滑油として提供したい。
中央にはたくさんの男声四重唱団があるが、私たちは青森県に住む者として、最も身近な、地元の素朴な美しさを歌っていきたい。
こうして「青森県に住む我々でなければできない音楽を普及させよう」というメンバーの強い意気込みと、創作歌曲への情熱からリサイタルが継続されていきました。
リサイタルのたびごとに、その時々の青森県内の話題を材料にした創作曲が発表され、新聞などでも、その活動は取り上げられるようにもなっていきました。 リサイタルは毎年5月が多かったようですが、これは、学校行事の終わった3月と、春の連休中に、集中練習ができるためだったということです。 こんな中、東京公演も実現します。 昭和43年1月のこと、「津軽の空こぁキンキラキン」と題して東京銀座ヤマハホールにておこなわれました。
これは萩野昭三氏が中心となった東京の青森県人会の招きでおこなわれたもので、この粋な題名は、北氏と小倉氏の二人が考えたそうです。
◆当日の演奏曲 ・どじょっこ(木村繁・曲) ・津軽言葉によるコンポジション(本間雅夫・詞・曲) ・序詞 ・しがまの嫁こ ・雷様の話 ・うばすて ・森林鉄道 (以上 北彰介 詞・小倉尚継 曲)
「うばすて」では、客席のご婦人やお年寄りが涙を流しておられたそうで、その会場の様子に、歌っていたビーバーズのメンバーもまた、もらい泣きをしそうになったとのことでした。
その様子を会場の片隅で見ていた北彰介氏は、歌を通して民話の心が伝わり、ふるさとの郷愁を感じたからではないか、と、北氏自身も感動の様子を記しています。 (つづく)
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(233)ブルービーバーズ その10
| 2004年 5月31日(月) |
さて、昨日触れた東京公演から約四ヶ月後、青森市で「東京公演を記念して」と題されたブルービーバーズの第4回リサイタルが開かれました。
ここに、数々の黒澤明監督作品やゴジラ映画など、東宝の個性派俳優として活躍した田崎潤氏(青森市出身)が賛助出演され、客席はおおいに沸いたそうです。
一方、東京でもブルービーバーズを再び、招きたいという声が上がったそうで、第2回東京公演が、昭和45年1月、東京の銀座ヤマハホールで実現する運びとなったそうです。 タイトルは「津軽の空こぁキンキラキン 2」
◆当日の演奏曲目 ・てんぽだ名前こ ・うばすて ・キンキラキンのキン(北彰介
作詞・小倉尚継 作曲) ・津軽言葉によるコンポジション(本間雅夫・詞・曲) ・ネブタの灯を胸に(北津青介 作詞・川崎祥悦
作曲)
東京青森県人会の主催であったため、当日はブルービーバーズだけではなく、学芸会的に、青森ゆかりの方々の芸能発表会となったそうですが、青森から来演の教師ばかりの男声四重唱団は、やはり特異な存在だったようです。
青森の方言によるコミカルな歌に観客はまたしても大喜びで、「先生にしておくのはもったいない」の声も上がったそうです。
(つづく)
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