(234)ブルービーバーズ その11 |
2004年 6月 1日(火) |
リサイタルも回数を重ねるにつれ、これまでを振り返る意味から第6回までに演奏された曲をまとめた楽譜集を出版しようということになりました。その案は、第5回リサイタルが終わったときに出されたといいます。
こうして、昭和45年8月、創作曲集「津軽の空こぁキンキラキン」が出版されることになります。
郷土に埋もれた音楽を掘り起こし、ここに光を当てようという試みは、これまでにも木村繁氏の「津軽の旋律」などがありました。 しかし、それらの多くが「わらべうた」の集大成だったのに対し、「津軽の空こぁキンキラキン」は、青森県に伝わる民話や童話に題を求めた新しい創作歌曲。 民話だけではなく、出稼ぎなど、新しい社会問題も歌われているのがこれまでにない特徴となっていました。 その楽譜集は「津軽の民話を詩情豊かに、そして最高に美しく表現したもの」と新聞紙上でも取り上げられ、各方面から好評を得ます。
内容は、第1部が「津軽むがしこファンタジア」 古くから伝えられた「むがしこ」に題材をとったもので、津軽弁が楽譜の上で楽しく踊っています。
第2部は「ふるさとの歌」 「まりつき歌」や「とりこあめ」「森林鉄道」など、消えゆく行事や物への郷愁を込められた作品が多く収録されています。ここでの異色作は「いだこに託す大鰐の悲話」です。
これは昭和44年4月、東京の荒川で起きた青森県大鰐町出身の出稼ぎ者の水死事件を取り上げています。 犠牲者がイタコの口を借り、出稼ぎゆえの悲劇を語る15分の大作です。 初演時は、観客に大きなショックを与えたそうで、会場のあちこちより、すすり泣きが聞こえてきたそうです。
このほか「まりつき歌」「たんぽぽひとつ」などにも、出稼ぎは、テーマとして取り上げられています。
さて、「津軽の空こぁキンキラキン」の出版記念会が、昭和45年8月29日夜に開かれました。場所は青森市
新町丸大ホール4階で、出席者は45名。
発起人代表は横山武夫県文振会長で、横山氏からの祝辞の後、出席者のスピーチや歌詞の朗読の合間に、ブルービーバーズはもとより、AN女声合唱団の合唱が入るなど、始めから終わりまで、音楽付きの異色の出版記念会になったということです。
ところで、AN女声合唱団ですが、ブルービーバーズ・リサイタルの賛助出演などで、ブルービーバーズの歴史とは切っても切れない関係にあります。が、現在は解散しているため、知る人も少なくなってきています。明日は、この女声合唱団について興味深いエピソードを取り上げることといたします。
(つづく)
|
(235)ブルービーバーズ その12
| 2004年 6月 2日(水) |
「メンバーの声」のコーナーに格納予定の小倉尚継会長の原稿その8です。
・・・・・・・・・・・・・・
◆AN女声合唱団
ANとは青森西高校(昭和37年開校)の頭文字をとっています。つまりAN女声合唱団は、青森西高校合唱部の卒業生による女声合唱団という意味です。 在学時代、あんなに熱心に練習したのですから、卒業してからも、その「声」を生かそうというので、みんなで集まって作りました。
指揮者の自分が言うのも変ですが、声がとてもきれいで、合唱コンクール東北大会では、あの有名な福島県のF.M.C混声合唱団と共に金賞になったこともありました。
合唱団の始まりは昭和40年すぎてからで、終わったのが昭和56年だと思います。
なにしろ若い乙女たちでしたので、結婚で退団する人が続きます。
しかも、私が青森西高校から転勤ということで、新しいメンバーの見込みがなくなってしまったというのが実情でした。
AN女声合唱団は、青森西高校の3階音楽室で練習することがしばしばありました。 体育館からその灯りが見えるわけですが、バレー部の人たちは、「あの音楽室の灯りを見ろ。合唱部はまだ練習しているではないか。わがバレー部も負けてはいられない。さあ、もうひとがんばりしよう」と、練習を続けたそうです。
AN女声合唱団の練習を、現役の合唱団の練習だと勘違いしていたそうなのですが、この結果、青森西高校のバレー部は、県下一の成績を続けることができたということです。
ブルービーバーズのリサイタルへの賛助出演など、AN女声合唱団には、たいへんお世話になりました。みなさん、どうもありがとう!
・・・・・・・・・・・・・・
明日は、ブルービーバーズと津軽三味線の高橋竹山氏とのかかわりについてです。
(つづく)
|
(236)ブルービーバーズ その13
| 2004年 6月 3日(木) |
昭和47年リサイタルの第8回目から組曲の大作が登場するようになります。 きっかけは高橋竹山氏の三味線をテーマにした「津軽の糸」の好評にあったといいます。
「津軽の糸」制作のヒントを与えたのはRABのテレビ番組「寒撥」で、これを見たことがきっかけで、門付け三味線を芸術の域まで高めた竹山氏の62年間の生い立ちや情熱を描いてみたくなったのだそうです。
こうして曲は完成。
ブルービーバーズのメンバーの中から小倉・山口両氏、そしてマネージャーの熊坂氏を加えた合計三名が、小湊駅近くの高橋竹山氏の自宅を訪ねることになったそうです。
竹山氏は、すでにそのころ青森県文化賞を受賞していました。しかし、少しも偉ぶることなく、快く三名を迎えたそうです。
マネージャーの熊坂氏の説明とお願いに、竹山氏は、いちいちうなずきながら聞き入り、練習テープの音も耳にされ、その後でこう言います。
「皆さんのおやりになっていることは、このとおりで間違いはございません。どうぞお好きなようにやって下さい。」
こうして「津軽の糸」の演奏承諾をいただくことになったそうです。
ところで「津軽の糸」には、歌の合間に三味線演奏も挿入されます。そこで、竹山氏に、「ステージで演奏してもらいたいのですが・・・」と切り出してみることになりました。
すると、笑顔で快く承諾。 演奏開始のタイミングや曲の種類などを、打ち合わせ、帰ってくることができたそうです。
本番前、竹山氏と一度だけ演奏を合わせたそうですが、前に打ち合わせたとおりに、少しの乱れもなく弾かれたそうで、これにはビーバーズ全員、驚いてしまったそうです。
さて本番当日、竹山氏が演奏するということで青森市民会館の正面玄関から、裏の方にまで長蛇の列ができていたといいます。
こんなリサイタルの光景を見るのはブルービーバーズのメンバーにしても初めてのことであり、驚くと同時に、身がギュッと引き締まる思いであったそうです。 こうして竹山氏を迎えてのブルービーバーズのリサイタルが始まるのです。
(つづく)
|
(237)ブルービーバーズ その14
| 2004年 6月 4日(金) |
さて、昭和47年の5月27日、青森市民会館にて高橋竹山氏を迎えてのブルービーバーズ第8回リサイタルが開かれることになりました。
ステージは3部構成で、第1部はブルービーバーズのメンバーだけによる演奏。第2部は先日ご紹介したAN女声合唱団との共演。そして第3部最後に竹山氏の三味線、牧良介氏の語りを加えての「津軽の糸」が初演されました。
小湊に生まれ、目が不自由だったこと。小学校で級友にさげすまれたこと。偶然耳にした三味線弾きの音に誘われて、師匠の門を叩いた。そして県内外の巡業などなど、竹山氏の62年間の歴史が、ご本人の三味線入りで20分以上にわたって、八つの章で語られ歌われていきました。
本番は予想以上の大成功。ご本人の三味線演奏で「津軽の糸」を聴けたということもあって聴衆は大満足。
最後は、竹山氏の三味線アンコールとなったそうですが、お客さんの喜びを竹山氏も強く感じられたようで、アンコールを延々と続けられ、会場は異様な熱気に包まれていったそうです。
それから間もなく、竹山氏は全国的に有名となり、多忙な演奏活動を始めることになったということです。
竹山氏は、その後、昭和49年に結成10周年を記念して出されたブルービーバーズのLPレコード(限定500枚)の吹き込みにも参加。
ブルービーバーズとの絆は続いたといいます。 さて、この第8回リサイタルの「音」なのですが、実は残っております。もちろん、当協会で、将来の青森県の音楽財産に供すべく保存の態勢をすでに完了させております。
これは当時、青森県をリードしていた異なったジャンルの音楽家の出会い、共演を記録した大変貴重な資料だといわれているもので、将来、青森県民の「宝」になるのではと考えられているものです。
(つづく)
|
(238)ブルービーバーズ その15
| 2004年 6月 5日(土) |
「津軽の糸」の好評の後、毎年、青森県内をテーマにした組曲が作られていくようになりました。
しかし、その裏では、大変な苦労があったといいます。
週一回の練習には、まず第一に距離のハンデと家庭の犠牲が伴います。さらに、平均年齢が40歳ともなると、仕事の上でもそれぞれ責任ある立場につき、練習も思うようにならなくなってきます。
途中、何度もこの演奏会を最後に解散しようと決めたことがあったそうです。
しかし、こういった危機を乗り越えてきたのは、「私たちの歌が一年の大半を雪に閉ざされ、ふさぎ込みがちな津軽の人たちの心を、少しでも明るいものにしたい。雪やりんご、さらに出稼ぎ問題などの曲をレパートリーとして歌い続けているのは自分たちだけではないのか・・。だとしたら、絶やせない」と、いうことだったといいます。
毎年、リサイタルには千人前後が集まるそうですが、これは固定層ではなく、常に新しいファンが多いのが、特徴となっていました。
さて、「津軽の糸」以降の組曲をご紹介すると次のようになります。
●第9回リサイタル 青森県でのりんご栽培100周年を記念し、苦難に満ちたりんご栽培の歴史を歌う「りんご物語(45分)」
●第10回リサイタル 目屋ダム建設の際に水没した、中郡目屋村砂子瀬への思いを綴った「砂子瀬風土記」
●第11回リサイタル 海に生活をかける漁民の心、不漁続きに泣く漁民や出漁のまま帰って来ない人の家族の悲しみ、夢にまで見る海の汚染への不安、漁民の哀愁、豊漁に沸く人々の喜びを歌う「むつ湾に生きる」
●第12回リサイタル 上京し、苦難の末に文展特選の栄誉に輝くまでの棟方志功の半生を歌う「志功ひとすじ道(60分)」
●第13回リサイタル 東奥日報夕刊に、昭和51年2月24日から140回にわたって弘前支社の工藤英寿氏が連載、その後出版された原作をもとにした「弘前城物語(60分)」 津軽藩発祥から築城、天守閣焼失、開拓と飢餓、天守閣再建など、弘前城300年の足跡を13曲で語りを交え歌い上げる。
●第16回リサイタル 最後となったこのリサイタルでは、青森県出身者の戦死者1万9千8百あまりが眠る慰霊碑 那覇市「みちのくの塔」に材を求めた作品となったそうです。 今でも沖縄の人が、自分の親兄弟のように青森県出身者の墓参りをしていることに感銘を受け、戦時下の津軽の兵士と、沖縄の人々との生死を供にしたふれ合いをテーマにした「津軽・沖縄千里を越えて(15場・1時間30分)」が生まれたそうです。 作品は、一人の津軽の兵士と、ひめゆりの乙女のふれ合いを縦糸に、沖縄への感謝と平和の願い、みちのくの兵士への慰霊を歌い上げています。 なお、このリサイタルの模様は、東北地方と沖縄県に、テレビ放映されたそうです。
さて、こうした数々のブルービーバーズのステージを「語り」で支えた方がいらっしゃいました。牧良介氏です。
牧氏は、第3回から最終回まで出演してもらったそうで、津軽弁のナレーション役として、ブルービーバーズのステージには欠かせない存在でした。
明日は、その牧良介氏のエピソードです。
(つづく)
|