青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年7月(2)>

(268)蟹田獅子舞ストーリー その1
(269)蟹田獅子舞ストーリー その2
(270)蟹田獅子舞ストーリー その3
(271)蟹田獅子舞ストーリー その4
(272)蟹田獅子舞ストーリー その5
(273)蟹田獅子舞ストーリー その6
 
(268)蟹田獅子舞ストーリー その1 2004年 7月 5日(月)
 お金じゃないんですよ。
一生懸命やっている我々の気持ちがわかってもらえない。
 それが一番つらいんですよ。

このように語るのは蟹田八幡宮獅子舞の関係者。

 蟹田町では10月14日と15日に二日かけて全戸をまわるのが恒例であったそうです。が、今年はそれが危ぶまれています。

 理由のひとつは日取りにあるといいます。

 10月14日・15日と、昔から秋の例祭の日にちは決定しており、これは動かすことはできないのだそうです。

 しかし、この両日が休日にあたることはほとんどなく、平日にかかることが通例だといいます。
 会社や役所に務めている人にとって、二日も、このためだけに休みを取ることは難しく、自営業者であっても、現在のような時世ともなると、仕事を休むのはたいへんなこと。このようなことで、日程の工面を多くの人がつけられなくなっている。これが第一点。

 そして、最大の理由が冒頭にあげたもの。町の獅子舞のために、仕事を休んでまで参加し、打ち込んでみても、最近は感謝されることが本当に少なくなってきた。
 昔は、各戸を回ると、ありがとう、よく来てくれました。と言って喜んでもらえた。
 ところが、最近は町営住宅などが増え、他地域からの方も多くなってきているせいか、獅子舞に来ました。と回っても、扉を開けた方がポカンとしている。それだけならまだしも、中には「何しに来た?」「お金を集めに来たのか?」こんな感じで、接する人が年々多くなってきているということで、こうしたところより、冒頭にあげた感想へとつながっていくのだそうです。

 昔は、祭りは若い世代のストレス発散の場であったはず。
 ところが、最近はその逆で、祭りに出ると、かえって若い我々はストレスを溜め込んでしまう。
 せっかく、仕事を休んで、一生懸命取り組んでも、こんな思いをしている。お金じゃないんですよ。町の人たちに本当に喜んでもらえるのなら、私たちとしても努力は惜しまないのですが・・・。

(つづく)
 
(269)蟹田獅子舞ストーリー その2 2004年 7月 6日(火)
 昔の蟹田町では、新築の家には、必ず獅子が家の中に入って舞ったそうです。
 しかし、最近は新築でも獅子を家の中に入れるところが、かつてほど多くなくなってきたということです。今の時代に獅子なんて・・と言う人も増えてきているようで、古くからの地域の風習を「迷信」「古臭い」「時代に合わない」と言って、捨て去ろうとしている地域は、実は青森県内、蟹田町だけではなく、いくつかあるということを耳にしております。

 芸能は地域のものですから、地域の人の総意のもと、これを捨て去るのなら、それはそれで仕方がありません。これに対し、外部の者がとやかく言う権利はないともいえます。
 しかしなんとか、芸能存続を望む人が一方におられ、そういった方の思いが理解されず、芸能が消え去ろうとしているのであるのなら、黙ってそれを見ているわけにはいかないようにも思っております。

 特に、蟹田獅子舞の笛はたいへん独特なもので、青森県の音楽資料として、残しておく価値の高いものだといわれています。

 蟹田獅子舞で笛を担当されている方に伺ってみたところ、ふつうの囃子とは明らかに違う。
 青森県内でみると、お山参詣の系列に近い。
 しかし、お山参詣のように、おさえて吹かない。
 たとえると、大声でカラオケを歌っている感じ。
 このような笛は県内でも類例があまりないのではないか、ということでした。

 その笛を継承する方も現在は二名。この独特な笛の音も消滅の危機に瀕しているといいます。
 青森県の音楽資料の保存を願う当協会としても、こうしたユニークな笛をなんとか守りたいと考えています。その方法として、録音や映像で残すことがまず考えられます。
 もちろん、その方策も今後、蟹田獅子舞の関係者と連携して取っていく予定で、すでにビデオ映像などを保存資料としていただいております。
 しかし、こうした形で残すだけではなく、やはり蟹田の地に340年前より響いている笛の音は、いつまでもその地域の風土の中で響いていってもらいたいものです。
 地域の多くの世代を継ぎ、その土地の心を伝えてきた音楽は、こうした保存のありかたが一番幸せなのかもしれないと感じているところです。

 絶滅危惧種の動物が剥製になって博物館に展示されていますが、そういった保存だけでは、何か悲しいものがあります。
 やはり、命あるものとして大地を駆け巡り、大空を飛んでもらいたい。音楽の保存についても、こうした思いがあります。
 このような当方の思いと同じ考えを持っておられる方が蟹田町におられ、なんとか、若い我々が蟹田の伝統を継承していきたい。このような声を発しておられました。
 こうした思いに共鳴し、今年の2月から取材を進めてきましたが、5月の連休を利用し、事務局のある東京から蟹田町へ、直接取材に出かけました。

 いろいろと生の声を伺いましたので、それを明日より掲載してまいります。

 これは蟹田町だけではなく、多くの地域でもかかえる問題は共通したものがあり、他人事ではない。そのように感じられる方は、少なくないのではと存じます。

(つづく)
 
(270)蟹田獅子舞ストーリー その3 2004年 7月 7日(水)
 廃れて行くのは時代の流れとはいえ、すべてが無に帰するのは400年の伝統の末裔として忍ぶに耐えません。蟹田は海と山を教えてくれた私の大事な故郷です。


 蟹田八幡宮の獅子舞の由来は実に古く、約340年前に、当時の津軽藩の4代藩主が、京都から持ち込んだものだと伝えられています。
 京都由来といわれている蟹田の獅子ですが、300年以上も蟹田の土地に根付いたことにより、蟹田の風土と、代々継承した蟹田に生きる人たちの思いが結晶した大切な地域の文化遺産となっています。
 そういった大切な文化財がなぜ今失われようとしているのでしょうか。


 これは、ひとつには、世代間の認識の違いが原因としてあるということです。
 獅子舞継承にあたって、実際に汗を流すのは若い世代です。こうした世代の苦労が、必ずしも上の世代にまで届き、充分に理解されていないといいます。

 10月14日・15日と、昔からの例祭の日は決定しており、これは動かすことはできないため、両日が平日にかかることも多い。
 若い世代は「平日、仕事を無理して休んで、二日も町を歩いている。同じ会社の人と、会ったりすると、都合が悪い」など、こうした犠牲感を持って参加している人は少なくないようです。

 一方、他の世代の方の中には、二日間かけて賽銭をもらい歩いている。いい日当もらっている。こうした見方をしている人もいたりで、獅子舞を支えている若い世代の複雑な感情が必ずしも理解されていない。

 せっかく苦労して、獅子舞を町の各戸へ持っていっても「集金に来たのか?」という目で見る人が出てきたり、そのようなつらい思いをしている若い世代の気持ちを理解する年配の獅子舞関係者が多いとはいえない。

 ここで「お金じゃないんですよ。一生懸命やっている我々の気持ちがわかってもらえない。それが一番つらいんですよ」という訴えにつながっていくこととなるのです。

 いかに地域の伝統を愛する気持ちがあろうとも、このような報われない環境を無理に押してまで獅子舞を支えていこうという人、特に若い世代の中に、こうした人はなかなかいるものではありません。

 事実、若い世代が蟹田でも次々と抜けており、ついに今年は、恒例の10月14日・15日の獅子舞による各戸回りは中止になりそうだという話です。
 こうして若い世代が次々と離れていくということは、やがて後継者がいなくなり、300年以上続いた蟹田の伝統芸能が消えるということを意味しています。

 このような状況に、「おらだじの苦労と危機感がわがってね。獅子舞守っていぐのは、上の世代の責任でもあるべ」

 ついに若い世代から「歎願書」が出されました。


 内容は、実際に汗を流している人々の気持ちを代弁した激情文に近いものだったということです。

(つづく)
 
(271)蟹田獅子舞ストーリー その4 2004年 7月 8日(木)
 伝統を固守しようという古老と、そういった意識だけでは伝統の存続が難しいという若い世代の葛藤は、現在、どこの保存会にも、多かれ少なかれ見られるものだといいます。

 伝統を固守しようという古老にとって、地域の芸能は宝、「見せもの」ではないという意識が強く、観光客などに芸能を披露することに拒否反応を示す方は、少なくないといいます。
 
 しかし、若い世代は、多くの人の注目を浴びることが後継者を集めることにもつながり、ある程度のアピールは必要。こうした考えを持つ人もおり、世代間でのこういった芸能に対する認識のギャップがみられることも多々あるといいます。


 しかし、俗化を懸念する古老と、ある程度の一般化は必要だという若い世代のバランスを保ちつつ、芸能を存続している地域も一方ではあるようで、その方法は「二分方式」が多いようです。

 それは、観光向けに華々しく披露する舞台を別に設けつつ、その一方では部外者厳禁の昔ながらの、古式にのっとった芸能がおこなわれるという、古老と若い世代の意見を生かしたスタイルだそうです。

 こうして他から注目を浴びることで、芸能に対する後継者を集め、芸能の一般への理解や浸透を図ることで、財源などの問題も解消に向かうことがある。また、他からの注目を浴びることで、演技者自身への刺激ともなり、取り組みに張り合いが出てくる。こうした利点があるともいわれています。


 しかし、このような柔軟な発想を持って芸能活動をおこなっているという所は多くはないようで、蟹田に見られる世代間の葛藤は、どこの保存会でも多かれ少なかれ見られる問題でもあるようです。

 獅子舞の継承に子どもたちの育成は必要なものであります。
 その子どもたちの目からすると、獅子頭はたいへんな興味の対象であり、触ったり、なでたり、中にはパンチやキックをすることで親愛の情を示してくる子も出てきます。

 獅子頭は伝統的な見方では神様そのものであり、「獅子頭をそのように粗末に扱うとは、けしからん」「もう、こうした子どもたちに獅子頭は貸さない」という古老も現れている地域もあるそうです。
 ここで、「二分方式」を取り入れている保存会は、古来より使われている獅子頭は大切に保存しておき、子どもたちへの指導用には、複製品を使う。こうして、うまく後継者の育成につなげているところもあります。

 一方、「獅子頭は村の神である。神は村に一つであるから、複製は認めない」との地域もあります。こうして、元気のよい子どもたちから獅子頭は遠ざけられ、獅子頭は大切に保存されるものの、これを使って舞う人がいなくなり、獅子は廃れていくという皮肉な結果を生んでいる地域もあるようです。


 地域には地域の事情がある。文句があるのならば、地域に住んで、その地域の住民になってから、いろいろと文句を言ってほしい。部外者からとやかく言われるのは迷惑だ。という意見があるようで、地域の芸能への方針に意見を言うのはある意味タブーです。

 しかし、蟹田町だけではなく、柔軟な発想で危機的状況に対処しようとしている若い世代が、困難な状況にもかかわらず、がんばっているところは少なくないようです。

 ところが、えてして保存会同士の横のつながりは少なく、他の保存会がどのように諸問題に対処しているのか知らないことが多いようです。一地域の問題ではなく、どこの保存会にとっても普遍的な課題という部分は多いので、こうして、他の保存会がかかえる問題を共有し、他はどのように様々な問題にあたっているのか、参考情報を発信していくのは意味のあることではないかと考えております。

 特に保存会の主軸を担う若い世代は、こうした状況を打開するためのヒントとなる情報を積極的に求めているとの話を耳にするところです。

 当協会ホームページでは、そのような情報発信をすでにいくつかおこなっておりますが、ここに蟹田町の生の声を追加していきたいと存じます。

(つづく)
 
(272)蟹田獅子舞ストーリー その5 2004年 7月 9日(金)
 蟹田町の獅子舞保存会の若手代表の方よりいただいた手記です。

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 昭和47年の秋といえば、今から約32年前のこと。十年一昔と言いますから、私と獅子舞の出会いは、三昔前の出来事となります。

 今日は、そんな少年時代の郷土芸能伝承の体験と、現在それを子供たちに伝えている体験について、書かせていただきます。


 今から32年前、私が小学校の5年生の時、蟹田小学校の学習発表会で、郷土芸能の獅子舞を発表することになりました。


 当時2クラス約60人の生徒から、半数の男子生徒、更に10人程度の生徒が選抜され、練習が始まりました。
 60人中の10人ですから、競争率は6倍。女子生徒をはじめから除外しても3倍。
 3人に1人の狭き門を通って選抜されたのですから、当時は晴れがましいといいますか、誇らしいといいますか、そんな、うきうきした気分だったのを記憶しています。


 具体的な練習についてお話しますと、やや記憶はあいまいなのですが、町の公民館の二階で、週に2回程、夜7時頃から2時間程、行われたと思います。

 獅子頭、太夫様、扇の舞、鈴の舞、楽器の方は大太鼓、小太鼓、笛、じゃがら(手振り鉦)と、各担当が振り分けられ、当時の大人の先生方から、手取り足取りご教授を受けました。

 現在、教える立場になってみると、この当時の先生方は、大変ご苦労をされたことと思います。何事も、その人の立場になってみなければ分からないというのは本当です。


 回を重ねるうちに上達、上達するごとに練習が楽しくなり、また、発表会が楽しみになってきます。
 練習中の楽しみは、練習の中休みに、お菓子とジュースの差し入れがあったことです。

 また、忘れられない思い出が一つ。毎日の練習の最後の締めくくりには、全員正座しての、1分間の黙祷がありました。

 それまでは、時としてはふざけあい、面白おかしく練習をしていても、この1分間の黙祷だけは真剣に、静粛に行われていました。が、ある日の黙祷では、黙祷が始まってまもなく、当時大太鼓を習っていた同級生のK君が、しーんと静まり返った中、「ぷー」とおならをしたのでした。


 これには大人の先生方を含めたみんなが大笑い、忘れられない練習のヒトコマ、よい思い出となりました。

 当時、教えて下さった大人の先生方を思い出すと、私が扇の舞を教わった方、また、大太鼓を教えて下さった畳店のご主人(故人)、小太鼓を教えて下さったおかず屋さんのご主人(故人)、そして笛を教えて下さいました漁協にお勤めの方々のお顔が思い浮かびます。

 もっと他にも、先生方は沢山いらっしゃったはずですが、今となっては、なかなか思い出せません。


 さて、そんな練習も無事終了し、いよいよ発表会。
 ところが発表会のこととなると、意外に記憶がないのです。

 
 発表会は5年生の秋と6年生の秋、2回あったと思います。滞りなく、無事、成功のうちに終わったはずなのですが、不思議な事に思い出がないのです。

 やはり、緊張した雰囲気で舞をしたことより、和気あいあいとした練習の、楽しい記憶の方が思い出となったようです。

 そんな少年時代の体験が去り、私が獅子舞と再会したのは、大学を卒業し、仙台市で数年間、会社の仕事をした後、蟹田に戻った、27歳の頃でした。

 (つづく)
 
(273)蟹田獅子舞ストーリー その6 2004年 7月10日(土)
 昨日の手記のつづき。

・・・・・・・・・・・・・・

 毎年10月14、15日に行われる蟹田八幡宮の秋の例祭ですが、恒例になっている獅子頭が町を巡回する行事、ここへの参加者が、高齢その他の理由で減ってきているため、かつて小学校時代に経験のあった私たちに声が掛かったというわけでした。

 当時27歳で、まだ嫁も貰えずにいた私は、大変不躾な言い方ですが、時代遅れの着物や袴をはいて、大きく太鼓を叩きながら、獅子頭を体に巻きつけて、一軒一軒、お賽銭を頂き、顔なじみの多い町中の家々を回るなどということは、「恥かしくって出来るか!」といった気持ちでした。一緒に誘われた同級生も、やはり同じ思いです。

 できれば、何かうまい口実を作り、断ってしまおうと二人で口裏を合わせていました。


 ところが実に不思議。


 八幡宮の祭壇を前にし、練習の獅子舞の囃子が流れ出すと、懐かしさと感激で、胸が一杯になってしまったのです。


 10歳の頃に習った獅子舞の舞が、一つ一つ思い出されました。そして、体がスムーズに動き出しました。

 実に楽しくて、その日のメンバーの顔合わせ会は、あっという間に終わってしまいました。


 その時から今日まで、蟹田八幡宮の秋の祭礼の獅子舞には、何度参加した事でしょう。数え切れない程です。

 その中で学んだことは実に多いのですが、その中から、少しだけ書かせていただきます。

 蟹田八幡宮の獅子舞の由来は実に古く、約340年前に、当時の津軽藩の4代藩主が、京都から持ち込んだものだそうです。

 340年前といえば、西暦1660年頃のことです。あの有名な天下分け目の決戦、関が原の合戦が、西暦1600年の出来事ですから、そこからわずかしか経過していない頃のことです。

 そんな大昔から伝えられている獅子舞の、後継者になれるというのは、なんてラッキーで、なんと素晴らしく、素敵で、すごいことだなあと思いました。


 ところがその反面で、現在は、後継者不足で、将来に伝承していけるかどうか危ういという、危機に直面している現状も理解できました。



 蟹田町獅子舞保存会の会合は、秋の例祭を含めても、年に2〜3回程しかありませんが、会合の席上で、必ず取り沙汰されるのが、この後継者育成に関する事項でした。

(つづく)


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