青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年7月(5)>

(284)横笛 補説 その1
(285)横笛 補説 その2
(286)ねぶたの起源 その1
(287)ねぶたの起源 その2
(288)ねぶたの起源 その3
 
(284)横笛 補説 その1 2004年 7月21日(水)
 蟹田の獅子舞、そして昨日までの秋村氏の文面に横笛が登場しましたが、横笛についてのウンチクを補説いたします。
 横笛は日本のお祭りの必需品、こういったことをそれとなく知っておくと、お祭りで実際に触れる横笛を見る目も変わってくるのではと思われます。

 参考資料として、ご提示いたします。

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 中国では「笛」は、はじめ「縦笛」を意味していたそうです。
「横笛」を示すようになったのは、だいぶ後になってからだそうです。日本の場合、笛というと、ほとんど横笛のことを意味しますが、中国では現在でも、少数民族においては、縦笛が、圧倒的に多いそうです。

 その中国の縦笛の歴史は約八千年前と古く、新石器時代にさかのぼります。その時代の骨製の縦笛が何本も出土しています。

 一方の横笛は、現在中国で確認されている最古の資料は後漢の時代のもので、絵の中に横笛が描かれており、これが最初だということです。
 その後、中国において横笛は、漢族文化の中で拡大されていったようで、指孔は表6、裏1の形態が多かったということです。

 横笛文化は竹を産する地域が主で、やはり中心は、東アジア圏となっています。

 古い中国の横笛は、最初は樺の樹皮を使い、その後、桜の樹皮が用いられましたが、こうした樹皮を細長い帯にして巻き、一方の端には構えた時のバランスをとるために、紙でまるめて包んだ鉛を詰め、それをワックスで固定。仕上げの際には、錦織り、あるいは金属製の装飾品が取りつけられていました。

 このような中国の横笛の影響を、日本の横笛も受けていくことになります。

 神楽の合奏に使われる神楽笛、東遊(あずまあそび)に奏される東笛が、古い時代の日本の横笛の主流だったようです。しかし、東笛は後に廃れてしまいます。代わって朝鮮の笛である狛笛(高麗笛)が用いられるようになり、神社の楽師は、うるし塗りのケースの中に、神楽笛と狛笛を一緒に入れて持ち運んでいるのが普通だといいます。

 その神楽笛も狛笛も、普通は6つの指孔です。

 日本の横笛は上記の神楽笛と狛笛に加え、竜笛(りゅうてき)や能管、そして篠笛などがあります。
 雅楽に使われるのが神楽笛・狛笛・竜笛。
 能管は能。
 篠笛は最も一般的で、祭囃子など多様に使われています。

 竜笛と能管は7指孔、篠笛は7指孔または6指孔です。

 なお、神楽笛は神社の儀式の舞などに使われ、古代神話と結びつき、雅楽の中で最も貴い笛とみなされています。


 (つづく)
 
(285)横笛 補説 その2 2004年 7月22日(木)
 お祭りなどで目にする機会の多い、最もなじみ深い「篠笛」ですが、これは節と節の間がスラリと伸びた細くて美しい女竹(めたけ)、別名、篠竹に孔を開け、管の内側に漆を塗って作られます。昔は単に「竹笛」と呼ばれていたそうです。
 最近は、篠笛で定着しています。

 この篠笛は、平安時代、「田楽」の中で主に用いられていたものだそうです。
 
 田楽とは、田植えなどの農耕儀礼に笛や太鼓を鳴らして唄いおどる田遊びで、篠笛が各種祭りに使われるのは、こういった背景があるからだとみる人もいます。
 この後、篠笛は「御神楽」「祭囃子」「獅子舞」などに採用されていき、江戸時代の中期ごろ、歌舞伎の下座音楽と結びつき、主要楽器として不動の地位を占めます。
 こうして日本の庶民にとって唯一の旋律楽器として現在に至っているのだそうです。

 ちなみに、篠笛の材料となる竹は、2〜4年の竹が最適だそうで、それ以上になると、かたくなりすぎて、やわらかな音の篠笛には向かないそうです。

 篠笛は一つの笛で2オクターブ半の範囲の25の音が出せるそうですが、一つの笛だけでは移調がしにくいので、いろいろな長さの笛が使い分けられます。

 長くなるほど低い音が出ますが、一番長い笛を一笨(いっぽん)調子、そこから順に短くなるにつれ、二笨調子、三笨調子・・となって、全部で十三笨調子ほどあるそうです。

 最近は、一笨半調子など、半笨調子の笛が出てきたので、その数はもっと増えています。


 隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の川ゆ 
 流れ来る 竹の い組竹世竹(くみだけよだけ)
 本(もと)へをば 琴に作り 
 末へをば 笛に作り 吹き鳴らす
 御諸(みもろ)が上に 登り立ち・・・
 

 「日本書紀」の春日の皇女(かすがのひめみこ)の歌より抜粋ですが、日本書紀成立の720年頃より前に、日本で竹製のフエがあったというのが、こうした記述からわかるとされています。

 竹製の笛は保存が難しく、正倉院にある4本の横笛(竹製が2、石・牙がそれぞれ1)が最古のものとされています。これらはすべて7指孔ですが、大陸伝来の笛の中には6指孔も含まれていたと予想されています。

 こうして大陸の影響を受けながら発達していったとみられる日本の横笛ですが、長い歴史の中で、日本人の「魂の響き」を表出する楽器ともなっているようです。

 これからの夏、そして秋にかけ、こうした横笛の響きが、日本の各地で耳にできると思います。
 青森県では、やはり、ねぶた(ねぷた)でしょうか。

 明日は、そのねぶた関連情報をお伝えいたします。
 
(286)ねぶたの起源 その1 2004年 7月23日(金)
 全国的に記録的な暑さとなっています。事務局のある東京は2日連続で38度を超え、夜になっても30度を下回らないなど、たいへんな夏日となっております。

 このように、だんだん暑くなると、食欲が落ち、ぐったりと、バテバテ状態になる方も次第に増えてきます。

 冷房のある現在でもこうなのですから、そういった装置のない昔は、夏場の熱気にあてられ、生気を失い、グッタリという方は少なくなかったものと推測されます。

 医療に対する知識の不足していた大昔の人たちは、夏になると何かよからぬものが現れ、人間にとり憑く。それによって生気が吸い取られ、このような状態となる。
 このままの状態を放置すると「死」につながる。そこで、こうした「魔」を祓わなければならないとの考えが、自然に生まれることとなったようです。

 太陽の日照時間がそのまま労働時間となっていた農耕者にとって、夏場は、一年で最も仕事の時間が取れるときでもあり、こんな時にぐったりと床に伏し、眠っていたのでは困ります。
 夏場の仕事をおろそかにすると、秋の作物の収穫に影響し、それはそのまま死活問題に連動していきますので、夏場元気に農事に精励するため、「魔」を身体から取り除くことは当時の人にとっては真剣な問題でした。

 それではその「魔」を身体から取り除くにはどうしたらよいか。
 現在では、ビタミンB群を多めに摂取するなどの医学的処置を施し、夏バテ解消をはかることもできますが、そういった知識のなかった時代のことです。

 人々はその「魔」を水に流してしまえばよい。このように考えたようです。
 目に見える汚れが水で洗うときれいになる。ならば、目に見えない「魔」も同様に水で流してしまえるのではないか。
 こういった発想が出てくるのは、ある意味当然ともいえます。

 こうして、陰暦7月7日における水浴の風習が全国で見られるようになりました。

 津軽地方では、かつて岩木川の流域に沿って広く分布していたそうですが、現在は都市部から比較的離れた地域で若干残るのみで、ほとんど廃れているそうです。
 ちなみに栃木県ではこの水浴びを「眠ったながし」、福島県では「ねむた流し」と呼んでいたそうで、いずれも夏場の「睡魔を流す」意味合いが込められているそうです。

 この「ねむた流し」が、「眠たい」が「ねぷたい」に訛る過程で「ねぷた(ねぶた)流し」となって、津軽地方に「ねぶた流し」が広まったとの説があります。

 秋田県の「ねむり流し」は、七夕の頃、燈籠に火をともして川に流すことで睡魔退散、ならびに無病息災を祈る行事だそうですが、青森県のものは、これに影響されているという見方もあります。すなわち、秋田のような燈籠流しが、しだいに大規模な燈籠になり、現在のねぷた(ねぶた)に発展していくという見方です。

 ただ、燈籠を水に流さない「ねむり流し」の風習の方が全国的に広範囲にみられること、青森県において、ねぷた(ねぶた)を出さない地域でも、陰暦7月7日の水浴による「睡魔流し」の風習があるということより、水浴によって直接的に体から魔を流し除くスタイルの方が古いのではと考える人もいます。

 古代史をたどると、もともとは直接人間がかかわっていたものが、人形などに代用され、その思いを物品に託していくという過程は随所に見られるところです。
 
 人身供養はその代表的なものですが、生身の人間でやっていたものを、物品に託し、形式化していくというのは、歴史的には普通に見られることです。
 よって「ねむり流し」も、燈籠という「物品」を用いるのは、後になってからのことで、ねぶたの起源は、次のように整理推測されていくのではと考えられています。
 
 (つづく)
 
(287)ねぶたの起源 その2 2004年 7月24日(土)
 ねぶたの起源については、坂上田村麻呂が蝦夷と戦った際、敵をおびき寄せるために大きな燈籠を作ったというもの。
 また、津軽為信が京都滞在中の際に大燈籠を考案、それが津軽でねぷたとして発展していったなど、諸説あります。
 しかし、それを検証する歴史的文献が不足しているため、真偽については、よくわかりません。現存する歴史的文献、また、全国に残されている風習などから推測すると、どうも、青森県でのねぶたの発生は次のようになるのではとみられています。

・・・・・・・・・ 

 「ねぷた(ねぷた)」は、もともと、夏場の生気を奪う「睡魔流し」の陰暦7月7日の水浴が原形ではないか。
 これが、数日前から燈籠を持ち歩いて7月7日に水に流すという形に変化していったのではないか。

 山形県では、陰暦7月6日の夜、大きな松明を燃やして星の神を迎え、翌7日の夜に再び松明を燃やして星の神を送り返す行事があるそうです。
 このように火を媒介にして、夜、星の神を送り迎えするという風習が七夕伝説と結びつき、七夕祭に燈籠を持ち歩くようになったのでは、とみられています。


 本来、このように別々の行事であった「ねむり流しの水行事」と「七夕祭の燈籠」ですが、同時期におこなわれる行事だけに、影響し合い、いつしか一つとなって、七夕祭の燈籠を自身の身代わりとして、水に流すことで、厄払いを行うようになっていったと考えられています。


 弘前藩の御国日記1722年(享保7年)7月6日に、藩主信寿が12の町内から出た「ねふた」または「ねむた」を見物したとあり、この行事を「ねむた流し」としているところから、この時期(記録では最古といわれる)には、すでに、七夕祭の燈籠と水行事が弘前地方で一体となっていたことがうかがわれます。

 旅行家として有名な菅江真澄も1796年(寛政8年)の7月4日の日記で、西津軽郡木造の七夕行事について触れています。

 原文は下記のとおりです。

 暮れば 笛つつみにはやしとよめけば わらはべ おのれおのれが手ごとに 燈の器をおもひおもひに作りもて てりかがやかし ふりかざし みちもさりあへず よひより更ゐるまで 人のむれありくは れいの ねぶた流しなめり


 また、翌5日の日記には次のように記しています。


 けふ斗はとて あるじとかたらひてくるれば わらは大丈夫うちまじり ねぶたもなかれよとしありくかまひすしさ


 さらに菅江真澄は2年後の1798年(寛政10年)の7月6日の日記で西津軽郡驫木で見聞した「ねぶた流し」の行事を次のように記しています。


 (つづく)
 
(288)ねぶたの起源 その3 2004年 7月25日(日)
 くれて つつみうちふえ吹て ねぶたながしの あそびあり

 これは、旅行家 菅江真澄が1798年(寛政10年)、西津軽郡驫木で見聞した「ねぶた流し」の行事についての7月6日の日記です。

 昨日も触れましたが、こういった記録が残っているものの、いずれも文章であり、絵としてみることのできる記録は、1788年(天明8年)に弘前藩江戸屋敷に勤務していた比良野貞彦による「奥民図彙」が、最も古いもののようです。

 江戸から津軽にやって来た比良野貞彦は、津軽で見聞した風物を、絵入りの解説本にまとめましたが、ここに「子ムタ祭之図」として絵が描かれています。
 また、「大きさ二間〜五間の燈籠を作り、7月1日から6日までたいへん騒々しく練り歩く」との解説もつけており、絵の中の燈籠には「七夕祭」の文字が入っています。

 これに関連し、1797年(寛政9年)工藤白龍は、「津軽俗説撰」の中で、7月6日の夜、ねぶた流しと呼んで色々の燈籠に「七夕祭」と書いて持ち歩く、と記しています。
 彼は「津軽俗説撰」の続編の中で、世間一般では七夕祭をおこなうのがねぶたであり、秋田では眠り流しと称している。「ねぶた」は「眠たい」の略であるとも書いています。

 原文は下記のとおり

「里俗七夕祭のとぶらふをねぶたと云」
「秋田城下にて 是を眠り流しと云。ネブタは眠たいの略語にして 立秋より長夜になれば 短夜の眠たきを流しぬる俚諺なるべし」


 また、1809年(文化6年)には、弘前の氷海散人による「俚俗方言訓解」という、津軽方言について書かれた文献がありますが、それによると、七夕祭りを「ねぶた」と呼び、もともとは子どもたちが主体の行事だったが、最近は大人が主体となって、燈籠を持ち練り歩くようになった、とあります。

 原文は下記のとおり

「七夕祭りをねぶたと云」
「七夕の前 三四日已前より此事有色々燈籠をこしらえ児供のたわむれとす。近年増長して皆大人のもて遊ひものとなれり」


 この記事から、もともとは子どもでも担げるほどの小さい燈籠が、次第にスケールを大きくし、大人たちも参加して楽しむ祭りに変わっていったということがうかがわれます。

 現在のねぷた(ねぶた)の形式は、こうして固まっていったということが予想されています。

 1844年(天保15年)の「黒石地方誌」には、黒石において多数の組ねぶたを製作運行したことが記されています。このころには相当、祭りが盛んになってきたようです。


 寛政や文化年間に、すでに「ねぶた流し」という言葉が使われ、津軽地方では、七夕祭りを「ねぶた流し」、あるいは単に「ねぶた」と呼んでいたということを、こうした文献が示しています。


 先の菅江真澄は、秋田県の行事についても言及しており、南秋田郡和田で七夕行事を「眠流し」といって、火を持って歩いて桐の葉に歌を書いて川に流す。また、仙北郡の大曲では棚機祭を「眠り流し」といって、六日の夕に燈火を持って歩く風習があると記しています。

 そうすると、燈籠を用いた「ねぶた流し」は大曲、秋田、能代と日本海沿いに津軽の地に入り、津軽各地に伝播していったのでしょうか・・・・。

 菅江真澄によると、下北郡の大畑でも「ねぶた流し」の行事がみられると触れており、下北の地にも、どういうルートをたどったのかは不明ですが、行事が伝わっていったようです。

 ねぶたの起源をファンタジックな伝説世界だけに求めるだけではなく、青森県を代表する伝統芸能として学術的な考察を進めた先人の一人に松木明氏がおられます。
 ここに記した論考の多くは、松木明氏の研究成果に負っています。全国の風習と密接な関連をもたせたもので、たいへん興味深いものです。しかし、多くの方が、松木氏の偉大な先行研究を知らないとの事で、取り上げることといたしました。
 郷土研究に尽力された先人に、あらためて敬意の念を捧げたいと存じます。

 ねぶたの起源についての松木明氏の論考は、ご子息と共著の「津軽の文化誌(津軽書房 1994年)」に詳しくまとめられています。
 一読の価値があります。

 (終)


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