青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2004年7月(6)>

(289)役所のねぶた情報 @
(290)役所のねぶた情報 A
(291)役所のねぶた情報 B
(292)ねぶた囃子 その1
(293)ねぶた囃子 その2
(294)ねぶた囃子 その3
 
(289)役所のねぶた情報 @ 2004年 7月26日(月)
 青森市役所のねぶたは、昭和33年に初回の出場となっています。

 この背景には市制60周年の記念という意味合いがあったようです。
 当初、単発で出場する予定か、あるいは財源的に無理だったかで翌年は欠となってしまいました。しかし、その次の年の昭和35年からは復活出場で、以来連続出場となっています。

 その運行は現在「青森市職員互助会」(人事課内)で「青森市役所ねぶた実行委員会」として運営されていますが、当初、出場2回目以降の10年位は「市職員労働組合」で出していたそうです。

 ねぶたの形態の流行として昭和40年中頃までは、ねぶた(山車)のスケールが小さく、細かい絵柄のものが主流だったそうですが、それ以降、現在のように大作りで、遠くからでも映えるねぶたに転換したようだとのことです。

 市役所のねぶたでいくと、昭和45年「項羽の馬なげ」の作品からがその様で、実に田村麿賞の受賞となっています。

 ねぶたの制作者は、3〜7回目ぐらいは職員の手作りだったということです。

 それ以外は、ねぶた師さんにお願いしているとのこと。
 囃子方は、本来その団体に所属する人が出るのが好ましいらしいですが、笛などは3年ぐらい修行が必要らしいので、最初はできる人を借りていたとのことです。

 現在は、市職員やその家族が主体となっています。

 このような役所の情報は10年単位で破棄されるケースが多く、また、退職に伴って初期の情報を記憶されている方の減少により、ねぶた史もあやふやになりつつあるようですので、まだ、当時のことを記憶されている方がいるうちに、青森市役所ねぶたの情報を集めました。先日、青森市役所の担当部署より情報が到着しました。ねぶたの時期でもありますので、このような情報もご紹介させていただきます。


 青森市役所ねぶたの運行史、まずは昭和のみを示します。

※回数 年度 題名 作者の順となっています。
1 昭和33・・桜と児島高徳【市制60周年】・・・北川金三郎 
欠   34 
2   35・・茨木・・・・・・・・・・・・・・北川啓三 
3   36・・仁田四郎と曽我の十郎・・・・・・堀内北民 
4   37・・坂田金時と鬼童丸・・・・・・・・堀内北民
5   38・・素戔嗚尊の大蛇退治・・・・・・・堀内北民 
6   39・・源頼光と酒天童子・・・・・・・・秋田覚四郎
7   40・・九紋竜と花和尚・・・・・・・・・堀内北民 
8   41・・風雲児織田信長・・・・・・・・・鹿内一生
9   42・・大蛇退治・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
10   43・・川中島・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
11   44・・玉藻の前・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
12   45・・項羽の馬なげ【田村麿賞】・・・・鹿内一生・転換期
13   46・・金剛力士【田村麿賞】・・・・・・鹿内一生 
14   47・・国引・・・・・・・・・・・・・・一戸意生
15   48・・風雲児信長・・・・・・・・・・・穐元清有 
16   49・・九紋竜と鉄牛・・・・・・・・・・穐元清有
17   50・・三国志【知事賞】・・・・・・・・鹿内一生 
18   51・・四条畷(楠木正行)・・・・・・・一戸意生
19   52・・水滸伝・・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
20   53・・素戔嗚尊「大蛇退」【田村麿賞】・穐元無生・市制80周年
21   54・・本能寺・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
22   55・・坂上田村麻呂・・・・・・・・・・穐元無生
23   56・・九紋竜と陳達【知事賞】・・・・・穐元無生 
24   57・・坂田公時・・・・・・・・・・・・穐元無生
25   58・・三国志(高覧〜趙)・・・・・・・穐元鴻生 
26   59・・勢多の唐橋・・・・・・・・・・・穐元無生
27   60・・和藤内・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
28   61・・戸隠の青嵐・・・・・・・・・・・穐元無生
29   62・・左甚五郎・・・・・・・・・・・・穐元無生
30   63・・雷神・・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
(つづく)
 
(290)役所のねぶた情報 A 2004年 7月27日(火)
 青森市役所ねぶたの運行史です。
 昨日と重複いたしますが、資料として活用しやすいように、昭和からの通年データで掲載しております。

1 昭和33・・桜と児島高徳【市制60周年】・・・北川金三郎 
欠   34 
2   35・・茨木・・・・・・・・・・・・・・北川啓三
3   36・・仁田四郎と曽我の十郎・・・・・・堀内北民 
4   37・・坂田金時と鬼童丸・・・・・・・・堀内北民
5   38・・素戔嗚尊の大蛇退治・・・・・・・堀内北民 
6   39・・源頼光と酒天童子・・・・・・・・秋田覚四郎
7   40・・九紋竜と花和尚・・・・・・・・・堀内北民 
8   41・・風雲児織田信長・・・・・・・・・鹿内一生
9   42・・大蛇退治・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
10   43・・川中島・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
11   44・・玉藻の前・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
12   45・・項羽の馬なげ【田村麿賞】・・・・鹿内一生・転換期
13   46・・金剛力士【田村麿賞】・・・・・・鹿内一生 
14   47・・国引・・・・・・・・・・・・・・一戸意生
15   48・・風雲児信長・・・・・・・・・・・穐元清有 
16   49・・九紋竜と鉄牛・・・・・・・・・・穐元清有
17   50・・三国志【知事賞】・・・・・・・・鹿内一生 
18   51・・四条畷(楠木正行)・・・・・・・一戸意生
19   52・・水滸伝・・・・・・・・・・・・・鹿内一生 
20   53・・素戔嗚尊「大蛇退」【田村麿賞】・穐元無生・市制80周年
21   54・・本能寺・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
22   55・・坂上田村麻呂・・・・・・・・・・穐元無生
23   56・・九紋竜と陳達【知事賞】・・・・・穐元無生 
24   57・・坂田公時・・・・・・・・・・・・穐元無生
25   58・・三国志(高覧〜趙)・・・・・・・穐元鴻生 
26   59・・勢多の唐橋・・・・・・・・・・・穐元無生
27   60・・和藤内・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
28   61・・戸隠の青嵐・・・・・・・・・・・穐元無生
29   62・・左甚五郎・・・・・・・・・・・・穐元無生
30   63・・雷神・・・・・・・・・・・・・・穐元無生 
31 平成1・・平 将門【囃子奨励賞】・・・・・穐元無生
32   2・・決闘巌流島・・・・・・・・・・・穐元無生 
33   3・・羅生門・・・・・・・・・・・・・穐元無生
34   4・・仁田四郎神霊を見る・・・・・・・穐元無生 
35   5・・武田信玄・・・・・・・・・・・・穐元無生・市制95周年
36   6・・赤坂宿の牛若丸と長範・・・・・・穐元無生
37   7・・西天の守護神 四天王 広目天・・穐元無生
38   8・・村上義光錦旗奪還の図・・・・・・穐元無生 
39   9・・金剛力士・・・・・・・・・・・・穐元無生 
40   10・・石槍縄文虎牙に舞ふ
       【商工会議所会頭賞】・・・・・・穐元無生・市制100周年
41   11・・風雲児信長・・・・・・・・・・・穐元無生 
42   12・・夢中現鍾馗・・・・・・・・・・・穐元無生
43   13・・武松大虎退治・・・・・・・・・・穐元無生 
44   14・・暫・・・・・・・・・・・・・・・穐元無生
45   15・・鬼神 茨木童子・・・・・・・・・穐元無生 
46   16・・武蔵坊弁慶 仁王立・・・・・・・穐元無生
※ 穐元清有→穐元無生→穐元鴻生(改名による同一人物)

・・・・・・・・・・・・・

 さて、青森県庁ねぶたの情報も入手しております。
 それは明日、ご報告いたします。

 (つづく)
 
(291)役所のねぶた情報 B 2004年 7月28日(水)
 青森県庁ねぶた運行史

※年度、題名、作者の順に掲載。

昭和36・・坂上田村麿 蝦夷征伐・・・・・・・・・・秋田覚四郎
  37・・桃太郎の鬼退治・・・・・・・・・・・・・北川啓三
  38・・河津三郎と俣野五郎・・・・・・・・・・・北川啓三
  39・・楠左衛門督正行と高武蔵守師直・・・・・・北川啓三
  40・・勧進帳・・・・・・・・・・・・・・・・・北川啓三
  41・・児島備後三郎高徳・・・・・・・・・・・・北川啓三
  42・・「弓張月」鎮西八郎為朝と八町礫紀平治・・北川啓三
  43・・(不参加)
  44・・川中島・・・・・・・・・・・・・・・・・北川啓三
  45・・鍾馗と鬼【奨励賞】・・・・・・・・・・・北川啓三
  46・・茨木童子「綱館」・・・・・・・・・・・・北川啓三
  47・・「紅葉狩」平維茂と鬼女・・・・・・・・・北川啓三
  48・・櫻丸、梅王、松王・・・・・・・・・・・・北川啓三
  49・・連獅子・・・・・・・・・・・・・・・・・北川啓三
  50・・風雲児 信長・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  51・・「喝」 柳生石舟斎宗厳・・・・・・・・・鹿内一生
  52・・三国志・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  53・・川中島・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  54・・驪龍之玉・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  55・・「水滸伝」呂方と敦盛・・・・・・・・・・鹿内一生
  56・・金剛力士・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  57・・風神・・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  58・・雪の吉野山「佐藤忠信と横河の覚範」・・・鹿内一生
  59・・「喝」 柳生石舟斎宗厳【製作賞】・・・・鹿内一生
  60・・龍王・・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  61・・弁慶・・・・・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  62・・奥州の雄 独眼竜正宗・・・・・・・・・・鹿内一生
  63・・勧善懲悪 不動と龍【田村麿賞】・・・・・鹿内一生
平成1・・風雲児 信長【知事賞】・・・・・・・・・鹿内一生
  2・・決戦 関ヶ原・・・・・・・・・・・・・・鹿内一生
  3・・孫策と道人・・・・・・・・・・・・・・・川村心生
  4・・津軽為信・・・・・・・・・・・・・・・・川村心生
  5・・明智光秀 小栗栖の場・・・・・・・・・・川村心生
  6・・宇治川先陣争奪・・・・・・・・・・・・・川村心生
  7・・巴御前の奮戦・・・・・・・・・・・・・・川村心生
  8・・決戦 川中島・・・・・・・・・・・・・・川村心生
  9・・黒旋風李逵虎を倒す【商工会議所会頭賞】・川村心生
  10・・三国志 虎牢関・・・・・・・・・・・・・川村心生
  11・・雪の奮戦 佐藤忠信・・・・・・・・・・・川村心生
  12・・坂上田村麻呂と悪路王・・・・・・・・・・川村心生
  13・・羅生門・・・・・・・・・・・・・・・・・穐元鴻生
  14・・八之太郎と南祖坊・・・・・・・・・・・・穐元鴻生
  15・・津軽為信【海上運行賞】・・・・・・・・・穐元鴻生
  16・・五条大橋・・・・・・・・・・・・・・・・穐元鴻生
(資料提供 青森県庁 総務部総務学事課)

 青森県庁ねぶたの歴史については、はじまりの頃の状態があまりわかっておらず、運行史のみ、残されているだけでした。ねぶた好きの方々が、それこそ手弁当で始めていったという情報は耳にしておりましたが、詳しいことはよくわかっていませんでした。
 が、ひょんなことから、長いこと県庁ねぶたの囃子方の中心になっていたという方(現在は退職、囃子方も引退)に会えることとなりましたので、県庁ねぶたの運行史の背後にどのようなご苦労があったのか、伺ってみたいと考えております。報告は9月以降になるかと存じますが、忘却の彼方に向かいつつある、県庁ねぶた(特に囃子方)の過去情報を明確にしておくことができそうで、喜んでいるところです。

 ※昭和43年の不参加は、青森県の最初の財政難による理由らしい、とのことでした。


(終)
 
(292)ねぶた囃子 その1 2004年 7月29日(木)
 ねぶた&ねぷた祭りまで、あとわずか。県内あちこちで、ねぶたの囃子が聞かれる時期となりました。
 先日、7月17日の「津軽の横笛」に引き続いて、秋村しおり氏より「ねぶた囃子」についての資料文が到着しました。祭りの時期に合わせ、本日から、連載をスタートさせたいと存じます。なお「津軽の横笛」を未見の方は、そちらも合わせてご覧いただけますと、より一層、理解が深まるかと存じます。

・・・・・・・・・・・

※「ねぶた」「ねぷた」「侫武多」など、複数の表記による混乱を避けるため、特別「ねぷた」と書かれているもの以外、「ねぶた」と呼ぶこととする。

 【はじめに・・】

 ねぶたには、人形ねぶたの青森系統と、扇ねぷたの弘前系統がある。
 そして、青森ねぶたの囃子を凱旋の節、弘前ねぷたの囃子を出陣の節とも言う。

 まず、その起源について述べたい。
 幕府や公家達から盆燈籠が献納される宮中の恒例行事として、京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)がある。これを見て、津軽藩主が津軽地方に導入していったというのが、ねぶたの起源の一つとされている。

 盆燈籠の原形は、祖先の霊をまつる祖霊祭や、農民の収穫感謝祭、悪霊を退散させる行事の中に見られる。これがいつの間にか、睡魔退散の眠り流しにすり変えられ、それが燈籠祭になり、津軽藩主為信の政策が、大規模行事へ発展するきっかけを作り、今あるようなねぶた祭りになったと考えられる。

 木村弦三氏はこのことについて、「藩主為信公が、燈籠を利用して、わが津軽の存在を京都人に知らしめた奇知と、その宗教的色彩を帯びた行事を自国に移入して、文化発展、やがては民衆の娯楽機関とした(郷土誌うとう)」と述べている。

 起源としてのもう一説には、平安時代の坂上田村麻呂の蝦夷征伐の話がある。
 征夷大将軍となった田村麻呂が、蝦夷征伐の時に、張子の人形を作り、笛・太鼓で囃したてた。そうしたところ、蝦夷が、「あれは何だ?」という意味の「ネプタン?」と言って、山から出てきたので、征伐できたのだという。これは伝説のように言い伝えられていることだが、津軽各地には実際、田村麻呂ゆかりのものが残されている。
 征伐の際にかぶったといわれる、十二の鬼面は、青森市重要文化財として、大星神社に奉られている。
 なお、この大星神社は、田村麻呂が建立したといわれている。

 参考まで、田村麻呂ゆかりの神社を以下に示す。

・岩木山神社(岩木町)・・・・・延喜19年社殿を建立
・猿賀神社(尾上町)・・・・・・延暦12年寄進
・善知鳥神社(青森市安方)・・・大同2年再建
・大星神社(青森市横内)・・・・延暦20年神を祭る
・熊野奥照神社(弘前市田町)・・田村麻呂を配祀す
・鬼神社(弘前市鬼沢)・・・・・延暦年中に再建
・乳井神社(弘前市乳井)・・・・延暦年中に勧請
・厳鬼山神社(弘前市十腰)・・・大同2年再建
・胸肩神社(弘前市品川町)・・・大同2年創建
・御前神社(八戸市湊町)・・・・摂政10年再興
・長谷沢神社(黒石市上十川)・・大同元年創建
・松倉神社(五所川原市前田)・・大同2年再建
・十和田神社(十和田湖町)・・・大同2年建立
・七崎神社(八戸市豊崎)・・・・大同2年建立
・白八幡宮(鯵ヶ沢町)・・・・・大同2年創立
・今別神社(今別町)・・・・・・大同2年奉斉
・雷電宮(平内町)・・・・・・・延暦20年建立
・生魂神社(田舎館村)・・・・・大同年間に創立
・正八幡宮(藤崎町)・・・・・・大同2年創建

(つづく)
 
(293)ねぶた囃子 その2 2004年 7月30日(金)
 秋村しおり氏の文面のつづきです

◆ ◆ ◆

 
 ねぶたのことを、絵として最初に表しているのは、比良野貞彦著による「奥民図彙(おうみんずい)天明8年(1788年)」である。
 これを見ると、箱型の燈籠に、七夕祭、織姫祭の文字が見られ、現在のような構造や絵などは見られない。その後、文化年間(1804〜1818年)になると、ねぶたが大型化され、人形ねぶたが創案される。

 箱型のものから人形化された理由として、天和2年(1682年)に、弘前総鎮守八幡宮の祭礼が始められ、その山車の影響があったこと、延享2年(1745年)疫病神を送る人形祭りとして、虫送りがおこなわれたことなどがあげられる。
 その上、江戸時代後期には、町人の経済力が増し、資力と技術と時間を必要とする人形ねぶたを作れるだけの生活の余裕が出てきた。華やかさを好んだ町人が、ねぶたを人形化し、大型化していったのであろう。

 その後、魔物退散の願いが込められた人形ねぶたが流行するようになるのだが、弘前が今のような扇ねぷた中心になったのは明治に入ってからである。
 これは県庁が青森に移り、城下町としての機能が薄れてきたため、財政的な理由もあって、費用が安く工作の簡単な扇ねぷたが作られるようになったためといわれている。

 安永年間(1772〜1781年)には、青森で、男女たび素足にカネをたたいてはやしながら、衣装を着飾って踊った、という記録が残されている。
 また、天明8年(1788年)の「奥民図彙」には、「笛、太鼓にて はやし夜行す」と記されている。
 文久年間(1861〜1864年)の「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙 画)」には、太鼓や鈴や手木(てぎ)などの鳴りものを持ったり、提灯をかかげたりした群集が、ねぶたのまわりを踊り狂っている様子が描かれている。楽器に横笛がないのは、藩政時代に、笛は冷風を呼ぶとして、冷害と関係づけられて使用を許されなかったためと考えられている。ただし、「放」という長笛は使われていたらしい。
 法螺貝については、武家の戦陣における合図の用具であったので、使用できなかったのではないかといわれている。


 祭り囃子のはやし言葉は「奥民図彙」によると、「ねぶたは流れろ、まめの葉はとどまれ いやいやいやよ」であり、これは明治以降になっても「ねぶたコ流れろ、まめの葉コ とっつぱれ」で大きな変化はなかった。
 おそらく、「津軽年中風俗画巻」に描かれていた群衆も、このようなはやし言葉を唱えていたに違いない。
 現在も、ねぶた流しのわらべ唄として、このはやし言葉は残っている。

 およそ200年にわたり、この言葉が受け継がれてきたわけだが、それに伴った囃子の中にも、おそらく何かの共通するものがあったのだろう。

 レコード「津軽のわらべ唄」の中から、ねぶた流しのわらべ唄を分析すると、2小節、あるいは4小節ごとに旋法が変わり、陽、陰、どちらの旋法も含まれている。陽から陰へ、陰から陽へと自然に旋法が流れているのは興味深いことで、これと同じことが、弘前ねぷたの「戻り」にもいえる。

 明治になってからのねぶた囃子について松野武雄氏が書き伝えているところでは「明治8、9年頃のねぶた囃子は、石油かんに小石をつめて、これを引きずりまわして、また、太鼓もやたらぶったたき、かつ、どなり、ホラガイを吹くこともあり、つまり、やかましい一方、これぞと統一の調子もなかった(ねぶた小考)」という。明治に入ってからも、囃子は整えられていなかったらしい。
 また、松野氏は「今日のような調子は、おそらく明治15、16年ごろの笛とねぶた好きの〜中略〜発明であろう」とも書いている。

 明治維新の後、政府から任命され、青森県初代権令となった菱田重禧は、明治政府のエリートとして、または文明開化の旗手として、地方の旧習を野蛮な悪習とし、ねぶた、盆踊り、虫送りなど、すべて愚民をたぶらかすものとして禁止令を出したという。
 正式にその禁止令が解除になったのは、明治15年。その頃に、ねぶたの囃子が、もとからあった他の祭り囃子の影響を受け、完成に向かったということは、充分考えられることである。

 (つづく)
 
(294)ねぶた囃子 その3 2004年 7月31日(土)
 さて、昨日の30日、黒石ねぷた祭りが開幕しました。黒石市、尾上町、田舎館村から集まった人形ねぷた13台と扇ねぷた62台が合同運行。「ヤーレ、ヤーレヤー」という掛け声が元気に夜空に響き渡ったようです。
 今年は、市制50周年を記念した黒石市役所の人形ねぷた、そして、学校創立30周年を祝い初参加した黒石商業高校の担ぎねぷたなど、例年以上の熱気を見せているそうです。これから、県内各地で、いよいよ「熱い夏」がスタート。秋村しおり氏の文面も、これに合わせまして、本日より核心部分に入ります。


・・・・・・・・・・・・・


 【津軽地方各地のねぶた囃子】

 津軽地方で、ねぶた祭りをおこなっている所は(※文面作成の昭和56年時点)、県の観光課に問い合わせたところ、11ヶ所あり、それも日程のはっきりしているものだけなので他にもおこなわれている場所はいくつかある。
 そのうち、私が採集することのできた、青森市・弘前市・五所川原市・深浦町・黒石市の5ヶ所をとりあげて述べていきたいと思う。


  ●第1節 青森市●

 ねぶた祭りが華やかに繰り広げられるのは8月2日〜7日で、期間中には300万人の観光客が訪れるという。この祭りを盛り上げているのは、金属製の芯で作った土台に和紙を張り、鮮やかに色づけされた大型の山車の、高い芸術性と、ハネトと呼ばれる踊り子たちの熱気であり、そのエネルギーに、見ている側が共鳴するからであろう。

 数万人のハネトが「ラッセラー」の掛け声と共に、笛・太鼓・鉦の囃子に合わせて跳ねながら踊る。そのハネトの流れの合間をゆったりと、時には速度をあげ、時には回転技を披露し、灯の燈ったねぶたが進んでいく。お祭り好きの人間はどこにでもいるが、青森の場合狂気に近い勢いがある。

 青森市のねぶた囃子を分析すると、進行、戻りとも、陽旋法となっている。
 「進行」は祭りの行進のときに奏され、「戻り」は祭りが終わったあと、ねぶた小屋まで帰るときに奏される。

 跳躍的な「進行」の囃子はテンポが速い。「進行」の太鼓は、1小節中で最後になる八分音符に強いアクセントがつき、「戻り」の太鼓は、はじめの音にアクセントがつく。

 「進行」と「戻り」の笛の旋律を比較してみると、小節中の終止音が違っている以外、基本的なメロディーは変わらない。

 「進行」の方が、終止音が長二度高くなっており、装飾音や細かなリズムも多い。これは進行の囃子として、華やかさを求められるためであろう。


  ●第2節 弘前市●

 出陣のねぶたといわれている弘前ねぷたは、扇ねぷたに三国志の絵が描かれている。
 行列には山車や山伏をかたどった等身大の張子の人形が加わり、笛・太鼓・鉦に「ヤーヤ ドー」のかけ声で行進が続く。青森市とは違った荘厳な落ち着いた感じを受ける。
 百台以上も出るねぷたは30mほどの間隔をおいて、数珠つなぎになっていて、夜の闇に浮かぶ。そのねぷたの灯はたいへん印象的に映る。まるで、巨大な河をゆらゆらと流れる灯篭流しの幻想的な灯のようである。

 弘前の囃子には、笛の囃し方が多いのが目立つ。
 弘前の場合、伝統を重んじた気風がしのばれ、中でも「休止」の曲などは特徴的だ。これは、他のねぶた囃子には、みられないものである。
 この「休止」の曲は、青森市のねぶた囃子を聞き慣れた私には、異国の音楽のように思われたが、実際の祭りの中では、ごく自然にとけこんでいて、何の違和感もなかった。

 青森市と弘前市の囃子の比較だが、青森の「戻り」と弘前の「進行」は、3と4拍目が同じになっている。また、注意深く聞いてみると、青森の「戻り」の旋律は、弘前の「進行」の前半と後半を逆にしたものと考えられる。

 弘前と青森を比較すると、歴史的にみて弘前の方が古いので、青森のねぶた囃子は、弘前の「進行」の囃子から派生したものではないかと思われる。
 青森は「凱旋ねぶた」といわれるように、勝どきをあげて帰ってくる様子を表すために、4拍目を長二度下げずに、勇壮さを出して「進行」の囃子とし、「戻り」の方は、その日のねぶたが終わってしまった、一種の寂寥感を表現するために、弘前の囃子がそのまま残ったのではないか・・。

(つづく)


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