(295)ねぶた囃子 その4 |
2004年 8月 1日(日) |
秋村氏の文面つづき。なお、日付は昭和56年(文面作成年)が起点となっております。
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●第3節 五所川原市●
五所川原市は、西北地方の中心地である。ねぶたは8月3日から6日までの間、おこなわれ、私の採集した五ヶ所のうち、人形ねぶただったのは、青森市以外は、五所川原市だけだった。ねぶたの期間中、8月5日には、虫送りもおこなわれている。 行った日は、ちょうど台風で運行が中止になってしまったが、囃子のテープが市役所にあり、それを録音し、分析することができた。 五所川原市の囃子には旧調と新調があるが、現在では、旧調が奏されることは、ほとんどないということである。 新調の方の太鼓は、2回繰り返して元にもどるが、曲のはじめに付け足しになった形の2拍があるために太鼓が2拍ずつ、ずれていくことになる。 太鼓がこのようなシンコペーションになっているのは珍しく、私の採集したものの中でも、宮田獅子舞の「道獅子」だけだった。 石田光男氏の採譜の新調は21小節もあり、途中で旋法が変わっている。私の採譜したものは、全14小節だったが、これは旋法が変わる前のところまでの省略形の囃子だったのかもしれない。 いずれにせよ、青森・弘前・黒石などは、囃子が6小節か7小節であるのに対し、五所川原のものは、祭り囃子としては、ずいぶん長い曲となっている。 五所川原市の虫送りの囃子は、青森のねぶたの囃子とほとんど同じであるのに、ねぶたの囃子はまるで違っており、虫送りの囃子との共通性が薄い。これより、青森や弘前の囃子とはまったく異なった系統の囃子の旋律であるということがうかがわれる。太鼓のリズムにしてもそうだが、獅子踊りの旋律に似ているようにも思う。
●第4節 黒石市●
黒石市のねぶたは扇ねぶたが多く、メインストリートの道幅いっぱいに、80台以上の扇ねぶたが運行されていた。 取材の日は合同運行の日で、1日から7日までの祭りの期間中、一日だけの合同運行とあって、黒石の人たちは道路の両側に大勢つめかけていた。 黒石ねぶたを見て感じたことは、本来ねぶた祭りとは、きっとこんなふうだったのではないかということである。 派手さや、近寄りがたさはなく、手をのばすと、ねぶたに触れることができるほど、見ている側との距離が近い。素朴な人間の喜びの声を聞いたように思う。
囃子は、「進行」「休止」「戻り」と、はっきり演奏される。 囃子が「戻り」に変わったとたん「ネープタの もーどりコ」と子どもたちが囃し始める。間髪いれない絶妙なタイミングは、祭りを小さい頃から自分の文化として吸収・消化し、心と一体化した熱い思いを感じさせる。 黒石の囃子は他と比べてテンポが遅い。しかし、それが狭い道や田んぼ道を通って進んで行くと、暗闇の草の匂いとねぶたの灯りと囃子とが、懐かしいようなコントラストで見えてくる。『本来のねぶた祭り』はきっと、こんな形だったのではなかっただろうか。 囃子方は太鼓は大人が多いが、笛は小学生ぐらいの子どもが多かったのも印象的だった。
黒石の「進行」の囃子と、青森の「戻り」の囃子を比較すると、4、5、6小節目のはじめに音の高さの違いがあるだけで、ほとんど同じ旋律になっている。
●第5節 深浦町●
深浦町は主に扇ねぶたで、太鼓を腰に固定し、歩きながら奏することが特徴である。 それによって、自然とテンポは歩調と同じになり、たいへんゆったりとした曲になっている。深浦で採集したものを分析すると、「進軍」が陽旋法12小節、「凱旋」陽旋法28小節であった。
以上述べてきたところをまとめると次のようになる。
【進行】 【戻り】
★青森市 7小節・陽 7小節・陽
★弘前市 6小節・陰 18小節・陰
★五所川原市 14小節・陽 ※
★黒石市 6小節・陰 7小節(レ・ミ・ファ・ソ・ラの5音)
★深浦町 12小節・陽 28小節・陽
なお、休止として、黒石市は8小節・陽、弘前市は「ミ・ファ・ソ・シ・レ」、または「ラ・シ・ド・レ・ファ」の五つの音から成り立つ。
※陽音階は五つの陽旋法から成り、陰音階は四つで、それぞれに五つの陰旋法を持つ。
(つづく)
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(296)ねぶた囃子 その5
| 2004年 8月 2日(月) |
いよいよ、ねぶた&ねぷた祭り本番の時期となってきました。秋村氏のねぶた囃子についての文面も、ここでまとめとなります。
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【ねぶた囃子のルーツを探る】
●第1節 獅子踊りとの比較●
新田獅子踊りと青森ねぶた囃子を比較してみると、どちらも「ラ・ド・レ・ミ・ソ・ラ」の陽旋法が使われており、旋律の形は、ほとんど同じである。リズムの形も似ているが、ねぶたの方には符点のあるのが特徴といえる。 これは、踊りとしての囃子ではなく、祭り囃子として変化を持たせるためと、太鼓によるアクセントが関係していると考えられる。
新田獅子踊りの囃子のサンプルとして、五所川原市に隣接する木造町のものを利用した。
獅子踊りは1660年以降、虫送りは1745年、ねぶたは明治以降という、囃子の発生した年代からみて、獅子踊りの囃子が、まず、虫送りの囃子に影響を与え、その後、青森のねぶた囃子へと派生していったことが考えられる。
また、尾崎獅子舞と弘前ねぷた囃子を比較してみたのだが、旋律はよく似ており、使われているリズム形も同じものである。このように、ねぶた囃子は、獅子踊りの曲の影響を受けていることがわかるのである。 しかし、長い獅子踊りの曲の中で、どうしてその部分だけが抜き出されたのかはわからない。ただ、次のような可能性は考えることができる。 獅子踊りを実際におこなうとき、家々の前でおこなう「庭ぼめ(花ほめ)」や踊りの山場となる「山かけ(山納舞)」は、何度も繰り返しておこなわれるので、そのメロディーが、人々の中にしみついた・・。
●第2節 虫送り、下山囃子との比較●
まず、虫送りの囃子と、青森ねぶた囃子を比較してみる。 いずれも、「ラ・ド・レ・ミ・ソ・ラ」の陽旋法であるが、両者を比較してみると、ねぶた囃子の原形というより、もとからあった虫送りの旋律に、ねぶたの旋律が混入してできたように思われる。
虫送りは、もともと各集落ごとにおこなわれていた。戦後、虫送りが夏祭りとして毎年おこなわれるようになってから、民謡協会でもその祭りに参加するようになり、青森で派手におこなわれていたねぶたの囃子を虫送りの囃子としたのではないか。
はじめは、虫送りの旋律が、ねぶたの旋律に影響を与え、その後、逆にねぶたの旋律が虫送りの旋律に影響を与えたのではないか。
次に、お山参詣の際に奏される下山囃子と、弘前のねぷた囃子(戻り)の比較をしてみる。違いが見られるのは6小節目までで、あとは、ほとんど同じ旋律である。
弘前のねぷたの「戻り」が、深浦を除く他のねぶた囃子と違い、18小節もあるのは、下山囃子から派生したものだからであろう。
「戻り」も「下山」も、同じ通り拍子の「帰り」としての意味があり、岩木山のある弘前市のねぷたの「戻り」に下山囃子が使われていても不思議はない。
●第3節 まとめ●
今までも述べたように、ねぶた囃子は独立して出来上がったものではない。 獅子踊りや虫送り、そして下山囃子などの影響を受けている。
囃子の発生が一番新しいねぶた囃子であるが、これほどまでに地に根付いたメロディーとなったのは、人の心に響く、祭り囃子としての要素があったからであろう。
昔から伝承されてきたリズムや、旋律が含まれ、祭りとして華やかであるがために、ゆるぎないものとなったのではないか。
ねぶた囃子と虫送りの囃子は、影響しあった上、今や同じといってもよいほどになり、金木地方でおこなわれている七夕祭りの荒馬囃子には、ねぶたの囃子と似ている曲が使われ、また、その金木では、虫送りとねぶた囃子とが、まったく同じ囃子としてあつかわれている。
ねぶたに関するわらべ唄もあり、津軽の人間にとって、ねぶたは、生活から切り離せないものとなっている。
今やねぶた囃子は津軽の祭り囃子として代表的なものになっているが、その根底には、長い歴史を経て、人々が持っていた叫びとしての祭り囃子の集大成した姿がある。
(完)
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(297)虫送り その@
| 2004年 8月 3日(火) |
ねぶた囃子に影響を及ぼした「虫送り」についても秋村しおり氏は触れていました。昨日までの「ねぶた囃子」とは項を改め、ご提示いたします。日付は昭和56年(文面作成年)が起点となっております。
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虫送りは、作物の病害虫をはらい、疫病退散、五穀豊穣の祈願をこめた農村独特の風習であり、田植えが終わり、ひと休みに入る「さなぶり」の期間におこなわれる神を迎える行事である。 この風習は、青森県に限らず、藩政時代から昭和のはじめごろまで、かなり広域に、しかも各地域ごとに行われていた。青森県内で今なお盛んなのは、西北地方に限られているが、その中でも五所川原市は、昭和39年以来、夏祭りの一環として、毎年8月5日に行うようになった。
五所川原市は西北地方の中心地で、ねぶた祭りも8月3日から7日にかけておこなわれる。 その期間中である5日の午前中から昼過ぎまで、虫送りの行事がくり出す。
青森県に住みながら、今まで一度も、この虫送りを見たことのない私は、その囃子が、ねぶた囃子とよく似ているということで、わくわくしながら汽車に乗った。 その日は、台風の予報が出され、あいにくの雨だった。駅に降りたとたんに、私の耳には聞き慣れた囃子の音が飛び込んできた。祭りの様子はまるで違う見知らぬ土地で、台風など関係ないといった顔として、その祭り囃子が流れていた。
虫送りは、午前中、街を練り歩き、午後は市役所前の広場で審査がおこなわれた。 虫送りの形態は、竜をかたどった10mほどもあるワラ人形を、飾りつけたトラックに乗せたり、おみこしのように何人もで肩にかついだりして、踊り手、囃子方、ムシ(ワラ人形)の順に続く。 踊りの行列には、子どもが荒馬を模造したものを着けて踊ったり、太刀振りの舞や山車、棒振り、ハネトの踊りなどがあり、それぞれの組によって違いがある。 囃子は、笛・太鼓・鉦で奏され、これも組により、多少の違いはあるが、ちょっと聞いただけでは、青森市のねぶた囃子とほとんど変わらない。虫送りで使われる笛は、手作りのものも見うけられ、ビニール管に穴をあけただけのものもあった。 笛は4〜6人、太鼓は3〜5人、鉦は4〜6人の構成になっている。 同じ作りのワラ人形でも、いろいろな工夫が見られ、口から煙を吐くものや、竜の目玉が電球になって光るようになっているものなどがあり、大きさも様々で、大きいものは15m以上もあった。踊りや衣装にも、各組による個性の表れがはっきりしている。
「ムシ」を出しているのは、昔は各集落ごとだったが、今はそれぞれの村の保存会の他、青年団や、有志でつくった同好会や、民謡協会などからも出していて、去年の虫送りには、合計12組の出場があった。
中里町の笛の名人、伏見勇次郎氏の語るところによると、五所川原市でおこなわれている虫送りの笛は、ほぼ、青森ねぶたの囃子であり、太鼓の打ち方が違っている程度。ただし、中里の虫送りは特別で、五所川原市のものとは全然違う曲だと言っていた。
笛のメロディーを分析すると、五所川原市の虫送りはすべて陽旋法で、小節数は6小節か7小節、太鼓の打ち方は5種類である。 一方、伏見氏の言う中里の虫送りは陰旋法となっている。旋法は異なるが、私の採集した虫送りの囃子は、6小節か7小節のどちらかで構成されていた。
五所川原市の虫送りを見て、同じような囃子であるのに、ねぶたとは違った土着のものといった印象を受けた。それは、なぜなのか。 昔から同じ形態でおこなわれてきた歴史の重さなのかもしれない。
ねぶたのような派手さはなく、ワラでつくられた「ムシ」には、張子の人形にはない、汗の匂いと、人々の願いがつめこまれた頑なさを感じることができた。
(つづく)
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(298)虫送り そのA
| 2004年 8月 4日(水) |
昨日の秋村氏の文面をバックアップする資料として、事務局に寄せられている他の「虫送り」情報を参考資料として、以下、ご提示いたします。
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「虫送り」をやらねば凶作になる、とのことで、虫送りは、津軽一帯では普通に見られるものでしたが、現在は、ほとんど廃れているといいます。
かつては「何虫送れば稲虫送るじゃ・・・、どこまで送れば・・・」などの言葉を唱えながら行列を作り、4〜5メートルもある草やワラ製の竜に似た虫を神社や村境の樹にかけることで集落の災厄を追い出す行事であったといいます。
◆獅子による道清め ◆「五穀豊穣・害虫退散」のノボリ ◆虫 ◆笛・太鼓などの囃子方 ◆燈籠や集落の厄を拾い集める大傘 ◆3人1組の荒馬踊り ◆太刀振り&ハネト行列
上記のようなスタイルの行列で、にぎやかに踊りながら、盛大に「虫送り」の行事がおこなわれたということで、行列の最後には山車が続き、忠臣蔵などがリヤカーの上で演じられることもあったようです。
太刀振りは現在、主として女の子によって踊られ、二列に組んで、飾り棒を持って、たがいに軽く叩き合ったり、片手で地面に落としたりの動作で楽しく踊られますが、かつては若い剛の者が日本刀などを用いて踊ったそうです。しかし廃藩置県後、さすがに警察の取り締まりが厳しくなって、真剣は使われなくなり、丸太を削って代用されるようになりました。昔は太刀振りは男性が中心だったということです。
さて、かつては、「虫送り」は昼の部(午後1時〜6時頃)と夜の部(7時以降)にわかれ、夜の部は燈籠に灯を入れ、お山参詣の「戻り」のスタイルで踊ったそうです。
昼の部から飲み続けたお酒の影響もあり、夜のハネトは激しく乱舞。こういった夜の部も戦後廃れ、現在の虫送りは、昼の部のみが残されるだけとなっています。
さて、虫送りに「荒馬」が出るのは、かつて虫害でどうしようもなかったときに、暴れ馬が出て、田のあぜを狂い走った。 そのことで虫の卵が落とされ、被害が少なかった。 そこで、荒馬を模して、その勢いで害虫退散を願うようになった、とのいわれがあります。 また、疲労した人馬を励ます目的もあったようです。
踊りのスタイルは、一人が馬の模型を身にまとい、他の二人が両側で手綱をとって踊る3人1組のものがもっとも多いようです。また、男女ペアになって、男が馬の模型を身に付け、女が花笠をつけ、扇を手に、駒に扮した男性のまわりで連れ合って踊るスタイル、さらに南部駒踊りと同様に、馬体を表す模型を身に付けた多数が踊るものなど、いろいろな形態があり、各集落の個性を競い合ったそうです。しかし、これらの多くも現在は、虫送り行事と同様、廃れています。
ただ、虫送り行事自体は廃れたものの、「荒馬」の演目だけが単独に残り、独立して伝承されている地域も、青森県内ではいくつか見られるということです。
これを端緒に、かつての虫送りの風習が復活できるのではと期待を寄せている方もいらっしゃいます。 虫送りは画一化したものではなく、そこに各集落の個性が表出、個性の競争でもありました。現在もこういった伝統は、例えば、ねぶた祭りなどで「オラホのねぶたを見でけへ」という形で残されていますが、虫送りでも、それは顕著であったということです。
各地域が没個性に向かう今、こういった昔の伝統を復活させることで、地域のアイデンティティを取り戻し、地域の絆を深めるきっかけになるのでは。 そういった意味で、虫送りはよい素材になるのではとみている人もいます。
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(299)菅江真澄のこと その1
| 2004年 8月 5日(木) |
青森県の古い民俗資料関係で、たびたび、こちらの事務局日記に菅江真澄(すがえ ますみ)いう人物の名が登場します。名前は聞いたことがあるが、いったいどんな人物なのだろう?という方が少なくないということなので、以下に、人物像を把握できる参考資料を提示いたしました。事務局日記の各記事の参考資料として、ご活用いただければ幸いです。
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菅江真澄は、宝暦4年(1754),三河国渥美郡(現在の愛知県岡崎市)で生まれたと考えられている。 「考えられている」というのは、本人が生前、自分のことを積極的に語らなかったためである。 文政12年(1829年)7月19日、秋田県仙北地方で亡くなり、その際、墓碑が作られたが、そこにも享年76.7とあり、当時の人も正確な年齢は分かっていなかったということがうかがわれる。
名前もたびたび変えており、白井英二(本名とされる)から、秀超、知之、秀雄などと名乗り、文化7年(1810年)ごろからは、菅江真澄と称するようになったという。
さて、彼は故郷を離れてから、人生の大半を旅に生き、200冊(百種)にも及ぶ著作を残している。しかし故郷にいるときの記録は、ほとんど残っていない。 謎の人物でもあるが、三河では相当な家柄に生まれたらしいということは、残される膨大な文献に表れている深い教養が物語っている。 国学の深い造詣、本草学(広義の医学)においても、確かな知識を有しており、画技の方は、しかるべき師についた形跡があり、描写力にも富む。 彼の残した資料の魅力の一つに、この写生した風俗や景色の挿絵があるが、晩年過ごした秋田では絵師とよばれ、旅のさきざきで、求められるままに、ふすま絵や掛軸を描き、表具までしたと伝えられている。 彼が、漂泊者ながら、なんとか生活していけたのは、医術の知識に加え、この画技のおかげだったとみる人も少なくない。 はじめて漂泊の旅に出たのは29歳のときだが、木曽路や信濃へしばらく滞留しているうち、やがて彼の関心は、東北から北海道へと向けられることになった。
(つづく)
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(300)菅江真澄のこと その2
| 2004年 8月 6日(金) |
東北地方・そして北海道へと向かった菅江真澄の足どりです。
◆天明3年(1783) この年の末、三河を発ち、信濃ノ国本洗馬(現 塩尻市)に着き,姥捨山に登る。
◆天明4年(1874) 諏訪地方を往復。次いで,越後から奥羽に出発。出羽の国(現在の山形・秋田)に入る。 三崎峠から秋田に入り、象潟・矢島・西馬音内を経て、湯沢市に到着。
◆天明5年(1785) 横手、角館をへて、阿仁銅山を見る。7月には久保田(現 秋田市)を出て、男鹿半島から八森町を通り、津軽に入る。 この年8月18日、青森市安方(やすかた)の善知鳥(うとう)宮にて松前渡航の年月を占ったところ、「ただ三年を待つべし」との託宣を受け、渡航を断念。矢立峠(青森県碇ケ関村と秋田県大館市との境界)を越え、大館に戻る。 その後、秋田県鹿角市、二戸、盛岡をへて、北上市から、仙台藩領前沢(現 岩手県胆沢町)へと向かう。
徳岡(現 胆沢町)で新年を迎え、平泉の中尊寺・毛越寺に詣で、気仙沼、石巻、松島、塩竈、多賀城から仙台を訪ねたとされる。
◆天明8年(1788) 前沢を出発し、盛岡、青森をへて、津軽半島北端の三厩(みんまや)村から、念願の北海道に渡る。
◆寛政元年(1789) 松前の西海岸を太田山まで往復
◆寛政3年(1791) 東海岸を有珠山まで往復。
※太田神社と有珠善光寺は松前地方の二大霊場となっていた。
◆寛政4年(1792) 青森県下北半島に戻り、以後2年半にわたって下北地方を遍歴。特に恐山には、5回も足を運び、地蔵会の模様を詳細に記録した。
◆寛政7年(1796) 津軽地方に移り、白井秀雄の名で、平内、青森、弘前、十三湖、深浦など津軽一円を旅し、津軽の風俗を詳しく記す。
◆寛政9年(1797) 本草学(広義の医学)の知識を認められ、津軽藩の藩校稽古館の採薬係に従事する。津軽領内の山という山を歩いて薬草を採集することになった。
◆享和元年(1801) 弘前から鯵ヶ沢をへて、深浦から岩館、能代、土崎から再び秋田に入る。この時、菅江真澄は48歳。これより没するまでの28年間、秋田を離れることなく、藩主佐竹義和や多くの藩士、神官、僧侶、農民、町民と交流。記録を取る。 また藩の許可をえて、秋田六郡の地誌、雪、月、花の「出羽路」の編集に精魂をかたむける。
彼の著書の大半は秋田に残され、明徳館本89冊(辻兵吉氏蔵)は国指定重要文化財、大館市立中央図書館本64点は秋田県有形文化財に指定されている。
著書は、日記、地誌、随筆、図絵集などの体裁をとっているが、内容は、民俗、地理、国学、詩歌、本草、宗教など多岐に及んでおり、これは現在「菅江真澄遊覧記」と総称されている。
もちろん、彼の関心分野は考古学にも及んでおり、青森県の三内丸山遺跡の縄文土器を見て「縄形の瓦」と表現。「縄文」という言葉は、アメリカ人学者エドワード・シルベスター・モース(1838−1925)が、明治になって使用したものだが、その80年も前に菅江真澄は「縄文」を意識していたということが知られている。 こうした菅江真澄の業績を、民俗学の創始者とされる柳田国男氏(1875-1962)が高く評価。菅江真澄を民俗学の先覚として敬愛することとなった。
誰に頼まれたわけでもなく、心おもむくままに東北・北海道各地を歩きまわり、絵と文に観察記録する。それが菅江真澄の人生だったといわれている。
一人の人間の生涯を捧げるに値する何かが、青森県を含む北方の地に存在していたようです。 その断片が、今も青森県にいくつか残されています。それは、無くしてはならない郷土の大切な財産のように思われます。
(終)
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(301)お山参詣 その1
| 2004年 8月 7日(土) |
ねぶた&ねぷた祭りもいよいよ終盤。祭りは大きな盛り上がりを見せています。 さて、そのねぶた祭りが終わると、津軽地方では、もうひとつの大イベントの準備が始まります。 お山参詣です。
登山囃子・下山囃子と、ねぶたの囃子の関係については先の秋村氏の連載でも触れていますが、音楽的にも、お山参詣は重要なものです。 お山参詣の行事がいよいよ本格化する時節。これに合わせ、事務局に集まっているお山参詣情報を参考資料として以下ご提示いたします。
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お山参詣は旧暦7月25日から8月15日の間になされますが、一番盛り上がるのは、長平口より登る九日(くんち)山(7月29日)と、百沢口から登る朔日(ツイタチ)山(8月1日)です。 菅江真澄も「年毎の秋八月朔よりして望の日をかぎりに、くにうど残りなう、いもゐしてのぼる」と記しており、当時から朔日山が一般的であったことがうかがわれます。
岩木登拝の「山カゲ」または「山カケ」は、「山がけ」が訛ったものではないかといわれていますが、この山カゲは、神前に供える神饌を先頭に、4〜5メートルにも及ぶ御幣(のさ)、岩木山大権現と墨書きされた15メートルにもなる幟(のぼり)を携える若者、それに続いて登山囃子を奏でる笛太鼓、その後に村人の参詣者が続くという各集落の公事業としての意味合いが強かったといわれています。 もちろん、個人で登る例もありますが、このように役割分担を明確にし、組を結んでの集団登拝が、本来の「あるべき姿」だとの伝統があります。ただ、経費がかかるので毎年ではなく、数年に一度の参加という集落が多く、凶作時にはおこなわないのが普通だといいます。
かつては女人禁制であった岩木山も、明治になって解禁され、第二次大戦後に女性の参加者も増え現在に至っています。 白装束が基本であったお山参詣の衣装も、現在では半天など、まちまち。しかし、御山に寄せる基本的心情に大きな変化はないようです。
「登山囃子」は勇壮な2拍子の笛・太鼓で、人々を鼓舞する力強い響き。「サイギ サイギ ドッコイサイギ オヤマサハツダイ、コンゴウドウサ イーツニナノハイ」と声を張り上げ、集落ごとにその年の初穂を持って、踊りは二列でジグザグに交差して進みつつ「ナムキンミョウ チョウライ(南無帰命朝礼)」で合掌。これの繰り返しです。
今はあまりおこなわれていないようですが、登拝の前に、かつては海や川で水浴びをしながら、垢離(こり)とりを行ったそうです。 普通は7日間。初参り(ハツメ)の子供や若者は、やや早く精進に入り、この期間に神饌や御幣などが作られることが多かったということです。 個人持ちの小幣は20センチほどで、色分けがなされ、ハツメは赤、普通は白、10年重ねて行った者は銀、20年で金色となります。これを岩木山頂の岩木山神社奥宮、通称、御室(オムロ)に奉献、ここにうず高く積み上げられます。
現在は木の祠ですが、かつては岩石の空洞を利用した小祠で、ここに銅仏三体、石像一体があり、その前にはマリぐらいの大きさの黒石が置かれていたそうで、御神酒で酔いのまわった山カゲの人たちが大騒ぎをして、「ハジいま来たじゃ」と叫びながら、オムロを御幣で激しく叩いたり、神像を餅でこすったり(あとで持ち帰り家族などに護符として分け与える)、力自慢が持ち上げたりすることもあったそうです。
現在は格子戸をはめられてそのようなこともできないようになっているとのことですが、一見、乱暴とみえることを、山の神は歓迎し、かえって御利益が得られると信じられていました。
その背後には、永らく別離していた親子が抱き合い、肩を叩き合うような親愛の情があるとされ、岩木山と人々の強い精神的な結びつきを、こうしたところから見てとるという人もいます。
ちなみに木の祠(オムロ)は3年に1回取り替えられるそうですが、旧7月15日に御神体を移し、古い祠を百沢口の谷底めがけて投げ下ろし、その壊れ方で作柄の良し悪しを占うのだそうです。
(つづく)
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(302)お山参詣 その2 & お知らせ
| 2004年 8月 8日(日) |
いつもご覧いただき本当にありがとうございます。
さて、明日9日より15日まで、パソコンの手の届かない環境に身を置きます。 この間、事務局日記の更新ができませんが、この機会にバックナンバーをご覧いただき、多岐にわたる青森県の音楽資料情報をご堪能いただければ幸いと存じます。
今後とも、ご覧いただく方の知見を深めるような興味深い情報発信に努めていきたいと考えております。
16日より再開させますので、今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
以下、本日の記事となります。
青森県音楽資料保存協会 事務局長
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さて、暗闇の中、山頂に到着し、オムロで登山囃子を奏しているうちに、東の空が明るくなり、真紅の太陽が姿を現すと人々はいっせいに御来光(ごらいこう)に拍手を打ち、礼拝、唱えごとをし、多くの人が感極まって万歳を叫びます。陽の光と歓喜の感情が岩木山頂を支配。その喜びの感情を胸に、人々は、いよいよ下山の準備にとりかかるのです。
下山の際には、山道の傍らに生えている五葉の松やサワラを一枝折って持ち帰るのがならわしだそうです。 これは、門口や田畑にさしておくと霜よけ・虫よけになるとの伝承によるものだそうです。
こうして登拝を果たした後の満足感から下山囃子が奏でられますが、かつては、手折ってきた五葉の松を持ち、ほとんどの人が仮面をつけ仮装して踊ったそうです。女性は花笠をかぶるなど、衣装に趣向を凝らし、岩木神社前で囃子方のリードで思う存分、踊ります。「エエ 山かけた バーサラ バーサラよ」「雨降り山かけた バッタラ バッタラ」と何度も何度も唱和、その後、神社に別れを告げ、それぞれの在所へと帰っていくのだそうです。 「下山囃子」は軽快な4拍子で、「よい山かけた バッタラ バッタラ バッタラヨ」などと叫ぶように歌いながら、左手右足をあげて左に向かって跳ね、その逆で跳ねながら進みます。 この登山囃子・下山囃子は、お山参詣だけではなく、虫送りや正月の宮参りなど、津軽地方では、広く利用されてきたといいます。
ところで登山囃子の「サイギ サイギ・・・」は修験に基づくもの、下山囃子は民間の伝統的なうたい文句から生まれたとされていますが、唱え言は諸説あるものの原義が不明とされています。
通説では「懺悔 懺悔 六恨懺悔 御山八大 金剛道者 一一禮拝 南無帰命頂來」が登山囃子「サイギ サイギ ドッコイサイギ オヤマサハジダイ コンゴウドウサ イーツニナノハイ ナムキンミョウチョウライ」。 「宵山かげだ 朔山かげだ 笑満足 満足よ」が、下山囃子の唱え言の原義となっているようです。
さて、岩木神社を離れた一行は、下山囃子を奏しながら、在所に戻り、集落のオブスナ様へ参って無事終了を報謝。 下山囃子に合わせ、村中を、さながら凱旋将軍のように踊り狂いながら練り歩いたそうです。 村人は下山者を「おめでとう、おめでとう」と言って歓待。集落から少し離れた地点まで、わざわざ出迎えに行くケースも少なくなかったといいます。
五穀豊穣、無為息災を、下山者が村にもたらす。こうした共通認識が、現在でも津軽地方では根強く残っているそうです。
岩木山、岩木山と津軽の人は言うが、まわりに高い山がないだけで、あの程度の高さの山は全国いたるところにある・・・
さすがに、今、このようなことを言う方はいないようですが、かつては県外からやってきた人が、岩木山に寄せる津軽の人の感情を誠に不可解なものとして見ていた時期もあった、ということです。
津軽の人にとって、岩木山は物質性を超越した精神的な拠り所であり、それぞれお山に対する特別な感情を持っている。このような精神的風土は昔も今も、あまり変わっていないのではないか、ということでした。
今年も、いよいよ、これからお山参詣の準備が本格化してきます。 津軽地方に登山囃子、そして下山囃子が響きわたる時節となってきました。 この村をあげての大行事、お山参詣が終わると、いよいよ津軽は秋となります。そして長い冬へと向かうことになるのです。
(終)
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